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広間には沈黙が、そして張り詰めた緊張感が満たされていた。
その何度目かわからない緊張感を肌で味わいながら、スバルは渇いた唇を舌で湿らせ、まずは状況の第一段階を整えられたことに心の中で拳を握る。
前提条件として、今この場に参ずる面子が揃うことが今のスバルには肝要だった。
これまでの自身の軽い命を賭けて得た経験上、揃わない可能性はかなり低いものだったが世の中はそううまくいかないことをスバルは身をもって経験してきた。
だから、今この場でこの状況を整えられたのはスバルの心にわずかながらに安堵を与えていた。
「通算何度目かわからねぇけど、慣れねぇもんだな」
「――――ほう、卿はこのような場面に何度も対面してきたのだな。なるほど、風格がある訳だ」
座椅子に腰掛け、膝の上で手を組んだ男装の麗人――クルシュ・カルステンがその沈黙を破り、凛々しい面持ちに感心の色を浮かべた。
その彼女の隣に立つ一の騎士は主の言葉にわずかに睨むように目を細め、纏う雰囲気にも冗談は混ざっていない。彼がスバルを見る目には、一切の油断がない。実力足りずとも、主を危機から遠ざけようという彼の気概だけは十分にそこから伝わってくる。
そしてもう片方、クルシュの左隣で背筋を伸ばすのはヴィルヘルムだ。
腰に帯剣し、瞑目する姿からは研ぎ澄まされた剣気だけが漂ってきており、今は、主であるクルシュが持つ懐刀としての役割に没頭しているのだ。
場所は王都貴族街の中でも上層、そこに構えるカルステン家の王都滞在時に利用される別邸。来客を出迎えるために相応の飾り立てが為された応接用の広間だ。
その場に前述の三人、屋敷の関係者が並び合っているのは当然の流れ。そして、彼女らを除いた広間の中にいる顔ぶれといえば、それとなく全員の顔に目を走らせていることに気付いたのだろう。スバルの横目を受けて笑うのは、くすんだ金髪にお洒落顎ヒゲが特徴的な優男、いわゆる成金風の人物だ。
彼の名はラッセル・フェロー、商人だ。
スバルの印象としては利に敏く、抜け目のない思考の現実主義者。いわゆる商人らしい商人であり、物事を基本的に損得勘定で判断し、多く利を得るという点にしか興味がない王都の商人組合のまとめ役であり、王都の商業全体の算盤を弾いている中心人物だ。
この評価は他の人物からも似たり寄ったりで、スバルが利用できるうちは協力関係を継続できる、という損得で繋がっている悲しいが、安心できる協力者でもある。
実は別の世界であってはいるが、その時にはほとんど世間話をした程度だったがあの時も、この屋敷に出歩いていたこと、そして彼が求めていることがスバルの予想通りならこの交渉に食いつき、更に、彼ほどの商人であるのならスバルの行う交渉の”保証人”へと姿を変えるだろう。
その保証人はまだ始まらないのかとばかりに、目をこちらへ向けるがスバルは申し訳なさそうに頭を掻く。
「今、アリシアがもうひとりを呼びにいってるんで、もうちょっと待っててくれ。きてくれるか確実じゃないが……勝算は、90%、ある」
「お早い到着をお待ちしておりますよ。ちなみに、勝算の根拠をお伺いしても?」
おおよそ、スバルの待ち人の素姓に目星が付いているのだろう。
ラッセルの問いかけにスバルは「簡単な話さ」と首を横に振ってから、
「金の臭いをプンプン醸し出させたし、なにより親友からの呼び出しだ。それが本当なら必ず顔を出してくる」
「なにせアンタラこの臭いすきだろ?」と言うとラッセルは額に手を当てて、丸め込まれたとでも言いたげに振舞う。もちろん、お互いの手札がある程度透けているのを見越してのやり取りだ。
額面通りの安心感など虚実に過ぎないだろうし、そもそもスバルの方にはそんな腹芸ができるほどの技術も余裕もありはしない。
「皆様、大変お待たせしたっ……しました」
それからほんの数分後、広間の扉を開いて姿を見せたのは給仕服を身に纏った金髪の少女――アリシアだ。
彼女はいつものノリでいようとしたが、流石に全員からの視線に、思わず一度怯む。
その後室内にいる全員に見えるよう頭を下げ、それからスバル達の方へ視線を送ると、僅かに緊張を解いたようだ。
「無事問題なく了承は得られたっす。まぁ要求が要求だからで少し到着は遅れるそうですが、必ずくるよう取り付けたっす」
「そうか。よし、よくやってくれたぜ、アリシア」
そう言いながら、彼女はスバルの近くへ歩み寄り、右手を軽く上げる。
その報告とポーズに応えるように、スバルは同じく右手で迎え入れ、大きく音を鳴らすように打つ。所謂ハイタッチの形だ、ただ――
「いってぇ! 加減しろ! ばか!」
「ふん! これからやることがやることなんすから、これぐらい気合を入れたほうがいいって言う遠回しな応援っすよ」
鬼族である彼女の、恐らく加減はしているだろうが一撃にスバルの掌は赤く腫れあがっていた。
思わず涙をが出そうになるが、力では勝てない。だから言葉で勝とうと――
「……おまえ、アイツと同じ行動できなくて拗ねてる?」
「もう一発いくっすか?」
ニッコリとした笑みにスバルは言葉で勝っても肉体の敗北が待っていることを察し、言葉を引っ込める。
それをみたアリシアがため息を零し、その後照れ臭そうに小さな声で呟いた。
「……シャオンが大丈夫だって言うのなら、少なくともアタシは信じるっす。それにアタシにもやるべきことはあったようだし」
「……ああ、勿論お前もこれからの作戦には重要だ。さて」
そう、誰一人かけてはいけないし、欠けさせない。
これで、状況を最善に変える手立てをようやく1歩得たと頷く。それから待ちわびる面々を見渡し、
「最後の参加者は少し到着が遅れるって話だけど、とりあえず役者は揃ってる。これ以上待たせるのもなんだ。始めようか」
スバルのその宣言に、各々が状況が変わるのを察してそれぞれの反応を見せる。
クルシュがかすかに笑い、フェリスは固く唇を引き結ぶ。ヴィルヘルムはひたすらに沈黙に徹して表情を変えず、ラッセルはゆったりと椅子に腰を沈めた。
その彼らの視線を一身に浴びながら、スバルはひとつ高く足を踏み鳴らし、己の気を高く引き締め
心臓が高く、強く鳴るのを感じる。
「ひとつ、確認したいところがある、ナツキ・スバル」
気合いを入れて前を向くスバルに、指をひとつ立てたクルシュの声がかかった。彼女はその立てた指を左右に振り、スバルの視線を受け止めると、
「卿のことを疑うつもりは微塵もない、その前提で確認させてもらう……これから行うのは戯れなどではなく、
肘掛けに腕を立て、その手の上に頬を預けてスバルを見やる怜悧な眼差し。
すでに理解しているだろうに、スバルの口からそれを語らせる彼女の姿勢には一貫して甘さがない。
話の始め方ひとつにとっても、すでに陣営同士の勝負は始まっているのだ。
「そら、もちろんだ。アイツではなく俺が音頭を切るのは心配だって言うのはわかる。でも冗談じゃねえよ」
スバルの頭の中に思い浮かべるのは頼れる相棒の姿。
いま彼はこの場には居ない、そして勿論スバルが彼の代わりになれるとは思わない。
血が全身にめぐり、同時に大きな不安が首をもたげては目の前が暗くなりそうだ。己の行いでエミリアが、いやみんなの命運が文字通り決まるのだ。
だが、
「スバルくん」
そっと、隣に立つレムが不安でいるスバルを安心させるように袖に触れた。
直接肌に触れず、衣服を介しての接触――なのにスバルはまるで、万の助勢を受けたかのような安心感をそれに抱いた。
レムが見ている。ならば借り物の勇気でもいい、不敵に笑い、恐怖をその笑みの裏に隠して、スバルは最初の壁に挑む。針の穴を通すような条件を掻い潜り、ハッピーエンドを紡ぐために。
自分を好きだと言ってくれた女の子が信じる、英雄に一歩でも近づくために。
だからスバルは一度頬を大きく叩き、クルシュの突き刺すような視線に呑まれないように己を維持しつつ、
「これから行うのは、エミリア陣営とクルシュ陣営の、対等な条件での同盟――そのための、交渉の場面だ」
かつての失敗を繰り返さないように強気に、自身の凶悪そうな顔を更に歪ませ、笑い、高らかに同盟交渉の宣言を行ったのだ。
◇
「さてさて」
リーベンスは外套を羽織り、福音に記載されているメイザース領へと向かっていた。
その足取りは焦りが見えているのか、早くなっている。
そもそも予定では今はまだメイザース領には向かう必要がない。
しかし、王都内、また彼等の周辺に放っていた同士からの情報では、福音に記載のある導き手とその仲間がすでに動いているとのことだ。
福音を確認するもそのような記載はなかった、だがこのような異常事態が発生しても、福音の記載と反するような事態は避けなければいけない。
そのために魔女教が、自身がいるのだから。
まずは福音書の内容に沿うように、導き手を拘束しなければならない。
「村にはいっぱい人間がいますよねぇ……楽しみ」
逸る気持ちの他に体中の蟲達もしばらく長い間食事をとっていないためか、餌をよこせと騒ぎ立てている。
適当な人間を捕まえて、食わせてもいいが、今優先すべきは導き手を追うことだ。
そう、全ては司教様のためであり、そして何よりも――
「あぅ……」
頭が痛み、動いていない心臓が激しく脈打つような錯覚を覚える。
リーベンスの身体は生きたまま蟲に食われ、すでに死に至っている。この時の強い怨念が蟲に移り、今のリーベンスを生み出したのだ。身体は蟲の集合体であり、蟲の数は無限に、ネズミ算のように増やせるため、ほぼ不死身に近い。
ただし、蟲達にも小さいが全て意思を有するために思考の偏りが生じてしまうのだ。だから、もう記憶などないはずなのに、油断すると余計なものがよみがえってくることがある。
『愛してるよ、だから必ず戻る』
『おかあさん、大丈夫?』
よぎるのは自分の面影を宿す小さな少女と、優しく微笑む一人の男性。
一体この記憶は誰のものだったか、思い出せない。何かが、記憶の鍵を開けるのを止めている。
「――リーベンス様」
「っ!?」
ふと、背後からかけられた声によって、沈みかけていた意識が引っ張り上げられる。
慌てて振り返るとフードを被った1人の、男性がいる。
いったいいつから見ていたのか、演技をすべきかと考えていると、目の前の男は一つの本を取り出す。
「福音書、ですね。どうしてここに? 持ち場は?」
福音書を取り出したのを見てリーベンスは警戒を解く。そしてその様子に彼は掲げていた福音書を仕舞い、リーベンスへと事情を説明をする。
「異常事態にどう動くか悩みました、しかし福音書の内容を参考すれば、この行動が正しいかと」
「ふーん」
1人しかい動いていない、というのが怪しい。
念のためしまった福音書を再度見せてもらうが、他の人物が所有する福音書の記載は読み取ることが出来ない。
だが、それでも福音書が届いているのだから同士であることに違いはない。
疑うべきは罰せずなんて言葉が、魔女教にもある。今はやるべきことをしなくてはいけない。
「それにしても、なんでばれたんですかねぇ。まぁ、急いで向かいましょうか」
「ええ」
村へと向かおうとするリーベンスを追うように、男はこちらの後ろにつく。そしてふと「あ、そうそう。一言お伝えしたくて」と男が、思い出したかのような声を上げる。急がなくてはいけないと言っているのに、一体何を伝えるのだろうか。と不機嫌を隠さない様子でリーベンスは振り返る。
「――福音書にとらわれ過ぎだよ、バーカ」
「……は?」
直後、リーベンスの身体が縦に裂かれた。
恐らくは魔法の一種だろうが、詠唱無しの一撃は流石の彼女も予想できず、回避はできなかった。
ただ、自身の体の特性上、この程度の一撃は致命傷などにはならない。即座に蟲達を総動員して、体の再構成行う。しかし彼は驚いた様子もなく、体の再生が完了するまで待っていた。
「疑問だらけだろ? 1つ1つ説明するよ」
そして、指を一つたて、彼は口を開く。
「こっちにはある程度の金はあるんだ。それなりの報酬を払えば嘘の情報を流して回ってくれる奴は多い」
できの悪い生徒に教えるようにシャオンはゆっくりと語り掛ける。まるで、此方の疑問をすべて解消するかのように。
「そして、その噂に引っかかる奴の動きなんて、すぐにわかる。挙動不審だからな……信用を得るためにこんな本も奪う必要があったけどな」
触れているのでさえ嫌だとでもばかリに、彼は福音書を投げ捨て、踏みつける。
その行為に一瞬だけ怒りを覚えるが、所詮は自分以外の物と考え直し、冷静さを取り戻させる。
「……それで?」
リーベンスはくすくすと笑う。
言い繕うことなど、もう意味がないと判断して敵意を露わにシャオンへと視線を向ける。
「確かに噂に踊らされたのは事実ですがねぇ、その後のことはどうするんですかぁ。まさか、私と戦うのに一人で十分だっていうんですかぁ?」
周囲を見るに、シャオン以外の姿は見られない。増援は来ていないと思われる。まぁ、来たところで自分には大して影響はないが。
ただ、一つ問題がある。
「導き手をここで倒すのはぁ少し違うんですがぁ、捕縛ならいいでしょう。素直についてきてくれるなら乱暴にはしませんよぉ」
彼を殺すことは容易だが、それで福音の記載が狂ってしまっては困る。だから、互いの利益のためにと提案を出す。素直に応じるとは思っていない、反撃の一つ二つは覚悟している。だが、少し遊ぶ程度で戦力差はわかり観念することになるだろう。
「……」
しかし、リーベンスの予想とは違い、目の前の男、ヒナヅキ・シャオンは一度手元へ視線を逸らしただけだった。まるで興味を持っていないとでもいうような態度に、僅かに苛立ちを覚える。だから、先に仕掛けることにした。
「余裕ですねぇ」
数百近いさざめく音と共に、リーベンスの体から数本の黒い槍が生まれる。
すべてが蟲でできたリーベンスの思うままに動く変幻自在の黒い槍。それがシャオンへと襲い掛かる。
だが、彼は攻撃をせずに、大きく避け距離を取った。
「……!」
その動きはまるで、こちらの攻撃を見たことがあるとでも言いたげなほどにスムーズで、リーベンスは思わず目を見開く。
そして、遠ざかる彼の口元がわずかに動き、
「第一段階、終了」
と小さな声が聞こえたような気がした。