場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→140p1
以下、前回のあらすじ。
戸部の説得は失敗に終わり、告白は不可避となった。
差し向かいで話をした八幡と葉山は、お互いのわだかまりを捨てて協力し合うと約束した。「失ったものはもとに戻らない」という想いを共有して、二人は「自分にできることはやろう」と決意する。
別空間で戸部に告白させようと企んでいた八幡だが、雪ノ下と由比ヶ浜も同席するとのこと。「誰もいない空間で男子と二人きりは怖い」という女性心理を盾に取られると反論の余地はなかった。
計画を実行する姿を、この二人にだけは見られたくなかったものの。それでも理由を話せば許してくれるだろうと、八幡は甘い予測を立てていた。
小径の奥で戸部たちを待つ間に、二人に追及された八幡は策を打ち明ける。
だが二人の反応は八幡が思っていた以上に苛烈で、そして悲愴なものだった。雪ノ下と由比ヶ浜に告げられた言葉を受け入れて。そして八幡は足音を耳にする。
嘘告白の案は放棄しても、せめて告白の現場に乱入して雰囲気をぶち壊そうと考える八幡の前に、雪ノ下が立ちはだかる。失いたくないものや失わせたくないものを言葉にして説得を図る八幡だが、雪ノ下は頑として動かない。
そうした八幡の気持ちを心の奥で受けとめた由比ヶ浜は、雪ノ下と並ぶようにして立ち塞がると。
決して忘れられない言葉を、八幡に伝えた。
バスを下りると、すぐそこで待っていた戸部翔が近づいてくるのが見えた。先に下りた三浦優美子は、少し離れた場所に葉山隼人と戸塚彩加の姿を認めて。戸部と二人とに視線を行ったり来たりさせながら、すぐ目の前で立ち止まっている。
「優美子は、あの二人と一緒に待ってて」
そう言いながら軽く三浦の背中を押して。海老名姫菜は、今日一日で何度浮かべたか分からない笑顔を顔の表面に貼り付けながら、戸部の横へと移動する。
「あの小径だよね。じゃあ、さっそく行く?」
挨拶の言葉も雑談も特に必要とは思わなかったので、すぐに自分から積極的に誘いかけた。
戸部のメッセージは必要最低限の内容だったので、勘違いをしたふりをして五人での移動を提案しても良かったのだが。
「その前に、せっかくヒキタニくんが招待してくれたからさ。別空間に移動してみるべ?」
先延ばしをするのも疲れるし、貸し切り空間に招待されているのは自分たち二人だけだと判っているので、無駄な行動をしても仕方がない。
「あー、そういう話だったね。近くのカフェのトイレって、あ、あれか。じゃあ優美子たちも、あそこまでは一緒に行ってさ。その後はお店で待っててくれる?」
忘れていたふうを装いながら、呼び出された立場の海老名がなぜか一同の行動を差配していた。
カフェに入る直前に、ほんの微かな力で手を引かれた。
すっかり普段どおりに見える海老名を気遣ってくれたのだろう。三浦がじっと見つめてくるので、「やだ、優美子。こんなところではしたない」とつぶやきながら両手を頬に当てて、照れるふりをして笑いを誘った。
ふっと吹き出した三浦に無言で肩を叩かれたものの。反応も動きも、いつもと比べると精彩を欠いて見えた。
人のいない別空間は、こんな状況でさえ胸が躍りそうになるぐらいに魅力的だった。有名な観光地を貸し切り状態で堪能できるなんて、現実世界ではまず不可能だろう。
せっかくなので戸部に少し待ってもらって、写真を何枚か撮ることにした。創作の参考にできるといいなと思いながら、大胆な構図で目に付いた景色をざっと撮影して。
「うん、お待たせー」
再びいつもの笑顔を貼りつけて、戸部の隣に並んだ。
「海老名さんって写真にも拘りあるんだべ?」
「うーん、どうだろ。写真自体に興味があるってよりは、資料って意識のほうが強いからさ。拘りって感じじゃないかもねー」
そんなふうに会話を適当に積み重ねながら、竹林の小径に足を踏み入れる。
詳しい話は聞いていないものの、この後の戸部の行動は予測が付くので、夕方前と比べるとはるかに気が楽だ。おそらくは道が曲がりくねっている付近で告白されるのだろうし、そのすぐ先にはあの三人が控えているのだろう。
海老名はそう考えて、せっかくなのでライトアップされた竹林を堪能しながらゆっくりと歩いて行くことにした。
目的地が近づいてくるほどに、戸部の口数ははっきりと減って来た。二人の足音だけがやけに大きく響いていて、付近は静寂に包まれている。小径に足を踏み入れた時には風がざざっと竹林を揺らしていたのに、それもいつの間にか途絶えて久しい。
たぶん、そんな環境だから気付けたのだろう。ふと奥のほうから話し声が耳に届いた。内容までは聞き取れないが、何となく切羽詰まった感じが伝わってくる。戸部は自分のことに精一杯で気付いていないみたいだ。
少し様子を見たいと思って、歩く速度を更に緩めてみたものの。
戸部の余裕のなさが、今度は悪いほうに働いた。
海老名との間に距離ができても意に介さず、そのまま目的の場所まで歩みを進めると、地面をざっと踏みしめるようにして立ち止まる。
おもむろにこちらを振り向いて、どんな言葉を口にすればいいのかと考え込むような表情になって。
「あ、あのさ……」
さすがの海老名も両の拳を握りしめて、耳の神経を続く言葉に集中させた。
残念ながら奉仕部の助けは来なかったが、この状況に至った今となってはそのほうが良い。そう頭の片隅で考えていると。
「あのねっ。あたし、ヒッキーのことが好き。ずっと前から、ヒッキーのことが、好きだったの」
突然、懐かしい声が。聞き慣れてすっかり耳になじんだ由比ヶ浜結衣の声が、竹林に大きく響いた。
***
目の前では戸部がぽかんと口を開けて、唐突に始まった予想外の展開に目を白黒させている。
そして海老名は、ぎりっと奥歯を噛みしめて由比ヶ浜の意図を悟った。おそらくは比企谷八幡の案がベースになっているのだろうが、由比ヶ浜らしくもないし八幡らしくもない。
そんな違和感を抱きつつも、無為に時間を費やす気はなかった。
さっきホテルで「見逃さないようにする」と約束したから。
「おーい、結衣ーっ。ごめんねー。今の、私ととべっちも聞いちゃってさー」
口の横に手を当てて、声がちゃんと届くようにとお腹に力を入れて。誰よりも早く由比ヶ浜の言葉に反応した海老名は、とことこと戸部の横を通り過ぎて三人のほうへと近づいていく。
場の空気を読み切って、その上で空気を読まない行動に出る。それでも最終的には周囲に合わせられる器用さがあるから可能な、海老名の得意技だ。
歩きながら背後の気配を窺うと、戸部も着いてきてくれた。少しだけ申し訳ない気持ちになるが、事を丸く収めるためだ。我慢してもらおう。
「ちょうどそこまで来たところで、結衣の告白が始まっちゃったからさー。話が終わってから出ていくのも気まずいし、さっさと自己申告してみたんだけど、やっぱりお邪魔だよねー」
微妙に語尾を伸ばす独特の話し方は、他の面々に口を差し挟む隙を与えない。
まだ話は終わっていないという含みを残しながら、いったん言葉を切って。由比ヶ浜が作った雰囲気をできるだけ壊さないように細心の注意を払いつつ、お邪魔虫だけがさっさと退散できるように話を進めようと考えて。再び海老名は口を開く。
「でもさ。こうやって告白できちゃうって、結衣はすごいね。私には絶対に真似できないなーって思うもんね。まあ……」
ここで再び言葉を切って。最後まで気を抜かず、しっかりと。由比ヶ浜から受け取ったボールを丁寧なパスで返そうと、そう考えて。
その瞬間、海老名にぞくっと悪寒が走る。
だが、開きかけた口は止まらない。
「今は誰かと付き合うとか考えられないから、自分から告るなんてありえないし。誰に告白されても絶対に付き合う気はないんだけどね」
最後まで言い終えはしたものの。言い切った形になったので、海老名以外の面々も発言しやすい雰囲気になった。
でも、それは今は後回しで良い。それよりも。最近どこかで、これと似た場面を見た気がする。そんな既視感が海老名を不安にさせていた。
パスを出す相手を間違えて、そこで試合が終わる。旅行前に話題にした漫画のあの瞬間を思い出すと同時に。
すぐ隣から声が聞こえて来た。
「じゃあさ。俺っち、付き合うとか関係なしに海老名さんのことをもっと知りたいって思ってるんだけどさ。それなら別にいいべ?」
先ほど言葉に迷っていたのが嘘のように、戸部がすらすらと話し始めた。断る理由もないので海老名が唇を噛みしめながら頷くと、たちまち満面の笑みを浮かべてガッツポーズだ。
不思議と、うざいとは思わなかったなと。後に八幡は語っている。
「おっしゃ。じゃあ、お邪魔虫はさっさと退散するっしょ。海老名さんはさ、ここで残って結衣の結果を見届けるべ?」
「えっ。……うん、そうだね」
「ほいじゃ、俺っちは先に帰りまーっす。結衣の話は誰にも言わないから、後で優美子とか隼人くんにも説明して欲しいべ」
そう言い残して、戸部は弾む足取りですたこらと去って行った。「あぶねー」とか「助かったー」という声が聞こえてくるので、思わず脱力していると。
「周囲があれこれと案ずるよりも、産ませてみるべきなのかもしれないわね」
海老名が最初に見た時からずっと、身動き一つしなかった雪ノ下雪乃がそうつぶやいて。おかげで少し余裕ができた。大きく息を吸い込んで。
「はあー。何だかなあって私が言うべきじゃないけどさ。本当に、なんだかなーだよね」
盛大にため息を吐き出してから、誰に言うともなく冴えない言葉をつぶやいてみると。
「戸部くんも、もちろん付き合いたいという気持ちはあったと思うのだけれど。あの様子だと、海老名さんともっと仲良くなりたいという気持ちのほうが強かったのではないかしら。事前にそれが読めていれば、もう少し違った対応ができたのに。告白の舞台を調えた事を筆頭に、海老名さんの心労を増やす形になってしまったわね」
生真面目な反応を頂いてしまった。とはいえ、戸部は「付き合いたい」という気持ちで突っ走っているのだろうと誰もが考えていただけに、雪ノ下に落ち度はないはずだ。
そう考えて軽く首を振って、そして海老名は。
「じゃあ、そろそろ本題に行こっか」
口を挟めない二人のために、話を戻した。戻さざるを得なかった。
***
すぐ目の前には雪ノ下と由比ヶ浜が立ち塞がっていて、少し向こうには海老名もいる。三人の間を突破して来た道を帰るのは、まず無理だろう。それに手荒なことはしたくない。
由比ヶ浜が何を思ってあんなことを言いだしたのか、八幡には解らない。発言の効果はすぐに理解できたし、それは海老名が目に見える形で示してくれた。だが由比ヶ浜の気持ちが、感情が、八幡には理解できなかった。「もしかして、本当に?」とは思っても、それを素直に受け入れられない。
それに、俺がどう答えるにせよ関係は変わる。失ってしまったものは元には戻らない。
そう考えた八幡は、海老名の発言に二人が気を取られた瞬間を狙って後ろを振り向いて。
「なんっ……うげっ!」
小径の奥へと逃げて姿をくらまそうと一目散に走り出した瞬間に、自分の身体が宙を舞っているのに気がついた。少し遅れて背中に鈍い衝撃が走り、地面に叩き付けられたのだと理解する。
「逃がさないと言ったでしょう?」
「げほっ。お前な、さっき聞いたのは『通すわけにはいかない』だったぞ」
「あら、そうだったかしら。でも似たようなものよ」
地面に大の字になって横たわりながら、せめてと思って憎まれ口を叩いてみたものの。雪ノ下に平然と返された。顔は見えないが、涼しい表情を浮かべているのが容易に想像できる。
投げられた瞬間は驚きで何も考えられなかったが、寝転んだまま意識を身体の色んな場所に向けてみると、地面と激突した時に受けた衝撃のわりには痛みを感じない。軽く転ばされて背中を少し打っただけ、という表現が現状にぴったりくる気がした。余分な力は吸収して、うまく投げてくれたのだろう。
「ヒッキー、痛くなかった?」
頭の上から声がしたなと目を動かすと同時に、視界を影が覆った。八幡の頭のすぐ近くで由比ヶ浜がしゃがみ込んでいる。
身体の正面を八幡の足の方角に向けて、逆向きに顔を覗き込まれているのだと理解して。見つめ合うのは恥ずかしいが、かといってこのまま目を上に移動させ続けるとスカートの中を覗いてしまう可能性がある。紳士たる八幡は憮然とした表情で、目を横に向けるしかなかった。
「そろそろ動かないと、置いて行かれちゃうよ?」
そんな不自然な物言いをされて、ようやく由比ヶ浜の意図に気が付いた。先程の発言も今のも、二日目にお化け屋敷で交わした会話が元になっている。あの時のことを思い出しながら話しかけてくれたのだろう。
その推測を裏付けるように、「はい」と言いながら手を差し伸べてくれた。
「まあ、痛くないって言えば嘘になるけどな」
昨日のことなのに、ずいぶんと昔に思えてしまう。自分の発言を思い出しながらそう答えると、身をよじって片方の肘で身体を持ち上げて。由比ヶ浜の手をおずおずと掴んだ。
立ち上がってすぐに手を離して、頷くだけのお礼を伝える。どう言えば良いのか分からなかったからだ。そのまま身体の前面をぽんぽんと手で払っていると、由比ヶ浜の右手には雪ノ下が、左手には海老名が寄り添って、こちらを見ている。
「体育祭では見逃してあげたけれど。今日のこの場から逃げ出すのは、私が許さないわ」
こんな時でも雪ノ下は雪ノ下だなと、そう思うと心の重荷が少し楽になった気がした。諦観が胸に広がりそうになるのを堪えて、由比ヶ浜の顔をしっかりと見据える。
「ちょっと馬鹿っぽいなって俺も思うんだけどな。お前にあそこまで言われても、同情とか憐憫とかで言ってるんじゃないかって、疑いそうになる自分がいたんだわ」
身を乗り出して否定されるかと思ったが、由比ヶ浜はいつも通りの表情のままだ。口を挟む素振りすらみせず、続く言葉を待っている。いや、違う。これはいつも以上に深みと温かみを感じさせる顔つきだなと、八幡は思い直した。
「けど、今な。ここから逃げだそうとして、無様に雪ノ下に投げられて、情けない姿を晒してた時にな。お前に手を差し伸べられて、その。本気で言ってくれてるんだって、やっと理解できた気がしてな」
雪ノ下がいつも通りで、由比ヶ浜がいつも以上なのと比べると、海老名は見るからに弱々しい。口を真一文字に結んで、全てを見届けるのが自分の役目だと言わんばかりの視線を送ってくるものの。その身がまとう存在感は、横に並ぶ二人と比べるとあまりにも脆く感じられた。
「ちょっと捻くれ過ぎかもしれないけどな。昼に通天橋を見に行っただろ。あの時に『すごい』って褒められて、でも正直あんま嬉しくなかったのな。所詮は借り物の能力だし、あと、なんつーか」
少し言葉を切って、どう説明したものかと言葉や例えを模索して。それを待ってくれている三人に内心で頭を下げながら口を開く。
「もしな、スポーツとか勉強とかで結果を出したり、依頼で成果を出したりした時に褒められたら、嬉しいとは思うだろうけどな。でも、それを理由に告白されたら、俺は信じないと思うんだわ。信じないっつーか、悪い方に考えるっつーか。次で結果が出なかったら、すぐに掌を返されるんじゃねって思っちまうのな」
リア充に群がる女子生徒を思い浮かべながら、八幡はここで少し息を吐いた。
流行りのものに熱中して、それがイマイチになったらすぐに次の何かに興味を移す。八幡が欲しかったのは、そうした連中からの称賛ではなくて。そんなインスタントな感情ではなくて。もっと別の、特別な何かだった。
「けど、今の俺は、あれだ。戸部と海老名さんの依頼を解決するために考えてたのは、雪ノ下が嫌うような、由比ヶ浜の気持ちを考えないような最低の策だったし。それをお前らに教えられて、何も手持ちの策がなくなって。だけど由比ヶ浜が、俺の代わりに動いてくれて。俺の案とは違ってちゃんと気持ちを込めた告白をしてくれて。んで、挙げ句の果てには道の真ん中で醜態を晒してな。そんなどん底の状態の俺を、その、す、好きって、言ってくれて」
なぜか、三人の姿がぼやけてしまう。下を向いてきつく目を瞑って、再び顔を上げると三人の顔がよく見えた。
一見すると冷ややかで攻撃的な表情に見えるけれども。これが雪ノ下の平常運転でもあるし、それに強さの裏にさりげない優しさを隠し持っていると八幡は知っている。
一見すると何でも受け入れてくれそうな温和な表情に見えるけれども。由比ヶ浜が優しさの裏に、ダメなものはダメと言える強さを隠し持っていると八幡は知っている。
一見すると好き勝手に振る舞っているように見えるけれども。海老名が友人を思い遣る気持ちは三浦たちにも勝るとも劣らず、それに繊細な側面を隠し持っていると八幡は気付いている。
これほど素敵な女の子に告白されて、これほど素敵な女の子二人に見守られながら。
八幡はゆっくりと返事を告げる。
「お前の気持ちは、理解できた、と思う。それを、すげー嬉しいって思う気持ちも、嘘じゃないと思う。でも、な。俺はお前の気持ちにどう応えたら良いのか、どう応えたいのか、自分のことが解らねーんだわ。あ、別にお前に何か悪い部分があるとかじゃなくてな。原因は全部、俺の中にあるんだわ。まあ要は、自分が自分を一番信じられないっつーか。この世に自分ほど信じられんものがほかにあるかって話でな」
雪ノ下は身じろぎもしない。由比ヶ浜も表情を変えない。海老名だけが納得顔で頷いている。
「だから、せめて一晩でも時間をくれねーかな。今の俺がどれだけ考えても、この場では何も答えが出せないと思う。ぶっちゃけ、一晩では答えが出せないかもしれないけどな。でも、すまん。考える時間を俺に下さい」
そう言って八幡は静かに頭を下げた。地面しか見えなくても、由比ヶ浜がゆっくりと首を縦に動かしているのが容易に想像できてしまう。それを裏付ける声が少し遅れて届いた。
「うん、いいよ。あたしもさ、まさか今日こんなところで告るなんて考えてもなかったからさ。ちょっと時間が欲しいのはヒッキーと同じなんだ。あ、でも。好きって気持ちは嘘じゃないからね」
由比ヶ浜の言葉が終わるのを待ってから苦笑しながら顔を上げて、軽く頷くだけで返した。
今夜はいったいどれほど悩む事になるのか。想像するだけでも疲れてくるが、それは数時間後の自分に任せようと八幡は思う。
「んじゃ、明日の旅行が終わるまでに連絡するな。待ち合わせの場所と時間を送れば良いのかね?」
戸部に偉そうなことを言っていた以上は、これぐらいは自分から提案すべきだろう。告白された当人に確認している辺りは、いささか情けない構図だが。それが一番話が早いし、あまり気にしないようにしようと八幡は思った。
「うん、待ってるね。……ほら、姫菜も『自分のせいで予定外の告白をさせちゃった』って顔をしてないでさ。こんなことがなかったら、ずっと言えなかったかもだし、ね?」
「結衣に悪いなって気持ちもあるしさ。とべっちの事も、見くびってたっていうか。ちゃんと色々と考えて行動してるんじゃんって、まあ自己嫌悪みたいな気持ちが湧き上がってくるんだよねー。それに比べると私なんて、全てを一発で解決できるような文殊の知恵とかないかなーって、気楽な事ばっか考えてたわけでさ」
ちらっと八幡を見やりながら、海老名が言い終えると。無理をしているのは見え見えだったが、由比ヶ浜はそれ以上の言葉は逆効果だと考えたのか、柔らかく笑いながら頷いて。今度は雪ノ下に顔を向けた。
「ゆきのん……」
「由比ヶ浜さん、よく頑張ったわね。ただ、あと一つだけ、貴女が言うべきことが残っていると思うのだけれど。私が代わりに言っても良いのかしら?」
なぜ由比ヶ浜が苦渋の色を浮かべているのか、八幡には理由が分からなかった。
やがて静かに「ありがと」とつぶやいて、そのまま由比ヶ浜が口を開く。
「あのね。さっきヒッキーがさ、どん底状態だって言ってたけどさ。あたしもゆきのんも、情けないなんて思ってないよ。だってヒッキーは、依頼を解決するために色々と考えて、黙って一人でそれを実行しようとしてさ。ヒッキーの案をまねしてみて、ヒッキーの気持ちもなんとなく分かるなって。さっき逃げようとしたのだって、本気で悩んで悩んで、それでもどうにもならないから逃げたんだって、あたしたちには分かるからさ。頑張って頑張って、それでも結果が出なかったとしてもね。あたしは、そんなヒッキーが格好いいって思ってるよ」
まっすぐな想いに真っ向から射抜かれた気がして。八幡は瞬間的に唇を噛みしめて下を向いた。
この上なく嬉しい言葉なのに。二人がそう思ってくれていると知って、踊り出しそうな心境なのに。由比ヶ浜に格好いいって言ってもらえるなんて、夢ですらあり得ないと思っていたのに。由比ヶ浜に伝えた言葉に嘘はないのに。
なのに八幡は、つい先程の由比ヶ浜と似た苦渋の表情を地面に向けている。
なぜなら、一番の大嘘つきは俺だと、それを自覚しているから。
「……これ以上、褒め殺すのは勘弁してくれ」
顔を赤くして俯いて、やっとの思いでそう返した。
この場にいる他の三人の表情を、一つたりとも見逃さなかったのはただ一人。
いつもと変わらぬ表情の雪ノ下だけだった。
*****
女子三人の後ろを八幡が歩くという並びで、竹林の小径を戻った。由比ヶ浜が左右の二人に雑談を振りながら、時どき振り向いて八幡にも話しかけてくれて。見かけ上はいつも通りだ。
大通りに出て人のいないカフェに入り、元の世界に戻った。トイレを出ると、すぐ目の前の席で三浦が待っていた。その左右には葉山と戸塚が座っているのが目に入る。付近に戸部の姿は見えない。
「戸部は『告れなかったけど、海老名さんのことをもっと知りたいって伝えられた』と言ってたけどさ。どういう話になったんだい?」
きっと今頃は、大和と大岡から「このヘタレめ」とぶつぶつ言われているのだろうなと思いながら。葉山が四人に問い掛けると。
「そうね。……由比ヶ浜さん、この三人には事情を伝えておくべきだと思うのだけれど」
「うん、いいよ。ヒッキーは大丈夫?」
「まあ、由比ヶ浜が良いんなら、俺も反対する理由はないけどな」
三人がそう返したものの、一人は無言のままだ。
「海老名が調子悪そうだから、先に連れて帰るし。詳しい話は後で聞くし」
それを見た三浦が異を唱えて、そのまま席から立ち上がった。続けて由比ヶ浜が口を開く。
「じゃあ、さ。あたしも姫菜と離れたくないから、先に三人で帰っても良いかな。その、あたしや姫菜がいないほうが、話しやすいかもだしさ」
「そんなことはないと、由比ヶ浜さんには言っておくわね。でも先に帰るのは良い案ね。貴女も海老名さんも疲れているでしょうし、今夜は早めに休むべきだと思うのだけれど」
こうして三浦たち三人が先に帰ることになり、後には男女四人が残った。
「男子三人と女子一人という組み合わせは、昨日の映画村を思い出すね。あれは姫菜の発案だったけど、今にして思えば色々と考えさせられるな」
「まあ、海老名さんが戸部と別の組になったりな」
「三浦さんだけ葉山くんと同じ組にしたりね」
「戸塚も俺と同じ組だっただろ?」
容赦のない戸塚の言葉にもそつなく反応して、そのまま葉山が苦笑している。
そして雪ノ下は、これだけの情報があれば二組の構成を簡単に把握できたみたいで。
「できれば自分は傍観者でいたいという気持ちと。それから、比企谷くんと由比ヶ浜さんを同じ組にしたいという気持ちもあったのでしょうね」
葉山と戸塚が敢えて触れなかった二組のうちの一つを、明確に口にした。
当の八幡と雪ノ下の表情を見て、残る二人は大まかな事情を察する。
「予想外の展開があったみたいだけど、具体的に教えてもらって良いかな?」
葉山の提案に頷いて。八幡に軽く確認を入れてから、雪ノ下は竹林であった出来事を端的に伝えた。
「なるほど。ここで結衣が動くとは、本人も含めて誰も予想してなかっただろうな」
「でも、その場面で動くのは由比ヶ浜さんらしいなって、ぼくは思うけど」
「そうね。おかげで海老名さんと戸部くんの仲は、今までとさほど変わらない形に落ち着くと思うのだけれど」
三人の視線が無言の一人に集中する。とはいえ、深夜に悩む予定の八幡には返す言葉がない。黙って首を左右に振ると。
「そもそもの話としてね。比企谷は俺に何をさせたかったんだ?」
「ああ、それは……ってお前、なんか呼び方が変じゃね?」
「この四人で話すのなら、あえてヒキタニと呼ばなくてもいいだろ?」
「葉山くんは意図的に使い分けてるんだよね」
文化祭の最終日に伝えた「理由は誰にも言わないで欲しい」という要望こそ守られているものの。戸塚が見せる少し邪険な扱いが何だか新鮮で、葉山は再び苦笑を漏らした。
「なんか戸塚と妙に仲が良いのが腹立つな。あれだ、俺が戸部より先に嘘告白をして、色々と台無しにする予定だったからな。戸部が他の奴らに説明する内容を、一から十まで捏造してもらおうと考えてたんだが。あった事をそのまま言うわけにはいかねーだろ?」
「なるほど。戸部のメッセージを添削したのと同じ形だね。君が文章を作って、俺が補足を入れたみたいにさ」
「まあ、そうだな。ただ、こうなってみると頼む事があんまねーな。現状維持で頼むわってぐらいか?」
「君の返事がどうなるか次第だけどね。結衣も含めて、現状維持で頑張ってみるよ。君の返事次第だけどね」
「大事な事だからって二回も言わなくていいぞ。返事はまあ、一晩じっくり悩んでみるわ」
疲れているような落ち込んでいるような、八幡からそんな気配を感じた戸塚が口を開く。
「八幡が一晩考えて、それでも答えが出なかったらね。由比ヶ浜さんが許してくれるかは分かんないけど、また延期をお願いするって手もあるから。それよりも、連絡しないで逃げるのだけは無しね」
「戸塚くんも最近は言うようになってきたわね。でも、さすがの比企谷くんも今度ばかりは大丈夫だと思うわ」
「まあ、な。逃げはしないって約束しとくわ」
ますます疲労感が出て来た八幡を見て、潮時だなと戸塚は思った。元気付けることさえできない自分の不甲斐なさを悔やみながら。葉山に目配せを送ると、少し済まなそうな表情が返ってきた。
顔を八幡のほうに向けて、そして葉山が話し始める。
「最後にさ、比企谷に聞きたいんだけどな。嘘告白をして、君の心が痛まないとは俺には思えない。なのになぜ、君はそこまでして動こうとしたんだ?」
「夕方の質問と似てるな。あの時は『どうしてそこまで親身に』だっけか。まあ、何だろな。褒められたいとか、その類いの対価を求めてるわけじゃないのは確かだな」
夕方と似ているけれども、あの時は「失わないために」という結論でお互いに納得したはずだ。だから、また別の事を尋ねたいのだろうと考えて。八幡はそのまま言葉を続ける。
「とりあえずの前提として、他にマシなやり方を知らないってのがあるからな。んで、お前が言う『そこまでして』って部分にはちょっと違和感があるんだわ。あんま言いたくはねーけど、もっと酷い事だって、やろうと思えばできるからな。だから俺からすれば逆に、そこまではしてないって感じかね」
「俺からすれば、対価を求めずそこまでやれるのはすごいなと思うけどね。君の中での比較では大した事じゃなくても、他人の行動と比べるとさ。例えば俺は、対価って言うとちょっと違う気がするけど、実益って言うか……戸部と姫菜が付き合って、次は俺と優美子だって雰囲気になるのを避けたかったわけだしね」
なぜか三人がいっせいに息を吐いて、代表して八幡が話し始めた。
「お前な、露悪的な物言いは合ってねーからやめとけ。かえって本音が透けて見えるぞ。潔癖な小中学生ならともかく、高校生になってまで利己的な理由を全て排除してたら、よっぽどの聖人君子でもない限りは身動きができなくなるんじゃね?」
「けどね、やっぱり利己的なだけの理由は褒められるべきじゃないと思うんだよ。例えば陽乃さんとか、雪ノ下さんも時々そうだけどさ。個人の不利益をうまく集団の不利益に繋げてるよね。雪ノ下さんが体調を崩したら文実が動かなくなるから、生徒全員が雪ノ下さんの健康を願うようになる、みたいな感じでさ」
「はあ。それがお前にはできないってか。んなわけねーだろ。お前がうまい具合に女子の人気を集めて対立を起こさせないから、校内が助かってる側面もあるだろが。あとな、俺がよく思い付くようなやり方だと、集団の不利益を自分で引き受ける形だけどな。それでも俺は自分が犠牲になってるとか思わねーし、もしそう思われたら憤慨するわ」
「でもね。八幡はそうでも、周りで見てる人は心配するんじゃないかな。葉山くんも、わざと悪者ぶるような言い方をしてるけどね。海老名さんと同じで葉山くんも、無理に付き合う必要はないんだしさ。自分の行為を違ったふうに受け取られたくないって辺りで、なんだか二人って似てるよね」
八幡と葉山に類似点を見いだす生徒が、ここにも一人。
戸塚に痛いところを突かれてぐうの音も出ない男二人を尻目に、雪ノ下は別の二人に類似点を見いだしていた。
「集団の不利益を引き受けてうまく発散させているという点では、海老名さんも似ていると言えそうね。話を無理やり趣味の話に結びつけて、これ以上は聞きたくないという別の不利益を作り出す事で全てをうやむやにしてしまうのだから。比企谷くんのやり方と似た部分があると、私は思うのだけれど」
「あの人もなんか闇が深そうだからな。いつだっけか、劇の主演を断った時だから二学期の初日かね。話してた時に、陽乃さんとも俺とも方向性は違うけど、変なものを抱えてるなって思ってな。だから、端から見てると似てる部分はあるかもな」
「なるほど。それで、貴方が抱えている黒歴史は一晩で何とかなるのかしら?」
「さあな。布団に入った後の俺に聞いてくれ」
「八幡って、明日も最後まで寝てそうだよね」
「最終日は班ごとの行動だから、時間が来たらちゃんと起きてくれよ」
たしか午前中は扇子やら数珠やら着付けやらの体験をして、それから京都駅に向かう予定だったなと。そんなことを八幡が思い出していると。
「明日は自由時間が少ないから、ちゃんと考えたほうが良いわよ。では、この辺りでお開きにしましょうか」
真顔で忠告をした雪ノ下が、そのまま散会を宣言する。
「じゃあ、バスでホテルに戻ろうか。俺と比企谷と戸塚と雪ノ下さんって、めったにない組み合わせだからさ。一瞬で着くのが少しもったいないね」
「ぼくは時間を掛けてバスに乗ってもいいんだけど、八幡は景色を見飽きてきたって言ってたもんね」
「いや、それは」
八幡が言い訳を口にしようとしたところで、声をかぶせるように雪ノ下が口を開いた。
「申し訳ないのだけれど、私は少し寄りたいところがあるので、ここで。葉山くんと戸塚くんには、色々とフォローをお願いね。比企谷くんは、しっかり頑張りなさい。先にバスに乗ってくれていいわよ」
そう言われて苦笑しながら男三人が立ち上がる。
八幡がバスの窓から最後に見送った瞬間まで。雪ノ下はどこまでも、いつも通りの雪ノ下だった。
***
バスを降りてホテルまでの道をてくてくと歩いて。三人が館内に入ると、ロビーでは意外な生徒が待っていた。
「ちょっとあんたに話があるんだけどさ。疲れてるとは思うけど、付き合ってくれないかな?」
そう言って川崎沙希が八幡の前に立ち塞がった。
できればさっさと布団に入ってしまいたい。そう思えるほど身体は疲れているのに、心はそれを先延ばしにしたがっている。精神的にも疲れているのは確かだが、布団に入って本格的に考え事を始めるのを、少しでも後回しにしたいと思っている。
疲労と、現実逃避と。それらの感情が相まって、疲れ切った表情を浮かべているとは気付かぬまま。心配そうに横顔を見つめている戸塚にさえも気が付けない八幡は、吐く息といっしょに「ん」と一言だけ返して。傍らの二人に話しかける。
「んじゃま、ちょっと行ってくるわ。先に風呂に入って寝ててくれていいからな」
そういえば、ついぞ戸塚と一緒に風呂に入る機会がなかったなと落ち込みながら。それでも意識の切り替えという点では良い方向に作用したのか、八幡の顔に少し生気が戻って来た。
やっぱり八幡には気分転換が必要だなと。川崎と話す事で少しでも疲れが取れたらいいなと。そんなふうに戸塚が考えていたとはつゆ知らず。
八幡は川崎と連れ立って、再びホテルの外へと出て行った。
***
いつものように大通りを南に渡って西向きの市バスに乗り込んだ。川崎は八幡と同様にぼっち気質なので道中はほとんど会話がなかったが、それを嫌とは思わなかった。むしろ無言の空間が心地よかったほどだ。
東大路通で左に曲がり、バスは南へと進路を変えた。見慣れない光景をちらちらと眺めながら、口を開く気配のない川崎を盗み見てみると。
「三条で下りるから、詳しい話はその後でさ」
「ん、了解」
いつ来るか分からないから身構え続けるのも楽じゃないと、そう言っていたのは葉山だったか。今後の行動が分かると分からないとでは、たしかに大違いだなと八幡は思った。
東山三条でバスを降りて、そのまま同じ方角へと歩く。信号で通りの西側に渡って、なおも南を目指してぶらぶら歩き続けていると、不意に川崎が立ち止まった。
すぐ右手にある建物はお店のようで、看板には「布包」と一文字で書いてある。革ではなく布で作った鞄という意味なのだろうか。
「このお店を、あんたに見てもらいたくてね」
話が読めないなと思いながら、八幡は川崎の後を追ってお店の中へと入った。先程の予想は正解だったみたいで、多くのかばんが展示されている。財布やペンケース、小さなトレイなど収納用の小物もあった。
「まだ小さかった頃にさ。ここの手提げかばんを母親が使ってたんだけど、見た瞬間にあたしもどうしても欲しくなっちゃってさ。珍しくさんざん駄々をこねて、もう少し大きくなったら新しいのを買ってもらうって約束して。ぴかぴかの新品を実際に見た時には、涙が出るほど嬉しかったんだ。だから、ここに来るのをずっと楽しみにしてた」
ざっと店内を一回りして、そのまま川崎に促されて外に出た。
こんなに短時間で済ませて良かったのかと言おうとして、きっと昼間にじっくり堪能したのだろうなと思い至ったので口は開かなかった。
二人とも無言のまま、再び大通りを南に向けて歩いて行くと、知恩院前の交差点に出た。そこで信号を待っていると、川崎が再び口を開いた。
「ちょっと、あんまり楽しい話じゃないんだけどさ。さっきの帆布屋さん、親父さんが亡くなってから相続で少し揉めてたみたいでね。兄弟で色々あって、それでも営業を続けてくれてるのが、あたしはすごく嬉しくてさ」
そこでちょうど信号が変わったので道路を東に渡って。そのまま華頂道を少し歩いて、橋の手前で立ち止まった。話が微妙なところで切れたので、八幡も続きが気になっていた。
「ホテルに帰ってきた海老名と由比ヶ浜から、だいたいの話は聞いたよ。でさ、あたしがこんなことを言うのは変かもしれないけどね。由比ヶ浜の告白にあんたがどう返事するかは、好きにしたらいいさ。でも、さっきの帆布屋さんと同じでね。あんたたちの関係には口を挟まないけど、奉仕部の活動だけは続けて欲しいなって」
「あいつらは……どんな感じだった?」
川の上流を眺めながら八幡がそう尋ねると、川崎はふっと笑みを浮かべて。
「そういうところがさ、あんたは奉仕部が似合ってるなって思うよ。二人のことは心配しなくても大丈夫。三浦も含めたあの三人なら、大抵のことは何とかなるよ。あたしが邪魔しちゃいけないからって言ったら、怒られそうだけどさ。三人だけにしてあげたくて、部屋を出て来たんだ。あんたと話がしたかったのも確かだけどね」
そう言って東の空を眺めている川崎は、どきっとするほど美しく、そして儚く見えた。
俺なんかより川崎のほうがずっと奉仕部に相応しいのではないかと。ここまで他人を思い遣れるなんて俺には無理だなと思いながら。心の裡にある邪な何かから目を逸らして、八幡は口を開く。
「なんか、色々ありがとな。一人でもぼっちとして生きていけるって、そんなことを考えてた去年の自分がな。最近ちょっと情けなくなってくるわ」
「あたしも集団の中で過ごすのは苦手だから、気持ちは分かるけどさ。あんたは『一人でも』って言ったけど、小町がずっと傍にいてくれたよね。あたしにも家族がいてくれてさ。でも、そこにあるのが当たり前の事って、普段は気付けないんだよね。両親と下の二人とは、この世界に来てからは会えなくなって。失って初めて気が付いたんだ。あたしは恵まれてたんだなって」
そう言うと川崎は、川上のほうを指差して歩き始めた。
橋を渡らずに左に折れて、川崎と並んで川沿いを進む。車が一台通るのがやっとという程度の小さな道だ。右手前方に橋が架かっているのを見て、これが白川の一本橋かと納得していると。
「奉仕部は、なくならないよね?」
歩きながらぼそっと川崎に尋ねられた。
「今のところ、なくなる理由はないな」
そんな返事しかできない自分がもどかしかったが、でも無責任に断言するよりはマシだ。
八幡のそんな想いとは裏腹に、すぐさま川崎はぱあっと嬉しそうな表情を浮かべた。珍しい反応に、見ていられないと視線を逸らして。でも八幡には何も言えない。
しばらく無言で歩いていると、大きな通りに出た。三条通だ。堺町通でも河原町通でも出くわしたこの通りを渡って、すぐ左手の小さな道を北上する。つきあたりで右に曲がると、すぐに川と再会した。左に曲がって再び川沿いの道を進む。
「あんたは何があっても、奉仕部を辞めちゃ駄目だよ。六月は何とかなったけどさ、今度は由比ヶ浜も、それから雪ノ下も、どこまで動けるか分かんないからね。自分から辞めるようなことだけは、避けて欲しいなって」
「なあ。なんでお前は、そこまで親身になれるんだ?」
葉山に問われた言葉を思い出しながら、そう問い掛けた。こんな厚情を受けるほど自分は大した人間ではないのにと。そんな想いが八幡の口を開かせただけだったのだが。
「なんでって……あ、この道も終わりだね」
ここまでずっと連れ添ってきた川が、視線の先で疎水に合流するのが見えた。道路の向こうの建物は国立近代美術館だろう。そのすぐ右手には大きな鳥居がそびえている。
「この先が平安神宮だね。前にテレビで、ここで結婚式を挙げてるのを見たんだけどさ。白無垢姿で幸せそうで、いいなって思ってさ」
「……お前なら、同じぐらい幸せになれるだろ。こんだけ人の事を思い遣れて、あんだけ大志とかに、家族愛って言うのかね。あれだけ家族を大切に思えるお前が幸せになれないなら、誰が幸せになれるんだっつーの」
寂しそうに微かに笑って、川崎は信号を北に渡ると大鳥居の下まで歩いた。そこで静かに立ち止まる。
「あのさ。あたしは今まで、わがままなんてほとんど言った事がなくてさ。さっき話したかばんぐらいかな、駄々をこねたのって。……だから、ちょっとぐらいは、人を困らせるような事を言っても良いかな?」
「んんっ、と。まあ、別にそれぐらいは良いんじゃね?」
「人を困らせるだけじゃなくて、人に迷惑を掛けちゃうかもしれないよ?」
「まあ、聞いてみないと分からんけどな。お前がそこまで言うならよっぽどの事だろうし、なら言ってみても良いんじゃねって俺は思うけどな」
八幡の言葉に「そっか。ありがと」と小声で返して。
川崎は、まるで家族を見るような温かい目を八幡に向けると、静かに口を開いた。
「あたしね、あんたのことが好きみたい」
***
思いがけない言葉を耳にして、それでも八幡の心は躍らなかった。意外感だけが頭の中を占めている。
そんな八幡の反応を、予想通りだと歯牙にもかけず。川崎はゆっくりと言葉を続けた。
「文化祭の時にさ、あんたが『愛してる』って言ってくれたよね。言葉の綾だって分かってるのに、気持ちが落ち着いてくれなくてさ。あんたに言うつもりはなくて、こっそり気持ちを押し殺そうって思ってたのにさ。由比ヶ浜には申し訳ないんだけど、今このタイミングで言わないでいつ言うんだって思っちゃったから。何だかごめんね」
「いや、お前が謝ることはねーだろ。その、なんだ。好きだって気持ちを伝えられるのは、嬉しいもんだぞ。返事をしないといけないから、色々と考えちまうんだけどな。でも、気持ちそのものはな、本当に嬉しいもんだぞ」
一日目の朝に駅長さんに告げた言葉を思い出しながら。そう答えた八幡の目は潤んでいた。どうして自分がと、そんなことを考えていると。
「それでもさ。言っちゃったからには返事を聞かないわけにはいかないからさ。だから、ごめん。返事は分かってるんだけど、ちゃんと言葉で伝えてくれるかな?」
「……すまん。お前をそういう目で見た事はなかったし。たぶん、そういう事にはならないと思う」
外聞を考えなくても済むのなら、思いっきり号泣したいのに。でも、断った立場の八幡に、そんな事ができるわけもない。
どうして、こんな素敵な女の子を。俺なんかを好きだって言ってくれた女の子を、哀しませるような言葉を伝えないといけないのか。
悶々と落ち着かない八幡とは違って、川崎の目は温かさを増していた。頬には笑みすら浮かべて、そしてゆっくりと口を開く。
「ほら、あんたが泣いてどうするんだい。おかげであたしは、涙なんて一粒も出て来ないよ。あたしの為に泣いてくれて、ちゃんと返事をしてくれて。そんなあんたのことが、あたしは好きだったよ」
そこまで言い終えると、川崎はゆっくりと歩き出した。
反射的に後を追うと、特別な相手にしか向けないような笑顔を見せてくれる。鳥居を指差して、自分たち二人に交互に指を向けて。「二人並んで、この鳥居の下を歩くのが夢だったんだ」と言われて、また涙がこぼれてしまう。
府立図書館を左手に、市立美術館を右手に通り過ぎて、二条通に至った。通りの向こうには石碑があって「平安神宮」と書かれている。ずっと向こうには應天門が見えた。
「悪いけど、ここで解散で良いかな。東に向いて、次の信号が岡崎通でさ。そこを北に行くと、じきに丸太町通に出るから。そこからホテルまではすぐだしさ。できたら先に帰らせて欲しいんだけど」
「ああ、大丈夫だ。……なあ、川崎。ほんとに、俺なんかを、ありがとな」
最後のほうは涙で声がかすれて、自分でも何を言っているのか良く分からなかった。でも、川崎に伝わったのならそれで良い。
ぼやけた視界の向こうで、川崎はしっかり微笑んでくれて。そしてこう言ってくれた。
「あたしが好きになった男なんだからさ。堂々と、あんたの思うとおりにしたら良いよ」
川崎の姿が見えなくなって、どれほどの時間が経ったのだろうか。
二条通の石碑の前に突っ立っていた八幡のもとに、一通のメッセージが届いた。
次回はできれば今週末に、無理なら来週に更新する予定です。
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追記。
細かな表現を修正しました。(12/17)