俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

115 / 170
前回までのあらすじ。

 文化祭は二日目を迎えていた。朝の文実の会議にて、昨日の一件で八幡を責める相模。それに対して雪ノ下は、八幡を自分と由比ヶ浜の監督下に置いて、文実に貢献させる役割を与えること(八幡曰く従順に働く手駒になること)を提案する。委員たちから賛同を受け、当の八幡もそれを甘受した。

 とはいえ、雪ノ下の口撃が普段より少し多めであることを差し引いても、八幡はリア充から見ても羨むべき境遇に居る。文化祭と役得とを堪能しながら、八幡は午前中を二人とともに過ごした。

 午後には、再訪した昨日の連中と話を付けて、予想外の面々とも交流を深める八幡たち。教室にはこっそり小町らも居て、八幡が彼らと向き合う姿を見届けていた。

 そんな八幡とは対照的に、相模の状況は悪化の一途を辿っていた。取り巻きにも距離を置かれ、相模は独り屋上に逃げる。誰かに見付けて欲しいと願う相模のもとに、意外な二人が駆け付けて。相模は自分でも意識しないままに、多年の課題に対して改善の一歩を踏み出した。

 そしてバンドが、予定通りに行われる。

*バンド部分だけ読み返したい方は、こちらへどうぞ。



19.いかなる言辞よりも雄弁に彼らはステージの上から語る。

 屋上を後にした比企谷八幡は、急ぎ足で体育館へと向かっていた。相模南を発見したことは、屋上の扉をわずかに開いて彼女の姿を確認した時に、既に関係各位に伝えている。だから八幡は「屋上を離れて今は体育館に向かっている」という現状を奉仕部の二人にだけ連絡した。別件で何通かメッセージを送りながら、八幡は歩みを止めずに足を進める。

 

 目的地が見えてきた頃に部長様から返信が来て、「比企谷くんはPA室に来るように」とのこと。相模がどうなっているのかを伝えなかった八幡の手落ちなのだが(とはいえ一言で説明できることではないので八幡に反省の気持ちは無いし、向こうにも八幡を咎める意図は無い)、連れ立っていた場合でも単独で来いという意味なのだろう。

 

 八幡は二つの可能性を考慮しながら、仰せの通りに体育館二階のPA室へと向かった。

 

「思ったより遅くなった。今どんな状況なんだ?」

 

「ちょうど良いタイミングよ。たったいま終わったところで、次は姉さんがステージに立つのだけれど」

 

「あとは陽乃さんの管弦楽と隼人くんのバンドで、有志の出し物も終わりかあ……。ちょっと寂しくなって来ちゃったかも」

 

「由比ヶ浜さん。そこで最後に盛り上げるのが、私たちの役割でしょう?」

 

 ステージを見下ろせる出窓に近い辺りに、適度な距離を置いて椅子が三つ並んでいた。由比ヶ浜の片隣に一つだけ空いていた椅子を示されたのでそこに腰掛けて、八幡は二人のやり取りに口を挟む。

 

「まあ、そうだな。『ヒキタニ引っ込め』コールで盛り上がらないことを祈るわ」

 

「でもさ。ヒッキーへの反感は、たしかにあるとは思うけどさ。ヒッキーがそこまで注目を集めるのも想像できないっていうか……」

 

「ええ、そうね。比企谷くんがそれほど目立つタイプなのであれば、逆に苦労をしないで済む部分もあると思うのだけれど」

 

 由比ヶ浜結衣の指摘はそれほどでも無いが、やはり今日は雪ノ下雪乃からの風当たりが少し厳しいなと八幡は思う。そして、普段ならやんわりとフォローに入る由比ヶ浜にそんな気配が見られないのは、二人ともに俺に対して物申したいことがあるからだろう。

 

 とはいえ昨日の一件によって文実の職務を投げ出したのは自分だし、その穴埋めに動いてくれたのはこの二人だ。中学の同級生への対応を葉山隼人に一任したと聞いた時には驚いたが、それも自分の意図を(既に俺の中では、あの連中のことはどうでもいいと)把握してくれたがゆえの対応なのだろう。

 

 そんなふうにして、八幡もまた二人の意図を察知する。きっと雪ノ下が理詰めで推測して由比ヶ浜に説明したか、あるいは由比ヶ浜が感覚で察知して雪ノ下に伝えたのだろう。

 

 雪ノ下の口撃にもまるで悪印象を受けないのは勿論のこと。その話し方を根拠にして、雪ノ下本人の心情に止まらず由比ヶ浜の心情までをも推測しそれを素直に受け入れている。そんな自分をふと、不思議に思う八幡だった。

 

 

「んで、俺一人をここに呼んだのは……って、相模の話を先にしたほうが良いか?」

 

「そうね……。バンドに関して付け加える話は無いから、それが理由では無いと先に言っておくわね。それで、相模さんの話なのだけれど」

 

 先ほど八幡が推測した二つのうち一つ目の可能性をまず否定して。雪ノ下はそこで言葉を切ると由比ヶ浜に視線を送った。

 

「さがみんが友達から距離を置かれてるって話は部室で言ったよね。でも、そんな話になったのは確かみたいだけどさ。さがみんの友達の様子と、さがみんの性格を考えると……突き放すギリギリのところで、さがみんが逃げたんじゃないかなって」

 

「えーっと。つまり、どういうことだ?」

 

「もしもだけどさ。さがみんが逃げてなかったら、独りでクラスから非難を浴びて、文実でもあれこれ言われてたと思うんだよね。さがみんって、いっぱいいっぱいになったら何も言い返せなくなっちゃうからさ。さがみんが悪くないことも含めて、全部さがみんのせいになってたと思う」

 

「でも現実には、相模さんが姿を消して、お友達が残った。あの子たちは、比企谷くんが昨日文実を辞めたのは『文化祭の邪魔をさせないためだとは知らなかった』と証言してくれたわ。もちろん聞く人が聞けば、それが自己保身に過ぎないと見抜くのは難しくないとは思うのだけれど」

 

 由比ヶ浜と雪ノ下の説明を聞きながら、八幡は「この部屋に相模を入れない理由」を理解する。二つ目の可能性が正解で、それは相模に目立つ行動をさせたくないという意味なのだろう。あるいは、相模が姿を消したことを逆に利用したか。

 

「……もしかして、相模がそれを知ってショックを受けたことにして、お前が委員長の職務を引き継いだってことか?」

 

「依頼の総括をするために、文化祭が終わった後で相模さんを部室に呼ぶことを考えているのだけれど。相模さんの失敗を公の場で糾弾するのは、本人の性格を考えると意味が無いと思うのよ。だから……」

 

「あ、いや。別に俺としては正直どうでもいいから気にすんな。あと、相模とさっき喋ってた時に、あまりに打たれ弱いのに驚いたっつーか。お仲間に距離を置かれたってのに、探しに来てくれるんじゃないかって期待してたぞ。なんか忠犬みたいなイメージが浮かんで、責める気が失せたんだよな」

 

「ヒッキー、やっぱり……わざと酷いことを言ってさがみんを怒らせて、それでさがみんに動いてもらおうって思ってたんだよね」

 

「でも由比ヶ浜さんが言っていた通り、相模さんはそこまで強くはなかったみたいね。これは、不幸中の幸いと言って良いのかしら?」

 

「うーん、どうだろ。ヒッキーには悪者になって欲しく無いし、でもそれだとさがみんが……あ、結局どうなったの?」

 

 自分と相模の行動がここまで読まれているのを喜べば良いのか落ち込めば良いのか、悩ましい気持ちの八幡だったが、問い掛けられて気持ちを入れ替える。

 

「前にお前が言ってただろ。遊戯部の相模と小中高が同じで、色々からかわれてたって話。苗字が同じってだけで結婚とかどうとか囃し立てるって、子供ってあれだよな……」

 

「あ、うん。えっとじゃあ、相模くんが?」

 

「時間が迫って来てたんでな。材木座をこき使おうと思って連絡したら遊戯部も暇してるって言うから、ついでに協力してもらったんだわ。今は相模同士で、積もる話でもしてるんじゃね」

 

「なるほど。相模さんが踏み出す一歩はそれが良いと、あなたは考えたのね」

 

「まあ偶然というか成り行きだけどな。俺一人だったら正直、相模を怒らせるぐらいしか手は無かったから、助かったっつーか……」

 

 八幡が続けて何かを話したそうにしているので、二人は口を挟まず八幡が言葉を選ぶのを待っている。今日の二人がややご機嫌斜めなのはこれが原因なのではないかと考える八幡は、少ししてから重い口を開いた。

 

 

「……なんかな。自分でも時々『どうして、そんなやり方しかできないんだ』って思うんだけどな。長年の習性って理由もあるんだろうし、他の手段を思い付けないってのもあるとは思うんだが。言い訳に聞こえるかもしれんが、人がそう簡単に変わってたまるかってな気持ちもあるし。それに、結果も出るからな。だから……」

 

「確かに、貴方が『人の字』の話を出した時にも結果は出ていたわね。明確な敵の存在を目にすれば、空気とか世論とか大衆・群衆といったものは、その逆に傾くものだから。けれど……」

 

「ああ。それ以外の方法もあるってことだよな。ただ、あの時もお前に誘導して貰ったようなもんだし、俺一人だと難しいんだわ。だから話を戻すけど、相模の処遇について俺に異論は無い。たぶん俺の中学の同級生連中を『明確な敵』扱いにして、俺と相模は被害者だって言って話をまとめるつもりなんだろ?」

 

「敵と言うには小者だったし、勝手に利用するのは少しだけ気が引けるのだけれど。おそらく実害は無いはずだし、その程度の責任ぐらいは引き受けて貰いましょう。ただ……相模さんが姿を消しているのは、こうして話をまとめていく段階では都合が良かったのだけれど。閉会式が終わっても出て来ないとなると、また別の問題に繋がったと思うのよ。だから……」

 

「だからヒッキーがさがみんを見付けてくれて、相模くんと二人で話をしてもらうって形にしてくれて。それで充分に結果を出してるって、あたしは思うんだけどなー」

 

「私も由比ヶ浜さんと同意見ね。貴方は本当に、何と言うか……誰でも救ってしまうのね」

 

「いや、あれは救ったって言うのかね。それに、俺ができるのは所詮は搦め手だからな。正攻法を貫けるお前のほうが、多くの人を救えると思うんだが?」

 

「そうでも無いわ。私では、相模さんの意識を変えさせることはできなかった。……そうね、少し語弊があるかもしれないのだけれど。相模さんも貴方の中学の同級生も、もともと貴方を下に見ていたからこそ、意識を変えさせることができたのではないかしら。私は……」

 

「あー。勝手に上の存在にされて、敵いっこないとか思われそうだもんな。でもそれってあっちに原因があるだけで、あれだ。ゆきのん凄いって言いながらも、お前とは違ったやり方でお前を助けたいって考えるような奴も、どっかには居るわけだしな。やっぱ相手の性格次第じゃねーの」

 

「ちょ、ヒッキー。それって誰のことだし?」

 

「由比ヶ浜さん。そんなに嬉しそうな顔をしながら無理に文句を言おうとしても、語尾が震えているわよ」

 

「なあ。お前、人の振り見て何とやらって言葉の意味を……いえ、何でも無いです」

 

 我が振りを直すべきなのはそちらだと怒られそうな気がしたので、慌てて八幡は言葉を濁した。部屋の中に微妙な空気が漂うが、雪ノ下が軽く咳払いをしてそれを打ち消すと、口を開いた。

 

「それにしても……相手に意識を変えさせるのは、やはり言葉では無いのよね。私でも由比ヶ浜さんでも比企谷くんでも、言葉だけでは説得はできなかったと思うのだけれど」

 

「言葉って、あれだよな。特に言い合いとかになると、いつも平行線で終わる気がするんだよな。つーか、平行線ならまだマシなほうか。『言葉は誤解のもとだ』って、どっかのキツネが王子様に言ってたしな」

 

「でもさ。だからって、話さないことには始まらないじゃん。他の人に気持ちを伝えるのに、言葉以外の方法もあるってだけでさ。他の伝えかたでバッチリ上手く行くこともあるけど、言葉も……。あたしとゆきのんとヒッキーとで、積み重ねてきたって言うのかな。そういう言葉って、やっぱり大切だと思うんだけど……」

 

「そうね。由比ヶ浜さんの言う通りだと思うわ。ただ、言葉が全てでは無いということね。ちょうど今、言葉よりも印象で他人を操作するのに長けた人が出て来たから。しっかり見て、参考にさせて貰いましょうか」

 

 人数が多いからか少し時間が掛かったみたいだが、ステージ上にはこの世界に巻き込まれた管弦楽部のOB・OGが勢揃いしていた。ステージ上方に備え付けられたスクリーンには現実世界の様子が映し出されていて、あちらにも管弦楽部の卒業生が集まっている。

 

 その両者を視野に入れて。最後にステージ上に登場した雪ノ下陽乃が、タクトを揮う。現実世界の調べとこの世界のそれとを見事に調和させた、華やかで扇情的な演奏が始まった。二つの世界に集まった聴衆はしばし、我を忘れて盛り上がるのだった。

 

 

***

 

 

 陽乃が暖めた場の空気を、葉山は損なうことなく引き継いだ。メンバーの演奏能力という点では見劣りする部分もあったのだが、曲の盛り上がりに応じて観客の意識を上手く自身に引きつけては放し。バンドのもう一方の主役である三浦優美子を輝かせると同時に、他の面々の拙い部分を覆い隠していた。そしてもう一人。

 

「一色さんが上手い具合に、演奏面でフォローを入れているわね」

 

「いろはちゃんって、気ままに振る舞ってるようで、けっこう周りをよく見てたりするんだよね。ただ、普段はフォローをする気が無いだけでさ」

 

「なあ。それが一番問題じゃねーのか。でもま、一色って理由さえあれば調整能力とかも高そうだよな。文実に引き込んでおけば……あいつを理由に男女に分かれていがみ合う展開が見えたから、引き込まなくて良かったな」

 

「あら。一色さんのクラスで昨日、揉めごとがあったのだけれど。比企谷くんはそれを、誰から聞いて知ったのかしら?」

 

「あ、いや。お俺は別に、だ誰からも何も聞いてねーぞ?」

 

 二人からの訝しげな視線が突き刺さるが、八幡は勝手に状況を推測しただけであって、誰かから詳しい話を聞いたわけではない。挙動には怪しい部分があるものの、嘘は言っていないと判断してくれたのか。幸いなことにそれ以上は追及されずに済んだ。もちろん、いつバレないとも限らないのだが。

 

「まあいいわ。では、そろそろ私たちも移動しましょうか」

 

「あ、それなんだけどな。たしかバンドのために、時間を10分ほど確保してたんだよな。もしかしたら無駄に終わるかもしれんが……それを、例えば20分にまで延長できるか?」

 

「現実世界からの来客だけで例年の数倍なので、閉会式後のあちらでの混乱を見越して、予定を少し前倒しにしているのよ。だから実際には20分でもまだ余裕はあるのだけれど……?」

 

「さっき帰ってくる途中にメッセージを送ってな。上手く行けば相模を……だから……」

 

「なるほど。いま言ったように時間的には問題無いわ。それに当日のアドリブという形で処理すれば、事前の申請も無視できるわね」

 

「な、なんだかあたし、『ゆきのんも悪よのう』とか言いたくなって来たかも……」

 

「いえいえ、お代官浜こそ……とか言って欲しいのか?」

 

「ちょ、浜しか残ってないし!」

 

「由比ヶ浜さん、比企谷くん。じゃれ合ってないで移動するわよ」

 

 いよいよ閉会式が始まる。

 

 

***

 

 

 ステージの袖にて平塚静と合流して、適当な理由を付けて他の文実メンバーを付近から遠ざける。そして奉仕部の三人は、司会の城廻めぐりからの呼び出しに備えて支度を整えていた。

 

 まず初めに、八幡が演技スキルを展開する。事前に運営に申請した通りに、八幡と由比ヶ浜の姿が、それに加えてステージ後方の三分の二が、奉仕部の三人以外からは知覚できなくなる。もっとも今のステージ上には中央前方にマイクスタンドが一つ立っているだけなので、誰も変化には気付かないだろう。

 

「ふむ。私からは二人の姿が見えなくなったが、大丈夫かね?」

 

「私には見えていますし、問題ないかと。では平塚先生、お願いします」

 

 次に、雪ノ下の要請を受けた平塚が教師の権限を発揮して、ステージ後方三分の二をスタジオに換装する。八幡たちが練習時に奉仕部の部室を換装していた時と同じ機材が姿を現した。

 

 まず目に付くのはドラムセット。そしてギターとベースが幾つか、スタンドに置かれた状態で並んでいる。この世界では必ずしも必要ではないのだが、各種アンプやPA機材、それにモニタースピーカーなども散見される。最後に、今日の三人には無用のキーボードもステージ最後方の向かって左側に見えていて、その足下の目立たない位置には楽器がもう一つ置かれていた。

 

 おおむね葉山たちがバンド演奏をしていた時の状態に戻ったわけだが、八幡の演技スキルによって観客がそれに気付くことは無い。

 

「私には何も見えないが……問題は無さそうかね?」

 

 楽器が突然出現したことに対して観客からの反応はなく、教師の保証もある。だから大丈夫だと理屈では解っていても。それでも八幡と由比ヶ浜はこそこそとステージに上がって、そして楽器を一つ一つ点検していった。ドラムスティックのような見落としがちなものも、きちんと複数用意されている。

 

「問題ないとのことです。では城廻先輩に合図を送りますので、平塚先生はここで観ていて頂けますか?」

 

「ああ、存分に楽しんで来たまえ。ではまた後でな」

 

 心底から楽しそうな表情の教師につられて笑顔になって。雪ノ下は一人、城廻の呼び出しに応えてステージに上がった。

 

 

***

 

 

「……以上のように。この世界から、更には現実世界から集まって下さった皆様。そして文化祭実行委員を始め総武高校のみなさんのお陰で。今年の文化祭は大盛況の中、無事に終わりの時を迎えようとしています」

 

 副委員長の雪ノ下による文化祭の総括も、そろそろ終わりが見えてきた。最後にもう一人の副委員長である藤沢沙和子が閉会の挨拶をして、今年の文化祭が終わる。

 

 陽乃が盛り上げて葉山がそれを維持したことで、観客たちは興奮さめやらぬ状態にある。せっかくだし閉会式を最後まで見届けようと、そのまま残っている者が大半だった。

 

 現実世界からログインしてきた者たち。この世界の校外からの来客たち。そしてこの高校の教師と生徒たち。更には現実世界からモニター越しに眺めている者たちも含めたその全員が、遠からず訪れる祭りの終わりを惜しんでいた。

 

「ところで、私たちは奉仕部という部活を行っています。助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事、飢えた者に魚を与えるのではなく魚の捕り方を教えるという理念に従って、活動しています」

 

 だから、雪ノ下がいきなりこんな話を始めたことに、誰もが困惑した。

 

「しかし今回は、私たち自身が依頼人となりました。依頼内容は、先に挙げた皆様を。すなわち総武高校の文化祭に、この世界で開催された今年の文化祭に集まって下さった皆様を。最後にもう一度おもてなしすること」

 

 だから、雪ノ下が一つ指を鳴らすと同時に《完全不可知化(パーフェクト・アンノウアブル)》が解けてバンドが姿を現したことに、誰もが驚愕しそして即座に熱狂した。

 

 その反応にも、いささかも動きを乱されることなく。雪ノ下はすぐ近くに出現したギターを手にして、ストラップを肩から掛ける。ステージ上方に備え付けられているスクリーンは、そうした雪ノ下の動きを余さず全て伝えている。この世界の観客へと、そして現実世界の観客のもとへと。

 

 雪ノ下の背後、ステージに向かって左側にもマイクスタンドが立っていた。前後で言えば雪ノ下と、ステージ最奥にあるキーボードの中間辺り。そこにはベースを抱えた由比ヶ浜が。そして向かって右側、前後で言えば由比ヶ浜と同じ辺りに姿を現したドラムセットの向こう側には八幡がいる。

 

 青いテレキャスターの具合を軽く確認して、雪ノ下は再び中央前方のマイクに戻る。スクリーンはステージを正面から映している。雪ノ下を中心に、奉仕部の三人が入り切るぐらいの大きさで。

 

「部員が提案した選曲の基準は、私たちが幼い頃に耳にした懐かしのヒット曲。この曲の発売当時、私たちはまだ生まれていません。でも、全員がこの曲を知っていました」

 

 部室で由比ヶ浜がそう提案した時のことを。そして八幡の家のリビングで八幡がこの曲を推した時のことを、雪ノ下は思い出す。

 

 推薦の切っ掛けが八幡と平塚の会話にあることを、雪ノ下は知らない。だが切っ掛けが何であれ、三人全員が知っている曲を演奏したいと言った由比ヶ浜の希望に沿ってさえいれば。三人全員が子供の頃に聴いたことがあるという条件さえ満たしていれば、何も問題はない。

 

「では、()()この曲を聴いて下さい。……”innocent world”」

 

 

 打ち込みによるカウントと録音してあったシンセサイザーの調べに続いて、八幡がタムを二つ。それに続けて由比ヶ浜がベースを、そして雪ノ下がイントロのリフを奏でる。オクターバーを使うことも二本の指で弾くこともなく。微妙にエフェクターを変えてあらかじめ録音しておいたギターの音に合わせて、雪ノ下が左手の指を弦の上で滑らせる。

 

 そしてイントロが終わり、歌が始まる直前のことだった。バンド初心者の二人が本番でも問題なく演奏できているのを確認して軽い笑みを浮かべた雪ノ下は、素早く両目で瞬きをした。その瞬間、観客から大きなどよめきが漏れる。雪ノ下の手にテレキャスは無く。代わりに、ギタースタンドに立てかけられていたはずの、G社のアコースティックギターを手にしている。

 

 《クイックチェンジ》。これもまた、八幡が展開した演技スキルによるものだった。

 

 もともとの八幡のアイデアでは、このスキルは登場時のサプライズに使うだけだった。校内放送で城廻と雪ノ下がスムーズに入れ替わる映像を見て、「実はこちらからは認識できなかっただけで、雪ノ下が最初から居たのだったら面白いな」と妄想したのが発想の原点だった。

 

 だが八幡の提案を聞いた雪ノ下が運営への申請を修正する。簡単な合図によって、定められた順に従って瞬時に楽器の入れ替えを可能にする仕組みを加えた。同じ「入れ替わる」という言葉からでも、人が違えばまるで異なる連想をするのだなと八幡はその時に思ったのだった。

 

 そもそもの話をすると、雪ノ下は可能な限り生演奏に拘っていた。同時に、音の厚みを確保するために、その話が出た時点で既に手ずから色んな楽器を操って当日に演奏する以外の音を録音していた。そんな雪ノ下だからこそ思い付いたアイデアなのだろう。

 

『別に悪く言いたいわけじゃないんだが……これ、詐欺じゃねーよな?』

 

 アコギのストロークに合わせて声を出しながら、雪ノ下は八幡とのやり取りを思い出す。部室で予行演習をした時に、楽器を変更する雪ノ下を見て八幡が思わずこうつぶやいたのだ。あまりに鮮やかな雪ノ下の手際に、思わずそんな感想を抱いたのだろう。

 

 詐欺という言葉はあまり耳にしたいものではなかったが、八幡が口にした通り悪気は無さそうだった。それに運営から「効果の違いごとに分けて、それぞれ好きな名前を付けて下さい」と言われた八幡が身悶えていた姿が妙に可笑しかったので。あの時は、いつもの軽口を叩く気すら起きなかった。

 

 悩んだ末に決めた名前を運営に伝えて、「今宵、俺の黒歴史は更新される」などとやけっぱちになってつぶやいていた八幡の姿は、録画しておけば良かったと昨日も由比ヶ浜との会話に出てくるくらいには印象的だった。当人は一刻も早く忘れて欲しいと思っているのだろうが。

 

 

『やっぱ左足がネックでな。ハイハットは誤魔化しながら叩くことにするわ』

 

 その八幡がこう言ってきたのは水曜日の放課後のこと。あと数日では改善できそうにないからと、潔く諦めの言葉を告げられた。

 

『小節の終わりに足を上げるのは、できるようになったんだけどな。それ以外だと……二拍目の終わりとか、似たタイミングだし対応しやすそうなのにな。上手く行かないのはなんでかね?』

 

 自分には簡単にできてしまったことを説明するのは難しい。それに雪ノ下は八幡の決断を好ましく思っていたので、それをそのまま受け容れることにした。

 

 既に曲はBメロの後半に入っている。サビを目前に控えたこの部分では、二小節ごとにハイハットがオープンになる。あの時に八幡が口にした通り、最初の三回はそれをきちんと再現していながら。タイミングが変わる四回目にはあっさりとスルーした。

 

 思わず吹き出しそうになるのを何とかこらえて、雪ノ下はサビの歌詞を丁寧に歌い上げることに集中しながら物思いに耽る。久しぶりに、自分の意識が拡張している感覚を覚える。時間の流れがひどく緩やかに感じられる。

 

『ええ、予定通りでお願いします』

 

 続けて雪ノ下は今朝の部室でのやり取りを思い出す。教師からの問い掛けに八幡はこう答え、ぶれない姿勢を見せていた。

 

 あの幼馴染みを始めとして、男の子のこうした姿を雪ノ下は何度も目にして来た。だからだろう。雪ノ下は、それ自体に心を動かされることはない。その手の決意表明が、結果とは何らの因果関係も持たないことを、雪ノ下は幾度となく経験してきたから。

 

 とはいえ、全く参考にならないというわけでもない。「任せて下さい」「絶対に成功させます」といった言葉がまるで当てにならないのはその通りだが、その口調から発言者の状態を確認することはできる。今朝の八幡からは、心身の充実ぶりが伝わって来た。

 

『まあ、やばくなったら連絡するから、安心して体力回復に励んでくれ』

 

 これは日曜日に言われたこと。翌日は由比ヶ浜だけでなく雪ノ下も休んではどうかと提案した八幡は、そんなふうに話を締め括った。あの時に雪ノ下は、「俺に任せろ」と言われるよりもよほど頼りがいがあると思った。曖昧な感情だけを提示されるよりも、具体的な行動指針を告げられるほうが遙かに安心できると。

 

 だから、「ハイハットを完全に再現するのは今の俺には無理だ」と正直に申告した八幡を、雪ノ下は好ましく思う。大抵の男の子ならそこに無理に拘った挙げ句に、普通に叩けていた他の部分まで微妙な演奏にしてしまうのではないか。勿論たまたま上手く行く時もあるだろう。しかし失敗するケースのほうが圧倒的に多い気がすると雪ノ下は思う。

 

 ただ、一つだけ不満を言えば。数日前の時点で見切るのは早過ぎるのではないか、とは思った。前日ぐらいまで決断を持ち越しても良かったと思うし、数日とはいえ集中的に練習をすれば、八幡なら克服できる程度の課題だったと思う。謙虚は美徳ではあるけれど、少し冒険をするぐらいが成長という点では効果的なのに。

 

 雪ノ下はそんなことを考えながら、引き続きサビの歌詞に意識を集中する。

 

 

 サビに入って、イントロでも耳にしたグロッケンの音が聞こえて来る。ここまで無難に演奏できているだけでも上出来なのに、それに気付ける余裕のある自分を、由比ヶ浜は不思議に思っていた。

 

 何だか、自分にできることが増えた気がするというか。普段なら、二つのことを同時にしようとしても頭が付いてこなくて失敗するのに、今ならそれもできそうな気がする。いや、だからといって演奏から集中を切らしたらダメだ。しっかりベースを弾きながら、余裕を保てる範囲で考えごとをしないと、と由比ヶ浜は思う。

 

『なあ。人が真剣にやってるのに、笑うのは酷いんじゃないですかね?』

 

 今日の本番に先だって、生演奏するパート以外は雪ノ下が録音を重ねてくれていた。完成度ということを考えれば、それをそのまま使ったほうが良かったのだろう。けれど雪ノ下は少し考えた末に、二人にも録音に加わらないかと提案してきた。

 

『でもあたし、楽器とか習ったこと無いんだけど……』

 

『それでも、キーボードで簡単なフレーズを弾くぐらいなら大丈夫ではないかしら?』

 

 そう雪ノ下に勧められて、由比ヶ浜はイントロで流れる音が印象的なシンセサイザーを担当することになった。出だしの部分が少し難しかったが、何とか素人ながらも頑張ったと思う。そして八幡は。

 

『つーか、グロッケンとか意識の高い呼び方をしなくても、要は鉄琴だろ?』

 

 よく分からない文句を言っていた。

 

 それでも大人しくマレットを手にして、八幡は曲に合わせておもむろに叩き始めたのだったが。ちょこんちょこんと叩く姿が何だか可愛らしくて。そして自分と雪ノ下の反応を見てふくれっ面になりながらも、律儀に叩き続ける姿が妙に可笑しくて。つい二人とも吹き出してしまったのだった。

 

 男の子に「かわいい」なんて言ったら大抵は気を悪くするので口にしなかったが、あの時のヒッキーは可愛かったと由比ヶ浜は思う。この曲にも「哀れな自分(おとこ)が」という歌詞があるけど、男の子ってわりと自分を卑下するって言うのかな。自分を悪く言う割には、他人から小さく見られるのは嫌がるというか、それが不思議だなと思う。別に可愛くても良いじゃんって思うんだけど、男のプライドというものがあるらしい。

 

 由比ヶ浜には演奏の善し悪しはよく分からない。だから印象でしかないのだけど、雪ノ下が叩いたグロッケンと比べると八幡の音は、正確なリズムという点では遠く及ばないと思う。でも、音がぶれているからなのか、そこに暖かみのようなものを感じる。今こうしてステージに立って、ヒッキーが叩いた音を聞きながら演奏していると、すごく安心できる。雪ノ下の音も暖かいけど、それが頼れる暖かさだとすれば、八幡の音は一緒に居てくれる暖かさという感じがする。

 

 そしてサビの歌を聴きながら、「この曲はゆきのんの曲だ」と由比ヶ浜は思う。今は高校という枠が、限界があるけれど。いずれ雪ノ下は陽の当たる場所に行ってしまう。自分も頑張って追いかけたいとは思っている。でも、実際にそれができるのかと問われれば、返事を濁してしまう。とても断言なんてできない。

 

 たぶん、断言しないのは同じ。でも八幡なら、雪ノ下の後を追うことができると由比ヶ浜は思う。じゃあ、あたしはどうしたらいいんだろう?

 

 でも、こっそり考え続けてきた疑問の答えは、この曲の中にあった。もしも雪ノ下について行けなくて、自分だけが取り残されても。それでもせめて、「また何処かで」と思ってもらえるように。……いや。

 

 できれば、雪ノ下がいつでも帰って来られる場所になれるように。未来の雪ノ下に「そして君は居ないよ」なんて言わせたらダメだ。だから、そんなことにならないように。そのためにも、今の時間を大切に過ごさないとダメだ。

 

 その考えに行き着いた由比ヶ浜は、改めてしっかり前を向いて。残り少ないサビの演奏に集中する。

 

 

 雪ノ下が歌うサビの歌詞を聴きながら、八幡もまた物思いに耽っていた。普段から気怠そうな気配をたたえる八幡だが、内心ではいっぱいいっぱいな事が多い。ぼっちとはそういうものなのだ。

 

 なのに今は、変に心の余裕がある。雪ノ下の歌声に包まれて。由比ヶ浜のベースに支えられて。まるで二人が特別な魔法をステージいっぱいに展開してくれているかのように感じられる。

 

『選曲の基準は、私たちが幼い頃に耳にした懐かしのヒット曲』

『子供の頃に聴いた曲だったらさ。ゆきのんもヒッキーも知ってるんじゃないかな?』

 

 先ほど雪ノ下が観客に説明した言葉を、由比ヶ浜が提案した選曲の基準を八幡は思い出す。曲を決めるのに先駆けて、自分たちが最近聴いた曲を挙げ合った時には、あまりにジャンルがバラバラなので頭を抱えたものだったが。お陰でこうして一緒に演奏できている。

 

 このミュージシャンの曲は他に何曲も知っている。なにせ物心が付く前から、ずっと彼らはトップ・ミュージシャンの座を維持してきたのだ。聞き覚えが無いほうが珍しいだろう。

 

 幼い頃は、特に選り好みもせず聴いていたと思う。けれど自意識が高まってくるにつれて、有名な作品・売れている作品に疑問を覚えるようになった。

 

 直接の切っ掛けはおそらく、あの海賊が主人公の有名な漫画。小学生の頃に、同級生がそれの話題で盛り上がっているのを目にして。八幡は自分が読み取った伏線を、これからの展開予想を、そしてタイトルの意味を嬉々として捲し立て、そして気付いたら周囲には誰も居なかった。

 

 メジャーな作品なんて碌なものでは無いとそちらに責任転嫁をしたのは、あの年齢なら仕方が無いとも思いつつ。「ピースは平和って意味だから」という勘違いを喧伝されなかったのは、不幸中の幸いだったとも思いつつ。

 

 いずれにしても八幡はあの時を境にして、有名な作品ほどひねた目で見るようになって行った。あの漫画が映画になって、主題歌を彼らが担当すると知った時には、観もせず聴きもしないうちから「けっ」と思った記憶がある。そういえば自分のトップカースト観も、おそらくはその延長線上にあるのだろうと八幡は思う。

 

 だが練習のためにこの曲を聴き込んで、そうしたイメージは少し払拭された。今の八幡は、売れている曲にも良い曲はあると素直に口にできる状態にある。もちろん全てが良いとは思わない。彼らの作品に限定しても、嘘くさいことを言ってるなあと思う曲はいくらでもある。でもこの曲は良い曲だと、八幡は率直に認めることができる。

 

 八幡はドラムを叩きながら、雪ノ下がつい先ほど歌った言葉の響きを噛みしめる。幼い頃も、そして今も、「いつの日もこの胸に」この曲が流れていたことを八幡は認識する。雪ノ下や由比ヶ浜と知り合う前から、そして知り合った後でも。この曲のメロディーは、変わることなく流れている。

 

『もしも彼女らと同じ小学校だったら』

 

 それは八幡が千葉村の最終日に自問した仮定だった。

 

 あの時に八幡は「ただ助けられて終わるだけだ」と考えた。今の自分は、ぼっち時代に培ったものをあれこれ活かして、何とか奉仕部の役に立てている状態だ。それを持たない時期にあの二人と出逢っても、興味を示されないままに関係は終わっていただろう。いや、始まることすら無かっただろうと。

 

 大枠のところでは、今もその結論は変わらない。けれども心の片隅には、それを否定する気持ちが宿っている。だって、あの二人と共有できることなんて俺には無いと思っていたのに。こうしてちゃんと、この曲の想い出を共有できている。

 

 同じ場所で同じ時に同じ記憶を共有したわけではないけれど。それでも同じような時期に、そして地球の大きさから考えるとほんのご近所で、三人はこの曲を聴いていたのだから。その想い出を語り合うことで、お互いの状況をありありと思い浮かべることができるのだから。

 

 たかだか十数年しか生きていない身で、こんなことを思うのは変かもしれないが。八幡は、誰かと同じ時代に生きることを。その意味を、少しだけ理解できた気がした。同世代というのはこういうことなんだ、と。

 

 雪ノ下が優しく、同時に力強く、曲のタイトルを歌い上げる。それを耳にした八幡は、再び演奏に意識を集中させる。

 

 

 一番の歌詞を歌い終えた雪ノ下は、《クイックチェンジ》を発動させてテレキャスを手にすると再びリフを奏でる。しかし声の余韻が途切れた辺りで右肩越しに後方を振り向くと、由比ヶ浜と目線で一言。相手の意思を確認してから、そちらに向けて歩き始めた。

 

 今度は何をしてくれるんだと期待する観客の視線をいっさい気に留めること無く、ギターを弾きながら雪ノ下は歩く。同じようにこちらに向かって来た由比ヶ浜とは、すれ違いざまに軽く笑顔をかわすことで激励に代える。

 

 そして雪ノ下は由比ヶ浜が立っていた辺りに、マイクスタンドとは少し距離を置いて立ち止まる。同じ頃、由比ヶ浜は正面前方のマイクの前に立っていた。できるなら照れ隠しと緊張緩和のために、観客に向かって手でも振りたいところだが。ベースを演奏しているのでそれができない由比ヶ浜は、せめて「たはは」と苦笑いを浮かべることで、気持ちを落ち着けようとしていた。

 

 このようにして雪ノ下と由比ヶ浜の位置が入れ替わって、そして間奏が終わりを迎える。そのまま二番を由比ヶ浜が歌うのだろうと思い込んでいた観客だったが、雪ノ下が伸ばすエレキギターの音をバックに、由比ヶ浜が口を開く。

 

「じゃあ続いて、途中からだけど聴いて下さい。……”Hello, Again”」

 

 由比ヶ浜の声に続けて、八幡が。テンポを120前後から100前後まで落として、タムとフロアタムとバスドラを一つずつ。本来であればこの三音の後にイントロのギターが始まるのだが、由比ヶ浜がすぐに二番の歌詞を歌い始めた。雪ノ下がアレンジした通りに。

 

 

『雪ノ下が一番を歌って、由比ヶ浜が二番を歌うとかだとダメなのか?』

 

 夏休みの終わりに初めて二人にバンドの話を告げた時に、そう提案してきたのは八幡だった。自分の体力の無さを理由に、二人のどちらかにヴォーカルをと話を持ち出した雪ノ下だったが、良い案を出してくれたものだと内心で喝采したのを覚えている。

 

 そして今月最初の月曜日。奉仕部の部室で由比ヶ浜が選曲の基準を提案したすぐ後に、八幡が挙げたのがこの曲だった。

 

『じゃあさ、いっそのことメドレーとか……って、アレンジとか難しいのかな?』

 

 あの後も幾つかの曲名が挙がっては消えて、最終的には八幡が推薦した二曲が残った。先ほど八幡の質問に答えたように、時間的には二曲でも問題は無かった。しかし体力面を考えると、一曲まるごとを歌いきるのは不安が残った。ならば一曲は一番だけ、そしてもう一曲は二番以降という形でメドレーにして、二人で歌を分担してはどうかと由比ヶ浜が提案してくれたのだ。

 

 いま実際にステージ上にて、二人が提案してくれたことの効果を実感しながら。雪ノ下は過去に思いを馳せるのを中断して、演奏に意識を集中する。

 

 再び《クイックチェンジ》を発動させて今度はサンバースト・カラーのレスポールを手にした雪ノ下は、歌という重労働から解放された反動か、ノリノリでギターを奏でていた。観客の目があるのはかろうじて意識できているので、目立つ身振りなどは観られない。しかし、そのハネた音は全く隠せていない。聴く人が聴けば、雪ノ下の心情を容易に悟って、微笑ましい視線を送ることになるのだろう。

 

「やっぱり雪乃ちゃん、さっきよりも今の演奏のほうが味が出てるんだけど……自覚してないんだろうなー」

 

 こんなふうに。

 

 陽乃はさすがに大したもので、妹が、使用しているギターはそのままにエフェクターだけを変更した《クイックチェンジ》を行っていることも見抜いていた。三人だけで演奏するという前提に従うのであれば、妹のアレンジは真っ当で、そして綺麗なものだ。だからこそ、今後の展開が至極読みやすい。

 

 だがそれでも、陽乃は踵を返すことなどしない。一緒に葉山のバンドを観ようと先週(一方的に)約束したのに仕事を理由に断られてしまった、それの文句を妹に直接言いたいから、では無論ない。

 

 妹の生演奏を聴けるというだけでもここに居る価値は充分にあるが、今日はもしかするとそれ以上を期待できるかもしれない。芸術作品とは、展開が予測できた時点で意味を失うような、そんな類いのものでは無いからだ。楽譜に書かれた通りに音を出して、なのにそれが大勢の心を揺さぶるような演奏になってしまうことがあるからこそ、芸術というものは侮れないのだ。

 

 大切な妹が、そして妹と同じ部活のあの二人が、一体この先どんな演奏を聴かせてくれるのか。それを楽しみにしながら、陽乃は再び耳に意識を集中する。すぐ隣では旧知の教師と、司会の役割が当分来ないので舞台の袖に下がってきた後輩が、呆れたような目で陽乃(シスコン)を見ていた。

 

 

『なんでこの曲を、って言われても、特に深い意味はねーんだけどな。たまたま思い出したっていうか』

 

 歌詞を丁寧に口に出して歌いながら、由比ヶ浜は八幡に推薦の理由を尋ねた時のことを思い出していた。何となくの感覚でしかないのだが、「たまたま思い出した」という言葉に嘘は無いと思った。けれど、それは「ついさっき」ではないのだろうな、とも思った。

 

 意味を考えながら歌っていると、この二曲の世界観というのかな。それがとても似通ったものに思えてくる。この二曲を推薦したヒッキーは、そこにどんな意味を見出しているんだろう。それをもっと詳しく知りたいと思うから、由比ヶ浜は言葉の一つ一つを、音の一つ一つを疎かにすることなく歌う。

 

「(もしかしたら、ヒッキーもゆきのんに置いて行かれるのが怖いのかも?)」

 

 ふと思い付いた仮説に対して、由比ヶ浜は即座にかぶりを振る。そんな心配をしなくても、ヒッキーなら大丈夫なのにと由比ヶ浜は思う。由比ヶ浜も八幡も、自分だけが置いて行かれることを怖れていて、()()()()()取り残される可能性を認識できていない。そんなことは起こり得ないと、頭からそう思い込んでいるから。

 

「(ゆきのんのギターも、ヒッキーのドラムも、気持ちいいな)」

 

 練習の時にも思ったが、二人の演奏に合わせて歌うのは本当に気持ちがいい。カラオケに行くのは楽しいけど、この気持ちよさを知ってしまったら、ちょっとやばい。たぶんそれは、バンドの生演奏だからという理由に加えて、この二人の演奏だからという理由も大きいのだろう。というより、それが理由のほとんどなのだろうと由比ヶ浜は思う。

 

『現実世界でも、今はスマートフォンさえあれば簡単に曲ができてしまうのよ。正確には、G-Bandというアプリがあれば、ね。個人的にはそれに加えて、aiRigぐらいは欲しいのだけれど』

 

 最初のアプリは何となく聞き覚えがあったけど、付け加えたやつはアプリなのか何なのかすら分からなかった。由比ヶ浜に理解できたのは、雪ノ下は一人でも曲を作れて演奏までできるという事実。やっぱり、ゆきのんに助けなんて要らないんじゃないかと、拗ねたことを言いたくなってくる。

 

 でも、あたしはもう決めたから。待つよりも自分から行くって。どこまで行けるのかは正直分からない。それでも「自分の限界がどこまでか」、それを知ることになったとしても、そこまでは行くんだって決めたから。

 

 そして、もしもそれ以上は行けないってなったら。その時は、せめてあたしは、二人が帰って来られる場所を確保しておくんだ。ここは「昔からある場所」だよって。

 

 とはいえ、今はそこまでは考えまいと由比ヶ浜は思う。今はただ手を前に伸ばすようにして、まっすぐに。ベースを弾きながら歌を観客に届けることに、集中する。もうすぐ二番のサビも終わりだ。

 

 

 軽快にギターを奏でていた雪ノ下は、二番のサビに入ってからも相変わらずノリノリだった。だが最後の四小節に入ると、その音が変わる。ほんの少しの緊張感と、ほんの少しの高揚感と。それらを押さえつけることなく、冷静に自分の中で循環させようとしている。

 

「やっぱり……ね」

 

 もっともそんなことまで分かるのは、「やっぱりわたしの予想通りの展開だったね」と上から目線を維持しようとしつつも頬が緩むのを避けられない、どこかのシスコンぐらいだろうが。

 

 そしてサビの歌が終わる直前のこと。背後のスクリーンを確認するような素振りで半身を後ろに向けた雪ノ下は、何度目になるのか分からない《クイックチェンジ》を発動させる。だが、今度の楽器はギターではなく、キーボードの陰に置かれていたもの。

 

『ざわっ……』

 

 その楽器を口にしてベルをマイクに向ける。雪ノ下のその姿を前にして、観客たちは声にならない言葉を口にして目を見開いている。だが同時に、必死になって目と耳に意識を集中させようとしている。決して見逃すまいと。決して聞き逃すまいと。

 

 同じタイミングで、ずっとカメラが固定だったスクリーンの映像がここで初めて変化した。カメラがゆっくりと移動して、ステージの左方から雪ノ下を中心に映し出す。他の二人が映像から姿を消すことのない構図で。

 

「雪乃ちゃんのソプラノサックス、久しぶりに聴いちゃった」

 

 そうつぶやく陽乃ですら、実際には余裕はさほど残っていない。雪ノ下が紡ぎ出す音の中には、優しさも強さも、バンドメンバーへのねぎらいも観客へのおもてなしの気持ちも、未来を見据える視線も過去に向ける眼差しも、先達を侮らず敬うべきは敬い後生を畏れず導くべきは導く姿勢も。文化祭の準備が始まってから今日までの二週間に経験した様々な想いが、全て漏らさず込められていた。

 

 それらを渾然一体として、雪ノ下はそれを大切に扱いながらも、意識するのはただ一つ。二人の部員が刻み出すリズムに合わせて、ただ音を伝える。観客の耳目を一身に集めて、それでも雪ノ下は自然体で音を届ける。

 

 その音に割って入れるのは、ただ二人。まずは由比ヶ浜が、そこに声を乗せる。その歌は、雪ノ下の音にあるような幾多の意味合いなどは持ち合わせていない。そこにあるのは一つだけ。ただ雪ノ下に寄り添うという意思だけを顕わにして、由比ヶ浜が二小節を歌い上げる。スクリーンの映像は滑らかに右方に移動して、そんな二人を均等に映し出している。もちろん奥には彼の姿も。

 

 二人が存分に音と声とを伸ばして、そしてそれが途切れそうになった瞬間。二人はちらりとスクリーンに目をやって、そしてもう一人の姿を見据える。こんな衆目の場で二人からの視線を独占しても、今の八幡には畏れることは何もない。二人に見られていることを充分に意識して、それでも八幡は気負いなく普段通りに動くことができる。

 

 ドラムスティックを振り上げて、それをフロアタムに向けて一閃。強くリバーブがかかった音が体育館に響き渡り。それを合図に、雪ノ下は再びレスポールを操り、由比ヶ浜はベースを弾きながら力強く歌う。曲はついに大サビに入った。

 

 

 耳に届いてくる歌詞は、まさにあの日に思い浮かべた箇所。

 

『由比ヶ浜は、優しいよな』

 

 そう言って、八幡はかつて由比ヶ浜を、奉仕部の二人を拒絶した。あの発言がいかに軽はずみなものだったか。由比ヶ浜をどれほど傷付ける言葉だったか。後になってようやく八幡は、そのことに思い至った。

 

『ヒッキーは、なんでこの曲をやりたいって思ったの?』

 

 由比ヶ浜からそんな質問を受けた時は、内心では冷や冷やだった。あの職場見学の日にこの曲を連想してしまったから、なんてことは口が裂けても言いたくない。由比ヶ浜が歌うこの曲を聴いてみたかったから、なんてセリフを口にするのは(たとえそれが事実だとしても)リア充にはなれそうもない自分には難易度が高すぎる。

 

 いちおう、あの時にこの曲を思い付いた経緯を説明することはできる。ちょうどあの時期に、自分と同じようなぼっちが部活で美少女に囲まれながら難度の高い依頼をばっさばっさと解決して充実の高校生活を送るアニメを観ていたのだが。そのエンディングテーマと名前が似ている曲が昔あったな、というのがその経緯だ。人の連想なんて、説明してしまえばこんな程度のものだ。

 

 あの職場見学が無ければ、この曲をバンドでやることも無かったのだろう。知らない曲ではないし、誰かがカラオケで歌う場面に遭遇して「おお」と思うことはあったかもしれない。「懐かしいな」と思うこともあったかもしれないが、ここまで自分にとって特別な曲にはならなかっただろう。

 

 俺とこの曲を結びつけたものは、言ってしまえば単なる偶然に過ぎなかったのに。振り返ってみると、それが必然であったかのようにも思えてしまう。この二人と出逢ったのと同様に、この曲との出逢いもまた特別なものかもしれないと八幡は思う。

 

 その証拠に、こうして由比ヶ浜が歌う大サビの歌詞を聴いていると、曲の印象ががらりと変わる。職場見学の日にこの曲の歌詞を思い出した時も、バンドで演奏することになって曲を聴き込んでいた時にも、八幡は哀しい曲だなという感想を抱いた。切ない曲だなと思った。

 

 いま由比ヶ浜が歌っているのは、あの時に八幡が思い浮かべた歌詞の部分だ。なのになぜ、こんなにも前向きな気持ちになれるのだろうか。もっと後ろ向きの曲だと思っていたのに、由比ヶ浜が歌っているのは諦めなど微塵も感じさせない曲だ。

 

 何度も一緒に練習したので、由比ヶ浜の歌は耳にこびりつくほど聴いたはずだ。確かに何度か、曲の印象が違うなと思った時があった。しかし今日この時ほど、この曲を前向きに感じられたことは一度も無かった。本番だからか、同じステージに立っているからか、理由は判然としないけれども。一つ言えることは、由比ヶ浜が歌うこの曲は、途轍もなく前向きな曲だ。

 

『ヒッキー……』

 

 昨日、中学の同級生連中に絡まれて、由比ヶ浜に文実の腕章を託した時のことを八幡は思い出す。あの時の由比ヶ浜は、何も言葉を出せなかったのだったか。それとも名前だけを呼んでくれたのだったか。昨日の今日なのに記憶が曖昧になっているが、いずれにせよ哀しそうな目で見つめられたことはしっかり覚えている。

 

 あれの前にお昼を食べながら、由比ヶ浜が「自分から行く」と宣言してくれたから。それに勇気を貰って、あの連中に思った通りのことを言えたのだと思っていた。

 

 だが、それだけではなく。あの場に由比ヶ浜が来てくれたことがまず大きかった。当たり前すぎて見逃しかけていたが、こうして同じステージに立っているとよく分かる。その存在だけで、ただそばに居てくれるだけで、心の持ちようはこんなにも違ってくるのだから。

 

 それから由比ヶ浜によると、「自分から行く」と決めたのは雪ノ下の影響らしい。なら雪ノ下のお陰という部分もあるのだろう。自分が気付かないうちに、意外なところで意外な人に支えられている。八幡はそうした奇妙な繋がりを痛感した。

 

 八幡は知らないことだが、六月のあの日に雪ノ下が「自分から動きたい」と虚勢なく言い切れたのは、部長会議を裁けたという成功体験があったからこそだった。同時に、あの頃までの雪ノ下は大なり小なり、かつての傷痕を引き摺っていた。小学生の頃にも動けはしたが、雪ノ下の中で問題は残ったまま燻り続けていた。それをようやく改善できたのがつい数ヶ月前だということを、八幡も由比ヶ浜もいまだ認識できていない。

 

『ざわ……ざわ……』

 

 観客が何やらざわついているが、八幡にとってはどうでも良い。それよりも、たったいま由比ヶ浜が歌っている通り、俺はあの職場見学の時に由比ヶ浜を泣かせてしまったのだろう。「見えなかった」なんてのは言い訳に過ぎない。そして昨日も、危うく泣かせてしまうところだった。

 

 こんなにも前向きな気持ちにさせてくれる由比ヶ浜を泣かせるだなんて、酷い奴だと自分でも思う。それどころか、昨日あざとい後輩に言われた通り、俺はこの二人を試すようなことまでしていた。ただ一言「大丈夫だ」で済ますのではなく、きちんと思うところを説明すれば良かったのに。

 

『あたしとゆきのんとヒッキーとで、積み重ねてきたって言うのかな。そういう言葉って、やっぱり大切だと思うんだけど』

 

 由比ヶ浜に教えられるまで、こんなことにすら気付けなかった。

 

 だが、反省するのはここまでだ。せっかく由比ヶ浜が気持ちを前に向けてくれているのに、いつまでもうじうじと悩んでいるのは情けなさすぎる。きっと俺はこれからも失敗をして、二人を哀しませるようなこともやらかすのだろう。むしろ俺がやらかさない未来なんて想像もできない。

 

 けれども、雪ノ下が導いてくれた通り、間違ってもまた新しい問いを見出せば良い。由比ヶ浜が教えてくれた通り、また前を向いて進めば良い。

 

 きっと、人はそうそう変われない。ぼっちの自分も、リア充を敵視していた自分も、俺の中には残っている。他者批判と自己弁護こそが俺の真骨頂だと、そんなふうに考えていた自分もやっぱり自分なのだ。でも、この曲を聴くたびに、俺は今日のことを思い出せる。今この時のことを、俺は絶対に忘れない。忘れさえしなければ、今日の日のことを思い出して、俺はまた立ち上がることができる。

 

 そんなことを考えながらドラムを叩いている八幡は、背後で起きていることを知る由も無かった。

 

 

 ソプラノサックスを吹く雪ノ下をメインで映し、そこに由比ヶ浜が声を重ねると二人が均等に映るように動いたカメラは、そのまま当初の位置へと戻って行った。だがスクリーンの様子は従前とは異なる。

 

 それまでは、ただ正面からステージ上の光景を映しているだけだった。中央前方に立つヴォーカルの姿が一番大きく、その左右に他の二人が少し小さく映っている。特に八幡はドラムセットの向こうに座っているだけに、顔がほとんど見えていなかった。

 

 だが大サビの直前にカメラが元の場所まで移動するのと合わせて、スクリーンはその様相を変えた。横並びに大きく三分割されて、向かって左から雪ノ下・由比ヶ浜・八幡の順にそれぞれが大きく映り込んでいる。上は頭のてっぺんから、下と左右はギターやベースが少し途切れる辺りまで。おおむね頭から腰の下までが、分割されたスクリーンに収まり切る形だ。

 

『私は今からプログラムを組もうと思うのだけれど。大サビで、私たちが横並びになる映像をスクリーンに映し出そうと考えているのよ』

 

『それって、ヒッキーがいい加減な性格じゃないって、けっこう真面目なんだよってみんなに見せるためだよね?』

 

 それが雪ノ下の当初の案だった。雪ノ下は「純理論上の正当さにもとづく」説明では、八幡に不満を抱く生徒たちを説得できないと考えていた。むしろ「群衆の心中に起こさせる印象のみが、彼らを魅了することができる」という方針に従って案を練っていた。

 

 率直に言うと、八幡が真面目に仕事をする光景を見せつけても、全員が考えを変更することは無いだろう。だがそれを見せても無駄な相手には、何を言っても無駄だ。そこに労力を割くぐらいなら、別の話を持ち出した方が良い。

 

 でも、真剣に事に取り組む八幡の姿を見て、思っていたのとは違うと考える生徒も少なくないはずだ。だから試す価値はあると雪ノ下は語った。

 

 それに六月とは違って今回は、校内放送に行く直前に「私達が勝手に解決しても大丈夫なのかしら?」と確認を入れている。だからやってやろうではないかと雪ノ下は妙に乗り気だった。部員の行動に対して、色々と言いたいことがあるらしい。

 

 その案を聞いて、由比ヶ浜は基本的には賛成してくれた。

 

 由比ヶ浜の分析によると、八幡に不満を抱いているのは同学年の男子生徒が大半らしい。女子生徒の反感をあまり買っていないというのは意外だったが、由比ヶ浜が微妙な顔をしながら「あたしとゆきのんがヒッキーと仲良くしてるほうが、都合がいいって考えてるみたいでさ」と教えてくれた。頭の痛い話だが、いちおう納得はできる。

 

 三年生からの評判が悪くないのは、文実の渉外部門に属する先輩たちのお陰らしい。その人たちと比べると発言力に欠けるのだが、一年生の間でも渉外部門の後輩が微力を尽くしてくれていると。由比ヶ浜の言葉の使い方が面白いなと思いながら、雪ノ下はその説明に頷いていた。

 

 要するに、同じ学年で同じ性別だからこそ「なんであいつだけ」という気持ちが強くなるのだろう。ならば、八幡の仕事ぶりを見せつけるこの案で、基本的には問題ない。問題は……。

 

 大サビが始まってから四小節が過ぎて、スクリーンは再び変化の兆しを見せていた。

 

『でもさ、ヒッキーだと……あたしたちと横並びに映しても、みんな観てくれないんじゃないかなって。だからさ、順番にね……』

 

 問題は、他人に注目されにくいという八幡の特徴、すなわちステルスヒッキーにある。そして由比ヶ浜が提案した修正案は、三分割された状態から順番に三人を大映しにするというもの。まずはヴォーカルの由比ヶ浜が、他の二人を圧迫する形でスクリーンの大半を埋め尽くす。

 

 そしてまた四小節が過ぎて、再び変化が訪れる。スクリーンの右端に追いやられていた八幡の映像が、徐々に大きくなり。遂にスクリーンの大部分を占拠した。この結果、大サビの最後の四小節は、八幡の独占映像をバックに披露される形となった。

 

「え、ちょ、お兄ちゃんのどアップって……」

「ドラムって見えにくいなって思ってたけど。八幡、あの時と同じ顔をしてる。ふふ」

「小町さんに言われたとおり、こっそり見にきてよかった。留美ちゃん、こんなすごい人たちに助けてもらったんだね」

「お兄さん、今日もパネェっす」

「たぶんこの三人の影響で、戸部くんも変わるんだろうな。たぶん、良い方向にね」

「先輩とは違った凄さがあるんだな。姉妹だからって同列に扱ってしまった借りは絶対に返すよ。絶対に」

「ちょっと、マジであれ比企谷なんだけど。なにこれウケる!」

「なるほど、音楽とムービーの相乗効果がサウンドと映像にシナジーを……」

「保健委員としての役割しか期待されてないのが少し不満だったけど、これを見せられると完敗だな」

「時間を割いて面談した甲斐があったということかな。どう思う?」

「職場見学に来たときは、正直これ程とは。千葉村では成長したなと思いましたが、ここまで……」

「私は最初から雪ノ下さん推しでしたけどね!」

 

 この世界で出逢った面々も、未だ顔を合わせたことのない面々も、大勢が等しく八幡の姿を眺めている。そんなざわざわとした雰囲気の中で、歌が演奏が続いていた。

 

 八幡の目は相変わらず濁っている。気怠そうな雰囲気は今も健在だ。八幡本人が自覚している通り、人はそうそう変われるものではない。

 

 けれど、その手の動きは。足の動きまでは見えないが、ドラムセットを叩く八幡の動きからは、手抜きの様子など微塵も感じられない。それを裏付けるように、耳に聞こえて来る音は真剣そのものだ。視覚と聴覚とに届けられるこれらの情報からは、八幡の性格が鮮明に浮かび上がってくる。外面はどうあれ内面は真面目な生徒なのだと、どこかの顧問が言った通りの姿がそこにはあった。

 

 

 そして由比ヶ浜が大サビを歌い終える。するとスクリーンの左側から雪ノ下の映像が広がって来て、たちまちその姿を大映しにする。アレンジの関係上、このタイミングで初めて流れる形となったギター・リフを奏でながら、雪ノ下の姿がスクリーンに踊る。

 

『この二曲は、プロデューサーが同じだからかもしれないのだけれど。いずれも大サビの最後にギターのフレーズが流れるでしょう。どちらもホ長調で、イントロのコードはEなのだけれど。この大サビの最後の部分ではコードがEではなく、平行調のC#mになるのよ』

 

 いつの練習の時だったか。雪ノ下が熱心にそんなことを説明してくれたのを八幡は思い出した。正直に言うと、話の内容はあまり理解できなかった。それが凄いことなのか何なのか、自分には判断が付かない。でも、雪ノ下が面白いと思っていることを、その面白いを伝えてくれるのは悪くないなと八幡は思った。

 

 振り返ってみると、俺があの海賊漫画の話をした時は雪ノ下のような話しかたではなかった。作品の凄さを語るのではなく、それを読み取った俺が凄いという話しかただったと思う。

 

 もちろん小学生が話すことだから、そうなっても仕方がないとは思うけれど。でも、話しかたが違っていたら、もしかしたら違った展開になっていたかもしれない。クラスの人気者になれたとは思わないけれど、もしかしたら一人ぐらいは、自分の話を面白く聞いてくれる友達を得られたかもしれない。

 

 別に後悔をしているわけではない。でも、そんな可能性もあったかもしれないと考えることで、八幡は過去の自分を肯定できた気がした。過去を無かったことにするとか捏造をしたいというのではない。過去を断罪したいわけでもない。そうではなくて、今に繋がる確かにあった過去として、それをそのまま受け入れられる気がした。

 

『中二病だった頃に、自分の妄想に付き合ってくれる友人が居たらと考えたことをふと思い出して』

『でも、それは八幡だけに問題があるのだろうか。俺の価値観とか物の考え方を全否定して、自分たちのそれを押し付けてくる連中にも、原因の一端があるのではないか』

 

 そういえば、今学期の初日だったか。海老名姫菜と話している時に八幡が思い出したことがあった。そして昨日、中学の連中から逃げた時に考えていたことがあった。

 

 友人が居たらという願望を持ちながらも、そして自分の問題点については反省しているつもりでも、やっぱり自分にはまだまだ至らぬ部分があったのだ。相手にも原因の一端があったという考えは変わらない。でも自分にも、改善できる部分はたくさん残っていた。

 

 ぼっちの利点の中に、「自省の時間がたっぷりある」ことを挙げていた八幡だったが。やはり一人だと、同じ部分を見落としてしまうのだろう。だがこの部活のお陰で、俺は一人だったら気付けなかったことを幾つも発見できた。できればこれからも、仮にいつかは終わりを迎えるとしてもそれが少しでも先であることを、八幡は願う。ああ、それよりも。今はこの演奏が、いつまでも終わらなければ良いのに。

 

 

 雪ノ下がリフを弾き終えるタイミングで、スクリーンには曲のタイトルを歌う由比ヶ浜の姿が映る。そして四小節が過ぎて、雪ノ下のギターを支えるべくドラムを叩く八幡の姿が大きくなる。

 

 また四小節が過ぎて、ギターを弾きながら由比ヶ浜の歌にコーラスを乗せる雪ノ下の姿が大きくなる。更に四小節、今度は雪ノ下のリフを応援すべくベースを鳴らしている由比ヶ浜の姿が。そして四小節、由比ヶ浜の歌を支援するためにドラムを響かせる八幡が。

 

『サックスを吹く時にアップで映されることになるのだし、私は一回減らしても良いわ』

 

 由比ヶ浜に向かって雪ノ下が照れくさそうに口にした通り、ここでスクリーンは再び三分割の形に戻った。ゆきのんは時々可愛すぎて困ると、由比ヶ浜はその時の光景を思い出す。人前でこんなにも輝ける才能を持っていながら、この性格なのだから。思わず抱きつきたくなってしまう。そんな邪念を振り払って、由比ヶ浜はベースに意識を集中する。

 

 雪ノ下のギターが鳴り響く中、三人が横並びの姿で演奏を続けている。聴く人を明るくさせるような、演奏する楽しさが伝わってくるかのような、そんな音を届けてくれる。

 

 そして四小節が過ぎて、由比ヶ浜が最後に曲のタイトルを歌い上げる。その背後では、徐々に音数が少なくなって。雪ノ下も由比ヶ浜も単音を長く伸ばすようになり、八幡もべードラだけを出すようになり。それらの音が小さくなっていく中で、由比ヶ浜が最後のフレーズを歌い終えた。

 

 

 そして、体育館の中は一瞬だけ静寂に包まれて。間を置かず、大歓声が沸き起こった。

 

 

***

 

 

 ようやく開放された両手を大きく広げて、観客に向かってぶんぶんと振る。満面の笑みで歓声に応えている由比ヶ浜の後ろでは、雪ノ下がクールに立ち、八幡がだらっと座っていた。

 

 後ろを振り向いてそんな二人の様子を確認して。由比ヶ浜は苦笑しながら前に向き直ると、もう一度大きく右手を振った。そしてゆっくりとその手を下ろす。打ち合わせには無かったが、この程度のアドリブは許して貰おう。申請の必要も無いみたいだしさ。由比ヶ浜は珍しく悪戯っぽい笑顔を浮かべて、歓声がもう少し小さくなるのを待った。そして。

 

「みんな、ありがとー。じゃあここで、メンバー紹介をします!」

 

 予定では、歓声が収まったら一言だけ挨拶をしてステージを去ることになっていた。背後から雪ノ下の視線が突き刺さるようだが、気にしないで言葉を続ける。

 

「まずは……ボーカルとベースは、あたし。由比ヶ浜結衣!」

 

 大きな拍手に頭をしっかり下げて応えて。勢いよく頭を上げると再び口を開く。

 

「それから、ボーカルとギター、サックス、打ち込み、その他色々……雪ノ下雪乃!」

 

 負けず劣らずの大きな拍手に、仕方なく雪ノ下も優雅に一礼することで応える。

 

「最後にドラム……比企谷八幡!」

 

 二人と比べると大きくはないが、まばらと言うほど小さくもない。拍手をする人の数は少なくとも、一人一人の拍手の大きさは由比ヶ浜や雪ノ下を上回っている。よっこらせと立ち上がって観客に一礼した八幡は、タムの音を拾うために置かれていたマイクに手を伸ばす。

 

「あー。ちょっとだけ聞いて下さい。あんま大勢の前で話すの得意じゃないんで、すぐ終わりますから」

 

 当初の予定では、雪ノ下が挨拶をした直後に割って入るつもりだった。紹介されるのは少し恥ずかしかったが、ちょうど良かったと八幡は思う。

 

 だが他の二人は、八幡が何を話し出すのかと。片やあからさまに心配そうな表情で、片や有無を言わさず止めるべきかしらと悩んでいるような表情で、自分を見ている。まあ、お叱りは後で受けるとしようと思いながら、八幡は言葉を続ける。

 

「さっき雪ノ下が『今年の文化祭に集まって下さった皆様を』って言ってたんですけど。あー、えっと。それだとまだ、ねぎらわれて当然なのに、おもてなしされてない奴が残ってると思うんですよ。まあ、雪ノ下と由比ヶ浜のことなんですけど」

 

 普段と比べるとしどろもどろな話しかただったが、先程の演奏の効果か(八幡はいまだ知らないが映像の効果が大きかったりする)、観客は聞く耳を持たないわけではなさそうだ。ならば一気に話を進めようと八幡は思った。

 

「だから……お願いします!」

 

 

 八幡のその声に応えて、三人の女性陣がステージの袖から観客に姿を見せた。先頭を歩くのは城廻、次いで陽乃、最後に平塚の順にステージ中央へと歩いて来る。司会をするために持っていたマイクを口に近付けて、まずは城廻が。雪ノ下と由比ヶ浜が何か反応を起こす前に口を開く。

 

「えっと、生徒会長の城廻です。生徒を代表して、奉仕部の()()に、お疲れさまーって言いに来ました」

「雪ノ下陽乃です。雪乃ちゃんのお姉ちゃんですよー。卒業生を代表して()()をねぎらいに来ました」

「平塚です。教師を代表して、私の自慢の生徒()()を褒めに来ました。……そう身構えないで、少し力を抜きたまえ」

 

 順にマイクをリレーして、三人はそう話し終える。平塚に宥められて、しかし力を抜くことなく鋭い視線を三人から八幡へと向ける雪ノ下。それを外面では平然と流しながらも内心では冷や汗をだらだら流しながら椅子に座ろうとする八幡。そして三人が登場した理由をようやく理解して今にもはしゃぎ出しそうな由比ヶ浜。

 

 そんな奉仕部の三人を順に眺めて、再び城廻が。

 

「じゃあ最後に、アンコールを。今からこのメンバーでもう一曲やるよー!」

 

 そう宣言すると、観客のボルテージは瞬時に最高潮となった。「すぐにスタンバイするねー」という城廻の発言を受けて、観客は今か今かと演奏が始まるのを心待ちにしている。

 

 

「比企谷くんのサプライズ、うまくいったねー」

 

「正直、後が怖いんですけどね。まあ、あいつらをねぎらって貰えるなら、それぐらいは甘受しますよ」

 

「だからー。比企谷くんも含めた三人に、お疲れさまって言いに来たんだからね」

 

「いや、俺は、その……。はあ、ありがとうございます」

 

 スクリーン上の映像は横並びに三分割されたまま、先程と何も変わっていない。それに想定外の展開になっているので、マイクなどの入力も演奏時のままだった。そして八幡には不幸なことに、別の場所ではまだ会話が始まっていなかった。

 

 その結果、おおぜいの観客がそれを目撃した。すなわち、捻デレがデレた瞬間である。こうして、八幡の黒歴史がまた一つ加わった。

 

 

「由比ヶ浜。よく頑張ったな」

 

「ううん、そんなこと無いです。ゆきのんがいなかったら何もできてないし、ヒッキーがいなかったら先生を呼ぼうなんて思い付いてないですし……」

 

「それでも、君がいることで物事がうまく進んだ部分も大いにあるさ。自信を持ちたまえ」

 

 八幡の失敗を目の当たりにして、二人はしっかりと会話が外部に漏れない設定にした上で話を始めていた。頭を軽くぽんぽんと叩かれて、少し肩の荷が下りた気がした由比ヶ浜は、差し迫った疑問を口にする。

 

「えっと、でも先生。あたし、あの二曲しかベースの練習をしてなくて……」

 

「ああ。だからベースは私に任せて、君は歌に専念したまえ。今からやるのは()()()だよ」

 

「あ、あの曲なんだ。でもあたし、歌詞がうる覚えなんですけど……」

 

 ふっと苦笑して、平塚は由比ヶ浜の心配を一蹴する。

 

「ここに居るみんなが君を助けてくれるさ。もっとも、他の奴には助けさせないぞと、由比ヶ浜を助ける役割は譲らないぞと、雪ノ下と比企谷が言い出すかもしれないがね」

 

「そ、それって……そうなんですか?」

 

「その答えは、君が自分で確かめたまえ。まずはもう一曲だ」

 

 少しからかいすぎたかと内心で軽く反省しながら、平塚は由比ヶ浜からベースを受け継いだ。そして教え子たちを見渡せる位置に移動する。ドラムセットよりも更に後方のステージ右奥にて、他の面々の準備を待つ。

 

 

「はーい、雪乃ちゃん。一緒に演奏するなんて、いつぶりだろうね?」

 

「今回の件は、姉さんが仕組んだのかしら?」

 

 音声が外部に聞こえない設定にした上で、こちらでも会話が始まっていた。剣呑な表情の妹を身振りでは宥めながら、陽乃がそれに答える。

 

「まさか。そこまで肩入れする理由も労力を割く理由も無いって、雪乃ちゃんなら分かるでしょ?」

 

「では、比企谷くんが?」

 

「それよりさ、早くパート分けを決めちゃおうよ。()()()をやる予定だけど、雪乃ちゃんの希望を優先してあげるよ?」

 

 分かり切ったことは聞くなとばかりに、ストラトキャスターを手にした陽乃が話を先に進める。

 

「はあ。どうせ好き勝手にアドリブで演奏するのでしょう。だから原曲部分を私が再現して、姉さんはフリーで良いのでは?」

 

「お、話が早いねー。でもさ、練習とかしてないのに大丈夫?」

 

「愚問ね。私は姉さんが今までにやって来たことは……」

 

「大抵はできるんでしょ。文化祭も大成功だしさ。でもね……大抵なんて求めてないの。練習してない以上は、技術的なことは仕方が無いけどね。ただ、ベストを。できる?」

 

「できなければ、姉さんの言うことを一つ聞いてあげるわ。どう?」

 

「へえ。ここで平等じゃない賭けを持ち出すだなんて……雪乃ちゃん、成長したのね」

 

「いいえ。私はもともとこういう人間よ。長年一緒に居て、私の何を見ていたのかしら?」

 

「何をって……可愛いものが好きなところとかパンさんがお気に入りなところとか休日には一日中猫の動画を眺めて過ごしたいと思っているところとか六月に買ったエプロンやぬいぐるみを妙に気に入って……むぐっ」

 

 乱暴に口を塞がれてしまった陽乃だった。

 

「ふう。自分から尋ねておいて、酷いなあ。ま、冗談はともかく。わたしは雪乃ちゃんのことを、この上なく高く評価してるんだよねー」

 

「……そう。では、期待には背かないわ」

 

 ぷいっと観客のほうへと向き直る妹を、陽乃は楽しそうに眺めている。だがそれが本心からのものなのかは、陽乃本人ですらも判らなくなっていた。

 

 

「お待たせー。じゃあ、今年の文化祭最後の一曲、いくよー!」

 

 キーボードの前に立った城廻がそう宣言して、曲が始まる。それは、二年前と三年前に陽乃が披露した曲。その当時の盛り上がりを記憶している三年生と卒業生、そして中学生の頃にその時の文化祭を見に来た生徒たちが即座に反応する。

 

 先程の奉仕部三人が披露した曲と比べると、静と動。三人の演奏に引き込まれるように、いつしか聴き入っていた先程とは違って、今回は観客も思い思いに騒いでいる。一緒に歌い出す者、リズムに合わせて手を大きく動かす者、踊り出す者、近くの友人めがけてダイブする者。

 

 文化祭の最後をともに盛り上げるべく、ステージの上と下とが一体となって賑わっている。カメラをオートにした結果、スクリーンはそうしたステージの内外を、ヒートアップした体育館内の様子を、残らず映し出していた。

 

 

 由比ヶ浜の後ろ、雪ノ下と八幡の真ん中辺りに陣取った陽乃が時々ちょっかいを掛けてくるのを軽くあしらいながら。雪ノ下はベストの演奏を披露しつつも、唇を噛みしめていた。

 

『数日前の時点で見切るのは早過ぎるのではないか』

 

 つい先程そんなことを考えていた自分に、雪ノ下は苛立ちをぶつける。八幡がハイハットを見切ったのは、水曜日の放課後のことだった。あの時に姉はたしか、最終下校時刻の直前とその半時間ほど前にも、八幡と何やら話をしていた。おそらくその時にこのアンコールの計画を立てたのだろう。

 

 八幡から話を持ち掛けたのは、姉の言葉からも明らかだ。そしてそれを楽しめると判断して、姉はその提案に乗ると決めた。今のこの状況を見れば、その判断は正しかったと言わざるを得ない。

 

 一方の八幡は、この曲の練習時間を確保するために、ハイハットの練習を見切ったのだろう。時おり付け焼き刃な部分を感じることもあるが、聞こえて来る演奏は概ね問題ない。それにしても、迂闊だったとは思うが、さすがにこれは読めないと雪ノ下は思う。

 

『ではまた後でな』

 

 先ほど平塚先生がそう言ってステージの袖から見送ってくれたが、あれも()()()()()()だったのだ。つい笑顔で応えてしまった過去の自分を呪いたくなるが、読めないものは読めない。日頃から他人の言動を常に疑って過ごすようなことでもしない限り、この展開を見抜くのは難しかっただろう。そもそも。

 

『さて、比企谷。バンドは、()()()()()()()()かね?』

 

 あの時に確認していたのは、これだったのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。企み事を抱えていたのは、自分と由比ヶ浜だけではなかったのだ。

 

 もちろんその確認には、雪ノ下が推測した要素も含まれていたには違いない。だが、メインはこちらだったのだ。変に深読みしすぎていた自分を雪ノ下は悔いる。だが何度も自分に言い聞かせているように、これを読むのは不可能だ。

 

 それに、このアンコールを企んだ理由が、自分と由比ヶ浜をねぎらうためだと言われてしまえば、どう反応すれば良いのだろうか。ここまでの完敗は、身内相手以外では記憶に無い。不思議と敗北感は感じないが、いつか借りは返さねばなるまいと、雪ノ下は獰猛な笑みを浮かべる。八幡は今すぐに逃げた方が良いのかもしれない。

 

 

 まるで日頃の鬱憤を晴らそうとするかのように低音を連打して。だが、そんな力が入りすぎている演奏の割には、なぜだか上手くまとまって聞こえるベースが特徴的な平塚。

 

 八幡と由比ヶ浜に余裕が無いことに加えて、最愛の妹は下手にちょっかいを出さないほうが面白そうな状態に至っているので、仕方なく高レベルのギター・テクを披露して無聊を慰めている陽乃。

 

 個性溢れる集団をステージ最後方から眺めながら、88鍵と61鍵の二台のキーボードを使い分けて巧みに音を埋めている城廻。

 

 

 そんな三人の助っ人にも支えられて、由比ヶ浜が伸びやかに声を出す。歌詞を間違えたって構うものか。それよりも、このノリに自分も乗って。そしてまたみんなに、このノリを届けるのだ。

 

 それに、歌詞が怪しいなって思った時はいつも、自分が思うよりも先に雪ノ下が声を出してくれる。自分の演奏で余裕が無いはずなのに、八幡が視線を送ってくれる。

 

 二人とも、どうやって察知してるんだろうって思うけど。あたしもヒッキーが演奏を誤魔化そうとする時は何となく分かるし、ゆきのんの演奏が凄いものになりそうな時も何となく分かる。バンドをしている人がみんな、こんな感覚を持つものなのかは分からないけど。この三人でバンドができて、この六人でアンコールができて、どう言っていいのか言葉にならない。

 

 そんなことを考えながら、由比ヶ浜が全ての歌詞を歌い終える。あとは他の五人にお任せだ。そう内心でつぶやきながら右肩越しに振り返ると、バンドの最後尾に控える先輩と目が合った。

 

「じゃあ、もう一度メンバー紹介するねー。ボーカル、ゆいゆい!」

 

 そんな呼ばれかたをした由比ヶ浜は観客のほうを向くと、いつもよりも投げやりに手を大きく動かす。雪ノ下と八幡からあだ名のセンスがどうのと散々言われてきたが、たしかに少し反省したほうが良いのかもしれない。何だか両の頬が熱い気がするし、とっても恥ずかしい気持ちがする。

 

 でも今は、このノリを壊したくないから。それに、あたしが二人をあの呼びかたで呼びやすいようにって、城廻先輩が敢えてこう呼んでくれたのは分かるから。だから、この流れに乗る。みんなが演奏を続けている間に、歌い終えたあたしがやるべきことを教えてくれたから。

 

「続いてキーボード。……めぐりん!」

 

 観客の声援に片手を挙げて応えながら、城廻が「うんうん」という感じの視線を送ってくれる。それに背中を押されて、由比ヶ浜が続けて口を開く。

 

「それからギターの一人目。……はるのん!」

 

 気のせいか、妹と似た呼びかたをされたことにビックリしたような、喜んだような、照れたような、そんな気配が伝わって来た。なんだか、こうした部分も実は似ているのかもしれないと由比ヶ浜は思う。けど、下手に追及したら後が怖いから、あまり考えないでおこうとも。姉妹の両方から反撃される展開なんて、さすがに考えたくもない。

 

「そしてベース。……」

 

「……お静ちゃん。いえいっ!」

 

 どう呼ぶべきかと一瞬固まってしまった由比ヶ浜の代わりに、陽乃がマイクに近付いて来てフォローしてくれた。少しだけ、期待と違うという表情を浮かべて。それでも自分だけ仲間外れにされなかったことに、満更でもなさそうな顔付きをしている。陽乃と平塚に苦笑を送って。さて、あとは二人だけ。

 

「ラストあと二人。まずはギターの二人目。……ゆきのん!」

 

 この呼びかたで呼べることを、この感情をなんと表現すればよいのだろう。先ほどあだ名のセンスを反省しようと思ったこともすっかり忘れて、由比ヶ浜は喜びに浸る。そして、あと一人。

 

「最後ドラムス、それからあたしたちに内緒でアンコール企画をこっそり企んでた……ヒッキー!」

 

 これぐらいは言っておきたい。そう思って少し長めに紹介してみたが、観客も他の四人の反応も上々みたいだ。当の本人は外見は面倒臭そうに、でも実は照れ臭そうに、スティックを持ったまま片手を挙げている。

 

 

 本当は、これは夢ではないのかと八幡は思う。俺はどうしてこんな場所に立てているのだろう。雪ノ下と由比ヶ浜という、とびっきりの女の子二人と。更には頼れる助っ人三人と。男女比率については考えないのが吉だと、八幡は頭の片隅で冷静に判断する。

 

 去年の文化祭のことなんて覚えてもいないし、もしも高二に進級直後に「文化祭でバンドをやることになるぞ」なんて言われても全く本気にしなかっただろう。仮に「体育館の一番後ろで、一人でバンドを見ることになるぞ」と言われても、「体育館に行けるなんて凄い進歩じゃないか」などと答えていたに違いない。

 

 なのに今、自分はこの場に居る。だから、今日のこの日のことは絶対に忘れない。さっきも同じことを思ったけれど、それは未来に何かをやらかした時に。その時に立ち上がれるように忘れないでおこうと思っていた。でも、こんなの、忘れられるわけがない。

 

 つらい時や哀しい時に泣きたくなることは今までに何度もあった。でも、嬉しい時にも泣きたくなるだなんて、創作作品では知っていても自分には縁のないことだと思っていた。けど、そうなんだ。嬉しい時には泣きそうになるんだ。八幡は顔を上に向けながら、感情を必死で堪える。

 

 もうすぐ演奏は終わりだ。曲が終わったら適当に観客に応えて。協力してくれた三人にお礼を言いながら、何だかんだで気持ちを誤魔化して。家に帰って、夜に布団の中で、この気持ちを存分に味わえば良い。そう考えて、八幡は目に力を入れながら、演奏に集中する。

 

 

 五人の演奏をバックに、由比ヶ浜は観客を煽っている。先ほど紹介した通りの呼びかたで、自分たちを順番に呼ばせている。由比ヶ浜がパートを口にして、観客が名前を呼ぶ。とはいえ由比ヶ浜が自分の呼ばれかたを恥ずかしがっているのは観客も気付いているみたいで、「ボーカル」「ゆいゆい」というやり取りだけは観客の間で完結している。憐れむべし由比ヶ浜、原因は日頃の行いである。

 

 

 そんなふうに最後まで盛り上がりが途切れることなく、ついに曲は終わりを迎えた。観客は興奮のあまり、狂乱の体を見せている。

 

 その中に、泣き笑いの表情でステージを見つめる女子生徒が一人。付近には、彼女にどう声を掛けたものかと悩ましげな表情の男子生徒も居る。

 

「やっぱり、うちとは全然……三人とも、凄いんだ……」

 

 そうつぶやきを漏らす女子生徒に向かって、一人の同級生が近付いて来ていた。




 まずは本話で取り上げさせて頂いた以下の二曲に、心からの感謝を。

Mr.Children “innocent world” (1994.6.1)
MY LITTLE LOVER “Hello, Again 〜昔からある場所〜” (1995.8.21)

 二巻幕間であの展開を書いて以来、本話を書くのは私にとって必ず果たすべきことだと考えてきました。それを書き切れて今は少しほっとしています。

 活動中のアーティストの名前や作品名を挙げたり作品の内容に触れることは、著作権を考慮して、慎重すぎるほど慎重に扱うべきだと思っています。特定の作品を取り上げることで一部の読者さんを置き去りにする可能性もあり、後半のような「みんなが知っているあの曲」といった書き方が無難だろうとも思います。

 しかし、アーティストや作品を限定すること、作品の内容に言及することによって、作中キャラがそれらをどう受け取るのか詳しく描写できるという利点もあります。本棚を見るとその人の性格が分かるという話があるように、具体的な名前を出すことの意義は、各キャラをより深く掘り下げられる点にあると私は考えます。

 前巻あたりから少しずつ、作り手の名前や作品名をそのまま出す場面を増やしてきました。度を越えた引用をしたり、作者や作品を貶めるような扱いをするつもりはありません。万が一、問題があるとのご指摘を受けた場合はすぐに修正します。

 なので、作品名や作者名を正確に表記すること、地の文に歌詞を潜り込ませたり本話のように「」付きで言及すること(引用は可能な限り短くするつもりです)に関しては、お見逃しを頂けるとたいへん助かります。

 なお参考までに、本作で取り上げる作品の基準など作中ではなかなか説明できない話を改行後に書いておきますので、よろしければご覧下さい。そんなのに興味はないよという方は、ここで引き返して下さいませ。


次回で本章の本編は終了となります。何とか三月中に終わらせるべく頑張る所存ですが、もしも数日遅れてしまったらごめんなさい。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を一つと、なぜかホリゾンタルバーになっていた箇所を全角長音に、それと細かな表現を修正しました。大枠に変更はありません。(4/2)
それと需要は不明ですが、作者が読み直す用にリンクを付けました。それぞれ、バンド準備1曲目2曲目3曲目にジャンプします。(4/2)
前書き末尾にもリンクを載せました。(4/6)





 俺ガイル1巻の発売が2011年3月なので、基本的に本作では2011年度を想定しています。とはいえそれは絶対ではなく、作品開始早々にLINEらしきものが出て来たり、千葉市が千葉村の運営から離れる話を組み込んでみたりと、時空を歪めている箇所がぼろぼろ出て来る程度の緩い想定です。

 とはいえ想定がある以上は年代の縛りというものもあるわけで。その結果、本作で取り上げるのは少し古めの作品が多くなっています。

 例えば八幡が知っている漫画・ゲームは概ね1990年代半ば以降から00年代、アニメは近年のものが多めですが、一般文芸も00年代で考えています。5巻で平塚先生が町田康さんに言及していますが、その辺りが八幡が遡れるギリギリで、先生もそれを把握して話題に出したという感じです。

 原作1巻で名前が出た作家だと、平塚先生は東野圭吾さんを「秘密」で知って「白夜行」以降はリアルタイムで、伊坂幸太郎さんはデビューからほぼリアルタイムで読んでいる一方、八幡にとっては二人とも「知った時点で既に売れっ子作家」という扱いです。

 音楽については原作でCDTVの話があるので、(CDTVライブラリーのお陰で)八幡は90年代以降のJ-Popに詳しいのではないかと考えています。ただ中二病罹患後は売れ線の曲を忌避するようになり、アニメソングやボカロに傾倒していったという感じで。

 6話で取り上げたボカロ曲は、厳密には2011年9月の時点では存在していない曲がありますが、半年程度の時間のズレを理由に却下するには惜しい曲たちなので採用しました。本話で八幡が2013年の春アニメの話をしているのと比べると……という感じで大目に見て頂ければと。

 雪ノ下の洋楽趣味はほぼ捏造ですが、千葉村で歌っていたのはMuseの”Starlight”、13話で八幡と話題にしていたのは同じくMuseの”Stockholm Syndrome”です。留学時における彼らの最新アルバムが”Black Holes and Revelations”で(“Starlight”収録)、”The Resistance”からリアルタイム。それからArctic Monkeysも好きそうだなと考えていて、こちらは”Humbug”からリアルタイム。あと、いつかバンドで”Seven Nation Army”をやりたいと思っているとか、そんな感じで。

 由比ヶ浜は普通にJ-Popのヒット曲を聴いていて、小学校高学年〜中学校では初期のスキマスイッチとか「蕾」の頃のコブクロが好きだったという感じ。もしも時代設定が現在なら、星野源さんに嵌まっていそうなイメージです。


 最後にもう一度、本話で取り上げた二曲について。

 なぜこれらの曲を、と問われると少し答えに窮するのですが。マイラバは展開に合う曲を探した結果。そしてもう一曲を何にしようと考えた時に、原作でネタにしていて(最新巻でも表紙裏の作者コーナーでネタにしてますね)、上手く話を作れそうだし同じプロデューサーという縁もあるミスチルで、という感じです。

 正直に申し上げますと、二巻末の時点では「展開に合う作品を探して、それを作中キャラがどう受け取るかを考えて書く」という感じでした。しかし三巻終盤でスターウォーズをネタにした時に「雪ノ下が観るのは違和感がある」というご指摘を頂いて。それ以降は「作中キャラがどういった経緯でその作品と出逢って、それをどう受け取っているのか」を考えて書くよう心掛けています。

 つまりこの二曲は、作中キャラとの巡り合いという点では少し弱い、と言われても仕方のない部分があります。けれども作中で書いたように、偶然の出逢いが必然になることもあるわけで。それを上手く描写できるようにと気を配りながら、本話を書きました。

 さて、本作の時代設定を2011年度とした場合、奉仕部の三人は1994年度生まれになります。そして、後書き冒頭にて二曲の発売年月日まで明記したのは理由があります。つまり時系列で並べると。

ミスチル(1994.6.1)→由比ヶ浜(6.18)→八幡(8.8)→雪ノ下(1995.1.3)→マイラバ(8.21)

 こんなふうに、綺麗に二曲に挟まれた形になります。だから何だと言われると、作者はこうした偶然に弱いのですとしか言いようがないのですが。

 そしてもう一つ。この場合、八幡たち三人は阪神淡路大震災(1.17)の直前に生まれて、そして作品が始まった高校二年生は東日本大震災(3.11)の直後に当たります。これを作品のテーマにするのは、二次創作はもちろんラノベですら荷が重いと思うので正面から取り上げる気はありませんが。時に作中キャラの言動に迷った時に、「彼らはこういう時代を生きているんだ」というアプローチから再考することはある、とまあそんな感じで。

 では、ここまで読んで頂いてありがとうございました!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。