俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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本話は文字数が多いのでご注意下さい。
全体をおおよそ三分割して、途中の箇所まで飛べるリンクを設けてあります。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・二つ目の訪問先に飛ぶ。→137p1
・意外な訪問先に飛ぶ。→137p2


以下、前回のあらすじ。

 二日目の夜に、ぼっちになりたくて部屋の外に出た八幡は、戸部・川崎・三浦と相次いで遭遇した。

 戸部からは断固告白という意思を受け取った。それは周囲に乗せられての決断ではなく、海老名のことを理解した上で「今を逃せば、以後は告白の機会すら得られない」と考えたためだった。
 言葉をぼかしながら「あれがああなったら頼まれて欲しい」と告げられて。覚悟を決めた戸部から遺書を託されたような印象を八幡は抱いた。

 川崎とは東京駅にある扉の話をした。
 墓標を拝みに行くような気持ちだと説明すると、扉の情報を教えた責任感からか「お墓参りなら自分も一緒に」と言われ。解散後に東京駅で落ち合う約束をした。
 戸部の状況を知らせると、諦めるなと励まされたので。何か策がないか、もう一度考えてみようと八幡は思った。

 三浦とは、限界を迎えた海老名が何もかもを突き放さないように、警戒し合う約束を交わした。
 一色の立候補を「一緒に頑張ってた仲間がいなくなる」と受け取った三浦から。八幡は、事の詳細を知りたいとの依頼を受けた。葉山に対しては長所を出す方が良いと伝えて、珍しい顔合わせはお開きとなる。

 ホテルに戻った八幡の目に、雪ノ下の後ろ姿が飛び込んできた。


10.ルーツを辿りながら彼と彼女は夜の京都を訪ね歩く。

 修学旅行ならではの話題で盛り上がる同級生を、言葉尻をとらえて軽くたしなめて。すぐに笑顔を作った雪ノ下雪乃は、その場からゆっくりと立ち上がった。

 

「下で少し、土産物を見てくるわね」

 

 そう言って、J組の生徒だけが集まっている部屋から廊下に出る。

 

 

 国際教養科は学年で一クラスだけなので、三年間を同じ顔ぶれで過ごす。最近では、雪ノ下の不器用な性格をようやく理解して、気安く接してくる同級生も少なくない。

 

 春先の頃はまだ、彼女らが抱く理想的な生徒像を受け入れていた。クラスメイトが憧れる完璧な存在であろうとして、実際にそれを遂行していた。雪ノ下にとっては特に難しいことではなく、無理をしたり演技をしたりといった意識はまるでなかった。

 

 だが、いつの頃からだったか。一人また一人と、雪ノ下を普通の同級生として扱う生徒が増え始めて。完全に対等とまでは言えないまでも、心の距離はずいぶんと近くなった。

 

 以前なら詮索などされるはずもなかったことを尋ねられたりと、多少の煩わしさはあるものの。それらは概ね、喜ばしい変化なのだろう。

 

 決して孤立していたわけではなかったけれど、高一の毎日は灰色の印象が強かった。

 

 クラスや学校の行事では、求められるがままの姿を披露して。部活では、依頼人が誰一人として来ない部室で独り、長い時間を過ごして。下校後は、一人暮らしのマンションで家事と勉学を完璧に両立して。

 

 そんな毎日を送りながら、自分というものが一体どこにあるのかと、雪ノ下は悩んでいたものだった。これなら留学を続けたほうが良かったと、そう思ったのも一度や二度ではない。

 

 今もなお、そうした悩みは完全には消えていない。

 

 だが今の雪ノ下には、自分を見失ってしまうことへの対策もあれば、自分という存在を確たるものにするための思惑もある。残念ながらその思惑は、完全無欠の状態では実現できそうにないけれど、あの二人と距離ができずに済むという利点もある。

 

 これらは、帰国したからこそ得られたことだ。

 だから、落ち込む必要などない。

 

 この世界に巻き込まれて、あの二人が入部してくれたおかげで奉仕部の活動が活発になって。その影響がクラスにまで波及して、雪ノ下の周囲は彩り豊かなものになったのだ。それ以上を望んだところで、何になると言うのだろうか。

 

 

 階段を下りながら軽く首を振って、気持ちを切り替える。

 一階の土産物売り場にパンさんのグッズが並べられていたのは確認済みだ。それらを堪能するべく、雪ノ下は一直線に目的地へと向かった。

 

 しばらく商品を吟味していると、何やら妙な視線を感じる。そういえば、集中していたので意識にのぼらなかったが、外に繋がる自動ドアが開いた音を聞いた気がした。おそらく、ホテルに帰ってきた誰かに見られているのだろう。

 

 何でもないふうを装って、他の土産物をいくつか物色する。

 そして機を見て、一気に後ろを振り向いて。

 

「何か私に用……なのかしら、窃視谷くん?」

 

 強い調子は最初だけ。一瞬の間をおいて続けた言葉は、自分でも驚くほどに艶やかで弾んだ口調だった。

 

 

***

 

 

 なぜか一つため息をついてから、比企谷八幡はこちらに向かって歩いてきた。その理由は分からないものの、よく見る動作なのでそれほど気にならない。声をかけられて迷惑だという気配もなく、すぐにでも逃げ出したいという素振りもない。おそらくは反射的な行動に過ぎないのだろう。

 

 立ち話もなんだしと、軽く周囲を見回して。自販機の横にあったソファを指差した。一瞬だけ身構えるような反応を見せられたのだが、やはり理由が分からない。なんにせよ、自分が先に座ったほうが八幡も動きやすいかと考えて、ソファの中央に腰を下ろした。

 

「座らないのかしら?」

 

 すぐ前で突っ立ったままこちらを見下ろしている八幡に、きょとんとしながら問いかけてみると。今度は目をしきりに左右に動かしているので、事情を把握した雪ノ下は自分の左側を指し示した。

 

「夜にどこか行きたい場所でもあったのかしら?」

「いや、そういうわけじゃないけどな。なんか成り行きっつーか。ぼっちになりたくて、コンビニに行ってたんだわ」

 

 残念ながらぼっちにはなれなかったのだが、そこまで話す必要はないだろうと八幡は思った。それよりも、いちおう微妙に距離を空けてはみたものの。湯上がりだからか髪を上げてラフな格好の雪ノ下と夜に間近で接するのは、とても心臓に悪い。

 

 とはいえ、さっさと退散するのも惜しいし、龍安寺で別れた時に抱いた印象も気にかかる。まあ、少し喋るぐらいなら問題はないだろうとの理由で、八幡は自分をごまかした。

 

「ずっと同級生と一緒にいると、息が詰まる時もあるものね。私でもそうなのだから、比企谷くんがコンビニに逃げるのも仕方がないと思うのだけれど」

「その点、由比ヶ浜とか、あと葉山とかも凄いよな。俺にはとても真似できねーなって思うわ」

「人それぞれということで良いのではないかしら。それで明日を乗り切れるのなら、問題はないと思うのだけれど」

 

 龍安寺で石庭を見た時と同じぐらい。ちょうど子供一人分ぐらいの間隔を空けられたことに、少し照れくささを感じて。ふだんよりも優しい気持ちで話を進めたつもりの雪ノ下だったが。

 

「それなあ。詳しくは明日、由比ヶ浜もいる時に話すけどな。明日を無事に乗り切るのは、難しそうな状況なんだわ」

「そう。私は別のクラスなので、なかなか協力ができなくて申し訳ないのだけれど」

 

 一般論のつもりが具体的な話として受け取られてしまった。気にしているふうには見えないが、素直に謝っておく。依頼を引き受けた責任があるだけに、自分の非を認めることにも抵抗はない。

 

 

「それは最初から分かってたことだし、あんま気にすんな。それよりも、俺の気のせいだったらいいんだが、龍安寺の別れ際な。なんか昨日の朝に会った時と比べて落ち込んでるように見えたんだが、J組でなんかあったのか?」

「いえ、特に何もないのだけれど……何かあっても、叩き潰せば済むことでしょう?」

「いや、あのな。無駄に喧嘩っ早いのはやめとけよ」

「冗談よ。これでも相手は選んでいるつもりだし、J組では仲良く過ごしているのだけれど」

 

 八幡の鋭さに内心では舌を巻きながらも、冗談でそつなく返す。立候補の報せを受けたのが原因だと、二人には悟られたくはない。だから、理由をもう一つだけ付け足すことにした。

 

「ただ、強いて言えば。金閣寺が原因かもしれないわね」

「んんっ、と。どういうことだ?」

 

 自分は喧嘩相手に選ばれているのだと、喜ぶべきか哀しむべきか悩ましい情報を入手して混乱していた八幡だが。新たな話題を持ち出されて、そちらに意識を移す。

 

「三島の『金閣寺』の中で、米兵に促された主人公が、雪の上で娼婦を踏みつける場面があるでしょう。あれは歌舞伎の『祇園祭礼信仰記』にヒントを得たという話なのだけれど」

「歌舞伎は俺には分からんな。まあ、同じような場面があったってことか。んで?」

 

「そうね。少し詳しく説明すると、天下を望む松永大膳が将軍の母と雪舟の孫娘を金閣寺に幽閉したのよ。そこに秀吉を模した此下東吉が駆け付けるという筋書きなのだけれど。金閣寺の前で大膳に足蹴にされたその孫娘は、雪姫という名前なのよ」

「ほーん。まあ、雪舟の孫だし、姫を付けてって感じか。つか、あれだな。海老名さんの名前って確か」

「もちろん偶然に過ぎないのだけれど。何となく、不吉な感じを受けるでしょう?」

 

 雪ノ下と、そして海老名姫菜と。二人の名前を冠した登場人物が不幸な目に遭うと聞けば、たしかに良い印象は持たない。とはいえ雪ノ下がそんな迷信じみた偶然を気にして落ち込むなどとはとても思えない八幡は、話題を逸らされたことをそのまま受け入れた。

 

「まあ、気持ちは分かるけどな。そんな偶然を気にし始めたらきりがないぞ。つーか、秀吉が活躍する作品ってことは。その幽閉された将軍の母って、もしかして?」

「これはそのまま実在の名前になっているわ。慶寿院よ」

「やっぱり、義輝と義昭の母親じゃねーか!」

 

 何だか嫌な繋がりだなぁと思いながら、これで話題が逸れたかなと八幡が考えていると。

 

「私は一般客。私は一般客。私は一般客」

 

 ぶつぶつと呟きながら、二人の目の前を通り過ぎようとする怪しい女性が一人。コートを身体に巻き付けてサングラスをかけて、決してこちらを見ようとしない。その正体は。

 

「平塚先生。こんな時間に、どこに行くんですか?」

 

 平然と問いかける八幡と、頭を押さえている雪ノ下に向けて。

 

「な、なんでバレた?」

 

 そんな情けない返事をする平塚静だった。

 

 

***

 

 

 教師の弁明をひととおり聞き終えて、雪ノ下が口を開く。

 

「つまり、巡礼をしてからラーメンを食べに行くつもりだったということですね。その、後者はともかく前者の意味が私には理解できないのですが」

「巡礼ってのは、まああれだ。好きな作品で出て来た場所を実際に訪れることな。つか、お前がラーメンを不問にするのがちょっと意外なんだが」

「貴方がコンビニに出掛けたのと同じよ。ずっと他の教師と一緒にいて生徒の監督をして。役目が終わったら、少しぐらいは羽を伸ばしたくなる気持ちも分かるでしょう?」

 

 夜の魔力が作用しているわけでもあるまいに、どうにも雪ノ下の反応が優しいものばかりなので焦ってしまう。もっとこう斬り捨て御免な感じのほうが対応が楽というか、優しさには優しさで返さないと自分だけが人情に疎いみたいで落ち着かないし、かといって照れくさいことはあまり言いたくないしで、話す言葉に詰まってしまう。

 

「うむ。では雪ノ下のお墨付きも得たところで……そうだな。君たちも来るかね?」

「それですと、先生の気分転換にはならないのでは?」

「そんなことはないさ。君たちには恥ずかしい姿をさんざん見られているから、肩肘を張らなくても良いしな」

「そこは少し、教師の威厳を見せて欲しいところなのですが?」

「それはまた別の機会だな。なにも今日この場で威厳を見せろとまでは言わないだろう?」

「そうですね。羽を伸ばしたい気持ちも分かると、そう言ったのは私でしたね」

「それに比企谷なら、今日の巡礼コースは全て理解できるはずだ。同好の士と語らいながらの巡礼は楽しいものだよ」

 

 そんなふうに二人の間で話が進んでしまい、気付けば三人で出掛ける形になっている。やはり今夜の雪ノ下は対応が柔らかいなと思いながら、いちおう最後の抵抗を試みる。

 

「いや、その。どこに巡礼に行くのか知りませんけど、雪ノ下が退屈するんじゃないですかね」

「ならば君が解説してあげてくれたまえ。私は聖地を堪能するので忙しいからな」

「教師の威厳を見せるどころか、かなぐり捨ててますよね。まあ、良いですけどね」

 

 雪ノ下担当を仰せつかった形だが、これ以上ごねていると更に面倒な役割を与えられかねないので、八幡もここで妥協した。決して解説役が嬉しくて引き受けたのではないと、くり返し自分に言い聞かせる。

 

「では、タクシーを拾って出掛けるとするか。雪ノ下、その格好では寒いだろう。このコートを着たまえ」

 

 手早く脱いでスーツ姿を披露して、雪ノ下にコートをばさっとかけてあげる平塚からは、どこか大人の威厳が感じられた。

 

 

***

 

 

 ホテルの前で拾ったタクシーをUターンさせて、丸太町通を一路西に向かう。たこ焼き屋の前を過ぎて、鴨川を越えて。河原町通で左折して、一行は三条で車を降りた。

 

 後部座席の右奥に押し込められた雪ノ下と、手前の席に座る平塚に挟まれて。居心地の悪い思いをしながら、車道沿いの景色を眺めつつ適当に話を振って過ごしていたので、どっと疲れてしまった。熊野別当とか正直どうでも良かったのだが、照れくさい話題になるのが嫌だったので、会話を途切れさせないように頑張ったのだ。

 

 誰か褒めてくれないかなと思いながら、八幡はうんっと身体を伸ばす。

 

「信号を渡って、少し歩いたところだよ」

 

 そう平塚に促されて、並んで歩く二人の後ろをだらだらとついていくと。唐突に「10GIA三条本店」という看板が目に入った。

 

「え、もしかしてここ、『けいおん!』で楽器を買ってた?」

「ふっ、さすがに察しが良いな。君の想像通りの場所だよ」

「そうか、ここにギー太が……」

 

 何やら感動している二人を尻目に。ちょっとついて行けないなと思う雪ノ下だった。

 

「地下一階に楽器売り場があるはずだ。雪ノ下も楽しめると思うから、その呆れ顔は保留にしてくれると助かるのだが?」

 

 そう教師に言われたので仕方なく表情を戻して、エスカレーターで階下に降りる。すると一面のエレキギターが出迎えてくれた。これは確かにテンションが上がる。少しだけ恨みがましい目を教師に向けて、ざっと確認していると。

 

「先生。あのカウンターって、もしかして?」

「ああ、メンテナンスや査定に来たところだな。比企谷、行くぞ!」

 

 二人が脇目も振らずに奥に向かうので、仕方なく後を追う。解説という話はどこに消えたのだろうか。

 

 歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していると。ガラスケースの奥にいくつかアコースティックギターが飾られているのが目に入った。いずれも名の知れた高級モデルだ。

 

 その中の一つに目を奪われていると、いつの間に近付いたのかNPCの店員がすぐ横から話し掛けてきた。

 

「試し弾きをなさいますか?」

「え、ええ。是非」

 

 ギターを持った店員の後について、二人が写真を撮るなどして騒いでいるカウンターの横を通り過ぎる。椅子に座って、店員に手渡されたアコギを構えて、まずはいくつかのスケールに沿って単音をざっと確認して。何となくコードが弾きたくて、Gから始めて適当に繋げていると。

 

「良いギターだな。弾いているのは”A Day in the Life”かね?」

 

 試奏ブースに入ってきた教師に、一発で曲を当てられた。何だかちょっと悔しい。

 適当なところで切り上げて、二人の様子を窺うと。

 

「ふむ、G社のJ-160Eか。文化祭でも同じギターを持っていたはずだが?」

「いえ、あれは年代が違います。これは1962年製ですので」

「なるほど。比企谷、良いことを教えてあげよう。文化祭の一曲目だがね。あの曲は同じG社のアコギでも、J-180というモデルを使っていたはずだ。原曲ではね」

「先生、まさか」

「それなのに雪ノ下は、わざわざJ-160Eを選択した。その意味が分かるかね?」

 

 さすがに予測がつかないのか、八幡はちんぷんかんぷんな表情になっている。だからそちらは良いとして、この教師の放言を早く止めなければと雪ノ下は思う。どこか姉を思い出させる話の組み立てに、いらっとした気持ちがわき上がってくる。

 しかし、遅かった。

 

「これはビートルズ初期にジョン・レノンとジョージ・ハリスンが一緒に購入したモデルなのだよ。君と由比ヶ浜との初めての演奏で、あえて雪ノ下がこのギターを採用した辺りに、深い思い入れを感じないかね?」

「た、たまたま手元にJ-180がなかっただけで、それほど深い意味を込めたつもりはなかったのだけれど。比企谷くん、先生の戯れ言を真に受けては駄目よ」

「ほーん。こんな時にはなんて言えばいいのかね。あー、えーっと、あれか。……お可愛いこと?」

「っ!?」

 

 よもや八幡が漫画のセリフを口にしただけとは夢にも思わず。そして美人とか美少女とか綺麗と言われることには慣れていても、あまり可愛いと言われたことはなかったので。一気に沸点に達してしまった雪ノ下は、反論どころか何も言葉が出て来ない。

 

「比企谷……冬アニメの予習もバッチリとは、さすがだな」

「いや、それが通じる先生も大概だと思うんですけど。つーか、冗談が通じてなさそうなんですけど、俺どうしたらいいですかね?」

「もちろん君の自己責任だろう。私も少しベースを物色してくるので、その間に何とかしたまえ」

 

 そんなわけで、あたふたする八幡と顔を真っ赤に染めている雪ノ下を二人きりにして、颯爽とブースを出て行く平塚だった。

 

「逃げられたか。まあ、せっかくだし、あれだ。なんか一曲、聴かせてくれると嬉しいんだが?」

「はあ……いいわ。短い曲だから、すぐに済むわよ」

 

 八幡が精一杯頑張って取りなしてくれているのは雪ノ下も分かるので、その提案に乗ることにした。歌がなくてもアルペジオだけで楽しめる曲を演奏していると。

 

「なんか、ぎゅいんってスライドさせるのは恰好良いけど、全体的には可愛い曲だな」

 

 雪ノ下は心の中で、絶対に許さないリストの筆頭に八幡の名を二度書き加えた。

 

 

「比企谷、あったぞ。このベースがエリザベスだ!」

「えっ。品薄って話を聞いたんですけど、実物があるんですね」

 

 弾き終えるのを見計らったかのように、平塚がベースを片手に戻って来た。おそらくはアニメの登場人物の愛器なのだろう。また知らない話が続きそうだが、今の心理状態を考えるとそのほうが助かるなと雪ノ下は思う。ところが。

 

「雪ノ下、知らない話題で盛り上がってすまないな。先程のビートルズの話だがね」

「……それが何か?」

 

 話を蒸し返さなくても良いのにと思いながら、雪ノ下は最低限の受け答えで応じる。心の中では、すぐに復讐するリストに平塚の名前を書き加えていた。

 

「いや、それだと今度は比企谷が蚊帳の外になるか。君はビートルズには詳しくないだろう?」

「ですね。まあ、音楽の教科書に出て来た曲ぐらいは知ってますけど」

「そうか。私も音楽の教科書にあったぞ!」

「いや、そりゃあるでしょ。リアルタイムで聴いてた世代ってもう還暦ぐらいでしょ?」

「うぐっ。ま、まあそうだな」

「ただ、曲には悪い印象はないんですけどね。還暦間際の連中が『レリビー』とか言って自分に酔ってる印象が強くて、あんま好きじゃないんですよ」

 

 曲やミュージシャンは悪くないと分かっていても、それ以外の理由で敬遠したくなる時はあるものだ。八幡は昨夜の話を思い出しながら、自分が抱いているイメージを伝えた。

 

「なるほど。君が言わんとすることは分かるよ」

「そうね。私がビートルズを聴き始めたのは、好きなミュージシャンが子供の頃に聴いていたバンドが、彼らの曲をカバーしていたからなのだけれど」

 

 好きなミュージシャンがよく聴いていたのがビートルズではないのかと。なんだか自分と比べて段階が一つ多い気がするなと思った平塚だった。

 そして雪ノ下は、早々に復讐を完遂したことで溜飲を下げていた。

 

「ぐふっ。だが、そうだな。新しくて良いものがどんどん出てくるのも確かだがね。古くて良いものも、世の中にはたくさんあるのだよ。彼らの曲の良さは、なんと表現すれば良いのだろうな。……そうだな。人が一生の中で巡り逢う喜怒哀楽を、作品から感じとることができると私は思うよ。もちろんそれはビートルズに限らないのだがね」

「先生が仰ることには私も同感なのですが。でも、解る時期が来ないと解らないという話も……」

 

 自身の経験を振り返って、雪ノ下がどう言ったものかと考えながら話していると。大きく頷いて話を引き継いでくれた。いつもこうなら、留保せず尊敬できるのだが。

 

「そうだな。だから比企谷にも”Let It Be”の良さが、いつか解るかもしれないという事だよ。私だって本心を言えば”Something”や”Across the Universe”のほうが好きだし、君が嫌悪する連中ともお近づきにはなりたくないからな」

「作り手が違うので、その二曲を比較対象に挙げるのは不適当な気がするのですが?」

「そこらへん、作った奴が違うんだな。たしか四人いたんだっけか。まあ漫画とか小説とかでも、以前は解らなかった面白さがこの年になって、みたいなことは多いですからね。先生が言いたいことも何となく分かりますし、そんな日が来るのを楽しみにしていますよ」

 

 八幡の締めくくりが契機になって。そのまま一行は店を出ると、次の目的地に向かった。

 

 

*****

 

 

 河原町通まで歩いて戻って、そこで再びタクシーを拾う。そのまま東向きに三条大橋を渡ったところで右折して、鴨川に沿って南下した。四条の手前で運転手にUターンを命じた平塚は、少し戻ったところで車を停めさせた。

 

「さて、川べりに出ようか。ところで比企谷。エリザベスと言えば先程のベースの他に、何を思い浮かべるかね?」

「そりゃ、あれでしょ。二階堂の愛犬……ってまさか?」

「ふっ、確かめてみると良い。おそらく、あの木だよ」

 

 二人がまた、よく分からない話で盛り上がっている。とはいえ月明かりに照らされる鴨川の河畔は雪ノ下を飽きさせることがない。しばらくじっと、上流のほうを眺めていると。

 

「あー、すまん雪ノ下。先生に解説役とか言われてたのに忘れてたわ。あのな、『3月のライオン』って作品で、この場所に主人公が胃薬を持って駆け付けてくれてな」

 

 どうして胃薬なのか、全く意味が分からない。のだけれど、八幡がその場面を読んでどれほど興奮したかは伝わって来る。

 

 ふと、思い出した。旅行前に部室で、読んだ少女漫画の話をしていた時のこと。知らない作品の話なのに、もう一人の部員は心底から楽しそうに耳を傾けてくれた。その気持ちが少し解るなと、雪ノ下は思った。

 

「比企谷、これを見たまえ。向こうを出る前にコミックスを読み直して、写真を撮ってきたのだがね」

「うおっ、ひなちゃんが『何でここにいるの』って言ってる横の木って、まさにこれですよね!」

 

 だから解説を待つよりも、こちらから歩み寄ろうと考えて。二人が木と見比べている写真を、後ろから覗き込んでみると。

 

「えっ。この絵をここで描いたとしか思えないのだけれど」

「凄いよな、これ。多分ここだけじゃなくて、色んな場所を写真に撮ったりスケッチして回って、漫画にする前に厳選したんだろうな。俺らが数秒ぐらいしか目を留めない箇所でも、それを描くためにどんだけ時間を掛けたんだろうなって考えると、なんか頭が下がるよな」

「そうね。特に芸術作品は、掛けた時間や努力の量は関係なくて結果が全てだから。でも、それを勘違いして手抜きを始めると、如実に結果に反映されるのだから皮肉なものね」

 

 作品の詳細は分からないものの、こうした一般論なら話ができる。他の分野で見聞きしたことを応用すれば済むからだ。

 と、そう思っていたのに。二人がきょとんとした目で自分を見ている。

 

「な、何か見当ちがいのことを言ったかしら?」

「いや、そうではないよ雪ノ下。比企谷、作品の説明を」

「はあ。短くまとめるの苦手なんですけどね。まあいいか。その、中学生で将棋のプロになった奴の話なんだけどな。お前が今まさに言ったとおり、結果が全ての勝負の世界なわけよ。んで、盲目的に努力を続けられる奴とか、いつまでこれを続けるのかって思っちまう奴とか、まあ棋士にも色々いてな。軽く読み流しても楽しめるし、深く読み込んでも楽しめる作品なんだわ」

 

 どうして将棋の棋士が鴨川に胃薬を届けるのかがよく分からないものの。確かに面白そうな作品だなと思った。

 

 先程の楽器店で教師が口にしたとおり、この世の中には自分が知らない良いものがまだまだたくさんある。おそらく一生をかけても体験し尽くせないほどに。

 だからこそ、ひょんな理由であっても巡り逢う機会を得られた作品とは、できる限り向き合いたいものだ。

 旅行から帰ったら、この漫画も読んでみようと雪ノ下は思った。

 

 

***

 

 

 待たせていたタクシーに乗って、再びUターンをさせて。三人は更に南へと向かった。三度目ともなるとさすがに慣れたもので、八幡も無理に話題を振ることなく、後部座席の中央にちょこんと腰を下ろしている。

 

 南座を左手に、五条大橋を右手に通り過ぎて、七条で右に曲がって橋を渡った。そして東本願寺を右手奥に眺めながら左折すると、京都駅がその雄姿を現した。つきあたりの信号を右に折れてすぐのところで車を降りる。

 

 駅ビルの大階段を横目に、エスカレーターで上へ上へと昇った。昨日、駅に着いた直後に集合写真を撮ったのは四階だったが、いま目指しているのは十階だ。そこには京都拉麺小路という名のテーマパークがあり、全国各地から九つのラーメン店が集まっている。

 

「巡礼は一休みして、少し腹ごなしをしよう。君たちも好きな店を選びたまえ」

 

 そう言い残して、平塚はすたすたと歩いて行く。どうやら既に目星を付けていたようだ。

 

「あ、別行動で良いんなら俺は……どうすっかな」

「意中の店があるのなら、名前を気にせずそこを選べば良いと思うのだけれど。私はそれほどお腹が空いていないから……」

「んじゃま、お言葉に甘えてここにしますかね。小さいサイズもあるみたいだし、せっかくだから食べてみたらどうだ?」

 

 噂に聞く富山の黒いラーメンに心を惹かれていた八幡だが、少し躊躇する理由があった。なので他の店にもちらちらと視線を送っていたものの、雪ノ下にはまるっとお見通しだったらしい。

 

 やっぱり今夜の雪ノ下は妙に優しいなと、平塚が聞いたらぎょっとしそうなことを考えながら。消極的な物言いを耳にしたのでメニューを指差しながらそう提案した八幡は、それがお誘いに当たるとは気付いていない。

 

「そ、そうね。平塚先生は……あそこは、大阪のラーメンだったかしら」

「せっかくだし、ご当地のものを食べたいんじゃね。同じ関西だしな」

「なるほど。では、私たちも入りましょうか」

「えっ。ああ、まあ、うん。入るか」

 

 自分から誘いかけてきたくせに、いざとなったら照れくさそうにしている八幡がなんだか可笑しくて。更には、店員さんに注意されて慌てて外に食券を買いに行く姿が微笑ましくて。雪ノ下はコップの水を口に含みながら、忍び笑いを漏らしていた。

 

 

 店内に戻って来た八幡と、机ごしに向き合った。お金を払おうとしたら「明日の自由行動の時に飲物でも奢ってくれ」と言われたので、いちおう頷いてはみたものの。

 

 小さなサイズとはいえラーメンと飲物では釣り合わないだろうし、どうしたものかと考えて。ふと良いことを思いついたので密かにほくそ笑む。合格祈願の絵馬を奉納すれば、この唐変木もきっと喜んでくれるだろう。

 

「そういえば、小町さんがいるからかしら。比企谷くんは意外と年下の扱いが上手いわね」

「どうかね。自分ではそうは思わんけどな。年下の知り合いって一色ぐらいだし、あれは俺のほうが扱われてる感じだぞ」

「そうした部分も含めて、扱いが上手いと思うのだけれど?」

 

 納得のいかない顔をしてしきりに首を傾げている八幡に、雪ノ下は続けて話しかける。

 

「やはり比企谷くんも、立候補のことが気になるのね」

「まあ、知らない奴じゃないからな。つっても、この店を選んだのは、それが理由じゃねーぞ?」

「気にせずに選べば良いと言ったのは私なのだけれど。かえって気にしているように受け取られるわよ?」

 

 あの後輩の名前を冠したラーメン屋に、八幡と二人で食べに入っているこの現状が妙に可笑しくて。拗ねた様子の八幡とは対照的に、澄んだ笑いをこぼす雪ノ下だった。

 

 

 やがて二人分のラーメンが届いた。半ラーメンとは言っても、チャーシューもあれば海苔もネギも添えてある。そして。

 

「それ、煮卵な。せっかくだし一緒に食っとけ」

 

 夜遅くにコレステロールを、というセリフが喉元まで出かかったものの。せっかくだし、という言葉には頷けたので、味わってみることにした。まずは黒いスープを一口。そして、麺を少し箸にとって、ちゅるっと口の中へ。

 

「見た目ほどは味が濃くないわね。ただ、麺が少し固いと思うのだけれど」

「んじゃ、先にメンマとか食べとけ。あと、これ一つどうだ?」

 

 そう言って餃子の皿を押しつけてくる。臭いやカロリーが、とは思うものの。ここまで来れば大差はないかと諦め、一つだけ頂くことにした。

 

「何だか、屋台みたいで楽しいわね」

「んー、ほういや博多のほうだと、夜に屋台が建ち並んでるらしいな。ラーメンとか鉄板焼きとか、色々と食べ歩きしてみたいもんだわ」

 

 口中に頬張っていた麺をごくんと飲み込んで、八幡が無邪気な希望を述べている。男の子のように量を食べられないのが少し残念ではあるのだけれど、確かに楽しそうだなと雪ノ下も思う。

 

「煮卵も、味が染みていておいしかったわ」

「そりゃ良かった。んじゃそろそろ、麺を食べてみ?」

「……なるほど。これぐらいの固さが良いわね」

「ラーメンは食べながら色々とくふうできるからな。お前、辛いものは大丈夫か?」

 

 質問の意図が分からないので少し警戒していると。ラー油の瓶を机の中央付近に置いて、それを指差しながら。

 

「あんま多くは入れるなよ。スープの味が変わるから、ちょっと試してみたらどうだ?」

 

 そう言って手ずから実演してくれた。なるほど、なかなか奥が深い。

 

「味が引き締まった気がするわね。それと……正直、一口目はそこまでおいしいとは思えなかったのだけれど。終わりが見えてくる頃になると、このスープの味が、何と言えば良いのかしら?」

「なんか、くせになる感じだよな」

 

 八幡の言葉に頷き合って、そろってスープを味わっていると。

 

「あら。すぐそこで平塚先生が手持ち無沙汰にしているわね」

「もう食べ終わったのかよ。そういうとこ、子供みたいだよな。んじゃ、俺らも出ますかね」

 

 こんなふうにして、雪ノ下のラーメン体験はひとまず終わった。

 

 

***

 

 

 教師に先導されて、三人は拉麺小路から空中径路へと歩を進めた。

 

 お腹に食べ物が入った直後だからか、無言で身体を動かすのがなんだか心地よい。そんなことを考えていた雪ノ下の眼前に、展望スペースが見えてきた。

 

「比企谷。私が何を見せたかったか、君なら分かるだろう?」

「ライトアップされた京都タワー、ですね。でもなんか、ちょっと遠くないですかね?」

 

 どうやら次の巡礼地はここだったようだ。またしばらくは置き去りにされるのだろうなと思いながら、京都の町並みを眺めていると。

 

「ふむ、これを見たまえ。出発前にジャケットの写真を撮ってきたのだがね」

「あー、やっぱここからですかね。その、屋上から撮ったのかもって思ったんですけど」

 

 またもや教師が写真を出してきたので、一緒に覗き込んでみた。どうやらベストアルバムのジャケットみたいだが、それよりも。

 

「先程の漫画もですが、わざわざ写真に撮ったのは理由があるのでしょうか?」

「良い質問だ、雪ノ下。電子書籍で持ち歩けば写真を撮る必要はないという、君の指摘はもっともなのだがね。その、学年主任が、たまに、持ち物チェックをするのだよ……」

 

 あんまりな理由を耳にして、訊かなければ良かったと思った雪ノ下だった。

 

「先生の歳で持ち物チェックって、教師って大変ですね」

「言うな比企谷。私だってそんな目には遭いたくないのに、なぜか昨年度から急に厳しくなってな。特に私が目の敵にされている気がするのだが」

「それは……もしかして、姉が原因ではないでしょうか?」

 

 予想外の言葉に目を見張っている二人に、雪ノ下は軽くため息をついてから説明を始めた。

 

「姉が卒業する時に、図書室に書籍や漫画を寄贈したと思うのですが。その、漫画の大半は平塚先生の私物でしたよね?」

「な、なんでバレたの?」

「えーと。要するに、ラノベとか漫画が充実してたのって、平塚先生のおかげってことか?」

 

 旅行前に図書室で抱いた印象を思い出しながら、八幡が疑問を述べると。

 

「ええ。平塚先生はおそらく、姉が寄贈した書籍にまぎれ込ませたつもりだったと思うのですが。寄贈リストを見ると、はっきりと平塚先生のお名前が」

「ううっ、陽乃を信じた私が浅はかだったか。布教にもなるし保管場所にも困らなくて済むし、良いアイデアだと思ったのに……」

「まあ、あの人に一杯食わされるのは仕方ないでしょ。俺はてっきり、先生がリストの選定に口添えをしたんだろうなと思ってたんですけど……って聞いてねーな」

「ずいぶんショックだったみたいね。自業自得ではあるのだけれど、しばらくそっとしておきましょう」

 

 そんなわけで、並んで京都の夜景を眺める二人だった。

 

 

「案内板と見比べると分かりやすいわね」

「だな。なるほど、あれが愛宕で、こっちが高雄か」

 

 ちょっと提督を気取ってみた八幡だが、もちろん雪ノ下には通じない。それよりも気になることがあるみたいで。

 

「先程の写真にあったアルバムは、その、アニメか何かの曲なのかしら?」

「あー、いや。普通にJ-POPのアルバムでな。ポピュラーなやつって、お前は洋楽しか聴かないんだっけか?」

「海外にいる間に、すっかり分からなくなったのよ。もともと疎かったのは確かだけれど。それでも、街中で流れているヒット曲ぐらいは知っていたのに。最近のJ-POPは完全にお手上げね」

「なんか、昔はもっとそこら辺でがんがん流れてた気がするよな。んで、あれは完全に先生の趣味だ。くるりって人たちのベストアルバムでな。でも、あの写真はいいなって俺も思うわ」

 

 八幡の説明に頷きながら、ようやく巡礼の何たるかが理解できた気がした雪ノ下だった。

 

「三条の楽器店で、ビートルズの話をしたでしょう。彼らの”Abbey Road”という作品のジャケットが、四人が横断歩道を渡っている写真なのだけれど」

「あー、言われてみれば何となく分かるような分からんような気になるな。なんかこう、髭もじゃな感じだっけか?」

 

 着眼点の面白さに頬をゆるめながら、軽く頷いて。そのまま雪ノ下は話を続ける。

 

「その横断歩道で同じ写真を撮ろうとするファンが、今も絶えないという話なのよ。巡礼というのは、そうした行為を指すのよね?」

「ああ、それで合ってる。っつーか、もしかして。お前もその、何たらロードに行ったことがあるのか?」

「交通量も多いし、スピードを出す車が多かったので、とても写真を撮るどころではなかったわね」

 

 苦笑まじりに話してくれる雪ノ下を横目で眺めながら。今年度の初めに会った頃には、自分とは別世界の住人だと思っていたけれど。こんなふうに、同じようなことをして喜んでいる側面もあるんだよなと八幡は思った。

 それでも、やっぱり住んでる世界が違うなと、思う時もあるのだけれど。

 

 

「さて。雪ノ下にも聖地巡礼の魅力が伝わったところで、次に行こうか」

「先生、もう大丈夫なんですか?」

 

 急に平塚が話しかけてきたので、雪ノ下は驚いた拍子にぱっと八幡と距離を取った。

 そんなめったに見られない雪ノ下の反応に、内心では照れくささを感じながらも。八幡は平然と教師に話しかける。

 

「うむ。できれば、くるりの良さをじっくりと語りたいのだがね。それは君から伝えてくれたまえ」

「そう言われても俺、先生に勧められて聞いた程度であんま詳しくないんですけどね。あー、でも。曲の話からは外れますけど、今も続いてるって大きいですよね。ずっと昔に解散したミュージシャンよりも、つい最近も新作を出したって言われるほうが興味が湧きますし」

 

 また昨夜の話を思い出して。同級生とは話が合わなくとも、「知らない」とは言われなかっただろうなと思ったので。その理由が継続的な活動にあると考えた八幡は、そのままの気持ちを口にした。

 

「そうだな。好きなミュージシャンが解散するのは、今までに何度も経験したがね。もう新作が出ないという現実を受け入れるには時間が掛かるよ。好きであればあるほどな」

「それって、どうしようもない絶望感とかに浸れるほうが、かえって早く済むんですかね。その、ほんの少しでも復活の可能性が残っているほうが逆にたちが悪いというか」

 

 サザンの歌詞に続けて彼が語っていた言葉を、そのままくり返しながら。好きなミュージシャンの新曲はもう聴けないのだと諦めることと、特別な異性を諦めることと。それらは、驚くほど似通っているなと八幡は思った。

 

 誰かに聞かれたら「そんなの当たり前だろ」と一笑に付されそうな気付きではあるけれども。言葉ではなく実感として、八幡はそう思った。

 どうして実感できたのだろうという疑問は、この時点では思い浮かばなかった。

 

「そうだな。新作が出るのか出ないのかはっきりしないまま悶々と過ごす時間が長くなると、『解散でもいいからさっさと白黒つけろ』となるかもしれないな。かつて好きだった対象を、そんなふうに思えてしまう日が来るというのは、哀しいことだがね」

「でも、バンドは解散してもソロ活動をしたり別のバンドを組んだりで、より良い作品を届けてくれる例もありますし。継続に価値を認める比企谷くんの意見には私も同感です。とはいえ、変化すべき時には変化すべきだとも思うのですが?」

 

 遠い過去を思い出すようにして語る平塚に、雪ノ下が正論をぶつける。らしい発言を耳にして、思わず顔がほころんでしまう。慎重に何でもない表情を作りながら、八幡が口を開いた。

 

「まあ、それもそうだよな。先生ってたしか、椎名林檎も好きでしたよね?」

「ああ。それがどうかしたかね?」

「たしか最初はソロでデビューして、何年かしてからバンドを組んで、また何年か経ってソロに戻ってって感じで活動を続けてますよね。それって、雪ノ下が言った変化を組み込みながら、継続してるってことだよなと」

「なるほど。続けたまえ」

「いや、さっきのでほぼ全部です。強いて言えば……うちの小町がけっこう好きなんですよ、椎名林檎。それって、活動を継続してくれてるから作品を知れて、だから好きになれたんだろうなって」

 

 結論がシスコンなのは相変わらずだが、内容には頷けるものがある。だから平塚と雪ノ下はお互いを見やって、そしてそろって表情をゆるめた。

 

「それにしても、結局くるりの良さを教えてもらえなかった気がするのだけれど?」

「いや、だから俺はあんま詳しくないからね。それこそベスト盤の曲ぐらいしか分からんし」

「それでも、いくつかの曲は身にしみただろう。例えば『ワンダーフォーゲル』とか」

「まあ、そうですね。あれは良い曲だと思いますよ」

 

 それ以上を語る気がなさそうな二人を、少し不満げに眺めながら。雪ノ下は、曲のタイトルをしっかり覚えておこうと思った。

 

 

*****

 

 

 車を降りた場所から信号を北に渡って、そこからまたタクシーに乗り込んで烏丸通をひた走る。東本願寺を左手に、マンガミュージアムをやはり左手に見送って、御所の手前で右折する。丸太町通に戻って来たという気持ち以上に、駅伝中継で見たという意識が先に立って、八幡は少し興奮気味だ。

 

 そのまま鴨川を渡って、駅伝ランナーと同じように東大路通を左に曲がる。すこし北上して、東一条通の交差点で平塚は下車を命じた。横断歩道を渡って、そのまま東へと歩いて行く。

 

「さて、着いたな。ここが正門なのだが。なにか感想はあるかね?」

 

 我が国で二番目に創設され、帝国大学の時代から数えて百年以上の歴史を誇る国立大学。その京大の正門が、八幡と雪ノ下の眼前にあった。

 

 

「えっと、ここが次の巡礼場所なんですかね?」

 

 なんでもないはずの光景なのに、大学の名前という目に見えないものに威圧された気がした。少し深呼吸をくり返してから、八幡がそう問いかけると。

 

「予定にはなかったのだがね。だから巡礼と言うよりは、進路指導のようなものだよ」

「でも、俺は私立文系志望ですし、雪ノ下は……え、まさか?」

「私も、京大を志望校に挙げた記憶はないのですが?」

 

 ふるふると首を左右に振って、雪ノ下も不思議そうに教師を眺めている。

 

「この世界に巻き込まれた頃には、高認という話も出ていたがね。君たちが大学を受験するのは一年以上先になるだろうし、今更それに異存はないはずだ。ここまでは良いかね?」

 

 二人が頷くのを待って、平塚は再び口を開いた。

 

「一年という期間はあんがい短いものだし、早くから志望校を絞り込むのは悪いことではない。むしろ高二の秋なら遅いと言う人も多いだろうな。だが、君たちには安易に進学先を決めて欲しくないのだよ。より踏み込んだ言い方をすれば、可能性を捨てないで欲しいと私は思うよ」

 

 そこまで言い終えると、平塚は二人の背中を順に押して、時計台に向けて歩ませた。

 正門の前で立ち話を続けるのも気が引けるので、八幡も雪ノ下も素直にそれに応じている。

 

「君たちも、東京への一極集中という話は知っているだろう。経済や人口の話として捉えているかもしれないが、教育の分野も例外ではなくてね。大学が独立行政法人となって以来、東大と京大の差は少しずつ開いているらしい。関西の進学校の先生から話を伺ったのだがね。今は東大と京大の差よりも、京大と阪大の差のほうが小さいそうだ。だから、阪大を目指す生徒には『もう少し頑張れば京大に行けるぞ』と勧めていると、そう言っていたよ。阪大が頑張っているという側面もあるだろうにな」

 

 千葉にいるとどうしても首都圏の情報ばかりが多くなるので、関西やその他の地域にある大学のことは名前ぐらいしか知らないと言っても過言ではない。だから、初めて聞く話に興味を惹かれはするのだが。重めの内容でもあり、自分たちとは関係が薄いと思えるだけに、二人は曖昧に頷くだけだった。

 

「それでも京大の歴史を振り返ると、国内はもちろんアジアにおいても随一と言って良いだろうな。ノーベル賞やフィールズ賞などの受賞者数を見ても、それは間違いない。もちろん、今後のことは分からないがね」

「先生の口ぶりからすると、過去の栄光だって言いたいわけじゃなさそうですね」

「むしろ私たちに勧めているようにも思えるのですが」

 

 歩きながら話を聞くだけだった八幡が、教師の意図を探ろうとして口を開くと。雪ノ下もそれに続いた。

 

「ふむ、そう聞こえたかね。私も、迷う気持ちはあるのだがね。選択肢の一つとして考えて欲しいといった辺りが正解かもしれないな。雪ノ下、少し陽乃の話をしても良いかね?」

 

 時計台に入ってすぐのサロンに腰を落ち着けて。雪ノ下の許可を得て、平塚はそのまま話を続けた。

 

 

「陽乃の志望校は東大だった。現役で合格できる実力があると私は思っていたし、当人もその気だったな。もっとも大学への思い入れはさほどなくて、国内で最高峰だからと、そんな程度の理由だったよ。母親の母校に自分も通いたいなどといった殊勝な心がけは皆無でね。陽乃らしい話だよ」

「え、っと。それって要するに、雪ノ下の母親は東大卒ってことですよね?」

 

 雪ノ下と平塚を見比べながら、おっかなびっくり疑問を口にしてみると。表情を消した雪ノ下が口を開いた。

 

「私の両親は同じ高校で、将来を約束する仲だったのだけれど。大学に進学するにあたって、()()()は東大に、父は京大に進んだのよ。父には、祖父が興した会社の規模を全国に広げるという野望があったし、幅広い人脈を築きたいと思っていたから。残念ながら地域ごとのしがらみもあり、人脈も一代では限界があったので、堅実な方向にシフトしたのだけれど。何度もあった不景気を易々と乗り越えてきたことを考えると、父の方針で正しかったと思うわ」

 

「大学院は東大を選んだと、以前に伺ったことがあるよ。ご夫婦そろって東大の修士卒というのが最終学歴だ。比企谷、これをどう思うかね?」

「いや、どう思うも何も。すげえなとしか言いようがないんですけど?」

 

 重い雰囲気を嫌って、八幡が軽い口調で答えたものの。

 

「女性の地位向上が唱えられて久しいが、雪ノ下のご両親の時代にはまだ、高学歴の女性は陰では敬遠されていてね。いや、これは正確ではないな。女性の高学歴化に理解のある人もいたとは思うが、雪ノ下のご両親の周囲には少なかったということだろうな」

 

「父を除いて皆無だったと、幼い頃によく聞かされました。女に学歴で劣るというその鬱屈を、様々な場でぶつけられて。()()()が長年にわたって苦労してきたのは確かなのだけれど」

「陽乃の東大進学に、最後まで同意してもらえなかったのだよ。私もぎりぎりのところまでは踏み込んだつもりだったがね。それ以上は家庭の問題だと、そう言われて己の無力を噛みしめたよ」

 

 だから、あの人は地元の国立大学に進学したのだなと八幡は思った。もちろん悪い大学ではないし、友人に囲まれている姿を一度だけ見たことがあるが(ららぽーとで最初に会った時のことだ)、母親のような苦労とは無縁に思えた。

 

「俺が知ってる範囲だけですけど、陽乃さんは退屈を持て余しているかわりに、母親のような煩わしい目にも遭っていないと、そんな感じですかね」

「結果だけを見れば、母親の方針が正しかったと言えるのかもしれないな。だがね、陽乃にはもっと大きな可能性があったと私は思うのだよ。いくら大学院は海外に行くとはいえ」

 

 またもや意外な情報が飛び出したので、八幡は思わず疑問を口にする。

 

「えっ、と。それって、大丈夫なんですかね。今の時代に合ってるのかって話は置いておくとしても、要は学歴が高くなり過ぎるのが駄目だって言われて、東大進学に反対されたんですよね。なのに海外留学とか」

 

「比企谷。ここが難しいところなのだがね。我が国において学歴とは、大学の学部のことを指すのだよ。そう割り切ってしまえば、陽乃の進路は実に合理的でね。大学の名前は少し落ちるので、余計な嫉妬を集めることもないし。最終学歴は海外の名の通ったところになるだろうから、その価値を知る人には重宝されるだろうな」

 

「だからって、そのために四年間を……」

「その後の長い人生と比べれば短いものだと。それに、四年間を好きに過ごすことと無為に過ごすことは全く違うと、そう言っていたよ。陽乃なら時間を無駄にはしないとね」

 

 世にはいわゆる毒親と呼ばれる人たちが確かに存在していて、それらと対峙するのは厄介なことだろうと推測できるのだが。反論の余地がまるで窺えないほど完璧な、でも歪にしか見えない教育方針を掲げる親のほうがはるかに厄介ではないかと、八幡は思い知らされた気がした。

 

 

「じゃあ、雪ノ下も同じようなことを言われてるのか?」

「いいえ、違うのよ。姉さんとは違って、私は放任状態なの。中学で留学をした時に()()()には見限られたし、私も()()()の言いなりにはならないって、そう決めたから」

 

 さっきからずっと雪ノ下の物言いが気になるのだが、新たに得られた情報を整理するので精一杯でそこまで手が回らない。だから視線で教師に助けを求めると、軽く首を左右に振られた。

 

 意外な反応にかっとなって、すぐに意図を悟って何とか心を静める。助けを拒否されたのではなく、おそらくは雪ノ下の思い込みだという意味で首を振ったのだろう。

 だから、あえて明るい口調で話を繋げる。

 

「じゃあ、どこでも選び放題ってことだよな。いっそ平塚先生のお勧めに従って、ここに来るのも良いかもしれんぞ?」

「そうね。いちおう第一志望は東大にしたのだけれど。いくつか迷っているのは確かね」

 

 その先を尋ねて良いものかと、八幡が躊躇していると。

 今度は教師が助け船を出してくれた。

 

「その迷っている候補先を、比企谷に明かしても大丈夫かね?」

「ここまで話してしまったのだし、仕方がないですね。比企谷くんなら、他言することもないでしょうし」

「ほう。なかなかの高評価じゃないか」

「ええ。だって比企谷くんには話す相手がいませんので」

「なあ。二人して俺をオチに使わないでくれない?」

 

 そう言ったのは口だけで。こんな程度で場の雰囲気が和らぐのなら、いくらでも使ってくれて構わないと八幡は思う。いちおう唇を尖らせて、そのまま二人の様子を窺っていると。

 

「国内で迷っているのは、東大とICUとAIUあたりね」

「ほーん。よく分からんけど、たとえば東大志望だと、学部とかはどうなるんだ?」

「そうね。医学部に進む気はないし、文一でも理一でも一年あれば大丈夫だと思うわ」

 

 平然とそう答える雪ノ下に苦笑していると、教師がフォローしてくれた。

 

「雪ノ下は文系科目も理系科目も穴がないのに加えて、何より英語ができるのが大きいな。高校受験とは違って、大学受験の英語は国語力が求められるという話を、比企谷も聞いたことがあるだろう?」

「単語や文法をただ暗記するだけでは難関校には通じないとか、そんな話ですよね?」

「うむ。そこで一つの疑問が思い浮かばないかね。国語力を確認するために、どうして英語と国語の二科目が必要なのかと」

 

「え、だって入学後に英語が読めないと話にならないから、試験科目に入ってるんですよね?」

「ふむ、もう少し考えを進めてみたまえ」

「英語で国語力が問われて、国語でも……ああ、国語だともっと難しい内容を扱うじゃないですか。それに古文や漢文もありますし」

「なるほど。では、どうして英語では国語ほど難しい内容を扱わないのかね?」

「それは……難しくしすぎると誰も解けないからですかね?」

 

 どうやら、ここまでの返答に満足してくれたらしい。一つ優しく頷いて、そして教師が語り始めた。

 

 

「我が国の教育は、大学受験の時点までは世界でも最高レベルだと言われているそうだ。特に数学など自然科学の分野を、母国語でこれだけ深く学べる国は稀だと、そんな言われ方もされているようだな。だがね比企谷、ほとんどの国々はそれを英語で学んでいるのだよ。確かに日本の高校生が学ぶ内容と比べると、少し劣るのかもしれない。けれども、その差はさほど大きくないし、むしろ我が国が大学受験で課している英文のレベルと比べると、その差のほうが大きいという話だ。これがどういう意味なのか、君なら解るだろう。それが、雪ノ下が進学先を迷う理由でもあるのだよ」

 

 ここまで説明されると、八幡にも教師の意図が理解できたし同意もできた。

 

「なんかさっきの東大と京大と阪大の話を思い出しますね。入試科目の話も、要はあれですよね。例えば日本語で現代文を読ませて、設問を全て英語で答えるって形にできたら話が早いのに、それをしたら阿鼻叫喚の未来しか見えないってことですよね。けど雪ノ下ならそれでも解けるし、海外のトップクラスの連中も、入試の現代文と同じレベルの英文を普通に読めてしまうって話で」

 

「もう一つ。君たちは将来そんな相手と英語で渡り合いながら、仕事をすることになるのだよ。もちろん国内に引き籠もっていられる職種ならその必要はないがね。だが、君たちの資質を思えば、そうした現実を見据えておくべきだろうな」

 

 高評価は嬉しいし、それがこの教師からのものなのだから格別だが、それにしてもちょっとハードルが高すぎる気がする。これでも春先までは専業主夫志望とか言ってた奴なんですけどねと、そんなことを考えていると。

 

「私の世代よりももう少し上の、例えば君たちのご両親の世代だとね。日本に生まれただけでも運が良かったと、そう言えるような国際状況だったわけだ。だが今や、多くのアジアの国々が経済成長を果たして、ライバルは増える一方だ。日本人というだけで優遇される時代は終わってしまったのだよ。これを、どう考えるかね?」

 

「そりゃあ、俺も楽をしたかったなと」

「比企谷らしい答えで何よりだ。だがね、無責任な傍観者の立場からすると、わくわくするのだよ。能力さえあれば、対等な勝負で結果を出せるのだからね。日本人だから贔屓されて、それを自分の実力だと過信できた時代が終わって。まがいものが舞台を去る一方で、実力次第で君たちはどこまでも行けるのだよ。それは、素晴らしいことだと思わないかね?」

 

 わくわくするのは確かだけれども、自分が当事者になるのは正直ちょっと面倒くさい。それでも、偉ぶるだけしか能のないまがいものが姿を消すのは嬉しいし、雪ノ下の行く先は何としてでも見てみたいと思う。同じ傍観者の立場なら、百パーセント同意できるんだけどなと八幡が考えていると。

 

「何だか大げさな話になっているわね。でも本音を言えば、私が目指したいと思っている英語のレベルと、大学入試で問われるレベルが乖離しているのは確かよ。将来の職種は決めかねているのだけれど、海外の人材と競い合うのであれば、私の目標でもまだ低いとすら思えるのよね」

 

 いつもの調子に近くなってきたなと胸をなで下ろす八幡の耳に、教師の声が聞こえてきた。

 

 

「うむ。そこで話が戻るのだがね。君たちは京大の英語の問題を知っているかね?」

「なんか、やたら長いのを読まされるって話ぐらいしか知らないですね」

「比喩や倒置など技巧を凝らした文章が多く、内容も抽象的だと聞きました」

 

「なるほど。雪ノ下が言ったとおり、扱う英文のレベルは国内随一という話だ。ネイティブでも少し腰を据えて読まないと難しいと聞いたことがあるよ。それと、基本的には和訳と英作しか問われない。最近は自由英作文や内容説明も出るようだが、日本語の能力と英語の能力を高いレベルで要求されることは間違いないな」

 

 この説明を頭の中で噛み砕いた八幡は、教師の結論を予測してそれを口に出した。

 

「つまり英語と日本語の両方をみがくことを考えるのなら、京大という選択はありだという意味ですね。突っ込んだ言い方をすれば、英語だけを考えると京大でも物足りないと」

「そうだな。ただね比企谷、そこは京大の責任ではないよ。英文を読んで英語で理解できる生徒はほんの僅かだし、それを適切な日本語に置き換えられる受験生がどれほどいると思うかね。大部分は英文を日本語で理解して、日本語の思考プロセスに従って問題を解くのだよ。だからそれは、仕方のないことだ。雪ノ下がリベラルアーツ系の大学や、海外留学を考えているのはそれが理由だよ」

 

 急に冷や水を浴びせられた気がした。

 

 その可能性は雪ノ下のセリフの端々からも推測していたはずなのに。海外の大学も有り得ると実際に言われてしまうと、やはりインパクトが大きすぎた。

 そんな八幡の内心を知ってか知らずか、教師はそのまま話を続ける。

 

「留学をする場合は、雪ノ下ならSATやTOEFLは問題ないのだろう?」

「そうですね。いくつか過去問を解いてみましたが、概ね大丈夫かと。それ以外のことについては、話が具体的になった時に相談に乗って頂ければと思うのですが」

 

 雪ノ下が話をさっさと終わらせたのが少し気になったが、八幡としてはそれどころではない。混乱が続く中で、今度はこちらに教師の目が向いた。

 

「では比企谷の話をしようか。君が京大を受験するとして、問題になるのは数学だろうな。二次試験でも全ての学部で数学が課されているとのことだ」

「あ、俺やっぱり私立文系で」

「そう言うと思ったよ。この辺りも京大の面白いところでね。二次試験では文系でも数学が、理系でも国語が全学部で課されるのだが、とても良いことだと私は思うよ」

「俺は……数学を、捨てたんですよ」

「急に深刻な顔をしても、しまらないわよ。先ほど平塚先生が『可能性を捨てないで欲しい』と言っていたでしょう?」

 

 これは逃げられない流れだなとあっさり諦めて。根本的な疑問を尋ねることにした。

 

「受験科目の話は後にして、そもそも俺に京大を勧めるのは何でなんですかね?」

「そうだな。君たちは二人とも、どちらかと言えば海外の水が合っていると私は思うよ。ただね、海外の大学では課外活動が盛んで、特に比企谷はその点で不安なのだよ」

「それは確かに、英語がもっとできたとしても俺には無理そうですね」

「それと比べると最近の我が国では、ぼっちへの理解が進んでいるからな。おひとりさま対策が充実している大学もあるし、特に京大は変人が多いからその辺りは特に寛容だ。例えば、外を見てみたまえ」

 

 そう言われて背後を振り返ると、何の変哲もない炬燵がいつの間にかそこにあった。

 

「え、あれってもしかして、韋駄天の?」

「うむ。おそらくあれが、名高い韋駄天コタツだろう。学祭が来週にあると聞いていたのだが、見られてラッキーだったな」

 

 久しぶりに聖地巡礼のノリが戻って来たので、雪ノ下が二人を白い目で眺めているものの。肩の力が抜けた気がして、内心では少し喜んでいたりもする。

 

「今日のところは、候補の一つとして認識して欲しいという程度だがね。ただ、比企谷の場合は数学が問題になるので、志望校にするか否かはさておいて、少しずつ復習を進めてくれると助かるよ。雪ノ下、少し頼まれてはくれないかね?」

「そう、ですね。実は以前から疑問だったのですが、比企谷くんはどうして数学が苦手なのでしょうか?」

「いや、あのな。できる奴はそう言うんだけどな」

 

 雪ノ下の物言いに八幡が呆れていると。

 そうではないとかぶりを振って、話が続いた。

 

「貴方は数学の能力をセンスだと考えているかもしれないのだけれど、数学は論理よ。感情が入り込む余地がないという点からすれば、貴方に合っているとすら思えるのだけれど」

「いや、俺はどちらかといえば暗記が全てみたいな教科のほうが楽なんだわ。数学って覚える公式は少ないけど後は応用みたいな印象でな。解き方を全て覚えてたら労力が掛かるし、だから捨てることにしたんだわ」

「……なるほど。平塚先生、確かに頼まれました」

 

 なぜか八幡の弁明は逆効果になって、そう宣言されてしまうのだった。

 

「さて、では最後の目的地に向かうとするか。そろそろお腹もこなれてきただろう?」

 

 またこの場所に来ることがあるのだろうかと。そんなことを考えながら、八幡は京大の時計台を後にした。

 

 

***

 

 

 東大路通に戻ってタクシーに乗り込んで、三人は再び北に向かう。百万遍の交差点を右折して、白川通で左折して、一行は北大路通の少し手前で車を降りた。そこにあるのは。

 

「天下一品の総本店が俺の目の前に……!」

「うむ、ついに来たな比企谷!」

 

 これは聖地とか関係なしにラーメンで盛り上がっているのだろうなと考えながら。手で軽くお腹を押さえて、雪ノ下が口を開いた。

 

「まだ先程のラーメンが消化し切れていないので、私は遠慮して……」

「まあそう言うな雪ノ下。せっかくだから、取り皿をもらって少し食べたまえ」

「ですね。ここまで来て食べないとか、将来絶対後悔するぞお前?」

 

 酔っ払いに絡まれるとこんな気分になるのだろうかと考えながら。一つため息を吐いて、雪ノ下は二人の後を追って店内に入った。

 

 

「こってりって、これは本当にスープなの?」

「箸が立ちそうだし、びびる気持ちも分かるけどな。でもお前、ここでその反応だとなりたけとか食えねーぞ?」

「そのお店はもっと酷いのね……。私は遠慮しておくわ」

 

 なりたけ同行を断ったことを雪ノ下が将来後悔することになるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

「スープが麺にまとわりついている感じね。旨味という一点だけに限れば、凄いと言わざるを得ないのだけれど」

「ああ、ほんな感じだな。でもま、ラーメンなんてそれで充分じゃね?」

 

 幸せそうに麺を頬張っている八幡の言葉を何度か反芻して。そういうものかと妙に腑に落ちた雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 先程の京都駅にも支店を出しているラーメン屋さんの本店を、来る途中で見たらしくて。次はそこだと張り切る平塚には、さすがの八幡もついて行けない。地味にたこ焼きが効いているので、さすがに限界だ。だから「そろそろ時間が」という言い訳で勘弁してもらった。

 

 タクシーに意気揚々と乗り込む教師を見送って、二人は交差点を渡ってちょうど来た市バスに乗ると、そのまま白川通を南下した。丸太町通のバス停で降りると、ホテルはすぐそこだ。

 

「そういや平塚先生、戸部の依頼のことは何も言わなかったな」

「そうね。おそらく、全てバレているのだと思うわ。良い先生よね」

「まあ、だな。数学の勉強をさせられるのは怠いけどな」

「諦めが早いのは、貴方の美徳だと思うのだけれど」

 

 そんな会話を交わしながら、二人は並んでホテルの中へと入っていく。

 

「んじゃ、また明日な」

「ええ、また明日」

 

 

 部屋までたどり着いて、ようやく雪ノ下はコートを着たままだったことに気が付いた。そしてそれを凝視している同級生たちの視線も。

 

「雪ノ下さんなら大丈夫だって、思ってはいたけどさ。ぜんぜん帰って来ないし一階には誰もいないし、みんなこれでも心配してたんだよ?」

「そう。少し顧問に捕まって、外に連れ出されていたのよ。心配させてごめんなさいね」

「うん、まあそれなら仕方ないか。雪ノ下さんが無事ならそれでいいやって、そんな話になってたもんね」

「私も次からは気を付けるわね」

 

「うーん、それは別にっていうか……。あのね、一緒にいたのって平塚先生だけ?」

「えっ。いえ、その。他の部員もいたのだけれど……」

「さっき窓から外を見てたらさ。一緒に並んで帰ってきたよね」

「なっ。まさか、見てたの?」

「ふっふっふー。なんだか大人な二人って感じでさー。いいなー雪ノ下さん」

「ち、違うのよ。別にやましいことなど何もなくて」

「うんうん、分かってるって。雪ノ下さんが校則違反なんてするわけないって、みんな分かってるから」

 

 これは絶対に分かってないやつだと思いながらも。何を言っても藪蛇になる気がして、それ以上は何も言えない雪ノ下だった。

 

 

 こうして、二日目の夜が静かに更けて行った。




途中で分割することも考えたのですが、一話としてお届けすることにしました。
文章量が多くなってごめんなさい。

また、本話で京大の話を書いたちょうど同じタイミングで、本庶先生がノーベル賞を受賞されました。
私なんぞが言及するのはおこがましいですが、この偶然をとても光栄に思います。

次回は一週間後を考えていますが、週明けになるかもしれません。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
三月のライオン→3月、韋駄天こたつ→コタツ、以上二点を謹んで訂正させて頂きます。
その他、細かな表現を修正しました。(10/9,10/19,12/17)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/19)

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