霧の蔓延する世界で、その巨体を揺らして遊泳する魚影が合わせて三つ。
全身に歪な無数の口を開き、そこから甲高い鳴き声を発し続ける異形の存在。
それらすべてに赤い色の魚が、まるで翼の様に全て纏わりつき、膨大な魚群は空を夕焼けかと見間違えるかのように赤く染めていた。
ただの一匹ですら人々に絶望を与えるのに十分な脅威を持つそれは今、その魚影を三に増やして抗おうとする人間たちを嘲笑っていた
「終わりだ」
誰かが、呟いた。
見れば、討伐隊に参加していた騎士のひとりがぐったりと肩を落とし、下を向いて顔を覆いながら蹲っている。肩を震わせ、喉を嗚咽が駆け上がるのを誰にも止めることはできない。
現状を正確に理解し、完全に、心が折れたのだ。
人数を十分に揃え、万全の装備を持ち込み、機先を制して火力を叩き込み、これでもかと攻勢をかけた上での――この理不尽な状況だ。
精神汚染による兵力の半減は深刻で、残った主戦力もまた新たに出現した白鯨の奇襲により粉砕されてしまった。
残る力を結集しても、それは最初のこちらの戦力の半分にも満たない。その上で相手にしなくてはならない魔獣の数は三倍、勝ち目などあるはずがない。
誰もが一瞬で悟った。自分たちの命が、目的が、奪われたものへの報いが、ここで潰えるのだと思い知らされた。
魔獣の恐ろしさとおぞましさ。そしてその魔獣に奪われた大切な絆の重み。その絆に報いることのできない、自分たちの無力さに、どうしようもなく。
――誰が責めることができるだろうか。
理不尽で、動かしようのない現実が迫るとき、誰に諦めを否定することができるだろうか。
「――諦めんじゃねぇ!!」
ふいに、怒号が沈黙の落ちかけた平原に轟き渡る。
声に思わず顔を上げれば、地を蹴って白鯨の一体に飛びかかる影――給仕服の裾を翻し、手に凶悪な棘付きの鉄球をしっかりと握りしめる少女の姿が見えた。豪風をまとい、唸る鉄球が動きを止めていた白鯨の鼻面を直撃。
絶叫が上がり、首を持ち上げて空へ上がろうと尾を振る白鯨。その尾を地面から延びる氷が貫き、身をよじる胴体に旋回してくる鉄球が容赦なく殴打。
「腹に呑み込まれる前なら、まだなんとかなるはずだ――!」
痛む肩を押さえて、額から血を流して叫んでいるのは少年だった。
前に出て、鉄球を振るう少女に指示を出し、戦いに参戦することのできない己の無力さを歯がゆく思う気持ちで顔をしかめ、それでも彼は足を踏み出す。
少年の傍らに地竜が立った。その背にゆっくりとまたがり、明らかに乗り慣れていない不格好な姿勢で、しかししっかり力強く手綱を握り締めて、
「まだだ!! ――まだ、なにも終わっちゃいない!! 何も始まってすらいねぇ!」
諦めに支配された騎士たちの前で、己の心を奮い立たせるように、顔を上げて、歯を剥き出し、目を見開いて、白鯨を睨みつけて、少年は叫んだ。
自身と大きすぎる敵の力量差は十分に認識している。だが、それでも心は折れてたまるかと叫ぶ。
自分よりも弱く、若く、覚悟もなさそうな少年が叫ぶ。
「――このぐらいの絶望で、俺が止まると思うなよ!!」
「――よく言った! ナツキスバル!」
少年の叫びに反応したかのように、いや実際に空中から声が返ってきたのだ。
見上げれならばそこにいたのも一人の叫びを上げた青年、ナツキスバルとそう歳が離れていない青年は落ちながらも、地面へと手を掲げる。
このままでは生まれるのは肉塊。しかしそのような惨劇は起きず、小さく何かをつぶやくと同時に、地面へと着地をする。
砂煙でよく見えないが、うっすらと見えるのは二つの足でしっかりと立っている一つの影だ。そして、時間をかけて晴れた先にいたのは、
「おいおい、来るのが早すぎるぜ? シャオン。これから俺の大活躍だったのに」
シャオンと呼ばれ、顔をあげたのはやはり一人の青年だ。
髪を一つに束ね、糸目がちな目が僅かに開きこちらをみている。
その顔には疲労の色が多少見え、それと等しく体中は傷だらけだ。だが、
「悪いね、主役の座は譲るから安心しな」
クスリ、とそれらすべてを気にした様子すらなく、答えたのだ。
■
「てか、上空からくるとは聞いていなかったけどな」
「……まさか、投げてくるとは思わなかったな……! あの糞やろう……!」
こめかみに筋を立てて投げてきた当人、ルツを睨む。遠くにいる彼にはこちらの様子はわからないが、念くらいは届いてほしいものだ。
白鯨の姿が見えた瞬間、「先に行け」と呟き、こちらの了承を得ずに全力で白鯨のいる方向に投げ飛ばしたのだ。
とっさに風魔法で流れを変え、衝撃を抑えたがそれでも無理はしたようで、身体の節々が痛い。
ロズワールから飛行魔法は教えてもらっているが、まだまだ改良しなければならない。
「まぁ、その様子だと、あっちは無事に終わったんだな?」
「十分に、無傷とは言えないけどね」
リーベンスを仕留め、スバルたちが全滅する前にこちらに合流できたことは幸いではある。しかし、ルツの投げ飛ばし云々は抜きにしてもシャオンの体は傷だらけだ。
治療の時間が足りなかったのはもちろんだが、シャオン自身に襲い掛かる副作用を考えると、残りの使用できる『癒しの拳』はそう多くない。ならば使う相手はもっと『価値』がある相手に使うべきだと判断した。
ゆえに、現在シャオンの体は治療が施されていない、万全ではない状態である。
そして最良ではない状況に、目の前に広がる光景に思わず頭を抱えたくなる。
「それより、聞いてた話と違うな……3匹とは」
見上げた空には一匹の白い鯨。
そして、それらを囲むように浮遊する同等の大きな魚。事前に聞いていた情報、前回の世界で得た情報と現実は大きく違っているのだ。
シャオンの言葉にスバルは苦虫をかみつぶしたような表情で説明をする。
「敵の隠し玉、ってやつみたいだ……今は、レムがなんとか噛み付いている」
吠えたけるレムが白鯨に猛然と飛びかかり、右の拳を岩肌に突き刺して体をよじ登る。左腕が振り回す鉄球が激しい音を立てて削岩し、血飛沫をぶちまけ、白鯨が苦鳴を上げた。だが即座に振り落とされ、高所から落ちる光景も目に入る。
上手く受け身を取りながらも、無傷ではなさそうだ。
「ヴィルヘルムさんや、リカードさん、クルシュ嬢にアリシアは? 姿が見えないけど」
「リカードやクルシュさんはわかんねぇ。アリシアは、さっき俺らを庇って吹き飛ばされて、ヴィルヘルムさんは……今レムと戦っている奴に飲まれた」
スバルが絞り出した言葉に息を呑む。最悪の可能性が過ぎったがすぐに頭を振り、脳内から追い出し前を向く。
「……さっきの叫びで察してはいたけど、そうか……! なら」
「ああ、でもまだだ。頭が潰れてなけりゃ、どうにか引っ張り出してやれる。急ぐぞ!」
そしてスバルは手綱を引き白鯨へと向かう。
地竜を操るのはレムでなくスバル本人だ。些か扱い方に不安を覚えたが、地竜の賢さにてカバーされ、今も振り落とされてはいないようだ。
これならば事前に聞いていた、作戦、『魔女の残り香』を使った囮作戦でも十分に動き回ることが出来るだろう。
「行くぜ、命名パトラッシュ! 鯨の鼻先でくるくる回れ!」
高らかに叫び、手綱を弾いて地竜を走らせる。応じるパトラッシュが前のめりに駆け出し、強大な白鯨目掛けて恐れを知らずに突っ込んでくれる。
体に取りつくレムを振り落とそうと必死に身をよじっていた白鯨が、しかしスバルの接近を察知して首をこちらへ思わず向ける。
その横っ面に、
「おいおい、新しい客も相手してくれよ――!」
空気が振動し、シャオンの見えない手が白鯨を叩きつぶす。
巨大な顔面がわずかにぶれ、そこに追撃の大気を押し退けて飛来――頬をぶち抜いて口内を蹂躙し、反対側の頬を数本の歯を巻き添えにして突き抜ける。
黄色い体液と鮮血を大量に吹きこぼし、絶叫を上げる白鯨。その身がついに地に落ちると、まるで陸に上がった魚のように見境なしに暴れ回る。
大地が抉られ、土塊が激しく散乱する。振り乱される尾が地を割り、風を薙ぎ、不意打ち気味にシャオンとスバルの二人を叩きつぶそうと真上へと接近――あわや直撃というところで、
「遅刻してくる客の相手は怪物でも見たくないってさ!」
「代わりにレム達がお相手します――!」
金髪を揺らした鬼の少女が打撃の寸前に割り込み、命を刈り取ろうとした巨大な尾をはじき返し、できた隙を逃さないように青色の鬼の少女が全力を込めた一撃で、打ち付ける。
息をつき、助けてくれた二人に礼を言う。
「アリシア! 無事だったか!?」
「鬼の耐久力に感謝したのは何度目っすかね……意識は飛んでいたっすけど。そりゃ、あんなの見せられたら……まぁ? 応えなきゃね、助かったよ正直」
膨れながらもスバルに対してアリシアだが、今来たばかりのシャオンにも、なんなら当人のスバルでさえ首を傾げていた。
それをみて、恥ずかしさを隠すかのように地団駄を踏み、スバルを指差す。
「だ・か・ら! 皆の心が折れていたのに一番早く立ち直ったっすよね? 腹立つけど、凄いと思う」
「あ、ああ。大したことじゃねぇよ。このぐらいで絶望なんて、してやれねぇってだけだ」
「……そ。まぁいいっす、シャオン! スバルの援護頼むっすよ!」
そう言い残しアリシアは地竜を操り、再度白鯨へと向かう。
そして地竜から飛び立ち、白鯨へとまた攻撃を開始している。それに続くように再度レムがまた、白鯨の腹部へと勢いを付けた鉄球を叩きつけている。
たった二人、だがそれでも白鯨は満足に動けていない。
「とんだじゃじゃ馬め……」
「人の娘を悪く言うなよ、事実だけど」
突如、視界が揺れる。
その答えは簡単だ、いつの間にか追いついていたルツが乱暴に頭を揺らしていたというものだからだ。
器用にも地竜に乗りながらシャオンと、スバルの二人の頭を撫でていたのだから、驚きではあるが。
「あ、頭撫でるなよ、地竜の扱いに慣れてねぇんだ、落ちる!」
「わりぃわりぃ! 手ごろでな……オマエがナツキスバルか」
そう言うルツはスバルを見定めるように、目を細める。
あまりいい気分がしないスバルではあったが、地竜の捜査に必死な彼には反論する余裕はなさそうだ。
「ふぅん、身体能力は中の下だが、心の強さはまぁまぁだな。合格、シャオンが褒めるわけだ」
「ルツさん? その前に俺に対して何かないですか? 主に投げ飛ばしたことに」
「男なら細かいこと気にすんなよ、いい男になれねぇぞ?」
非難の眼差しを向けるもどこ吹く風、ルツは悪びれる様子もなく笑いながら投げ飛ばしたことを認める。
その様子にシャオンはこれ以上は何を言っても駄目だ、と半ばあきらめる。
「てか、勝手にスバルの品定めをしないでくださいよ」
「はっ、そりゃ悪い。癖だ」
「いや、俺はまぁ、褒められて悪い気は――っ!」
「――――ッ!!」
真っ直ぐに駆けるパトラッシュの正面、唐突に現れる魚影が大口を開く。
喉の奥、赤黒いグロテスクな内臓まで見えそうな至近で、スバルはとっさの回避行動をとろうと身を傾ける。が、その行動よりも白鯨の口腔に充満する霧が噴き出される方がわずかに――、
「今話してんだろ!その汚い口を閉じろっ!」
「……すっげ」
わずかに、ルツの拳が白鯨を貫く方が早い。
離れていてもこちらの頬が切れるほどの一撃、いくら倍の体積がある白鯨でもひとたまりはないだろう。
しかし、その攻撃のスキは大きく、いま襲われれば回避は間に合わないかもしれない。
あの怪物もそれを理解しているのか、白鯨は吹き飛ばされながらも黄色い魚を生み出し、襲い掛かる。
あの一撃が当たればルツの身体能力あるいは感覚が奪われ、戦いにおいて命にかかわることになるだろう。
だが、彼の顔に焦りはない。
彼ほどの豪傑なら気づいていないわけがない、だが動かない。
慌ててシャオンが動き出そうとしたその瞬間、風が頬を通り抜けたのを感じた。
「遅い――!!」
見えない刃が、横合いから黄色の魚を真っ二つに斬り下ろした。
死体は駆ける三人の後方へと弾かれ、見えなくなる。代わりに、戦場の向こうから駆けてくるクルシュの姿があった。
彼女は走るこちらに並ぶと、白鯨を忌々しげに見ながら、
「一見して、事態は最悪にあるな。ヴィルヘルムはどうした」
「あんたが覚えてるってことは、少なくとも霧にかき消されちゃいねぇ。……ウチの二人、と新しい応援次第だな」
そこで初めてクルシュはシャオンとルツの姿を見やる。
「ヒナヅキ・シャオンに、竜砕きか。頼もしい応援だな」
首をめぐらせ、反転してこちらを追おうとする白鯨を警戒しながらスバルは答える。それを受け、同じように視界をさまよわせるクルシュ。彼女の視線が止まった先にあるのは、地響きを立てて跳ねている白鯨と、その上で懸命に鉄球を振るって血の海を作り出しているレムとアリシアの姿だ。
「……応援を得ても状況は変わらない、がどう見る、ナツキ・スバル」
「どう見るってのは、どういう意味だ? 回りくどく言わないでハッキリってくれると助かる」
「すまないな、癖だ。――おかしいとは思わないか? 白鯨の数が三体に増えた。単純に見れば絶望的な状況にある。だが、もし仮に白鯨が群れを為す魔獣であるのだとすれば、いくらなんでもそのことが誰にも伝わっていないなどあるものか?」
「……仕組みがあると?」
「そうだ」
シャオンの問いにはっきりと断言し、クルシュはその凛々しい面差しをスバルへ向ける。
自然、その強い眼差しに射抜かれて、スバルは背筋を伸ばし、
「それを、見つけろってことか」
「時間稼ぎは卿の逃げ足と、それを援護する形で我々が行う。いずれにせよ、そう長くはもたない。なんとかするぞ――撤退など、もはや選択肢にないのだから」
言い切り、クルシュの地竜が方向を変えてスバルから離れていく。
彼女は大きく迂回し、睥睨する白鯨を回り込みながら、次々と散り散りになっていた討伐隊の各隊の下へとめぐり、指示を出していった。
「ま、そう難しく考えるな。簡単な話だ。俺らが全力で、命を賭けてお前を守るから、その間に答えを見つけろ」
鋭くスバルを見るルツの視線は、冗談を言っているようには見えない。
身を引き締めた、かと思うと、ルツは年には似合わない少年のような人懐っこい笑みを浮かべバシバシと背中をたたいた。
「なに、たどり着くのが遅かったら死ぬのはみんな同じだ。安心して、囮になれ」
「安心できねぇ……てか、いてぇ! 鬼だって忘れんな!」
「俺は鬼じゃねぇよ、愛する女房のほうが鬼だ、まぁ鬼可愛いんだが、いや、むしろ俺が鬼になるレベル」
「惚気んな! 若干シモも入ってるし!」
叫ぶスバルにルツは再度笑みを浮かべて答える。
「ま、簡単な話だ、この中で一番弱いだろうお前さんが、今生きている。ってことはちゃんとみんなお前さんを見てるわけだ」
そう、騎士たちはスバルの存在がこの白鯨を倒すキーパーソンになることを把握しているのだ。
自身は二の次にしてスバルを守り、あの怪物を倒してくれるように、無念を晴らしてくれるように、祈っているのだ。
だから――
「安心して、無様に、大胆に、囮をやってくれ。お前たちにはあのでかい怪物に触れることはさせねぇ――『竜砕き』の名と、まぁ、じゃじゃ馬娘の父親ってことに懸けてな」
応えなくてはいけない、散って言った命に応えるために。
報いなければならない、この作戦に賛同したすべての仲間たちのために。
「――――頼むぜ、パトラッシュ。もっぺん、鼻先まで行って即離脱だ!」
地竜が斜めに傾いで地を削り、鋭いターンを切って再度、白鯨目掛けて突貫する。
シャオンも持ち主がいなくなった地竜を見つけ、飛び乗り即座に追いかける。
追い越さず、おいてかれない様にしつつ、白鯨の一撃から守る。レムが今までやっていただろう役割をシャオンが受け継ぐ形だ。
眼前、体に取りつくアリシア達を振り落とそうと躍起になる白鯨に、クルシュと別れた混成小隊が援護の攻撃を入れている。騎士剣で火花を上げて白鯨の外皮を削り、距離をとりながら巨躯と並走する騎兵が魔鉱石による爆撃を加える。
絶叫を上げ、地べたを白鯨がのたうち回る。その痛みに悶える挙動ですら、間近にいる人間にとっては避け難い暴力だ。
背筋に寒気が走る。あの巨体に巻き込まれて死んだ仲間も、シャオンが見ていないだけで多くいただろう。
だが、目をそらすことはできない。逃げずに、立ち向かうとスバルが決めたのだからそれに寄り添うのがシャオンの役目なのだ。
「――――ッ」
暴れる白鯨が、こちらの接近を察して全身の口を開ける。
ゾッと血の気が引く感覚を味わいながら、地竜の全力に信頼を預けて風を切る。――その真横を、無数の口から放たれる『消失の霧』がかすめていく。
仮に指一本にでも触れれば、そこから掻き消されて終わりだ。全身を『死』とは異なる、喪失感に取り巻かれる想像が心胆を震え上がらせる。
だが、
「アル・フーラ」
――それがどうした。
風の魔法が霧を払い、それと同時に、氷のつぶてが白鯨に突き刺さる。そして、直後に騎士たちの援護で霧の弾幕がわずかに薄まる。それに合わせて地竜の動きは流動的に変化する。
ふと横に目をやると、そこには慣れない地竜の操作に想像以上に体力を持っていかれているのか、息を荒げるスバル。その様子は下手をすれば落ちてしまいそうだ。頭を回す余裕はなさそうだ。で、あれば作戦を考えるのはシャオンの役目だ。だが、
「……くそ、なんで事前情報と違う。いや、それじゃない、なんで急に増えた?」
三体の魔獣――白鯨について、無知なままだ。故に『霧』の脅威についても、その存在の長きにわたる歴史についても、この世界を生きてきた彼女らにはまったく追いついていない。
しかし、今まで誰も『白鯨は複数存在する』というような致命的な情報を見落とすものだろうか。仮に知られていなかったとすれば、これまでの同時に出現するような状況はあり得なかったのだろうか。
「……もとから三匹、はない。幻影? いや、実態のある幻影はねぇ……」
なにか、とっかかりが掴めそうな気がする。が、その前にパトラッシュの懸命な疾走が白鯨の嗅覚範囲に到達。
宝剣の斬撃で下腹を切り裂くクルシュを追っていた白鯨の視線が、ぐるりと大きくめぐってスバルの方へと向けられる。同時、開かれた口腔に溜め込まれた濃霧が、大気を打ち破る咆哮とともに膨大な破壊となって吐き出された。
それを風魔法で逸らし、逸らしきれなかった部分を氷の盾で弾く。
戦力が減少し、減らした数をさらに二つに分けて抗っているのが現状の戦局だ。スバルによる撹乱の効果があるとはいえ、空に浮かぶ白鯨がどちらかの戦場に加勢すれば、それだけで戦局は一気に傾く。片方が食い破られれば、それで終わりだ。
それなのに、あの白鯨がなにもしないわけは――。
「さっきの一撃」
引っかかったのはシャオン達を襲った一撃。アリシアが一人ではじいたあの一撃だ。
――いくら鬼の力とはいえ、一人ではじくことができるのだろうか?
地竜の揺れに身を預け、再び白鯨の鼻先を突っ切る。クルシュたちに取りつかれていた白鯨が口腔をこちらに向けるが、開いた口の中にクルシュの見えない斬撃が、魔鉱石が投げ込まれて血霧が飛び散る。
騎士たちの雄叫びが上がる。ひとり、またひとりと確実に数を減らされながら、尽きることのない士気だけが今や戦線を支えていた。
死を目前にしながらも、抗う覚悟を決めた人間はここまで強くなる――なんてことでは済ませられない。なにかがあると、シャオンは思い直し、故に、1つの考えに行き着いた。
そして答え合わせをするように、上空を見上げる。次いで今まさにこちらを襲った白鯨、遠くで別の部隊に襲い掛かる白鯨の姿を見る。
その決定的な違いは――
「スバル、一体、動いてない」
「……まさか」
歯を噛み、行き着いてしまった可能性にシャオンの全身を震えが走る。
スバルもこちらの言葉の意味を理解したのか、表情を変える。
白鯨の頭部側へ回り込むと、スバルの接近に気付く魔獣が頭をこちらへ向けた。頭部の真横、目の下あたりに出現する複数の口が牙を剥き出し、涎を垂らしながら白い霧を噴出する。
だが、明らかに遅く。牽制にもならないその一撃は地竜を上手く操り回避することも容易だ。
「――答えは簡単だ、白鯨は3匹いた、ではなく増えた! 分裂ってことだ」
「道理で、クルシュさんたちと戦った白鯨にも”左目”がなかったわけだ」
スバルの言う通り、白鯨は今全員、左目がない状態にある。
同じ傷を一匹だけでなく、他の二匹も共有している理由など、はっきりしている。空に浮かぶ一匹が分裂し、もう二匹を生み出したからに他ならない。
「一発が軽いのも、ある程度戦えちまってるのも、そういうカラクリだな!」
不意打ちにも関わらず、尾の一撃でアリシアを殺し損ねたこと。
あれほどの戦力で拮抗していたはずの白鯨が、兵力の激減した討伐隊である程度戦えてしまっていること。
――スバルから聞いた話が、一つの解へ、導く。
『消失の霧』という一撃必殺を持つが故に、白鯨は耐久力を犠牲にして手数を優先した。数の暴力――その威容が増えたことで、討伐隊の心が折れるのであればそれで戦いそのものすら終わっていただろう。
魔獣という存在が人間の機微を理解してそんな作戦を打ったとも考え難いが、事実としてそれだけの効果が『分裂』には存在した。
現状、先ほどまでの討伐隊のメンバーは心が完全に折れていた、スバルの激が飛ばなければ、白鯨の予想通りの展開になっていただろう。
白鯨の人間の悪意の塊のような、厭らしさはまさに害獣。
自然にできたというのならこの世界の仕組みに、造った人物がいるというのならその性質の悪さを想像し、恐ろしく思う。
そんなことをを考えていると、事態がさらに動いた。
突然、白鯨の胴体が大きくたわみ、くびれの生まれた白鯨の体内で圧迫感に耐えかねた内臓がいくつも押し潰される。硬質の外皮も歪み、亀裂が走り、傷口の至るところから再出血し、白鯨にこれまでで最大のダメージ――そして、
「――ずぁぁぁああああ!!」
地面に擦りつけられていた下腹の一部が内側から膨らみ、血肉をぶちまけて切り開かれた。赤黒い体液が地面に濁流のように噴出する中、その流れに乗って外に吐き出されるのは――、
「ヴィルヘルムさん!?」
スバルの叫びと共に出てきたのは、白鯨の顎にひと呑みにされ、そのまま生存が絶望視されていた老剣士の帰還だ。
暴れる白鯨を討伐隊が押さえる中、駆け戻るスバルは倒れ込むヴィルヘルムの下へ。全身をおびただしい血で汚すヴィルヘルムは片膝を着き、突き立てた剣を支えに半身を起こしながら、
「……未熟。油断を、しました……」
「喋らなくていいって! ああ、クソ、どうしたらいいかわかんねぇけど、とにかく生きてんならなによりだ。シャオン、治療頼む」
手を差し伸べようとして、スバルは剣を握る右腕と反対――ヴィルヘルムの左腕が、肩から先がほとんど千切れかけていることに気付いて、地竜の背を降りる。そのまま肩を貸してヴィルヘルムをパトラッシュへ乗せようとするが、
「ま、だ。まだまだ、私は……」
「言ってる場合かよ! 鯨の前にあんたが死ぬぞ! このぐらいじゃ死なねぇとか眠たいこと言うのも聞かねぇ! 生き死にに関しちゃ俺の方が先達だ!」
「いや、スバル。気持ちはわかるが」
満身創痍でありながら、その双眸から戦意の灯火を消さないヴィルヘルム。その彼の無謀を一喝して黙らせるスバルをどかし、シャオンは拳を軽く当てる。
すると、まばゆい光と共にヴィルヘルムの負傷が、まるで最初からなかったかのようにふさがっていく。それに反して――
「シャオン……お前、大丈夫か」
「び、みょう。案外これ、副作用が、重いんだよ……!」
心臓の痛みと、鼻から流れる鉄臭さがこれ以上の使用は危険だと伝えてくる。それを無視して無理やり『癒しの拳』を使用する。
ある程度傷が治るのを確認すると、シャオンは首を傾け、腹が裂けた白鯨を見る。腹の傷は深く、そこからとめどない体液の流出はあるものの、全身の口を開閉して淡い霧を生み出す魔獣の姿からは戦意が喪失する気配がない。
「……ヴィルヘルムさんも回復はしたし勝算は、あると思う。とりあえず、……レムとアリシアとルツさん、あとはクルシュさんか。リカードにも声をかけたいが仕方ねぇ……とりあえず主だった奴らに声をかけなきゃな」
傍らのパトラッシュの背に飛ぶようにまたがり、スバルは顔を上げる。
見上げた空、悠々と泳ぐ魚影を忌々しげに睨みつけて。
「カラクリは見つけた、あとは破る方法だ」
ようやく見えた光明に、口角をあげながらそう呟いた。