俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回までのあらすじ。

 過去の葉山との関係を戸塚に説明した雪ノ下は、続けて生徒会室に移動して校内放送を行った。部費の見直しを要求する意見を正論で退け、同時に葉山との噂に決着をつけた雪ノ下は、由比ヶ浜や八幡の考え方を取り入れた形で話を締め括った。

 雪ノ下から話を聞いた戸塚は、葉山が千葉村で好きな人のイニシャルを呟いたことを思い出していた。だがそれを話題に出すのは避けて、移動待ちの雪ノ下に以前の発言の意図を尋ねる。雪ノ下が何を考えて歴史上の人物に言及したのか、その理由の一端を三人は知った。今は情報不足ゆえに深い考察は諦めて、由比ヶ浜と並んで校内放送を見守った八幡は、問題が一つ解決した事を喜ぶ。

 だが、周囲が気付かぬうちに疲労は蓄積していた。週明けの月曜日は先週と同様に、欠席者が出た状態で始まるのだった。



11.りくつよりも感情で彼女は話を動かす。

 重陽の節句に当たる日曜日は真夏の暑さがぶり返していて、少し歩いただけでも汗が浮かび上がってくる。夕刻というにはまだ早く昼下がりというには遅い微妙な時間帯に、比企谷八幡は汗が流れるのも厭わず早足で待ち合わせ場所へと向かっていた。

 

 後々どのようにでも動けるようにと高校に自転車を置いて、そこからは徒歩で駅まで移動して京葉線に乗り込んで。二駅とはいえ沿線の景色を眺める気分ではなかったので時間を短縮して、八幡は海浜幕張の駅に降り立った。

 

 道中こまめに位置を連絡していたお陰か、八幡が駅の外を眺めると、相手もちょうどこちらに向けて歩いてくるところだった。レース柄の日傘を優雅に傾けた白いワンピース姿の雪ノ下雪乃は、人混みの中にあっても存在感が際立っていた。しかしその表情はどこか暗い。

 

「メッセージを文字通りに受け取って、見舞い品とか何も持って来なかったんだが……」

 

「ええ、それで大丈夫よ。メッセージを見てすぐに出て来てくれたのでしょう。何だか急かしたみたいな形になって申し訳ないのだけれど」

 

 挨拶もそこそこに二人は歩き始める。並んで足を動かしながら、まずは重要度の低い話から会話が始まった。

 

「事態が事態だし、それは気にすんな。……んで、由比ヶ浜の具合は?」

 

「お昼を食べて今はまた眠っているのだけれど。疲労が原因とはいえ、一日中ずっと寝ていられるわけでもなし。夜にしっかり眠れるように、由比ヶ浜さんが起きたら三人で打ち合わせをしておこうと思うのよ」

 

 八幡が事の核心に一気に踏み込むと、雪ノ下は今後の予定も加えてそう返事をした。少なくとも、由比ヶ浜結衣の病状は一刻を争うものではないらしい。

 

 文化祭の準備で忙しかった一週間分の疲れを癒やすべく、八幡は昼食後も自宅でだらだらと過ごしていた。そこに雪ノ下からメッセージが届いたのだ。もしや仕事の指令かと恐る恐る開いてみれば、「由比ヶ浜さんが倒れたので身一つですぐに出て来て欲しい。海浜幕張で待つ」と書かれてあった。取るものも取り敢えず慌てて八幡は自転車に飛び乗って、そして今に至っている。

 

「つっても、由比ヶ浜の気苦労を増やすような話題は避けたほうが良いんだろうな」

 

「悩ましいところだけれど、私達が何かを隠そうとしても、感情の機微に敏感な由比ヶ浜さんを欺けるとは思えないのよ。だから逆に、懸念材料などもそのまま口に出すほうが、却って良いのではないかと思うのだけれど」

 

「ま、それもそうか。んで、俺らはどこに向かってんの?」

 

 花火大会の後に由比ヶ浜を途中まで送って行った時のことをようやく思い出して、八幡は首を傾げた。由比ヶ浜が個室に居るなら高校から行けば良いし、マンションも方向が違う。そんなことすら今まで気付けなかったとは、我ながらずいぶん余裕がなかったのだなと八幡は思う。

 

「私が由比ヶ浜さんを引き取って、今は客室に寝かせているのよ。午前中は三浦さんと海老名さんも居たのだけれど、二人も文化祭に備えて身体を休めておくべきだし、今は帰って貰ったわ。……ここよ」

 

「って、このタワーマンションに住んでんのかよ。おい、エントランスにソファが置いてあるぞ?」

 

 小市民な反応を見せる八幡に、思わず雪ノ下がくすりと笑みを浮かべる。そういえば笑ったのはいつ以来だろうと思いながら、午前中に連絡を受けてからずっと気が張っていたことを雪ノ下は自覚した。

 

 雪ノ下が生体認証でオートロックを解錠して、二人はエレベーターに乗り込む。十五階で降りて、表札が出ていない部屋の前で立ち止まって再度の認証を経て、八幡は雪ノ下の部屋へと招き入れられた。

 

 

***

 

 

「お帰りなさいませ、ご主人様」

 

 先に入るように雪ノ下に促されて、扉を開いて一歩踏み出したところで、八幡はそう声を掛けられた。驚いて顔を上げると、こちらに向かって深くお辞儀をするメイドさんの姿が目に入る。扉を片手で開けたまま立ち止まってしまった八幡は、ぎぎぎという擬音が似合いそうな動きで首を後ろにやると、目だけで雪ノ下に問いかけた。

 

「貴方も見覚えがあるのではないかしら?」

 

「もしかして、一学期の中間で打ち上げした時に行った、メイドカフェ・えんじぇるている……だっけか?」

 

「ええ。川崎くんの依頼解決のお祝いも兼ねてだったわね。あの時にどうやら気に入られたみたいで、是非私の下で働きたいと言うので雇うことにしたのだけれど」

 

 本当にこいつは何でもありだなと、呆れを通り越して感心してしまう八幡だった。実際にメイドさんを雇うことよりも、それを簡単に語ってしまえることのほうが恐ろしいと思いながら。

 

 だが混乱が収まってみると、メイドさんを雇うという雪ノ下の選択は確かに理に適っていると八幡は思った。雪ノ下の体力の無さや、ゲームマスターに指摘された時間配分の問題も、家事をメイドさんに任せれば一気に解決する。

 

 そういえば半ば聞き流してしまったが、木曜日に戸塚彩加と話しに行く前に部室でそんなことを聞いたような気がする。たしか「家のことは大丈夫」と言っていたように思ったのだが、その根拠はこれかと納得した八幡だった。

 

 八幡が期待通りに驚きの表情を見せてくれて、更にそれが納得顔に変わる過程を余さず観察して、雪ノ下は満足そうな表情を浮かべている。一つ頷いて、雪ノ下は部屋の上がり口に控えるメイドさんに話しかけた。

 

「その後、由比ヶ浜さんは?」

 

はい、閣下。(Yes, Your Highness.)お嬢様は静かに眠っておられます」

 

「そ、その呼びかけは、人前では避けるように厳命したと思うのだけれど?」

 

「申し訳ございません。お嬢様のご容態にばかり気を取られていたせいで、つい。お許し下さい、閣下(Your Grace.)

 

 絶対にわざとだよなと八幡は思った。

 

 

 靴を脱いで廊下に足を踏み入れると、ドアが幾つか目に入った。洗面とお風呂場やトイレを除いて、おそらく3LDKなのだろう。現実世界でもこれと同じ構造の部屋に一人で住んでいたんだよなと、八幡は雪ノ下の境遇を思う。

 

 ひとまずは奥のリビングに案内されて、ソファに一人、所在なさげに腰を下ろす。由比ヶ浜の様子を確認しに行った雪ノ下に代わって、メイドさんがお茶を淹れてくれた。それをずずずっと味わっていると、雪ノ下が姿を見せる。いつの間に着替えたのか、白いサマーニットにふんわり緩い白のマキシ丈スカートを合わせている。

 

「ドアを開けた音で起こしてしまったみたいで。比企谷くんがお見舞いに来ていると伝えたら、少し悩んでいたみたいだけれど。打ち合わせをするなら自分も一緒に、というのが由比ヶ浜さんの希望よ」

 

 かつて急に友達が家に訪ねてきた時の妹の様子を思い出して、髪とかメイクとか女の子は気にすることがたくさんあるから大変だよなと八幡は思う。あまりじろじろと見ないようにしようと考えながら、八幡は口を開いた。

 

「それって客室で話すってことか、それともリビングまで出て来られるぐらいには回復してるってことなのか?」

 

「顔色はずいぶん良くなったと思うのだけれど、できれば寝かせておいてあげたいわね。客室に移動しても貴方は大丈夫かしら?」

 

「こっちは招かれた側だからな。家主が入って良いって言うんなら、まあ、別に」

 

 雪ノ下の私室に入るわけではないのだしと、八幡は気楽な調子を装って返事をした。それに軽く頷いて、雪ノ下は背を向けると歩き始める。ついて来いという意味に受け取って、八幡はよっこいしょと言いながら立ち上がると、由比ヶ浜の待つ客室へと移動した。

 

 

***

 

 

「ヒッキー、わざわざごめんね……」

 

「いや、別にだらだらしてただけだし、あんま気にすんな。以後は謝るの禁止な」

 

 客室では開口一番、由比ヶ浜に謝られてしまった。恥ずかしそうに顔を少し手で隠して、首から下は布団にくるまって横になった状態の由比ヶ浜だが、手の袖口や襟の部分が見えているのでパジャマの柄が想像できてしまう。今現在の由比ヶ浜の全身像を思い浮かべてしまいそうになり、慌てて頭の中で素数を数える八幡だった。

 

 ベッドの近くにはラタンチェアが向かい合わせになっていて、すぐ横にはガラス天板をラタンでフレームした小さなサイドテーブルもある。八幡と雪ノ下が椅子に腰を下ろすと、二人の後ろに控えていたメイドさんが手に持っていたお盆をテーブルに載せた。リビングで飲みかけになっていたカップをメイドさんが新しいものに取り替えてくれたのだろう。二人分の淹れたてのお茶が、湯気を出して存在を主張していた。

 

 由比ヶ浜の枕元にあったストロー付きの吸い飲みも新しいものに替えて、メイドさんはドアの前で深々と一礼すると「ご存分に」と言い残して部屋を出て行った。そして三人の話し合いが始まる。

 

「由比ヶ浜さんに負担をかけ過ぎていることは分かっていたのだけれど、他に適任が居ないからと無理をさせてしまったのが悔やまれるわね」

 

「まあ、考えようによっては不幸中の幸いっつーか、まだ日数的には余裕がある今で助かった気もするけどな。文化祭前日とかに由比ヶ浜が倒れてたらって思うと、な」

 

 謝るのは禁止と言われてしまったので、由比ヶ浜は布団を顔まで持ち上げて「うー」と唸ることしかできない。由比ヶ浜の責任感を理解している二人は、そのまま本題に入ることにした。

 

 

「まずは今後の展開を整理するわね。今週の金曜日と土曜日の二日間に亘って文化祭が行われる予定なのだけれど。当日には、この世界に巻き込まれた校外の人たち、これはごく少数ではあるのだけれど下は小学生から、上は大学生や社会人まで幅広い年齢層の人たちに向けて門戸が開かれるので、対応が難しいわね」

 

「いくらこの世界では現実以上に安全が確保されてるからって言っても、当日はどうしてもぶっつけ本番になっちまうからな。それに加えて、現実世界からのゲストにも対応する必要があるわけだし、頭が痛いな」

 

「そちらのほうは、できるだけ運営に仕事を負わせる方向で話を進めているのだけれど。我が校の生徒と顔見知りの誰かが揉めるとか、そうした内輪の事態になれば私たちが収拾するしかないから、覚悟を決めておいたほうが良いわね」

 

「当日は臨機応変に。その為にも体力と気力が万全の状態で本番を迎えないと、って感じかね」

 

「一般客の受付を担う保健衛生と、現実世界に関する諸々を扱う渉外とで、事前に考え得る限りのシミュレーションを行うぐらいね。この辺りの詳しい話は文化祭実行委員会で話し合うとして。……私達にとって問題なのは、水曜日にまた姉さんが来ることなのよね」

 

 急に歯切れが悪くなった雪ノ下を見て、ベッドで聞き役に回っていた由比ヶ浜が口を開いた。

 

「でもさ、それってヒッキーが対策を考えてくれてたじゃん。あたしには全部は理解できなかったけど……」

 

「案は案として、ちゃんと運用できるかって問題もあるからな。雪ノ下なら大丈夫とは思うが、相手はあの陽乃さんだし。由比ヶ浜に無理をさせたくはないけど、雪ノ下が劣勢になったらお前を巻き込むかもしれんぞ」

 

「うん、その時は遠慮なく巻き込んで。あたしもその時に備えて、今はしっかり休んどくからさ」

 

「ただ……夏休みの勉強会の時の話を覚えているかしら?」

 

 それでも雪ノ下には別の懸念があるようで、重苦しい話し方は変わらない。目を見合わせた八幡と由比ヶ浜だが、より正確に記憶しているであろう八幡が会話を引き受ける形になった。

 

「たしかあれだよな。俺と由比ヶ浜が花火大会で、陽乃さんとは文化祭の話をしなかったって言ったら、お前が『少し面倒なことになりそう』とかって」

 

「ええ。姉さんの性格は、二人ともある程度は把握していると思うのだけれど。基本的に姉さんは、興味のない対象には関与しないのよ。ただ、興味を持つと構い過ぎるきらいがあって。色々と難題を押し付けてくるのよね……」

 

 過去の様々な経験を思い出しているのか、遠い目をしてため息をつく雪ノ下だった。話が少し飛躍しているのか理解が追いつかない部分があるなと思いながら、八幡が口を開く。

 

「陽乃さんの愉快犯的な傾向は俺も何となく分かるんだが、文化祭のことを何も言わなかったのと、どう繋がるんだ?」

 

「深読みし過ぎなのかもしれないのだけれど。姉さんがこれだけ何も口出しをしないで、むしろ卒業生の有志を取りまとめたり妙に協力的なのは、既に何かしらの波乱要素が潜んでいるからではないかと。私にはそんな気がしてならないのよ」

 

 実の妹にそう言われてしまうと、八幡も由比ヶ浜も否定はできない。だが八幡には別の心当たりがあったので、それを言ってみることにした。

 

「あのな、この間ちょっと人材について戸塚とかと喋ってたんだけどな」

 

「あ、さいちゃんとカラオケに行った時だよね。城廻先輩が主催って、あの時ヒッキーは教えてくれなかったと思うんだけど!」

 

「いや、最初は材木座だけだと思ってたし、俺もカラオケに行ってから知ったんだからな」

 

「むー」

 

 不満そうに頬を膨らませている由比ヶ浜を何とか宥めて、どうして俺は怒られているのだろうと内心では首を傾げながらも、八幡は話を続ける。

 

「由比ヶ浜が疲労で倒れた今、問題がハッキリ見えたと思うんだよな。正直に言って、文化祭の為に外せない人材ってお前らぐらいだろ。だから、お前らに何かがあると途端に何も進まなくなると思うんだわ。雪ノ下が警戒する波乱要素とは少し違うかもしれんが、ごく少数の存在で回ってる組織って時点で、かなり危ういと思うんだよな」

 

 水曜日には外せない人材リストの中に生徒会長の名前も含めていた八幡だったが、由比ヶ浜の剣幕を怖れてここでは除外することにした。こうした気遣いって大変だよなと思いつつも、八幡は由比ヶ浜が感情的な反応を見せること自体は嫌ではなかった。それで少しでも由比ヶ浜が元気になるのなら、構わない気がする。

 

 これは、先日悩んでいた「お兄ちゃん」とか「過保護」とはまた少し違う気がするなと八幡は思う。だが今は、それを掘り下げるのを避けて話を続けることにした。雪ノ下に向けて八幡は問いかける。

 

「だから、あれだ。由比ヶ浜は明日は休ませるのか?」

 

「ええ。ここで無理をさせないで、明日一日で完全な体調に戻して欲しいと思っているのだけれど。そのために、日中にも看護ができるこのマンションに由比ヶ浜さんを引き取ったのよ」

 

 そう説明を受けて合点がいった八幡だった。今日の日曜日なら同級生が面倒を見られるが、明日の午前中は授業があるし午後は文化祭の準備がある。だから雪ノ下は、メイドさんに由比ヶ浜の看病を頼むつもりなのだろう。

 

 ここが勝負所だと考えて、八幡はいったん肩の力を抜いてお茶で喉を潤して、そして再び口を開く。しっかりと雪ノ下の目を見据えて。ちょっと怖いけど視線を逸らさないようにして、こう述べる。

 

 

「俺は、明日はお前も休んだほうが良いと思う」

 

「……比企谷くん。理由の説明を」

 

 冷静を通り越して冷ややかとさえ言えそうな口調で、雪ノ下がそう返してきた。雪ノ下のことを知らない頃なら、あっさりと撤退していただろう。だが今の八幡は、その冷ややかさの中にどんな感情が潜んでいるのかを知っている。

 

 かつて、この世界に巻き込まれる前に部室で相対した時に、八幡はそれが何かを知りたいと思った。何故と問われると分からない。だがそう思ったからこそ、柄にもなくあの時に踏み込んだのだ。

 

 今も八幡は、相手の全てを知っているとはとても言えない。相手のことを分かったつもりになって、勝手なイメージや理想を押し付けようとは思わない。だが、全く知らないわけではないし、この二人のことなら知っていることも少なからずある。

 

「お前の体力もそろそろ限界だろ。さっきも確認したように、水曜以降は面倒な展開が目白押しになりそうだしな。休むなら今しかないと、俺は思う」

 

「それは、貴方の見込み違いではないのかしら。先日も言ったと思うのだけれど、体調を保健委員にチェックさせたり、家事をする必要もなくなって、それでも私が倒れるとでも言うのかしら?」

 

 二人の間に入れない由比ヶ浜は、しかし目を軽く閉じて事態の推移を見守っている。現時点では無理に介入する必要もないと、充分に理解しているから。

 

「あのな。木曜日に戸塚と喋った時のことを覚えてるか。本題に入る前に、俺と由比ヶ浜が離れなくても良いのかって話をしてた時なんだがな」

 

 別に隠すことでもないのだからと言って、雪ノ下は二人が話の場に居合わせることを拒まなかった。むしろ内心では居てくれたほうが心強いと思っていたはずだ。だがなぜ今その話が出て来るのだろうかと雪ノ下は思う。もしや、あの時に八幡を軽くからかうつもりで口にした言葉が、度を過ぎていたのだろうか。

 

 軽く頷いた後で雪ノ下が頭の中で思考を巡らせていると、八幡が少し困ったような表情になって話し始めた。

 

「あー、あれだ。オチも見えたしってことで話に乗っかったのは俺だし、別に嫌な思いとかはしてないから大丈夫だ。ただな、いつもの切れが無かったんだわ。だから、もしかして疲れが溜まってきてるのかもなって」

 

「でも、それだけが根拠というのは……」

 

「あの後で、俺がお前の声真似をしたのも覚えてるか。あれも、お前が由比ヶ浜に言った言葉が少し変だったのが切っ掛けだったよな。普段のお前なら、あんな風に由比ヶ浜にも誤解されるような言葉遣いをするわけねーだろ」

 

 短時間で二度も違和感を感じて、だから八幡はそれ以来、今まで以上に雪ノ下の体調を懸念していたのだった。それを雪ノ下も感じ取って、場にしばし沈黙が降りる。

 

「あの日は陽乃さんが来た翌日だったし、日が経てば疲れも取れるかと思ってたんだがな。昨日一昨日と、細かいミスが何度かあったの、お前は気付いてねーだろ。言い間違いとか些細なことばっかで、特に悪影響も出てないけどな。でも、万全の状態には程遠いし、このままだといつ倒れても不思議じゃないと俺は思う。結局は今日も……」

 

 雪ノ下が口をつぐんでいるのを確認して、八幡が話を続ける。だが途中で言い淀んでしまい、再び沈黙が場を支配しようとしたところで、別の声が上がった。

 

「ヒッキー。あたしに気を遣わないで、思ってることをちゃんと言って欲しいな」

 

「……そうだな。今日も由比ヶ浜が倒れて、朝から休む暇もなく色々と動いてたんだろ。由比ヶ浜が明日も休むとなったら、そのぶんお前の負担は確実に増えるし、疲労は蓄積する。明日が最後の、身体を休めるチャンスだと俺は思う」

 

「そうね。貴方が言いたいことは理解したわ。その分析が正確なものだということも。でも、まだ実際に倒れたわけではないのに、高校をずる休みするというのは……私には難しいわ」

 

 それは邪法を好まない雪ノ下らしい発言だった。今の雪ノ下は正攻法以外のやり方も知っている。だが、正攻法で事が収まる可能性があるのに。つまり、倒れなければ休む必要はないと思えてしまえる状況ゆえに。学校に行ける程度には元気なのに、敢えて休むという手段を取ることが雪ノ下にはできない。

 

 このままだと倒れる可能性が高いと解ってはいるが、確実に倒れるというわけではない。だが同時に、もしも倒れてしまえば大変なことになるのは雪ノ下も理解している。そんな迷える状況において、人が最後に頼るのは己の信念に他ならない。正攻法が持ち味の雪ノ下だからこそ、変則的な手段を取るには難しい状況にあった。

 

 八幡もそれを理解できるだけに、正攻法が似合う雪ノ下の姿を何度も見てきただけに、それ以上は無理強いすることができない。カースト底辺ゆえに色んな言動を批判され嘲笑されてきた八幡だったが、だからこそ誰かの一番の長所を否定したいとは思わないし、ちゃんとした信念を持つ者にそれを曲げさせたいとも思わない。それが雪ノ下なら尚更だ。それよりは、信念に殉じて失敗するほうが遙かに良いのではないかとすら八幡は思う。

 

 だから、それもアリかと八幡は考えを改める。仮に雪ノ下が倒れても、死ぬ気で撤退戦をやればそれなりの形にはなるだろう。高校の文化祭で失敗したところでリスクは低いし、むしろ失敗できる時にしておいたほうが将来の糧になるとも言える。雪ノ下なら失敗の経験を大いに活かすに違いない。

 

 だが。けれど。それでも。できれば雪ノ下が失敗する姿は見たくないと八幡は思った。いや、違う。そんな雪ノ下を見るのは嫌だと八幡は思った。しかし自分にはもう打てる手はない。だからこそ八幡は、もう一人に視線を送る。ベッドに倒れ伏している病人を頼るしかない自身に苛立ちを抱きつつ、それでも八幡が送るのは信頼の眼差しに他ならない。

 

「……あのさ。現実だったらね、学校を休んだらママが家に居てくれて、安心できるんだけどさ。あ、その、メイドさんを信頼してないってわけじゃないんだけど。でも、ゆきのんが居ない部屋で一人で寝てるのって、ちょっと寂しいなって。だから、あたしが一緒に居て欲しいから、明日はゆきのんにも学校を休んで欲しいなって。ダメ……かな?」

 

 由比ヶ浜の言葉を聞いて、まるで呪縛が解けたかのように柔和な笑みを浮かべて、雪ノ下は静かに頷いた。二人に向かって順に目を向けて、そして口を開く。

 

「分かったわ。明日は二人で体調回復に努めましょう。比企谷くん、明日は大きな問題は起きないと思うのだけれど……」

 

「まあ、やばくなったら連絡するから、安心して体力回復に励んでくれ」

 

 こうした言い方のほうが「俺に任せろ」と言われるよりも頼りがいがあると思えるのは何故だろうかと雪ノ下は思う。おそらく、八幡が言葉を偽らず口にしているからなのだろう。本当に緊急の出来事があれば、八幡は迷わず連絡してくるだろう。同時に、連絡がない限りは大丈夫だと考えられる。そこに安心できる理由があるのだろうと雪ノ下は思った。

 

 

「その代わり、火曜日からは全力で事に当たると約束するわ。まずは相模さんへの対応を変更しようと思うのだけれど」

 

「まあ、ちょっと甘やかし過ぎだったよな。当初の相模スパルタ計画はさすがに行き過ぎだとしても、委員長なのに並の仕事で大目に見てたのはちょっとな」

 

「あたしも、もうちょっとさがみんに言うべきことは言ったほうがいいなって。結局は本人のためになってないんだよね……」

 

 巡り合わせが悪く不幸体質な相模南の傾向を知っているだけに、由比ヶ浜はどこか相模に甘い部分があった。それが外的な対応だけに止まらず、内心でも相模を悪く思わないようにしたいと考えていたことで、余計に由比ヶ浜の中ではストレスになっていた。体調を崩した一番の原因は自分にあると由比ヶ浜は考えているが、二度とこんなことにならないように改善できる部分は改善しようと思ったのだった。

 

「そういやあれだな。会長にこの前、いざという時には雪ノ下にはJ組が、由比ヶ浜には友人が多く居るけど、俺にはほとんど居ないからって心配されたんだけどな。逆に、由比ヶ浜に友達が多いから色々と頼まれて、身動きができなくなった部分も大きいと思うんだよな」

 

「あのね、優美子が言ってたんだけどさ。いざという時に優美子はあたしを頼れるけど、あたしが困った時には何にもできないって、今朝ちょっと落ち込んでたんだよね。あ、これ内緒ね。でも、あたしは違うと思うんだ。上手く言えないけど、問題の解決はできなくても一緒に困ってくれるってだけで、ぜんぜん違うって思ったのね。優美子があたしの役割を肩代わりできなくても、一緒に居てくれるだけで安心だなって、そういうことを伝えたんだけどさ。って、何が言いたいか分かんなくなって来ちゃった……」

 

 たしかに由比ヶ浜が話す内容は、八幡の話からは逸れていた。だが、有象無象の存在を意識して話をしていた八幡だったが、由比ヶ浜にとってはみんな名前のある親しい相手なのだろうと思い直した。

 

 普段は何も考えていないようで、それでも男子生徒との会話などでは避けるべき部分を上手く避けている。今回は色んなことが一気に重なっただけで、普段なら由比ヶ浜は上手く対処できるのだろう。変な邪推は、逆に由比ヶ浜に対して失礼かもしれないと八幡は思った。

 

「そういえば、クラスのほうは順調なのか?」

 

「うん。サキサキが衣装作りですっごく貢献してくれてるし、主役二人のメイクとか凄いよ」

 

「それって単に、戸塚と葉山に女子連中が群がってるだけじゃね?」

 

「そうとも言う、かもしんない。でもさ、クラスTシャツとかもできたしみんな盛り上がってるよ。あ、ヒッキーのは背中の名前ヒッキーにしといたから!」

 

「おい。まあ、去年の『比企谷クン』よりはマシって考えれば……でもなぁ。つか去年のあれ、『クン』だけ片仮名だったんだが、そのセンスはどうなんだって言いたいよな」

 

「F組は順調そうね。私達のバンドも練習ノルマはクリアできているし、本番が楽しみね」

 

 八幡の不満をさくっと流して、別の話題を持ち出す雪ノ下だった。この切れがあるのなら、明日は休ませなくても良いのかもしれないとちょっと思った八幡だった。とはいえ少し悔しいので、思い出した話を持ち出すことにする。

 

「あのな、校内放送の時に最初に会長が喋って、その後で映像がお前に入れ替わっただろ。あれで思い付いたんだけど、お前って演技スキルは高いのか?」

 

「幸いなことに、演技をする必要があまりない生活を送れているので数値は低いわね。演技の実力ではなく演技していた時間を判定するスキルである以上は、当然の結果なのだけれど」

 

「じゃあ、演技スキルが200を超えてる俺が申請するから、こういうのはどうだ?」

 

 本来なら演劇の際に効果を発揮する裏要素なのだが、バンドという出し物をする上でも使えるのではないかと考えたのだ。思い付きを説明すると、雪ノ下が乗り気な口調で応えてくれる。

 

「なるほど。では表現をこう修正して、申請しておいて貰えるかしら?」

 

「それは良いけど、タイムスケジュールが決まらないと難しいな」

 

「大丈夫よ、この時間帯を確保する予定だから」

 

 未だ文実では渉外部門の責任者に過ぎないはずなのに、実行委員長にすら不可能に思える強権をちらつかせる雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

「んじゃ、そろそろ話は終わりかね。俺も家に帰ってしっかり休んどくわ」

 

 気付けば夕方近くになっていた。八幡は時間を確認して、そう言いながらゆっくりと立ち上がる。

 

「あ、えっとね。お見送りしたいから、その、ちょっと待っててくれる?」

 

「いや、無理せずそのままで良いぞ?」

 

「ううん。せっかくお見舞いに来てくれたんだしさ。最後ぐらいはちゃんとお見送りしたいの」

 

「比企谷くん。パジャマの上に何かを羽織らせるから、少し廊下で待っていてくれるかしら?」

 

 雪ノ下にそう言われてしまうと、八幡にも由比ヶ浜の行動を拒否できなくなった。こうした些細な行動が多くの生徒からの信頼に繋がるのだろうなと八幡は思い、大人しく廊下で待つことにした。

 

 

「……ご主人様。ご主人様」

 

 廊下に出て、客室のドアを背にぼんやり過ごしていると、誰かが八幡を手招きしていた。雪ノ下お抱えのメイドさんだろう。

 

 メイドさんは客室とは違う別の部屋に居るみたいで、手だけを廊下に出して八幡を呼んでいる。訝しみながら八幡が件の部屋に近付いて行くと、ドアが内向きに開くと同時に手を取られて、八幡はその部屋の中に入ってしまった。

 

 部屋の中は綺麗に整理されていた。無駄なものがほとんどなく、ただベッドの片側だけに、ぬいぐるみや猫関連のあれこれが固まっている。その中に、見覚えのあるパンダを見付けた。クレーンゲームで店員さんに取って貰って、彼女にプレゼントした記憶がある。大切に扱って貰ってるんだなと、八幡はパンダに心の中で呼びかけた。

 

 そこでようやく八幡は、自分が雪ノ下の部屋に侵入してしまった事実を認識した。もしもバレたらどうなることやら、想像もしたくない。たちまち挙動不審に陥りかける八幡だったが、メイドさんが手を離してくれない。無理にふりほどくわけにもいかず困っていると、メイドさんが空いているほうの手で机の辺りを指差した。

 

 雪ノ下の机の上は綺麗に片付けられていたが、育ちの良さを表すように写真が幾つか飾られていた。家族の集合写真らしきものが多かったが、由比ヶ浜と一緒にテニスウェア姿で写っているものもある。あの時は良い思いをさせて頂きましたと緩んだ顔になって、着替えの途中で部室に乱入してしまった過去を懐かしむ八幡だったが、その横の写真に自分が居るのを見て真面目な顔に戻った。

 

 それは、海老名が作成した千葉村のレポートでも採用されていた写真。小学生とゲームに興じる八幡の姿が雪ノ下と並んで写っていた。それを由比ヶ浜が写真の中から見守ってくれている。

 

 写真の中の光景をじっと見つめながら、八幡は自由なほうの手で優しくメイドさんの手を叩いた。メイドさんが自分に何を見せたかったのか、それをしっかり理解したと伝わったのだろう。掴んだ手は離されて、しかし八幡はその場からしばらく動けなかった。

 

 八幡の心の中にやる気が漲ってくる。どうして高校の文化祭ごときのために時間を費やさなければならないのかと考えていた八幡は、もう今は居ない。それは自分の想いではなかったのだと八幡は理解したが、それを掘り下げるのは今ではないと思う。それよりも、あの二人がやる気なのだから自分もやる気を出そうと、八幡はシンプルにそう思った。

 

 隣に立っていたメイドさんが、急に慌てたように背中を押してくる。どうやって把握しているのかは分からないが、二人が廊下に出て来ようとしているのだろう。八幡もまた焦りながら雪ノ下の部屋を出ると、ちょうど客室のドアが開こうとしていた。間一髪だったなと八幡は思う。

 

 雪ノ下の個室経由で移動する気分になれず、八幡は玄関で二人に別れを告げた。二人の後ろからはメイドさんがウインクを送ってくれるが、二人にバレると怖いので軽く手を挙げることでお礼に代えた。

 

 

 文化祭まで、あと五日に迫っていた。




前話の更新後に、お気に入りが500を超えました。
この作品を見付けて下さって、そしてお気に入りに加えて頂いて本当にありがとうございました。

原作12巻の発売を受けて、ここ数話は悩みながらの執筆が続いていました。

具体的には、陽乃の言動を原案から修正して(同時に5話以降の構成に変更を加えて)雪乃の過去と家の事情をほぼ確定させたこと、パワーワードになった「妹扱い」「過保護」で話を広げるのは凍結して原作に沿った落ちをひとまず付けたこと、原作がシリアスを深めているのに合わせるべきか軽めの展開に抑えるべきかを検討した末に当初の方針で行くと再確認したこと、などがありました。

これらを何とか片付けて、本来のルートに戻れたのと時を同じくしてお気に入りが大台を超えて。なんだか読者の方々からねぎらって頂いたような気持ちがしたので、今回こうしてお礼を書いてみました。

皆様が読んで下さるお陰で、この作品の今があります。
そのご恩に対しては、お礼の言葉を繰り返すよりも、作品の中身でお返しすべきだと私は考えています。
できましたら、今後とも本作をよろしくお願い致します。


次回は来週の木曜か金曜、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/13)

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