数分の遅延が起きている程度で、体育祭はおおむね順調に進行していた。だが些細な問題であっても良しと済ませず、雪ノ下は仕事を求める。八幡と由比ヶ浜、さらには城廻にも宥められる光景が増えて来た。
ついに残すは目玉競技の二種目のみ。白組と赤組の差は四五点にまで広がっていた。優勝の可能性を繋げるためには、相手の大将騎を全て討ち取るしかない状況だ。女子の目玉競技・チバセンに挑む三人は八幡に見送られ、そして見事に三〇点をもぎ取った。
これで点差は一五点。残るは男子の目玉競技・棒倒しである。
グラウンドでは、赤組の女子生徒たちが敗者を讃えていた。
白組の大将騎を三人全て討ち果せたものの、勝負は僅差だった。偶然が赤組に味方した部分も多々あったとは、実際に競技に参加した彼女らが一番良く解っている。だからだろう。一足先に退場門に向かった白組に向けて、誰からともなく拍手が起きていた。
ナース姿の三浦優美子と婦警の姿になった川崎沙希に先導されて、白組の女子生徒たちが観客にもねぎらわれながら退場していく。見応えのある勝負を披露してくれた彼女らを見送って、「次は俺たちが」とやる気になっている男子生徒たち。そんな彼らに頑張ってにやりと怪しい笑顔を見せつけつつ、巫女服を着た海老名姫菜が最後に退場門を後にした。
またいつか、機会があれば勝負してみたい。敗軍の将としての責任を感じながらも、あくまでも前向きに、そう考えながら。
そして勝者の赤組にも惜しみない拍手が送られる。観客からも、退場した白組からも。実況係がその雰囲気を更に煽り、解説役が予定には無かったウィニングランを提案すると、一層大きな歓声が沸き起こった。
無茶ぶりと言っても良い展開なのに、赤組の女子生徒たちはさすがの統制を見せた。最初に布陣した時と同様に全軍を三分して、それぞれを大将騎が率いる形でゆっくりとグラウンドを一周する。
雪ノ下雪乃に率いられた右翼の騎馬たちが先陣を切り、続いて由比ヶ浜結衣の中軍が、最後に城廻めぐりが左翼を引き連れて。そして彼女らは、鳴り止まぬ拍手に送られて退場門に消えて行った。
***
「これでまた、遅れが大きくなってしまったのだけれど?」
退場門から運営委員会のテントへと直行して、雪ノ下は開口一番こう告げた。言われた比企谷八幡はそのセリフを予想していたのか、苦笑いにも余裕がある。鋭い視線でじろりと睨み付けられてもどこ吹く風だ。
「俺は観客の希望を言葉にしただけで、煽ったわけでも命令したわけでもないんだがな」
そもそも、遅延の原因を明確に口に出して責めて来ない時点で、本気で怒っているわけではなさそうだ。むしろこれは、怒っていると言うよりは。
「ゆきのん、すっごく格好よかったよ。だからそんなに照れなくてもいいじゃん」
「由比ヶ浜さん。私は別に照れているとかそういうわけではなくて、運営委員長として時間厳守を言い聞かせたかっただけなのだけれど。スケジュール通りなら棒倒しも終わって、そろそろ閉会式が始まる時間よ。それに……格好良かったと言われるのは、最後の攻撃を率いた貴女の方が相応しいのではないかしら?」
「じゃあさ、二人とも格好良かったでいいんじゃない。ね、比企谷くん?」
「あー、俺が言ったらセクハラ扱いされるか『キモい』って言われるだけなんで、ノーコメントでお願いします」
いつものように「ぼっち危うきに近寄らず」を実践する八幡に苦笑して、大将騎を務めた三人に落ち着きが戻って来た。グラウンドでは落とし物などの点検が終わって、体育教師が荒れた地面を元に戻している。まだもう少し時間が掛かりそうだ。
「あ、セクハラって言えばさ。コスプレ姿を見られなくて良かったよね。比企谷くんは、ちょっと残念だった?」
「いや、その、陽乃さんみたいな言い方は……って、わざとからかってますよね?」
たまには先輩風を吹かせようと考える城廻だが、お手本に問題があるので上手く行かない。とはいえ他の方面には効果があったようで。
「ヒ、ヒッキーは見ちゃダメっ。……だ、だってさ。城廻先輩のメイド姿、超似合ってたし。超癒やされる感じだったし」
最初は勢い込んで口を挟んだものの、後半になるに従って小声になっていく。そんな由比ヶ浜を微笑ましく眺めながら話を続ける。
「由比ヶ浜さんの衣装は小悪魔だったわね。もうすぐハロウィンだし、とても似合っていたと思うのだけれど?」
「浴衣姿の雪ノ下さんも素敵だったよー。ねね、比企谷くん。試着した時の写真があるんだけどさ、見たい?」
「みんな似合ってるだろうなってのは分かりますし、遠慮しときますよ。つーか、浴衣ってコスプレになるの……ああ、雪おんぬぁおぅっ!?」
殺気と視線だけでも、使い手次第で他人を再起不能にできるんだなと、背に冷や汗を流す八幡だった。
ちなみに使い手と言えば、四人を遠巻きに眺める男子生徒たちの「ヒキタニ爆発しろ」「比企谷うらやましね」という呪詛の声は全く届いていなかったりする。体育祭の運営に関する打ち合わせか、はたまた目玉競技の作戦会議かと、気を回して距離を置いてくれている彼らにも春が来るといいですね。
「準備が整ったみたいね。では、あとは任せたわ」
「ヒッキー、あとよろしく!」
「あとは男子の応援だー。おー!」
先程の教訓から、余計な動きをせず黙って移動しようとした八幡だったが。三人が揃って片手を挙げている姿を見せつけられて万事休す。「自分から女の子の手を触りに行くとか、棒倒しで勝つよりも難易度高そうなんですけど」などと心の中で呟きながら。できるだけ無造作に見えるように細心の注意を払いつつ、ハイタッチを三度。
そして八幡は、大きな疲労感と小さな充実感を背に退場門へと向かった。
***
チバセンと棒倒しは生徒の半数が参加する目玉競技なので、赤組と白組に分かれて入退場門から同時にグラウンドに入る。プログラムに沿って紅白の順に入場門を使うように割り当てたので、今回、赤組の生徒たちは退場門に集まっていた。
見目麗しい女子生徒三人と手合わせをしていたせいで遅くなった八幡が、知り合い連中を探してきょろきょろしていると。飾り付けられた退場門の真下に戸塚彩加と、その横でふんぞり返っている材木座義輝を見付けた。
目立つ場所に移動するのを躊躇する八幡を尻目に、材木座が声を張り上げて口上を述べる。
「控えおろう、皆の衆。こちらにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くも赤組総大将・戸塚彩加嬢にあらせられる。頭が高い、引っ立てい!」
いやいや、引っ立てたらダメだろと内心で律儀に突っ込みつつ、八幡は周囲を眺めた。チバセンを見て燃え上がった気持ちは未だ消えず、ゆえに大半の男子生徒は、この雰囲気を思い切り楽しむつもりらしい。材木座の言い回しを深く吟味することなく、素直に地面に片膝をついて恭順の姿勢を示している。
「あのね。さっき四五点差になったのを見て、ぼくも正直『厳しいかな』って思ったんだけどね。でも、赤組の女子があれだけ頑張ってくれたんだしさ。ぼくらも男の子なんだから、頑張らないと!」
両手を胸の前で握りしめて、学ラン姿でそう力説する戸塚だったが。赤組男子の心にふつふつと湧き上がって来るのは、「この性別不詳の可愛らしい生き物を守りたい」という使命感だったりする。
ともあれ、当人の意図とは少し違う形ではあるものの。総大将の演説のお陰で赤組男子の心は今、一つになった。狙うは勝利のみ。その決意を胸に、生徒たちは門を通ってグラウンドに集結した。そして。
戦場では両軍の総大将が名乗りを上げて、放送席では鮮血がほとばしった。
チバセンの退場の時には「少しいつもと様子が違うな」と思った八幡だったが、切り替えが早くて何よりだ。彼女のあふれ出る血潮に、自分が直接的には関与していないのも喜ばしい。第一候補は戸塚ではなく俺だったと聞いた時には戦慄したが、大将なんぞに祭り上げられなくて良かったと心から安堵する八幡だった。
そもそも総大将になるのはもちろんのこと、全軍を指揮するのも作戦を主導するのも柄に合わない。それに、あの二人の威を借りられる状況ではない以上、誰も俺の案には従わないだろう。そうした陽の当たる役割よりも、搦め手からこっそりと忍び寄るのが俺の性に合っている。
そう考える八幡は、文化祭の渉外部門でお世話になった三年生にお願いして(雪ノ下が休んだ時に、代わりに発表してくれた先輩だ)、序盤は守備を固める方針で意見をまとめて貰った。その間に、少数精鋭で速攻を仕掛ける。
「さて、どうなりますかね」
策は、おそらく成就する。だが問題は……。
この距離でも感じ取れるほどの存在感を放つ敵の総大将・葉山隼人を一瞥してから、ゆっくりと自軍に視線を戻して。八幡は軽く頷くことで、関係各位に作戦の実行を伝える。
同時に、放送の声が遠のいて。フィールドの中央で号砲が鳴り響いて、開戦の火蓋が切られた。
***
白組はまとまった人数を集めて、まずは中央突破を狙ってきた。葉山の指揮は的確で、抜擢された面々も個々の動きに加え連携も洗練されている。とはいえ初手から全力というわけでは無さそうで、白組の棒の周囲には大勢の生徒が残っていた。
対する赤組からは、数人の生徒が走り出た。白組の攻撃部隊を右に避けて、そのまま左回りで敵陣に向かう。しかしそこには連動性というものが全く見えず、バラバラに走っているだけ。
それを見た観客や敵はもちろんのこと、味方の大半も彼らの動きを理解しかねていた。するとちょうど両軍の真ん中を過ぎた辺りで、先頭を走る痩せぎすの一年生が速度を緩めぬまま、大声を張り上げた。
「遊戯部だから、ゲームが趣味だから、どうせ運動が苦手なんだろって言ってた奴ら。俺を止められるもんなら止めてみやがれ!」
本音を言えば、運動が苦手だと見なされるよりも、陰気だと思われるほうが嫌だった。ひょろっとした体型で眼鏡をかけてゲームが趣味で、それらを根拠に勝手に自分の性格を決めつけられるのが嫌だった。
運動能力は、体育の時間に見せつけることができる。秦野は運動を苦手にしておらず、むしろ長距離走などは学年でもトップクラスだと示すことができた。だが性格は、秦野がどれほど否定しても無駄だった。激しい口調で否定すれば「図星だからだろ」と言われ、ならばと聞き流していたら「否定しないのは正解だからだろ」と言われ。一時期は、本気でゲームを辞めようかと悩んだほどだ。
だが頼りになる相棒を得て、そしてこの高校に入学したことで奇妙な先輩たちとも縁ができた。秦野と、そして相棒の相模は、その先輩方に恩がある。あの目の淀んだ先輩に、彼らをゲームで打ち負かした先輩に、ゲームによって小学生のいじめを止めさせるという奇跡を見せてくれた先輩に頼まれて、断れるわけが無い。
秦野ほどスタミナは無いが、相模も運動は人並みにできる。遊技部の二人が代わる代わる挑発を重ねたこと、いじめに繋がりかねない要素を感じさせる発言だったことも、白組が二人を無視できない要因になっていた。教師はもちろんのこと、全校の女子生徒が見つめるこの場において、これ以上あの二人に好き勝手を言わせるわけにはいかない。
だから白組の一年が動いた。その大半はかつて、秦野が言った通りに彼を見下し、そして体育の時間に煮え湯を飲まされた連中だった。その集団に追いつかれないように、秦野と相模は離合集散を繰り返しながらフィールドの端へと誘導していく。
秦野と相模が白組の一部を引き剥がして連れ去った後も、赤組の生徒たちは走り続けていた。お世辞にも足が速いとは言えないその四人は、息が切れない程度のスピードで移動を続けている。
『また何かを言われる前に、まずはあの四人を取り囲んで無力化させて欲しい』
白組の攻撃部隊を左に避けて、そのまま右回りに悠々と歩いて近付いてくる二人に唇を噛みしめながら。敵の狙いが明らかになる前に潰すことを、葉山は選択する。
開戦と同時に赤組で動いたのは、たったの八人。最初に六人が走って、続けて二人が歩いて、群れの中から飛び出して来た。それ以外の生徒たちは戸塚の周囲に集まって、棒と総大将とを守っている。勝敗に関係するのは棒だけだが、総大将のみ発言が自軍の全員に伝わるという特殊能力を有しているので、守護を疎かにはできない。
先程のチバセンでは、大将騎の声が届く範囲にしか指令が届かなかった。だから雪ノ下も由比ヶ浜も前線近くまで騎馬を進めて指揮を執っていたのだが、この棒倒しでは最後尾から全軍に指示を出すことができる。とはいえ、もちろんデメリットも存在する。
つまり、口に出した言葉の
この仕様を聞かされた時、「自分に有利な設定だ」と葉山は思った。常日頃から人に注目されて過ごして来ただけに、発言に慎重になることには慣れている。自分に限って不用意な発言の心配は無いと、そう思っていた。
ここまでのところ、葉山の推測は概ね正しい。だが、見落としていたこともある。
この距離では戸塚の肉声が聞こえないので憶測に過ぎないのだが、戸塚が何を言っても、仮に自軍のピンチを口にしてしまっても、「赤組が奮起する」以外の影響は無いのではなかろうか。総大将のためにと気合いを入れる敵軍の様子から葉山はそう考えて、そして思わず身震いした。
何を言っても自軍を奮い立たせる総大将と、失言を(おそらく)しない総大将。有利なのはどちらだろうか。
ゆっくりと近付いてくるあの男子生徒に対処するだけでも骨が折れるのに。彼を退けたところで、戸塚の名の下に狂戦士と化した連中とも戦わなければならない。そんな展開が見えてしまった葉山は、囮に決まっている四人を早急に片付ける方針を固めた。先のことは考えまい。それよりもまず、あの男との対決は俺が望んだことなのだ。そう自分に言い聞かせる。
「邪魔立てされようとも、我が通ると言えば通ぉぉぉる!」
「ちっ、どんどん増えて来やがる。津久井、藤野。側面から崩してくれ」
討伐隊を正面から押し返す腹づもりらしい材木座に仕方なく付き合って、同時に城山は柔道部の後輩に指示を出した。
この世界に巻き込まれて、部の存続すらも危ぶまれる状況に陥って。多くの部員が去って行く中でも、津久井と藤野の二人は最後まで残ってくれた。もしも彼らが居なければ、テニス勝負で雪ノ下に背中を押される以前に、城山の心は折れていたかもしれない。
戸塚経由で八幡の策を聞いて、その作戦に呆れ返った城山だったが、あの葉山に一泡吹かせるのは悪くないと思った。運動部の部長同士で仲は良好だったし、特に個人的な恨みなどは無いのだが、先日の運営委員会の集まりで八幡に執拗に念押しする態度が少し引っ掛かった。それに奉仕部には恩がある。八幡の案に乗ってみようと決意するまで、さほど時間はかからなかった。
どうせ協力するのであれば、少しでも成功の可能性を高めたい。だから城山は、信頼できる後輩二人も作戦に加えて欲しいと申し出た。材木座と二人だけでは不測の事態に対応しきれない。だから津久井と藤野を、と頼み込むつもりだったのだが、第一声でOKが出た。もうちょっと情報漏洩の心配とかしなくて良いのかなと、逆に不安になったものだ。
実は事前に戸塚と由比ヶ浜から、城山の周囲の人間関係を聞き出していたがゆえの即答だったとは、未だに知らない。だが真実はどうあれ、城山は自分を信じてくれた八幡に信頼を寄せるようになっていった。教えて貰った作戦も、当初は微妙に思えたのだが、今では小気味よく思えて来た。
今日のこの瞬間のために何度も話し合いを重ねたことで、八幡もまた城山の性格を把握できた。口数が少なく生真面目で、嘘がつけず責任を背負い込んでしまいがちな、いかにも運動部員の典型のような男だ。彼ならば信頼できると大勢が太鼓判を押してくれるだろう。
だが他人に掌を返される経験を何度となく重ねてきた八幡だけに、実は今も一抹の不安を抱いている。顔を合わせてたったの数日で、戸塚や材木座と、更にはあの二人と同じぐらいに信じられるかと問われても、土台それは無理な話だ。
八幡の決断を支えているのは、過去の経験によって構築された「裏切られたらその時だ」という諦念と、「協力者が居なければ作戦が成り立たない」という現実的な要請からだった。だからこそ、使えるものは徹底的に使う。葉山には受け入れがたい考え方だろうけれど、今回であれば演技スキルを最大限に利用することが、八幡にとっての「正々堂々」だ。
ぼっちの行動はいつだってギリギリだった。誰も助けてくれない状況で、常に背水の陣を強いられていたようなものだ。だが今は、仮に八幡の作戦が失敗しても、総大将の戸塚が居る。俺の作戦の成否で全てが決まるという展開は勘弁して欲しいが、ダメ元で奇策を仕掛けられる今の状況は八幡からすれば理想的だ。
だからこそ、絶対に成功させたい。その気持ちを再確認して、八幡は城山に向けていた視線をすぐ横に移した。
並んで歩いている二年J組の保健委員とは、文化祭の実行委員会でも多くの時間を過ごした仲だ。白組の捕虜になるのが前提のこの作戦に付き合わせるのは心苦しいが、歯に衣着せぬ性格のこの男が最適なのもその通りだし、そもそも他に頼める当てがいない。口先三寸で失敗の可能性を減らす必要がある以上は、こいつのことも信頼するしか無いのが現状だ。
「ぐふう……た、たとえ我が死すとも、第二第三の我が貴様らを……地獄で先に待っておるぞ!」
「今更だが、正面突破は無謀だったな。まあ、大人しく助けを待つか」
芝居がかった声が聞こえたので遠方を窺うと、白組の大人数に囲まれて材木座がわざとらしく地面に倒れかかり、柔道部の三人は両手を挙げて無抵抗を主張している。棒倒しにリタイアは無いので時が来ればまた動くつもりだが、しばらくは暴れ回った疲れを癒やそうと考えているのだろう。
地面にどっかと座り込んだ城山以下の三人を確認して、八幡は白組の棒に目を向ける。果たして、こちらを凝視していた葉山と目が合った。棒を取り囲んでいる白組の誰かの肩に乗って、守るべき物体に背中を預ける姿勢で、にっこりと微笑まれてしまった。
材木座が派手にうわごとを述べているこの状況で、俺から注意を逸らさないってどんだけだよと思う八幡だったが、あまり深くは考えないことにする。それよりも、棒倒しに勝つことだ。
材木座たちより更に遠方では、遊戯部の二人が今も一定数を引き受けてくれたままだ。あれを見て葉山は、これ以上は誘い出されないようにと警戒していることだろう。もう他には手勢がいないのに、ご苦労なことだと八幡は思う。
性格の悪そうな笑顔を浮かべながら、八幡は平然と歩みを続ける。完全に退路を断たれてもお構いなしだ。そして敵の棒を狙えるぐらいの距離で。声を張り上げなくとも葉山と会話ができる辺りで立ち止まった。
「なんか、途中から動きがバレてたみたいだな」
『俺が君からマークを外すわけがないだろ。当然、最初から気付いてたさ。戸部を担当にして、動きを逐一観察させてたからね。ここまで近付かせたのも意図的なものでね、二人ではどうやっても棒を倒せないだろ。競技が終わるまで、大人しくしててくれるかな?』
ラグビー部の大和を始めとした多くの運動部員に支えられて、しっかと地面に立てられた棒を軽く叩いた葉山がそう言った。これで奇襲は潰せたと、そう考えながら。だが。
「わ、我の突撃が間違いだったと、主は申すのか?」
「そりゃまあ、そうだろ。いくら力が強くても、四人程度で正面突破はな。白組があれだけ人数を動員しても、今もほとんど進めてないぜ?」
囮に決まっている四人のうち、二人がなんと口喧嘩を始めた。怒りゆえにか地声なのか、二人とも大声なので注意を向けなくとも難なく聴き取れる。八幡への警戒を怠らないようにしながら、念のために葉山はその言い争いに耳を傾けた。
「わ、我に往年の力さえ戻れば、この程度の人数など笑止千万。瞬きの間に蹴散らしてやれるのだが……」
「意味が解らんけど、人数差を考えろよ。なんだか、お前と喋ってると頭が痛くなって来たぞ」
彼らの声をマイクで拾うべきか否かで、放送席ではちょっとした議論が起きていた。話の概略は推測できるが、自信を持って実況できるほどでは無いからだ。
だが結果的には、観客の多くが事情を把握できている様子なので見送りにされた。まだ競技が始まったばかりで動いている生徒が少ないために、声が良く通る。放送席でも何となく話が読めるぐらいだから、実況による補足は必要ないという結論になった。
ちなみに腐女子の万全の下準備と強硬な主張により、二人の総大将以外では唯一、八幡の周囲の声だけが、放送部門限定ではあるもののバッチリ聞こえる状態だったりする。そのため「怪我人が出るまでは」と由比ヶ浜に引っ張ってこられた本来は救護担当の雪ノ下や城廻、三浦と海老名に連行された衣装担当の川崎、そして勝手について来た他一名を含めた総勢七人のみが、八幡の発言を完璧に把握できる。
「ぬう。まさか八幡の人選ミスとは、あやつを信用しすぎたか。我も気付かぬうちに丸くなっていた、か……」
「なあ。その喋り方も何とかならないのか?」
そんな外野の動きをよそに、二人の会話はますます険悪になって行く。
「う、うるさい、うるさい、うるさい!」
「話し方がいちだんと気持ち悪くなってるぞ……」
そして遂に、材木座の堪忍袋が。
「よかろう、そこに直れ。我が自らお主を成敗してくれようぞ!」
「ちっ。どうせ暇だし、相手してやるよ」
そう言って立ち上がる城山を睨み付けながら、材木座が助走の距離を取る。二人の剣幕を恐れてか、周囲を取り囲んでいた白組の生徒たちは我知らず包囲の輪を広げて、呆れ顔でその顛末を眺めていた。
「どっせーい……へぼわああ!」
「どうせなら、あの棒まで飛んで行けっ!」
全速の助走から体重を掛けた一撃をお見舞いしようとした材木座だったが、その運動量を一切損ねず、それどころか城山の足の力も加えた綺麗な巴投げが決まった。
「……な、なあ。なんであいつ、落ちて来ねーの?」
不思議な現象が起きていた。重力も空気抵抗も、その運動を妨げる一切が存在しないかのように、材木座の身体が一直線に進んでいる。白組の棒をめがけて。
動く速度は大したものではない。材木座がひいこら言いながら走るぐらいのスピードだろう。だが着実に的へと近付いている。投げられた直後は奇声を発したり手足をばたばたさせていたのが、今や指先からつま先までをぴんと伸ばして、ウルトラマン気取りで飛んでいる。その体型とドヤ顔ゆえに、控え目に言ってもすごく不気味だ。
『ぐっ。これはやっぱり、ヒキタニくんが……。包囲部隊は城山たちを分断して、接触させるな。大岡、俺に殴りかかって来い!』
慌てて地面に降り立った葉山が指示を出す。手ぶりだけで周囲から人を遠ざけると、意図を察した大岡が全速で向かって来た。その勢いを消さないようにと心掛けながら、巴投げの体勢に入った葉山は大声で叫ぶ。
『材木座くんに向かって飛んで行けっ!』
だが無情にも、大岡の身体は放物線を描いて背後に落ちた。無事に受け身を取った姿を確認しつつ急いで起き上がると、鋭い視線を投げ掛ける。
『演技スキルは申請しないって、あの時……』
「そうだな。だから『棒倒しで演技スキルは申請しない』って一筆書いただろ。それはちゃんと守ってるぞ?」
八幡と飛んでくる材木座と、その両者を油断なく観察しながら葉山は考える。まだ衝突までには時間がある。指示を出すのはもう少し後で良い。そう結論付けて、事態の解明を優先させる。と、閃いたことがあった。
『まさか、君じゃなくて材木座くんが申請を?』
「お、おー。それは盲点っつーか、思い付かなかったな。やっぱすげーなお前。でもな、残念ながらぼっちは、自分ができることは自分でやるかってなるんだわ」
八幡に皮肉の意図はなく、感心しているのも葉山を凄いと思ったのも本当なのだが、言われた側はそうは受け取らないだろう。ぼっちの習性が染み付いているので、「人に頼る」という発想は「自分一人ではどうにもならない」と判明して初めて出てくるのだが。それも、理解してはくれないだろう。
飛んでくる材木座を一目見ただけで、葉山は即座に対策を立てた。こちらに向かってがなり立てる等の、時間を無駄にする行為は一切無かった。巴投げで、目標物を指定して。失敗には終わったものの、こうした葉山の洞察力はやはり侮れない。確かにそれらは、八幡が設定した条件に含まれているのだから。
『じゃあ、ヒキタニくんが演技スキルを使っているのは間違いないとして……問題は申請の手順と、発動条件だね。まさか投げるのは城山限定とか、投げられるのは材木座くん限定とか、そこまでアンフェアな条件じゃないだろ?』
「あー、なるほどな。そこまで徹底しておけば良かったのか。勉強になるわ。フェアかどうかは判らんけど、例えば俺とお前で運動能力に差があること自体、アンフェアと言えばアンフェアだしな。まあ、それと同じ程度で、ルールには違反していないと思うんだが……なんなら後から運営に問い合わせてみたらどうだ?」
そもそも演技スキルは発動条件が厳しく、重度の中二病罹患者やそれに類するほどに妄想が逞しい者、日頃から本性を隠して過ごしている者でもない限りは使用できない。それに単なるお遊び要素に過ぎず、材木座・八幡・海老名と三名もの生徒が条件を満たすとは運営にしても予想外だった。大人側としてはハードルを高く設定したつもりが、高校生にとってはさほどでも無かったということなのだろう。
どうせなら自由な発想を追及して欲しいという意図から、運営が申請内容を詳らかにすることはない。誰かが画期的な使い方を発見しても、即座に安易なパクリが横行するようでは話にならない。そんな事態は避けたいと考えた結果だ。
だが第三者に申請内容が漏れる以前に「体育祭に使用するには不適切」と判定される可能性はある。運営と、そして審判部に。だから両者に対する別個の対策が必要だった。申請を無事に通すことと、葉山が納得できる説明を行えることと。八幡が細心の注意を払っていたのはその二点だった。
のちのち通報されても矛盾が出ないように、明らかな嘘こそつけないものの。運営が事を荒立てないであろう範囲内では、誤魔化す気が満々だったりもする。逆に言えば、運営に問い合わせが行っても大丈夫なように、そこの対策は万全にしたつもりだ。
八幡の口調や態度から「どうやらブラフでは無い」と判断して、葉山は言葉に出しながら考えを進める。
『いや。申請が通った以上は、そこまでする気は無いさ。じゃあ……』
そして葉山は白組の柔道部員に指示を出した。先程と同様に材木座めがけて巴投げを披露して貰ったのだが、結果は不発。険しい表情の葉山に、八幡が話しかける。
「柔道部員に限るってのは正解。誰でも簡単にぽんぽん投げられるようだと収拾が付かないしな。ただ、ずっと練習してきた奴と、最近になって柔道を始めたような奴が同列ってのも変だろ。だから、『この世界に巻き込まれてからも練習をサボっていない柔道部員』って設定にしたんだわ」
つまり、使えるのは城山と津久井・藤野の三名のみ。いずれも赤組だ。春先に、柔道部に限らず多くの運動部で混乱があったことを知る生徒たちが、その解答に行き着いて。争うように八幡を非難する声が上がる。
「不公平だ。それに、演技スキルなんてのを使うこと自体ズルいだろ!?」
「まあ、ズルいかズルくないかで言ったら、ズルいだろうなと俺も思うけどな。でもこれ、葉山が言い出したことだぞ?」
そう言いながら、八幡はすぐ傍にいるJ組の保健委員に視線を向けた。あの時の葉山の態度に首を傾げたのは、城山だけではない。出番が来たことを理解して、彼は周囲に言い聞かせるように話を始めた。
「そもそも運営委員会の話し合いで、演技スキルの話を最初に持ち出したのは葉山だ。比企谷は一筆を書いてまで葉山の疑念を否定したし、それを葉山も了解したはず。演技スキルを使ってるのは確かだし、正直に言うと姑息なやり方だとは思うけどな。少なくとも比企谷は、その時の条件を破ってないぞ。運営に問い合わせをする気が無いってことは、葉山もそれを解ってるってことじゃないのか?」
たとえ自分に不利なことでも、相手が気を悪くするような話題でも、ずけずけと口にするのが彼の持ち味だ。雪ノ下への信頼ゆえに、若干八幡寄りの考え方ではあるものの。彼がこうまで言うのだからと、白組の生徒たちも不承不承ながら矛を収め、総大将に視線を送る。
『なるほどね。俺としては正々堂々と戦術を競ってみたかったんだけど、そっち方向に走られるとは思わなかったよ。俺が演技スキルの話を念押ししたから、余計に拘らせてしまった結果がこのざまか。一筆書いて貰った内容に違反してないって話も信じるよ。でも……まだ勝負はついてない!』
そう言って葉山は、自軍の棒を傾けさせた。材木座が一直線に向かってくるのであれば、そこから棒を逸らせば良い。そう考えたのだが。
「お、泳ぐのかよ……」
誰かが呆れ声で呟いている。棒が傾いた方向を目指して材木座が両手を平泳ぎのように動かすと、軌道が変わった。
『大和、今度は逆側に倒せ!』
呆然とする敵味方の中でも、さすがに葉山は正気を保っていた。即座に次の手を指示したが、しかし結果は同じ。材木座がくいっくいっと身体を動かすと、簡単に方向転換されてしまった。
もう、距離が無い。それでも葉山は、最後の瞬間まで諦めない。
『戸部、絶対に比企谷から目を離すな。大和、動かす方向は任せる。相手の動きを見ながら、ギリギリまで引き付けて避けろ!』
葉山に余裕が無いのはその言葉からも判る。にも関わらず最後まで俺への警戒を怠らないとは、勘違いにも程があるよなと八幡は思う。「お前が思うほど、俺は大したことはないぞ」と言ってやりたくなるが、面倒な気持ちが先に立って結局は口を閉ざしたまま。その代わりに、隣に立つ男と苦笑交じりに頷き合って作戦の成功を確信する。
「喰らえぃ、わが秘剣……
材木座曰く「相手の技を瞬時にコピーして高速で一千回ほど叩き込む最強の秘剣。相手は死ぬ」を受けて(何度確認しても、八幡には普通の体当たりにしか見えない)、もともと傾きが急だった棒は、あっけなく地に転がった。それに跨がって材木座が勝利の雄叫びを上げる。同時に、全員の耳に放送の声が解禁されて。
『えーと、棒倒しは赤組の勝利……で、いいのかな?』
演技スキルはありなのか、放送部でも意見が割れていただけに、ためらいがちの実況が響く。「困ったなぁ」という雰囲気が放送席からグラウンドの内外にまで溢れる中で、急にがさがさとした音がマイクから聞こえて来るや否や。
『失格、失格、失格ぅぅぅーっ!』
審判部のテントから飛んで来た、相模南の絶叫が響き渡った。
本章は5話+幕間の予定でしたが、長くなったことと、もう少し直したい箇所があるので、ここで分割させて下さい。
その結果、次話のタイトルが……なのですが、それも含めてごめんなさい。
次回は今週末に何とか更新したいと思っています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
誤字と表現を一つずつ、それと説明が解りにくいと思えた部分を修正しました。大筋に変更はありません(6/6)。