俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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本話も文字数が多めで少しシリアスな話が含まれます。ご注意下さい。

以下、前回までのあらすじ。

 由比ヶ浜と一緒に八幡の帰りを待っていた雪ノ下は、自分と葉山の関係や小学生の時の出来事を伝えた。内心の動揺を誤魔化すために八幡が口にした言葉は、自分が悩んでいたことは昔の話であり、第三者からすればそれほど深刻な話ではないという気付きを雪ノ下にもたらす。そんな雪ノ下の復調を受けて、由比ヶ浜も小町も普段の調子に戻って行った。

 続けて八幡が陽乃対策の必要性を主張し、案を述べる。雪ノ下の了承を得て、更には危険な話ではないと説明して由比ヶ浜から了解を得て。最後に小町の心配を、プランの運用者である雪ノ下への信頼を理由に退けて、対陽乃の基本方針が決まった。

 その後はバンドの打ち合わせをして部室で練習を行って、濃密な一日がようやく終わった。



09.めざすべき方向を彼と彼女はそれぞれ見据える。

 一夜明けた木曜日。比企谷八幡が教室に入ると、この日も由比ヶ浜結衣が忙しなく動き回っていた。八幡には見覚えのないクラスメイトと話していたかと思えば、所属するトップカーストの面々に近付いて何かを相談して、今度は立ったままで誰かにメッセージを送ろうとしている。

 

 そんな由比ヶ浜の邪魔にならないようにと、八幡は可能な限り気配を消して自席まで移動して、ゆっくりと周囲を見回した。クラス内の雰囲気はそれほど緊迫しておらず、ばたばたと動いていた割には由比ヶ浜の表情からも余裕が窺える。そして何よりも残念なことに戸塚彩加の姿が見えない。おそらくは朝練の真っ最中なのだろう。これらを勘案して八幡は、事は切迫したものではないのだろうと結論付けた。

 

「あ!」

 

 自己の存在感を無に近付けたまま周囲を観察していたはずが、メッセージを送り終えたらしい由比ヶ浜と目が合ってしまった。仕方なく軽く手を挙げて「お疲れ」という意図を伝えると、由比ヶ浜は心持ち首を傾けることで「お昼は部室で大丈夫?」と尋ねてくる。それに小さく頷いて応じると、由比ヶ浜は笑顔で「よしっ!」と口にして、ぱたぱたと小走りで廊下に出て行った。他のクラスに用事があるのだろう。

 

 昨日の夕方であれば、由比ヶ浜が事情を説明に来ないことで精神的なダメージを受けていたかもしれない。自分が要らない子ではないかと落ち込んでいたかもしれないが、カラオケから自宅での会合までを経て、八幡はすっかり普段の調子を取り戻していた。だから根拠に乏しいことで悩みはしないのだが、下手に心理的な余裕があるせいで、今の八幡は根源的な悩みと向き合える状態にあった。

 

 

 今朝の由比ヶ浜が何を理由に動き回っているのかは判らない。先程から確認している通り、問題は深刻なものではないのだろう。では何故、おそらくは些細な問題の解決の為に、由比ヶ浜がここまで動かなければならないのだろうか。

 

 誰にも話しかけられないように机に突っ伏して、寝不足だから邪魔をするなという雰囲気を最大限に醸し出しながら、八幡は独り思索に沈んでいく。

 

 昨日の生徒会長との話を八幡は思い出す。文化祭に向けて替えが利かない人材を問われた八幡は、城廻めぐりと雪ノ下雪乃の名前を挙げた。続いて戸塚が、八幡と由比ヶ浜と生徒会役員の名を挙げた。自分の名前が含まれているのが何やら面映ゆいが、それにしてもこれだけ大勢の生徒が居るのにたったこの程度かと八幡は思う。一年生にまだ遠慮があり、三年生が受験優先だとしても、もう少し頼れる人材が居ても良いのではないか。

 

 もちろん、クラスの出し物の為に必要だという理由で実行委員に入っていない人材も居るのだろう。二年F組なら海老名姫菜がそれに該当する。もし彼女が実行委員会を手伝ってくれれば、きっと有能な戦力になっただろう。布教活動が大規模になるという負の側面から目を逸らしながら、八幡はそんなことを考える。

 

 だが、話をクラスに限定しても、やはり状況は同じではないかと八幡は思った。このF組の中で文化祭に向けて外せない人材は、劇の主役を務める二人(戸塚と葉山隼人)、監督・演出・脚本を兼ねる海老名、クラスに睨みを利かせる三浦優美子、そして人間関係のトラブルに強く各々が動きやすい環境を作ってくれる由比ヶ浜ぐらいだろう。

 

 葉山グループの一員としてクラス内ではトップカーストに位置する男子生徒達は、葉山にとっては必要かつ有用な連中なのだろうが、個々で考えると必須の人材ではない。かろうじて戸部翔がムードメーカーとしての役割を期待できる程度で、他の二人は表舞台に立ちたくない理由でもあるのかと言いたくなるほどだ。

 

 もしかすると男子だけの場では違った姿を見せるのかもしれないし、五月に主にクラス内で広まった嫌な噂の後遺症が今なお残っているのかもしれない。そうした扱いに慣れている八幡とは違って、目に見えない誰かからの悪意に初めて晒されたのなら(実際は、それを悪意と自覚できぬまま他者に向けて、それがもたらす影響に怯えてしまったからなのだが)、考え方や行動が変容することもあるだろう。

 

 ともあれどんな理由があるにせよ、そうした彼らの立ち位置は同じくトップカーストに属する三浦たちからの扱いでも明らかだった。だが、その話は今はどうでも良いことだと思い直して、八幡は思考を元に戻す。

 

 

 雪ノ下が文化祭の成功に向けて、並々ならぬ闘志を燃やしているのは知っている。おそらくは姉の存在が原因なのだろうが、今のところそれは良い方向に作用していると八幡は考えていた。

 

 だがそもそも、たとえ雪ノ下にどんな理由があろうとも、そして奉仕部として依頼を受けた状況であったとしても、雪ノ下がここまで個人の時間と労力を費やす必要は果たしてあるのだろうか。

 

 もちろん雪ノ下にしてみれば、ほんの些細な労力なのかもしれない。しかし、あの質も量も桁外れの文化祭対策マニュアルを一晩で作れるからといって、その恩恵を安易に享受するだけで良いのだろうか。むしろ雪ノ下は、その一晩という時間を他に向けるべきではないか。職場見学の際にゲームマスターが雪ノ下本人に伝えたように、もっと別の有意義なことに時間を費やすべきではないか。それだけの才能が、価値が雪ノ下にはあると八幡は思う。

 

 

 簡潔に言ってしまえば、高校の文化祭ごときの為に雪ノ下と由比ヶ浜を酷使するのはあまりに勿体ないではないかと、八幡は疑問を持ってしまった。

 

 とはいえ、当人達に文句がないのであれば、八幡に二人を止める権利はない。そしておそらく、二人に否やは無いのだろう。では、八幡は。

 

 

 八幡は改めて、己の行動を振り返る。二人が文化祭のために動いていたから自分も動いていたのだろうか。一部分は正しいが、それが全てではなかったと八幡は思う。では依頼だから動いていたのか。それは確かにその通りだと八幡は思う。

 

 まだ二週間も経っていない、夏休み最後の土曜日に行った勉強会のことを八幡は思い出す。あの時に八幡は心中でこっそりと「次の依頼でも結果を出す」ことを誓った。それは何故か。目に見えた結果を出したいと思ったから。それは、何か他人に誇れるものを得たいと思ったから。それによってようやく自分を、そして他人を信じられるようになると思ったから。そうして初めて、自分に好意を向けてくれるごく僅かな人たちと、きちんとした形で向き合えると思ったから。

 

 では、今の自分はあの二人と、きちんと向き合えていないのだろうか。その通りだと八幡は思う。だから歪な受け止め方をしてしまうのだ。誰かに嫉妬をしたり、こんな風に二人を摩耗させるなと考えてしまうのは、その根本的な原因はそこにあると八幡は思う。

 

 では、あの二人と一緒に依頼と向き合ったり仕事をしたりバンド練習をしている時に感じる気持ちもまた、間違ったものなのだろうか。あの時間を楽しいと感じている自分は……。

 

 楽しいなぁ、と。そう口の中で呟いた。誰にも聞こえないはずの音量で。机に突っ伏したまま。

 

 そう。楽しいのは間違っていない()()だ。そこが崩れてしまえば何もかもが無意味になる。その恐怖感に背中を押された部分はあったにせよ、八幡は心中に湧き起こった疑問を退ける。今のままでも、二人ときちんと向き合えていない自分でも、楽しいと思うことができる。それはあの二人の魅力が為せる業なのだろうし、だからこそ、二人ときちんと向き合えた時にどんな感情を抱くのか、それを知りたいのだと八幡は思う。

 

 ではその為には何でもやるのかと自問して、八幡は沈黙する。そしてふと、二人の扱いに不満を抱いたのは、単なる自己の投影ではないかと思い付いた。自分と彼女らを同一視して、あたかも自分が二人と同じ状況に陥っているかのように考えて、ゆえに過剰反応したのではないかと八幡は推論を立てる。

 

 なぜならば、どうでも良い連中のためにどうして自分の時間や労力を費やさなければならないのかと考えているのは、他ならぬ八幡自身だから。

 

 それがあの二人の為ならば、あるいは八幡とも面識がある彼女らと親しい連中のためであれば、それも良いと八幡は思う。顧問が認めた依頼人のためならば、それもありだと八幡は思う。だが文化祭の為とはいえ、そして彼女らの為という部分も依頼だからという部分も確かにあるとはいえ、どうして自分が有象無象の全校生徒のために働かなければならないのか。

 

 問題の本質はここだと考えて、八幡は再び当初に提起した課題に戻る。おそらくは程度の問題だ。だがだからこそ限度というものがある。もしもあの二人が倒れてしまうようなことがあれば、事態があの二人の意に沿わぬ方向に進むのであれば、自分は断固としてそれらの解消のためだけに動こうと八幡は思った。

 

 

 気が付けば朝のホームルームが終わって、この日最初の授業が始まろうとしていた。

 

 

***

 

 

 昼休みにいつも通りに気配を殺して教室を抜け出して、八幡はゆっくりと部室に向かっていた。雪ノ下と二人きりになることに、少しだけ気後れする気持ちがあったからだった。とはいえその原因は雪ノ下にあり八幡には無い。

 

 昨夜、八幡の家のリビングで真面目な話が終わって雑談が始まった時に、八幡は思い付きでカマクラを連れて来て雪ノ下へと託した。それは本当に良い思い付きだったと八幡は考えているし、事実雪ノ下は一日の疲れが吹き飛んだと言いたげな表情で、優しくカマクラをあやしていた。

 

 だが、色々と破壊力が高かったのも確かだった。カマクラの前足を両手で持って、ギターの話をしながらピッキングの動きをさせたり、ドラムスの話をしながらドラムロールをさせたり。それらの音を口ずさみながら披露するものだから、他の三人はほとほと反応に困ってしまった。

 

 楽しそうだし可愛いし面白いからこのままやらせておこうと視線だけで意思統一を果たして、雪ノ下の動きを一切遮らず何事も起きていないかのように振る舞ったのは良かったのか悪かったのか。部室に移動して練習をする段になっても猫と一体化したままの雪ノ下からようやくカマクラを取り上げて、それまでの行動の記憶が一気に脳裏に浮かんだのだろう。雪ノ下は静かにぷるぷると震えた後で、何事も無かったかのように移動を宣言した。

 

 そして昨日の今日である。八幡は部室の近くで立ち止まって、静かに由比ヶ浜の到来を待った。

 

 

「ヒッキー。なんで先に行くし!」

 

 しかしようやく現れた待ち人は、この日はひどくお怒りだった。だが由比ヶ浜がいつも以上に怒っている理由が判らないだけに、八幡は首を傾げて説明を求める。ぷんぷんしながら由比ヶ浜が口を開いた。

 

「だって朝、『お昼は部室まで一緒に行こ?』って尋ねたら、頷いてくれたじゃん!」

 

「いや、ちょっと待て。俺は『お昼は部室で大丈夫?』って意味に受け取ったんだが」

 

「それだったら毎日のことだし、こんな風に軽く頷きながら目だけで尋ねればいいじゃん。こうやって首を横に動かしたんだし、いつもと違う話だなって……ってごめん。よく考えたら無理かも」

 

 由比ヶ浜の可愛らしい仕草に内心ではドキドキしながらも、話しながら冷静に戻ってくれて良かったと八幡は思った。とはいえ、朝方の由比ヶ浜が嬉しそうにしていた理由を理解してしまい、八幡は少しだけ申し訳ない気持ちになる。だが「お昼は部室」までは伝わっていたのだしとポジティブに受け止めた由比ヶ浜がそのまま話を続けた。

 

「あ、でもさ。最初にヒッキーが手をこうやって動かしたのって、『お疲れ』って意味だよね?」

 

「おう。てかよく解ったな」

 

「よかった。あたしが尋ねたのも、あとちょっとだったし。次はちゃんと伝えるからね!」

 

 由比ヶ浜は自分をよく見てくれているなと八幡は思う。人間観察はぼっちの特質だったはずなのにと思いながらも、今日はやはり心理的な余裕があるからなのだろう。八幡は捻くれた思考に陥ることなく、由比ヶ浜の美点をそのまま受け入れることができた。だが要望を受け入れるかといえばそれは別の話である。

 

「つか、そういう恥ずかしいことからは逃げるから、解るも解らないも無いんだけどな」

 

「むー。でもさ、恥ずかしいっていっても昨日のゆきのん……やばっ!」

 

「おい。もし聞こえてたらお前が責任取れよ?」

 

「ちょ、ヒッキー、見捨てないでよ。だって昨日のゆきのん、めっちゃ可愛かったじゃん」

 

「確かに猫語で歌いながらカマクラの手を動かす雪ノ下が可愛かったのは認めるが、俺を共犯にするのはやめろ」

 

「ぶー。ゆきのんに聞こえてませんように。じゃ、部室に入ろ。……やっはろー!」

 

 何に対して祈ったのか、そもそも効果があるのか分からず困惑する八幡の手を取って、由比ヶ浜は今日も元気よく、部室の扉を開けながら挨拶を送る。全てのやり取りを耳にしていた雪ノ下は、由比ヶ浜に軽く頷きを返すのがやっとだった。なお余談ながら、この日の三人の会話の中には猫のねの字も出なかった。

 

 

***

 

 

「じゃあ、今日の昼は練習する時間も無いんだな」

 

「私が忙しいだけで、比企谷くんと由比ヶ浜さんはここで練習していてくれても良いのだけれど」

 

 廊下での会話がどこまで伝わっているのか(雪ノ下の反応を見る限り、全く伝わっていないとは二人には思えなかった)、びくびくしながら席に向かうと、雪ノ下がお茶も出さずにすぐさま配膳を始めた。ものすごく怒っていらっしゃると考えて更に身をすくめる二人だったが、雪ノ下は少し顔を赤くしながらも、食事を急ぐ理由を説明してくれた。

 

「全校放送は、ちょっと手伝えることが無いなって思うけどさ。さいちゃんと話をするなら、あたしたちも一緒に行くよ。ね、ヒッキー」

 

「だな。てか、お前が自ら説明しなくても、俺か由比ヶ浜が伝えて終わりで良い気もするんだが」

 

「どうせなら、この際だから自分で伝えてみようかと思ったのよ」

 

 女子会で説明して八幡にも伝達した内容を、昼食後にテニスコートに出向いて戸塚にも直接告げるつもりだと雪ノ下は言った。

 

 確かに雪ノ下と戸塚は、顔を合わせた機会こそ多いものの、二人だけで向かい合ってやり取りをした場面はほとんど無かった。だから八幡と由比ヶ浜は気を回して、戸塚には二人のいずれかが話を伝えておくと提案したのだが、雪ノ下の考えは違ったらしい。対話を回避する理由も無いのに、今回ですら直接向き合うのを避けるようでは、関係が深まらないまま終わるだけだと雪ノ下は主張した。

 

「うーんと。じゃああたしとヒッキーは、草葉の陰から見守ってるね!」

 

「おい、それだと俺ら死んでるからな」

 

「由比ヶ浜さん。草葉の陰とは、墓の下とかあの世って意味なのだけれど」

 

 国語三位と一位による容赦のない指摘に、由比ヶ浜があわあわとしている。その姿に苦笑しながら、雪ノ下が発言を続けた。

 

「戸塚くんと話をして、それから生徒会室に移動して校内放送を行って。今朝からの馬鹿げた騒動を私が完膚なきまでに叩き潰している間に、二人はバンドの練習をしてくれて良いのよ?」

 

 廊下での会話はかなりダダ漏れだったのだなと冷や汗を流しながら、部長様のかたじけないお言葉に二人は何度も深く頷いていた。とはいえ事情を把握しているのであろう由比ヶ浜とは違って、八幡は校内放送を行う理由も、今朝からの馬鹿げた騒動とやらも把握できていない。それを口にすると、雪ノ下が簡単に説明してくれた。

 

「要するに、部長会議の時に最後まで意地を張っていた残党が、昨日の噂を耳にして行動に出たのよ。具体的には掲示板にビラを貼って、私と葉山くんに謀られたから予算配分は無効だと主張しているのだけれど。小学校が同じというだけで人はどれほど発想を飛躍させられるのか、ケーススタディとしては面白いかもしれないわね」

 

 密かにショックを受けたり妬心を抱いた者としては、そんな研究は止めて欲しいですと心の中で呟く八幡だった。とはいえ確かに、これほど人によって受け取り方が違う情報もなかなか無い気がする。先程の由比ヶ浜との間に起きた非言語的コミュニケーションの齟齬と比べてしまい、あの動きであそこまで伝えられた自分たちは実は凄いのではないかと、少し照れくさい気持ちになってきた八幡だった。

 

 そうした気持ちを誤魔化すように、八幡は思い浮かんだ心配事をそのまま口にする。

 

「その、なんだ。昨日もあれから陽乃さんと一緒に過ごしてたんだろうし、今日の昼もそんなハードスケジュールだろ。お前、体調とかは大丈夫か?」

 

「そうだよ、ゆきのん。無理しないで、休める時には休んでね」

 

「正直に言うと、由比ヶ浜にも同じことを言いたいけどな」

 

「うえっ、って変な声が出ちゃったじゃん。その、ヒッキーが心配してくれるのは嬉しいけどさ。あたしは元気が取り柄だし、ゆきのんやヒッキーと違って、動いてどうにかするしかできないから……」

 

「それでも、由比ヶ浜さんが集めてくれた情報や、色んな配慮によって、私は随分と助かっているのよ。だから自分を卑下しないで、もっと自信を持って欲しいのだけれど」

 

 良い話だなぁと傍観者ぶりたい八幡だったが、助かっているのは自分も同じである。だがそれを口にするのも恥ずかしいので、八幡は由比ヶ浜の目を見てゆっくり頷くに止めた。今回は意図が完全に伝わっていることを確信しながら。

 

 そんな二人を温かく見守った後で、再び雪ノ下が口を開く。

 

「比企谷くんにも、心配を掛けているとは思うのだけれど。貴方も知っているように、奉仕部で過ごす時を除けば、授業中も放課後も保健委員が近くに控えているのだし。最近では家のことに時間を費やす必要も無くなったので、今の調子なら大丈夫よ」

 

 そういえば、それも少し面白くないと思ってしまったんだよなと八幡は記憶を蘇らせる。雪ノ下の指名で実行委員に抜擢という辺りが気に入らないなと、実行委員会の渉外部門に身を寄せることになった自身の経緯を完璧に棚上げしながら八幡は思った。

 

 とはいえ苛立つほどでもないのは、雪ノ下が彼に求めているのは健康面の指摘だけだと理解できているからなのだろう。雪ノ下の横暴もとい要望に応えるのは大変なんだからなと、頭の中で上から目線で愚痴をこぼしていたせいで、八幡は後半の発言を聞き流してしまった。

 

 少しだけ残念そうに、しかし事情が判明した時の反応が楽しみだと考えながら、雪ノ下は話を続ける。その時には由比ヶ浜と同じように、彼も驚いてくれるだろうと期待しながら。

 

「問題があるとすれば、運営との打ち合わせに出向いている時かしら。守秘義務があるので誰かを同行させるわけにもいかないし、難しいところね」

 

「ちょっと待て。守秘義務って、お前また運営と何かを開発してたりするのか?」

 

「前はたしか、この世界でペットと過ごした記憶を残せるように、ゆきのんが考えてくれたんだよね?」

 

 八幡と由比ヶ浜の食い付きが良いことに気をよくしながら、しかし現時点で話せることは無いだけに、雪ノ下は概略を述べることしかできない。

 

「今度の文化祭を盛り上げるために、あと一週間強で間に合うようにと、運営は今てんやわんやなのよ。そんな状態なのに全体の統制は取れているのだから、あのゲームマスターの手腕には学ぶところが多いわね」

 

「ほーん。ま、当日のお楽しみって感じかね。とりあえず今の優先事項は、さっき言ってた全校放送だろうしな」

 

 そうした事情を良い形に受け取ってもらえて、話が元に戻ったことに雪ノ下は苦笑する。隣で「あ、そうだった!」と意識を引き締めている由比ヶ浜をちらりと確認していると、予想外に八幡がそのまま話を続けた。

 

 

「ちょっと思ったんだけどな。六月の話をまだ持ち出そうとしてる時点で、そいつらがろくでもない連中だってのは分かるし、そんな奴らのために時間を使うのって、なんかアホらしくね?」

 

「そうね。貴方の主張はとてもよく理解できるし、私も馬鹿馬鹿しいことだと思っているわ」

 

 今朝からずっと考え続けていたことを、その真剣さをなるべく表に出さないように注意しながら、八幡は軽い口調で雪ノ下に尋ねる。けれども問われた雪ノ下は真面目な表情を八幡に向けて、こう答えた。なぜならばこの問題は、かつて雪ノ下の頭を悩ませた問題でもあるのだから。

 

 くだらない連中に合わせる形で自分の行動を決定されてしまうような、そんな世界は間違っている。かつての雪ノ下はそう考えていた。だから自分がこの世界を変えるのだと。だが、()()()()に巻き込まれて色んな縁に恵まれて、雪ノ下は次第にその考え方を変化させていった。

 

 おそらく姉は、姉妹ともにこの世界に巻き込まれたのだと知った私が、一歩引いたと受け取っているのだろう。母に課せられた各々の役割に従うために。あるいは、思考停止の結果だと考えているのかもしれない。だがどちらも違うと雪ノ下は思う。

 

 強いて言えば、自分自身と自分の周囲を精確に観察するために一歩引いたのだと、雪ノ下は心の中で呟く。そこには明確な差異があると雪ノ下は思う。母や姉といった自分以外の存在によって引かされるのと、はっきり自分で判断して引くのとでは全く違う。

 

 それに私は自分の問題に、余裕がなくなった時に陥りがちな傾向に気が付いているし、既に対策も講じている。一つは可能な限り余裕を持ち続けること。もう一つは頼るべき対象であっても「何もかも敵わない」とは思わないこと。後者はこの世界でゲームマスターと対話をして打ちのめされ、しかし以後は接する機会が無かったお陰で学べたことだった。日常的にあの人と顔を合わせる環境だったら危なかったと雪ノ下は思うが、それは仮定の話でしかない。

 

 自分と対等な関係で、そして自分とは違ったアプローチで物事に挑める存在を得られたなら、問題は綺麗に解決するのではないかと雪ノ下は思った。そしてそれは現実のものとなっている。むしろ、解決法を思い付く前に現実がそうなっていたと言ったほうが正しいのだろう。

 

 どこまでが偶然でどこまでが作為でどこからが必然だったのか、今となっては判別できないし、それをする必要もないと雪ノ下は思う。なんであれ同じ部活に集まったこの三人は、お互いを補い合うことができると雪ノ下は確信している。そして、他の二人のやり方を見て、私は正攻法以外にもやり方があるのだと、同時に正攻法にも別の意味を持たせることができるのだと学ぶことができた。そう内心で考えながら、雪ノ下は話し続ける。

 

「とはいえ、それも使い方次第だと思うのよ。一つの目的の為だけに一つの行動を行うのであれば徒労になるとしても、その行動によって別の目的を果たせるのであれば、話は違ってくるでしょう?」

 

 本当は、これは自分が偉そうに言える話ではないのだと雪ノ下は思う。目の前の二人から学んだことを言葉にして返しているだけなのだから。行動に複数の意味を持たせること自体は、自分も以前から実行していた。だが過去の自分には視野が足りなかったと雪ノ下は思う。だから世界を変えるなどという途方もない方向に思考が向いて、それ以外に目を向けることができなかったのだと。

 

 目下の問題である反対派の残党に対しても、かつての自分ならただ正面から正論で叩き潰すだけだっただろう。だが由比ヶ浜ならそんな彼らにすら気を配って、今後もそれなりの毎日を送れるようなフォローを考えるのだろう。八幡なら問題の根本に目を配って、彼らが二度と同じような話を持ち出さない形で潰すことを考えるのだろう。いずれも、かつての自分には思いもよらないやり方だ。

 

「なんかお前、陽乃さんの域に至ってねーか。楽しそうなのも誰を利用するのも結構だけど、由比ヶ浜の忠告ぐらいはちゃんと聞くようにしろよ」

 

 残念ながら、自分だけでは未だ姉の域には至らないと雪ノ下は思う。だが昨日のようにこの男子生徒が案を出してくれて、そして今まで同様にこの女子生徒が支えてくれるのであれば、相手が姉であっても、あるいは()()()にすら対抗できる気がする。これは決して二人に依拠した形ではないと、雪ノ下()思う。

 

 そんなことを考えながら静かに笑みを浮かべて、雪ノ下は八幡の片手落ちの意見を訂正する。

 

「あら。貴方の話は聞かなくても良いのかしら?」

 

「もう。ゆきのんもヒッキーも、『お互いに助け合おうぜ』って言えば済むのにさ。今日の問題は、ゆきのんが全校放送で何とかしてくれそうだけど。また何かあったら三人で協力して解決するって、約束だからね!」

 

 挑発気味に八幡に語りかける雪ノ下を見て、由比ヶ浜が呆れながら口を開く。捻くれた二人の物言いに対して模範解答を提示して、話をまとめにかかった。苦笑しながら八幡が応える。

 

「へいへい。つっても、お前らに頼るほどでもない時は、勝手に解決しても良いんだろ?」

 

「……そうね。逆に比企谷くんは、私達が勝手に解決しても大丈夫なのかしら?」

 

 二人の負担を懸念した八幡が軽い口調で問いかけると、対照的に雪ノ下は重い口調で応える。由比ヶ浜と八幡が首を傾げていると、雪ノ下が続けて説明を始めた。

 

 

「貴方が奉仕部から距離を置いていた時に、私達が色々と動いていたことがあったでしょう。その話は済んだ事だと分かった上で繰り返すのだけれど。私や由比ヶ浜さんが貴方の単独行動を信頼するのと同じように、貴方も私達の行動を信頼してくれていると考えて良いのかしら?」

 

 雪ノ下の頭には、八幡が千葉村で呟いた言葉があった。二日目夜のキャンプファイヤーの時に、一緒にゲームをした小学生の集団とすれ違っても、あの女の子は声をかけてくれなかった。その時に八幡が口にした言葉を雪ノ下は思い出す。あちらの事情は二人とも充分に理解していたので、おそらくは軽口のつもりだったのだろう。しかしその中には、まぎれもない彼の本音があったと雪ノ下は思う。

 

『なんてか、報われねーな』

 

 あの時に八幡は、己の行動が報われないことよりも、雪ノ下の行動が報われないことを気遣って声をかけてくれた。おそらく本人としてはそれほど深い意図は無かったのだろう。だがだからこそ、八幡の素の感情が伝わって来たように雪ノ下には思えた。

 

 自分や、おそらく由比ヶ浜の行動も報われて欲しいと、この目の前の男子生徒は考えているのだろう。しかしその思いと信頼とは別個のものだ。そしてそれをはき違えると、自分が頼るべき対象だと思っていた存在は、その意義を変える。最悪の場合は、姉が言う「もっとひどい何か」へと変貌してしまう。

 

「そう……だな。信頼してる、っつーか。……信頼したい、って思ってる」

 

 実は雪ノ下の指摘は、最近の八幡にとってはクリティカルな問題だった。クラスの出し物について海老名と話していた時に言われた「過保護」という言葉や、由比ヶ浜と花火大会に行く道中で言われた「お兄ちゃんみたい」という言葉が、ふとした時に頭の中で蘇って八幡を悩ませていた。

 

 昨日カラオケの店内で戸塚に相談したことを八幡は思い出す。由比ヶ浜とどんな話をすれば良いのかという相談は確かにこのところ八幡が悩んでいたことなのだが、同時にある意味では建前だった。それを隠れ蓑に、ヒントだけでも得られればと思いながら話題に出したに過ぎなかった。真剣に答えてくれたのに申し訳ないとは思うが、いくら相手が戸塚でも、悩みを全て打ち明けられるわけではない。

 

 八幡にとって、最も身近な異性と言えば妹である。もちろん肉親であるがゆえに性的な感情は持ち得ないが、妹に対するのと同じように異性と向き合うのは、八幡にとって最も気安い選択だ。そしてそこにこの問題の本質があるのだろうと八幡は思う。

 

 相手が妹であれば、実際に「お兄ちゃん」であれば、ある程度は「過保護」になっても許されるのだろう。だが由比ヶ浜や雪ノ下に対してはそれは許されない。助けたいのに、手を出したいのに出せないという状況はきっとあるだろう。そんな時に、自分は果たして二人を信頼して、ただ見守るだけの状況に耐えられるのだろうか。

 

 昨日の夕方、由比ヶ浜は元気が無さそうに見えた。だが八幡は、どこまで踏み込んで良いのか分からなかった。そもそも雪ノ下と葉山が同じ小学校だったという話を聞いて落ち込んでいたので、仮に踏み込む限界が見えていたとしても、踏み込む勇気はおそらく無かった。だから戸塚と一緒にカラオケに行けることを少し大袈裟に喜んで、由比ヶ浜の気を晴らそうとした。

 

 由比ヶ浜と海老名の着目点は正しいと八幡は思う。自分が楽だからとそうした対応を続けていれば、いずれ破綻する。だから八幡は二人を信頼できるようになりたい。しかしその為には、自分を信頼できないと難しい。自分の決断すら信頼できないようでは、二人と適切な関係を築くなど絵空事だろうから。

 

 信頼できるとは断言できず、しかし八幡はギリギリの言葉を、彼の心情を表すのに最も適切な言葉を口にした。

 

「ええ、それで良いわ。信頼は、押し付けるものではないのだから。由比ヶ浜さんの誕生日に話し合った時に、貴方は『俺のやりかたが嫌いだと思ったら、その時は遠慮なく言ってくれ』と口にしたわね。もしも私達の行動が信頼に値しないものだと思ったら、その時は貴方も遠慮なく言ってくれたら良いわ。もちろん私も由比ヶ浜さんも、貴方の信頼を裏切るような行動をするつもりはないのだけれど」

 

「うん、だね。ただ、つもりだけはあっても、実際にどうなるかは分かんないからさ。ゆきのんやヒッキーが失敗するのって、あんまり想像が付かないし、あたしが一番迷惑をかけるかもだけど。もしゆきのんやヒッキーが何か小さな失敗をしたとしても、次の機会にそれを返すって感じにして、仲違いはして欲しくないなって」

 

「まあ、あれだろ。どう考えても俺がお前らに見捨てられる可能性が一番高いだろ。だからお前の心配は杞憂っつーか、俺が問題を起こした時には雪ノ下に取りなして欲しいっつーか、そんな感じだな」

 

 威張って言えるような内容ではないのに、八幡は敢えて胸を張って堂々と言い切った。いつものように雪ノ下が片手を頭に当てているが、その表情は明るい。いつものように由比ヶ浜が唇を尖らせているが、その目は笑っている。

 

 悩み事が全て解決したわけではないのだが、と八幡は思う。解決したわけではないのだけれど、と雪ノ下は思う。二人は何を悩んでいるんだろう、と由比ヶ浜は思う。それでも、三人は前を向いて動き出すことができる。

 

「そろそろ、テニスコートに移動しようと思うのだけれど?」

 

「じゃあ、あたしとヒッキーは立会人だね。口は出さないけど、一緒に居たいなって」

 

「おい、俺の行動まで決めちゃうのかよ。ま、戸塚と会うのに文句はねーし、その後は別行動って感じかね。お前が全校放送をしている間はここに戻って練習したいから、出る前に部室をスタジオに換装しておいてくれると助かるんだが」

 

「あ、でもゆきのんが話してる間は、練習を中止して一緒に見ようね!」

 

「由比ヶ浜さんと比企谷くんに見られていると思うと、私も迂闊なことは口にできないわね。信頼を失わないように気を付けようと思うのだけれど」

 

「お前、失敗するとか欠片も考えてねーだろ。思ってもないことを言うのは信頼って点でどうなんですかねっつーか、校内放送って映像なのな。ログインした日にお前が演説した時みたいになるのかね?」

 

「あの時のゆきのん、凄かったなー」

 

 部室を出てからも、三人の会話はこんな風に途切れることなく続くのだった。




次回は来週の木曜日、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/18)

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