俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

以下、前回までのあらすじ。

 火曜日から木曜日にかけて、奉仕部三人の役割分担が定まって行くのに比例して、文実の仕事はその充実度を高めていった。委員長の相模が雪ノ下の監督下に置かれていたり、委員たちの一部に八幡への不満が残っているのが懸念材料だが、奉仕部の三人を始め実行委員の大半は文化祭の成功に向けて邁進していた。

 水曜日には再び陽乃が来校した。話し合いに突然参加してきた葉山の思惑を組み込みながら、三人は陽乃に文化祭への協力を約束させた。陽乃に自由な裁量を与えたこと、そして陽乃から得た情報もまた懸念すべき内容だったが、それらを飲み込んでなお、文化祭を史上最高のものにできると三人は考えている。彼らを筆頭に多くの実行委員が覚悟を決める中で、総武高校は文化祭の初日を迎えた。



15.とざされた世界でも彼らは存分に祭りを楽しむ。

 ざわめきが、照明が徐々に落ちていくのに従って静まっていく。外部からの光を遮断された体育館の中には、総武高校の全校生徒が集まっていた。金曜日の午前九時。例年よりも一時間早く、今年の文化祭が始まる。

 

 ステージの上奥には巨大なスクリーンが設けられていて、先程までは絶え間なく、過去に行われた文化祭の様子を映し出していた。静止画もあれば動画もあったが、それらは一様に画面右下に日付が明記されていた。そしていずれも、音声を伴っていなかった。二十年以上昔のものから最近まで、ランダムに映像が移り変わった後に。三年前、二年前、そして去年の文化祭が映し出されて消える。

 

 そして今。照明が落ちて一旦は暗闇に包まれた館内で、スクリーンの上に「30」という文字が点灯した。その明るさに目を慣らすことに集中しているからか。それとも、減っていく数字をじっと眺める以外の行動を思い付かないからか。誰もが声を出すことはおろか、咳をしたり唾を飲み込むことさえ忌避して、ただ画面を凝視している。

 

 そんな独特の静けさの中で、数字が一桁に入る。もはや息をすることすら憚られるような、一段と深い静寂に、生徒たちは支配されている。だが数字が「5」に至ってようやく呪縛が解けたのか、あるいは逸る気持ちを抑えきれなくなったのだろう。大きく息を吸い込んだ生徒たちは、事前に打ち合わせをしたわけでもないのに、数字の「4」を唱和するとそのままカウントダウンに入る。

 

 「3」「2」「1」に続いて大勢の声が「0」を告げると同時に、ステージ上の一点にスポットライトが集中した。片膝をついて後ろを向いた姿勢の誰かが、滑らかな動作で立ち上がりながら反転して、ステージ下に集う生徒たちに顔を向ける。スクリーンにもその姿が映し出されているので、遠目からでもそれが誰かは一目で判った。

 

「お前ら、文化してるかー?」

 

 マイクを片手に、もう片方の手で大きく生徒たちを指差しながら、城廻めぐりが叫ぶ。意味をなさない大声でそれに応える観衆に畳みかけるように、城廻は続けて声を張り上げる。

 

「千葉の名物ー?」

『踊りと、祭りー!』

「同じ阿呆ならー?」

『踊らにゃ、シンガソー!!』

 

 今年のスローガンで全校生徒を煽る生徒会長の姿がそこにはあった。そんな謎の大盛り上がりの中で、スピーカーからノリの良い曲が流れ始める。オープニングアクトが始まるのだ。

 

 スクリーンには、今年度の表記に続いて「総武高校文化祭」の文字が躍る。そしてその下にスローガンが登場して、生徒たちの興奮は再び絶頂に至った。その熱気は、最後にこの文字列が付け足されても、ひとかけらも損なわれることはなかった。

 

 

“in This World.”

 

 

***

 

 

『曲が終わるまで、あと二分です』

 

 記録雑務の委員たちは体育館の各所に配置されていた。その全員が音声通話で繋がっていて、それを通して現状を報告している。二階のPA室からステージ上を眺めながら、それらの情報を統合していた雪ノ下雪乃は、傍らに控える二人に話しかけた。

 

「最後の三語を付け足しても、動揺は見られなかったわね」

 

「だね。逆にみんな『この世界で』ってのを見て、気合いを入れ直してたっていうかさ」

 

「やっぱ、お前のあれが大きかったんじゃね。『この世界に捕らわれたことなどは何らのハンデにもなっていないと示すためにも』ってやつな」

 

「それは、実行委員しか聞いていないと思うのだけれど……」

 

「あの日とか翌日とか、口コミが凄い事になってたの、ゆきのん聞いてないの?」

 

「まあ、口コミの影響は俺も初耳なんだが。お前の場合は、この世界に巻き込まれた直後の演説とかもあったしな。話題になるのも当たり前か」

 

 今の生徒たちの精神状態なら大丈夫だろうと思ってはいても、実際に反応を見るまでは安心できないものだ。だが、この「現実」を避けているようでは、過去最高の文化祭という目標など画餅にしかならないだろう。

 

 ステージを見下ろす出窓に張り付いて、普段の大人しい様子からは想像もできないほどの興奮状態にある女子生徒に優しい視線を送りながら。まずは初戦を突破できたことを、奉仕部の三人が喜び合っていた。

 

 

『あと一分です』

 

『了解。相模さんのスタンバイをお願いします』

 

 委員から報告を受けた雪ノ下は通話を繋げて、ステージ裏に向けて指示を出した。通話を受信のみの状態に戻すと、雪ノ下は再び二人に顔を向ける。室内にいるもう一人にはあまり聞かせたくない話題なので、声を小さくして話しかける。

 

「委員長を勤め上げることで、相模さんが何か手応えを得てくれたら良いのだけれど……」

 

「つっても、ここ何日かは、お前が言う通りに仕事をしてただけだしな。でもま、終わった後で褒めちぎっておけば、当分の間は何とかなるんじゃね?」

 

「こないだ放課後にヒッキーが言ってたよね。さがみんは、ちやほやされたいだけだって。確かにその通りだなってあたしも思うけど、でも……」

 

「そうね。無理強いすることではないのだけれど。欲を言えば、考え方を改めるような何かを掴んで欲しいわね」

 

「どうだろな。ま、雪ノ下の仕事ぶりを間近でこれだけ見て、それでも何も思わないって言われたら、どうしようもないけどな」

 

「うん、その時はその時だけどさ。でも、文化祭が終わるまでは、さがみんにお手本を見せるためにも頑張らないとだね」

 

 由比ヶ浜結衣の言葉に、雪ノ下が責任感をまといながらも軽く頷く。比企谷八幡は仕方がないなという表情を浮かべながら、へいへいと大仰に頷いている。

 

 

『ダンス同好会とチアリーディング部の皆さんに、もう一度大きな拍手をー!』

 

 そこでタイミング良く音楽が止んで、ステージから司会の城廻の声が聞こえて来た。もう少しほんわかとした進行をするのかと思いきや、こうしたノリも出せるのだなと。三人は先輩の意外な一面に目を細めている。相変わらず後輩から見守られる立場の城廻だった。

 

『続いて、実行委員長から開会の言葉をいただきます。今年の文化祭実行委員長は、二年F組の相模南さんです。では、どうぞー!』

 

 緊張の面持ちで、相模南がステージ中央へと歩いて行く。オープニングアクトを務めた生徒たちをねぎらうべく、城廻が観客を煽っている間に、ステージ上はその様相を変えていた。複数のライトに照らされて、マイクスタンドが一つぽつんと立っている。そこまで何とか辿り着いて、相模は立ち止まる。

 

『ごつん』

 

 ステージの下に集っている全校生徒に目を向けられないのはもちろんのこと。すぐ近くにあるマイクの位置すらも把握できないほどに緊張していた相模は、一礼をしようとして派手に頭をぶつけてしまった。ぶつけられた被害物たるマイクが、その音を館内にくまなく響かせる。

 

『頑張ってー』

『つかみはバッチリだぞー』

『落ち着いてー』

 

 先程の時点でも、傍目から見て緊張していることが丸分かりだったのに。今や相模はすっかり余裕をなくしていた。観客側からもそれが見て取れるだけに、相模にかけられる声は温かいものばかり。だが、それを受け取る側がどう思うかは別だ。今の相模の内心が、八幡には手に取るように理解できた。

 

「こういう時って、励まされようが貶されようが同じなんだよな。何も言われないのがまだ一番マシっていうか。まあ、観客に悪気がないのも分かるんだが、どうしたもんかね」

 

「ここから相模さんに音声通話を繋げても、効果は薄いと考えて良いのよね。では……」

 

「じゃあさ、司会の城廻先輩に助けてもらうのは?」

 

「あー、なるほどな。確かにあの性格だし、会長が適任かもな」

 

『雪ノ下です。城廻先輩にステージの袖まで来て貰って、相模さんに寄り添って欲しいと。それだけで伝わるはずなので、お願いします』

 

 雪ノ下の指示を受けて、実行委員が城廻を手招きしたのだろう。しかし城廻は舞台袖に移動することなく、小首を傾げながら相模を、次いで自分を指差して、その指を静かに相模の方へと移動させる。先程とは逆の側に首を傾げる城廻を眺めながら、雪ノ下が口を開く。

 

『城廻先輩に意図が伝わっているようなので、OKだけ出して下さい』

 

 間を置くことなく、ステージ上では城廻が相模に寄り添って、何やら指示を出している。話の内容は分からないが、出来の悪い娘に「ハンカチ持った?」などと確認している優しい母親みたいな雰囲気だなと八幡は思った。

 

 

「さがみん、挨拶の原稿を探してるみたいだね。それ読めば終わりだから、頑張れー!」

 

「まあでもあれだな。委員長の挨拶の後に副委員長の挨拶があるのは、なんか変な感じだな」

 

 ステージ上では相模が原稿の操作を誤って具現化してしまい、ひらひらと舞うようにして逃げる原稿用紙を城廻と一緒に追いかけている。手に汗を握って相模の応援を続けている由比ヶ浜を見て、ここにも母親が居たかと苦笑しながら。そういえば以前に屋上で、風に煽られた用紙を追いかけたことがあったなと思い出しながら。八幡は話題を仕事に戻した。

 

『午後からの話を説明する必要があるのだから。委員長が開会の言葉を述べて、副委員長が細かな注意事項を述べるという形で問題ないと思うのだけれど?』

 

「それはまあ、そうなんだけどな。役割分担を考えても、その形が一番だとは思うんだが」

 

『比企谷くん。人と人とが支え合って、「人」という字が出来ているのよ?』

 

「おい。お前がそう言うなら俺も言わせて貰うけど、オープニングとエンディングで副委員長の挨拶が計三回って、どう見ても間違ってる気がするんだが」

 

『とはいっても、閉会の言葉は藤沢さんでしょう。私はその前に少し総括をするだけなのだし、文化祭が無事に終わりさえすれば何も問題はないと思うのだけれど』

 

「あ、そういえばさ。藤沢さんって呼ぶのもよそよそしいし、『さわっち』とかどうかな?」

 

「一色と同じように、普通に『名前にちゃん付け』で良いんじゃね?」

 

 気が逸っているのか、雪ノ下は気安い相手に少し攻撃的な姿勢を向ける。それを気遣った由比ヶ浜が話題を逸らした。普段から雪ノ下の口撃に慣れている八幡からすれば何でもない会話ではあるのだが、せっかくなのでそれに乗っかることにした。

 

「うーん。たしかに『さわちゃん』も悪くないんだけどさ」

 

「あ、いや。なんかコスプレを始めたり、ギター持ったら性格が変わりそうだし、それは止めてくれ」

 

「ぶー。じゃあ、『ふじっぺ』とか?」

 

「時々思うんだけどな。文字数が多いよな、女子のあだ名って。楽しそうだし、見てる分には別に良いってか、むしろもっとやってくれって感じだけどな。男だったら名前を分割とかして、二文字ぐらいで呼びたい気がするんだわ」

 

『なるほど、「はち/まん」という形に分割するのね。もっとも、貴方をそう呼ぶ男性の友人が果たして居るのか、定かではないのだけれど』

 

「おい、その分割の仕方はトラウマだから本気で止めてくれ。あれは自分の黒歴史よりも辛いものがあったぞ」

 

「さっきから、ヒッキーが言ってることがぜんぜん分かんないんだけど……まあいいや。で、どれにする?」

 

 由比ヶ浜の視線の先では、オープニングの前からずっと一緒の部屋に居た藤沢沙和子が必死に出窓に張り付いて、話が聞こえなかったふりをしていた。それを見て苦笑しながら、雪ノ下が口を開く。

 

『相模さんも何とか原稿を読み終えそうだし、そろそろ私も移動するわね。藤沢さん、この後の指示出しをお願いね。由比ヶ浜さんが助けてくれるし、比企谷くんはこき使ってくれたら良いわ』

 

『了解です、副委員長。舞台の袖でお待ちしています』

 

 実行委員からの予想外の返事が、奉仕部の三人を驚かせた。冷静になって振り返ってみると、城廻に手助けして貰うように伝達した時からずっと、通話を繋げたままだった気がする。とはいえ由比ヶ浜と八幡はずっと受信のみの状態だったはずなので、会話の全容は伝わっていないはずだ。

 

 そう考えることで何とか動揺を鎮めて、雪ノ下が実行委員に向けてそれを確認しようとしたところ。

 

『その、先程から独り言を聞かせてしまって、申し訳なかったと思うのだけれど……』

 

『いえ。音声通話のマイクが良いのか、お二人の声もこちらに届いていたのですが……』

 

 今学期が始まった頃には、階段の踊り場で三人が話していただけでも大騒動だったというのに。どうして俺たちは、プライベートな会話を垂れ流す羽目に陥っているのかと。いっそこの場で悶えたくなってきた八幡だった。

 

 

***

 

 

『副委員長の雪ノ下です。午後から一般客を受け入れるにあたっての注意事項を、今から説明します。オープニングの盛り上がりに水を差すような形になりますが、大事なことなのでよろしくお願いします』

 

 城廻に連れられてステージを後にした相模と入れ替わるように、雪ノ下が壇上に上がった。実行委員にマイクスタンドを片付けさせて、自らはワイヤレスのハンドマイクを握った雪ノ下からは、先程の動揺は微塵も窺えない。それどころか、大勢から注目されることに慣れている者特有の余裕が感じられた。

 

『まず、午後一時から一般向けに開放される予定である事は、皆さんもご存じだと思います。そして今までの傾向から正午ちょうどに、運営から何かしらの通達があると推測されます。とはいえこの話は後回しにして、先に開放後の話を済ませたいと思います』

 

 そのまま雪ノ下は説明を続ける。外部からの一般客は、明日の土曜日は無制限だが今日は中高生のみ参加できること。その一方で、この世界に居る人たちは両日共に制限無しという形であること。これらは運営との打ち合わせによって前々から決まっていたことなので、聴衆からも特に大きな反応は無い。

 

『今日は平日なので、一般客はそれほど多くはならないと予測しています。ただ、現実世界の一部の中学や高校が課外学習という形で、生徒たちに我が校の文化祭を体験させることを急遽決定したという情報があります。基本的には明日の予行演習ぐらいの気持ちで良いと思うのですが、総武高校の生徒として恥ずかしくない対応をお願いします』

 

 

 そんなふうに説明を続ける雪ノ下を、PA室から三人が見守っていた。

 

「なんか、教師よりも教師らしいことを言ってるよな」

 

「それがゆきのんのいいところじゃん。さわっちもそう思うよね?」

 

「あ、その……」

 

「まあ、俺も経験したことだけどな。由比ヶ浜のあだ名は、さっさと諦めるのが一番だと思うぞ」

 

「ちょ、ヒッキー。諦めるって何だし。それに、まだ決まったわけじゃないっていうかさ。どれにしようか迷ってるんだけど」

 

 返事に窮する藤沢に軽く言葉をかけて、しかしそれ以上はフォローが思い浮かばないので、八幡は話の腰を折ることにする。さっき雑談を実行委員に聞かれたことを、由比ヶ浜は気にしていないのかなと思いつつ。それも話が続きそうに無いので、八幡は真面目な表情に戻る。

 

「正直どうでもいいから話を戻すぞ。午前中は校内オンリーで、午後一時からは外部にも開放されるけど、学校とか仕事がある連中は来るわけ無いって状況だよな。確かに小町も、今日は授業があるから明日ゆっくり来るって言ってたしな」

 

「うちのママとかも、来るなら明日だって言ってたよ」

 

「いや、だから今日は外部からは中高生のみだからな。いくらお前の……」

 

「たまにクリーニングに出す前に、あたしの制服を着てたりしてさ。ママってば、けっこう似合ってたりするんだよね……」

 

「なあ。お前の母親って、娘の制服を着て高校の文化祭に来るような天然な性格なのか?」

 

「あー、うん。否定はできない、かも?」

 

「まあ、悪いことは言わんから、全力で止めとけ。つーか、親なら現実世界とでもすぐに通話が繋がるけど、お前って学外の友達とかも多そうだよな。そいつらを呼んだりはしないのか?」

 

「うーん、そうなんだよね。呼びたい子も何人かいるんだけど、連絡がね。ママにお願いするしかないんだけどさ」

 

「なんか、交換手が電話を繋いでた時代みたいだよな。あ、昔は電話が自動で繋がるんじゃなくて、最初に交換手にお願いして、手動で回線を繋いで貰ってたらしいぞ。今でも企業の内線とかだと『社長にお繋ぎします』ってなるんじゃねーの。働きたくないから知らんけど」

 

 由比ヶ浜と藤沢が不思議そうな表情をしていたので、八幡は慣れない解説役を務めた。こんな時にユキペディアさんが居れば楽なのになと思いつつ説明を終えると、幸いなことに二人は納得してくれたようだ。

 

「話が一度で済んだらいいですけど、何度も仲介して貰うのって、いくら親でも気が引けますよね……」

 

「だね。実際には、『来る?』『行く』ってだけでは話がまとまらないしさ。あ、でもヒッキーがさっき『男だったら』って言ってたよね。男の子同士だったら、もっと話が早いのかな?」

 

「どうだろな。話は早く終わるかもしれんが、『行けたら行く』って感じの結論に落ち着くんじゃね。それよりも、向こうの現実の家に訪ねて来てくれたら、話が一度で済みそうだけどな。ま、それも難しいか」

 

「親と顔見知りの友達なら……でも、やっぱり難しいですよね」

 

「親からすれば家に上げづらいし、訪問者側にとってもハードルが高いよな。よっぽど行動力がある奴とか、後は恩とか怨みを感じてる奴とか……」

 

「なんでヒッキーは、そこで怨みなんて条件を思い付くんだし」

 

「あー、怨みってのは違うか。じゃなくて、あれだ。罰ゲームとかな。ドラマとか見てたら、遺族にお悔やみを言いに行く奴って貧乏くじみたいな感じがするだろ。あんなのを思い浮かべてたんだけどな」

 

 いつぞやの全体会議では、雪ノ下のお見舞いに行く話が出ていた。あれは仕事をサボる口実だったから乗り気だっただけで、仕事の後に行くという話であれば委員たちの反応はまるで違っていただろう。

 

 そこまで考えて、話がどんどん脇道に逸れていく現状をようやく認識した八幡は、ステージに注目するよう二人に手振りで示す。八幡と由比ヶ浜にとっては周知のことであり、藤沢にも共有済みの情報を。すなわち予想される運営からの通達を、全校生徒に向けて説明し終えた雪ノ下の姿がそこにはあった。

 

 

 オープニングのセレモニーはそのまま無事に終わった。雪ノ下が話をしながら時間を上手く調整したお陰で、生徒たちは定刻通りに、体育館から一斉に各教室へと散らばっていった。いよいよ文化祭が本番を迎える。

 

 

***

 

 

 時は少し遡って、この日の午前七時半。総武高校の近くにある喫茶店でモーニングを食べながら、奉仕部の三人が話をしていた。そこにもう一人が加わる。空いていた八幡の隣の席に躊躇なく腰を下ろして、雪ノ下陽乃は三人と同じものを注文した。

 

「どっちかが、比企谷くんの隣に座ってあげたら良いのに。あ、もしかして。恥ずかしがってる?」

 

「三人だとこの配置が定着しているので、特に他意は無いのだけれど。それよりも姉さん、ちゃんと読んできたのよね?」

 

「はいはい。そういうことにしといてあげる。で、雪乃ちゃんは誰にそれを言っているのかな?」

 

「やー、その、日付が今日に変わってすぐに出た論文ですよね。ゆきのんはともかく、あたしには読めないから、陽乃さんに来てもらって助かります」

 

「雪ノ下が深夜零時過ぎにメッセージを送ってくるって、ちょっとびびったよな。でも理由を説明されたら納得だったわ」

 

 この時間にこの場所で集合すること。その理由は、ゲームマスターが午前零時過ぎに発表した論文の内容を検証するためだと、昨夜の雪ノ下からのメッセージに書かれていた。運営から何かしらの発表があると予想される正午に先駆けて、その内容を概ね推測するために。この四人が早朝から集まったのだった。

 

 

「わたしが一気に説明しても良いんだけど、雪乃ちゃんの理解を聞いてから補足した方がスムーズかな?」

 

「あと数時間とはいえ守秘義務のこともあるのだし、それが良いでしょうね。正直に言うと、私はせいぜいウェアラブル端末ぐらいを想定していたのだけれど」

 

「それって、あれか。一般客が現実世界の校内で、設置されたモニター以外からも、歩きながらこの世界の情報を得られるようにって感じか?」

 

「ええ。なにも各教室のモニターから大きな音を出さなくても、廊下を歩いているとイヤホンを通して最寄りの教室から音が聞こえてくるような、そんな程度の想定だったわ。美術館の音声ガイダンスのことを考えれば、今さら運営がその程度で満足するとは思えないのに。不覚だったわ」

 

「まあ、論文を出すまでは箝口令が徹底してたしね。最近は特に厳しいみたいだよー。雪乃ちゃんが聞かされてたのは、マスコミに情報が流れることも見越したダミーだったんじゃない?」

 

 一介の高校生からすれば別世界の話にも思えるが、自分たちが気付かぬうちにそこに足を少しだけ踏み入れていたのだと八幡は自覚した。新しい技術をめぐる国内外の競争と、そして自分たちの置かれた立場を、八幡は嫌でも理解せざるを得ない。

 

「えっと、あたしには理解できない内容かもだけど、ここで話してても大丈夫なのかな?」

 

「一応は他の人に会話が聞こえない設定にしたのだし、それに論文が出た以上は大丈夫だと思うのだけれど。おそらく今頃は世界中で、この内容を多くの研究者が精査しているはずよ」

 

「つーか今更だけど、陽乃さんを呼んだのはなんでだ?」

 

「酷いなぁ、比企谷くんのその扱い。お姉ちゃん情けなくて涙も出て来ないよ。よよよ」

 

「いや、その突っ込みどころ満載なセリフはどうかと思いますけどね。雪ノ下だけだと、解釈を間違う可能性があるってことで良いのか?」

 

「ごく普通に使われている言葉が、特定の専門領域では全く違う意味で使われることもあるのよ。それに、論文の文章自体も独特なので、読み慣れていないと誤読の恐れが多々あると聞いているわ。だから仕方なく姉さんを頼ることにしたのだけれど」

 

「ほへー。なんだか、あたしとは別世界って感じ?」

 

「安心しろ。俺も似たようなもんだ」

 

「あ、そういえばヒッキー。今日のお昼はクラスで用意してるから、食べに行ったりしないでね」

 

「ほいよ、了解。受付をやってれば良いんだよな。ま、その話は後にするか」

 

 負けず嫌いな雪ノ下の性格が表に出ようとしていたが、由比ヶ浜が何気なく呟いた言葉でそれは奥へと姿を消した。それを確認しながら由比ヶ浜に同調して、少しだけ雑談を重ねた八幡は再び雪ノ下に顔を向けた。

 

 

「結論から言うと、私たちのように感覚や運動機能のほぼ全てをこちらの世界に移すのでは無くて。幾つかを部分的にこちらの世界に移すという、いってみれば部分的にログインする仕組みを新たに開発したと。そういう話で合っているのかしら?」

 

「気軽にログアウトできるっていうおまけ付きでね。この技術のお披露目は、文化祭とは別の場所で行うみたいだから。その辺の影響は考えなくて良いと思うよ、雪乃ちゃん?」

 

「なるほど。論文によると、部分的なログインで可能なのは視覚と聴覚、それから味覚の一部と耳の周囲の感覚だったかしら。要するに見ることと聞くことは出来るのよね」

 

「それから運動能力は、移動することと顔や身体の向きを変えることだけだね。これ、視点の移動を行ってるだけで、運動系の経路はこの世界では再現されていないって考えて良いんじゃないかな。雪乃ちゃんだけじゃなくて比企谷くんでもガハマちゃんでも、何か質問があれば言ってね?」

 

 さすがに優秀な姉妹ゆえか、真面目な話をしている時には頼りがいがあるなと八幡は思う。陽乃からも普段のおちゃらけた様子が消えて、後輩の学習を親身になってみてくれている先輩という印象だ。いつもこうなら文句は無いのになと、そんなことを思ってしまう八幡だった。

 

 

「その、気軽にログアウトできるっていうのは……あたしとかじゃ無理なんですよね?」

 

「そうね。私たちをこの世界に縛り付けているのは、乱暴に言ってしまえば同期の問題なのよ。これも腹立たしいことに、あのゲームマスターの論文が根拠になっているのだけれど」

 

「日本時間で四月七日の午後五時にその論文が発表されて、犯行声明もその時だったかな。ログアウトできないって説明を雪乃ちゃんたちが受けたのが五時半ぐらいだっけ。あれ以来、有力な反論も幾つか出てるんだけど、まだ決め手に欠ける状態なんだよね。そもそも、理論的に大丈夫だからログアウトさせますって、誰が決定できるかって問題もあるんだけどねー」

 

「そっちの事情はなんか解りやすいんですけど、同期の問題ってのが……」

 

 姉妹で少しだけ目配せをし合って、より専門知識に詳しい陽乃が説明を引き受けたのか、そのまま解説を始める。

 

「脳の中での知覚と現実の世界では、時間的にズレがあるって話は知ってるかな。これ、正確に説明しようとしたら長い話になっちゃうんだけど……さわりだけで良いか。例えばね、脳の中で『手のこの辺りを触られた』って感覚を担当する部分があるのね。そこを電気で刺激するのと、実際に手のこの辺りを刺激するのとだと、感覚が同時に起きるとは思わないよね?」

 

「え、っと。あたしも、なんか変だなってのは思うんですけど……」

 

「その、皮膚から脳まで感覚が伝わる時間の分だけ、感覚がずれる気がするんですけど」

 

「うん。比企谷くんの推測が、わたしが言って欲しかったことだね。実はこの実験を行った人は、逆に皮膚からの方が早く感覚が起きるだろうって推測してたんだけど。って、あー、ごめん。今のはちょっと意地悪だったなってわたしも思うから、雪乃ちゃんもそんなに睨まないでよー」

 

「正確さに拘りたい気持ちは解るのだけれど、せっかく得られた理解を乱してしまったら本末転倒ではないかしら。とにかく、意識の時間と現実の時間にズレがあること。そしてこの世界の時間ともズレがあるということが話の基本なのよ。そこから、ログアウトできないという結論までには、多段階の論理が積み重なっているのだけれど。その部分は私にも姉さんにも正直お手上げね」

 

「解るような解らんような感じだけど、それが部分的なログインだと同期が楽だってことか?」

 

「意識の大部分をこの世界に移している私たちとは違って、ズレが少ないので同期が簡単だというふうに私は受け取ったのだけれど?」

 

「雪乃ちゃんのその理解で良いんじゃないかな。他に何か質問は?」

 

 陽乃にそう言われて、今度は八幡が口を開いた。

 

 

「先月頭に、現実世界の親と一緒に家族で食事をしたんですけど。あっちだとスマホとかタブレット越しに見るって感じですけど、こっちの世界では親が隣に居るように再現されますよね。でも顔とかは割とリアルだったんですけど、首から下はそんなにっていうか、ずっと座ってるだけだったんですよね。この間取材に来た記者とかもそんな感じでしたし」

 

「たぶん、今回のゲストも同じような再現具合じゃないかな。さっき雪乃ちゃんが言ったように触覚とかはほとんど無いから、身体をぶつけても何にも感じないだろうし。無駄な情報量を省くって点から考えると、そうだね。全身は見えてても、手を伸ばしてもさわれないどころか、そのまま素通りするんじゃないかな。要するにお化けみたいな感じだね。雪乃ちゃん、怖い?」

 

「こ、この世界のプログラム上の欠落によるお化けなど、特に怖いとは思わないのだけれど」

 

「うんうん。現実世界のお化けって怖さが違うよねー」

 

 実はお化けが苦手なのかと、また一つ雪ノ下のことに詳しくなった八幡だった。

 

 千葉村で二日目の朝に肝試しの話をしていた時には平気そうだったが、よく考えてみれば雪ノ下が先ほど口にしたプログラム云々の話は、あの時に八幡が捻り出した屁理屈とそう変わらない。だがそれを指摘したら怖い反応が返ってくるのは火を見るよりも明らかなので、心の中で突っ込むだけに止める八幡だった。

 

 

「じゃあ結論としては、一般客は各教室でモニターを眺める連中と、その論文にあるような部分的なログインをしてくる連中がいるってことですよね。この間の記者みたいに変な事を言ってくる奴が居たら、お帰り頂くのが面倒そうだよな」

 

 姉妹の間を何とか由比ヶ浜に仲裁してもらって、少し疲れた様子の女性陣に苦笑しながら八幡が話を進める。

 

「とはいっても、現実世界でも面倒な人は面倒なのだから、それほど大差が無いと考えるべきかもしれないのだけれど。とにかく、午前中は校内のみで、午後は少数の一般客を受け入れて。一つずつ課題をクリアして明日に繋げられる形だし、流れとしては悪くないわね」

 

「うん。お客さんと揉め事とかが起きたらあたしも頑張るし、相手が大人とかだったら先生を呼べば良いんだしさ。今からあんまり身構えすぎないようにして、あと二日間を頑張ろっ!」

 

「そうね。それに大人との揉め事なら、無駄に顔が広い人がそこに居るのだから。遠慮なく使い倒せば良いと思うのだけれど」

 

「ちょっと雪乃ちゃん、お姉ちゃんこれでも大学生なんだよー。今日も一限から授業があるし、そりゃあ午後の実験は早く終わらせることもできるけどさ。ちょっと最近、姉使いが酷いんじゃないかな?」

 

「先日も言ったように、私は姉さんのことを、それなりに高く評価しているのよ。この程度の事ができないとは、思ってもいなかったのだけれど?」

 

 おそらく陽乃が求める答えとは違うのだろうが、と八幡は思う。妹にちょっかいをかける理由を水曜日に陽乃に問い掛けたものの。妹のほうから突っ掛かる場合も多そうだよなと、そんなことを考えてしまう八幡だった。

 

 

 ふと気付けば、既に時刻は午前八時を大きく回っていた。店を出た一同は三人と一人に分かれて、前者は文化祭の遂行のために。後者は知識の吸収のために。各々が全力を尽くすべき場所へと移動する。

 

「何だかんだでお前、陽乃さんのことを高く評価してるんだな」

 

「あ、あたしもそれ思った。それに、時間のズレが何とかって説明してくれてた時の陽乃さん、教えかたがゆきのんと似てるなーって」

 

「そうね。……私も昔は、ああなりたいと思っていたから」

 

「いや、ならなくていいだろ。そのままで。姉妹なんだし似てる部分もあるんだろうけどな。お前と陽乃さんでやり方が違う部分も色々あるし。この間、謙虚か尊大か、みたいな話があったけど、要は自分にあったやり方で良いんじゃね?」

 

「でもさ。ヒッキーに合ったやり方って、見てて時々不安になるんだけど、大丈夫だよね?」

 

「そうね。人のことを言う前に、比企谷くんにも考えて欲しい事があると思うのだけれど。それと由比ヶ浜さん。時間のズレの話は、また近いうちに補習を行うわね」

 

 そんなふうにお互いにお互いを順に槍玉に挙げ合いながら。三人は揃って校舎の中へと姿を消した。

 

 

***

 

 

 オープニングのセレモニーを終えて体育館を後にすると、八幡は由比ヶ浜と連れ立って二年F組の教室へと移動した。クラスの出し物にはほとんど貢献できていないので、少し肩身が狭い思いがする。だが、何となく感じる違和感はそれだけが原因とは思えない。

 

 そう考えた八幡は、クラスメイトが自分に向ける視線を吟味することにした。すると一つの推測が浮かび上がってくる。おそらくは相模から、実行委員会でのあれこれが伝わっているのだろう。考えてみれば当たり前のことだ。それでも自分が完全に悪者というわけではなさそうなので、八幡は特に何も手を打たず放置することにした。

 

 そもそも初めての公演を前にして、クラスの中は異様な熱気に包まれている。海老名姫菜が最後まで少しでもクオリティを上げようと、容赦のない指摘を各所で繰り返して。三浦優美子が「隼人と比べたらみんなモブだし」という謎の理論で出演者の緊張をほぐしていく。

 

 そんな教室からいったん廊下に出て。八幡は事前に由比ヶ浜から依頼されていた通りに、出入り口横に準備された受付に腰を下ろす。午後になると現実世界からの客に応対することもあるのだろうかと、八幡には珍しく他者との遭遇に少しワクワクしながら時間を過ごしていた。文化祭の熱気に、どうやら俺もやられたみたいだと八幡は思う。

 

「あ、ヒッキー。ちょっとこっちに来て」

 

 由比ヶ浜に呼ばれて再び教室に足を踏み入れると、そこではクラスメイトが円陣を組んでいた。相模が居る一帯から冷たい視線が送られて来るが、どこかの部長様が放つ冷気と比べるとクーラーと猛吹雪ほども違う。

 

 由比ヶ浜に迷惑が掛かるようなら遠慮もしたが、クラスの大部分はどっちつかずの状態に思えたので、八幡は遠慮なく輪の末端に加わることにした。輪の真ん中に居る海老名は別格として、由比ヶ浜と三浦から始まる辺りが輪の先端で、八幡が輪の末端だ。先端と末端が隣り合わせだなどとは、気が付いても口にしてはいけない。

 

 そんなくだらないことを考えながら、八幡は海老名の掛け声に続けて。小声ではあったけれども同級生と声を揃えて、劇の成功を誓った。

 

 

***

 

 

 公演時間を迎えて、八幡は受付を打ち切ると自らも教室の中へと移動する。海老名の初稿こそ読んだものの、主演が八幡では無くなってからの台本には目を通す時間が無かった。だから八幡は新鮮な気分で劇を眺めることができると思っていたのだが、初稿と比較できてしまうという落とし穴が待っていた。

 

 最初に目を奪われたのは、戸塚彩加の可憐さ。次いで、川崎沙希が作ったという衣装だった。二人とも、大したものだと八幡は思う。その他のクラスメイトも海老名の演技指導には苦労したのだろうが、本番ともなればコント的な扱いでも楽しそうにこなしていた。

 

 八幡が提案した演技スキルは、場面の切り替えの他にも、原作のあのイラストを効果的に提示するためにも使われているようだった。この辺りの演出はさすがだなと八幡は思う。

 

 そして八幡が待ち望んでいた場面になる。あのキツネが現れたのだ。王子さまのセリフは、八幡が見た原稿では「やらないか?」だったのだが、ここでは原作に近いものに変更されていた。だがそのぶん、キツネのセリフが酷かった。

 

「俺をテイムして、その道に目覚めさせてくれ!」

 

 なんですかこれはと八幡は思った。キツネの教えを受けてテイマーとなった王子さまが男色の王国を築くという、監督脚本演出は誰だと叫びたくなるような超展開がそこにはあった。ちなみに三つの役職は全て一人の腐女子が兼ねている。

 

 この間の月曜日に思い出したように、キツネが口にする「飼い慣らす」という表現は幼い頃の八幡にとってはお気に入りだった。中学の頃には、原文のフランス語では”apprivoiser”という単語であること。さらに英語では”domesticate”とか”tame”に当たるということを調べたりもした。

 

 おそらく海老名も、そうした語源を調べた上で脚本を書いたのだろう。だがその結果がこれである。時間と労力をかけても方向性がアレだとこうなるんだなと、苦笑するしかない八幡だった。

 

 それでもラストシーンが終わると、クラスの中は大盛況に包まれた。王子さまがヘビに噛まれて王国は瓦解し、「ぼく」のモノローグで幕が下りた。「ぼく」を担当した葉山隼人の名を大勢が叫ぶのを聞いて初めて、そういえば葉山も出ていたなと気付いた八幡だった。戸塚ばかりを見過ぎた結果であることは言うまでも無い。

 

 

***

 

 

 八幡が再び受付に腰を下ろして、稀に来る客に次回の公演時間を教えながら過ごしていると、大きなビニール袋を抱えた由比ヶ浜が現れた。そのまま机を回り込んで、八幡の隣の椅子に腰を下ろす。

 

「これ、お昼のハニトー!」

 

「いや、ちょっと待て。これ一斤あるだろ?」

 

 生クリーム盛り盛り、トッピング増し増しの恐ろしい姿にも臆することなく、由比ヶ浜は手でちぎって紙皿に取り分けると、おもむろにかぶりついていた。軽い雑談を重ねつつ、二人が食事を進めていると。もぐもぐと食しながら、由比ヶ浜は何でもない口調で全く別の話を始めた。

 

「さっきの円陣、嫌じゃなかった?」

 

「まあ、クラスの仕事をしてないから肩身が狭かったのは確かだけど、肩身が狭いのって今に始まったことじゃねーからな」

 

「何だか、ヒッキーらしいね」

 

 おそらくはこれが本題だったのだろうと思いつつ。どうやら答えに満足してくれたようで、八幡は密かに胸をなで下ろす。ついそのまま由比ヶ浜の食べっぷりを眺めていると、唇にクリームがついていた。それを舐める舌の動きが艶めかしくて、八幡は思わず視線を逸らした。その先に、見知った後ろ姿を見付ける。

 

「あれ、ゆきのん……って行っちゃった」

 

「見回りの最中だったみたいだし、気付かなかったのかもな」

 

 少しだけ違和感を覚えながらも、二人はそれほど気にすることなく食事を続けた。

 

 

「そろそろ十二時だね。運営の発表って、やっぱりあの通りかな?」

 

「まあ論文の内容を聞いてる限りは、大きく外れてるとは思えねーけどな。そういやこれ、外の店で買ってきたんだろ。支払とかってどうしたらいい?」

 

「うーんと、どうしよっか。別にあたしのおごりでも良いんだけど?」

 

「いや、そういうのはちゃんとした方が良いだろ。養われたいとは思うが、施しを受けようとは思わんしな。つっても、この世界では金の苦労とかあんま無いけどな」

 

「だから別に良いって言ってるのに、ヒッキーって面倒臭い時があるよね」

 

「それを言うなら、雪ノ下もけっこう面倒臭いだろ」

 

「だねー。でもさ、ゆきのんは可愛いじゃん。ヒッキーは、うーん、なんだろ。あ、ゆきのんと違って、放って置いたらいつまでもそのまんまって感じがするんだよね」

 

「あー。まあ、働きたくないとか言ってるし、その印象は合ってるかもな」

 

「でしょ。ゆきのんも面倒臭い部分はあるけど、それでも動こうとしてくれるけど。ヒッキーは……うーん。でもさ、前と比べると動こうとしてくれてるのが分かるから、不満とかってわけじゃないんだけどね」

 

「まあ、いきなり性格を変えるとか無理だからな。今後にご期待下さい的なアレで良いんじゃね?」

 

「それもヒッキーらしいね。そういえばさ、前にゆきのんが、いつだっけ。ヒッキーが奉仕部を離れてて、連れ戻そうってみんなで集まってた時だったかな。その時にゆきのんが、『相手の動きを待つよりも、私なら自分から動きたいところね』って言ってて、何だか凄いなーって思ったんだよね」

 

「ほーん。まあ雪ノ下らしいっちゃらしいな。んで?」

 

「うん。だからあたしもさ。いざとなったら、待つよりも……自分から行くの」

 

 声の口調に変化は無い。しかし八幡には、相当の決意を秘めて由比ヶ浜が言い切っているのが理解できた。決意の内容は分からない。けれども決意の深さは理解できてしまった。返す言葉を持たない今の八幡に口を開かせる時間を与えず、由比ヶ浜はそのままこう続ける。

 

「そう、決めたんだ」

 

「……そうか」

 

「うん、そうだ」

 

 おそらく、由比ヶ浜が動いた時には、自分を取り巻く今の環境は大きく変貌を遂げるのだろう。もう少しだけ今のままで、と考えるのは自分のわがままに過ぎないと知ってはいても。それでも八幡は、反射的にそれを願わずにはいられなかった。そんな自分に嫌気が差して、八幡は話を元に戻す。

 

「じゃああれだ。お前が自分から動いて取り立てられる前に、今日の支払は何かで返すわ」

 

「……ふう。ヒッキーらしいね」

 

 本日三度目のそのセリフは、少しだけ違った印象を受けた。

 

 すっかり普段と同じ様子に戻って別の雑談を始める由比ヶ浜に苦笑していると、高校内に時報が響き渡る。この日の生徒たちにとっては特別な意味を持つ、正午を告げる鐘の音が。校内にくまなく伝わって消えた。




そんなわけで、戌年の1月11日に通算111話をお届けしました。
次回は間隔が空いて申し訳ないですが、2月20日頃の予定です。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(1/13)
なぜか全角ダッシュになっていた箇所を全角長音に、演劇スキルと書いていたのを演技スキルに修正しました。(4/2)

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