俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp
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祝、13巻発売。

本話は文字数が多いので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→143p1

以下、前回のあらすじ。

 修学旅行は最終日を迎え、八幡は京都駅で海老名と話をすることになった。他の生徒の目を避けるために、二人は貸し切り空間に移動する。

 別空間に移動する直前の海老名を目撃して、雪ノ下は昨夜来の悩みごとを振り返る。恋愛の何たるかも、自分がどうしたいのかも分からないまま、結果を受け入れるしかない現状を確認して。それでもNPCや恩師の言葉をよすがに、雪ノ下は気持ちを切り替えて前を向いた。

 京都駅の扉をねぎらったり、メンタルケア担当の妖精と喋りながら、八幡は海老名との会話を進めていった。由比ヶ浜のこと、こんな展開を望んでいなかったという想い、海老名が抱えている深い闇。それらを共有しながら、二人はお互いをより深く理解していく。

 ぼっちとBLという宿痾を抱えた者どうし、解り合えることはたくさんあった。周囲への愚痴を言い合って、二人は自分の中に溜め込んでいたものを吐き出して気持ちを軽くする。ただ、お互いにとって特別な異性とはなり得ないなと八幡は思った。

 別れ際に海老名は、想いの強さよりも我慢が勝る自分の性格を伝えた。八幡も同じだと確認して、一足先に元の世界へと戻る。

 それを見送った八幡は別空間を後にして、二人に宛ててメッセージを送った。



16.きもちを確かめ合って、彼と彼女は次へと進む。

 新幹線が動き始めてしばらくしてから(たぶん滋賀と岐阜の間ぐらいだ)、まずは直接の当事者からメッセージが届いた。

 

 わずか数文字の「うん、わかった」という返事に、どれほどの想いが込められているのだろうか。比企谷八幡はその心情を思って少し瞑目して、そして傍らに目を向けた。

 

「バスでもよく寝てたけど、寝る子は育つってやつかね」

 

 可愛らしい寝顔をカメラに保存したり、瑞々しいほっぺを指先で触れたいと思いながらも、八幡はぐっとこらえた。

 

 戸塚彩加にはこの旅行中にもずいぶんと助けてもらった。直接の手助けができる場合はもちろんのこと、自分の手に余ると思えば躊躇なく材木座義輝に連絡してくれて。

 

 昨夜は考え事をしていたので寝るのが遅くなったのだが。時間は短いとはいえ熟睡できたのは、戸塚と材木座のおかげと言っても過言ではない。だからゆっくり寝かせてあげようと八幡は思った。

 

「それよりも、っと。どんな返事が返ってくるのやら」

 

 漠然とした予感を抱きながらも、それを深く考えないようにして。八幡はリクライニングに背中を預けて、解散後のやり取りに備えて身体と頭を休めようと試みる。

 

 それでも気が付けば、時間を頻繁に確認している自分がいた。被害妄想じみた思考が頭をもたげるのを、何とか抑えつけながら。八幡は可能な限り頭を空っぽにして、疲れを癒やそうと考える。そして無意識に時計を確認して、また正気に戻る。その繰り返しだった。

 

 

 メッセージが届いたのは、名古屋を出てしばらくしてから。そろそろ富士山が見えるかなと、思い始めた矢先のことだった。

 

『会長選挙のことが気になるので、解散後に高校に顔を出そうと考えています。それに加えて別件で用事が入っているので、そちらには行けません。私が同席する必要はないと思うのですが、由比ヶ浜さんへ。良かったら後日、詳しい話を教えて下さい』

 

 肩の力が抜けると同時に、自分が想い悩んでいたことが馬鹿らしくなってきた。

 

 考えてみれば、あの部長様はご多忙な身なのだ。以前にはあった他人を寄せ付けない雰囲気は影を潜め、頼りがいのある姿を何度も衆人の前に晒している。こちらの相手ばかりをしていられる身分ではないのだ。

 

 不参加の理由が明確なのを見て、落胆と安堵の息を漏らした八幡は。どうしてわざわざ詳細に理由を伝えてきたのかと、そんな当たり前の疑問に思い至らなかった。

 

 

***

 

 

 品川の手前でふと目覚めた。すぐ隣には相変わらず可愛らしい寝顔がある。あれからすぐに寝落ちしたんだなと考えながら。体力の回復を実感して、これなら大丈夫かなと八幡は思った。

 

「んじゃま、お疲れ」

 

 東京駅に着いて教師のお言葉を聞き流して。解散となった後は、戸塚を始めとした同じ班の連中と一言二言のやり取りを交わして。このまま千葉に戻るという一同を見送って、駅ナカへと足を向ける。適当にぶらっと歩きながら、八幡は別れ際の光景を思い出していた。

 

 

 見送った中には女子のトップカーストの面々も含まれていたのだが、男子と一緒に帰るのは三浦優美子だけだった。その三浦は、名残を惜しんで群がる女子生徒たちに端的な、しかし親密さを感じさせる別れの言葉を伝えてから、さっさと在来線のホームに移動した。

 

 葉山隼人の周囲には、珍しいことに他の生徒の姿がほとんどなかった。遠目から軽く手を挙げて別れを告げられる光景は多く見たが、近くまで来たのは大和と大岡ぐらいだ。その二人も、どちらかといえば葉山よりも戸部翔と話している時間のほうが長かったように思う。

 

 地主神社で聞いた「俺が優美子と一緒にいるほうが、あいつらも気が楽みたいでさ」というセリフを思い出して。名状しがたい想いが湧き上がりそうになるのを堪えて一つ息を吐くと、八幡は頭を切り換えた。

 

 三浦以外の女子三人も、それぞれ別の女子生徒たちに取り囲まれていた。楽しかった修学旅行を、せめて一言でもトップカーストと会話を交わすことで締めくくりたいと考えて群がっているのだろう。

 

 そんな生徒たちに、一人は楽しそうに、一人は自由気ままに、一人は戸惑いながらも、三人はいずれも丁寧に応対していた。誰が相手でも何人いようとも決して疎かにはしない。あのぶんでは、解放されるまでもうしばらく時間が掛かりそうだ。

 

「早めに切り上げるとか、そんな気の使われ方は嫌だからな」

 

 目の動きだけで駅ナカを示して、首を軽く横に振って「急がなくて良い」という気持ちを伝えて。よく見ないと判らないぐらいの動きだったが、話が落ち着いたタイミングでこちらにちらっと視線を向けて軽く頷かれたので、意図は伝わっているはずだ。

 

 変に謝られるような表情じゃなくて良かったと八幡は思った。解散と同時に自由に行動できるのはぼっちだけの特権で、普通はあんなふうに時間が掛かるのだと、それに気づけなかったのは自分のせいなのだから。

 

 続けて、もしもの話に思考が向きそうになったので、それを無理やり遮って。心を落ち着けて頭を無にして、八幡はしばし駅構内を徘徊した。

 

 

『もうすぐ動けると思うけど、みんなけっこう残ってるよね。どうしよっか?』

 

 このまま帰りたくないという気持ちが強いのか、駅構内には同じ制服の連中をちらほら見かける。それに待ち合わせに指定したのは丸の内中央口だが、よくよく考えればすぐ横の階段からは地下にある総武線のホームに移動できる。つまり人目に付きやすい場所だ。

 

 昨日から今日にかけて使い過ぎという気もするのだが。仕方がないので八幡はまたも裏技に頼ることにして。

 

『別空間に行っても良いなら、同じ場所で。ただ、俺と二人きりでも大丈夫か?』

『え、ぜんぜん大丈夫だよ。じゃあ、あっちの丸の内中央口だね』

 

 男子と二人きりだと怖いという話を思い出して気を使ってみたものの、またもや平然と返されたので。八幡は苦笑を浮かべながら能力を発動して、別空間への招待状を送付した。

 

 そのまま丸の内中央口に足を運んで、近くにあったトイレから貸し切り空間に移動する。

 誰もいない改札口の前で立ち止まって。ようやく八幡は、一連のメッセージにいっさい絵文字がなかったことに気が付いた。

 

 

***

 

 

 女子生徒たちの集団に手を振って、地下へと下りる階段の前で見送り終えると。海老名姫菜はすぐ横の二人を順に見やって、一つ頷いてから歩き始めた。三人とも喋りどおしだったので、無言で意図が伝わるとほっとする。

 

 途中のトイレで一人を見送って、そのまま二人並んで丸の内北口まで歩いて行くと。そこには、雪ノ下雪乃の姿があった。

 

「はろはろー。お待たせしちゃったかな?」

「いいえ、私もつい今しがた着いたところよ。海老名さんも川崎さんも大勢に囲まれていたように見えたのだけれど、大丈夫だったかしら?」

 

 二年J組の女子生徒に囲まれながら、わざと改札口の場所を話題に出してルートを何度も確認したので、今回はさほど迷わずに辿り着けた。つい先ほど着いたばかりなのは同級生と話が弾んだのが原因であって、他に特別な理由は何もない。そう、何もないのだ。

 

「サキサキは慣れてないからか疲れちゃったみたいだけど、私は大丈夫だよー。でもさ、ここで話すのもなんだし、どうしよっか?」

 

 

 この集まりの発端は、新幹線の中で海老名が送ったメッセージにあった。

 

『できれば奉仕部の一人一人に謝りたくてさ。結衣とヒキタニくんとは話を済ませたんだけど、解散後に少しでいいから時間を取ってもらえないかな?』

 

 それと相前後して、川崎沙希もこんなメッセージを送っていた。

 

『あんたに話しておきたいことがあるんだけどさ。東京駅から帰る前に、ちょっとの時間でいいから話ができないかな?』

 

 三通のメッセージを受け取った雪ノ下は、軽く額に手を当てて。感情ではなく理性によって結論を下した。自分に参加資格があるとは思えないお誘いに対して、まずは最初に断りを入れて。次に二人に宛てて返事を送る。

 

『貴女たち二人に断りなく、返信をまとめる形になってごめんなさい。二人とも私と話をしたいとの事で、その内容は判らないのだけれど原因は同じだと思ったので。三人で話しても大丈夫なら、解散後に丸の内北口にて。別々が良ければ、同じ場所で待ち合わせて順番に話す形で。他に希望があれば教えて下さい』

 

 海老名にも川崎にも否やはなかったので、こうして珍しい三人の会合が実現したのだった。

 

 

「私に一つ案があるのだけれど。海老名さんと川崎さんは、話をNPCに聞かれても大丈夫かしら?」

「うーんと。他の生徒に聞かれるのは避けたいけど、NPCなら私は平気かな。サキサキは?」

「さっきから黙って聞いてたけどさ、あんたサキサキ言い過ぎ。でさ、あたしも大丈夫だよ。どこか当てでもあるのかい?」

 

 二人の仲が深まっているのが伝わってきたので、少しだけ目を細めて。

 

「現実の世界で駅長室に入ったことがあるのだけれど。そこを差し押さえ……ごほん場所を提供させれば、ゆっくりと話ができると思うのよ」

「あんた、言い直しても意味があんまり変わってないの解ってるよね?」

 

 川崎が呆れ顔で指摘するが、言った方にも言われた方にも険悪な雰囲気は微塵もない。二人のやり取りを傍らで観察していた海老名は。

 

「いいじゃんサキサキ。言葉を曖昧にしない雪ノ下さんは、私はアリだと思うなー。じゅるっ。ついでにTSして燕尾服でも着たら格好良さが際立つだろうし。一緒にTSした後輩のあの娘とかをエスコートしてダンスを踊ってくれたらもう最高じゃん!」

 

 言葉の意味を追及すべきではないと判断した二人はそっと目配せを交わして。海老名が少しずつ普段の調子を取り戻していることを喜びつつも、反応に困る場面が増えそうだなと、そんな感情を共有した。

 

 そして雪ノ下の指示を聞いた川崎が先導する形で、三人は駅長室へと向かうのだった。

 

 

***

 

 

 三人を出迎えてくれたNPCの駅長に向けて、雪ノ下は己の立場を伝えた。

 

 父の会社が東京駅の改修工事に参加した関係で、かつてこの部屋に招待してもらったこと。その際に当時の駅長から「友達を連れていつでも遊びに来て良い」と言質を取ったこと。他の生徒には聞かれたくない話をしたくて、ふとこの場所を思い出したこと。

 

 現実世界での約束はここでも通用するのかと尋ねる雪ノ下に、駅長は鷹揚に頷くことで返事に代えた。

 

 

 雪ノ下の言葉に嘘はないのだろうが、よくこんな無茶を通すよなと呆れる川崎の目には、駅長さんが少しびびっているように見えた。初老の紳士を前にして怪しい笑顔で何やら考え込んでいる海老名の存在も、おそらくは影響しているのだろう。

 

 自分だけが普通の感覚を持っていると思いたいが、周囲が異常だらけだと自分が間違っているのではないかと思ってしまう。首を軽く振って、そうした気持ちを払いのけて。三人が横並びで座っているソファから身を乗り出すようにして、川崎は雪ノ下に話しかけた。

 

 

「あんまり長い時間お邪魔するのも悪いからさ。あたしの話を先にするね」

 

 そう言うと右隣の海老名がソファに深く腰掛けてくれたので、その先に座る雪ノ下とも話がしやすくなった。楽な姿勢に座り直して、川崎は昨夜の出来事を語る。八幡に想いを伝えて、断られたという話を。

 

「由比ヶ浜には昨日のうちに謝ったんだけどね。あんたにも直接話しておきたいって思ってさ」

「そう。でも……私は何と答えれば良いのかしら?」

 

 冗談めかした喋り方をしたものの、それは紛れもなく本心だった。こんな時にどう反応すれば良いのか、雪ノ下には解らないのだ。

 

「えーっと。普通は順番が逆だと思うんだけど、雪ノ下さんには先にこう訊いたほうが早いかな。要するに、恋愛感情はないって考えてるんだよね?」

「……ええ、そうね」

 

 二人の会話を聞いた川崎は一瞬だけ意外そうな表情を浮かべて、すぐに納得顔になった。

 雪ノ下は、どうして返事が一拍遅れたのかと自分の反応を訝しがっている。

 そして海老名は、そんな二人に向かって頷きながら。

 

「じゃあさ。私が比企谷くんを取っちゃっても、問題ないってことだよね?」

「それは……いえ。由比ヶ浜さんの気持ちを知っていながら、貴女にそんなことができるとは思えないのだけれど」

「そうだね。あたしも雪ノ下に賛成かな」

 

 海老名が呼び方を変えたことが逆に引っかかって、雪ノ下はすぐに平静を取り戻した。

 奇襲が失敗した海老名は、特に気落ちした様子もなく平然としている。

 そして川崎は、いったん言葉を切ったものの。すぐに再び口を開いた。

 

「でもさ。海老名があいつに惹かれるのは、何となく分かる気がするよ」

「そうね。私も川崎さんに賛成ね」

「予想外に二人の連携がバッチリなんだけどさ。これって墓穴を掘っちゃった形?」

 

 こちらから見て右手側、お互いが垂直の位置になるように並べられたソファに腰掛けたまま、居心地悪そうにしている駅長さんにちらりと視線を送って。瞬時に気持ちを落ち着けて、海老名はそう返した。

 

「海老名さんなら、墓穴と見せかけて別の落とし穴を用意していても不思議ではないと思うのだけれど?」

「ああ、確かにそれは有り得るね。でもさ、この三人で化かし合いをしても仕方がないし。話が早く済むなら、あたしはそのほうが助かるんだけど?」

「はい、こうさーん。私の気持ちがどこまでなのかは秘密だけどさ。興味があるのは確かかな」

 

 両手を開いて軽く持ち上げながら、この件に関しては反論する気はないと伝えると。頷いている二人をちらちらと確認して、海老名はそのまま言葉を続けた。

 

「それよりさ、サキサキも雪ノ下さんも容赦ないよねー」

「あら。私は褒めたつもりだったのだけれど」

「あたしは経験則かな。その、イヤって意味じゃないんだけどさ……」

 

 同じクラスで付き合いを重ねている川崎が、少し怯んだのを見て。いい育ち方をしてるなぁと思いながらも容赦はしない。わざと足先をぶらぶらさせて、のんびりとした口調で。

 

 

「サキサキはさ。気持ちを思わず伝えたくなるぐらい、本気だったんだよね?」

「うっ……まあ、そうだね。でもさ、あの瞬間まではそこまでとは思ってなくてさ。ましてや告白なんて、考えたこともなかったのにね」

 

 川崎の言葉を聞いて、雪ノ下は難しそうな表情で考え込んでいる。

 一方の海老名は、京都駅での最後のやり取りを思い出していた。

 

「気持ちが抑えられなくて、衝動的に言っちゃったってこと?」

「うん……いや、ちょっと違うかな。その、気持ちが抑えられなかったのは確かだけどさ。好きだって言ったのは、衝動なんかじゃなくてね。今この瞬間の気持ちをきちんと伝えようって、ちゃんと伝えたいなって思ったから、口に出したっていうかさ。うまく説明しにくいんだけど、その辺りの違いって分かるかな?」

 

 反射的に頷きはしたものの、海老名は敢えて何も言わなかった。

 話を聞きながら時おり頷いていた雪ノ下は、首の動きを止めて少し考えた後に口を開く。

 

「川崎さんの中にしっかりとした感情があって、それを自覚したので意識して口に出したと、そんな感じかしら?」

「ああ、そんな感じだね。あたしもあの時はさ、言わないほうが良いんじゃないかって短い時間でものすごく悩んだんだよね。今まで生きてきて、一番頭を使ったかもしれないぐらいにさ。だから海老名に悪気がないのは分かるんだけど、衝動で言っちゃったって言われると、ちょっと違うかなって」

 

 言い終えて海老名を見ると、眼鏡がきらんと光った気がした。いや、光っているのは眼鏡の奥の両目だろうか。

 

 普段は感情の動きが分かりにくいのに、今だけは気持ちがそのまま伝わって来る。

 自分の言葉を聞いて喜んでくれている。

 昨夜の行動を認めてくれている。

 そんなふうに感じられた。

 

「私の個人的な好みの問題かもしれないけどね。ぽっと出の感情とか衝動なんかに突き動かされて行動するよりさ。その衝動を表に出すか出さないか、そこに明確な意思が込められているほうが絶対にいいって思うんだよねー」

 

 うんうんと頷きながら自分の価値基準を披露した海老名は、その言葉以上に表情で、川崎の行動をはっきりと肯定する。

 だがその横で雪ノ下は、再び難しい顔になっていた。

 

 

「なるほど。生命衝動に由来する盲目的な意思を否定*1する点では、ペシミズム*2にも通じるものがあるわね。ただ……私には貴女の趣味が理解できないのだけれど、そうした衝動を大事にして欲しいとも思うのよ。少なくとも、解脱とかニヒリズム*3とか、そうした方向には行って欲しくないわね」

 

 もしも部員の二人がここにいれば、雪ノ下が誰を想定して話しているのか瞬時に理解できただろう。もしも顧問がいれば、文化祭直前の話し合いで()()が口にした「虚無主義」について、真面目に調べたのだなと苦笑を浮かべていただろう。

 

 いきなり小難しい話になってしまったので、目を白黒させながら。海老名が何とか口を開いた。

 

「うーんと、私はペシミズムって嫌いじゃないんだけどさ。感覚的に使ってるだけで、哲学的な意味とかって正直あんまり解ってないんだよね。だからざっくりとした理解になるんだけど、要するに意思だけでも衝動だけでも不十分だって言ってくれてるんだよね。ちなみに解脱ってあの解脱だよね。枯れた境地に至るって感じの」

 

 頭を抱えながら話を追うのがやっとという様子の川崎とは違って、雪ノ下は余裕の表情だ。どこかの誰かと理解の仕方が似ているなと思いながら。海老名の疑問に少しだけ吐息を漏らして微笑んで、そのあとに言葉を続けた。

 

「悟りの境地と言うべきなのだけれど。それを『枯れた』と言ってしまえるうちは大丈夫そうね。貴女が趣味への意欲なり衝動なりを素直に表に出しているのを見ていると、少し羨ましくなる時があるわ」

 

 それは()()()()には無いものだから。より正確には、もっとひどい病的な何かしか持ち合わせていなかったから。

 

 だからこそ、海老名には失って欲しくないなと雪ノ下は思った。

 

 昨夜のあの発言が感情の発露に当たることに、雪ノ下はまだ気づいていない。

 

 

「そっかー。雪ノ下さんにそう言われたら、私ももうちょっと考えてみるかーってなるよね。だから、反論ってわけじゃないんだけどさ。感情が意思よりも先に出たら、何か良い事ってあるのかな?」

 

「……あのさ。たぶん雪ノ下が言ってるのって後先の問題じゃなくてさ。えっと……あたしを例にするとね。もしも気持ちを伝えなかったとしても、伝えないって結論を下した意思だけが大事なんじゃなくてさ。もともとの感情も大切にして欲しいとか、そんな意味じゃないかな?」

 

 少し恥ずかしそうに下を向きながら、ぽつぽつと。でも一言一言をしっかり考えて口に出しているのが伝わって来る。

 

 それを聞く二人は頬を緩めながらしきりに頷いて。最後に視線を合わせて、一つ大きく首を縦に動かした。

 

「私は、感情を押し殺して我慢ができちゃう性格だからさ。たぶん雪ノ下さんもそうかなって思うんだけど。サキサキが言ってくれたのは、外に出さないからって、心の中でまで感情を抑え付けなくても良いって事だよね。うん、それは確かにそうかも」

 

 迷いが一つ消えたような顔つきの海老名に続いて、同じ表情を浮かべた雪ノ下が口を開く。

 

「私もよく陥りがちな事だから、折に触れて自分に言い聞かせているのだけれど。川崎さんに上手くまとめてもらって、海老名さんに補足してもらって、何だか新しい教えを受けたような気分ね。つまり、私の心は自由なのだと。感情については、まだ解らない事も多いのだけれど。一つ一つの感情を、もっと大切に扱ってあげるべきかもしれないわね」

 

「あたしもよく解らないことが多いから、偉そうなことは言えないけどさ。小さい子がいつの間にか立って歩けるようになったり、気が付いたら自転車に乗れるようになってるみたいな感じでね。恋愛感情とか、気持ちを伝えたいって想いとか、『これがそうなんだ』ってふっと気づくような感じでさ。だから、うん。もし二人がそんな感じになったら、それを誤魔化したり気が付かないふりとかしないでさ。大事にして欲しいなってあたしは思うよ」

 

 川崎の言葉をしっかりと受け止めて、三人は視線を交錯させた。

 

 そのすぐ横では、ずっと蚊帳の外だった駅長さんがゆったりとした微笑みを浮かべて。三人の行く末を静かに祝福してくれていた。

 

 

「この三人で話せて良かったーって感じだねー。あ、そうだ。私の用事を忘れてたよ」

 

 そう言って海老名は何やらごそごそとファイルを漁っていたかと思うと。大きな色紙を具現化して、それを裏向きに膝の上に載せた。

 

「えっとさ。とべっちと私のことが原因で、奉仕部の関係が変わるような事態になっちゃって。サキサキの告白もだし、色んなところに影響が出ちゃったんだよね。でさ。たぶん、迷惑を掛けたとかごめんとか言うのは、違うだろうなって思ってさ。だから、雪ノ下さんにあげようと思って絵を描いてきたんだけど。趣味は反映させてないから、これ、受け取ってくれないかな?」

 

 色紙の両端をしっかりと握りしめながら言い終えると、審判を待つような気持ちがした。でも、本当はそうじゃない。雪ノ下はここで否と言うような性格ではないと、十二分に理解しているから。だからこれは単なる禊の儀式に過ぎない。それでも、けじめは必要だ。

 

「ええ、喜んで受け取らせて頂くわね。表の絵を見ても良いかしら?」

 

 そう言われて、思っていた以上に肩の力が抜けた自分に気が付いて。たとえ結論が明らかでも、話の重要度に応じて緊張するのは当たり前じゃないかと海老名は思った。

 同時に、雪ノ下との関係を大切に思う自分にも気が付いて。あの二人と出逢えたおかげで、自分を取り巻く世界がどんどん広がっているのを改めて実感する。

 

「えーと、こっち向きで良いかな」

 

 ちらっと上下を確認して、絵の下側が雪ノ下を向くように持ち直した。裏向きのまま表彰状を手渡すように「はい」と差し出すと、雪ノ下が両手で受け取ってくれたので。手を離すことなく「よいしょ」と言いながら左回りに動かして、それを表に向けた。

 

「これは……スラムダンクのあの場面ね」

「たしかバスケの漫画だよね。あたしも何となく分かるよ」

 

 もともとは見開きの二ページで描かれていたのを、一枚の色紙に収めてみた。京都駅で渡したルシオラも、そしてこの絵も、実力以上に上手く描けたという実感がある。たぶん、贈る相手のことをずっと意識しながら一気に描き上げたからだろう。

 

「あの作品で、海老名さんが一番好きな場面がこれだと。そう考えて良いのかしら?」

 

 珍しく興奮を抑えきれない様子で、口調だけは冷静にそう尋ねられた。「うん」と短く答えると顔が綻んだので、こちらまで頬が緩んでしまう。

 

「部室で喋った時って、結衣が海南戦までしか読んでなかったからねー。あの試合の話ばっかで、それでも面白いのは面白かったんだけどさ。早いとこ結衣に全部読ませて、また雑談しに行くね。あ、そうだ。サキサキも一緒に読んでみない?」

「漫画はあんまりよく分かんないんだけどさ。海老名がそこまで言うなら、考えてみるよ」

 

 そんな二人のやり取りを微笑ましく眺めながら、雪ノ下は大事な情報を心の中に書き留めていた。

 

 雪ノ下は、八幡と海老名が似たものどうしだと考えている。だから昨夜は八幡の思考を参考にして海老名の気持ちを推測した。ならば逆に、海老名の好みも参考にできるのではないか。

 

 自分や海老名と同様に、八幡もまたこの場面に心を惹かれたのではないかと。そうだったら良いなと思いながら、雪ノ下は絵の中の二人に微笑みかけた。

 

 

「では、そろそろお暇しましょうか」

 

 予想以上に長居してしまった。このまま話を続けていたいという気持ちもあるのだけれど、雪ノ下にはまだ用事がある。

 

 修学旅行の間は他学年と連絡が取れなかったので詳しい話は分からないものの、生徒会に属する男子生徒から「旅行が終わったら会長と連絡を取って欲しい」とお願いされている。メッセージを送っても良いのだが、直接出向くほうが話は早いだろう。

 

「私は高校に顔を出す予定なのだけれど。貴女たちは?」

「じゃあせっかくだし、サキサキと一緒に池袋にでも行って来ようかなー」

「ごめん、あたしも塾のバイトがあるからさ。その、えっと、また今度で良ければ……」

 

 そんなふうに言われると、腐女子の聖地に引き摺り込むのが申し訳なく思えてしまう。それに、川崎や雪ノ下とは普通に話しているだけでも楽しめると、今日でしっかり理解させられてしまった。

 

 旅行前に川崎と喋った時にはまだ少し無理矢理な感じが残っていたが、今はもう普通に話せてしまう。もちろん二人の普通が違っているのは重々承知だが、それはさておいて。お誘いをただ断るだけではなく、また今度と言ってくれるほどの仲になっている。

 

「じゃあさ。また今度、近場でいいから遊びに行こっか。この三人でもまた集まりたいよねー」

 

 だから海老名は、希望をそのまま口に出した。二人の返事は「ああ」「そうね」と短いものだったが、それで充分に気持ちが伝わってくる。

 

 

 並んで立ち上がって、駅長にぺこりと頭を下げた。雪ノ下が「また来ます」と言った時の反応がちょっと面白かったのだが、あまり言うと可哀想なので見て見ないふりをした。

 

 駅長室を後にして、在来線のホームに向かいながら。三人はいずれも二人のことを思い浮かべていた。

 

 

*****

 

 

 誰もいない空間で、どれほどの時間が過ぎたのか。

 

 最寄りのトイレに背を向けて「だるまさんがころんだ」と言い終えると同時にばっと後ろを振り向いたり。同じセリフを口にしながら八重洲中央口に向けて全力で走ってみたり。一人で時間を潰すのは慣れているはずなのに、今日に限って上手くいかない。

 

 それでも、じっと立っているよりは身体を動かしているほうが気持ちが楽になる気がしたので。地下に降りる階段を利用して、八幡が踏み台昇降運動に励んでいると。

 

「ごめん、お待たせ」

 

 単調な運動が楽しくなってきた頃合いで、いきなり話しかけられた。思わずたたらを踏みそうになったものの、足に力を入れて事なきを得て。姿勢が安定したので思わず安堵の息を吐いた。

 

「お、おう。お疲れ」

 

 変な場面を見られてしまったなと、気恥ずかしさが先に立って。でもまあいつもの事かと思い直して八幡はそのまま言葉を続ける。

 

「つか、急がせたんじゃね。解散したらすぐに動けると思ってたから、なんか悪かったな」

「ううん。あたしも、あんなに大勢に囲まれるとは思ってなくてさ。文化祭とか体育祭とか、イベントが終わるたびに増えてる気がするんだよね……」

 

 ここでようやく、由比ヶ浜結衣と向き合えた。

 階段を離れて少しだけ近づいて。すぐに視線を逸らしたくなるのをぐぐっと堪えて、軽い口調を意識しながら口を開く。

 

「それだけお前が頑張ってたってことだろ。どのイベントでも活躍してたしな。由比ヶ浜がいなかったらどうなってたかって、考えただけでも恐ろしいわ」

「そこはさ、ゆきのんとヒッキーも同じじゃん。でもさ、三人で色んな事をしてきたよね」

 

 何とか目を合わせたまま話ができているものの、いつもと比べて五割増しぐらいに魅力的だと思えてしまう。こいつに告白されたんだなと意識すると、十割増しでも利かなくなる。

 

 それに可愛らしさと親しみやすさは従前通りだが、妙な落ち着きと奥深さが加わった今の由比ヶ浜は、自分と違って大人だなと。そう考えてしまう。

 

「そういえばな。川崎の問題を解決した時に、ゲームの世界に繋がる扉の話が出たのを覚えてるか?」

「あー、そんな話もあったよね。えっと、遊戯部の依頼の時だっけ。ヒッキーがクイズの問題にもしてたよね」

 

「正確には材木座の依頼だけどな。そういや、あん時には言いそびれたけどな。俺が出した問題を真剣に考えてくれて、ありがとな」

「ううん、結局は不正解だったしさ。でもヒッキー、いつの間にあんな情報を知ってたの?」

 

「まあ、変なことを色々やった結果だな。さっきみたいな、他の奴が見たら『何してんだこいつ』みたいな行動をな。あと、不正解ってのは違うんじゃね。俺が『一名のみ正解』って限定したのが原因だし、実際『惜しい』って言われただろ?」

「でも、不正解は不正解だからさ。あ、それで扉の話だったよね?」

 

「おう。実はそこの壁から行けるんだけど、扉はもう開かないみたいでな。供養って言うと大袈裟になるけど、姿を拝んでくるかって思ってるんだが。良かったら、一緒に来てくれないか?」

「うん、いいよ。じゃあ行こっか」

 

 会話が滑らかに進むわりには雰囲気が重い。

 とりあえず場所を変えて仕切り直すかと考えて、八幡は由比ヶ浜を手招きした。

 

「ほら、手が壁の中に入って行くだろ。ここを通り抜けるんだが、その、大丈夫か?」

「うん。だってヒッキーと一緒だしさ」

 

 壁の向こうに何があるかも分からないのに。自分だけ引き摺り込まれる可能性もあるのに。

 海老名が身構えたそうした事態を、由比ヶ浜が全く思い付かないとは考えられない。なのに「八幡と一緒」というただそれだけの理由で、片付けてしまう。

 

 自分も由比ヶ浜と同じぐらい大人だと、それを示したくなって。左腕を伸ばしたまま由比ヶ浜に向けて軽く持ち上げると。

 

「何もないとは思うけどな。いちおう、ここ掴んどけ」

 

 一日目を思い出しながら、ブレザーの袖の部分を差し出した。恥ずかしい気持ちはもちろんあるが、そのほうが安心できるしなと自分に言い訳をしていると。

 

「胎内めぐりをしたのが、ずっと昔に思えちゃうよね。でもさ……」

 

 不意に左手が、温かいものに包まれた。

 

「せっかくだし、こっちがいいな」

「そ、そうか。じゃ、じゃあ、ゆっくり歩くぞ?」

 

 かすかに残っている脳の冷静な部分から「また二人三脚かよ」と突っ込まれながら。八幡は由比ヶ浜と並んで、手を繋いだまま目の前の壁を抜けた。

 

 

***

 

 

 壁の先には駅のホームがあった。長いプラットホームが一つと、二人の数メートル向こうから始まっている線路が二つ。左側の線路にだけ「0番線」と表示がある。

 

 ドーム状の壁、線路の先の靄。背後の殺風景な壁も京都駅と同じだが、色だけが違った。あちらは白が強めの灰色だったが、こちらは乳白色だ。それが、何故だか少し気に入らない。

 

 念のために後ろ手で壁を触って、すり抜けられるのを確認した。

 もう片方の手から温かい感触が伝わって来るのを意識しながら、おずおずと口を開く。

 

「手、繋いだままで良いのか?」

「うん、せっかくだしね。ヒッキーは、イヤじゃない?」

「なんか自分の手じゃない気がするけどな。お前と手を繋げて、嫌だと思う奴なんていないだろ」

「ヒッキーは?」

「……嫌じゃない。つか、嬉しい、んだと思う」

「そっか」

 

 にぎにぎと手に力を込めて緩めて、由比ヶ浜が笑いかけてくれる。どうしてこうも大人に見えるのかと内心で首を傾げながら、八幡はゆっくりとプラットホームに向けて足を進めた。

 

「ホームの端まで行くから、ちょっと距離あるぞ」

「大丈夫。もっと長くてもいいぐらい」

 

「その、手の汗とか出てないよな?」

「うーん……ほら、今動かしてみたけど、すべすべじゃない?」

「旅行の前の晩に、小町が秘蔵の石鹸を使わせてくれてな。それのおかげかね」

「ヒッキーもシスコンだけど、小町ちゃんもかなり兄思いだよね」

 

「まあ自慢の妹だからな。これで自慢の兄だと良かったんだけどな」

「でもさ、ヒッキーは自慢の部員……っていうと変か。えっと、あたしにとっては自慢の仲間かな」

「それはこっちのセリフだな」

 

 会話こそ途切れなく続いているものの、雰囲気はどこか重いまま。高校生の男女が手を繋いで歩いているにしては、何かが違う。何かがまちがっているのだが、その何かが八幡には分からない。

 

 どうしたものかと考えながら歩いていると。唐突に()()()が姿を見せた。

 

 

「また会ったね。ぼくはチャーン」

「……」

 

 目の前に突然、親指ほどの大きさの妖精が現れたので驚いたのか。ぎゅっと手を握られて、すぐに元の力加減に戻った。八幡が平然としているので安心したのか。あるいは、本能的に害はないと判断したのだろう。

 

 妖精に目を向けると、男女一人ずつなのは京都駅と同じ。でもあの時とは女の子の様子が違っていた。あちらは話し方こそ舌っ足らずだが、わりと言いたい放題だった記憶がある。外見上の違いは判らないけれど、今いるのは臆病で引っ込み思案な女の子という印象だ。

 

 そういえば、由比ヶ浜も昔は言いたいことをなかなか言えない性格だったと聞いたことがある。もしかするとこんな感じだったのかもなと考えながら、手で繋がった先にあるその横顔を窺うと、ぱっと目が合った。無理に逸らすのも悪い気がして、軽く首を傾げてみると。

 

「また、後でね」

 

 そう言って、ぽんぽんと二度優しく叩かれてから手を離された。

 

 由比ヶ浜はそのまま女の子の妖精の前まで歩いて行くと、親しみを込めた笑顔で頷きかけて。何かを小声で呟いて、今度は耳を向けて我慢強く女の子の返事を待っていた。

 

 何かを言われるたびに、ふんふんとしっかり反応して。最後に「うん、わかった」と言って少し距離を空けると。両手を口に当てて大きな声で、女の子の名前を呼ぶ。

 

「ヤッハウ、やっはろー!」

 

 はてなマークが頭の上に浮かぶとはこのことかと、八幡が訝しんでいると。女の子の頭の上に”I am Yaghau.”という文字が浮かび上がる。

 

 こんな名前を付けやがったのはどこのどいつだと八幡は思った。

 

「あのね、ヤッハウって名前がちょっと言いづらいみたいでさ。発音しにくいのもだし、恥ずかしい名前なんじゃないかって悩んでるみたいでね。だからヒッキーも、ちゃんと名前で呼んであげて欲しいな」

 

 とはいえそんな事情を知ってしまえば邪険には扱えない。さっさと観念した八幡は「ヤッハウ、よろしくな」と女の子に伝えた。

 

 こんな名前を付けやがった奴のことは忘れてないからなと八幡は思った。

 

 

「はい、お待たせ」

 

 すぐ左隣に戻って来た由比ヶ浜は、そう言いながら手のひらをぎゅっと握り込んでから。ゆっくりと、指と指を絡めるようにして握り直した。

 

 指が絡まり合っている付け根の辺りはもちろんのこと、手の甲の辺りにも華奢な指先が触れる感触があって、くすぐったくて仕方がない。それに不謹慎かもしれないが、何だかちょっとエッチなことをしているような気分になる。

 

 耳が赤くなっているのをはっきりと自覚しながら、八幡は慌てて口を開く。

 

「あー、えーっと、扉を見に行きたいんだわ。チャーンとヤッハウに案内を頼んでも良いか?」

 

 何とかそこまで言い終えて、妖精たちが頷いたのを確認して。「もう会う事はない」とか言った数時間後に再会する形になったのは、我ながら滑稽だなと思いながら。視線をすぐ横に戻すと、気のせいか頬が少し赤らんでいる。

 

 実は由比ヶ浜も恥ずかしいのかなと思いながら、繋いだ先の手の甲を指先でちょんちょんと突っついてみると。唇を軽く突き出しながら「むーっ」とかなんとか言っている。

 

 少しだけ気持ちに余裕ができた気がして。八幡は妖精二人の後をゆっくりと追いながら、ここまでのやり取りを振り返った。そして本題を何一つ口にしていない自分に愕然とする。

 

 扉の前に着いたらちゃんと話をしようと考えて、唇を引き結んだ。

 その表情をしっかり見られていたことに、八幡は気づいていない。

 

 

***

 

 

 ホームの果てには巨大な門がそびえていて、下のほうには円形の扉があった。こちらは色も形も京都駅と全く同じだ。

 

 扉から少しだけ距離を置いて立ち止まると、気配で察したのか由比ヶ浜が手を離して姿勢を正した。それを横目で確認して、自分も少し顎を引いて背中を伸ばして。八幡は丁寧に柏手を打つと、ねぎらいの言葉を思い浮かべながら手を合わせた。

 

 静かに目を開けて、両手を下ろして肩の力を抜いた。ふと気づけば無意識のうちに、誰もいない右側に視線を移している自分がいる。動きが不自然にならないように、ゆっくりと左側に目をやって。由比ヶ浜がまだお祈りしているのを見て苦笑が漏れた。

 

 二人の妖精が、合わせていた手を下ろしてこちらの様子を窺っているので。「ありがとな」という気持ちを込めて頷いてあげると、ヤッハウからは照れたような、チャーンからは「けっ、リア充爆発しろ」とでも言いたげな反応が返ってきた。またもや苦笑が漏れる。

 

 

「ふう。何だかさ、北野天満宮を思い出すよね。ゆきのんとヒッキーと三人で並んで、小町ちゃんの合格をお願いしてさ」

「あれって昨日だよな。時間の感覚が狂ってるっつーか、はっきりと覚えてるのに遠い昔な気がするっつーか。なんか変な感じだな」

 

 たっぷりと、八幡が二回お参りできるぐらいの時間を掛けて。ようやく由比ヶ浜が手を下ろすと、そのまま話しかけてきた。

 扉のほうを向いたまま、過去に意識を向けながらそう答えると。

 

「うん、あたしもそんな感じかも。でもさ……それって、あたしのせいだよね」

 

 そう言われて反射的に首を動かすと、すぐ目の前に由比ヶ浜の顔があった。口を真一文字に結んで、目には決意の色を灯している由比ヶ浜が。

 

 どこかで見た顔だと疑問を浮かべる前に、答えが先に出ていた。さっきの海老名と同じ顔だ。つまりは、職場見学の後で由比ヶ浜と向き合った時の俺と、同じ顔だ。

 

 あの時には言えなかったことを、伝えなければならない。

 きっと、上手く行かなくなった原因は、そこにあるから。

 それなのに。

 頭はまた別のことを考えている。

 

 

 どうして、こんなことに。

 

 八幡は苦虫をかみつぶしたような表情で首を振って、昨日から何度となく頭の中に浮かんだ疑問を打ち消した。

 

 事ここに至っては、そんなことを言っていられる状況ではない。そう自分に言い聞かせて、しぼり出すように声を発する。

 

 クラスどころか、校内でも指折りのトップカーストに向かって。

 

「俺は……優しい女の子は、嫌いだ」

 

 こんなに大きな駅の片隅で。

 同級生の女の子と、二人きりで。

 さっきまで繋いでいた手には、まだぬくもりが残っている。

 

「でもさ。昨日のは……優しい女の子じゃ、ないよ?」

 

 ああ、その通りだ。それを知っているからこそ、八幡は「嫌いだ」と伝えることができる。あの時には言えなかった言葉を、口にできる。由比ヶ浜は優しいだけではなく、強い女の子だと知っているから。

 

 昨日の夜の一件が、あの竹林で起きたことが、全てを変えた。

 あの時の二人の言葉が、八幡の脳裏によみがえる。

 

『あなたのやり方、嫌いだわ』

『人の気持ち、もっと考えてよ……』

 

 誰かに向かって「嫌いだ」と口にするのは、人の気持ちを考えない行為だと思っていた。けれど昨日、雪ノ下と由比ヶ浜に教えられた。

 

 自分にとって特別な誰かの「嫌い」を知ることは、決して悪いことばかりではなかった。

 むしろそれを知ることで、二人のことをより深く理解できた気さえした。

 

 だから俺も、あの時に「嫌い」を伝えるべきだったのだ。

 なぜならば、「優しい女の子」は俺の中のわだかまりとして、中学の頃からずっと存在し続けていたのだから。

 

 京都駅で海老名に挑発的な言葉を告げられて、その表情が職場見学の時の自分と重なって。それでようやく八幡は「嫌い」を口に出すことができた。きっとあれがなければ、今も由比ヶ浜に伝えられないままだっただろう。でも、やっと言えた。

 

 職場見学の時のように、「優しいよな」と勝手なイメージを押し付けて逃げるのはもう嫌だから。

 

 だから八幡は「優しい女の子」を否定しなければならない。

 そこから話を始めなければならない。

 由比ヶ浜は優しいだけの女の子ではないと、それを俺は十二分に理解していると、まずはそれを分かってもらう必要があるのだ。

 

 

 そうした気持ちを込めて、しっかりと由比ヶ浜の目を見つめていると。

 なぜかゆっくりと目を伏せて、続けて首が左右に小さく揺れた。

 下を向いたままの由比ヶ浜から、ぽつりぽつりと声が聞こえてくる。

 

「あたしは、優しい女の子なんかじゃなくてさ。あたし、ずるいんだ」

 

 八幡が嫌いな「優しい女の子」ですらないと、そう言われて。その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 だが、こんなことを言いっ放しにさせてはダメだ。由比ヶ浜がずるいだなんて、そんなことを言わせたままにはしておけない。

 

「あのな。お前ほど他の連中のことを思い遣ってるやつが、そうそういるわけないだろ。そんなお前がずるいって言うなら、世の中のほぼ全員がずるいって話になるぞ」

 

 再び顔を上げた由比ヶ浜と目が合った。そして瞬時に、この言い方ではダメだと気づいた。

 

 やっぱり、職場見学後の俺と同じだなと八幡は思う。こういう場合には、相手と同じ土俵に上がってはダメなのだ。ずるい・ずるくないと水掛け論が続くだけで、それでは気持ちを変えさせることはできない。それよりも。

 

「あー、じゃああれだ。ここに三人で通天橋で撮った写真があります。周りの景色も俺ら三人も綺麗に写っています。でも由比ヶ浜にはやらん」

「えっ、ちょ、ヒッキーずる……あ」

 

 由比ヶ浜が素直な女の子で助かったと八幡は思った。

 重い空気が霧散したこの好機を逃さず、そのまま話を続ける。

 

 

「そのな、お前が自分をずるいって言う理由は分からんけどな。それは置いておいて、でもそれだけじゃないだろ。俺はお前を優しいやつだと思ってるけど、優しいだけのやつだとは思ってない。優しいだけの女の子は嫌いだけど、お前のことは嫌いじゃない。それを……たぶん俺は、ずっと前に伝えておくべきだったんだわ」

 

 だから、自分たちはまちがえてしまった。

 各々が「嫌い」だと思うことを伝えないまま、関係を深めてしまったから。

 自分たちがそんな歪な状態なのに、恋愛という人間関係の全てが問われるような依頼を受けてしまったから。

 

 そして依頼と向き合う中で。

 失いたくないと、失わせたくないと、そう思ってしまったから。

 失いたくないと、失わせたくないと、そう思わせてしまったから、失ってしまう。

 もう誰も、無邪気なままではいられなくなってしまった。

 自分たちの間にも恋愛という問題が潜んでいると、白日の下に晒されてしまった。

 

 でも、それは自分たち三人のせいだ。戸部のせいでも海老名のせいでもない。

 たぶん、あの依頼がなかったとしても、遠からずこうなっていたはずだ。

 きっと、昨夜の一幕は最後の一押しで。この結末は最初から決まっていたのだろう。

 では、いつから?

 

 八幡はゆっくりと、記憶を遡っていく。

 意外に楽しかった三日間。色んな場所に行って、色んな人と話をした。毎日が濃密に過ぎていったので、東京駅から出発したのがはるか昔に思える。あの日の朝のやり取り。出発前の部室でのやり取り。教室でのやり取り。そして、あの日。

 

「少なくとも、お前に気持ちを伝えられる前に。できれば、あの職場見学の時にな」

 

 結局のところ。全ての始まりは、あの日のやり取りにあったのだと。

 八幡は今更ながらに、それを理解した。

 

 

 たとえあの日には無理だったとしても、話し合える機会はいくらでもあったはずだ。

 なのに今日まで、ちゃんとその話をして来なかったから。

 だから、こんなことになってしまった。

 

 けれど、どう考えれば良いかは分かっている。ずっと前に、目の前にいる素敵な女の子が教えてくれたから。

 

『始め方が正しくなくても、だからって全部が嘘とか偽物じゃないって、あたしは思うんだ』

 

 きっと足りない部分はたくさんある。正しくないこともたくさんある。それでも由比ヶ浜が伝えてくれた想いを始めとして、嘘偽りのない確かなものも自分たちの間にはたくさんある。

 

 そして、どうすれば良いのかも分かっている。ずっと前に、ここにはいない素敵な女の子が教えてくれたから。

 

『間違った始まり方をしたのなら、また新しく関係を作っていけば良いと思うわ』

 

 だから、八幡は言葉を続ける。

 

「なんか、ちょっと冷静になるとあれだな。いきなり『優しい女の子は嫌い』って言われても、意味不明だよな。その、職場見学のことがずっと引っかかっててな。あの時に、本当はそう言いたかったんだわ。誰にでも優しい女の子は、俺にとってはつらいだけだってな。けど、お前はそうじゃなくて。だからあの時に『優しいよな』って言ったのを、俺はずっと撤回したいと思ってて。なのに今まで言い出せなくて。だから、その……すまん。あの時に俺が思っていたよりもはるかに、お前は凄いやつだったよな。俺の自慢の仲間だし、それに……」

 

 そこで言葉を切って。照れる気持ちを呑み込んで、八幡はこう締めくくった。

 

「俺も、お前のことが好きだと思う」

 

 

***

 

 

 いきなり「優しい女の子は、嫌いだ」と言い出された時はびっくりした。

 すぐには意味が分からなくて、たぶん昨日のことかなって。

 でも、あたしは優しくなんてないから。ずるいから。

 だから覚悟を決めて、そう言ったのに。

 いつもみたいに、ヒッキーの変な言葉でごまかされちゃった。

 

 ヒッキーは、あたしの告白を特別なものだと考えてくれてるけど、それは違う。

 ゆきのんが「己の全てを懸けても良い」って言ったから。だからあたしも言えただけ。

 ゆきのんは「自分のせいで」って考えていそうだけど。

 あの言葉の重みには、ゆきのんもヒッキーも、ぜんぜん気付いていない。

 

 ゆきのんのことが大好きなのに。ヒッキーだけは渡したくないって、そう考えてしまう。

 ヒッキーのことが大好きなのに。誰にも渡さないために気持ちを口にしたんだって、そう考えてしまう。

 それがずるくないって言うのなら、じゃあずるいって何なんだろう。

 

 でも、一つだけ確かなのは。

 このまま付き合っても、ぜったいに、上手くいかない。

 それにそもそも、断られると思ってたから。

 だからせめて想い出にって思って、手を繋いだり色々と頑張ったのに。

 あたしがどれだけ恥ずかしかったかなんて、ヒッキーには分からないよね。

 

 職場見学のことを、ずっと覚えてくれてたのは嬉しかった。

 ヒッキーの言葉に嘘はないのも分かってる。

 でも、あたしには決して教えてくれない気持ちがあるのも知っている。

 ヒッキーは、どうするつもりなんだろう?

 

 

***

 

 

 気持ちを伝えても、由比ヶ浜の表情はさほど変わらなかった。だから、続く言葉を見透かされているのだと理解した。でも、仕方がない。伝えた気持ちは本心だし、ただそれ以外の気持ちもあって。それらの感情を自分でも持て余しているという、最低な状況なのは確かだから。

 

「ただ、あれなんだわ。じゃあ付き合うかってなるかというと、ちょっと難しくてな。その……竹林でも言ったと思うけど、情けない状況で言われて初めて、お前の告白を本当なんだなって受け止められてな。けど、そんな状態で気持ちを受け入れたら、自分がダメになる気がするんだわ。ちゃんと、相手に相応しいって言えるような姿を見せないとなって、そう思うのな」

 

「……えーと、要するにあれだよね。ヒッキーが言う情けない状況じゃないと、告白されても疑っちゃうし。でもそんな状況でオッケーしたら自分がダメになるから、断るって言いたいんだよね。えーと、ヒッキー?」

 

 伝えた言葉は本音も本音なのに、なぜか由比ヶ浜は呆れ顔で、途中からはお怒りの色が濃くなってきた。ちょっと怖くて口を挟めないでいると。

 

「じゃあ、どうしろって言うんだし!」

 

 由比ヶ浜が叫びたくなるのももっともだと、二人の妖精はそう思った。

 

「まあ、結論としては『先延ばしをお願いしたい』って事だから、怒られるのも仕方ないんだけどな。でも、ちゃんと今回とは違ったやり方で結果を出すから、それまで待って欲しいってのが一つ。あともう一つは、その、申し訳ないんだけどな。お前の気持ちを受け入れられない可能性もあるんだわ。これ以上詳しいことは言えないけど、今の時点でちゃんと伝えておいた方が良いと思ってな。まあ、怒られるのも仕方がないわな」

 

 お叱りを覚悟の上で、それでも伝えられる限りのことを八幡は伝えた。

 

 

「はあ……ヒッキーがちゃんとそこまで言ってくれてちょっと嬉しいなって、そう思っちゃうあたしにも問題があるのかな?」

「さあな。俺には、いっちょんわからん*4

 

「うーっ。なんであたし、こんな人を好きになったんだろ?」

「ひとりのためにずっと歌ってもよかった*5、って思ったからじゃね?」

 

「ヒッキー、さっきからちょっと煩い。意味解んないし」

「ふぅ。なんかすまんな。俺もまあ、けっこう緊張しててな。思いっきりどうでもいいことを言いたくなる時って、たまにないか?」

「それは、うん、分からなくはないけどさ。まあいいや、ヒッキーだし」

「その納得の仕方はどうなんですかね……」

 

 この手の話が通じなくて少し残念なのは事実だけど。でも、別に通じなくても良い。他にもたくさん通じる話があるのだから。この手の話ができる相手も他にいるのから。

 実際に口に出してみて、八幡はそう実感した。

 

 

「えっと、今度はあたしの返事待ちなんだよね。その前に、ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「おう、何でも来い。職場見学の時の話に比べたら、どんな質問でも楽なもんだわ」

 

 言うべきことを言い終えた充実感から、八幡がそう答えると。

 

「どうしてサキサキのことは、その場で断ったの?」

「……すまん、ちょっと心を落ち着かせる時間を下さい」

 

 目の前で「え、別にいいけどさ?」と呟いてきょとんとしている由比ヶ浜には申し訳ないが、大言壮語なんてするもんじゃないなと八幡は思った。

 

「あーっと、どう言えば良いんだろうな。その、もしも川崎と付き合ったら……って、こんな話をしても良いのかね。どこまでなら良いとかよく分からんから、お前が嫌な気持ちになったらすぐに言えよ」

「うん、ありがと。続けて?」

 

「川崎と付き合ったら、けっこう幸せに過ごせるんじゃねって思うのな。小町とも仲良くしてくれてるし、あいつの弟ともそれなりに面識があるし。でも、思い浮かぶのがなんつーか、家族みたいな光景ばっかでな。家で一緒に料理したりとか、小町の受験の相談をしたりとか。それと、さっきの話と重なるけど、あいつと付き合ったら色んな事を許してくれそうで、なんか自分がどんどんダメになる気もしたのな。だから正直、川崎の力になりたいって言って自立を試みてる大志って、けっこう凄いんじゃねって思ったりな。中学生だと家族に甘えたい時もあるだろうになって。まあそれはどうでもいい話だったな。要するに、自分が自立してないと、川崎と付き合うのはダメだろうなって思ったんだわ。その……ものすごく失礼な話かもしれないけどな。もっと歳を取って、色んな事を知ってもう少し大人になれた頃だったら、心が動いたかもしれん。でも、今の俺が求めてるのは、それじゃないみたいでな」

 

「……そっか。答えてくれてありがとね」

「これで良かったのかね。あの時に思った事を、そのまま言ってるだけだぞ?」

 

「うん、だいたい分かったからいいよ。あのね、昨日の夜って、サキサキにはホテルで待っててもらったんだけどさ。起きたことをぜんぶ教えるって、そう約束してたのね。でさ、サキサキがヒッキーと話しに行って帰って来て、すっごく謝られたの。あたしの告白を聞いた直後なのに、ヒッキーに気持ちを伝えちゃったって。それを聞いて、あんな約束なんてしなかったらよかったって思ったの。だってさ、特別な想いを伝えるのって、そんな謝られるようなことじゃないって思うからさ。だから、ヒッキーがサキサキの気持ちをしっかり受け取って、ちゃんと考えて返事をしたんだなって分かって、ちょっと……なんて言うのかな。救われた、みたいな?」

 

「なるほどな。つか俺のほうも、お前にそう言ってもらえて救われた気がするわ。川崎みたいな、なんての、良い奴っつーのかね。どうでもいいやつって意味じゃなくて、本当に良い奴だろ。それを哀しませることしか言えないのが、なんか情けなくてな。あの時は俺のほうが泣きそうになってたからな」

 

「ヒッキー泣いてたって、サキサキが言ってたよ?」

「はい、ごめんなさい。隠蔽しようとしました」

 

 素直に白旗を揚げて、少し視線を逸らすと。二人の妖精が「げんきだして」「ざまあみろ」とても言いたげな表情を浮かべている。何度目になるか分からない苦笑を漏らしていると。

 

 

「じゃあさ。姫菜とはどんな話をしたの?」

「あれ、聞いてないのか?」

「ほら、行きと同じように六人で座ってたからさ。会って来たよって、それぐらい」

 

「そっか。なんか趣味の話とか色々したんだが。あとお前の話とか、なんでこんな展開になったんだろなとか。でもあれだな、具体的な話の内容はたぶん重要じゃなくてな。海老名さんってこんな性格なんだなって、それが少しは理解できたような気がしたな。お前らのことを大事に思ってるのが伝わってきて、なんか嬉しかったわ」

 

「ふーん、そっか。ねね、姫菜に告白とかされなかった?」

「ぶっ。お、お前な。そんなこちょ、あるわけねーだろ」

「ヒッキー、ちょっと動揺してる?」

「いや、だってお前が突拍子もないことを……」

 

 そこまで言って、ふと別れ際の言葉が頭をよぎった。あまり深くは考えないようにしていたのだが、あれはもしかするとそういう意味だったのだろうか。

 

「でもさ。姫菜の本心っていうのかな、それってあたしとか優美子でも掴みきれない時があるからさ。もし姫菜が()()だとしても、あたしに気兼ねして気持ちを伝えない気がするんだよね。それって、ちょっと寂しいなって」

「ほーん、なるほどな。でもだからって、俺を当て馬にしないで欲しいんだが」

 

 もしも海老名が本気だとしたら、あんなふうな言い方をするのだろう。

 もしも海老名が自分の性格を伝えたかっただけだとしても、あんなふうな言い方になるのだろう。

 

 つまり、あの発言から海老名の真意を探るのは不可能だと結論付けて。八幡はそれ以上を考えるのを止めた。

 海老名の発言にはもう一つ、忠告という可能性もあることに八幡は気づかなかった。

 

 

「じゃあ、これで最後ね。ヒッキーはさっき、違ったやり方で結果を出すって言ってたよね。先延ばしとも言ってたけど、じゃあさ。次の依頼が来るまで、あたしはヒッキーとどんなふうにして過ごせばいいの?」

 

「……そのな。職場見学のこともそうだったし、さっき待ち合わせた直後に遊戯部とクイズで勝負した話をしただろ。あれも、一言お礼を伝えないとなって思いながら、ずっと言えてなかったんだよな。だから、もっとお前らと話がしたいっつーか。もっと話すべきだと思うんだわ。その、さっき言った『自分がダメになる』ってのは間違いなく俺の本心だけど、もう一つ理由があってな。まだ知らないこととか分かってないことが多すぎると思うんだわ。たぶん、お互いにな。俺のことももっと伝えるべきだと思うし、お前……のことももっと知るべきだと思う。要するに、答えを出すにはまだ情報が足りてないと思うんだわ」

 

 そう告げた八幡は、先程の川崎の話を思い出していた。

 そして、やはり川崎は自分にとって特別な異性ではなかったのだと実感した。

 

 気持ちというものは、本当に残酷なものだ。川崎に対しては、もっと詳しく知るまでもなく断りを入れているくせに。()()()()に対しては、答えを出すためにもっと詳しく知りたいと、そう言えてしまうのだから。

 

「それって、今までとは違うってことだよね?」

 

 知りたかったこととは違った答えが返って来て。でも、自分のことを伝えたいと、こちらのことも知りたいと、そう言ってもらえたのは嬉しいなと由比ヶ浜は思った。

 

 二回目の失言には直前で気が付いたみたいだから、最初のも聞かなかったことにしよう。どうせ、ずっと前から知ってたことだし。そう考えて、簡潔に問い掛けると。

 

「そう、だな。今までどおりってわけには行かねーよな。でも、あんまり意識しないで普通でいてくれると助かる。つか、今日も班行動とかでよく一緒になったけどな。お前、ぜんぜん普通に見えたぞ。俺なんか、お前が楽しそうに喋ってるのを見るたびに『こいつが俺に告白してくれたんだよな』って思って嬉しさを噛みしめたあげくに挙動不審をくり返してたってのに。なんか不公平だよな」

 

「え、ちょっとヒッキーきもい。今日ずっと変な感じだったの、あたしを見て変な妄想をしてたからってことだよね?」

「いや、なんでだよ。告白された男子高校生なんてそんなもんだぞ。つか嬉しいって思ってるだけなのになんで妄想なんて話になるんだ?」

 

「だってさ、さっき待ち合わせた時も踏み台昇降運動してたじゃん」

「うぐっ。あ、あれはだな。緊張を落ち着かせるために身体を動かそうってだけで」

 

「ほら、やっぱそうなんじゃん。前にさ、雑誌で読んだんだけどさ。大学生の女の人がね、彼氏の部屋に初めて行って、緊張するなあって思いながら洗面所を借りて化粧直しとかしてさ。部屋に戻ったら、彼氏が腕立て伏せをしてたんだって。男の人って、そういう妄想を我慢する時にああいう運動をするんだよね?」

 

「おい、ちょっと待て。具体例に問題がある上に解釈にも問題があるぞ。つかその頭の悪そうな雑誌をどうにかしたほうが良いと思うんだが」

「じゃあ、さっきのヒッキーは、変な妄想は全くしてなかったってこと?」

 

「あ、いや、全くと言われるとなんかあれだけど、ほら、あれだ。妄想と運動は関係ないってことだけは覚えておいて欲しいんだが」

「うーん、なんか納得いかないんだけど、まあいいや。でさ、何でもないように普通に過ごしながら、前にはしなかったような話をするって感じだよね。その、話って例えばどんな話?」

 

 

「そうだな……。例えばな、竹林でお前らに言われただろ。俺のやり方があれだとか、人の気持ちをとか。昨日の夜に言われた言葉を振り返ってたらな。昔のことを思い出したんだわ」

「昔って、中学の時のこと?」

 

「いや、お前の依頼の時だから四月の話か。お前らがクッキーをラッピングしてた時に、ちょっと考えてたことがあってな。その、俺はけっこう色んな奴から見下されてたから、その手の気配に敏感なんだわ。けどお前らからは、見下すような気配を感じなくてな。雪ノ下に「腐れ目谷くん」って言われても、なんでか気にならなかったし。お前にじっと見つめられても、何か裏があるんじゃねって警戒する気が起きなくてな。んで、俺の勝手な推測だけど、あの時にこう思ったのな」

 

 そう言って八幡は記憶の中から言葉を呼び起こす。

 

『雪ノ下が人を見下す事を口にするのは、相手がそれに値する事をしでかした時だろう』

『由比ヶ浜が人を見下す事を口にするのは、相手に改善すべき何かを教えてあげる時だろう』

 

「でな、実際にその通りだったなって。ちょっと布団の中で泣きそうな気持ちになったんだわ。そんなことを言わせた自分が不甲斐ないって気持ちもあったけど、それ以上にな。雪ノ下がちゃんと『嫌い』って伝えてくれて。由比ヶ浜がちゃんと改善点を教えてくれて。それが、嬉しいなんて言葉じゃ足りないぐらいに、嬉しくてな。まあ、恥ずかしいっちゃ恥ずかしい話だけど、知ってて欲しいっつーか聞いて欲しいっつーか、そんな話が他にも色々あると思うんだわ」

 

 八幡の語りを聞き終えた由比ヶ浜は、いつにも増して親密な気持ちが伝わってくる笑顔を浮かべている。こんなのを「慈愛に満ちた」と表現するのだろうなと考えていると。

 

「うん。教えてくれて、あたしも嬉しい。もっと知りたいなって思う。でさ、大事なことだから訊くね。ヒッキーは、こういう話を()()()したいって考えてるんだよね?」

「……だな」

「そっか。じゃあ、他の話はまた今度だね」

 

 そう言って由比ヶ浜はうんと伸びをして、扉のほうを振り返った。それから妖精二人に視線を移して笑いかけている。

 やっぱり、優しくて強い女の子だなと八幡は思った。

 

 それにしても、話に没頭していたから気が付かなかったが、ずっと立ち話だったから足の関節が少し固くなっている気がする。由比ヶ浜に倣って軽くストレッチをしながら、伸びをしたくなる気持ちは分かるけど胸を強調されると心臓に悪いんだよなあと考えていると。

 

「そろそろ帰ろっか。明日からは、またいつもどおりってことだよね?」

「違う部分もあるけどな。まあ、劇的に変化するとかじゃなくて、徐々に少しずつって感じかね」

 

「そうだね。そういえばさ、前に言ったと思うんだけどね」

「ん、どうした?」

「ちゃんと覚えておいてね。あたしはさ。待つよりも……自分から行くの」

 

 そう言いながら、右手の親指と人差し指で銃を撃つような仕草を見せてくる。本当に、今日の由比ヶ浜は大人に見えるなと考えながら。

 

「何も言わなけりゃ格好いいのに、『ばーん』とか言いながらだとなんかあれだよな」

「えっ、だって撃つ時の音って『ばーん』じゃないの?」

「いや、音はそうだとしてもな……まあいいや。由比ヶ浜はそのままでいてくれ」

 

「むっ。そういう言い方をされると、ばりむかー*6ってなるんだけど!」

「お前、一学期に勉強会の話をしてた時もそう言ってたよな。まさかお前が中の人になるとはなあ……」

「だから意味解んないってば!」

 

 そんなやり取りをしていた二人だが、妖精たちがけらけら笑っているのを見て一気に恥ずかしくなった。由比ヶ浜が再び「帰ろっか」と口にして、そろって扉に背を向ける。

 

 

 ここに来るまでは手を繋いでいたけれど、帰りは別々に歩いている。二人の間の距離も、少し遠くなっている。でも、来る時よりも心の距離は近くなった気がした。

 

 最強のライバルなのは、最初から判っていたことだ。それに、自分が大好きな相手をライバルと言うのは、何だかちょっとイヤだ。それよりも、あたしは頑張るしかないから。自分から行くしかないから。だから、相手のことよりも自分のことを頑張ろうと由比ヶ浜は思った。

 

「じゃあ、チャーンとヤッハウも元気でね。特にヤッハウは、やっはろーって言うたびに思い出して応援してるから。あたしも頑張るから、頑張ってね」

 

 昔の自分を見ているようで、最初から他人とは思えなかった。だから、今の自分の状況を妖精たちに重ねて、そう伝えた。

 

「二度あることは何度でもって言うし*7、またチャーンと会うかもな。そん時はまた頼むわ」

 

 そう言って妖精二人に別れを告げて。八幡は由比ヶ浜と並んで壁を抜けて東京駅に戻った。

 

 

「貸し切り空間を出てからどうしよっか?」

「そうだな……いちおう別々に在来線に向かって、他の連中がいなけりゃ合流して一緒に帰るかね?」

「同じ部活だってみんな知ってるし、そこまで警戒しなくてもいいと思うけど……あ、もしかしてヒッキー照れてる?」

 

「はい。ここに北野天満宮のもみじ苑で撮った写真があります。紅葉も三人も綺麗に写っています。でも由比ヶ浜にはやらん」

「ちょ、やっぱヒッキーずるい!」

 

 そんなふうに会話を続けながらトイレへと近づいていく途中で。

 

「あー、そういえばちょっとだけ寄り道してもいいか?」

「うん。どこに行くの?」

「この能力を教えてもらった駅長さんにな。一言だけお礼を言ってくるわ」

「そっか。一緒に行ってもいいけど、どうしよっか」

「今日は長居する気はないから、一緒に行くならまた後日かね」

「わかった。じゃあ、先にホームに行って待ってるね」

 

 そんなふうに話がまとまったので、二人はいったん別行動になった。

 

 

 なぜか妙に疲れて見えた駅長さんにお礼を伝えて、よく休むようにと伝えて早々に駅長室をお暇した。そのまま在来線のホームに向けて移動する。

 

 その途上で、メッセージが届いた。

 

『申し訳ないのだけれど、話が終わり次第、高校まで来て下さい。一色さんの立候補は同級生の嫌がらせで、当人に知られないようにして届けを出したとのこと。疲れているとは思いますが、部室で待っています』

 

 一日目の夜に予想していたよりも、斜め下の状況を知って。思わず走り出しながら、八幡はこう思った。

 

 どうして、こんなことに。

 

 

原作七巻、了。

 

原作八巻に続く。

 

*1ショーペンハウアーの主著「意思と表象としての世界」(1818年)を念頭に置いている。

*2この世は考え得る限り最悪の世界だと説く厭世的な世界観。上記のショーペンハウアーがその代表。

*3ニーチェは、キリスト教の道徳的諸価値を始めとした最高の諸価値が無価値(虚無)になったとする、その無価値性の感情をニヒリズム(虚無主義)と呼んだ。彼は、それによって到来した危機的な状況(=神の死)を超克しようと試みた。

*4鴨志田一「青春ブタ野郎」シリーズ(2014年〜)に登場する古賀朋絵のセリフ。中の人は由比ヶ浜。

*5若木民喜「神のみぞ知るセカイ」(2008年〜2014年)に登場する中川かのんのセリフ。中の人は由比ヶ浜。

*6上記の古賀朋絵のセリフ。

*7言いません。




その1.本章について。
 原作の出来事に即して話を進めつつ、その内実が少しずつ変わっていくという形式を本章でも踏襲しています。とはいえ7巻まで来ると原作との違いが各所に出てきて、それらが一気に動いた結果こんな展開になりました。

 本章と次章における大一番の場面をどんな形で乗り切るかは4巻を書き終えた時点でも定まっておらず、一番の悩みの種でした。しかし、ある時ふと由比ヶ浜が勝手に動いてくれて、それでようやく最終話まで線が繋がりました。迷いが消えた状態で5巻以降を書けたのは、竹林での由比ヶ浜の一言と、それに先立つ雪ノ下と由比ヶ浜のあの発言のおかげです。

 基本的に本作は、原作よりも各キャラの距離が近くなっています。それをご都合主義・予定調和と言われた事もありました(そのお気持ちも解るので、非難したいわけではなくて。ただ、先の展開については話せる事と話せない事があって、この件は後者に属するのが申し訳なかったなと、そんな感じです)。

 でも実は、仲が深まるのは良い事ばかりではありません。例えば、疎遠だった頃には悩みもしなかった事を真面目に考える必要が出てきます。関係の深化に合わせて、本作では原作に先んじて(例えば6巻の時点で10巻や11巻の、7巻の時点で12巻以降の)それらの問題と各キャラとが向き合う場面を何度か出してきました。

 そして何よりも、奉仕部の仲が親密になるほどに、三人が男一女二の構成である以上は避けては通れない問題が浮かび上がって来ます。

 先日、あらすじに少し手を加えました。由比ヶ浜が動いてくれたおかげで、ようやく表明できると考えたからです。つまり本作は、八幡の周囲の関係に決着を付けて終わります。この特殊な世界も、各キャラの微妙な設定の変化も、全てはその結末のために用意したものです。

 あとは最後まで書き切るだけ、というのが一番難しいことだとは解っていますが。何とか完結まで辿り着きたいと考えていますので、今後とも宜しくお願い致します。


その2.原作13巻について。
 ネタバレは避けますが、私は面白く読みました。ただエンタメとして面白いかと問われると難しいのと、少し腰を据えて読解しないと面白さが半減する気がしました。

 その辺りの詳しい話を活動報告に書きましたので、雪ノ下や由比ヶ浜の発言をどう解釈したかを知りたい方は「その3」を、13巻を読みながら私が考えた事に興味を持って下さった方は「その1」からお読み下さい。矛盾点や別解釈をお知らせ下さると泣いて喜びます。

 また、可能性は低いと思うのですが、本作が想定する最終話と原作の展開が重なってしまうかもしれず。その場合は、区切りの良いところまで書いた上で「未完」となるかもしれません。

 上記の通り、できる事なら最後まで書き切りたいので、そうなった場合は苦渋の選択だと受け止めて下さると助かります。投げ出す言い訳に使ったと、そう言われるとさすがにしんどいので……お願いします。


その3.今後について。
 例年と同様に年末〜年度末には更新頻度が落ちます。三月までは月一回、四月以降は週一回〜十日に一回ぐらいのペースで、平均一万字以上の更新を考えています。

 話を早く進めたい気持ちはあるのですが、一時的に無理をしてもすぐにしっぺ返しがくるので。以上の予定で宜しくお願いします。


その4.謝辞。
 総文字数が三十万字を超えた頃に、「新規で読んで下さる方は、この先どんどん減るだろうな」と思った記憶があるのですが。今でも時々「○日かけて一気に読みました」と感想を頂いたり、「実は1巻の終わり頃からずっと読んでます」と仰って頂いたり。

 文字数の多さは本作の大きな問題点だと考えていますが、それを読破した上でリアクションまで頂いて。そうした方々に支えられて、本作の今があります。

 この作品に興味を持って下さった方々。一部分でも読んで下さった方々。最新話まで読破して下さった方々。読むだけでなく、お気に入りや感想や評価などの反応を下さった方々。それら全ての方々に向けて、モニタ越しではありますが心から頭を下げて。本章の結びとさせて頂きます。






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