01.やはり彼はその部活へと導かれる。
チャイムが鳴って午前最後の授業が終わり、
頬杖をついてその姿勢を維持する八幡をよそに、教室内は喧噪に包まれていた。
高二に進級して間もないこの時期、クラスメイトの多くは新たな知己を得ようと積極的な行動に出ていた。しかし八幡はそんな事には興味がないのか。あるいは、どう行動すれば良いのか分からず様子見に徹しているのか。席に座ったまま動かない。
そんな八幡の前に、先程まで教壇に立っていた国語教師が現れた。
「比企谷。話があるので職員室まで来てくれるかね」
「はあ。まあ、いいですけど」
「あまり時間は掛からないと思うが、弁当があれば持って来ても構わない。お茶ぐらいなら出してやろう」
「うす」
鞄の中から弁当を取り出して、そのまま
普段の八幡はパン食だが、今日は例外だ。なぜか妹の
八幡を気遣うセリフをいたずらっぽく口にして、最後に照れ隠しなのか「今の小町的にポイント高い!」と付け加える妹の姿を思い浮かべているうちに。
二人は職員室へと辿り着いた。
***
書類が散乱している机の前で立ち止まると、平塚はくるりと振り返った。動きながら、紙の山で埋もれそうになっている付箋つきの原稿用紙をちらりと確認して。机に片手をついた姿勢で、立ったまま生徒と向かい合った。
「さて、比企谷……の前に。君の目が濁っているのは元からだが、今浮かべているにやけ顔も、他人にあまり良い印象を与えないと思うぞ」
いきなり本題に入る予定の平塚だったが。八幡の表情が目についたので、まずは指摘を口にした。
平塚は生活指導の役職も兼ねている。本人曰く「若手の仕事だから。私はまだ若いからな!」との事だが、体よく厄介事を押し付けられたのだろうと生徒たちは噂していた。とはいえその親身な応対には、学生のみならず保護者からも評価が高い。
妹を思い出してにやけ顔だった八幡は、まじめな表情に戻してこくりと一つ頷いた。内心では、またやらかしてしまったかと冷や汗が流れる思いがする。
口を開くと変な声が出そうだったので、無言を貫くことにして。じろりとした目を向けて話を促すと、教師は机の上に手を伸ばしながら口を開いた。
「ふむ。で、本題なのだが。君が書いてきたこの作文は何かね?」
「えと、春休みの宿題でしたよね。『高校生活を振り返って』って、たしかに表現力が未熟かもしれませんが」
「表現力以前の問題だよ。なぜ君の作文は『リア充爆発しろ』という結論になるんだ?」
鋭い眼光が八幡に向けられる。
生徒と同じ目線で向き合ってくれるので話しやすいと評判の平塚だが、やはり生徒とは潜ってきた修羅場の数が違う。婚約者に家財道具を持ち逃げされても人前では決して涙を見せなかったという逸話は、伊達ではないのだ。
平塚の迫力を間近で受けて。さらには容姿の整った大人の女性からの視線を一身に浴びるという状況ゆえに。八幡のコミュニケーション能力はあっさりと崩壊した。
「さ、最近の高校生なら、しょんなもんじゃないですかね?」
「最近の高校生か。ならば最近の高校生たる君は、友達はいるのかね?」
「あの、平等主義なので、親しい友人は作らにゃい事にしてるんですよ」
「君はたしか部活はやっていなかったな?」
「ひゃい」
どもりながらも何とか返事をする八幡とは対照的に、平塚は笑顔すら浮かべている。
一連のやり取りで機嫌を直しただけでは、ここまでしてやったりの表情にはならないだろう。宿題を餌にまんまと話を誘導したのだなと、八幡が気付いた時には後の祭りだった。
少しだけまじめな顔に戻って、教師は生徒に告げる。
「宿題は書き直しをしてもらう。が、君の抱える問題は耳障りの良い文章を書き並べても解決しないと私は考える」
「はあ。でもじゃあ、どうすればいいんですかね?」
「比企谷には奉仕活動をしてもらう。具体的には、君をある部活に入れようと思う」
「えっ。……部活?」
「弁当を持って、ついて来たまえ」
***
渡り廊下の先にある特別棟。その中の何の変哲もない教室の前で立ち止まり、平塚はからりと戸を開けた。
端のほうに無造作に積み上げられた机と椅子。入り口の近くには長机と、椅子がいくつか置かれていた。そこに座って一人で本を読んでいる女子生徒の姿が、八幡の目を捉えて離さない。
春の日差しを浴びながら読書しているその女子生徒は、たとえ世界が終わっても変わらぬものがあると主張しているかのように。はるか太古から永遠に存在し続けているかのように、そこに佇んでいた。
偉大な絵画を前にした時のように、見る人の意識を有無を言わさず奪っていくだけの存在感が彼女にはあった。平塚のような完成された大人の美とも違う。未完成で儚いがゆえに目を逸らせない、そんな美を体現している怜悧な顔つきの女子生徒が、そこにいた。
「平塚先生。ノックをお願いしたはずですが?」
「すまんな。入部希望者を連れていたのでつい忘れていたよ」
「お一人の時もノックをされた事はなかったと記憶していますが。それはそうと入部希望者、ですか?」
「うむ。彼は比企谷八幡。君のところで、もう少し他人と関わって欲しいと思ってな」
「え、ちょっと待って。俺、入部する気はないですけど?」
当事者をよそに話が進みそうだったので、あわてて会話に参加したものの。八幡の意識は女子生徒に向いている。
ここ千葉市立総武高校には、普通科が九クラスと国際教養科が一クラスある。普通科よりも偏差値が高い国際教養科においても、彼女の存在は飛び抜けていた。入学以来、定期テストでも実力テストでも首位を明け渡した事のない才女。さらにはこの類い稀なる容姿。
八幡とて才女や美女とお近付きになる事に否やはないが、いかんせん相手が凄すぎると尻込みするのが世の常だ。ゆえに八幡は呆れ顔の二人を尻目に、戦略的撤退を目的とした行動に出る。
「それに見たところ女子一人みたいですが、男女一人ずつだと学校的にも問題じゃないですかね?」
「ふっ。貴方が私に指一本でも触れられると思わない事ね」
「そもそも君には女性を口説く為の度胸も技術も経験もないだろう。保身優先の君が暴力に訴えるとも思えないしな」
「なるほど」
「納得しちゃうのかよ……」
「分かりました。先生の依頼なら無下にはできませんし、入部を許可しましょう」
「うむ。では雪ノ下、後は頼む。君も頑張りたまえ」
***
一瞬で敗北が決まった八幡に素敵な笑顔を見せて、平塚は教室から去って行った。その手にはしっかりと、生徒に書かせたばかりの入部届が握られている。
しばらくは弁当片手に、なすすべなく突っ立っていた八幡だが。勇気を出して、近くの椅子にそっと腰を下ろした。幸いなことに今のところお咎めの言葉は飛んでこない。はぁ、とため息をひとつ吐いて、頭を上げる。
ちょうど長机の長辺と等しい距離を置いて、八幡は雪ノ下と向き合った。
「あー、悪いけど昼飯がまだなんだわ。弁当を食わせてもらっていいか?」
「ええ、構わないわ。……良かったらお茶でも淹れましょうか?」
「あ、もらえるなら助かる。てか平塚先生、お茶ぐらい出すって言ってたのに他人任せかよ」
「あの先生らしいわね。申し訳ないのだけれど、紅茶と違って煎茶はTea bagしかなくて」
「淹れてもらえるだけで充分だから、まあ、なんだ、頼む」
予想外に会話が滑らかに進むので、八幡は内心で首を傾げていた。他の生徒とは違って雪ノ下からは、こちらを見下すような気配を感じない。先ほど口にしたように、先生からの依頼なので無下にはできないという事だろうか。
依頼という言葉からクライアントという単語を連想して、ひとまず八幡はこの距離感に納得した。そしてカタカナ語を思い浮かべたせいで、ティーバッグの発音がとても綺麗だったなと思い出す。
しばらく無言で弁当をかき込んでいると。
紙コップのお茶を置きに、すぐ近くまで来てくれた。
髪や制服が触れないようにと気をつけている雪ノ下の姿と、無防備に漂ってくる甘い香りに接して。頬が急激に熱を帯びていく。
自分の顔を弁当箱で隠すようにして、残りを一気に口に入れた。余計なことを考えないように、必死でもぐもぐと咀嚼する。
弁当箱を机に置くと、雪ノ下はもとの席に戻っていた。その姿を見て再び湧き上がりそうになる羞恥心をごまかすように、八幡はあわてて口を開く。
「そういや、ここって何部なんだ?」
「あら、平塚先生から聞いていなかったのかしら?」
「なんか上手い具合に丸め込まれて有無を言わさず連れて来られた」
「そう。なら教えてあげましょう。ようこそ奉仕部へ」
「えっ。……奉仕、部?」
「ええ。助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事。それが奉仕部の理念よ」
「はあ、面倒なこって」
「それは聞き捨てならないわね」
急激に室温が下がった気がして、八幡は思わず身震いする。
何が逆鱗に触れたのだろうか。決まっている。「面倒なこって」という発言だ。
では何故。
奉仕部の理念とやらを、つまり手段重視を否定したと思われたのか。あるいは、助けを求める人に奉仕する行為を否定したと受け取られたか。
つい先程まではビジネスライクな関係だった二人の間には、冷たい空気が充満していた。
八幡には人間関係がわからぬ。八幡は、一介の高校生である。同級生に疎まれ、一人でぼっちとして暮らして来た。けれども自分を見下す目には、人一倍に敏感だった。
被害を少しでも抑えるために身につけたその感覚は、逃げる目的でみがいたものだ。反撃をしたり、状況を根本的に解決する術を、八幡は持たない。
そもそも、他人から侮られる原因が自身の言動にあるのは分かっても。八幡にしてみればなぜ彼らが「俺に対してだけ」豹変するのか分からないのだ。
いくら小説を読んだところで、そうした他人の感情は理解できなかった。分かるのは、自分が理不尽な目に遭いやすいという現実のみ。ゆえに八幡はこの歳にして人間関係を諦め、ぼっちとして過ごすと決めたのだった。
逃げることの叶わない、まるで魔王と遭遇したかのような現状を八幡は俯瞰した。単に現実逃避をしただけとも言うが、こちらを睨みつける女子生徒を当事者ではなく傍観者のような感覚で眺めていると。その怒りが純粋だからこそ、雪ノ下の至らぬ部分が見えてきた。
たしかに威圧感は凄まじい。資質もあるのだろうし、数年後には魔王の域に到達していても不思議ではない。
しかし、今はまだ……。
「どこまで感謝されるかも怪しいのに、人助け、ねぇ」
極寒の中で見つけた一筋の光を、八幡は信じることにした。雪ノ下から感じる魔王の片鱗と、一般的な奉仕の精神との間に違和感を覚えたのだ。
両者の溝を埋めるための理念なのだろうが、どうにもしっくり来なかった。むしろ傍若無人に結果を提示するほうが、雪ノ下らしいとすら思えてしまう。
だから八幡は、外れて元々という気持ちで「人助け」という部分に賭けた。雪ノ下を怒らせた原因はそれだと決め打ちして、あえて挑発的な言葉を口にした。
頭ごなしに怒気を向けられて、いらだつ気持ちも確かにある。それでも今までなら、罵倒が済むまで黙って大人しく耐えていたはずだ。けれど今は、雪ノ下の真意をもう少しだけ知りたいと思った。
わざわざお茶を淹れてくれたからか。こちらを見下すことなく普通に接してくれたからか。あるいは全く別の理由なのか。いずれにせよ、なぜか八幡は、雪ノ下の真意をもう少しだけ知りたいと思ってしまった。
原因と思しきものを列挙するのが精一杯で、それ以上はどうやっても他人の感情を理解できなかった八幡が。今は自身の感情に身を委ねて、感覚的に言葉を紡ぐ。意外な反論に驚いている雪ノ下が何かを言う前に、言葉を繋ぐ。
「そりゃ、お前みたいな黒髪美人が手助けしてくれたら、大抵の奴らは感謝するだろうよ。けどな、そいつらの大半はお前の姿を見て感謝してるだけだ。考えてみろ。もし俺がお前と全く同じことをしたとして、お前に向けるのと同じ目を俺に向けると思うか。ありえねーよ。お前と同じことをしても俺は罵倒される。良くて嘲りの目を向けられるのが関の山だ。なら、人助けの内実に何の意味がある?」
「……貴方が言いたいことは解ったわ。確かに一理あるのは認めてあげましょう。でも。でもそれじゃあ、誰も
意外な返答に、今度は八幡が驚いた。相手は学年一位の才女だ。完膚なきまでに論破され罵倒されて話が終わるのだろうと身構えていたのに、見えたのは雪ノ下の違った一面だった。
人助けの話をしていたはずなのに、どうして受動態で話すんだ?
そんな疑問を抱く八幡と、言いたいことを口にし終えた雪ノ下が、身じろぎもせずにお互いを見据えていると。
唐突に、ノックもなく、教室のドアが開かれた。
次回は24時間後に投稿の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
進学→進級に修正しました。(5/9)
改行を多めに変更しました。内容の変更はありません。(5/19)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)
改めて推敲を重ね以下を付け足しました。大筋に変更はありません。(2018/11/17)
■細かな元ネタの参照先
「家財道具を持ち逃げされ」:原作1巻p.75
「八幡には人間関係がわからぬ」:太宰治「走れメロス」