「それで、さ。エミリアたん。色々と複雑なんだけど、これやっぱやめね?」
ご機嫌伺いの媚笑いを浮かべ、スバルは冷や汗を流したまま提案する。これというのは現在スバルとエミリアをつなぐ、手だ。
場所は王都。それも人通りが多い商い通りで、はたから見れば仲睦まじいカップルにも見えなくはない。しかし会話の内容に耳を傾ければそんな甘い関係ではないことにすぐ気づけるだろう。
「絶対にダーメ! どうせスバルのことだから、人が目を離した隙におかしなことするに決まってるわ。王都にいる間、一人での行動は許しません。おわかり?」
「竜車での馬鹿は超反省してるよ! でもでも、このままだと俺の心労がマッハでヤバい! 」
エミリアが信用ゼロの瞳を向けるのもわからなくもない。というのも、竜車での『スバル途中下車未遂』が発生したのだから。
事件の概要としては至極単純、調子に乗ったスバルが竜車から落下しかけたから。
幸いにも落下しかけたスバルをレムがモーニングスターで回収したことで事なきを得たが、当然エミリアの機嫌は絶対零度の寒さに。
そしてその浅慮の行動をした結果が――
「まさか行動を制限されるとは」
「当たり前でしょ?」
現在のエミリアによる拘束という訳だ。
「いや、俺の軽率さが切っ掛けなのは重々承知してっから保護者同伴はもう納得したんだけど……せめーて、このお手々繋ぎだけは勘弁願いたいかなって」
「ふーん、そういうこと言うんだ。村ででーとしようなんて言ってたときは、あんなに一生懸命繋ぎたがってたくせに」
「あのときは覚悟とかその他もろもろが準備万端だったの! イメトレも十分した状態だったの! 今は違うの!」
具体的に言うと手汗があり得ないほど溢れ出ている。
これで「スバルの手って湿っているのね、ちょっと引いたかも」みたいなことを言われればメンタル豆腐なスバルはそれこそ崩れ落ちるだろう。
そんなことを知るよしもないエミリアは慌てるスバルに意味が分からないというように眉根を寄せる。
「んで? 俺はいつまでそのイチャイチャを見てなきゃいけねぇんだ?」
こめかみをピクピクと震わせ、低い声で会話に割り込んだのはスカーフェイス。そして今スバルはどのような状況にいるのかを思い出す。
王都に来て真っ先にやること、それはお世話になった人々に恩を返すことだ。
まずは、スバルにとっては初めて出会った現地人であり、セーブポイントであり、印象深い人であるカドモンの店に来たのだ、リンガを買いに来るという約束を果たしに。
「ったく。客が寄り付かねぇだろうが」
「居てもいなくても変わらないんじゃ……いえ、なんでもないです、はい。怖いので近づかないで」
距離を置いても怖い顔が間近に迫り余計恐怖を与えてくる。異世界生活に慣れを覚えていない頃のスバルだったら漏らしてしまっていたかもしれないほどにインパクトはある。
なので話題を変えようと何とか頭の中を模索する。そしてひらめいたことが、
「あー! そうそう。ぶっちゃけいうとよく俺のことを覚えててくれたよな」
一方的な口約束だったとも言えるはずなのにカドモンがスバルのことを記憶に残していたことの驚きだった。
「俺自他ともに濃いキャラ付けしてるから記憶から消えにくいけどさ、おっちゃんは商売上いろんな人の声と顔を見るわけじゃん? 正直覚えてたことに驚いてんだけど」
「お前、あの胡散臭い兄ちゃんのツレだろ? あの兄ちゃんと昨日出会わなきゃ思い出すのにもちっと時間がかかったわな」
「もうその認識で通ってんのね、あいつ」
にこやかに糸目で笑うその姿を思い浮かべ、苦笑する。同情の気持ちもあるがスバル自身もそんな認識を抱いているので否定はできない。
それにしても、
「あいつも来たのか」
「ああ。金髪の嬢ちゃんと、めかし込んでな」
その言葉にエミリアとスバルは顔を見合せ、首をかしげる。恐らく金髪の嬢ちゃんとはアリシアのことだろう。だが、彼女の性格からは着飾るなんてことしなさそうなのだが、
「なにか、あったのかしら?」
「さぁ? 案外急に乙女に目覚めたとか?」
「とりあえずお前さんは、次はリンガ買うって約束を守って、わざわざ買いにきてくれたってわけだ。義理堅いねぇ、気に入った!」
答えの出ない疑問に何とか答えを出そうとしていたが、カドモンの声がそれを遮る。
彼は気前よく笑うと、店の多くから木箱を持ち出し、カウンターに置いた。重々しい音を建てた箱の中には、赤くて丸い宝石のような輝きを秘めた果実が見える。
「ほれ、約束していたリンガだ。何個買うんだ? 今は一個で銅貨二枚だな」
「ならきりよく十個だな。約束の超過分支払いだ」
太っ腹なスバルに手をたたくカドモン。その様子を見て気を良くしたスバルは意気揚々と懐から財布を取り麻生とする。そして倣うように財布を取り出そうとするエミリアに気付いた。
「あれ、なにサイフ出そうとしてんの、エミリアたん」
「どうしてって……お金を出さなきゃ代金が支払えないじゃない」
「違くて、エミリアたんが払おうとするのっておかしくね? 俺の買い物なんだから当然のように俺持ち……ヘイ、おっちゃん。なんだよその目は」
なぜか代わって支払いを断行しようとするエミリアへの抗議中、白けた瞳でスバルを見ている店主に気付いた。
彼は「いや」と頭を掻きながら前置きし、ゆっくり首を横に振りながら、
「確かに金ができたら買いにきてくれ、って話はしたと思ったが……金持ってる女の子を連れてきて払わせる、ってのはおっちゃん感心しねえな」
「今の痴話ゲンカ見てた!? 俺は俺が払うって主張してんじゃん!」
疑わし気にスバルを見る店主の前に、スバルは己のサイフを早々に取り出し、突き出す。
中身は屋敷の仕事のお給金。それなりの金額が入っていて、さすが貴族屋敷は使用人の給金も高ぇとスバルを戦慄させたものだ。
「リンガ一個が銅貨二枚ってことは……十個で銀貨二枚とかでいい感じ?」
「おいおい、今の貨幣の交換比率知らねえのかよ。銀貨は今、一枚で銅貨九枚分だ」
「ってことは、銀貨二枚と銅貨二枚か。ほい」
ぱっぱと革袋の中から貨幣を取り出し、それを店主へと手渡すスバル。それに対して店主は憮然と押し黙り、その反応を訝しみながらスバルは首を傾げる。
「どったの?」
「俺が言うのもなんだけどな。兄ちゃん、もちっと他人を疑った方がいいぞ。通貨の交換率の変動は市場入口の立て看板に書いてあんだ。それも見ないでのこのこやってきて……性質の悪い商人に食い物にされんぞ」
素直というより危うげなものでも見るような店主の忠告。それを聞いてスバルは「ああ」と納得の頷き。
確かにさらっと信用して代金を支払うところだった。売買に関して信用が成り立っている元の世界――それを基準に考え過ぎ、ということなのだろうか。
屋敷の近くの村の場合、閉鎖的な人間関係すぎて騙すという発想自体が出てこないものだろうが、ここは曲がりなりにも王都。国でもっとも大きな都市だ。そういった悪意を持つものがいたとして、なんら不思議な点はない。つまり、
「おっちゃん、やっぱ超いい人だよなぁ」
へらへら笑って、スバルはスカーフェイスの御仁の人柄に好意を示す
「たまたまだ。わざわざしたかどうかも曖昧な約束守りにきてくれた客が、うちで買い物したあとにどっかで素寒貧にされて転がされてるなんて夢見が悪いだろうが」
「男のツンデレ誰得ですね、わかります」
「とっととこれ持って行っちまえ! 代金はぴったりです、毎度あり!」
前半乱暴で後半はお客様は神様精神。
両極端な反応を小気味よく笑いながら、スバルは手渡されたリンガの袋を抱えると、エミリアの手を引いて店の前から離れる。
「あんがとよ、おっちゃん。縁があったらまた会おうぜ」
「次も買い物するなら歓迎だ。……嬢ちゃん、あれだ。男は選んだほうがいいぞ」
「余計な世話だよ!」
見送る店主に中指を立てて、スバルはエミリアと共に雑踏の中へ、そして数歩歩くと店主の姿は見えなくなる。
「言ってた約束も果たせたわけだし、次の目的は……」
「ああ、盗品蔵だな」
貧民街――異世界召喚初日の出来事を思い出し、スバルはそちらの方へ視線を向けながら、掌の温もりに対して握り返すアクションで気を引き、
「にしても、そこまでエミリアたんに付き合ってもらっていいの? ぶっちゃけ、チンピラ闊歩してるぐらいには治安悪いぜ。王選参加者とかマジ慎重に……」
「それを言い出したら、もうどこを歩くのにだって気が休まらないじゃない」
今さらといえば今さらなスバルの質問にエミリアは苦笑し、それから銀髪を覆っている白いフードの端を軽く指で摘まむと、
「認識阻害の効果があるから、私の素姓は大半の人にはわからない。わかっても性別程度かしら? 伊達に筆頭宮廷魔術師のお手製ってわけじゃないんだから。けっこうすごいのよ、これ」
「ロズっちのお手製か……なんか、それ聞くと急にありがたみとか薄れんな」
「こーら、そんなこと言ったらダメじゃない。って言いたいんだけどね」
内心で同意見なのは隠し切れず、エミリアは舌を出して照れた様子。
ふいに見せる愛らしさにスバルは不意打ちでダメージを受け、心臓が一度だけ爆発したような拍動をしたのに身をよじる。
「んじゃま、盗品蔵に向かうとして……お?」
照れを隠すように咳払いし、改めて目的地を定めたスバルが唇を曲げる。その反応にエミリアが「なに?」と目で問いかけてくるのにスバルは、
「いや、袋の中のリンガを数えてたんだけど……十一個あるな」
丸々大きく、真っ赤に熟した果実の数は合計で十一。
袋に詰めたのは店主自身であり、まさか数え間違えて放り込んだ、という線は商売人としてありえないだろう。ならば、
「やっぱあのおっちゃん、超いい人すぎるな」
ガラの悪いスカーフェイスを思い浮かべて、傾いた袋の角度を直しながら、スバルはそう言いながら笑った。
◇
記憶を頼りに辿り着いた盗品蔵は、王都の貧民街の最奥に位置していた古びた廃屋であった。
貧民街で生活する手癖の悪い人々が、王都中から合法非合法問わず様々な手段で入手した物品をここに集め、それをまとめ役が売りさばくというシステム。
その名称が示す通りの腐敗の温床となっていたこの場所だが――、
「やっぱりあの時のままか。修理とかしねぇの? てか言っちゃ悪いけど、相変わらず辛気臭いな。幾分ましになったかもだけど」
「貧民街、だからね」
寂しそうに言うエミリア。優しい彼女のことだ、そんな貧民街の状況を見て心を痛めているのだろう。そんな姿に心奪われつつ、スバルもその貧民街の状況に思うところもあるがどうしようもないことも事実だ。今は用件を済ますことを優先させよう。
「……あの爺さんが気づいたらめちゃくちゃキレそうだな」
大きな穴が開いた盗品蔵を眺めて、スバルはそう感想を述べる。
棍棒を持ったロム爺が現れたら迫力はすごそうだが、それでも今までスバルが戦った相手を比べるとどうしても見劣りする。ザコ敵、よくて中ボス扱いになってしまうのは仕方がないことだ。
「スバル、どうするの?」
「一応ノックしてみるか、蔵が丸ごと破壊されていたなら別だけどこれぐらいなら住んでいるかもしんないし」
壁に大穴は開いているがそれ以外の部分はほとんど無傷と言える状態だ。贅沢を言わなければ生活に支障はないともいえる。ただでさえここの主は図体がでかいのだから体を壊すことなどそうないはずだ。
「もしもーし! 聞こえますかー! ちわーす! 三河屋でーす!」
定番の呼掛けをするが、通じるかどうか以前に反応が帰ってくるようすがない。ならば、とありとあらゆる掛け声をかけていくが、
「やっぱり留守、みたいね」
エミリアも呼びかけてみるが反応はない、どうやら居留守をしているわけでもないようだ。
すれ違ったか、そもそもこの蔵を寝床としなくなったかはわからないが主はここにいないことは確かだ。
「あらぁ? ロム爺さんに御用ですかぁ?」
不在ならば仕方ないということで出直そうとした矢先、のんびりとした声がかけられた。
艶やかな黒色の髪を二つに分けて結んだ、発せられた声と同様にどこか眠そうな目をした女性。今までにないタイプの女性を相手に流石のスバルも対応に迷いが出る。
「えっと? 目つきの悪い貴方と、きれいな銀髪のお嬢ちゃん。前者はともかくぅ、後者はどう考えても、ロム爺さんとぉ、関わり合いがないとぉ思うんですけどぉ」
「いやこれには海よりも辛く、山よりもダイナミックな事情がありまして」
眼鏡越しに見える明らかに警戒の色を醸し出す瞳を見て、慌てて不審者ではないことを説明しようとする。しかし盗品蔵の主と関係を持っていること自体が不審者であると言っているような気がする。
「あー、とりあえず、ロム爺は元気だったんですよね?」
「はい。今朝も私のお店でお酒を飲んでましたよぉ? 今は酔い冷ましに出かけるって言ってましたけどぉ」
「あの爺相変わらず朝から酒飲んでんのかよ」
用件だけを口にしたスバルだったが、幸いにも女性は追及をせずに問いかけに答えてくれた。
そして彼は初めて出会った時も酒瓶を手にしていたのを思い出す。異世界だからこそ許されているがこれがスバルのいた世界でもその振る舞いをしていたらダメ人間認定確実と言える。
「ではではぁ、私も買い出しに行かないといけないのでぇ。あぁ、私。身寄りのない人たちに食事をふるまっているんですよぉ。今日はぁ野菜が安いかもしないわねぇ」
「そ、そうなんですか」
マイペースな彼女にペースを乱されながらも相槌を打つ。
そして女性は遠くを見やり、子供たちを見つけると手を振る。そしてその行動に対して子供たちも元気よく手を振り返していた。
以前見たとき同様衣服は薄汚れ、満足な生活はできていないようだったが、それでも元気よく反応していることからいくらか活気づいてはいるようだ。
「なるほど、思ったよりもやるな」
「そんなたいしたことはぁしてませんよ。あ、これも何かの縁なので」
素直に称賛の言葉を口にすると女性は照れた様に眼鏡を直し、懐から一枚の紙きれを取り出した。そこにはリーベンスの菓子屋店主、リーベンス・カルベニアと書かれたいわゆる名刺というものだ。
「あそこでお菓子屋を営んでおりますぅ。なのでごひいきにー。今度来てくれたら半額しますよー」
彼女の指さす先には場違いなほどにおしゃれな建物。思わず今までの疲れを癒したいという欲求に襲われるがなんとか、立ち入りたいという欲求に耐え、頭を振る。
そんなスバルの様子を小さく笑いながらリーベンスという女性は貧民街を後にしたのだ。
「とにかく、俺達もとっとと出よう。あとはフェルトについてだが……やっぱラインハルト探すのが確実か。ラインハルトが連れてったんでしょ?」
「ええ、そう。悪いようにはしないって言ってたけど……急に顔色を変えて」
エミリアの話だと、見逃すことで片付いていた話を引っ繰り返したということらしい。口約束であろうと命懸けで守りそうな芯を感じさせる青年だけに、前言を即撤回というのもらしくない印象が拭えない。
「せめてもう少し踏み込んだ話が聞けてればよかったんだけど、私たちは私たちで早く屋敷に戻らないといけない理由があったから」
「え? そうなの?」
エミリアの目線が腹部に向けられていることに気付き、そして、
「……ほら、お腹が破けちゃってた子がいたでしょ? ちゃんと治せるのがベアトリス以外に思いつかなくて、それで急いでたの」
「ああ、そうでしたか……面目ない」
彼女にしては珍しい皮肉を言われ、ずきずきともうありもしない傷が痛むと同時に心も痛んでしまったスバルだった。
◇
貴族街――その呼び名の示す通りならば、上流階級の人間が住まうだろう地だ。
当然のように景観は庶民の暮らす地区より洗練され、端的にいえば金のかかり方が違う。建物はもちろん、道に壁、美観維持のための植林すらそうだろう。
様変わりした景色の中でも一際背の高い建物で、この目の前の施設だけはざっと六階建てほどの高さを保っている。
背面を外壁の一部に隣接しており、上部に設置されたテラスからは都市の全貌が見渡せることだろう。が、無骨な建物の雰囲気がそのテラスの存在を、景観を楽しむことより眼下の人間を見下ろすためにあるのだと思わせる。
先ほどまでいた貧民街との差が改めて浮き彫りになり、正直いい気持ちにはなれない。この外装に回した分を貧民街に回すだけでも大きな変化になるはずなのに。
そう思っても大きく口に出せないのは仕方ないことだ。貧民街の様子に変わりがないというとは他の人間も口に出せていないことなのだから。
「ここが王都を見回る衛兵の詰め所。貴族街に出入りする人たちの身分を確かめたりとか、そういうこともする場所みたい」
「だからこんなとこに建ってんのね。……しかしやっぱいつの時代でもどんな世界でも、警察組織の持つ妙なパワーには抗い難いもんだな」
それと知らずともこの圧迫感。気軽に落し物や迷子などの要件で、門戸を叩けるような雰囲気でないことは確かだ。
「とりあえず中でラインハルトの話を……なんでちっちゃくなってるの?」
「つい条件反射で、俺みたいな小心者はこういう施設と相性が悪くてね。目立って行動できないんですよ」
「なに言ってるかわかんないけど、悪いことはできないってこと?」
「さすが、本質が見えてる」
正しくスバルの発言の肝を見抜いたエミリアは嘆息。
それから前を向き、入り口に向かう。二人の間に会話はない。だからだろうか、嫌でも目を向けてしまう――自分がエミリアのことをなにも知らずにいることを。
スバルが知るエミリアは、銀髪と紫紺の瞳が印象的な美少女。ハーフエルフであり、立場としてはこのルグニカ王国の女王様候補者。現在はパトロンであるロズワール邸で生活していて、家族と呼ぶほど親しい精霊のパックを連れている。
自分に素直で強がりでお人好しで、他人のために損することをいとわない性格で、お姉さんぶるわりには抜けてるところが多くて、見ていて危なかったしいところもある。
彼女との出会いからの二週間で、これまで見てきたエミリアの全てがそれだ。
それが完全に彼女の上っ面だけの情報であり、彼女の内面や内情になにひとつ踏み込んでこなかった事実に、今さらながらスバルは気付いた、いや、気づいてはいたのだ。ただ、その事実に目を向けることができなかっただけで。
思えばスバルはエミリアが王選に参加することになった経緯も知らない。ロズワール邸にやってきた経緯も、スバルと出会った日に王都にいたことの理由すらも。
当たり前のように、彼女から与えられるものばかりを受け止めることに夢中で、それ以上のことを知ろうと求めることすらしなかった――本当に勇気が出ない自分が嫌になる。
『そうやってなんだかんだで本心を溜め込む分、君も難儀な子みたいだけどね』
「え?」
自己嫌悪に対して反応するかのようなふいに頭の中に響いた声音に、スバルは驚きに目を見開く。頭蓋をすり抜け脳に直接囁きかけるような言葉を放ってきたのは、
『ボクだよ。リアのことなら心配いらない、これは君だけに直接呼びかけてるだけだから』
妙な反響もかかっているがその声は聞いたことがある声だった。エミリアの契約精霊であり、灰色の猫、パックだ。
『……俺の心の声も、これで届くってのかよ』
『呑み込みが早いね、正直驚きだ。繋がりやすさからも君は精霊との親和性が高いのかも』
テレパシーを返すと一方的に納得した様子を見せるパックに、苛立ちを覚える――まるで彼もスバルを置き去りにしているようで。
『……さっきのはどういう意味だよ』
『気づいているでしょ?』
浅薄な己に気付いて口を閉ざしたとしても、心の内までを無言でを貫けない。こちらの心中の上澄みをすくい取るパックに、隠し事などできないのだ。
そもそもそんなことができるのならば人間をやめている、痛みを、悩みを、苦悩を隠しきるなどできるはずがない――ロズワール邸でのループで、スバルは身をもって体験しているからよくわかる。
それでもこれ以上みじめさを自覚したくない、そんな弱音を心中ではき捨てる。だが、
『ねえ、スバル』
そのスバルの思いを酌み取らず、パックの話は終わらなかった。
鼓膜ではなく心に囁かれる言葉には拒絶すら届かず、スバルはただ無言であることを己の意思と表明して出方を待つ。
明らかに歓迎していない態度。しかしパックはそんなこちらの反応に興味を見せず一方的に告げた。
『――あまり、ボクを。そして、リアを期待させないでほしい』
『……は?』
『希望は優しい毒だよ。それがいずれ体を蝕むとわかっていても、手の届く位置にあると錯覚すれば手を伸ばさずにはいられない。君はまさしく、毒だ』
スバルの知るパックという存在は、常にマイペースを崩さない存在だったはずだ。そんな印象を抱いていた存在から告げられた言葉はあまりにも、印象を裏切るには十分すぎた。
『そりゃ、どういう意味……』
何とか絞り出した声が、不可解なパックの言葉への返答として届くよりも――、
「ついたわ」
手を引くエミリアの足が止まるほうが早かった。つんのめり、思わずエミリアの背にぶつかりそうになるのは防ぐ。そして彼女の手がスバルから離れ、詰所の扉が叩かれようとしたその瞬間、
「――おや、これは珍しいところでお会いしましたね」
僅かに早く詰め所の扉が外へと開かれ、中からひとりの青年が顔を出していた。
青年はエミリアに恭しく一礼し、
「お久しぶりです、エミリア様。その後、お変わりはありませんか?」
と、フードを被ったままの彼女を『エミリア』と断定して呼んだ。
それだけでスバルの胸中を警戒が走ったが、彼の一礼を受けるエミリアはやや身じろぎしながらも平静のまま、青年に頷いた。
「……ええ、ありがとう。特に変わりないわ。ユリウス」
「覚えておいていただけて光栄です。エミリア様も、その美しさに変わるところなくなによりでした」
ユリウス、と呼ばれた青年は歯を見せて笑い、その歯が浮くような台詞をなんのてらいもなく言ってのけた。
長身の青年だ。身長はスバルより十センチばかり高く見えるので、百八十センチ前半。髪の色は青みのかかった紫で、長めのそれが気障ったらしくも丁寧にセットされている。体つきは細身だが弱々しい印象はせず、しなやかと形容すべきだろう。
「近衛のあなたが詰め所にいるなんて珍しいことじゃないの?」
煌びやかな装飾が施された制服。龍の意匠があしらわれた制服に袖を通し、腰には西洋風の剣を下げる姿。――なによりその佇まいが、彼の、ユリウスという人物の生業がなんなのか如実に語り尽くしていた。
「兵士たちへの慰労と、街の視察を兼ねて……というところです。友人の頼みで足を運んだのですが、たまには友誼を優先してみてもよいのかもしれません」
手を掲げ、まるで歌うようにエミリアへ返答するユリウス。
彼はその語り口で自分に酔うように言葉を紡ぎ、目の前のエミリアを意味ありげに見ながら「なにせ」と言葉を継ぎ、
「こうして市井に足を伸ばした先で、一足早く可憐な華のお目にかかることができた。これ以上を望んでは罰が当たるというものです」
言いながら慣れた仕草でエミリアの手を取り、その場に跪くユリウス。それから彼は息つく暇もなく、白い手の甲にそっと口づける。
呆然と、その一連の流れを為す術もなく見送ってしまったスバル。一拍遅れて感情が沸騰し、思わず詰め寄ろうとするが、
「ありがとう、ユリウス。それからいきなりで悪いんだけど……」
鼻息荒くユリウスに口出ししようとするスバルを、後ろに差し出されたエミリアの掌が制止していた。
彼女の意図が呑み込めずに動けなくなるスバル。その彼の前で事態はゆっくりと進行し、
「ちょっと用事があって、お城の方に取り次いでもらいたいんだけど……」
「ああ、なるほど。それで詰め所の対話鏡が必要になったのですね。そちらは?」
エミリアの申し出を聞き、ユリウスが声の調子をあからさまに落とし、スバルに視線を向ける。その視線の見下した感が気に食わず、スバルはガンつけの意を込めてにらみつけた。
「――服装に見合わない品性と態度、
「ご忠告ありがとさん。んじゃ俺からも一つ、その格好でカレーうどん食べるのは気を付けたほうがいい! 汁が跳ねたら困るからな!……彼って?」
勢いまかせに口撃を返したスバルだったが、その勢いはユリウスの口にした”彼”という単語に引っかかり消沈してしまった。
しかしユリウスはそんなスバルを無視するかのように扉を開き、施設内に視線を送りながら、
「本来はこのようなむさくるしい場所に、エミリア様をお連れするのは気が引けるのですが……」
「そういうことは気にしないでくれていいから。お願い」
「では、中へ……」
エミリアの言葉にユリウスが頷き、先導するように詰め所の中へ戻っていく。エミリアがその背に続くのを見て、スバルも慌てて追いかけようとするが、
「スバルは待ってて」
「……ほえ?」
扉が閉まり切るより先に振り返り、エミリアに断ち切るように言い放たれてしまった。
「本当はついてきてもらいたいんだけど、スバルが一緒だとユリウスがいい顔をしないと思うから、待ってて」
「なにそれ。俺よりあいつのご機嫌伺いってこと!? あんな気障ったらしい奴の」
一瞬、自分よりユリウスの方を優先するような言い方に捉えてスバルが唇を尖らせる。それにエミリアは「そうじゃないわよ」と困った顔で、
「ユリウスの機嫌を損ねるからって話じゃなくて、きっとスバルが嫌な思いをするから、いさせたくないの。お願い、わかって」
「嫌な思いなら――」
――すでにしている。そう口に出せないのは勇気が足りなかったからだろうか。それとも、完全な拒絶の言葉を聞くのが怖かったから?
「あまり長引かせないように話をつけて戻るから、いい子で待ってて。詰め所の前からいなくなってたらダメだからね」
子供に言いつけるような優しい言い方ではあったが、そこにはまたしても拒絶の色が濃い。
徹底してスバルを自分の事情から遠ざけようとする彼女の態度に、またしても踏み込むことを恐れるスバルはなにも言うことができなかった。
まるで彼女と自分を遮るように、重い音を立てながら扉は閉ざされる。
「マジ俺かっこ悪ぃ……なにやってんだよ。なにもしてねぇだけだけど」
自己嫌悪の言葉しか出てこない。
嫉妬丸出しで飛び込んでおきながら、その嫉妬も出し切れないとはこれいかに。自分のヘタレ加減が自分で自覚できて、放置しておけば鬱になりそうだ。
「つって詰め所の前でいつまでも凹んでるわけにはいかないか」
傍目から怪しさ全開の己を省みて、スバルは足早に詰め所の前から離れる。あのままでは通報されるのも仕方ない。
とはいえ、エミリアの指示があるから、移動するのは詰め所の様子が見える通りの反対側までだ。適当な距離を開けて壁に背を預け、スバルは再度のため息。
「あの気障男……近衛とか言われてたっけ」
スバルの認識が正しいのなら、それは近衛騎士とやらの近衛ということだ。 騎士団とやらが存在するのならば、近衛騎士はその中でも特別のはず、そしてそんな男がスバルと比べた彼という言葉、恐らくは――
「……けっ」
同郷である、雛月沙音のことを言っているのだろう。スバルと同じ、元の世界から来たはずの彼を。自分と同じはずの彼を。
「……なんで、こうなるんだか」
うきうきとしていた王都来訪だったはずなのに、今のスバルはまさに一人で留守番を任せられた子供の気持ちだった。
次カーミラのイチャイチャをかいたらあとは”原作三章”の時系列と合流します。