以下、前回のあらすじ。
入学式早々に同級生から反感を持たれた一色は、このたび彼女らの策謀により生徒会長に立候補させられた。だが状況を把握してからの反応は早く、妙に乗り気な担任を逆に利用して推薦人一同という無償の労働力を確保した上で、一色は部活を理由に辞退の意向を示した。
とはいえ担任が食い下がったことやクラスの大半が推薦人に名を連ねている現状ゆえに、立候補の撤回までは果たせなかった。二年生が帰ってくるまで一切は凍結され、校内には不穏な気配が漂っていた。
修学旅行から戻って来た雪ノ下は生徒会室に直行して、そこで事情を知らされた。推薦人から事情を聴取して、別の候補者を探すべきだと口にした雪ノ下は、思惑どおりに就任要請を引き出した上でそれを保留にして。事の収拾を奉仕部で請け負う形にして、部員二人に招集をかけた。
『申し訳ないのだけれど、話が終わり次第、高校まで来て下さい。一色さんの立候補は同級生の嫌がらせで、当人に知られないようにして届けを出したとのこと。疲れているとは思いますが、部室で待っています』
部長様からのメッセージを受け取った比企谷八幡は、東京駅の構内をひた走っていた。
階段を一段飛ばしで駆け下りて、エスカレーターでも立ち止まらず地下四階の総武線ホームまで一気に移動して。そこでようやく息を吐いた。
全力で走ってきたのでさすがに息が苦しいし、少し汗もかいている。両膝に手を置いて、もう一度ふうっと大きく深呼吸して。ゆっくりと頭を上げると、こちらに近づいてくる由比ヶ浜結衣と目が合った。
「このエスカレーターだって、よく分かったな」
「ヒッキーのことだから、最短ルートで来るんだろうなって」
「あー、なるほどな。最短距離で、できるだけスピードを落とさずにって考えたらここか。実際にそう考えて走ってきたわけだしな」
「うん。でさ、ゆきのんのメッセージを見たんだよね。すぐに移動する?」
「いや……」
由比ヶ浜の背後には、少し距離を置いてこちらの様子を窺っている何人かの姿があった。見覚えはないけれど、同じ制服だしおそらく同学年だろう。同じクラスだったらすまんと思いながら一瞬で考えをまとめた八幡は、彼女らを指差しながら生返事に続いて話を始める。
「一色の話は、あいつらも知ってるのか?」
「あ、うん。どうせすぐに分かるしって思って喋っちゃったんだけど……」
「いや、責めてるわけじゃないし、お前の判断で間違ってないと思う。でな、あいつらもお前から話を聞くまでは知らなかったんだよな?」
「旅行中は他の学年に連絡できなかったからね。あたしの話を聞いて、知り合いの先輩とか後輩に確認してもらって。やっぱり事実なんだって」
その返事に少しだけ違和感を覚えて、疑問をそのまま口にする。
「お前は誰かに確かめたりはしなかったのか?」
「あたしが連絡しちゃうと、話が大袈裟になっちゃうかもだしさ。だから確認をお願いしたいって気持ちもあって話したんだけど……」
ふむふむと頷きながら、判断が実に的確なので内心で少し驚いていると。由比ヶ浜がすっと近づいてきて、耳元でこっそりと話し始めた。
「あのね、嫌がらせってことだけは話してないんだ。でね、もしかしたらって疑ってる人もいるみたいだけど、まさかそこまではって考えてる人も多いみたい。クラスの子が盛り上がって、勝手に推薦しちゃっただけだろ、みたいな?」
メッセージに「嫌がらせ」と書いてあったのを素直に受け取った八幡には思い付けなかったことだ。生徒の性格や交友関係に応じて情報格差があるのだと、少し考えれば分かることなのに。由比ヶ浜がいてくれて助かったと思いながら、こちらも小声で口を開く。
「ただ、雪ノ下が断言するからには事実なんだろな。やっぱり……合流する前に、もうちょい情報収集しといたほうが良いか」
「え、でも……ゆきのんが色々と調べてくれてると思うんだけど?」
信頼を寄せる気持ちは理解できるけれども、人には向き不向きがある。全校生徒がどんなふうに事態を受け止めているのか、それを調べるのは部長様には難しいだろう。そう考えた八幡は。
「雪ノ下が苦手なことは補っておいたほうが良いと思うんだわ。生徒の反応とか気にせずに、正論で押し通そうとする時があるだろ?」
「あー、まあ、ゆきのんだしね。えっと、じゃあどうしたらいい?」
その問い掛けに「俺が話してみるからフォローを頼む」と答えて、八幡は同学年と思しき生徒たちに話しかけた。
「えーっと。由比ヶ浜から話は聞いたと思うんだが、会長選挙のことで俺ら奉仕部に依頼が来そうなんだわ。んで、どんな話になってるのか情報が知りたくてな。まあ正確な情報は雪ノ下が調べてくれてるんだが、デマとか誤解がどの程度広がってるかも確認しておきたいって仰せでな。だから、ちょっとだけ由比ヶ浜に協力してくれると助かるんだが」
二人が内緒話をしているのを訝しげに眺めていた生徒たちは、八幡の発言が真面目な内容だったので、一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべて。後ろめたい気持ちを隠そうとするかのように慌てて口を開いた。
「う、うん。それぐらいならぜんぜん良いけどさ」
「でも、具体的にはどうしたらいいの?」
すぐ隣で「それ、あたしも知りたい」って顔をしている由比ヶ浜に苦笑しながら、八幡は説明を始める。
「知り合いの先輩とか後輩とかに、『会長選挙がどうなってるのかよく分からないから一から詳しく説明して欲しい』って頼んで欲しいんだわ。んで、返って来たメッセージをそのまま由比ヶ浜に転送してくれると助かる。あ、個人情報とか過激な発言とかはカットしてくれて良いし、教えても良いって部分だけ転送してくれたら良いからな。情報の整理は雪ノ下がばばばってやってくれるから、些細な情報だからとか遠慮しないでばんばん送って欲しいんだわ」
もっとも部長様の性格からして、情報整理の仕事の半分は八幡が受け持つことになるのだろう。社畜にはなりたくないんだがなと思いながら、八幡が遠い目をしていると。
「それさ、送り先はあたしじゃなくてさ。お悩み相談メール、だっけ。あっちに送ってもらうのはどうかな?」
「あー、なるほどな。んじゃ平塚先生に連絡して、メールを素通しさせてもらうようにお願いしとくか。そのまんま情報収集のためって言えば許してくれるだろうしな」
由比ヶ浜の修正案に深く頷いて、さっそくアプリを立ち上げた八幡は文面を練る。
その横で由比ヶ浜は、お悩み相談メールの送り方を説明して。続けて他の知り合いにも呼びかけるべく、同じようにメッセージの文面を練り始めた。
「この間ちょっと戸部のメッセージを添削する機会があったんだがな。お前ってやたら顔文字を使う割には、内容はちゃんとまとまってるんだよな」
「それ、褒められてるのか馬鹿にされてるのか微妙なんだけど?」
由比ヶ浜の手元にひょいっと視線を送ってそう呟くと、少し照れくさそうに返された。そう言うのは口だけで、実際は馬鹿にされているとはかけらも思っていないのだと、八幡はそれを理解できた。添削したのは昨夜の竹林へのお誘いメッセージだということも、ちゃんと伝わっているみたいだ。
大勢を相手に大量のやり取りを積み重ねてきた由比ヶ浜のコミュ能力は大したものだなと、少しだけ真顔に戻って実感して。そのせいで物理的・心理的な距離の近さに気付いてしまい、何だか身体がむず痒くなってきた八幡は。
「でもあれだな。情報収集って言っても由比ヶ浜に任せきりだし、俺だけぼーっとしてるのも申し訳ない気がするな」
「でもさ、ヒッキーは平塚先生に連絡してくれたし……あ、そうだ。じゃあさ、こういうのはどう?」
顧問にメッセージを送ってから、照れ隠しで自分を少し卑下してみせると。由比ヶ浜が何やら思い付いたみたいだ。予想がつかないので八幡が首を傾げていると。
「あのね、ヒッキーって文実で渉外部門の人たちとは仲良かったじゃん。だからさ、あの人たちへの連絡だけは任せてもいいかな?」
「あー。まあ、連絡を取れと言われれば、まあ……」
見るからに気乗りしない様子の八幡にぷっと吹き出して、由比ヶ浜は元気な声で発破を掛ける。
「ほら、ヒッキーが自分から言い出したんじゃん。全員に連絡するのが大変なら、あの四人だけでもいいからさ」
「その面々なら何とかなるか……。はあ、ぼっちには厳しい仕事だわ」
労力に差があろうとも、情報整理のほうが楽だよなと考えてしまう自分に苦笑しながら。
文化祭の数日前に二人を休ませた時に渉外部門の仕事状況を発表して貰った男の先輩と、スローガン決めに動いてくれた顔の広い女の先輩と、委員長との連絡役を買って出てくれた男女の後輩に宛てて。八幡はメッセージを送った。
***
部員に宛ててメッセージを送った雪ノ下雪乃は、少し会話を重ねてから生徒会室を後にした。今は職員室に向かって廊下を歩いている。
「一色さんの状況が判明する前から『二年生が帰ってくる今週末に投票の詳細を通知する』という方針だったのは不幸中の幸いね。そのおかげで、選管が追加の通知を送らなくても済んだわけだし。当初の予定どおり明日の朝に発表できれば良いのだけれど、最悪の場合は放課後に通知する形になるわね」
足を動かしながら、先ほど確認した情報を小声で振り返る。
一色いろはに立候補を取り下げさせて、代わりに自分が立候補するだけなら明日の朝に間に合うだろう。だが雪ノ下には思惑がある。生徒会からも、そしてできれば部員たちからも望まれる形で立候補したいのが一つ。そしてもう一つは。
「どうせなら、一色さんをこのまま取り込んでしまいたいのだけれど」
角が立たない表現を選んではいるものの、企んでいるのは強奪なのであまり褒められたことではない。もちろん「両立して貰っても構わない」と雪ノ下は考えているのだが、サッカー部からすれば略奪行為に他ならないだろう。
とはいえ現実問題として、雪ノ下が生徒会を率いるには人材が足りない。奉仕部を残しておきたい気持ちがあるだけに、二人を生徒会に加えるわけにもいかないし、距離を測りかねているという事情もある。
会長以外は「その他役員」と一括して立候補を求めたのだが、本牧牧人と藤沢沙和子の他には名乗りを上げた生徒はいなかった。二人はそれぞれ副会長・書記に内定している。
こうした状況だからこそ、一色を見逃す手はなかった。
立候補者を丁重に扱うという姿勢を示すのなら副会長か監査役が望ましいだろう。来年の会長候補という含みを持たせるのならば本牧と並べて副会長に据えるのが無難だが、そうでなければ会計でも良い。
いずれにせよ、一色が参画してくれるだけで雪ノ下の選択肢は大いに広がるのだ。
「稲村くんが乗り気なら、それでも良かったのだけれど」
廊下に出る間際に世間話の体で確認したところ、稲村純は生徒会に復帰するつもりはないらしい。本牧も少し残念がっていたが本人の意志が固いのなら仕方がない。
先程すれ違ったのは、今年度になってからも生徒会の一員としてずっと扱い続けてくれた城廻めぐりにお礼を言いに来たのだそうだ。選挙や代替わりで慌ただしくなる前に、挨拶がてら顔を見せに来たらしい。
「でも、旅行中に比企谷くんと仲良くなったというのは面白かったわね」
まだこの世界に巻き込まれる前のこと。彼と部室で初めて顔を合わせた時には、お互いにこれほど知己が増えるとは思ってもいなかった。ほんの半年かそこらで、自分たちを取り巻く環境は随分と変わってしまった。確実に良い方向へと。
だからこそ、現下の変化もきっと、より良い未来に繋がるはずだと雪ノ下は思った。
廊下を踏みしめる足の裏に力を込めて視線を上向きにした雪ノ下は、職員室のドアを見据えてそれにゆっくりと近づいて行く。
***
職員室にて平塚静の姿を認めた雪ノ下は、まずはそこに向かった。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。生徒会から依頼を受けたのだろう?」
「平塚先生は、立候補の話はもう……?」
「さすがに教師の端くれだからな。旅行中から報告は受けていたさ」
「なるほど。話が早くて助かります。でも、どうして私が今日来ると?」
修学旅行は東京駅で解散となったので、今日はそもそも登校する必要はなかった。自分が生徒会を訪ねることを知っているのはごく一部の生徒だけだ。そう考えた雪ノ下が疑問を伝えたところ。
「比企谷から連絡があってな。お悩み相談メールを使って由比ヶ浜に情報収集をして貰いたいから、一時的に検閲を中止にして欲しいと言われたよ。今回の件を生徒たちがどう受け止めているのかを探りたいのだろうな」
そう言われて事情は理解できたものの、新たな疑問が浮かんでくる。
「それは……先生は大丈夫なのですか。今回の件も厳密には事後報告ですが、もしも私たちが軽はずみに問題のある依頼を引き受けてしまったら」
「私の責任問題に発展するのを危惧する気持ちは嬉しいがね。今の君たちなら心配ないと私は思っているよ。それよりも当面の問題を解決するのが先決だからな」
信頼の気持ちがこれ以上ないほど明確に伝わってきたので、そっとわずかに頭を下げた。部員たちの意図を知って、心が弾んでいるのが自分でも分かる。この感覚を味わいたかったのだと頷きながら、雪ノ下は端的に要望を伝える。
「では私は、一色さんの担任の先生からお話を伺いたいのですが」
「ふむ、なるほど。ついて来たまえ」
即答して立ち上がった平塚は、机越しに教師の名前を呼んで。職員室の奥にある応接スペースを指差して「ちょっと良いですか」と告げると歩き始めた。雪ノ下がそのすぐ後に従い、少し距離を置いて若い男の先生がそれに続いた。
パーティションに区切られた空間で各々が腰を下ろした。
生徒会から依頼を受けた奉仕部が、事態の収拾に向けて動くことになったとだけ説明して。一年C組の担任を雪ノ下と引き合わせた平塚は、その後は無言を貫いた。
雪ノ下にとってはそれで充分だったので、対面の教師の顔をじっと見据えて物怖じせずに口を開く。
「わざわざ時間を取って頂いて申し訳ありません。さっそく本題に入ろうと思うのですが。先生はどうして一色さんの意思を確認せずに推薦を認めたのですか?」
「……一色の希望を確認したら、却下されるのは目に見えていたからな」
雪ノ下の視線を受け止めきれずすぐに目を逸らした辺りに、小心者の性格が垣間見えた。だが言い逃れは難しいと考えたのか、苛立ちが窺える口調ながらも率直な答えが返って来る。
「立候補者として発表されれば、一色さんも諦めるだろうと?」
「それもある。けど、無理に押し付けたいと思ったわけじゃなくてな。クラス内の対立を収めるには良い機会だと思ったんだよ。一色が生徒会長になって、推薦した生徒たちが最初は嫌々でもそれを支えていくうちに、宥和を得られるんじゃないかってな」
すぐ横に座る平塚と一瞬ちらりと視線を合わせて、遠慮は無用だと言われた気がした。だから雪ノ下は言葉を飾らずに指摘する。
「それは予測ではなく単なる願望ですよね。それに無理に押し付けている形だとしか思えないのですが」
「おいおい。雪ノ下が優秀なのはさんざん聞いてるから知ってるけど、あんまり虐めないでくれよ。担任したクラスが入学早々に二つに割れて、それからずっと陰に陽にいがみ合いが続いてたんだぞ。俺だって穏便に事が収まる方法があるならそっちを選んださ。でも他に手がなくてな」
いささか自己弁護が先走っているきらいはあるものの、情状酌量の余地はあるのだろうなと雪ノ下は思った。まだ若いのに、担任したクラスでいきなりこんな事態に出くわして、この教師も混乱しているのだろうと。
そんな雪ノ下の感想を平塚が聞けば「ぴちぴちの十六歳が何を言っているのやら」と思っただろうし、それを八幡が聞けば「ぴちぴちなんて、きょうび聞かねぇな」と呟くのだろうが、それはさておいて。
「つまり先生としては、クラス内が平穏になれば一色さんの会長就任には固執しないと。そう考えて宜しいでしょうか?」
「まあ、そうだな。ぶっちゃけ俺が心配してたのは、対立がいじめに発展することだったからな。あ、そういえば雪ノ下と平塚先生は千葉村の合宿に参加してましたよね。あれ、確実にいじめがあったと思うんですけど、よく収拾できましたね」
問い掛けられた平塚が慎重に口を開く。
「どうして、そう判断されたのですか?」
「え、だって写真を見たら判るじゃないですか。雪ノ下とゲームをしていた小学生の中で、一人だけ明らかに異質に見えましたよ。いじめだって指摘したら言葉が一人歩きを始めるから、誰にも言わずに済ませましたが」
八幡の印象が残っていないことに、部長として少し文句を言いたい気持ちもあるのだが。あの時の彼の奮闘ぶりを教えたところで猫に小判だろう。いや、この教師を猫に喩えるのは分不相応に過ぎる。私としたことが何と軽率なことを考えてしまったのかと雪ノ下が身悶えているその横では。
「失礼ですが、先生はいじめの現場に遭遇されたことが?」
「ああ、気を使って頂かなくても大丈夫ですよ。俺が被害に遭ったわけじゃないので。でも、いじめと知りながら何もできなくてそれをずっと後悔してる奴にとっては、あの写真は判りやすいにも程があるという感じでしてね。それに最後の退村式の写真と見比べたら一目瞭然だから、あの女の子の変化に気付いてる奴はもっと多いと思いますよ」
千葉村のレポートではいじめの問題には触れていないのに。添付した写真だけを根拠にいじめの存在を見抜けるのだと知って、わかる人にはわかってしまう事の厄介さを雪ノ下は思う。今までずっと見通されて来ただけに、それを忌避する感情は心の奥深くに突き刺さった。
だからこそ、と気持ちを新たにして。一年C組の担任にお礼を告げて、雪ノ下は事態の収拾を約束した。
***
同じ頃、一年C組の教室では。
「どうしてぺらぺら喋っちゃったのよ」
「全部話しちゃうなんて、ほんと最悪」
「一色を生徒会長に祭り上げるのも難しそうだしさ」
「それどころか、ただ働きをさせられそうだってのに」
呼び出しから戻って来た女子生徒を口々に罵る声が響いていた。とはいえ言われたほうも、言われっぱなしで済ます気はないみたいで。
「そう言うんならさ、雪ノ下先輩に面と向かって言い訳して来なよ。生徒会室に入って雪ノ下先輩がいるって判った時点で、もう絶対に嘘も黙秘も無理だって思ったんだから。今頃になって『文実のことで』って呼び出されるのは変だって、誰も気が付かなかったくせに。雪ノ下先輩の迫力満点の姿は文実でも何度か見て知ってたけどさ。それでも無理って思ったし、あれを見た事ないあんたらには絶対に無理だって」
淡々とした口調で氷の女王の怖さを伝えられて。クラスに沈黙の帳が降りた。
やがてぽつりぽつりと質問の声が上がる。
「……その、喋らないってのは、無理だった?」
「だからそう言ってるじゃん」
「……えっと、ほんとに、そこまで怖いってのは事実なの?」
「敵だと思われたら容赦ないから、最悪の事態を覚悟したほうがいいと思うよ」
「一色と割と仲が良いってのも本当なのかな?」
「少なくとも由比ヶ浜先輩と仲が良いのは確かみたいだし、じゃあそうなんじゃない」
「チバセンで一色を三浦先輩にけしかけてたよね?」
「あ、そっか。あの一色にただ働きをさせるなんて、仲が良いのは確定だよね」
実際には一色は、由比ヶ浜が提案した「ゆきのんの手作りディナーのフルコース(調理時の見学および質問可)」をしっかり堪能しているのだが。それを彼女らが知るはずもなく。
「ねえ。どうして私たちって、こんなことをしちゃったのかな?」
その呟きに応える声はなく、彼女らは俯いたまま来る未来を受け入れるしかなかった。
***
東京駅から最寄りの駅までの移動時間を省略して、そこからは徒歩で高校に向かった。
お帰りメールやら質問やらをばっさばっさと捌きながら歩いている由比ヶ浜の安全に気を配りながら、八幡は通い慣れた道を進む。
やがて見慣れた校舎が視界に大きくそびえる頃にはメッセージの洪水も治まったみたいで。「気を使ってくれてありがと」という言葉と一緒に二人は正門を通り抜けた。
校内に入った八幡は特別棟を目指して歩を進めた。すぐ横には由比ヶ浜がいてくれて、それに何度も通い慣れたルートなのに。今日は何故だか少し足が重い。
最後に部室を後にした時には、次に来るのは一週間後の金曜日だと思っていた。それが一日早まって、更には三人の関係性も出発前とは違っている。
由比ヶ浜が告白してくれて。
返事こそ保留にしている形だが、二人のことにもっと詳しくなって自分のことももっとたくさん知って貰って、そうして結論を出そうと八幡は考えている。
事ほど左様に、この数日で状況は大きく変わってしまった。
あの部室から遠く離れてしまった気がして。あの場所での再会を楽しみにしていたはずが、今は部屋に入るのが少し怖いと感じてしまう。雪ノ下にどんな表情で迎えられるのだろうと思うと、明日出直せたら良いのになどと考えてしまう。
八幡が部室まで数歩の距離で立ち止まると、由比ヶ浜はそれを予想していたのかすぐ横に並んで足を止めた。
息を大きく吸い込んで。「よし、行くか」と口にしてから歩き出そうとしたら、優しく左肩を叩かれたので。慌てて左腕を伸ばして、先に行こうとした由比ヶ浜を遮った。
「お前な、あんま過保護なのは良くないと思うぞ。俺がどんどんダメな奴になるだろが」
「あー。そういえば言ってたね、なんかそういう面倒くさそうなこと」
そう言われると、とたんに気恥ずかしい気持ちが大きくなって。それを誤魔化す意図もあって、八幡は別の話を始めた。
「さっきもな、渉外部門の四人に連絡させただろ。あれ、よく考えたら宛先を増やすだけだから、お前が送ったほうが早かったはずだよな。なのにわざわざ俺に連絡させて。すぐに気が付けなかった俺が今さら文句を言うのは違うって分かってるんだがな。でも、あんま甘やかすなよ。専業主夫の夢を叶えちまっても知らねーぞ?」
「けどさ、あたしが家事をするよりもヒッキーにやってもらってさ。あたしは働きに出たほうがいい気もするんだよね」
見事なカウンターを喰らってぐうの音も出ない八幡は、再び肩を叩かれて赤らめた顔を横に向けた。
「ほら。じゃあヒッキーのすぐ後に付いて行くからさ。だから、あたしを部室に連れてって?」
「へいへい。とりあえず中に入りますかね」
廊下でこれ以上恥ずかしい思いをするぐらいなら、ひと思いに部室に入った方がましだ。そう考えた八幡は入り口までの距離を一気に縮めて、ドアに向かっておもむろに手を伸ばした。
***
部室では雪ノ下がノートパソコンを立ち上げて、次々と届くメールに目を走らせていた。作業に深く集中しているのか、ドアが開いたことにも気付かず同じ姿勢を保っている。
背筋をぴんと伸ばして無心にモニタを凝視している雪ノ下の姿は、どこか絵画じみていて。二人はしばらくその場から動けなかった。
顔を見合わせて、ようやく意を決して部屋に足を踏み入れると、空気の流れか何かを察知したのだろう。雪ノ下が顔を上げて、二人に向かって微笑みかけた。先週までと同じように。
「ゆきのん、やっはろー!」
「うす」
もう二度と味わえないのではないかと思っていたこの部屋の雰囲気を十全に感じ取れて。思わず二人の口からいつもの言葉が飛び出した。微笑みを絶やさぬまま雪ノ下もそれに答える。
「由比ヶ浜さん、比企谷くん、こんにちは」
「遅くなってごめんね。ゆきのんと合流する前にもうちょい情報を集めておこうって話になってさ」
「まあ、お前が読んでたそれなんだがな」
順に口を開きながら、二人がいつもの席に腰を下ろすと。
「ごめんなさい。すぐに紅茶を淹れるわね」
「あ、そういえば何時に着くって連絡してなかったよね。だからゆきのん、気にしないで」
「だな。メールを一気に読んで疲れてるだろうし、飲物ぐらい気にすんな」
そう言われた雪ノ下は少し照れくさそうに、右手で順番に左右の目の上の辺りを軽く押さえて。一瞬だけ瞑目してから再び二人の姿を見据えた。
「ではさっそく仕事の話に入るわね。今回の依頼の目的は、会長選挙を無事に終えることなのだけれど。同時に、一年C組における一色さんの状況を改善することも大事ね。ここまでは問題ないかしら?」
二人が頷いたのを確認して、雪ノ下はそのまま話を続ける。
「事の発端が嫌がらせだと気付いている人はそれほど多くはないわ。今回の黒幕はあまり目立った存在ではなくて、一色さんと比べると知名度がうんと下がるみたい。だから逆に一色さんが悪目立ちしているという話にもなるのだけれど」
「それってお悩み相談メールに届いた情報だよね。そっちはだいたい予想できるから、ゆきのんが調べた情報を先に教えて欲しいなって」
「なるほど、たしかにそうね」
由比ヶ浜の要望を聞いて頷きを返した雪ノ下は、容疑者を尋問して得た情報を二人に伝えた。文実で初回に集まった時に八幡と交わした雑談が、彼女らの行動に繋がっているという話を。
「あの時の雑談な。まあ確かに言われてみればって感じなんだが。冗談が通じない奴がいるような場で、下手なことは口にするもんじゃねーな」
「それには私も同感なのだけれど。でも、起きてしまったことは仕方がないわ」
三人の会話のテンポが少しずつ上がっていく。
「だな。んじゃ、その辺の事情を公表して一色が立候補を取り下げたら解決かね?」
「でもそれだとさ、クラスの中がぎくしゃくしちゃわないかな。それに、悪いことをしたのは確かだけどさ。それを公表されてみんなに責められて、そんな状況に耐えられるとは思えないんだよね」
「そうね。私も、彼女らは相応の罰を受けるべきだとは思うのだけれど。今の状況で真相を公表すると……」
「ヘイトが集まりすぎて、罰が重くなり過ぎる可能性が高い、か。理屈は解るんだが、人に迷惑を掛けるようなことをしでかしておいて、そんな奴らの事情を考慮する必要があるってのも、なんか変な話だよな」
「ヒッキーが言いたいことはあたしも分かるんだけどさ。そういうのを無視しちゃったら、結局は他の人たちにも影響が出ちゃうんだよね」
「例えば、過剰な罰への同情が、一色さんへの反感という形で現れる可能性も低くはないのよね」
八幡が口を開く順番だが、ここで少し間を取った。頭の中で話す内容を整理して、そして再び口を開く。
「じゃあ推薦人が先走ったって話に留めておいて、そいつらを裏で軽く脅しつけて。一色には立候補を取り下げさせて、後は会長選挙か。まさかとは思うが、お前が出るとか言わねーよな?」
「うん。あたしも、ゆきのんが背負い込むのはちがうと思う。その……」
由比ヶ浜は続けて何かを言いかけたものの、結局は言葉を濁した。自分が口にすべきではないと考えたことに加えて、雪ノ下が表情を改めたのに気が付いたからだ。
「客観的に考えれば、私が適任だと思うわ。それに、私はやっても構わないもの」
「それだとこの部活が……ちっ。こんなことになるなら俺らの帰りを待たないで、生徒会が事を収拾してくれたら良かったのにな」
雪ノ下が会長になるかもしれないという話は、今までにも何度も出てきた。だが今ほど切羽詰まった状況ではなかった。雪ノ下の表情も口調も、以前とはまるで違って見える。
これは相談ではなく、決意を伝えられているだけだ。そう考えた八幡が思わず悪態を吐くと。
「城廻先輩をはじめ三年の先輩方はもうすぐ卒業でしょう。だからこの高校の行く末は私たちが考えるべきだし、むしろ二年生が帰るまで我慢強く待ってくれたことを感謝すべきだと思うのだけれど。陰では少なからぬ批判も出ていたと思うわ」
静かな口調で反論を行う雪ノ下は、やはり決意を終えてしまったように感じられた。だが、それは待って欲しい。せっかく三人でもっと多くの時間を過ごしたいと、その希望を由比ヶ浜には伝えられたのに。それを告げられないまま雪ノ下に遠くに行かれるのは勘弁して欲しい。
雪ノ下に無理をさせたくないという気持ちや、できれば部活の時間ぐらいは二人を独占したいという邪な感情も加わって。焦燥感に駆られた八幡もまた、決意を口にする。
「あのな。お前が会長をやりたいって言うのなら、俺
そういえば、二人の結論を聞いていなかったなと雪ノ下は思った。だが今の発言だけで充分だ。二人は既に特別な仲なのだろうと考えて、雪ノ下は僅かに残っていた迷いを断ち切った。
会長になりたいという気持ちはある。だがそれは思惑あってのこと。会長就任が目的なのではなく、正確にはそれは手段に過ぎない。だから八幡の言葉には応えられないし、部員に望まれる形で就任するという思惑も、もはや潰えた。後は強行突破しかない。
「会長に就任しても、この部活はなくならないわ。私は部長を辞める気はないし、あなたたち二人がいてくれれば問題はないと思うのだけれど」
それでも、雪ノ下の軸足が生徒会に移ってしまうのは間違いないだろう。必然的に三人で過ごす時間は減ってしまう。それは八幡にも、そして由比ヶ浜にも受け入れられることではなかった。
二人が望んでいるのは、二人だけで過ごせる時間ではない。つまり、雪ノ下が生徒会室で推測したことは現実と正反対だった。
「部長って名前だけがあっても、ゆきのんがこの部屋にいないんじゃ仕方ないじゃん!」
「でも、他に手はないと思うのだけれど?」
感情で語る由比ヶ浜に、雪ノ下は冷静に応える。
客観的に見て生徒会長は自分が適任だという、傲慢とも言えるその姿勢を前にして。八幡に伝えた決意が由比ヶ浜の中にふつふつと湧き上がる。
同じようなことは昨日もやった。それに、自分から行くと決めたから。
だから、由比ヶ浜は決意を語る。
「生徒会長が適任なのは、ゆきのんじゃないと思う。あたし、立候補するから」
本当は、同じことだと解っている。三人で過ごす時間が欲しいのに、どちらが会長になっても二人で過ごす時間しか得られない。でも、あたしはヒッキーのことも好きだけど、ゆきのんも大好きだから。あたしが好きな二人にも仲を深めてもらわない事には、その先には進めないから。
そう考える由比ヶ浜にとって、この宣言は必然だった。三人の中で誰よりも先の未来を見据えている由比ヶ浜は、唖然としている二人に向かって言葉を続ける。
「だってさ……あたし、この部活、好きなの。ゆきのんも、ヒッキーも、好き。だから……もしも争うことになっても、ゆきのんに勝つよ」
由比ヶ浜の声が周囲に拡散して消えて、部室に静寂が訪れた。
メッセージの到着を知らせる場違いな音が鳴り始めるまで、それは果てしなく続いた。
先日久しぶりに短編を更新しました。
作品の後書きに記した理由に加えて、13巻の読後感を少し持て余していたので、あれを書けて良かったです。
動機は本作の2巻20話と同じ、目的は最後から二つ目の文章(の目的語)を言語化させることでした。
本作と同様に「作中で取り上げた作品を知らないと分かりにくいかも」という課題が解消しきれていませんが、宜しければ目を通して頂けると嬉しいです。
次回は来月の二十日過ぎを予定しています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
冒頭にメッセージの内容を再掲して、細かな表現を修正しました。(1/17,2/27)