新幹線のデッキで奉仕部三人と戸塚が集合したものの、依頼は袋小路に陥っていた。戸部と海老名の双方に、どっちつかずの対応が続いている。
旅先で楽しい時間を過ごして二人に仲を深めてもらいつつ、付き合うには至らないという結末を目指す。そんな方針しか出せていない。未然に防ぐことの難しさを八幡たちは実感する。
生徒会から通知があり、一色が会長に立候補したとのこと。
体育祭での会話を思い出して一度は納得したものの。由比ヶ浜や葉山が首を傾げているのを見ると、八幡も身構えざるを得ない。いくらなんでも唐突すぎる。
告白や立候補といった変化をもたらす行動が間近に迫ると、複雑に絡み合った関係が見えやすくなる。事は戸部と海老名や一色にとどまらないと、八幡もうすうす勘づき始めた。
それらに加えて、運営の今後の方針にも不安が募る。
それでも八幡は、時に恥ずかしい思いをしつつも修学旅行を楽しんでいた。
夕食を終えると、男子の部屋では少人数のグループに分かれて麻雀やゲームで盛り上がっていた。中にはDSでドカポンを始めるグループもある。
友情にひびが入っても知らんし他の連中を巻き込むなよと、比企谷八幡がそんなことを考えていると。
「八幡よ。貴様を呼べとUNOが言うので、こうしてまかり越した。覚悟はできていようの?」
「ぼくも参加していいかな。あ、でも八幡ちょっと眠そうだけど?」
「歩き疲れたのは事実だが、まあ大丈夫だ。つか、呼べと言われてお前が来るって、なんか変じゃね?」
麻雀の誘いは断ったものの、UNOぐらいなら何とかなるかと思って八幡はのろのろと身を起こした。戸塚彩加に心配されて、たちまち動作が機敏になる。
材木座義輝が「ぬう、痛いところを」と大仰に反応しているのには目もくれず。盛んにあくびを連発しながら八幡は勝負に挑み、UNOを言い忘れた罰ゲームで買い出しに行くことになってしまった。
***
一階のロビーに自販機があったのを思い出して階段を下りる。
京都にはマッカンは無いのかとおののきながら、八幡はできるだけ甘そうなコーヒーを選んだ。少しは眠気ざましになるだろう。戸塚と材木座には何を買おうかと悩みつつ、ついでなので大浴場の横にある京みやげの売店でも覗いてみるかと考えていると。
ふと視線を感じた八幡は、緩慢な動作で振り返った。フロントの向こう側をだらんとした目で眺めると、カフェの奥のほうに人影が見える。手を振られたので、念のため背後に誰もいないのを確認して。仕方なく、のそのそとそちらに近づいて行く。
ホテルの西側にはロビーからそのまま繋がるようにしてカフェ・レストランがある。明日からの朝食はここで摂る予定だ。ビュッフェ形式で並べられた食材に去年の生徒が群がっている写真を旅行前に見たのだが、西側と南側の窓は天井まで届く高さで、特に丸太町通に面した側からは明るい光が差し込んで店内を燦然と輝かせていたのが印象的だった。
カフェに足を踏み入れた頃には、顔の判別ができるようになった。一人は見知らぬ男子生徒、もう一人は生徒会の本牧牧人だ。眠気のせいか反射的に近寄ってしまったが、少し面倒だなと八幡は思う。適当なところで、買い出しを理由に退散するかと考えていると。
「ちょうど噂をしてたところに現れたからさ。文化祭に体育祭と、けっこう一緒に仕事をしてたのに、ちゃんと話したことは無かったよな。よかったら、ちょっと座っていかないか?」
「ん、まあいいけどな。えっと、そっちは?」
「オレは比企谷のことを知ってるんだけど、そっちは認識してなかったか。まあ仕方ないな」
椅子に腰かける八幡に苦笑いを送りながら、その男子生徒は
二年F組では担任が読み方を間違えているので(八幡も訂正するのが面倒なので)ヒキタニ呼びが優勢だが、比企谷と呼ぶなら他クラスだろう。ちなみにヒッキーと呼ぶのは後にも先にも由比ヶ浜結衣しかいないが、そんな例外は除外して。
もしかしたら、去年同じクラスだったのかもしれないなと。自分が有名人だとは思ってもいない八幡が頭をひねっていると。
「稲村は生徒会の臨時メンバーみたいな立ち位置でな。どうしても人が足りない時とかに助けてもらってたんだけど」
「それも今年の入学式が最後で、この世界に巻き込まれてからは断ってたからな。比企谷がオレを知らないのも無理ないよ」
「他の部活かなんかを始めたってことか?」
どうやら去年も別のクラスっぽいなと頷きながら。八幡は甘いコーヒーをすすりつつ、二人の説明に口を挟んだ。
「やっぱり鋭いな。会長も頭の回転をほめてたし、そもそも雪ノ下さんと対等に渡り合うには、それぐらいできて当然なのかもしれないけどさ」
「いや、ちょっと待て。雪ノ下と対等に渡り合うとか俺には無理だぞ。その役目は由比ヶ浜に任せてるから、ほめるんならそっちだろ?」
「由比ヶ浜さんは、うん。すごいなってオレも思うよ」
奥歯に物がはさまったような話し方に、思わず八幡は身構える。この反応からして、稲村が由比ヶ浜に特別な想いを抱いているのは間違いないのだろう。
思っていた以上に面倒な話になるかもなと思いつつ、乗りかかった船とはこのことかと八幡は一瞬で腹をくくる。押して駄目なら諦めろの精神は今日も健在だ。
「会長も由比ヶ浜さんのことはべた褒めでさ。雪ノ下さんか由比ヶ浜さんか、どっちかが会長職を引き継いでくれないかなって、ここ最近ずっと言ってたからな。ちょっと我が身が情けなくなるけど、身の程は自分が一番わきまえてるからさ。正直あの二人の下で仕事ができたらなって思うもんな」
「ちょっと待て。由比ヶ浜まで狙われてるとは思ってなかったんだが。城廻先輩は雪ノ下に後を継いで欲しいんじゃなかったのか?」
「本命が雪ノ下さんなのは間違いないとしてもさ。並の相手だと冷やかしにもならないだろ。対抗馬として考えられるのは、由比ヶ浜さんぐらいだってオレも思うけどな」
稲村にそう言われると、納得できる部分もある。しかし八幡も会長の人となりは何となく把握している。あの人が、こんなふうに特定の部活から人材を強奪して回るようなことを考えるだろうか。
「もしかして、城廻先輩が由比ヶ浜の話をし始めたのって、けっこう突然じゃなかったか。例えば、いつかの週明けにいきなり話が出て来たとか」
「どうだったかな。……ああ、たしかに言われてみれば、急に思いついたって感じだったかもな。でもさ、それって別に不思議じゃないだろ。なんで今までこの案に気づかなかったんだって思うような時は、いくらでもあるしさ」
「それに文化祭とか体育祭で奉仕部の活躍が目立ってたからな。だから会長の発想が突然だったとしても、オレも変とは思わないな」
そう言われると、反論の気持ちが薄れてくる。あの二人の活躍を誰よりも間近で見ていたのは、他ならぬ八幡自身なのだから。
だが、八幡には心当たりがあった。会長に助言できる立場にいて、由比ヶ浜を擁立することがその人の思惑に叶うような、そんな人物の心当たりが。
「まあ、結局は一色が立候補したから、終わった話だけどな」
「まあ、な……」
今度は本牧の歯切れが悪くなった。稲村は苦笑しているが、先程の由比ヶ浜に対するような屈託はなさそうだ。自分とは無関係だと、そんな感じの気配を感じる。
「もしかして、さっきまでその話をしてたのかね。一色の立候補に何か問題でもあったのか?」
「詳しい話は今は言えないけどさ。たぶん、帰ったら奉仕部にも助けてもらうと思うから、先に謝っとくよ。最悪の場合は……」
「どうなるかも分からないのに、不用意なことは言うべきじゃないぞ。オレにできることがあるとは思えないけど、この件だけは例外だからな。本牧が抱え込みすぎるなよ」
二人の発言から、八幡は諸事情を悟った。
あの会長の性格を考えると、今は生徒会から遠のいているとはいえ、かつての臨時メンバーだった稲村を除外することはないだろう。つまり生徒会の連絡網に今もしっかり含まれているはずだ。ここまではほぼ確定だろう。
おそらく立候補に何らかの問題があって、それはこの旅行中には解決が難しいのだろう。だから二年生が千葉に帰ってから、奉仕部の助けも借りて一気に問題を片付けるつもりで、それまでは箝口令を敷いているのだろう。そんな推測を立ててみたが、いちおう矛盾はなさそうだ。
残るは立候補に関する問題だが、八幡には予備知識がある。
あのあざとい後輩は、文化祭でクラスの女子からいわれのない非難を受けていた。
選挙には興味がなかったので詳しい規則は把握していないが、可能性が高いのは罷免要求あたりだろうか。就任直後にリコールを起こすと生徒会に訴え出れば、色んな物事がストップしてしまう。
あるいは、もしかすると鶏と卵が逆かもしれない。
つまり、クラスの女子に対処するために生徒会長という権力を欲したのであれば。突然の立候補にも納得がいくし、対抗策としてリコール案が出る可能性も高い。こちらのほうが物事の流れがスムーズだ。
そんなふうにして、八幡はひとまず考察を終えた。
正解に至らなかったのは、一年女子の悪質さを見誤っていたのが原因だが。わずかな情報を頼りにここまで正解に近づけたのは、八幡の能力と経験の賜物と言って良いのだろう。
「んじゃま、あんま突っ込まれたくなさそうだし話を戻すか。聞いていいのか分からんけど、稲村は生徒会のかわりに何を始めたんだ?」
「そうしてくれると助かるよ。詳しいことは、お前が話すほうがいいよな?」
「ちょっと説明するのは恥ずかしいんだけどな。その、サーファーの真似事をしてる」
「サーファーって、あの、なんだ。波に乗ってジョニーみたいなやつだろ?」
「ぶっ。なんだよその言い方は」
「いやま、かなり核心を突いてるけどな。まあ順を追って話すと、ゲームの世界にでも行かない限り、この世界では基本的に命の危険はないだろ。だからサーフィンの練習とか良いかもなって思ったのがきっかけでな」
東京駅での会話を思い出してびくっと反応した八幡だが、余計なことは口にせず身振りで続きを促す。
「今は自分でも上手くなったと思うし、現実に帰っても掴んだコツとかは残りそうだし、やって良かったなって思うんだけど。最初の頃は何度も悩んでな」
「上手く波に乗れなかったってことだよな?」
「いや、そうじゃなくて、波に乗る理由を悩んでてさ。……やっぱ、最初から説明しないと通じないよな。つまらない身の上話だけど、ちょっとだけ付き合ってくれるか?」
いつしか本牧は話に加わるのをやめて、傍観に徹している。
稲村にそう言われて断れるわけもなく。それに少し興味もわいてきたので、八幡は首を縦に動かした。
「オレの名前は、まあ両親がつけたんだけどさ。二人ともサザンオールスターズの大ファンなわけよ。オレが生まれる前から家ではサザンばっか流れてたし、今もそれは変わってないのな。けど、言っちゃ悪いけど世代が違うじゃん。だから周りの友達とは話が合わなくてな」
「いや、でも俺らも文化祭で昔の曲を演奏したけど、けっこう知ってたぞ?」
「だってミスチルはまだ平成デビューだろ。こっちは昭和だし、年代で言ったら70年代だぞ。同級生からすれば親の世代かその上って扱いでさ。でも、家ではサザンしか流さないし、たまには別のをって言ってもソロ活動の曲が出てくるだけでな。両親はバカみたいに『英才教育』とか言ってたけど、勘弁してくれってずっと思ってて」
思った以上に重い話だったが、何となく気持ちは分かるなと八幡は思った。稲村が親に向けるやるせない気持ちも、勝手なレッテルを貼ってくる同級生に抱いたであろう感情も。
「サザンは悪くないってのは、オレも分かってたんだけどさ。一時期はイントロを聴くだけでも嫌になって、下校ギリギリまで小学校に残ってたり、休みの日も朝から遊びに行ったりしてて。そしたら親もちょっと反省したのか、他のミュージシャンも聴かせてやるって言って野外フェスに連れてってくれてな。まあ、大トリはサザンだったんだけどさ」
両親の徹底ぶりに思わず吹き出してしまった八幡だった。
「でも、今までほとんど聴いたことがなかった曲を朝からずっと聴いて、それからサザンを聴いたら、やっぱり身体が覚えてるんだろな。凄いなって、その時はじめて思ったのよ。本牧と比企谷はさ、イントロがピアノで、ファ#ミファレーシーソーシレド#ーレミーって言って始まる曲、知ってる?」
「知ってる」
「俺もなんとなく分かる」
本牧と八幡が順にそう答えると。
「オレが物心つく前から、この曲がお気に入りだったって親が言ってたけど、なんか呪いみたいな感覚なのな。その、『稲村ジェーン』って映画があるんだけどさ。サザンの桑田が監督で、その中で使われてる曲で。分かると思うけど、オレの名前の元ネタがこれな」
「そういうのは、なんか大変そうだな。俺も父親から変な教育を受けたけど、画廊には近づくなとか美人局には気をつけろとか、まあ親父が酷い目にあったから俺に言ってるのは分かるんだが、勘弁してくれって思ったもんな」
「え、それって金とか女が絡むぶんオレより大変じゃね。親父さん、大丈夫だったのか?」
「どっちも、うちのかーちゃんが直談判で話をつけてな。それ以来、絶対に頭が上がらねーって親父が言ってた」
妹も成長したらあんなふうになるのだろうかと思いつつ。一瞬だけ妹の旦那に同情しかけたものの、すぐに「妹は嫁にやらん」と気を取り直して、八幡は目で話の続きを求めた。
「なんか、いいご両親だな。話を戻すとさ、その野外フェスでオレが突然叫んだらしいのよ。オレ的にはステージに意識を持って行かれてたから、そんなの全く覚えてないんだけど、『来る!』って言ったらしいのな。直後にさっきのピアノのイントロが始まって、両親は曲で盛り上がる以上にビックリしたみたいでさ」
「それってあれか、この曲限定の予知能力みたいな?」
「偶然の可能性も高いけどな。けど、生まれる前からずっと聴いてるから、予感みたいなのがあってさ。サザンにとってもこの曲は特別みたいで、なんかメンバーの緊張感みたいなのが伝わってくるのよ。今からやるのはあの曲だぞ、みたいな。それにオレも共鳴してるんだろうなって」
「ん、てことは、その時の体験で呪いが解けたってことか?」
とたんに難しそうな表情になって、稲村はていねいに言葉を選ぶようにして話を続ける。
「逆に、あの瞬間に呪いが確定したのかもな。でも、オレにはそれぐらいしか無いんだわ……」
傍観している本牧はもちろん、八幡も口が挟めない。遠くを見るような表情の稲村が口を開くのを見守っていると。
「葉山みたいなトップカーストとも、比企谷みたいにマイペースを貫くのとも違ってな。オレとかは『ザ・普通』だからさ。勉強も運動も普通だし、普通に友達がいて普通に高校生活を過ごして、でも特別なものは何もないって感じで。だから去年とかは正直、比企谷を憎たらしいと思う時もあったんだよな」
「え、ちょっと待て。お前、去年の俺を知ってるのか。できるだけ目立たないように過ごしてたはずなんだが」
「比企谷な、もうちょっと自覚したほうがいいぞ。ぼっちを気取ってたって話は本牧から聞いたけど、あれ、めっちゃ目立つから。舐めてたらあきませんでー」
稲村が怪しげな関西弁をくり出してきたものの、八幡には反応する余裕がない。もしや材木座みたいに悪目立ちしていたかと、突然の黒歴史出現に身をすくめていると。
「でもな、憧れみたいなのも少しあったんだよな。それが今年度になったら雪ノ下さんの奉仕部に入るわ、由比ヶ浜さんも入部するわ、……一色さんとも三浦さん海老名さんとも合宿してるわ、なんか色々と問題を解決してるわで、控え目に言ってもげろと思ったな」
「おい、ちょっと待て。憎しみがエスカレートしてるじゃねーか」
「それぐらい当然の報いだろ。あと『もげろ』って言っても通じるんだな、やっぱり」
「ん、どういう……って、ネットスラングだからってことか?」
「そうそう。さっきも言ったけどオレは普通だし周りのやつらも普通だからさ、そういう言葉って使いにくいんだよな。オレだってアニメも見るしオタクっぽい漫画も読むけど、そういうの言いづらくて。かといってオタク趣味のやつには相手にされないしさ。ちょっと知ってるだけってレベルだから当然なんだけどな。結局、普通って言えば聞こえはいいけど、要するに中途半端なんだよな、どんなジャンルでも」
八幡はぼっちだったので、興味を持てばのめり込むほうだったが。友達の目を気にして趣味に没頭できないという話は、なんだか分かる気がした。
八幡の場合は気にしすぎるのが限界を超えて、そこでようやく開き直れただけで。俺の趣味が変なのかと悩んだり、俺が好きだからって理由でその漫画やゲームまで馬鹿にされて悔しい思いをしたり。この境地に至るまでには色んなことがあったからだ。
とはいえ、少し気になることがあるのだが。
「言いたいことは分かるけどな。俺が相手だと、ネットスラングとかアニメやオタクな話も通じるって言ってるように聞こえるんだが。まあ通じるからいいっちゃいいんだが、なんで知ってんだ?」
「去年のいつだったか、比企谷と廊下ですれ違ってさ。メールで家の買い物を頼まれたっぽくて、返信しながら『かしこまっ!』って……」
頼むから誰か去年の俺を殺してくれと八幡は思った。
我がことゆえにか、その光景をありありと思い浮かべることができる。きっと妹にメールを送ると同時にセリフをつぶやき、送信を押した反動で指を顔のそばまで持っていってあのポーズを……頼むから誰か去年の俺を殺してくれと八幡は思った。
「なんか固まってるし、稲村もそれぐらいで許してやれよ。話はこれで終わりじゃないだろ?」
「えーと、何だっけ。呪いの話か。さっきの野外ライブの時にな、『すげぇ曲だったんだな』って思ったのと同時に、『この先なにがあっても、なかったことにはできないんだな』って思ったのよ。生まれる前からサザンをずっと聴かされて育って、サザンが俺の中に入り込んじゃっててさ。でな、悔しいことに、それだけが特別なんだわ。他はぜんぶ普通の俺にとって、サザンだけがさ」
神妙な顔つきに戻って一つ頷く八幡を、ちらりと確認して。稲村は話し続ける。
「普通だと、好きな曲の話をする時って歌詞のことばっかじゃん。それも前後の文脈とかあんま関係なしに、好きだの何だのって部分だけを取り上げて、一人で悦に入っててさ。まあ俺も他の曲ではそんな感じだから、あんま偉そうなことは言えないけどな。でもサザンの曲だけは、そんなふうには聴けなくてさ。比企谷は、バンドをやってたよな?」
「やったのは文化祭の二曲だけだぞ。アンコールは付け焼き刃だったしな」
「実はさ、この曲のアレンジはその二曲と同じ人でさ。だからたぶん通じると思うんだけど、一番が終わると色んな楽器の音がいっせいに引いて、左のスピーカーからアコースティックギターの音が響くのな。サビでもアコギは鳴ってるんだけど、間奏に入ったらめちゃくちゃクリアに伝わってきて、あの瞬間がすげー好きでさ。でも、そういう話ってなんか、できないんだよな。普通に話したらいいのになって思うんだけど、やっぱり普通じゃない気がしてさ」
バンドの練習をしていた時に、こんなに多彩な楽器が使われていたのかと驚いた記憶がある八幡は、稲村の言葉に頷けた。
「気持ちは解るけどな。それならお前もバンドをすれば……」
「それがな、普通の哀しいところでさ。オレもアコギを借りたり、台所から料理箸を取ってきてジャンプを叩いたりしたんだけどさ。ぜんぜん上手くなる気がしないのよ。才能ねーなって思い知らされるだけでな。ギター借りた時は指が切れそうになるぐらい練習したんだけど、手が小さいからかFコードがどうしても押さえられなくてさ。ちょっと変拍子が入ったら混乱するからドラムとかぜったい無理だし、なら他の楽器も無理っぽいだろ。さっき比企谷は付け焼き刃って言ったけど、それであれだけ叩けるんだから大したもんだよな」
声に皮肉の色はなく、言葉どおりの気持ちが伝わってくる。ずっと底辺に甘んじていただけに、こうまで褒められると居心地が悪い。かといって軽率にバンドの話を持ち出して失敗した直後なので、何を言えばいいのかも分からない。だから曖昧に頷いていると。
「でもさ、稲村があの時に歌詞の話をしてただろ。あれって、この曲だよな?」
「ああ、本牧には歌詞の話をしたんだったな。って、え、そこまで話さないと駄目なのか?」
「それを決めるのは稲村だけどな。聴衆の期待に背くのはよくないと思うぞ?」
二人から視線を向けられて、とりあえず話に乗っておくかと思った八幡は。
「ここまで聞いたからには、最後まで知りたいもんだな。あとな、さっきから普通を連呼してるけど、本牧には話せてるのはなんでだ?」
「こいつにはオレの恥ずかしい瞬間を見られたからな。正直あんま融通は利かないし意外と頑固だし口うるさいけど、信頼はできそうな性格だろ。だからさっきのサザンの話から始まって色んな事情を説明してな。この高校だとこいつぐらいだな、ここまで普通に話せるのは」
「お前の話を聞いてると、普通の基準が分からなくなってくるな。それと本牧とは違って、俺はそこまで信頼できねーと思うんだが、大丈夫か?」
「だってぼっちを気取ってるやつが、誰かに言い触らすわけないだろ?」
そう言われるとぐうの音も出ないので、少しふくれっ面を浮かべてみた。
「比企谷がやっても可愛くないからやめとけ。由比ヶ浜さんとか……だったら効果は抜群だろうけどな」
「稲村も話を始める前から自爆してるぞ」
「ほーん。まあ確かに、色んな意味で破壊力は高そうだよな。それで?」
言い淀む稲村の様子からして、やはりそういう事なのだろうと八幡は思った。本牧の煽りもそれを裏付けていると八幡は受け取った。本音を言うと、可愛くて破壊力が高いのも確かなのだが、怒るとけっこう怖いんだよなと考えつつ。顎でしゃくって話を促すと。
「さっきの映画な、オレの名前の元ネタのやつ。あれって二〇年に一度の大波に乗ってやるぜ、みたいな話かと思ったら、なんかよく分からん作品でさ。まあとにかく、オレも大波が来たら絶対に乗ってやるって、そう思ってたのな。比喩的な意味で」
「ん、っと。最後のはどういう意味だ?」
「この世界に来るまでサーフィンやったことなかったし、やったら負けだって思ってたからさ。あ、呪いに負けるって意味な。だからサーフィンの話じゃなくて……えーと。比企谷って、『どんなやつでも、人生で三人の特別な異性と出逢う』って話は知ってる?」
「いや、初耳なんだが」
知らない話がどんどん出てくるので、首をひねっていると。
「オレはその手の話は信じることにしてるのな。なにも希望がないよりはマシだって程度の、軽い気持ちだったんだけどさ。そしたらまあ、出逢ったわけよ。特別な異性の一人目と」
「それって、特別だって判ったのはなんでだ?」
「一目見たら判った、としか言いようがないな。でもさ、オレは考え違いをしててさ。出逢う=無条件に与えられるって意味だと思ってたんだけど、実際はちゃんと準備をしておかないと駄目だったんだわ。さっきの映画で言うと、二〇年に一度の大波がいつ来てもいいように、普段から波に乗るなりして備えておくべきだったんだよな」
話の筋がなんとなく見えてきたので、一つ頷いて先を促す。
「早い話が、俺にとっては特別な異性だったけど、向こうにとっては単なるモブでさ。あの時の気持ちの盛り上がりと、直後の急激な冷め具合は、忘れたくても忘れられないな。ま、そんなわけでオレは、一人目の大波に乗るのに見事に失敗したってわけだ」
「それが今年の入学式か。んで、サーフィンするかって話になったわけだな?」
いつだったか、由比ヶ浜が今年の入学式の話をしてくれた。在校生は休みなのに、生徒会役員でもなんでもないのに、わざわざ手伝いに行った由比ヶ浜は、そこであざとい後輩と知り合ったらしい。
それ以上の説明はなかったものの、おそらく去年の事故をひきずっていたからこそ、そんな役目を買って出たのだろう。新入生が俺みたいに、しょっぱなからつまずかないようにと、そう考えて。
「やっぱり、ここまで話したらバレバレだったか。変に隠さなくてよかったな。とりあえずオレ的には、見込みのない相手につきまとうよりは二人目の大波に備えたいって思ってるんだけどさ。それで済むなら特別な相手じゃないよなって話でな」
「だからさっき本牧に、この件だけは例外だって言ったんだな。話がこじれたら、
「向こうにとってはオレはモブだし、関係なんて皆無だけどな。オレに何かができるとは思えないけど、きまじめな副会長候補の後ろで山の賑わいぐらいにはなれるなって。知ってしまった以上は、動かないって選択はないからな」
「なんか、失礼な言い方になったら悪いんだが、あれだな。
自分でも意外なほど妬ましい気持ちがわかないことに、八幡は不思議な感慨を覚えていた。それはおそらく、ここまで特定の異性のことを想える稲村を、うらやましい以上にすごいなと思ってしまったからだろう。何の見返りも求めず、なのに動くのは当然だと言う稲村を。
「比企谷にそう言われると、なんだか報われる気がするな。まあ、『比企谷死すべし、慈悲はない』って気持ちもあるんだけどさ」
「おい。んで、本牧が言ってた歌詞の話はどうなった?」
「あ。言った本人が忘れてたのに、よく覚えてるよな」
「本牧ならそんなもんだ。お前の長所はそこじゃないだろ」
意外と良い組み合わせなんだなと目を見張って。すぐに顔をやわらげて八幡が苦笑していると。
稲村が姿勢を正して、歌詞の一部を諳んじた。ほんの少しだけリズムとメロディを乗せて、ゆっくりと、はっきりと。
『愛しい君の名を、誰かが呼ぶ』
「……まあ、考えてみたら切ないよな。オレも、ずっとそう思ってたんだけどさ。葉山がいつも下の名前で呼んでるだろ。あれを最初に聞いた時から、あんま哀しいとか羨ましいとか思わなくてな。それだけが、ある意味心残りなんだよな。変な話だけど、どうしようもない絶望感とかに浸れたほうが、きっぱりと次の大波に備えられる気がするからさ」
「歌詞に自分を投影したいって気持ちがあっても、サザンではそれができないのかもな。稲村にとって
八幡としては話を綺麗に締めくくったつもりだったが、なぜか二人からは「この捻デレめ」と言われてしまった。もとの意味を離れて言葉が一人歩きしている気がするのだが、まったくもって解せない。
「じゃあ、そろそろオレらは部屋に戻るけど、比企谷は?」
「俺は妹にメッセージを送りたいから、先に行っていいぞ」
「オッケー。稲村の話を聞いてくれてありがとな」
そう言って立ち上がる本牧と稲村に、軽く片手を挙げて。
二人が階段の先へと消えて行くのを確認して、八幡はメッセージアプリを立ち上げた。
***
何をどう書こうかと少し悩んでみたものの。妹が相手だしまあいいかと気を抜いて、まずは軽く送ってみる。
『やばい。誰もどすえとか言ってない』
『つまんないなー。きれいな舞妓さんとかは?』
『歩いた範囲では見なかったな。班の連中の相手であんま余裕もなかったし』
『お兄ちゃんがふつうに班行動してるの、ママンが聞いたらびっくりするよね』
『親父には「嘘だろ」ってしつこく確認されそうだよな』
『でもさ、なんか嬉しそうだったよ。通話をつないでくれたお礼だって、小町のお小遣いもあ』
『おい、ちょっと聞き捨てならないんだが?』
『あ、送っちゃった。そうそう、なんと今の比企谷家には、スペシャルゲストが来ています。さて誰でしょう?』
『お前な、朝に自分で言ってただろが』
『では、正解は?』
『はあ、一色だろ』
『ファイナルアンサー?』
『へいへい。FA、FA』
『ぱんぱかぱーん。お兄ちゃん、すごい、大正解だよ!』
『わーい』
『特典として、いろはさんには正解者のベッドで休んでもらいます!』
『おい、ちょっと待て。それは、その、一色はいいのか?』
『ちゃんとシーツも取り替えたし、ベッドの下のブツは移動させるから大丈夫だよ!』
『甘いな。ベッドの下には何もないぞ』
『あ、そっか。パソコンの隠しフォルダの一番下だよね。パスワードは……』
『俺が悪かったから勘弁して下さい。てかなんでパスワードまで知ってんだよ?』
『ママンが教えてくれたよ。最近ぜんぜんパスワード変えてないけど大丈夫かなって心配してた』
『その情報は知りたくなかった』
『でもさ、お兄ちゃんって好みが極端だよね。胸とかも大きいのと全然な』
『それ以上はいけない』
『あれ、なんで途中で途切れたんだろ。あと最近増えてるのが年下の小悪』
『禁則事項です』
『メッセージがおかしくなってるのかな。いろはさんも戻って来る頃だし、そろそろ?』
『それな、一色はどんな感じだ?』
『およ。お兄ちゃんってばストレートに尋ねてくるなんて、もしかして?』
『あのな。一色が生徒会長に立候補したって通知が来たんだわ』
『小町はくわしい話は聞いてないよ。知りたいなら、帰ってきてからお兄ちゃんが直接さ』
『ま、そうだな。お前の対応からして緊急でどうこうって感じじゃなさそうだし、その情報で満足しとくわ』
『お兄ちゃんって、最近へんに鋭い時と鈍い時が極端だから、小町はちょっと心配だよ。あ、今の』
『へいへい、心配かけてすまねーな』
『せんぱい、それは言わない約束ですよ〜?』
『あれ。えっと、本人か?』
『お風呂から帰ってきたら、話し声が聞こえるな〜って。小町ちゃん、「あ、今のは音声入力でお兄ちゃんとメッセージしてただけで」ってあわててたの、すっごく可愛かったですよ〜』
『はあ。まあいつもどおりで何よりだわ。その、通知を見たんだがな』
『その件につきましては、黙秘権を行使します』
『ん、了解。んじゃ、帰ってからな』
『あ、せんぱい。わたしもお土産はあぶらとり紙がいいです。あとはせんぱいのオススメで』
『オススメって一番困るやつじゃねーか。ま、考えとく』
『じゃあ、替わりますね』
『ほいよ』
『お兄ちゃん、いろはさんすっごく可愛い顔してたけど……あ、上のやり取りを見て納得』
『意味が分からん。ま、そっちはそっちで楽しんでくれ』
『今日は小町もお兄ちゃんのベッドで一緒に寝ちゃおっかなー』
『まあ、任せた。じゃあな』
昼間にリア充様と会話をした時に、妹経由で連絡がつくことには思い至っていたのだが。文字だけのやり取りとはいえ、直接話せてよかったと八幡は思った。
妹の最後の言葉は、「一人で寝させるには少し心配だ」という意味だろう。とはいえそこまで深刻な状況でもなさそうだ。さっきの推測が正解なら、これぐらいの状態になっても不思議ではない。
「三人の特別な異性、か」
椅子から立ち上がりながら、無意識に言葉がこぼれていた。あわてて周囲を見回して、誰もいないと確認して息を吐く。
今はまだ、この話を突きつめて考えたくはない。その想いを込めて、飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
できるだけ頭を空っぽにして、階段を上がる。
部屋に着いて、ようやく八幡は買い出しを忘れていたのに気がついた。
「じゃあ、もう一回行ってきてね」
怒ると怖いのは戸塚もかと、そう歎息しながらも。
身体を動かす用事ができて、逆にほっと一息つく八幡だった。
***
こうして修学旅行の一日目が無事に終わった。
とはいえ、今はまだ序奏に過ぎない。
まずは翌日の夜に、八幡は特別な一時を過ごすことになるのだった。
稲村がほぼオリキャラですが、仮に原作で詳細が判明しても修正は難しいと思います。ごめんなさい。
作中で特定の作品を掘り下げる場合には、できるだけ体験しなおした上で書いています(ゲームはプレイ動画で済ませてますが)。しかし映画「稲村ジェーン」はDVDの販売がなかったからか、レンタルでも配信でも観ることができませんでした。
稲村のキャラ設定は、サントラを聴きながら映画のあらすじを読んで組み立てました。この点もご了承下さい。
最後に、本作の稲村に多大な影響を及ぼしたこの曲に、心からの感謝を。
サザンオールスターズ「希望の轍」
次回は一週間後の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
前話の更新後に総合評価が1,000を超えました。
この嬉しい数字を励みにして、これからも頑張ります。
細かな表現を修正しました。(10/9)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/20)