Re:ゼロから寄り添う異世界生活   作:ウィキッド

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終わりと

 レムの胴体から吹き出る血が、地面を濡らすのを見て、スバルは声を失っていた。

 苦痛の声を上げる間もなく、レムの体は宙を漂い、落ちた。 

 そのレムの最期を呆然と見て、スバルは声もない。

 目を見開き、呼吸すら忘れて、自らが作り出した赤い海に埋もれる姿を、青髪の少女の最期を、再び受け入れ難い現実を前に意識が遠のき始めていた。

 

 だが、

 

「逃げることは、許されないのデス」

 

 前髪を掴み、乱暴に顔を上げさせるペテルギウスに逃避は遮られた。

 痛みと衝撃に顔をしかめるスバルに、ペテルギウスは顔を近づけて、その見開いて飛び出しそうな灰色の瞳をめまぐるしく動かし、

 

「見ろ、見なさい、見るのデス。少女は死んだのデス。愛に殉じたのデス。傷を押して戦い、恐怖に抗って前に出て、なにも果たせず終わったのデス」

 

「うぁ、あ……」

 

「見るのデス。焼きつけるのデス。アナタの、行いの結果を」

 

「――あ?」 

 

 思い切りに顔を前に引っ張り出し、逃れようとするスバルを地面に押しつけ、顔だけを両手で固定して、生臭い息を吐きかける。

 

「アナタの行いの結果デス。アナタはなにもせず、『怠惰』であった。それ故に少女は死んだのデス! アナタが、殺したのデス」

 

「……まえが」

 

「少女の命を賭した行いを!愛の末路を!」

 

 ぶつり、となにかが引き千切れる音がした。

 目の前、スバルの視界の中で、レムの体が大きく弾む。

 左腕が、肩から引き千切られていた。千切られた腕はまるでゴミのように放られ、洞窟の冷たい地面をさらされるように転がる。

 

「ぶらぁん、ぶらぁん、あらら。おててが回るぅ」

 

「……めろ」

 

 リーベンスがちゃちな効果音を口にし、そのたびにレムの体が破壊される。目に穴が空き、右の足首がねじ切られ、傷口を押し広げた。

目を逸らしたくなる光景、だが目の前の狂人はスバルにそれを許さない。 

 必然、見ることになる、レムが、蹂躙されている光景を、結末を。

 その尊厳が、目の前で、いとも容易く愉しげに、犯されている。

 それは、その光景は、目をそらすことすら浮かばないほどのその光景は、

 

 

「――ころすぅぅぅ!!!」

 

 

 現実を見ることを恐れていたスバルに、我を取り戻させるほどのもので。

 すぐ側の、その喉笛を噛み切ってやろうと首を伸ばす。が、手枷が邪魔をしてわずかに届かない。前のめりになり、勢いで顔面を地に落とす。そのスバルを見下ろし、ペテルギウスは愉快げに嗤い、

 

 

「殺す、殺してやる……殺す、殺す、お前は、お前らは殺す、絶対に殺す。殺してやる。殺してやる! 殺して、殺して……死ね、殺させろ、死ね、死ね、死ねよぉぉぉ!」

 

「生きるために誰かを憎む! あぁ、歪で素晴らしいデスよ。ワタシも、ワタシの指たちも、勤勉に励んだ甲斐があったというものデス」

 

 腕が千切れてもいい、足が千切れてもいい。

 今、この場で、枷を外して、目の前の男を殺せるのならばそれでいい。憎い、憎い、憎くてたまらない。死ぬべきだ。生かしておいてはならない。

 この男は、こいつらは確実に、今、この瞬間に、死んでいなければならないのだ。

 だがスバルの激情を無視するかのように

 

「ここもずいぶんと汚れてしまいましたし、そろそろお別れといきマスか」

 

 膝を叩き、ペテルギウスはふいにそれまでの狂笑を消して吐息を漏らす。

 激情でしきりに体を揺するスバルを意に介さず、彼は生き残った信者たちを手招きして集めると、 

 

「ここは放棄するとしマス。片付けるより早いデスから。試練の予定は明後日デスが、場所は右手の人差指が潜伏するあたりへ。残ったリーベンスは左手としての役目を追って遂行。ただし、五指集まって平等に人数を分けること、いいデスね」

 

「りょうかいですぅ」

 

「死ね! 死にやがれ! 死ね、死ね、死ねやぁ!」

 

 手早く指示を出し、ペテルギウスは手を叩く。と、信者たちはそれを合図に影と化し、洞穴のほの暗い闇へと還っていく。

 そうして生存者の数を大きく減らした洞穴の中を、ペテルギウスはゆっくり歩む。 

 ふと、足が止まり、気楽な態度でペテルギウスが振り返る。

 下から憎悪を込めてその顔を見上げるスバルに、ペテルギウスはひとつ頷き、

 

「アナタの立場デスが、本当にわかりません。なので、福音がもたらされるかどうかで判断しようかと思いマス」

 

 指を立てて、ペテルギウスは首を九十度傾けると陰惨に嗤い、

 

「手足を繋がれて、放置されるアナタを待つのは死だけデス。デスが、仮にこの場でアナタに福音がもたらされるとすれば、アナタは助かるでしょう」

 

「――――」

 

「片方だけ、外します。あとは貴方の覚悟しだいデス」

 

 名案、とでも言いたげにペテルギウスは朗らかに嗤い、今度こそスバルに背を向ける。遠ざかる背中に、スバルはなおも呪詛を投げかけ、言葉で、意思で、ペテルギウスを殺さんと憎悪の限りをぶつける。

 それら一切の影響を足取りに感じさせず、ペテルギウスは出口へ向かう。

 後を追うようにリーベンスがついていく。

 そして途中で、無残に破壊されたレムの死体の傍で足を止めると、

 

「ほら、貴女の愛なんて、こんなもの。ゴミにも劣る、ただのカス」 

 

 ぽつりとこぼし、彼女はレムの死体の前で笑う。

 

「少し、残念。ま、やはり亜人の絵空事か」

 

 これ以上ない形で、レムというひとりの少女の存在を侮辱していった。

 

「――――ッ!!!」

 

 咆哮が、絶叫が、洞穴の中に響き渡る。

 喉を塞ぐほどの怒りが、言葉にならないほどの激情が、血の涙が流れるほどの無念が、ナツキ・スバルに人ならざる声を上げさせていた。

 

 

 

――それからさらに、何時間が経過したのかスバルにはわからない。

 

「ひゅぅ、ひゅぅ……こ、ひゅぅ……す」

 

 意識は覚醒と、無意識の狭間を虚ろに漂っている。

 

叫びすぎて喉は枯れ、代り映えしない暗闇に精神は摩耗され、確実にスバルの精神と肉体はじわじわと衰弱していった。

 枷に挑み続けた肉体も、限界を越えて酷使された体は脳の指示を受け付けない。肉が裂け、骨まで削れた手首。足首はくるぶしのあたりまで赤黒い肉が露出し、地を擦れるたびに痙攣するような痛みが襲いかかってきていた。

 

 ――ころす、ころす、ころす、ころす、ころす。

 

 それでも、なおも、心の奥底の源泉からは、殺意だけが湧き続けている。

 体も、頭も言うことを聞かなくなった今、心だけが今のスバルを支えていた。

 置き去りにされ、孤独の世界に追いやられてからおおよそ丸一日。肉体と精神は限界に達していたが、スバルは意識を閉ざすことをしていなかった。

 今、ぷつりとこの意識が途絶してしまえば、もう目を覚ますことはできない。そして、この憎悪を忘れてしまえば、現実を認識し続けることもできない。

 憎悪だけが、殺意だけが、スバルの正気を証明してくれている。

 弱さに負けて怠惰に沈めば、それはあの男の言った通りの醜態をさらすことになる。それだけは絶対に受け入れられなかった。

 

 羅列されるのは、ペテルギウスが声高に叫んだ妄言の中で特徴的な単語。

 

 抜き出したそれらにどんな意味があるのか、死んだ頭に思い浮かべながら、スバルは少しでも、わずかでも、消えかける意識を繋ぐためにペテルギウスにまつわる記憶を掘り起こす。

 

 もっと鮮明に、もっと明確に、もっとはっきりと照らし出すように、あの男の顔を思い出さなくてはならない。声を、姿を、影を、歩き方を、話し方を、考え方を、触れ方を、愛しい愛しい人を思うように具体的に記憶から掘り起こし、魂に憎悪とともに焼きつけて、覚醒の燃料として燃やし続けなければならない。

 

 傍から見れば、すでにスバルのその精神は狂気の次元に到達していた。

 

 意識を保つことに、憎悪をたぎらせることに、なんの意味もないことに本人だけが気付けない。そして本人だけしか存在しない世界で、本人が気付けないことは永遠に理解できない問いかけが発されているのと同じことだ。

 

 精神が摩耗し、心が消失するのが先か。

 あるいは意識の覚醒に体が追いつけなくなり、肉体が衰弱するのが先か。

 ただただ、定められた終わりの終着点のどちらを選ぶか。

 意識を繋ぐことに、そんな意味しか本来ならば残されていないはずだった。

 その無駄で無為な悪足掻きに意味を持たせたのは、スバルの諦めの悪さではなく、

 

「――?」

 

 ふいに、漆黒の闇の中で、スバルは自分以外の誰かの気配を感じて息を詰めた。

 わずかに動かすのも億劫な首をもたげ、スバルは感じた気配の方を見やる。が、洞窟に満ちる闇の深さは目を凝らした程度でどうにかなるものではない。手近なところにラグマイト鉱石も見当たらず、闇を払う手段のないスバルは、突如として生じた気配に息を殺して身を小さくするしかない。

 仮にスバルを助けようと善意の第三者が現れたのであれば声をかけてくるはずで、それがなしで何者かが現れたのだとすればそれは怪しすぎる。

 息を止め、心臓の鼓動すら意識的に静めて、スバルはその気配を殺す。

 なのに、生じた気配はゆっくりと、本当にゆっくりと、少しずつ、這いずるような速度で、しかし確実にスバルの方へ忍び寄ってきていた。

 完全な暗闇で、気配を殺しているはずのスバルの方へ、まるでわかっているかのように気配は近寄ってくる。

 その存在に危機感を、焦燥感を、戦慄を覚える。

 が、すぐにそれらの感覚とは正反対の、別の感覚がスバルの脳裏を過った。

 

 ――そもそも、この気配はどこから生じた?

 

 誰かの気配を察する、というような訓練を受けた経験はスバルにはない。それ故にスバルが今、こうして闇の中に誰かの気配を感じているのは、それまで生じていなかった自分以外の存在による生物的な音を理由としている。

 そして、それらの音は距離的にかなり近く、少なくとも入口付近のような遠距離から届いているものではない。なにより、出だしがそちらではなかった。

 この音は突如、洞窟の中央付近から出現したのだ。

 そこまで考えて、スバルは信じられない気持ちで唇を震わせ、

 

「れ、れむ……?」

 

 そんなはずがないと、理性はスバルに訴えかけている。

 スバルが最後に、まだ洞窟の中に光源が残されているとき、目視したレムの姿は正視に堪えない無残な状態だった。

 手足を千切られ、耳を落とされ、片目は空洞だ。そして、何よりも腹から下がなかった。

 その状態で治療を受けることもできず、さらには体温を容赦なく奪う冷たい地面の上で、数十時間も放置されていたのだ。

 生きているはずがない。死んでいるのが当たり前だ。

 だが、だとすれば、他にどんな可能性があるというのか。レムが倒れていた場所から、這いずるような速度でスバルに迫るこの気配の正体が。

 

「レム、レム……?」

 

「――――」

 

 縋るような呼びかけには、しかし沈黙だけが戻ってくるばかりだ。

 それでも、気配はスバルの声に目的の確信を得たのか、ほんの少しだけ這いずるスピードが変わったように思える。それも、ほんのささやかな変化でしかないが。

 身を起こし、手枷と足枷を引き、鎖の音を立ててスバルは自身も動こうとする。だが壁の拘束は頑健で、十数時間も挑んだそれが唐突にそれをゆるめることなどない。せめて、片腕だけでもと思い、枷のない腕を伸ばし、そして――触れた。

 

「れ……」

 

 ついに、這い寄ってきていた気配がスバルの体の到達した。

 それを受け止め、歓喜をもって叫ぼうとしたスバルの喉が、凍りついた。

 その感触があまりに軽くて、冷たくて、生者のものとは思えなかったから。

 膝立ちに座るスバルの足下に、レムの体がうつ伏せに転がっている。小刻みに震える彼女の体はすでに血の温かみを失い、氷のように冷え切っていた。魂というものはすでになく、あるのはレムの外側だけ。そう思わせるのに十分なほどにレムの死は明らかだった。

だが、それでも彼女の体は動き、

 

「――うぅ!?」

 

 スバルの差し出した手がレムの体に掴まれ、地面に押しつけられる。

 前のめりに引き倒される形になったスバルは、その急なレムの挙動と想像を越えた力強さに唖然となり、その彼女の次のアクションにさらに驚愕する。

 地に置かれたスバルの両腕に、真上から大量の液体が降り注いだ。

 粘質で、鉄錆びの臭いがする冷たい水――その正体がレムが吐き出した血であるのだと、スバルが気付いたのは跳ねたそれが口に入って味を感じてからだ。

 他人の血を大量に浴びせられることの忌避感がスバルの背筋を粟立てたが、立て続けに起こった変化がその負感情を一瞬で消し去る

 

「ヒュー、マ」

 

 囁きは、ほんのわずかに大気を震わし、マナに干渉して効果を発した。

 

「――づぁっ」

 

 痛みが、手首を鋭い刃物に抉られるような激痛がスバルを襲った。

 思わず首をのけ反らせるほどの痛みは手首を始まりとして、二の腕や肩のあたりまでその勢力を広げていく。

 何事が起きたのかわからない。血を吐きかけられ、唐突に痛みが走り、このままでは腕が使い物にならなくなる――そんな戦慄が走った直後、音を立てて、内側からの圧迫に堪えかねた手枷が弾けるように割れた。

 金属が砕け、破片が落ちる軽やかな音が洞穴の床に響き渡った。

 スバルは急激に和らぐ痛みに荒い息を吐き、腕全体に広がった解放感と、肌を覆うような火傷じみた痛みを認識する。

 そして、理解した。

 

「レム、お前……」

 

 レムが吐き出した血を魔法で凍らせ、その圧力で手枷を破壊したのだ。

 

 当然、もろに魔法の影響を受けたスバルの腕も無事な状態ではない。が、それでも手首は回り、指はスバルの意思に従って動く。痛みさえ度外視すれば、意思の力で普段通りに動かすことは可能だろう。

 つまり、レムの目論見は成功したのだ。

 

「レム……待て、レム。待って……俺を」

 

 置いていかないで、と言いたかったのか。

 憎んでいるんじゃないか、と聞きたかったのか。

 そのどちらが真意だったとしても、自分本位な自分にスバルは絶望する。

 この期に及んでまだ、自分という弱い生き物を守ろうとする浅ましさに。

 レムが文字通り、死を覆してスバルを救ったというのに。

 それを最後に彼女の命の灯火は、今度こそ本当に消えていこうというのに。

 

「レム?」

 

 レムの唇が、死者の冷たい唇が、初めてなにか言葉を紡ごうとしていた。

 言葉ひとつ発することすら惜しんで、動かぬ体で地面を這って、朦朧とした意識で魔力を練って、己の目的を果たした少女が最後になにか残そうとしていた。

 

 それは、

 

「――――」

 

 音にならず、消えていった、

 

 ――――死んだ。

 

 今、レムが死んだ。

 確実に、魂が離れた感触。スバルが何度も経験した死の感触。

 最後に、彼女は何を言いたかったのだろうか、何を求めていたのだろうか。スバルにはそれはもうわからない。

 ただ、わかったのは自分の無力さの所為で――彼女は死んだのだ。

 

 ※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 スバルが足枷の束縛から逃れることができたのは、それからさらに数時間後だった

 両手が自由になったスバルは足枷の拘束範囲の中で手を伸ばし続け、レムとの戦いで死した黒装束の手から離れた十字架のひとつを掴むことに成功した。

 刃のへし折れたそれは刃物としては役に立たなかったが、かえってそれでよかったものと思う。仮にその刃が健在であったなら、スバルは自分の足首を切断するような暴挙に出ていたかもしれなかったから。

 

「……」

 

 肉の大部分が削がれ、骨まで見える足首を回して、痛みとともに動作確認。地を踏みしめるたびに意識が白くなるほどの激痛が走ることを無視すれば、歩くのに支障はどうやらなさそうだった。

 立ち上がったスバルの両腕には、レムの亡骸が抱きかかえられている。

 自由となった両腕の中で、半分になった彼女の体はあまりに小さく軽い。胸に掻き抱いてすっぽり包み隠せてしまうその小ささに、そんな小さな姿に命を救われた自分がひどく情けなくて、同時にひどく申し訳なかった。

 

 刃が不完全な状態だった十字架。その折れた刃元を慎重に、慎重に、足枷の金具の繋ぎ目に叩きつけ続けた。十字架の崩壊と足枷の破壊。刃が使い物にならなくなったのは、足枷が壊れるのと同時出会ったことは幸運だろう。

 外れた足枷を思い切り壁に投げつけ、ラグマイト鉱石が衝撃を受けて淡く青い輝きで洞穴を照らし出す。

 冷たい明かりがほの暗い洞窟を浮かび上がらせた。これほどか弱い光であっても、数十時間ぶりに見た光は眩くスバルの瞼に沁み入る。

 痛みに目の奥から涙が湧いてくるのを感じ、スバルはまだ自分の体の中に涙が残っていたのかと妙な感心をした。

 もう喉も嗄れ果てるほど、涙も流し尽くすほどに泣き喚いたと思ったのに。

 

「いこう、レム」

 

 衝撃を受けたラグマイト鉱石が輝いている内に、スバルは外を目指して歩き出した。

 一歩、また一歩と踏み出す足から痛みが駆け上がる。駆け上がった痛みが肩に伝わり、レムを抱き上げる腕にもまた甚大な被害が伝染する。

 体中、痛くない場所がない。血の出ていない場所がない。

 だが、もっとも痛みを強く感じる部分は、すでになにも感じていなかった。

 ゆっくりと、亀の歩みでスバルとレムは洞窟の冷たい地面を進んでいく。靴をなくした足裏には直接地べたの冷たさが伝わるが、腕の中のレムの体の方がもっとずっと冷たい。冷たさなど、それに比べれば何ほどでもなかった。

――それとも、もう自分の感情は死んでしまったのだろうか。

 

 

 

 思わず苦鳴が漏れるほどに、橙色の日差しは鮮烈な輝きをスバルに与えていた。

 森の彼方、丘の向こうへ沈みゆく夕焼けが水平線を埋め尽くし、一日の役割を終える最後の挨拶に、炎と同じ色に世界を染め上げていたのだ。

 長く、暗闇にいたスバルはしばし蹲り、瞳が光を受け入れるのを待ち構える。しばしの時間が経って立ち上がったスバルは、幾度かの瞬きを経て、光の影響がないのを確認してから周囲を見回した。

 見渡す限り、木々の群れが続くばかりの光景には当然ながら見覚えがない。

 四方を遠くまで見通してみても、林道や街道といった人の営みの片鱗が浮かぶ気配すらなかった。洞窟にこもっていた連中の性質を省みれば当然の話だが、完全に人里とは隔絶した幽閉場所であったらしい。

 

「でも、歩く……」

 

 目的の場所はどこかわからず、行き先は定まりようがない。

 それでも、腕の中の軽い重さに背中を押されるように、スバルは森を歩き出した。葉を踏み、根を越え、土を渡りながら、スバルは次第に暗くなる夜を進んだ。

 メイザース領――ロズワールの屋敷の近辺まできていることは、確かなのだ。

 意識が曖昧の淵にあった頃、レムはスバルを連れて屋敷を目指していたはず。竜車に揺られ、彼女の膝で安寧を得ながら、そうしていたのだと記憶を掘り返す。

 竜車が横転するトラブルがあり、それはあのリーベンス、『魔女教徒』とかいう連中の仕業であり、彼らの手でスバルの身柄が連れ去られ、レムはスバルを救うために命を燃やし尽くして、今スバルはこうしている。

 状況の整理のつもりが、思い出される記憶の欠片から憎悪までもが寄り集められ、スバルの内腑が底無しの炎によって焼き焦がされていく。

 レムのことを思い、感謝と申し訳なさで心が締めつけられるように痛む。

 奴らの蹂躙を思い出し、憎悪と怨嗟で体がはち切れそうな軋みを立てる。

 怒りが、悲しみが、憎悪が、親愛が、スバルを支え、突き動かしていた。

 行く道は定まらず、導くものもまたなにもない。

 それでもスバルの足は止まらず、意識は失われることなく抗い続ける。

 ――そして、それは彼の身に起こった奇跡だったのかもしれない。

 道しるべはなにもなく、頼れるものもなにもなく、ただ足を止めることだけを拒んで歩き続けたその先に、彼の求めたものが、辿り着きたかった場所があったのだ。

 この世界にきて以来、初めて世界はスバルに対して奇跡を賜わした。

 運命を司る神がいたとすれば、それは初めてスバルに微笑んでくれたのだ。

 そしてその微笑みは、奇跡は、

 

「――なん、でだよ」

 

 ――2度目はないものだった。

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 いつか見たものとまったく同じ地獄が、またしてもその村を蹂躙していた。

 焼け落ちた家々に、血に染まる村人。抵抗むなしく命を奪われた亡骸が、村の中央にぞんざいに集められ、死体の山を築いていた。

 刃で切り裂かれ、穿たれ、魔法で焼かれ、潰され、生存者を期待できるはずもない。

 以前と違うところがあるとすれば、それは村人の死体の損壊の度合いがよりひどくなっていることと、

 

 

「ペトラ。ルカ。ミルド。リュカ。メイーナ。カイン、ダイン……」

 

 子どもたちの無残な死体までもが、その悪辣なオブジェに組み込まれていることだった。

 レムを抱きかかえたまま、スバルの膝から力が抜ける。

 その場に崩れ落ち、腕の中の冷たい体を強く強く抱きしめて、嗚咽を漏らした。

 なにを、やっていたのだろうか。

 どうして、こうなるのを知っていて、見過ごしてしまったのだろうか。

 林道を抜け、村の方向から黒煙が上がっているのを見つけるまで、スバルはこの光景を、心を打ち砕いた地獄の風景を完全に脳から忘却していた。

 

 否、目をそらしていたのだ。レムの死に心を砕くふりをして、ペテルギウスへの尽きぬ憎悪を言い訳にして。

 子どもたちがここで死んでいるのは、前回ならば彼らを守ったはずのレムが、村に到着することができなかったからだ。スバルが生き残ってしまった代わりに、子どもたちは苦痛の果てに命を奪われる結果をもたらされた。

 唾棄すべき現実が、スバルの心を蝕んでいく。

 今、わかった。全て、わかった。

 魔女教徒だ。

 村人を殺し、子どもたちを殺し、レムを殺したのだ。

 一度ならず、二度までも、奴は、許されないことをしたのだ。

 方針は決まった。やらなければならないことがわかった。

 魔女教徒は、ペテルギウスは、そして、あの女、リーベンスは殺さなければならない。殺して、殺して、殺し尽くして、その細胞の一片まで焼き尽くして、存在を消し去らなければならない。

 そうしなければ、死に報いることができない。

 思考が憎悪一色に染まる。

 視界が真っ赤になり、足りない血のほとんどが頭の方へ上り詰め、鼻から溢れ出して伝うのがわかった。

 その鼻孔から滴る血を乱暴に拭い、レムを穢さないように抱き直し、立ち上がる。膝は震えて、足首はガタガタで、立てるのも歩けるのも不思議でならない。

 

 

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺してやる……」

 

 けれど、歩けるのならば、進めるのならば、喉笛を噛み千切ってやる。

 殺意に塗り固められた意識を引きずり、スバルは屋敷の方へと向かう。村の地獄は見届けた。次は屋敷。屋敷で何が待ち受けていたのだったか。死ぬ直前、やり直すことになる直前、なにがあったのか記憶はささくれ立っていて判然としない。

 屋敷に辿り着き、決定的ななにかを見て、心が割れ砕けてしまったのだと思った。それがなんなのか、必死に思い出そうと脳神経を焼きつかせ、しかし、それがスバルの記憶に届く前に、声が響いた。

 

「――おや、お客様だ」

 

 その声は異質だった。

 高くもなく、かといって低くもない。どこか次元がずれたような、とでもいうべきだろうか。そんな異質な声色。怒りに満ちていたスバルの心に、地獄を歩んできたスバルにさえ、それらを一瞬忘れさせるような声が。

 

「生憎と簡易的なお茶しか出せないけど大丈夫かな、ベティに渡してしまったからね」

 

 恐らく男性であろう白髪の人間は申し訳なさそうに屋敷の前にいた。

 どこから取り寄せたのだろうスバルでも見たことがない椅子に座り、テーブルの上にある茶菓子をスバルのために取り分けていた。そして、まるで今いれたかのような二人分の紅茶が用意されていた。

 全てが異質――だが不思議と、恐怖は感じなかった。代わりに、スバルの思考には疑問しか残らなかった。

 

「お前、だれだ?」

 

 スバルの曖昧な質問に対して、目の前の男はクスリと笑い、長髪を軽く払い、自身の体に軽く手を添え、笑う。

 

「――シャオン」

 

 スバルはその名前に、びくりと体を震わせる。

 だが、そんなスバルの狼狽に目の前の、シャオンと、自らの親友と同じ名を名乗る男は気にした様子もなく、

 

「ボクはシャオン。ただの歴史の残り人だよ、選ばれし者よ。とりあえず、話をしようか。荷物はそこにおいていいよ」

 

 感情が読み取れない笑みを浮かべたのだ。

 




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