名前を呼ばれ、緊張の色が濃い表情でエミリアが返事をした。
そして、中央へ向かって歩き出す彼女の右手と右足が同じタイミングで前に出たのを見た瞬間――スバルは思った。
緊張でカチコチになっているのが後ろから、それも数歩の段階で見てとれるほどの強張りっぷりであり、日常であればその愛らしさを賞賛せしめる場面なのだが、現状ではそれが正の方向に働く要素が見えない。
どうにか中央へ辿り着く寸前で歩き方の齟齬に気付き、エミリアの手足が常人同様の形態に収まりつつ前へ――賢人会の視線を受ける、広間中央へ進み出た。
――エミリアたん、大丈夫かよ。
内心の不安を持ち上げた手をさまよわせて隠し切れずにいたスバルに、ちらとこちらを横目にしながらラインハルトが声をかける。
「スバルは王城でエミリア様がどんな評価を受けているか知らないようだからね。――少なくとも、君が心配しているような侮られ方はしていない」
「気にしてくれてありがてぇけどよ。心を読むなよ、俺のプライバシーはどこに……」
ラインハルトに心を読まれ、驚きよりも力の抜けた笑いが出てきそうになる。
さて、ラインハルトが心配するなとはいってもエミリア右手と右足が同時に出ていたのだ。これはド緊張した人間のお約束パターンもいいところである。その上口上を噛む、ついでに舌も噛む、赤面してしゃがみ込む、その連鎖まで続いてしまえばとても見てはいられない。
もしもそうなったら、スバルは国の重鎮の集まるこの場面で、全員からの軽蔑と蔑視を一身に浴びるだけの醜態をさらして、彼女のミスを覆い隠す覚悟がある。
エミリアが中央に到達すると、自然と場は静まり返る。
残ったのは進み出たエミリアの他、靴音を高く鳴らしながら隣へと向かうひとりの長身――ロズワールの足音だけだ。その藍色の髪の長身がエミリアの隣に立つと、場の準備は整えられた。
立ち並ぶ二人を見やり、議事進行役のマーコスが重い顔つきのまま顎を引く。それから彼は視線でスバルたちの方――特に先ほど頭の悪い風説を口にしていた輩の方を睨みつけ、背筋を正させてから、
「では、エミリア様。そしてロズワール・L・メイザース卿。お願いいたします」
「はーぁいはい。いんやぁ、こーぅして騎士勢が介添え人として続いたあとだと、私の場違い感がすごくて困りものだーぁよね?」
あくまで軽々しい調子でロズワールが応じ、傍らのエミリアに「ねぇ?」と振り返る。それに対してエミリアは一切の反応を返さない、いや返せる余裕がないのだろう。
下を向き、ぶつぶつと小声で考えてきたであろう宣誓の言葉を吐き出している。
ロズワールの空気の読めなさはスバルすら苛立つレベルだったが、そのことに関しての負感情は即座に置き去りにされた。
なぜなら――、
「おはっ……お初にお目にかかります……! わ、私の名前は……エ、エミニア……エミリアです。かっ家名はありません……た……ただのただのエミリアと……お、お呼びくだしゃい……さい」
――ダメダメだ。
愛しい彼女の輝かしい王選の始まりは転けてしまった。流石に赤面してしゃがみこむなんて真似はしなかったが、赤点クラスの失態をおかしてしまったのだ。
横を見るとラインハルトは珍しく口を開け、驚きの表情を隠せないでいる。
アリシアは、見てられないと顔を覆い、フェリスは小さく笑い、アルは兜を軽くかき、ユリウスは僅かに目を細めている。
唯一動じていないように見えるのはシャオンだけだが、彼も彼で何を考えているのかスバルには読み取れない。
周囲の反応を気にしていると、前方で動きがあった。
「そして、エミリア様の推薦人は不肖の身ながらロズワール・L・メイザース辺境伯が務めさせていただいております。賢人会の皆様方にはお時間を頂き、ありがたく」
「ふぅむ。近衛騎士でなく、推薦者は宮廷魔術師のあなたになりますか。そのあたりの経緯をお聞かせ願えますかな」
ヒゲに触れながらおっとりと話の流れを提示し、それからマイクロトフの瞳が剣の鋭さを帯びて細まる。彼はその眼差しで静かにエミリアを射抜き、
「候補者であるエミリア様。彼女の素姓も含めて、お願いします」
「承りました」
腰を折るロズワールは伸ばした手でエミリアを示し、彼女の首肯を受けると朗々とした声で彼女との出会いを語り始める。
それはスバルも聞いたことのない内容であり、思わず身を固くするスバルはその一言一句を聞き逃すまいと耳を立て、
「まずは皆様もご周知のことと思いますが、エミリア様の出自の方からご説明させていただくとしましょーぉか。見目麗しい銀色の髪、透き通るような白い肌、見るものの心を捉える紫紺の瞳。エミリア様がエルフの血を引くことの証明です」
ロズワールの言葉を受けて、広間の幾人もが息を呑んだのが伝わってくる。
エルフ――エミリアの扱いからして周知されていただろう事実であり、こと王選においては隠し通すことなど不可能なレベルの他者との差異だ。
エルフ族と人間族の間に横たわる溝は、どれぐらい深いものなのだろうか、この世界の歴史に未だ乏しいスバルには知り得ないことだ。
「半分は人間の血――つまり、ハーフエルフということであろう?」
額に青筋すら浮かべてそう吐き捨て、老人は乱暴に手を振ってみせる。それはぞんざいにエミリアを遠ざける仕草であり、事実彼は、
「見ているだけでも胸が悪い。銀色の髪の半魔など、玉座の間に迎え入れることすら汚らわしい。そのことをわかっておるのか!? ロズワール!」
最初は冷静に努めようとしていたであろうボルドーの口調は熱を帯びたように激しい。
しかし対するロズワールの表情は変わらず、道化師のような他人をおちょくるような笑みを作っているだけだ。
それを見てボルドーの表情は険しさを増し、怒りをエミリアに向けようとしたその途端、マイクロトフが止めにはいった。
「ボルドー殿、口が過ぎませんかな?」
「当たり前です! マイクロトフ殿もおわかりであろう? 彼女は『嫉妬の魔女』の語り継がれる容姿そのものではないか!」
だがたしなめるマイクロトフにすら声を荒げ、ボルドーと呼ばれた老人は立ち上がる。それから彼は階段を下ると中央、エミリアの前へつかつかと歩み寄り、
「かつて世界の半分を飲み干し、全ての生き物を絶望の混沌へ追いやった破滅。それを知らぬとは言わせぬぞ」
「――――」
「そなたの見た目と素姓だけで、震え上がるものがどれほどいると思う。そんな存在をあろうことか王座にだと? 考えられん。他国にも国民にも、狂ったかと言われるのが関の山だ。ましてやここは親竜王国ルグニカ――魔女の眠る国であるぞ!」
両手を広げて足を踏み鳴らし、荒々しい口調と態度でがなるボルドー。その態度にエミリアは悲しそうに瞳を潤ませる。
スバルが怒鳴り込まないのは、理由がある。
彼女の表情は辛そうに、唇を噛み締めて堪えているようだ。しかし、なにも言い返さない。だから、スバルも口を出さないのだ。
といっても、限度がある。これ以上彼女が不当な謂れを受けたのならば、スバル自身何をしでかすかわからない。
「スバル、こらえて」
「べ、別に? お、俺はなんともないぜ?」
「そんなに力んだ状態で言われても、残念ながら説得力はないよ」
ラインハルトに言われて鼻息も荒く、視線で射殺せればとばかりにボルドーの横顔を睨みつけていたことにスバルは気づく。思っていたよりも限界は近いようだ。
「ボルドー様、もうよーぉろしいですか?」
ロズワールは普段通りのとぼけた態度のままで進み出て、ボルドーの視線を正面に受ける。高齢のわりには頑健な体つきの老人は、背丈が長身のロズワールとほとんど変わらない。互いに至近で視線を交換し合いながら、老人はロズワールのオッドアイを見据え、
「言葉を尽くしたか、という意味ならばまだまだ言い足りんほどだ。卿の行いはそれほどのものだぞ。わかっているのか、筆頭宮廷魔術師よ」
「わーぁかっていますとも。私のしている暴挙の意味も、賢人会の皆様の意見を代表してくださったボルドー様の計らいも、そしてエミリア様を見ることとなるであろう国民たちの感情の問題も」
威圧するようなボルドーの物言いをさらりと受け止め、その上でロズワールは指を立てると、
「しーぃかーぁしーぃ、お忘れではないですか。ボルドー様が問題にしている部分はこと王選に関してはなんの意味も持たないことを」
「……どういう意味だ?」
「最初にプリシラ様が仰っていたじゃーぁないですか。形だけでも五人の候補者が揃えば王選が始まる、と。王選が始まりさえすれば、あとは竜歴石の条文に従って粛々と進めるのみ」
ロズワールは身を乗り出してボルドーの視線から逃れると、その話の水を壇上の賢人会へ向ける。それを受け、マイクロトフは細めた片目をつむり、
「ふぅむ、つまり御身はこう言うわけですかな。エミリア様は竜殊に選ばれた存在であるという一点が重要であり、実際に王位に就くかは問題ではない、と」
「そーぉのとおりです。私は一刻も早く、王選を始めて終わらせて、国を元の正常な状態に戻したい。これでーぇも? 王宮に仕える魔術師ですから」
あっさりと、エミリアの王位に就く可能性を切り捨ててみせるロズワール。その発言にはスバルも怒りを覚えるよりもまず先に呆然とするしかない。
あれほどまでにエミリアが王を目指して努力しているのを知っていながら、それをサポートする立場であろう男がなにを口にするのかと。
唖然と言葉を作ることもできないスバルを置き去りに、ロズワールは立てた指を楽しげに振りながらさらに続ける。
「当て馬、というと言葉が悪いですが、ひとつそーぉんな感じで考えてみてはいかがでしょう?」
「つまり五人の候補者からなる王選を、実質的に四人の争いにしようと?」
「その通りです、マイクロトフ様。それに賢人会の皆々様もどうです?」
ロズワールの提案に思案顔のマイクロトフ。他の賢人会の老人たちも、「それならば」と口にする姿はその提案に少なからず乗り気な様子だ。
エミリアを他の候補者の当て馬として抜擢し、王選を実質的な出来レースにしてまとめてしまおうという魂胆。
メリットとデメリットを比較して、どちらに天秤が傾くと判断したのか、様子を見れば答えを聞く必要はなくーー
「ふざけてんじゃねぇ――!!」
――怒声が広間に響き渡り、反響するそれを皮切りにしんと室内が静まり返る。
静寂が落ちた室内には、怒声を放ったスバルの荒い息遣いのみが残る。
その視線を受けてロズワールは片目をつむり、黄色の瞳だけでスバルを見ると、
「ここまで周りが見えていないとは思わなかった。今は君のような立場の人間が口を挟んでいい場面じゃーぁない。謝罪して、退室したまえ」
「俺の意見は伝えたぞ、ふざけんな。そんで続く。謝るのはお前らの方だってな」
「ますます驚きだ。――命がいらないだなんて」
黄色の瞳を閉じて、代わりに青だけの瞳でロズワールがスバルを射抜く。
彼を取り巻くのは見るものに戦慄を抱かせる圧倒的なまでの鬼気。ロズワールの周囲の大気が歪んでいるように錯覚するそれは、おそらくは彼の持つマナの膨大さが原因だ。素人であるスバルにもわかるほどの、量だ。
その圧倒的な存在を眼前にしながら、歯噛みするスバルの脳裏を燃え上がる獣の亡骸たちがよぎる。
魔獣の森でロズワールが腕を振るい、あれほど苦戦した魔獣達を一瞬にして黒焦げにしてみせた光景。
あの魔法の精度を目にしていれば、この場からスバルのみを選んで蒸発させることなどそれ以上の気安さで行われることはわかる。
「今、この場ではいつくばって許しを請うならば外に出すだけで済まそう、。だが、それでもくだらない意地を張るというのならばーーナツキ・スバル、わかるね?」
あえてボカして恐怖感を煽ろうとしたのだろう。
それは生き長らえるため、最後の機会をくれた彼なりの優しさか、それともいつも通りの気紛れか。
それを気にする余裕など、スバルの心には残っていない。
膨れ上がる剣呑な敵意の奔流を受け、スバルの膝が盛大に笑う。指先に、歯に震えが伝染し、噛みしめて堪えているはずなのに歯の根がカチカチと音を立ててみっともない。先ほどまで激情で満たされていた心はどこに消えたのだろう。
心胆から震え上がるような感覚を覚え、今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
――だが、
「い、言ったぜ、俺は。謝るのは俺じゃなくて、お前らの方だってな!」
声が震えていたし、上擦ってもいた。突きだした指はロズワールを指したはずだが震えのせいで上手く定まらなかった。
だがしかし、それでもスバルは下を向くことだけはしなかった、目をそらすことはしなかった。
ーーエミリアがこの場にいるのだ。
そして今、彼女の願いは虐げられようとしている。それを目前にしていて、折れることなどできようはずがない。
力がない。意思も弱い。だが、譲れない意地だけはスバルにもあった。
出どころの知れないわけのわからない力だけがスバルを突き動かし、踏みしめる二本の足の膝を屈するような真似だけはさせない。
そんなスバルの力のない、ただひたすらに我を通すだけの意地を前にロズワールはそのオッドアイをかすかに細めて、
「いーぃだろう。力なくばなにも通すことができない。その意味を、身を持って知ってみるといい。来世ではそれを活かせることを願うとも」
最後通牒が告げられた瞬間、溢れ出ていた力の奔流が形となって具現化する。
生まれたのは広間全体を煌々と照らす極光をまとう火球だ。掲げたロズワールの掌の上に生まれた炎の塊は人の頭ほどの大きさだが、小規模の太陽を生じさせたようなその高熱は離れた位置に立つスバルの肌すらも軽く炙る。
明白なまでの害意の具現、臨戦態勢に入ったロズワールを前にボルドーを始め賢人会の老人が顔を歪めた。
比較的近くに立っていた候補者たちが身構え、候補者たちはそれぞれの騎士の背中側へ。
そしてスバルの想い人エミリアはーー
「――アルゴーア」
エミリアを見るよりも早く、酷薄に言い捨てて、ロズワールの掌がスバルの方へと向けられた。
即ち、それは掌中にあった火球を投じる動き。火球はゆっくりと、しかし確実にスバルの身を焼き尽くさんと迫りくる。
それを眼前に、スバルはとっさに体を横に飛ばして回避行動をとろうと思考。だが、動かない。肝心の足が震えているからか、恐怖で体が竦んでいるからか?
否、背後にはエミリアがいるからだ。
ロズワールの実力ならば、彼女に攻撃を当ててしまう心配はない。
それでも、スバルは避けない。何故なら避ければ彼女を裏切ることに繋がるからだ。
弱くても、スバルは彼女の前にたって彼女を守ると決めたのだ。だから、避けない。
視界が異常なまでにゆっくりになり、スバルは目前に『死』が形作られ、口を開けて迫ってきているのを肌で感じ取る。
久々の感覚、それをロズワールに向けられる可能性など、考えたくなかったことだ
意識が現実を置き去りに、眼球は麻痺したように閉じることすら困難。
故にスバルの視界には、眼前に迫る火球のみ、広がる。
だが、神様も、鬼ーーいや悪魔ではないのか。
スバルの氷のような膠着は溶け、ようやく背後にいる想い人の姿を見ることができた。
エミリアの表情には確かな焦燥、そしてこちらに対しての憂慮の感情。
それらがあるのを見て、スバルは場違いな安堵感を得る。
自らの命が脅かされている状況で、それを好意を寄せる少女が危ぶんで見ていてくれている。――その事実に安堵を得てしまうことがどれほど異常なのか、今のスバルには意識する時間すら与えられない。
そして、太陽がスバルを飲み込むまでもうあとわずかとなったとき、
「ーーああ、まったく。見た目がふざけているだけでなく、思考も何もかもがふざけていたとは」
響いたその声は聞き慣れたものであり、そして落ち着いていた。
火球が衝突する瞬間、目前に迫る赤熱の死を前にスバルは瞬きすら忘れた。それ故にスバルの目は目の前で起きた出来事を詳細にとらえていた。
火球は衝突の瞬間、スバルを焼き尽くさんと意思を持ったように動き、刹那、先んじてスバルの全身を覆うように青白い輝きを持つ、数枚に重なった盾が展開。
それは人体を一瞬で蒸発させるような熱量に対し、真っ向から火力を競い――結果、白い蒸気だけを残して相殺せしめてみせたのだ。
その技量、その行いをあっさりとやってのけた存在はスバルの正面に、スバルに対して背を向けて立っていた。
「そんな人に弟子入りをしてしまったことを、若干ながら後悔しているよ。本当に」
長髪を煩わしそうに払い、シャオンは――その目にかつてないほど冷たい感情を乗せ、言い放った。
◆
白い蒸気が晴れ、代わりに場には驚きが生まれていた。
何故なら、先ほどまで火球があった場所に一人の男性がいたのだから。
「いつのまにそっちにいったんすか、シャオン」
「しゃ、シャオン?」
そうして驚くアリシアとスバルとは別に、広間にいた人々の間にも別の動揺が広がっているのがわかった。
「ロズワール辺境伯の魔法を真っ向から相殺しただと……?」
「それもあの短時間で、無詠唱に近い状況で?」
ざわめきの声をまるで無いものとしたように気にせずにシャオンとロズワールは問答を始める。
「なんのつもりだい? 我が弟子、ヒナヅキ・シャオン」
「そちらこそ、どういうおつもりで? ロズワール・L・メイザース卿」
低い声で威圧しあう師と弟子。外からみれば互いの殺意が混ざりあい、実際にそのやり取りから外れているにも関わらず、あてられ気持ちが悪くなったのか口を押さえている人物もいる。
それをシャオンは一瞥し、すぐに視線を目の前に対峙する男へと戻した。
「ああ。もしや、エミリア様を巻き込んでーぇしまうことを恐れたのかーぁな? そうだったのなら流石に私を見くびりすぎではないかな?」
「貴方の実力ならば、エミリア嬢に被害を及ばさないことなど十分承知です。問題の核はそこではない」
シャオンは腹立たしいことだが、ロズワールを越える魔術師はいないと考えている。
これから先はまだわからないが、少なくとも今は一位の座は揺るぎない。そんな男が魔法の制御を誤ることなどあるわけがない。
「ーー確実にスバルを葬ろうとしましたね、俺にはそれが許せない」
「おやおや、由緒正しき王選の邪魔をした不届きものを処罰しよーぉとした私を攻めるのかい? 理知的で、正しい判断を下せる君らしくないじゃーぁないか」
「そも、スバルがこんな暴挙をしたのは貴方がエミリア嬢を裏切ったからじゃないですか」
「裏切る? なーぁんのことやら。私は国のためにただ、早く安寧を目指しただけだーぁよ。エミリア様のお陰で、ようやく王選が始まる、裏切るなんてするわけがーぁない。ただ? 私の意見も言わせてほしかっただけさ」
あくまでもロズワールは先ほどの言葉を否定しない。彼の言うことは事実ではあるが、彼女の努力を、王選に挑む権利を、彼女の意志を否定することは間違っている。
その旨を伝えようと、一歩前に足を踏み出した瞬間。
『ーーほお?』
空気を揺らし、声が響いた。そして文字通り空間の乱れが生まれ、中から姿を見せたのは、
『ニンゲン風情がボクの娘を目の前に、言いたい放題してくれたものだ』
腕を組み、桃色の鼻を小さく鳴らして――灰色の体毛の小猫が、その黒目がちの瞳をかつてないほど冷たい感情で凍らせて言い放った。
◻
突然のその存在の出現に、広間中の全ての人間が言葉を失っていた。
宙に浮き、周囲を睥睨するのは掌に乗るサイズの手乗り小猫型精霊パックだ。
普段のとぼけた態度、のほほんとした喋り方、どこまでもマイペースな性格、そんな彼の姿は影もない。
『わかっていないようだね、ロズワール・L・メイザース。以前にボクが君に対して譲歩してみせたのは、あくまでボクの娘がそれを望んだからだ』
言いながら、パックの周囲をふいに風が巻き始める。
それは肌に痛みを与えるほどの冷気を伴う風であり、パックの周囲だけを取り巻いていたそれは次第に広間全体へ広がり、列席する全ての人間にその冷気を存分に浴びせかける。自然、混乱が会場を埋め尽くし始める中、
「――お気を鎮めてくださいませんか、終焉の獣いや、永久凍土の大精霊様」
壇上から事態の原因であるパックに向かって、しわがれた声が放たれる。
声の主はマイクロトフだ。賢人会の面々にも少なからず動揺が広がる中、中央の席でひとりだけ姿勢を変えずに構える彼は理知的な輝きを瞳に灯し、聞いたこともない呼び方で語りかける。
『なんだ。少しは知識がある若造もいるじゃないか。もっともその名で呼ばれるのも久しいけどね』
「ふぅむ。この歳で若造扱いされるなど、貴重な体験をさせていただいておりますな」
小さく声を漏らして笑うマイクロトフの姿はあまりに場違いであった。
笑う彼にパックも、ロズワールも、そしてシャオンも静かな目を向け、その冷気を伴う視線を老体に集中させる。が、マイクロトフはそれを真っ向から見つめ返し、
「なるほど、心胆が縮み上がる思いですな。――あのロズワールにしては、面白い趣向を凝らしたものだと言っておきましょう」
絶対零度の視線を受けながらも、マイクロトフの余裕の態度は崩れない。その上で意味のわからない発言、だがそれを聞いたロズワールの表情がにわかに変わる。
先ほどまでの真剣な表情から一転、普段のとぼけた様子を取り戻した顔つきで、
「ありゃーぁ、ばーぁれちゃいました?」
「それなりによくできた台本だったと評しますな。大精霊様の演技には言葉もありませんし、恐らく弟子殿も謀られていたためか違和感はありませぬ。バレる要素としては少々、御身が調子に乗りすぎたことでありますかな」
困惑する周囲を置き去りに、マイクロトフの評価にロズワールが額を叩く。そんな二人のやり取りを見ながら、浮遊するパックは持ち上げた長い尾を手でいじりながら、
『ほら見なよ、ロズワール。やっぱりやりすぎは良くないって言ったろう? ボクはともかく、君の場合は普段がみんなに知れ渡ってるんだから、演技するにしてももっとうまくやらなきゃ』
「耳が痛いいたーぁいですよ」
「……ま、さか?」
『ごめんねーシャオン。君の想像通りさ』
頬を膨らませて不満を表現するロズワール。それをパックが吐息で流し、マイクロトフも疲れたように瞑目して無言の対応。
それを見てシャオンも気づいてしまう。いや、そもそも気づけるヒントはあったのだ。
特に、ロズワールがシャオンに教えていた詠唱なしの防御の魔法。
最低でもロズワールの火の魔法を打ち消せるほどに鍛えるようにと、そう具体的な指示を出された時点であやしいと思うべきだったのだ。
ただ、ロズワールの普段に慣れてしまったことで、気にするほどの違和感ではなくなっていただけのこと。
「本物のピエロですね、あんた」
「そりゃーぁね、私だって伊達や酔狂でこんな格好をしているわけないじゃない」
「それは嘘ですなぁ」
『うん、流石にそれを信じるのはボクでもできないよ』
四者だけが納得する姿勢に待ったをかけたのは、パックから最もひやりとくるような視線を浴びせられた禿頭の老人――ボルドーだ。彼はわかりやすい困惑を皺で刻みながら、
「ま、待たれよ、マイクロトフ殿。いったい、なんの話をしておられる?」
「ふぅむ、一言でまとめるなら簡単な話――今こそが、エミリア様陣営の演説の形というわけですよ。それまでの候補者の方々とは趣が大きく異なりましたが」
マイクロトフが片目をつむってロズワールに同意を求めると、ロズワールも両手を降参するように掲げて認める。
その答えにとっさにボルドーは合点に至れない様子だったが、シャオンにとっては目の前に立っている藍色のクソヤロウの底意地の悪さに本気で腸が煮え繰り返る思いだった。
つまりロズワールは今のやり取りで、
「王国の筆頭魔術師であるロズワール殿。そして彼の一撃をなんなく防いだ、同等の力を持つであろう彼の弟子。さらにその彼ら以上に渡り合える力を持つ大精霊」
それぞれに転々と視線を移し、エミリアで止める。彼女はわずかに肩を震わせたが、視線をはずすことはなく真っ向からそれを受けた。
「それを従えるエミリア様という図式を見せつけることで、彼女にそれなり以上の力量があることをこの場の全員に見せつけた」
一から十まで懇切丁寧に説明してみせるマイクロトフの言葉に、ようやくといった形で広間に納得の感情が広がる。そうして今までのやり取りがある種の演技であると全員が納得したところで、続いてわき上がるのはロズワールの姦計に対する賞賛――ではなく、その人心を弄ぶような行為に対する怒気めいた感情が多かった。
「今のが演技……演技だと!? ロズワール、貴様、この場をなんだと心得ている!?」
とりわけ激情に顔を赤くするのは、この場でもっとも恥をかかされた立場に近いボルドーだ。老人は額に青筋を浮かべつつも顔を真っ赤にし、明らかに心臓に負荷をかけながら唾を飛ばしそうな勢いでロズワールに詰め寄る。
が、その勢いをせき止めたのは、ボルドーの顔のすぐ目の前に出現したパックだ。ボルドーは眼前に毛玉が現れ、それが先の冷気の根源だと気付くとすぐさま口を閉ざし、なにを言うべきか言いあぐねるように無音のまま口を開閉させる。
パックはそんなボルドーの反応を見下ろしながら、小気味よく笑って、
『うんうん、怒るのは当然だ。謝るよ――でも、さっき言ったことは全部本当だよ』
謝罪を口にしながらも、付け加える一言でボルドーの心臓を高鳴らせるパック。小猫は浮遊の高度を高めながらくるくると横に回り、
『ロズワールじゃボクの相手には荷が重いのは本当。ボクがこうしてなにもしないでただ存在するのはリアのお願いのおかげというのも本当の話』
ゆっくりと言い含めるように言葉を作り、それから最後にパックは愛らしく微笑み、『だから』と前置きして、
『――今、君たちが凍りついていないのはエミリアの温情だ。それを忘れないでね』
言い残し、パックの姿がふいに輪郭を失い、光の粒子となって消失する。
緑の光を帯びた粒子はきらめきながら宙を漂い、それはゆっくりとエミリアの方へ。そのまま彼女の懐へと向かい、刹那のあとには視界から消え去っていた。
おそらく、エミリアの懐の中にあるパックの依り代――緑色の結晶石へと戻っていったのだろう。
ただそれでも広間の凍った空気は戻らない。いったい、この空気はどうすればいいのかと、皆が様子を見ていると、壇上で声が上がった。
「ーーところで、そちらの彼はいったい? あなたの弟子とおっしゃいましたが」
静まり返った広場の空気を変えるためか、マイクロトフは新たな話題を提供し始めたのだ。しかし、急に話をを振られたシャオンはたまったものではない。
先ほどの魔法の打ち合いで目立った注目の火が、再び灯ってしまったではないか。
「あー、と。私はですねぇ」
「詳しい話を聞かせてもらいたいですなぁ……このまま、ロズワール辺境伯の思惑通りに進むのも癪ですからな」
こっそりと呟いたつもりなのだろうが、なぜか今の言葉ははっきりと聞こえた。
つまりは謀られた仕返しをしようとでもいうのか、マイクロトフは詳しいシャオンの素性を問いただし始めた。
しかしシャオンはどうすればいいのかわからず、周囲を見る。
スバル達は何も言わずに、息を呑んで見守り、エミリアも訳がわからず混乱模様。
と、なると残された選択肢は一人ーーロズワールだ。
シャオンは先ほどまで毒づいていたことなど忘れ、縋る気持ちで自らの師を見る。
すると、
「ええ。彼は――」
ロズワールの口が歪な笑みを作り、シャオンの背後に嫌な汗が一滴ほど落ちる。
やはりアレに縋るなど間違いだった。失礼になろうが気にしていられない。慌てて彼の口を塞ごうとするが、間に合わず、彼の口から言葉は溢れ、
「私の弟子であり――私が推薦する、エミリア様の騎士。ヒナヅキ・シャオンです」
大きな爆弾を落としていったのだ。
関係ないですが、シャオンと王選候補者の相性は
アナスタシア>エミリア>プリシラ>フェルト>クルシュです。
騎士としての仲なら
スバル>ユリウス>ラインハルト>フェリス>アルです。