Re:ゼロから寄り添う異世界生活   作:ウィキッド

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近いうち文章を校正します。


Re

 レムはスバルを否定した。

 まるで、それが絶対に正しいことであるのだと、そう信じているかのようにはっきりと否定の言葉を口にする。

 

「スバルくんがどんなに辛い思いをしたのか、なにを知ってそんなに苦しんでいるのか、レムにはわかりません。わからないことだらけで、歯がゆい気持ちです。でも、それでも、レムにだってわかっていることがあります」

 

「────」

 

「スバルくんは、諦めが悪い人だってことです」

 

 目の前で悲嘆に暮れて、全て投げ出して、今まさに諦めを口にした男に対し、レムは恥じることなく、恐れることなく、揺らぐことなく言葉を紡ぐ。

 矛盾した言葉、だが彼女の目には揺れ一つもなく信じているのだ、スバルが英雄であることを。

 

「スバルくんは未来を望むとき、妥協をしない人です。自分自身が納得がいくまで、最善の結果を望むお方です」

 

「────」

 

「レムは知っています、そしてそれは」

 

「────」

 

「スバルくんも、知っています。あの夜、あの時にスバルくんが、レムに教えてくれたことですから」

 

 噛みしめるように、俯くスバルにレムはそう言い切る。

 彼女の瞳には真摯な輝きだけがあり、そこにはスバルのことを心底信じ切った色だけしか浮かんでいない。

 その激しく強い輝きにスバルは圧倒される。

 だって、それは彼女の思い違いでしかない。滑稽なほどの勘違い、スバルという人間を買い被りすぎた発言でしかないのだ。

 本物のスバルはそんな大層な人間であるはずがない。

 弱音を吐き、逆境に挫け、見るも無残な己の小ささを自覚し、敗北感に塗れて逃げ出そうとする──それが、ナツキ・スバルだ。

 

「……俺は、そんな人間じゃない……俺、は」

 

「スバルくんはみんなを……エミリア様も、姉様も、シャオンくんやアリシア、ロズワール様や他の人のことも、諦めてなんかいないはずです」

 

 強い語調で否定される。だが間違いだ。スバルは彼女らを投げ出した。

 

「諦めた、諦めたよ。全部拾うなんて、無理なことだった……何もしてこなかった俺の手には、当然なにも残らない……ッ」

 

「いいえ、そんなことはありません。スバルくんには──」

 

 どこまでも、どこまでも、彼女はスバルの諦めを否定してみせた。

 どうしてこうまで、ここまで醜態をさらしたスバルのことを、そのスバルの非を認めようとしないのか。彼女にはスバルがどう映っているのか。

 それがあまりにも不愉快で、耐え切れなくなって、

 

 ──お前が、どれほど、なにを言おうと。

 

「──お前に! 俺のなにが!! お前に俺のなにがわかるって言うんだ!?」

 

 激情が、胸に内側で燃えたぎる炎が、灼熱の赤が勢いよく噴き出す。

 怒声を張り上げ、スバルはすぐ脇の壁に拳を叩きつける。固い音、砕けた拳から血の赤が壁に散り、掌でそれを乱暴に広げ、

 

「俺はこの程度の男なんだよ! 期待なんてするんじゃねぇ! みじめな男なんだよ、できることなんてないのに無駄に足掻いて……!」

 

 誰にだって、なにかひとつぐらいは取り柄がある。

 そしてそのひとつの取り柄を伸ばして、相応の場所に誰もが行くのだ。

 ──だが、ナツキ・スバルにはそれすらない。それすらないのに、望みの場所の高さだけは分不相応に高すぎて。

 

「誰も、だれも言わねぇなら俺が言ってやる、俺は……っ! 俺は、俺が大嫌いだよ!!」

 

 へらへら笑って誤魔化して、おどけて囃し立てて逃げ続けて、真剣に向き合ってこなかった現実──それを前にして、スバルは初めて本音をさらす。

 ナツキ・スバルは自分のことが、誰よりも誰よりも、嫌いだった。

 

「いつだって口先ばっかりで! なにができるわけでもねぇのに偉そうで! 自分じゃなにもしねぇくせに、文句つけるときだけは一人前だ! 何様のつもりだ!? よくもまぁ、恥ずかしげもなく生きてられるもんだよなぁ! なあ!?」

 

 自分を高めることなんてできないから、相対的に他者を貶めて自分を高く見せようとする姑息さ。他者に劣っていることを認めたくないから、揚げ足を取るような真似をして自分の薄っぺらなプライドを守ろうとする卑賎さ。

 

「なにもないんだよ」

 

 異世界に落ちてくる前。

 元の世界で、何事も変わらない平凡で退屈な日々の中で、なにをしてきたか──。

 

「──なにも、ないんだ」

 

 怠惰を貪り、惰眠に沈み、努力とも研鑽とも無縁の日々を過ごしてきた。

 かといって自分を諦めているでもなく、なにかそのときがくれば本気を出してやろうじゃないか、チャンスがあればちゃんとできる、なんて都合のいいことばかり考えていて。

 

「なにもしてこなかった……なにひとつ、俺はやってこなかった! あれだけ時間があって! あれだけ自由があって! なんにもやってこなかった! その結果がこれだ! その結果が今の俺だ!」

 

 有り余る時間を有用に使えば、きっとスバルはなんにだってなれたはずだ。

 だが、現実のスバルは与えられた時間を大いに無駄に浪費し、結果としてなにかを得ることもなければ、なにかを生み出すことすらもなかった。

 だからいざ、なにかをしたいと心から思ったときに、それを成し遂げるための力も知恵も技術も、なにも身につけていないのだ。

 だからいざ、活躍できる機会では何も果たせないのだ。

 

「俺の無力も、無能も、全部が全部! 俺の……腐り切った性根が理由だ……ッ! なにもしてこなかったくせに、なにか成し遂げたいだなんて思い上がるにも限度があんだろうよ……だから俺が嫌いだ」

 

 救いようがない自分。どうしようもない自分。

 仮に生まれ直せたとしても、きっと自分は同じ道を通って、同じだけの時間を同じように浪費して、同じ心持ちでこの場所にきて、同じ後悔を得るだろう。

 腐り切った性根は変わらない。ナツキ・スバルという人間は、そんな底の浅い人間性しか持ち合わせていないのだ。その事実は、揺らがないのだ。

 

「そうさ、性根はなにも……この場所で生きてくことになったって、そう思ってもなにも変わっちゃいなかった。あの爺さんもそれを見透かしていた……!」

 

 王都に残り、クルシュの邸宅でスバルはヴィルヘルムに剣の師事を受けた。

 幾度も幾度も打ち倒される内、そうしてボロボロになりながら、なおも挑みかかるスバルの姿を見て、しかしあの老人はその真意を見抜いていた。

 

『強くなるつもりのない人間に、強くなるための心構えを説くことはあまり意味のないことではと思ったものですから――きっと私の友人もそう言います』

 

 修練の日々の中、打ち倒したスバルに剣を振るものの心構えを話し、彼の老人はそう首を振ったのだ。

 あのときはスバルはわからないと、なにを言っているのかわからないと、そう否定したが──本心では、それがどういう意味なのかはっきり悟っていた。

 

「強くなろうとしてたわけではねぇ……俺はただ、なにもやっていないわけじゃないんだって、努力しているんだって……努力しているけど身につかない、そうやって、わかりやすいポーズを取って、自分を正当化してただけだ……」

 

 王選の場でこれ以上ないほど惨めをさらして。

 そんな自分に向けられる周囲の目が、意識が耐えられなかったから、その視線に見えるように『努力している』風を装って、自分を守ろうとしたのだ。

 そうやって、妥協の理由を探して、あの行為に行き着いただけだ。

 変わろうとしていると、その考え自体がなにも変わっていないことの証明であったにも関わらず。

 

「しょうがないって言いたい! 仕方がないって言われたい! ただそれだけだ! ただそれだけのために、俺はああやって体を張ってるようなふりをしてたんだ! もう十分だって、頑張ったって言われたい! 俺の根っこは、自分可愛さで人の目ばっかり気にしてるような、小さくて卑怯で薄汚い俺の根っこはなにも! なにも、変わらねぇ……」

 

 剥がれ落ちていく、虚勢が。崩れ落ちていく、虚栄が。

 他者に悪く思われたくないという虚栄心が、自分は間違っていないのだと主張を通したがる利己心が、薄っぺらな殻を破って溢れ出してくる。

 

「……本当は、わかってたさ。全部、俺が悪いんだってことぐらい。シャオンの奴だって、何も悪くねぇ」

 

 誰かのせいにして、なにかを理由にして、それを声高に攻撃していれば楽だった。

 本当の自分を見ずに済むし、本当の自分を見せずに済むし、上辺だけ剥がれなければその内側になにを抱え込んでいるのかなんて見られずに済むし。

 親友を無駄に傷つけ、相手が言い返してこないことをいいことに、自分自身の身を護る。弱くて、身勝手で、喚くばかりのくせに愛されたい、そんな願望をかなえるために、スバルは彼と反発した。

 最低だと思う、屑だとも言われても仕方がない。だって、それを一番知っているのは──

 

「俺は、最低だ。……俺は、俺が大嫌いだよ」

 

 膝を抱え、座り込む。

 胸の中にある黒い感情を表に出して、ようやくほんの少し楽になれた、なんてことはない。

 だが、まだこの闇はスバルの中からは消えない、胸が悪くなるような感慨が消えることがない。溜め込んだものを吐き出したなら、少しは軽くなるのが道理ではないのか。

 欠片も楽にならない上に、言葉にしてようやく自覚した自らの愚かしさに、今すぐに死んでしまいたいほどの羞恥が覆いかぶさってきている。

 

 ──どれだけ自分優先なのだ、と泣きたくなる。

 

 結局、そんなものなのだ。

 自分の嫌な部分を、悪いところを、欠落した部分を認めて実感したところで、それがすぐに改善できるわけでもない。むしろ、目立った穴は途方もなく深く暗く、どうにかしようという気概さえ奪っていったのかもしれない。

 ぽっかりと空いた空虚の穴は、そのままナツキ・スバルという人間が足りない人間であることの証左だ。それを目の前に動き出す気が起きないこともまた、それを裏付ける消極的な堕落となるだろう。

 憐れまれる価値すらないスバル。

 そんな彼の心の底にこびりついていた、薄汚い『汚れ』を聞き、青い髪の少女すらとうとう──、

 

「──そんなものは、知りません」

 

「────」

 

「いえ、それよりもレムの中では、スバルくんがどんなに先の見えない暗闇の中でも、手を伸ばしてくれる勇気がある人だってことを」

 

 塞いでいた顔を上げると、優し気に笑う彼女がゆっくりと語る。

 そう、彼女はどれだけスバルの闇を見ても、

 

「レムの未来を笑って話せるようにしてくれた、英雄だってことが重要なんですから」

 

 

 ──それでもレムは、スバルを見限ってはくれなかった。

 

 

 

 絶対の親愛に、全幅の信頼に、スバルはかつてない焦燥感を得ていた。

 これだけ悪しざまに罵ったのに、あれだけ醜い本心をさらけ出したのに、正面切って全ては嘘偽りで、救いようのないクズなのだと告白したのに、

 

 ──どうして彼女は、そんな慈愛に満ちた目でスバルを見ているのか。

 

「スバルくんに、撫でられるのが好きです」

 

 静かに、訥々と、押し黙るスバルに彼女はふいにそうこぼし始める。

 

「スバルくんの声が好きです。言葉ひとつ聞くたびに、心が温かくなるのを感じるんです。スバルくんの目が好きです。普段の鋭い目も好きですが、誰かに優しくしようとしているとき、柔らかくなるその目が好きです」

 

 なにも言えないスバルにたたみかけるように、レムは続ける。

 その言葉に、彼女の本心に、スバルの心が、絶叫を上げていた。

 レムがそうやって言葉を繋げるたびに、スバルの胸に悲鳴が木霊していた。

 

「……どうして……」

 

 そんな言葉を、続けるのか。

 これだけ愚かしくて、なにもないスバルに、どうしてそんな言葉を投げ続けるのか。

 

「スバルくんが自分のことを嫌いだって、そう言うなら、スバルくんのいいところがこんなにあるって、レムが知ってるってことを知ってほしくなったんです」

 

「そんなものは……まやかしだ……ッ!」

 

 そうだ、それは勘違いであり、彼女の見ている妄想だ。幻想だ。

 本当のスバルはそんな人間じゃない。本当のスバルはもっと汚い。レムがそうして好意的に見てくれるのとは正反対の、もっと悪意に満ちたスバルがいるのだ。

 

「自分のことは、自分が一番よくわかってる!」

 

「なら! レムが見ているスバルくんのことを、スバルくんがどれだけ知っているんですか!?」

 

 反射的に声を荒げて、その声にさらに被せるようにレムが叫んだ。

 この場所にきて、初めて声を大にした彼女にスバルは驚く。驚いて、息を呑んで、努めて無表情を保とうとするレムの瞳に、大粒の涙が溜まっていることにようやく気付いた。

 

「スバルくんは、自分のことしか知らない」

 

 静かに、ただ確実に覚悟を宿した声だった。

 そうだ、スバルの言葉を受けて、彼女が傷付かなかったはずがない。

 スバルの自虐の限りを耳にして、心優しい彼女が胸を痛めなかったわけがない。

 それでも、彼女はスバルを信じているのだ。

 あれだけ悪しざまに語られた内面を知ってなお、レムはスバルを信じている。

 

「どうして……そんなに、俺を……。俺は弱くて、ちっぽけで……逃げて……ッ。前のときも同じで、逃げて、それでもどうして……」

 

 ──こんなに情けなくて、頼りにならなくて、自分の弱さに負けてばかりの俺を、どうしてそうまで信じてくれるんだ。俺自身が信じられない俺を、どうして信じてくれるんだ。

 

「──だって、スバルくんはレムの英雄なんです」

 

 無条件で、全幅の信頼を寄せるその言葉に、スバルの心は静かに震えた。

 そして、スバルは遅まきに失して、ようやく気付いた。勘違いをしていた。思い違いをしていた。

 彼女は、レムだけは、スバルの堕落をどこまでも許容してくれるのだと思い込んでいた。どんなに弱くて情けない醜態をさらしても、許してくれると勘違いしていた。

 それは違うのだ──レムだけは、スバルの甘えを絶対に許さない。

 なにもしなくていいと、大人しくしていろと、無駄なことをするなと、みんながスバルにそう言った。

 誰もがスバルに期待なんかせず、その行いが無為であるのだと言い続けた。

 

 ──レムだけは、そんなスバルの弱さを許さない。

 

 立ち上がれと、諦めるなと、全てを救えと、彼女だけは言い続ける。

 誰もスバルに期待しない。スバル自身すら見捨てたスバルを、彼女だけは絶対に見捨てないし、認めない。

 それは、ナツキ・スバルが彼女にかけた『呪い』だった。

 

「あの薄暗い森で、自我さえ曖昧になった世界で、ただただ暴れ回ること以外が考えられなかったレムを、助けにきてくれたこと、自分のことを囮にすべてを救ったことを」

 

「────」

 

「勝ち目なんてなくて、命だって本当に危なくて、それでも生き残って……温かいままで、レムの腕の中に戻ってきてくれたこと、目覚めて、微笑んで、レムが一番欲しかった言葉を、一番言ってほしかったときに、一番言ってほしかった人が言ってくれたこと」

 

 スバルが彼女にかけた『呪い』の数々が、彼女の口から語られる。

 その『呪い』は深く優しく、彼女の心を信頼という名の鎖で雁字搦めにして、今もこうして彼女を縛りつけている。

 

「ずっと、レムの時間は止まっていたんです。あの炎の夜に、姉様以外の全てを失ったあの夜から、レムの時間はずっと止まっていたんです。止まっていた時間を、凍りついていた心を、スバルくんが甘やかに溶かして、優しく動かしてくれたんです。あの瞬間に、あの朝に、レムがどれだけ救われたのか。レムがどんなに嬉しかったのか、きっとスバルくんにだってわかりません」

 

 だから、と胸に手を置くレムが言葉を継ぎ、

 

「──レムは信じています。どんなに辛い苦しいことがあって、スバルくんが負けそうになってしまっても。世界中の誰もスバルくんを信じなくなって、スバルくん自身も自分のことが信じられなくなったとしても──レムは、信じています」

 

 語り、一歩、レムが間合いを詰める。

 手の届く距離で両手を伸ばし、レムが俯いて動けないスバルの首に腕を回した。引き寄せる力は強くないのに、無抵抗のスバルは為す術なく彼女に抱きしめられる。

 身長差のあるレムの胸に頭を抱かれて、真上から声が降るのを聞きながら、

 

「レムを救ってくれたスバルくんが、本物の英雄なんだって」

 

 ──────

 ────

 ──

 

「──どれだけ頑張っても、誰も救えなかった」

 

「レムがいます。スバルくんが救ってくれたレムが、今ここにいます。これからも、います」

 

「なにもしてこなかった空っぽの俺だ。誰も、耳を貸してなんかくれない」

 

「レムがいます。スバルくんの言葉なら、なんだって聞きます。聞きたいんです」

 

「誰にも期待されちゃいない。誰も俺を信じちゃいない。……俺は、俺が大嫌いだ」

 

「レムは、スバルくんを愛しています」

 

 

 頬に触れる手が熱く、間近でスバルを見つめる瞳が潤んでいる。

 その姿が、彼女の在り方が、その言葉の真摯なまでの『本当』を肯定していたから、

 

「俺、なんかが……いいの、か……?」

 

 何度挑んでも、何度やり直しても、その都度全てを台無しにした。

 みんな死んだ。手が届かなかった。みんな死なせた。考えが足りなかった。

 空っぽで、無力で、頭が悪くて、行動すら遅くて、誰かを守りたいという気持ちすらもふらふら揺れる半端もので。

 そんな自分でも、いいのだろうか。

 

「スバルくんが、いいんです」

 

「────」

 

「スバルくんじゃなきゃ、ダメなんです」

 

 自分でも信じられない自分を、信じてくれる人がいるのなら。

 ナツキ・スバルは、戦ってもいいのだろうか。

 

 ──運命と戦うことを、諦めなくてもいいのか。

 

「スバルくん」

 

ゆっくりと顔を上げる。

 

「立ち上がってください」

 

「────」

 

「隣にはレムがいます。スバルくんが大きな荷物を持つなら分け合って、転びそうになったらレムが支えます。だから、特等席でかっこいいところを、見せてください。スバルくん」

 

「なにを……」

 

「スバルくんが、レムの英雄だということを、見せてください、証明してください」

 

 彼女に、消えることのない『呪い』をかけたのはスバル自身なのだから。

 スバルにはその責任を、果たす義務があるのだ。

 

「……レム」

 

「はい」

 

 呼びかけに、彼女は静かに応じる。

 顔を上げる。前を見る。レムの瞳を見つめる。穏やかで、優しげで、スバルの口にする答えを待っている。

 だからスバルは、彼女が愛してくれたナツキ・スバルでありたいから。

 

「──俺は、エミリアが好きだ」

 

「──はい」

 

「笑顔が見たい。未来の手助けがしたい。邪魔だって言われても、こないでって言われても……俺は、エミリアの隣にいたいよ」

 

 変わらないその気持ちを、レムの気持ちを受け取った今、再確認する。

 でも、その募る思いの感じ方は、以前のそれとは違っていて。

 

「わかって、もらえなくてもいい。今、俺はエミリアを助けたい。辛くて苦しい未来が待ってるエミリアを、みんなで笑っていられる未来に連れ出してやりたい」

 

 だから、

 

「手伝って、くれるか?」

 

 手を差し出して、すぐ傍にいるレムに問いかける。

 差し出された彼女の気持ちに、応じられないのだと答えておきながら、卑怯だとわかっていながら、彼女の想いを利用しているのだとわかっていながら、それでも大切な人の未来を諦められない自分を、彼女が愛してくれていたから。

 情けない、そんな自分を愛してくれる人がいると知ったから。

 

「スバルくんは、ひどい人です。振ったばっかりの相手に、そんなことを頼むんですか?」

 

「俺だってまさかここまで屑だとは思わなかったよ。でも、頼む」

 

 力なくスバルが笑い、レムが堪え切れないように小さく噴き出す。

 互いにひとしきり笑い合い、それからレムは姿勢を正し、優雅にスカートを摘まんでお辞儀をすると、

 

「謹んで、お受けします。それでスバルくんが──レムの英雄が、笑って未来を迎えられるのなら」

 

 その笑顔がゆっくりと消えていく。

 それを皮切りに体全体が空間に溶け込んでいく。

 ゆっくりと、透明になっていくのを見てスバルは察する。

 

「時間、か」

 

「そう、みたいですね」

 

 シャオンが起こした一時的な奇跡なのだ。

 もう、レムはすでに死んでいる。

 それを止める方法はない、スバルには今レムに手伝ってもらって立ち上がるので精いっぱいなのだから。

 だが、それでもスバルは差し出した手を彼女がとり、レムをスバルは引き寄せた。

 小さく「あ」とレムの声が漏れ、小柄な彼女の体はスバルの胸の中に収まった。その柔らかく、熱い、自分を好きでいてくれた女の子の存在に感謝して、

 

「……言い忘れてました」

 

「なにをだ?」

 

「──おかえりなさい。スバルくん」

 

「──ああ、ただいまだ、レム。そして、少しの間さよならだ」

 

 胸の内が、熱い。

 抱きしめたレムが、スバルの胸に顔を押しつけて、その表情を隠している。

 息遣いが熱い。擦りつけられる額が、頬が熱い。きっと、彼女の瞳から流れ出している涙が、一番熱い。

 そしてその熱はゆっくりと失い、スバルの腕の中で彼女の存在は消え去った。

 だが、彼女の残したものは、スバルに与えたものは心に大きく変化を与えたのだ。

 

 ──まだ、スバルは自分が好きにはなれない。嫌いなままだ。

 

 でも、そんなスバルを好きだと言ってくれた子がいるから。

 そんなスバルであっても、好きだと思ってもらいたい子がいるから。

 もう少し、もう少しだけ進んでみよう。

 

 ──彼女が見ている世界を、自分自身が笑顔でいられる世界にするために。

 

 ◇

 

「──世話になったな」

 

「もういいのかい?」

 

 スバルのつぶやきに反応したかのようにこの空間の持ち主、シャオンが姿を現す。

 相も変わらず椅子に座りながら、面白いものを見せてもらったとでも言いたげに笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

 少しイラつく笑みだが、レムの最後の想いを伝えてくれたいわば恩人だ。多少は我慢しよう。

 

「ああ、十分だ、十二分なほど励まされた。というより変な姿を見せて悪い。引いただろう?」

 

「気にしなくていい、ボクとキミとの仲だろ?」

 

「その仲ついでに、もう一つお願いがあんだけど──俺を、殺してくれるか? 死に戻るために」

 

「ああ、いいよ」

 

 絶望したからではない、

 生きるために、ナツキスバルは死ぬのだ。

 そして、激情を、恨みを糧に、魔女教徒を確実に殺すために。

 いや、そんな言い方はしたくはない。

 笑顔でいられる未来のために、スバルの守りたいものを守るために、戻るのだ。

 

「どちらにしろ、もう終わるだろう。けど、キミとボクとの仲だ、叶えよう」

 

 意味深な発言を口にするシャオンだが、どうやら詳しくは話す気はないようだ。

 正直スバルもそれは助かる。

 これ以上スバルの知りえない情報を一度に渡されても整理はできないだろう。

 ただ、一つだけ聞きたいことがあった。

 

「ところでお前は雛月遮音なんだよな? あ、からかいはなしで答えてくれると助かる」

 

「さて、その答えを得るためにはまだ好感度が足りないようだ」

 

「おい」

 

「まぁ、どちらにしろ今は関係のないことであるが、まぁ、簡単に言うならボクと彼は違う」

 

 雛月遮音と目の前のシャオン。

 有する力は格段に違い、人間らしさも、考えも違う。

 似ているのは見た目くらいだろうか、髪の毛の色は白色で大きく違うが。

 

「だからボクのことを彼に聞いてもわからないよ、逆に彼のことをボクに聞いてもわからない」

 

「俺、お前のこと知らねぇんだけど、そんなマブだったの?」

 

「背中を預けるくらいは、ね。ふふ、それもいずれわかるさ。茶会でまた会おう、次のお茶菓子はキミが用意しておいてくれ」

 

 意味深に笑いながら、彼は手を軽くあげる。

 

「あ、まった」

 

「どうしたんだい? 怖気づいてしまったのなら子守唄でも」

 

「んなガキじゃねえよ。いや、ガキではあんだけどさ」

 

 スバルはそう言いながらすっかり冷めてしまった紅茶を手に取り、一気に飲み干す。

 不思議と味はしなかった。

 香り自体は良いものなのに、味がしないというのはどういうことだろうかと思いながらも口には出さず、空の容器をテーブルに叩きつける。

 

「ごっそさん!」

 

「……ふむ、自分の体液をそこまで警戒無しに呑まれるとは少し照れるな」

 

「マジかよ! おれ、野郎の体液摂取したのか! しかも一気!」

 

「ほら、世の中にはそんな性癖があるのだろう? ボクの知り合いにもいるよ二人くらい。一人は食欲からだけど」

 

「マジかよ、お前の知り合いってことは絶対まともじゃないと思っていたのに、それを聞いて確定したわ」

 

 自分にはそんな性癖はないが……ないが、レムやエミリアのモノならばと考えてしまう自分がいる。

 恐らく、そんな自分もレムならば受け入れてくれるのだろうが。

 

「あ、そうだ、スバル。ボクからも一つお願いがある」

 

「なんだ? 俺にできることなら、なんでも……できる範囲なら努力しよう」

 

 正直な話、できることは少ない。

 だが、目の前の彼にはお世話になったのだ、できる範囲でいいのならば、スバルは力になりたい。

 そのスバルの返事を聞いて目の前のシャオンは今までの笑みをなくし、真面目な表情で頼み込んできた。

 

「いずれ来る娘を、頼む。その子はきっと君らの運命に大きく関与するだろうからね」

 

「お前子持ちかよ……ただ、わかった。詳しい事情は、話せないんだろ?」

 

 ニッコリと笑みでごまかすシャオン。

 どうやら、その笑みを崩せるほどスバルの話術はすぐれていないし、聞き出すつもりも今はない。

 

「とりあえず、安心しろ。面倒は見てやるさ」

 

「安心した──なら、そろそろ」

 

「ああ、今度はこっちが頼む」

 

 シャオンはゆっくりと手を掲げ、そして、それを横へずらしていき、丁度スバルが彼の手の中に隠れた瞬間──

 

「──あ」

 

 文字通りナツキスバルの体はこの世界から消滅した。

 




ちなみにこの作品の令の所為へ気持ちはダフネとカーミラです。まぁ、理由は、ね?
最後のシャオンの技はSPECのセカイの能力をイメージすると分かりやすいかもです。

さて、これで、チュートリアルは終わり。

後は本編しかない。

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