俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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本話はシリアスな内容が含まれますのでご注意下さい。
以下、前回までのあらすじ。

 文化祭の初日、午前中は大過なく過ぎた。委員長の相模が挨拶で少しヘマをしたり、奉仕部三人の愉快な会話がダダ漏れになるなどのアクシデントこそあったものの、多くの生徒たちはそれらも含めて文化祭を満喫していた。

 二年F組では、今日は八幡もクラスの一員として受付の役務に服していた。無事に終わった初回の公演を見届けて、由比ヶ浜と会話を重ねながら昼食を摂って、一般客が訪れる午後に備える。早朝から雪ノ下姉妹と一緒に対策を立てていたこともあり、八幡は程よい緊張感とともに正午の鐘の音を聞いた。



16.つまらない連中は相手をするだけ無駄だと彼は思う。

 午前に行われた初回公演に続いて、午後二時からの第二回公演も大盛況の中で幕を閉じた。二年F組主催の演劇は既に大きな話題になっていて、明日の動員も期待できそうな雰囲気だった。出演者の顔ぶれに加えて、観た客が思わず誰かに話したくなるようなぶっ飛んだ脚本も功を奏したのだろう。

 

 監督・脚本・演出を兼ねる海老名姫菜以下、クラスの首脳陣や出演者の多くは今度は参加者として文化祭を堪能すべく、有志の出し物が行われている体育館や他のクラスへと移動して行った。

 

「ホントに、ヒッキーは交替しなくていいの?」

 

 そんなクラスメイトたちを見送って、比企谷八幡は引き続き教室の出入り口で受付の仕事をしていた。明日は文化祭実行委員としての仕事があるので、クラスに貢献することができない。それに準備期間中もクラスとの関わりがほとんど無かったので、このぐらいはやらせて欲しいと八幡は答えた。

 

 それが実は建前で、八幡の本音が「独りで座ってるだけで仕事になるんだから楽なもんだ」であることに気が付いている由比ヶ浜結衣は、しかしそれを指摘することなく八幡の希望を尊重した。

 

「今日の公演はもう無いし、あんまり仕事はないと思うけどさ……何かあったらすぐに呼んでね」

 

「まあ、明日の公演時間を教えるのと、教室で今日の公演のダイジェストが観られるって伝えるぐらいだしな。リアルの客も予想以上に大人しいし、特に問題ないだろ。それよりお前も楽しんで来いよ。言っとくけど、生クリームは当分は見たくないし、差し入れとかも考えなくて良いからな」

 

「ヒッキー、何だかなんだ言いながらハニトーを全部食べてくれたもんね。美味しいって言ってくれたのは嬉しいけど、次はちゃんと量のことも考えるね」

 

「おう。てか味が良かったのは本当だからな。あんま気にすんな」

 

 話し方なのか素振りなのか原因ははっきりしないが、どことなく由比ヶ浜が普段よりも大人びて見えて、いつもよりも心持ち丁寧に応対してしまう八幡だった。思い当たる原因はもう一つあって、先程の由比ヶ浜の発言を気にし過ぎだと、八幡は自分で自分に突っ込みを入れる。

 

 八幡がそんなふうに内心で葛藤しているとは夢にも思わない由比ヶ浜は、軽く頷きを返してから、また別の話を始めた。

 

「リアルからのお客さんは大体ゆきのんと陽乃さんの想像通りだったし、今のところいい感じだよね」

 

「だな。てか事前には思い付かなかったけど、課外学習扱いってことは引率の先生が居るわけだし、あんま変な行動はできねーよな」

 

「あとやっぱりさ、ログアウトできなかったら怖いなって思うと思うんだよね。いくら運営とかが大丈夫だって言っても、実際にあたしたちがこの世界に閉じ込められてるわけだしさ」

 

「それって……ああ、部分的とはいえ実際にログインしてくる連中はそれなりに肝が据わってるから、変な奴らは少ないって意味な。どっちにしても、ちょっとびびり過ぎだったか?」

 

「でもさ、明日は中高生だけじゃなくて普通の人も来るじゃん。ちゃんとログアウトできるって分かったら、ログインしてくる人も増えそうだしさ。だからゆきのんが言ってたように、予行演習って考えたら……」

 

「ま、それもそうだな。そういや、隣のE組でやってるジェットコースターだけどな。リアルの客に合わせて仕様を変更するらしいぞ。さっき暇だから聞き耳を立ててたら相談を始め出して。うちのクラスは演劇で良かったよな」

 

「モニター越しだと見てるだけだし、ログインしても……たしか、見るのと聞くのしかできないんだっけ。がたがた揺れてるのが伝わって来ないと、面白くないよね」

 

 今朝方の話し合いを思い出して、由比ヶ浜がそう答えた。

 

 視覚と聴覚だけは保たれていて、他の感覚はほとんどが無効だというリアルからの来訪者。八幡はそんな彼らのことを想像してみた。がたがたとした揺れを感じるのは、触覚とは少し違う気がするが、ではその感覚を何と呼ぶのだろうか。その他にも、いわゆる五感には含まれない感覚があるのだろうか。普段は気にも留めないようなことだが、よくよく考えてみると面白いものだなと八幡は思った。

 

「視覚と聴覚と、あとは味覚の一部って話だったけど、味の再現性は低いらしいぞ。食べ物を出してるクラスがリアル客に備えて変更しはじめたら、ちょっと面倒だな」

 

「仕事の何が嫌って、赤で訂正が入った書類の山を見た時だよね。ゆきのんが書類をさくさく処理してるのを見ると、ほえーって感じでさ」

 

「まあ、あいつの事務処理能力は凄いよな。この世界だと食べ物の情報が出るから食中毒とかの心配は無いし、保健衛生の認可も省略できるけど、申請書類の量は同じだしな……」

 

 そんなふうに会話を続けながら、由比ヶ浜がかつてとんでもないクッキーを生み出した時のことを八幡は思い出していた。製作者を除く全ての者に、強烈なデバフ効果を定期的にもたらすあの凶悪なアイテムは、一体何だったのだろうかと八幡は思う。生命の危険を乗り越えた後でアイテムの解説文を読んで、これはこの世に存在してはいけない物質だと思ったあの時のことを振り返って、八幡は冷や汗を流しながらも苦笑いする。

 

「おーい。結衣も早く来なよ。ヒキタニくん、結衣を借りていく代わりに……」

 

「あー、気を遣って葉山とか置いていかなくて良いからな。ぼっちで受付をしたい年頃なんだわ」

 

「だよねー。ちょっと隼人くんネタもパターン化してきてるから、新しいカップリングを考えておくね」

 

「いやもう本当にお気遣い無く。つーか止めて下さい」

 

 最近はようやく海老名の扱いにも慣れてきたと思っていたのに、変なアドリブを混ぜないで欲しいと心から思う八幡だった。

 

 

***

 

 

 そこに居るだけで華やかな雰囲気を醸し出すトップカーストの女子生徒たちを見送って、八幡は念願通りにだらだらと時を過ごしていた。彼女らと居ても緊張することは少なくなったが、華が消えて物寂しくとも平穏な環境のほうが落ち着けるなと八幡は思う。

 

 由比ヶ浜たちを見送ってから程なくして、相模南の一派が教室に帰ってきた。クラスの仕事にあまり関わっていない点では八幡と同じ立場の相模だが、実行委員長の肩書きは便利なもので、適当に出歩いていても相模を非難する同級生は居ない。

 

 相模と同じグループの生徒たちは、劇に出演するのではなく裏方に回っていた。そもそも海老名が脚本を書いている時点で女子の出演者は求められていなかったのだが、仮に出演を要請されても彼女らは断っていただろう。そこには、メイクなり衣装合わせなりの理由を付けては葉山隼人に話しかけて、あわよくばトップカーストの三人娘以上に、そこまで行かなくともせめて同程度には葉山グループと親密になりたいという、彼女らなりの計算があった。

 

 だが蓋を開けてみれば、劇の練習時に葉山や戸塚彩加に話しかけるライバルの数は多く、特に衣装作りの腕が飛び抜けている怖い女子生徒の存在が致命的だった。

 

 もちろん川崎沙希としては彼女らの邪魔をしたつもりはなく、衣装に関して妥協はしたくないから言いたい事があるなら言ってくれという心境だったのだが、本音では衣装は二の次である彼女らにそれが伝わるはずもない。葉山に近付くための別の理由を思い付けるわけもなく、こうして彼女らの思惑は泡と消えた。

 

 結果として、衣装を手直しする必要が出たらすぐに対処すべく公演時には教室で待機する予定の川崎とは違って、彼女らは初回公演を観てしまうと手持ち無沙汰になってしまった。第二回公演に向けて盛り上がるクラスの輪には一応参加したものの、彼女らはそのまま教室を離れて他クラスや体育館を一通り見て回って、そして劇の出演者たちと入れ替わるようなタイミングで帰ってきたのだった。

 

 八幡を一瞥することもなく、その一団は歩みを緩めず教室の中へと入っていく。これでは、八幡の存在を強く意識していることが却って丸分かりではないかと思うのだが、彼女らにしてみれば大きなお世話だろう。無視をしたその当人に心配されるのは嫌だろうなと考えて、八幡は特にリアクションを起こすことなく、そのまま彼女らの好きにさせた。

 

 

***

 

 

 また少し時間が過ぎて、八幡はふと校内が活気づいていることに気が付いた。

 

 正午に運営からの通達があった時にも、午後一時になって一般客を迎える段になっても、未知への緊張からか校内の雰囲気はどこか重苦しいものがあった。そして来客側としても、モニター越しであれ部分的なログインをした者であれ、また何か事件が起きるのではないかと身構える気持ちが強かったので、校内にはぴりぴりとした空気が漂っていた。

 

 運営が別の場所で行ったデモンストレーションによって、新しい技術(彼らはログイン/ログアウトという言葉を避けて、バーチャル・リアリティ=VRを体験する/体験をやめるという表現を使っていた)の概要は即座に広まった。犯罪を引き起こした組織であるにもかかわらず、司法当局といかなる取引を交わしたのか。発表の場には多くの著名人が顔を揃えて、実際にVR体験(八幡たちが言う部分的なログイン)を行っていた。

 

 だが、有名人には危害を加えず名もなき一般人を標的にしている可能性も否定はできない。そのため、文化祭の一般客もモニター越しの参加者が大半で、部分的なログインを行った勇気ある者はごく僅かだった。それでも、挑戦者たちの全員が無事に現実世界に帰還できていること、そしてゲームマスターが論文の中で「外部から無理矢理リンクを断ち切っても、フルダイブとは違って健康被害は発生しない」と保証していることもあり、新しい技術の体験者は少しずつその数を増やしていた。

 

「由比ヶ浜が言った通り、ログインして来る奴が増えてるのかね?」

 

 八幡を始め校内の生徒たちには、一般客がモニター越しとログインとで、どの程度の比率になれば適切なのかが判らない。初めてのことなので何もデータが無いからだ。だが、実際に来校者の姿を見ることで、遅まきながらもある程度の推測が可能になる。

 

 課外学習という形で総武高校の文化祭を体験しに来た中高生たちは、やはり教育熱心な学校が大半なのだろう。ゆえに保護者たちが我が子の安全を求める声も大きく、結果として大多数がモニター越しでの体験になっているのではないか。引率教師の責任ということを考えても、その推測は妥当だろうと八幡は思う。

 

 そして今の校内に満ちている活況を見るに、そうした層とは違った連中が多くログインして来たと考えて良さそうだ。社会人が仕事を終えるにはまだ早いので、学生が主体なのだろう。ニュースを見て興味を持って、学校帰りに寄ってみた、といったパターンが多そうだ。

 

「つーか、俺もそうだったけど、ゲームマスターの論文を信用し過ぎだろ……」

 

 八幡自身も先ほど由比ヶ浜に言われるまでは気付かなかったが、犯罪者の「大丈夫」を信用するのも変な話だ。なのに、八幡だけではなくあの雪ノ下姉妹ですらも、論文が保証する内容には疑いの目を向けていなかった気がする。もちろん論文を深く読めない八幡とは違って、彼女らは論文の中に相応の根拠を見出しているのだろう。だが、それとは別の理由もありそうだと八幡は思う。

 

 おそらく「自分たちがログアウトできない」という重い事実が、そして「外部から無理に断ち切ろうとしたら、重大な損傷が発生する」という論文の記述が、ゲームマスターを信用する気持ちに繋がっているのだろう。つまり、目の前の事実に勝る説得力はないということだ。事実、俺たちは脳だか神経だかがやられる可能性があるから、定められた期間以外にはログアウトができないのだし、そうした危険性を指摘しているゲームマスターが大丈夫だと言うのなら、部分的なログインは安全なのだろうと反射的に受け入れてしまう。

 

「あれか。ストックホルム症候群って、こんな感じなんだな……」

 

 月曜日の取材を思い出しながら、八幡は物思いに耽る。だが、八幡の平穏な時間は長くは続かなかった。

 

 

***

 

 

 がやがやとした声が廊下を伝って、徐々に近付いて来ていた。現実世界に居る運営の人たちに協力させて、柄の悪い連中は入り口の時点で極力お帰り頂く予定だと副委員長様が仰っていたので、騒々しいとはいえ大した連中ではないのだろうと八幡は思う。

 

 そのまま物思いを続けようとした八幡の推測は正しく、そして八幡以外の者であればなんの問題も起きなかったのだろう。だが、問題は。

 

「あれっ。もしかして、あいつ……比企谷?」

「え、マジ?」

「あいつ、総武に行ってたんだな。お前ら知ってた?」

 

 微妙な距離を空けて立ち止まって、聞こえよがしに会話を始める三人の声を聞いて、八幡は反射的に身を固くさせる。右肘をついて視線を廊下の天井付近に向けていた八幡は、その姿勢のまま眼だけを動かす。三人の顔も名前もまるで思い出せないが、声の調子や話の展開は、中学の頃と変わっていない。

 

 おそらく今も、彼らの立場に変化はないのだろう。トップカーストには程遠い、カースト下位に属する者たち。そしてカースト底辺の八幡が何かをやらかした時には、決まって真っ先に口を挟んできた連中が、そこに居た。

 

「比企谷って成績良かったっけ?」

「なんか、教室の隅のほうでずっと変な本を読んでたよな」

「あれだろ、二次元の美少女が表紙の……ラノベって言ったっけ?」

「ぷっ、美少女ってお前……」

「お、俺は読んでないからな。てか他になんて言ったらいいんだよ?」

「何でもいいけど、総武に入れたってことは成績は良かったんだろうな、成績は」

 

 頑なに姿勢を維持したまま、八幡は小さく舌打ちをする。どうせ、こちらに責められる理由がない時には、敢えて関わろうとはして来なかったような連中だ。言わせておけばじきに飽きるだろうと八幡は思う。

 

「まあ、成績は良くても、普段の行動とか態度がな」

「協調性は無いし、奇行に奔るし、そのくせ同級生を見下して偉そうにしてたよな」

「俺たちがせっかく忠告してやっても無視したりな。って、それは今も変わってないか」

 

 何がおかしいのか分からないが、一斉に笑い出した三人を横目で捉えて、「品の無い連中だ」と八幡は思う。自分たちが見下される理由に気付けないどころか、カースト下位の分際で自分たちが見下されるわけがないと思い込んでいる辺りが痛々しい。俺のことを馬鹿にしているようで、その実は自分たちの馬鹿っぷりを披露しているに過ぎないと、高校生にもなれば気付いて欲しいものだと八幡は思う。

 

 だが、無意識に息を吐いたことが、連中の癇に障ったらしい。

 

「おっ。そのため息の吐きかた、久しぶりに見たわ」

「総武に入った俺は、お前らと違って偉いんだぞー、みたいな?」

「あー、そんな感じで内心で思ってそうだよな」

 

 まるで成長していないと言うよりも、これは悪い方に成長していると言うべきなのだろうなと八幡は思う。相手にしなければ良いと思っていたが、勝手に人の内心をでっち上げるなど鬱陶しさが増している。どこぞやの部長様を一目見れば、自分が偉いなどとは思えるはずもないだろうに。あるいはこの連中は、あいつを見てもその凄さを理解できないのかもしれないなと八幡は思う。こいつらと同じ高校に進まなくて良かったと、頑張って上の高校を目指したかいがあったと八幡は思った。

 

「なあ。あの左手の腕章って、もしかして、文実?」

「え、マジか。あの比企谷が文実って……でも、どうせフリだけだろ」

「いかにも仕事してますって感じで偉そうなことを言いながら、実はサボってる、とかな。今もそんな感じだよな」

 

 反射的に左手を隠そうとしたが、変な動きをすれば却って連中に口実を与えるだけだ。そう考えて、八幡は身動きをせずに我慢している。どうして俺は、ここまで言われて黙っているのだろうか。()()()なら反論の余地なく論破するのだろうし、()()()だって違うと思った時にはハッキリそう口にするはずだ。なのに……。

 

 

「ヒッキー!」

 

 今まさに思い浮かべていた彼女の声を聞いて、八幡は思わず顔を上げてしまった。顎を乗せていた右手も机からずり落ちて、普通に座っているような姿勢になる。

 

 由比ヶ浜は受付の机の前まで走ってくると、八幡を背後に庇うようにして件の三人と向かい合う。見るからにリア充な女子生徒の登場を見て、狼狽する三人。しかし、八幡が推測した通り、彼らは悪い方に成長していた。リア充を見てビビリながらも、即座に白旗を揚げることはしない。

 

「お前、なんで……?」

「これ」

 

 由比ヶ浜が手早く操作をして、つい先ほど届いたメッセージを見せてくれる。差出人は意外にも相模。そして本文には「ヒキタニくんが絡まれてるみたい。どうしたらいい?」と書かれてあった。

 

 一瞬だけ、相模が意地悪く嗤う姿を連想した。だが、今の状態でこいつらには会いたくないという八幡の捻くれた発想を、相模に理解できるとは思えない。だからこれは八幡に対する嫌がらせというよりは、仕方なく由比ヶ浜に連絡したということなのだろう。相模自身は関わる気はさらさら無いが、教室に居るのに我関せずを貫いて、後々問題になったら面倒だと考えた結果だろう。

 

 だが、そんな相模の保身行為によって、八幡は窮地に陥っている。こいつらを、こんな連中とは関わらせたくなかったのに。俺がさっさと撃退していたら、あるいはさっさと逃げ出していたら、こんな事態にはならなかったのにと八幡は思う。

 

「ヒッキーに、何か用?」

 

 攻撃的な感情を隠すことなく、由比ヶ浜が三人に問い質す。だがその激しさゆえに、普段の由比ヶ浜とは違って相手に逃げる余地を与えていないがゆえに、三人は一目散に逃げ出すことなくこの場に留まることができた。

 

「ぷっ、ヒッキーって……」

「比企谷にぴったり過ぎるよな」

「そいつ、偉そうなのは態度だけで碌な奴じゃないですし、庇う価値とか無いですよ?」

 

 誰一人として、由比ヶ浜と視線を合わせられる者は居ない。不自然に顔を八幡に向けて、発言だけを由比ヶ浜に聞かせている形だ。

 

「あたしはそう思わない。じゃあ、他に用事が無いなら帰って」

 

 そして、由比ヶ浜の言葉に一切の迷いが無かったがゆえに、三人は彼女を憐れむ気持ちになった。それは即座に八幡への悪評に繋がる。

 

「こんな子をだまくらかすなんて、中学の頃よりたちが悪くなってるよな。ちゃんと教えておいた方が良いんじゃない?」

「昔の話ですけどね、そいつがバイトを始めてすぐにバックレたんですよ。なのに俺を使いこなせない店長が悪いとか、俺とまともに会話できない店員は辞めろとか、親が勝手に謝りやがってとか、そんなことを言ってた奴ですよ?」

「あと、くじ引きで学級委員になったのに、一週間で職務放棄したりとかな」

 

 三人の言葉に、八幡は内心で反論を述べる。中学の頃よりたちが悪くなってるのはお前らだし、俺は別に由比ヶ浜を騙そうなどと思ったことはない。むしろ、こいつらだけは騙したくないと思っているし、俺のせいで迷惑が掛かるような事態にはなって欲しくない。なのに、今は……。

 

 バイトの話は、確かにバックレたのは事実だ。けど、こいつらあの時の俺の戯れ言を聞いてたのかよ。バイトもまともに出来ない自分が情けなくて、無理に強がって適当なことを言ってただけなのに、なんでこんな馬鹿げた話を覚えてるんだか。お前らだって、悪いのは自分じゃないってよく責任転嫁してただろうが。

 

 学級委員の時のアレは、俺の黒歴史だからな。どうせお前らも、あの時に噂を広めてくれたんだろうけど、それを善意だと思ってやってる辺りが変わってねーよな。今改めて思ったけど、やっぱりお前ら碌でもねーわ。お前らが俺を責める根拠って、何年か前のことばっかじゃねーか。しかも都合の悪い部分はしっかり伏せて説明してやがるし、やっぱりたちが悪いのはお前らの方だろが。

 

 

 だが、こうした思いを口に出すことが、八幡にはできない。中学での三年間によって、どうしようもないほどに彼らの性格を把握してしまったから。

 

 八幡は水曜日に葉山が言った言葉を思い出す。葉山が「身動きできない状況が多い」と口にしたのを耳にして、八幡はこう思ったのだ。

 

『優しい性格の持ち主ほど、貧乏くじを引くことになる。自分が動いた結果が、自分が誰かを選んだ結果が想像できてしまって、あげく何もできなくなるからだ』

 

 八幡には、葉山が誰かを選ばない理由が分からない。正確には分かりたくないと言うべきなのかもしれないが、いずれにしても葉山のことはどうでも良い。これは葉山の言葉を聞いて、雪ノ下雪乃を想定しながら思ったことだ。そして、雪ノ下とは違って優しい性格には程遠い自分にも後半部分は当て嵌まると、あの時に八幡は思った。

 

 そして現在。自分が何をどう言っても、この三人が決して納得しないことを、八幡は想像できてしまう。こいつらは話の内容を聞かないで、話している相手しか見ないのだ。その割に、こちらの言葉に矛盾を見付けたら嬉々として指摘して来やがる。結局のところ、こいつらの中で、俺が悪いという結論は最初から決まっているのだ。そんな連中に、何を言えるというのだろうか。

 

 でも今は。俺一人ならこいつらが諦めるのを待てばよかったけれど、今は由比ヶ浜が巻き込まれている。俺のために、頑張って、慣れない弁明を試みてくれている。

 

「昔のことは知らないけどさ。それに、さっきヒッキーが文実なのを馬鹿にしてたみたいだけどさ。今のヒッキーは文実に欠かせないぐらいの働きぶりだし、生徒会長や副委員長にだって認められてるんだよ」

 

 この三人はきっと、由比ヶ浜の微妙な発言を見逃さないだろう。そう八幡が思った通り、三人はそこを突く。

 

「でもその言い方だと、委員長には認められてないってことですよね?」

「というか、委員長には見る目があるけど、生徒会長とか副委員長には見る目が無いってことだよな」

「同じ高校の生徒を庇いたいって気持ちは分かりますけど、こいつは恩を仇で返すような奴ですよ。さっき言った学級委員の時も……」

 

「もういい」

 

 自分のことなら、何を言われても良い。だが、文化祭の為にあれだけ頑張っていたあいつを貶されるのは我慢できない。それに、こいつの優しさを曲解されることにも耐えられない。小学生の頃からずっと、自分のことだけではなく周囲の連中のことまで色々と考えて。時には身を切るような思いで悩んで苦しんで。その末に今のこいつの優しさがある。それを八幡は知っているから。

 

 この三人のやり口は、中学の頃から何も変わっていない。要は「一人に傷を負わせてそいつを排除する、一人はみんなのために」というやつだ。その標的が相変わらず俺だという辺りに、こいつらの情けない日常生活が垣間見える。きっと、他に見下せる奴が居ないのだろう。

 

 なら遠慮なく、お望み通りの展開にしてやろうと八幡は思った。こいつらに知ったような口で雪ノ下と由比ヶ浜のことを語らせるぐらいなら。そんな戯れ言を聞くぐらいなら、股をくぐれと言われてその通りにする方がよっぽどマシだ。

 

「由比ヶ浜。約束は覚えてる。まだ大丈夫だ。やばいと思ったら連絡する」

 

 先週の木曜日。部長会議の残党をひねり潰すべく、雪ノ下が校内放送に向かう前に、部室で由比ヶ浜が口にした「何かあったら三人で協力して解決する」という約束。そしてその前日の水曜日。カラオケと女子会に向けて二人が別れる直前に、由比ヶ浜が口にした「何かあったら相談してね」という約束。

 

 その二つを念頭に置いて、八幡は小声で由比ヶ浜に話しかけた。まだ今は、お前らに頼るほどでもない、と。八幡の意外な発言にとっさに反応できない由比ヶ浜を置き去りにして、椅子から立ち上がりながら口を開く。左手に巻いた文実の腕章を取り外しながら。

 

「せっかく真面目に高校生活を送ってたのに、いつまでも昔のことを持ち出しやがって。お前らがそう言うんなら、もういい。俺がまともに文実とかに入ってるのが目障りなんだろ。お前らのご希望通りに辞めてやるから、俺以外の生徒には関わるな」

 

 考えてみれば、思った通りのことをこいつらに向かって言い切れたのは初めてかもしれないと八幡は思った。そのまま由比ヶ浜の正面に回って、腕章を手渡す。しっかりと由比ヶ浜の目を見て、「頼む」とだけ伝えると、八幡はそのまま、いずこへともなく去って行った。

 

 

***

 

 

 おそらく教室の中から廊下の様子を窺っていたのだろう。八幡が足音を立てて去って行くと同時にドアが開いて、相模たちが顔を覗かせた。八幡の剣幕に圧倒され、由比ヶ浜に睨み付けられていた三人は、新たな助っ人が登場したと考えたのか目に見えて狼狽を始めた。

 

「お、俺たちは嘘は言ってない、です」

「そ、そうだ。明日は中学の連中を連れて来ますから」

「あ、明日みんなに説明してもらったら納得できると思いますし、今日は……さよなら!」

 

 そして競うようにして、我先にとこの世界から去って行った。三人が消えた後もしばらく動かなかった由比ヶ浜は、一つ息を吐くとのろのろと机を回り込んで、八幡が座っていた椅子に腰を下ろした。

 

「ゆ、ゆいちゃん?」

 

「あ。ごめん、さがみん。せっかく連絡してくれたのに、お礼を言ってなかったよね」

 

 教室に居たのに介入しなかった後ろめたさに加えて、八幡が文実を辞めるという超展開について行けない相模は、慌ててぶんぶんと首を振るしかできない。だが、その背後では。八幡が責められるのも当然だと考えていて、そして八幡の辞任には「それ見たことか」と思っている相模の取り巻きたちが、先ほどのやり取りを彼女らなりに解釈して各方面へと広めていた。

 

「結衣。説明するし」

 

「あ、優美子。来てくれたんだ……。ヒッキーの中学の同級生なのかな。昔のことでヒッキーを責めてて、じゃあ文実を辞めるってヒッキーが……」

 

 相模からのメッセージを受け取って、慌てて教室に向かった由比ヶ浜には「そのまま回ってて」と言われたものの。由比ヶ浜のことが心配で文化祭を楽しむ気持ちになれない三浦優美子は、海老名だけを引き連れて二年F組に戻って来た。少しだけ距離を置いて、三浦とはそりが合わない為にそれには同行しなかったものの、同じく由比ヶ浜を心配した川崎もまた別ルートから戻って来ている。

 

「うーん。ヒキタニくんが、そんな職務放棄みたいなことをするって……もう少し詳しく話してくれる?」

 

 由比ヶ浜の説明はいつも以上にしどろもどろで、彼女のショックの大きさが窺えた。事情聴取は海老名に任せて、日頃の不仲をひとまず棚上げした三浦と川崎は、いずれも八幡とはすれ違っていないことを確認し合っていた。彼女らが通ったのとは別のルートから、八幡は姿を消したのだろう。

 

 由比ヶ浜に質問するのと平行して相模からも情報を得ていた海老名は、相模の取り巻きにも目を光らせていた。彼女らの行動を制止する権限も理由も自分には無いが、せめて動きだけは把握しておこうと海老名は思う。その情報はきっと、あの頼れる女子生徒が対策を立てる際に、役立ててくれるだろうから。

 

「とりあえず、あたしがあいつの代わりに受付に座ってるよ。明日の午後は受付をする予定だったし、あんたたちと違って顔も広くないからね。だから……」

 

「了解したし。結衣。落ち込んでないで、すぐに……」

 

「うん。ゆきのんに連絡、だよね。姫菜。悪いけど、まだちゃんと説明できる自信が無いから、ゆきのんに……」

 

「大丈夫、最初からそのつもりだから。せっかくだし、ここに来てもらおっか」

 

 相模の取り巻きを意識しながら、海老名がそう提案する。今日はもうすぐ終わりだが、明日に備えて対策を立てておく必要がある。雪ノ下がこの面々を率いれば、問題はきっと解決するはずだと海老名は思う。

 

 雪ノ下に宛てて急いでメッセージを書き終えると、頼れる友人たちを眺めながら、由比ヶ浜は内心で先程の対応を悔いていた。あたしがもっと上手くあの三人に対処できていたら、こんなことにはならなかったのにと。

 

 だが、由比ヶ浜の真っ直ぐな受け答えがあったからこそ、翌日の展開に繋がるのだ。今日の時点では、由比ヶ浜の応対に改善の余地があったと考える人もいるのかもしれない。しかし、文化祭が終わった明日の時点で由比ヶ浜がどう評価されるかは、その時になってみないと分からない。

 

 由比ヶ浜の左肩を三浦が叩いて、右肩には川崎が手を乗せている。海老名が静かに頷きかけると、由比ヶ浜はしっかりと、それに頷き返すのだった。

 

 

***

 

 

 二年F組の教室を離れた八幡は、普段は通らないようなルートを敢えて辿って、その後は当てもなく足を動かしていた。

 

「平然と股をくぐるには、ほど遠かったな……」

 

 あの連中に言いたいことを言ってやった自身の言動に後悔は無い。だが八幡は自分の発言の中に、八つ当たりの要素が含まれていることに気付いていた。そして、辞めると言えば聞こえは良いが、要は職務放棄だということにも。

 

 歩きながら八幡は、カラオケの時に戸塚と交わしたやり取りを思い出していた。今から二千二百年も前に、大望と比べれば些細なことだと言って、己を馬鹿にする者たちの要求をそのまま受け入れた男の話。あの韓信の股くぐりの話だ。

 

 馬鹿と同じ土俵に上がって馬鹿の相手をすることほど、馬鹿らしいことは無い。韓信の故事を知った時に、八幡はそう思ったはずなのに。だが、あの状況では、他の手段を思い付かなかった。

 

「ただ、まあ。由比ヶ浜なら俺よりも上手く、文実の仕事をしてくれるだろうな」

 

 もちろん仕事によって向き不向きはある。だが学業という面では不安の残る由比ヶ浜でも、こうした仕事の面では得意分野を上手く活かして、八幡以上の成果を出せるだろう。なぜならば、八幡は最終的には一人で仕事をするしかないが、由比ヶ浜には多くの友人が居るのだから。

 

 八幡にとっては、変に誰かと仕事をするよりも、一人の方が効率が良い。文実を経験したことで複数での仕事にも慣れてはきたが、本来的にはぼっちが良いと思ってしまう。それに一人なら、この間の人の字のような発言や、つい先程のようなスタンドプレーだって可能だ。

 

 最近では、面倒なことはしたくないという心境にすっかり浸っていたが、もともと八幡は目立つことが嫌いでは無かった。だが、目立つような行為をしても上手く行かなかったり、期待したのとはまるで正反対の反応が返ってくるので、もしかすると俺のノリが変なのかと疑うようになり。そして次第に、他者との関わりを減らしていった。

 

 他人のことはよく解らない。どうしてそんなノリが面白いのだろう。どうしてそんな発言にみんなが深く頷いているのだろう。どう考えても深みの無い、外側を取り繕っただけの意見なのに。どうして俺が言ったことを、みんなは軽く扱うんだろう。それどころか、時に馬鹿にされるのは何故なのか。

 

 そんな八幡が、誰かと協力して仕事をするなどできるわけもなかった。他者との繋がりを、誰かと共有できる何かを疑ってしまう八幡には、それは不可能だ。でも、それは八幡だけに問題があるのだろうか。俺の価値観とか物の考え方を全否定して、自分たちのそれを押し付けてくる連中にも、原因の一端があるのではないか。

 

 こうした疑問を抱きつつも、外部の在り方を受け入れていた八幡だったが、二年に進級してこの世界に巻き込まれて、周囲の環境は大きく変化した。今の八幡には、信じて任せられる相手が、少なくとも二人は存在する。

 

「いや、違うな」

 

 そこまで考えて、八幡は歩きながらかぶりを振る。

 

 それでは、戸塚のことを軽く見ていることになる。二学期の初日に海老名が言っていたように、戸塚はあれで意外に頼りがいがあるのだ。だから俺が信じて任せられる相手は少なくとも三人、ごく特殊な状況に限れば四人は存在する。あんまりあいつを頼りたいとは思えないが、使い倒しても良心が痛まないとか思ってしまえる辺りは、やはり特別なのだろう。

 

 一人で仕事をすることの利点は、それが上手く行かなかった時に現れる。誰が悪いの悪くないのと責任を押し付け合うことなく、明確に自分が悪いと言い切れるからだ。先程の発言だって、由比ヶ浜が普段の調子を取り戻したら「なんかもう!」とか言って怒られるのだろうが、由比ヶ浜には俺を責めるだけの理由があるのだから当然のことだ。どう考えても、さっき俺が言ったこと・やったことには問題があるのだから。

 

 では、誰かを信じて任せた仕事が失敗した時には。その場合でも、この三人ないし四人なら、納得できる。最後の一人だけは納得しないで思いっきり罵倒とかしてそうだが、残りの三人なら「こいつらに任せて駄目なら仕方が無い」と思える気がする。それは俺があいつらを、使うのが気恥ずかしい言葉ではあるけれども、信頼しているということなのだろう。

 

「あれ、ここは……」

 

 どんなルートを辿ったのか一切記憶に無いのだが、気付けば馴染みの場所まで歩いてきていた。見覚えのある自販機が目に入って、八幡はせっかくなので甘ったるい飲物を購入する。飲み慣れたものを飲むには飲み慣れた場所が良いかと、八幡はいつもの場所に移動して、そして歩いてきた方角を慎重に窺う。

 

「まあ、あいつらが追いかけてくることは無いと思うが……」

 

 部長様にまで連絡が行くのは時間の問題だろうが、あの二人が仕事の優先順位を違えることは無いはずだ。まずは八幡が果たすはずだった役割を整理・分担して、そしておそらく、あの連中がまた現れた時の為に対策を練ろうとするはずだ。これが俺の自意識過剰だったら良いのだが、きっとあいつらはそうするのだろう。

 

 信頼している二人の行動を推測して、八幡は気恥ずかしさや情けなさの中に嬉しさを感じてしまい、天を仰ぐ。

 

「あーうー。……うひゃあっ?」

 

 飲物を片手に天に向かってうなり声を上げていた八幡は、背後から肩をつつかれて思わず奇声を発した。

 




予定より少し遅くなりました。申し訳ありません。

次回の更新は3月1日頃の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を一つ修正しました。大筋に変更はありません。(2/23)

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