「妾はこう見えて、意外と本が好きでな」
豪奢な椅子に座り、肘掛けに片手を置いた少女がそう語る。
置いた腕と反対の手には凝った装丁の本を開いており、すでに後半に差しかかっているそれに目を走らせる姿は、どこかそれまでの彼女の雰囲気と異なっていた。
ネグリジェのような薄手の衣に袖を通し、肩に衣と同じ色の白い布をかけた姿。豊満な体の曲線が惜し気もなく目の前にさらされている状態だが、男の視線を前にしながらも少女にはそれを意識した様子はない。
来客を出迎えているとは思えないほど自然に、本の世界に没頭していた。
絨毯の敷かれた床をスニーカーで踏み、放置されるスバルは途方に暮れる。
中に通されたはいいものの、肝心の部屋の主はスバルに興味を払っていない。強引に話を始めようとすれば、冒頭の一言が返ってきたのみ。
まさか、もう少しで読み終わる本だから読み終わるのを待て、と言われているのではあるまいか。
と、胸中に芽生えた考えは、ページをたおやかにめくる姿を見ていると否定ができない。
事実、彼女がそんな理不尽を言いかねない人物であることをスバルは知っている。
太陽を映したような橙色の髪に、目に映る全てを焼き尽くす炎のような紅の双眸。透き通る白い肌に女性的な起伏に富んだ肢体。
口を開かず、静かに本に視線を傾ける姿の美しさは表現する言葉を他に持たない。
女の名前はプリシラ・バーリエル。
王選の候補者のひとりであり、スバルが協力を求めて足を運んだ、次なる人物でもあった。
「……面白い男よな」
読み終えたのか、本を閉じ、初めてスバルの方を見る。
「まるで別人かとみまちがうような目、あれほどの醜態をさらしたうえで生きている剛胆さにも驚くが……いったい何があった?」
「俺に惚れた女からの熱い喝をね、だが安心しろ。俺は変わってねぇ、変わらず情けない俺のままだよ」
だが、と区切り
「情けない俺でも見てくれる奴がいるってわかったら張り切るしかねぇだろ、男なんだからよ」
ゆっくりと目を細めたのだった。
◇
場所は初めてアナスタシア邸を訪れた際に使用した客間だ。
前回とは違うのは場の空気の重さだろうか。
アナスタシアのそばに控えるのは彼女の騎士、ユリウスではなく鉄の牙の副隊長を務めるルウのみだ。だが、部屋の外にはいくつかの気配がする。変な気を起こしたならばこの気配の発信者はシャオン達を襲うだろう。
「まぁとりあえず席に着いてええよ?」
こちらが緊張しているのを読み取ったのか、アナスタシアが座るように促す。
それに従い、用意された座布団に姿勢を正しながら座る。
「ごめんなぁ、一応護衛ということでルウを控えさせてもらうわ」
話によればユリウスはスバルとの一件以降謹慎処分を受けているらしい。だから代理としてルウが来ているのだろう。
いや、正確には控えているのはルウだけではない、この場所自体が、彼女の、アナスタシア陣営の本拠地なのだ、当然彼女の抱える戦力、戦略の全てがここにあり、そしてそれが考えすぎではないことを嫌になるくらいの敵意の視線が教えてくれていた。
だが、シャオンはあえてそこに突っ込んだ。
突っ込まざるを得ないのもあったが彼女の油断を誘えないかと考えた上の判断だが、結果はよくわからない。それほどまでにアナスタシアの様子は変わらないのだ。
「それで、世間話ちゅうわけやないんやろ?」
「それだったらもっと気軽に話しますよ、料理でもつまみながら」
「なら愛の告白? だったらアリィを連れているのは減点やなぁ」
「あのですね、こっちは真面目に」
「うん、ウチも冗談が過ぎたわぁ……でも、ヒナヅキくんもおなじやろ?──魔女教の討伐に手を貸してくれ、なんて妄言口にするなんて」
ぞわり、と彼女の纏う雰囲気が変化したような気がした。
□
「今回の王選が始まる際に魔女教が動くのは予想はできてたんよ、理由は聞かへんでもええよな?」
「エミリア嬢の参加、ですよね」
こくりとアナスタシアは頷く。
「だから魔女教の討伐に関してはそこまで驚くことではあらへん。ヒナヅキくんのとこからのお話ならなおさらやな」
ならば、妄言と口にした意味はなんなのだろうか。
それを問おうとした瞬間に、アナスタシアは先を読んだように口を開いた。
「ウチが妄言っていうたのはヒナヅキくんがまるで魔女教の居場所が、更に言うなら今後やっこさんらが襲ってくる計画を詳しく知っているみたいな口ぶりをしていたんやもん」
「……それで? 情報の出所は?」
「とある筋から教えてもらった、といったら信じますか?」
「ふーん、それでとある筋っていうのを明かすわけにはいかへんちゅうわけやないよな?」
「守秘義務があります。この交渉を呑んでくださるのならば明らかにしましょう」
焦る内心を言葉でごまかす。だが、それすら筒抜けだ。
「雑な交渉やなぁ、嫌やないけど。ま、ウチとアリィとの仲、ヒナヅキくんとの仲や、突っ込まんでもええよ。でもこっから先は別」
呑んでいた湯飲みを置き、彼女の瞳は商人のものへと切り替わる。
「──当然、出せるものはあるんやろ?」
「エリオール大森林の魔鉱石、その採掘権の分譲が主な取引き材料です」
クルシュにも提案した交渉の案をアナスタシアにも同じように出す。
正直スバルの交渉相手は恐らく魔鉱石にはそこまで興味はないはずだ。だからこの手札を切るのは悪くない。なんなら少しくらい割増しにすることも可能だろう。
実際に彼女の喰いつきは悪くない。
この話題を口に出した瞬間に僅かではあるが確実に瞳に欲の光を見せていたのだから。
「へぇ、それは魅力的やなぁ……それから?」
「それから……」
「なんや、もしかしてそれだけでウチが力を貸すとでも思ったん? 確かに正直、手を貸してもええかなぁとは思う。でも、それだけの条件だけじゃ足りへんかなぁとも思う」
そう言ってアナスタシアは舌なめずりをしながら、こちらの首筋を右手で優しく撫でる。
その感触に思わず寒気を感じ払いのける。しかし彼女はそれを気にした様子もなく、いやそれどころかこの反応すら楽しんでいるようにも感じた。
「せっかくうちらが上にいるんや、欲は抑えんよ?」
強欲。
彼女があの場で口にしたこと、そして抱いた印象。それを改めて実感させられた。
ただ彼女のもう少し条件の上乗せというのは、鉄の牙の被害を考えればわからなくもない。
しかし、彼女のような商人ならばクルシュとは違って、魔鉱石の採掘権のみで飲んでくれると思っていたがやはり希望的観測だったか。
「エミリア陣営との同盟、はどうです?」
「それがヒナヅキくんがとれる最後の切り札ってことでええの?」
沈黙を肯定と受け取り、何度か頷いたうえで答えを口にした。
「──なら、この交渉は無理やな」
「────」
「うん、ヒナヅキくんの考えとることはわかるよ? そしてその考えていることもあっとる」
ならなぜ、という言葉は出なかった。
それは驚きによるものか、はたまた心のどこかで予想していたことだったからなのか。
「──そもそも、その提案を受け入れるちゅうことは、王選の離脱を意味するけど、ええの? ヒナヅキくん?」
沈黙に差し込まれた鋭い指摘にシャオンは珍しく口をぽかんと開ける。が、そのシャオンを見やるアナスタシアの視線は芸を見て楽しんでいるようなものを秘めていた。
「当然だろ。自分の領地の危機を余所の領主に丸投げするなど、王の器以前の問題だ。領民を守ることすらできないのにさらに巨大な国を背負って立つことなどできるか」
ルツの言葉を継ぐようにアナスタシアは笑う。
「なにより、今目の前で一つの陣営が脱落しそうなのを見逃さない手はあらんやろ? 焦り過ぎや、ヒナヅキくん。今なら簡単食べられそうやわ」
「あ、う……」
言葉が出てこない。
覚悟はしていたことだ、だがアナスタシアの放つ圧力に呑まれ、ペースを握られてしまった。
それを好機と判断したのか、彼女はニヤリと笑い、
「勿論、ヒナヅキくんがウチのもんになるなら話は──」
その言葉は轟音、アリシアがテーブルをたたき割った音によって遮られた。
「シャオン。ここまでっす。これ以上交渉材料がないならどうやってもアタシらは”完全に呑まれる”」
「あら残念、もぉすこしで貰えたのに……」
クスクスと笑う女狐。結果は惨敗であり、我々が手に入れられたのはそんな笑い声だけだった。
◆
待ち合わせの先にいたのはシャオンたちが先だった。
さて、どうしたものかと考えている矢先、
「スバル、悪い。こっちは駄目……」
こちらへ駆け寄るスバルに交渉失敗の情報を伝えようとしたその時、シャオンの目には予想外の人物が写った。
彼女は、その燃えるような髪を払い、獅子の様に鋭い眼光をシャオンに浴びせ、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「ふん、なんじゃ? 妾の美貌に見惚れるのは当然のことであるが、許可なく見て良い理由にはならんぞ、人形」
「マジかよ」
「……俺も予想外だよ」
そう言うスバルではあったがその表情に浮かんでいたのは明らかな喜びの色だ。
プリシラ・バーリエル。
特異な王選参加者の中でも、更に異質であり、印象には残っていた。
傲慢とも思えるその立ち振る舞いは、彼女が持つであろう実力の裏付けだろう。事実、彼女は戦力だけで見れば王選参加者の中でも上位だろうとシャオンも感じていた。
だから、助けになってくれるのはおもわぬ誤算であり、良い知らせではある。ただ、問題としてあげられるのは彼女の性格であり、信用性だ。
彼女の気まぐれで裏切られる可能性もゼロではない。第一交渉に応じるメリットがないのだ。
だが、彼女は応じ、実際にここまでやってきたのだ。こちらをぬか喜びさせるためだけにそうしたのならば悪趣味が過ぎるが。
だから、当然スバルに問いかける。
一体どんな手で、そんなありきたりの言葉が出る前にスバルはその証拠を見せた、というよりも”それ”を持つプリシラの姿を見せた。
「まさか、あれが役に立つのがこの場面だとは」
そう、彼女が持つそのアイテムは、黒い光沢が鮮やかな小さな物──ケータイ電話だった。