雪ノ下からの招集を受けて、八幡はまず情報収集に動いた。一色の立候補を嫌がらせだと知っているのはごく一部で、大半は「クラス内で盛り上がって勝手に推薦しただけ」と捉えているらしい。由比ヶ浜と協力してそうした状況を確認してから八幡は高校に移動した。
同じ頃、雪ノ下は一色の担任に事情を訊いていた。一学期早々にクラスが二つに割れて、それ以来ずっといがみ合いが続いていたので、推薦が和解に繋がると考え飛び付いてしまったとのこと。一色の会長就任よりもクラスの平穏を優先するという言質を引き出して、雪ノ下は部室に向かった。
三人はいずれも関係の変化を危惧していたものの、いざ顔を合わせるとそれは杞憂に終わった。依頼の解決に向けて話し合う様子は以前と何ら変わりなく、基本方針はすんなりと決まった。
だが、全てが同じというわけではなく。
雪ノ下の立候補に二人が異を唱え、そして由比ヶ浜の決意表明が教室内に響き渡った。
生徒会長に立候補させられた月曜日から、口ではずっと辞退の意向を漏らしつつも公式には撤回できないまま。一色いろはは悶々とした日々を過ごしていた。
できるだけ今までどおりにと平然とした風を装ってはいるものの。つい先程もグラウンドの片隅から、こちらを指差して何やら言い争っている声が聞こえてきた。
自分が口をはさんでも事態が悪化するだけなので。気が付かなかったふりをして、サッカー部のマネージャー業に再び意識を集中する。
しばらくの間は無心に仕事をこなした。だがそれも長続きはしない。日に日に注意が散漫になっていく自分に、一色は辟易する。わたしはこんなに弱い性格ではなかったはずだと己を奮い立たせようとしても、それを四日も続けていると効果がすっかり薄れてしまった。
「あれっ?」
練習が一区切りついたので、グラウンドで車座になって寛いでいる部員から少し離れて。遠くの夕焼けをぼけっと眺めていると、急に辺りがざわつき始めた。どうしたのだろうと思いながら振り返ると。
「あっ。葉山先輩、帰って来たんですね。お疲れさまです~」
正門からまっすぐ自分のほうへと歩いてくる先輩二人が視界に入った。頬を緩めて目をきらきらさせながら、一色は葉山隼人にだけ声を掛ける。
葉山はほんの少し首を傾げて、歩きながら軽く頷いた。そのまま一色の目の前まで来て足を止める。
「やあ。ちょうど練習の合間だったみたいだね。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「あ~、はい。じゃあ、あっちのほうに行きましょうか」
用件を悟って、少しだけ雑な声が出てしまった。
葉山の顔を見て少し元気が出たのも確かだが、この先輩では目下の問題を解決できない。それを理解しているからこそ、つい面倒な気持ちが表に出てしまったのだろう。
一色の問題を解決するには、他に誰か立候補者が必要だ。だが葉山にその気がないのはサッカー部の誰もが知っている。
きっと親身になって動いてはくれるのだろう。先週の一色ならそれだけで満足できたのだろうが、今はそれよりも目に見える結果が欲しい。これ以上この問題に煩わされたくないし、早く安心させて欲しいというのが一色の偽らざる心情だ。
まだ木曜日だというのに。天然あざとい中学生に毎夜、癒やされていたというのに。自分が思っていた以上に弱っているのを自覚して、一色は歩きながらこっそり唇を噛みしめた。
水飲み場の近くで立ち止まって、近くに誰もいないのを確認してから振り返ると。一色はここで初めて戸部翔にちらりと目線を送った。
「あれっ。戸部先輩、わりと普通ですね?」
「お、おー。いろはすは俺っちのどんな姿を想像してたのよ?」
「あ~、いえいえ。お元気ならそれで良いんですけどね~」
戸部が同級生に向ける好意はあからさまだったし、修学旅行の直前には異常なほどの気合いが感じられた。だから、もはや玉砕は待ったなしとの結論で、サッカー部の一年生の見解は一致していた。
なのに今の戸部からは妙な余裕が伝わって来る。悲痛な気配は微塵もないが、さりとて浮かれ気分というわけでもない。旅行先でいったい何があったのやらと一色は思い、すぐに興味を失った。それよりも他に考えるべきことがあるからだ。
「いろはもこれで、戸部を気遣っていたんだろ。あんまり後輩に心配かけるなよ」
「いやー、マジいろはす最高の後輩っしょ!」
ああ、やっぱりいつも通りでしたね。わたしの気のせいでした。
心の中でそう呟いて、いらっとした感情を吐き捨てると。戸部を意識から除外した一色は、葉山の顔をじっと見つめた。
「ん……ああ。生徒会長に立候補した件で、少し話をしたくてね。俺は明日でも良いかと思ってたんだけど、今日来て正解だったみたいだね」
「それって、どういう意味ですか?」
視線を感じ取った葉山にそう説明されて。一色はふにゃんと首を傾けた。二年生には詳しい情報を伝えていないと城廻めぐりが言っていたはずだが。この先輩はどこまで事情を把握しているのだろうか。
「立候補がいろはの意思だと思っていたからね。サッカー部としては痛手だけど、いろはの考えをちゃんと聞いて最善の道を選ばせてあげたいと、そう思ってたんだけど。この様子だと、いろはの意向を無視して勝手に推薦したとか、そんな感じだろ?」
「……そこまでわかっちゃうんですね」
同じ学年に上位の存在がいるからといって。たとえ成績が万年二位でも、彼女を除けば同学年の誰よりも優秀なのは間違いないのに。あの先輩の才能に目が眩んで、無意識のうちにこの先輩を過小評価していたのだろう。
そうした評価も今の一色の葛藤も、その全てを見通してなお葉山は優しく笑う。その表情の奥にどんな感情が潜んでいるのか、一色は未だ解明しきれていない。
「いつものいろはだったら、俺たちが近付くまで大人しく待っていないだろ。だいぶ疲れが溜まってそうだけど。この四日間、よく頑張ったな」
「あ~、葉山先輩が首を傾げてた時ですね。あんなので見抜かれちゃうなんて、わたしもまだまだですね~」
そんな葉山からねぎらいの言葉をもらって、一色は反射的に身構えてしまった。
この場における最適解は「葉山先輩、疲れました~」とか何とか言って慰めてもらうパターンだろう。普段なら、その程度のあざとい擬態ぐらい昼寝をしながらでもできそうなのに。今は何故か、それをしたくないと思ってしまった。
おそらく、葉山の奥底を見通せていないことに加えて。この場で甘えさせても、わたしなら勘違いをしないと考えているからこそのあの言葉なのだと。そこまでは見抜けていることも影響しているのだろう。一色はそう考えながら言葉を続けた。
「でもでも、もともとは明日でいいと思ってたんですよね~?」
「ああ、それは……」
「様子を見て来いって、優美子が言って聞かなかったんだべさ」
まったく、この先輩たちはこれだから困る。敵に塩を送ってどうするんだと、わたしまでお節介を言いたくなって来るではないかと。一色は心の中でそう呟いた。
ツンデレにも程があると、やる気のない声で指摘されそうな気がしたので。ぷるぷると首を振ってその幻想を退ける。
「じゃあ、俺たちはそろそろ帰るな」
「あれっ。隼人くん、詳しい話をしなくても良いんだべ?」
意外な発言に目をぱちくりさせていると、戸部が代わりに問い掛けてくれた。うんうんと頷きながら葉山の様子を窺うと。
「だいたいの事情は判ったし、これ以上いろはに負担をかけても仕方がないだろ。俺は会長に立候補する気はないし、まずは雪ノ下さんがどう動くかだからな。場合によっては明日から忙しいことになりそうだし、今日は旅行の疲れをしっかり癒やしておいた方が良いぞ」
なるほど、そういうことかと納得する。今の段階で葉山が動いても問題を解決できないと、自分も先ほど同じように考えていたはずなのに。すっかり頭から消え失せていた。
やはり本調子には程遠いなと一色が自己分析していると。
「やー、そういう話なら了解っしょ。じゃあ今夜は家で過ごすんだべ?」
「ああ、そのつもりだ。俺がいなくても最低限の勉強はしておけよ。もうすぐ期末だぞ」
「旅行帰りの今日くらいは勘弁して欲しいっしょー」
戸部たちと一緒に個室で過ごすのではなく、今夜は自宅に帰るのだという情報を仕入れても。今の一色にはそれを活かすことができない。無理に家まで押しかけたところで、迷惑以外の何物でもないだろう。これでも節度は弁えているつもりだ。
自らに言い聞かせた言葉を後悔するはめになるとはつゆ知らず。
一色はほんの少しだけ小さく笑って、自分に会いに来てくれた先輩二人を見送った。
***
連絡が来たので少し早めに部活を抜けさせてもらって、まずは生徒会室に。そこで城廻と合流した一色は、そのまま奉仕部の部室に向かった。
歩きながら「三人全員が揃っている」と聞いて、さすがの一色も申し訳なく思ってしまう。
自分に落ち度はないと解ってはいるのだが、修学旅行の疲れもそのままに先輩方に動いてもらうのは気が引ける。わたしがクラスでもっと上手く立ち回っていたらと、そんな馬鹿げたことすら考えそうになってしまう。
「メッセージに反応はなかったけど、中にいるみたいだし入ろっか」
教室の入り口付近で少しだけ立ち止まって間を置くと。城廻がそう言いながら背中を押してくれた。
立候補者という立場のまま放っておかれている形なので、内心では生徒会をずいぶんと恨んだものだが。この先輩の対応に裏がないのは明らかだし、八方塞がりの状況だったのも分かるといえば分かる。誰かが貧乏くじを引く必要があって、それがたまたま自分だったという事だ。
疲れているのが原因なのか、諦観や自責の感情が増えている自分に気が付いたので。一色は両手を握りしめて身体の正面に持ち上げると「よしっ」と言いながら脇を締めて、気持ちを入れ替えた。
「失礼しま~す」
ドアを開けると声を飾ってそう呼びかけて、ちょこまかとした動作で部屋に入った。予想していたタイミングで反応が来なかったので顔を上げると、なんだか室内がどよんとしている。
「あっ。いろはちゃん、やっはろー」
「結衣先輩、お疲れ様です~。旅行どうでした?」
ワンテンポ遅れて由比ヶ浜結衣から返事が来たものの、声にいつもの元気がない。だから無難な話題で会話を続けてとにかく暗い雰囲気を和らげようと考えた一色だが。
ずーんという音が聞こえそうなぐらいにはっきりと、室内の空気は重みを増した。
「うん。色んなことがあったけど、あたしは楽しかったよ」
「どうせなら海外にって思ってても、実際に行ってみると国内旅行もけっこう楽しかったりしますよね~」
突っ込みどころしかない返事を意図的に聞き流して、一色は内心で冷や汗を流しながら明るい口調で返した。
すぐ横を見ると城廻がにこにこしながら「楽しかったなら良かったー」とでも言いたげな表情を浮かべている。物事の良い面ばかりを見るのはこの先輩の美点ではあるのだけれど、裏を全く見ないで大丈夫なのかと要らぬ心配をしそうになる。
「私も旅行は楽しかったわね。ここにいる二人や同級生のおかげだと思っているのだけれど」
きょろきょろと落ち着かない一色だったが、雪ノ下雪乃の言葉を耳にしてようやく人心地ついた気がした。ほっと肩の力を抜いて軽く頷いていると。
「ヒッキーも『小中の修学旅行と違いすぎて』とかって言ってたもんね。あそこではっきり『楽しい』って言わないのが、ヒッキーだよね」
「あー、三日目の朝にそんなことを言ったっけな。つか『ヒッキー』が貶し言葉になってねーか?」
比企谷八幡の軽口も飛び出して、ようやく重い空気が取り払われた気がした。
だが同時に以前との違いも感じ取れてしまう。三人の距離が近いような遠いような、そんな不思議な印象を抱いてしまった。
単純に近いか遠いかの二択ではなくて。ある部分では以前よりも遙かに近く、違った側面では逆に遠くなっている気がして。そうした複雑な関係性を三人から感じ取った一色は、傾けていた首を更に深く倒して三人の出方を窺うことしかできない。
「では、そろそろ始めましょうか。一色さんと城廻先輩もどうぞ席に」
そう促されたので、二つ並んだ依頼人席に腰を下ろす。右手に座る雪ノ下、斜め右の由比ヶ浜、左手の八幡を順に眺めて。最後にすぐ左の城廻に軽く頷いてから、一色は首を再び右に動かした。
「今回の目標は、会長選挙を無事に終えることですね。でも実は、奉仕部の中で意見が分かれていまして……」
「そうなんだ。なんだか珍しいねー」
雪ノ下の話し方はどこか事務的で、由比ヶ浜も八幡も表情が硬いまま。それらを確認した一色が無意識に右手を握りしめていると。
ほんわかとした声が室内に響いた。
「そうですね。でも異なる意見を言い合えるほうが、むしろ健全だと思うのですが」
「うん、それもそうかも。じゃあ、詳しい話を教えて欲しいな」
雪ノ下の喋り方も表情も少し柔らかくなっていた。
一色がその変化に驚いているのを尻目に、城廻が話を促すと。
「一番の違いは一色さんに代わる立候補者ですね。私は自分が適任だと考えていたのですが、二人に反対されました。それで、由比ヶ浜さんにも立候補の意思があるそうです」
「ゆきのんにばっかり負担が行くのは、やっぱり違うんじゃないかって思ったんです。それだったら、あたしがって」
「つってもまだ決まったわけじゃねーだろ。雪ノ下の負担を減らしても由比ヶ浜に負担が行くんだったら意味ねーからな」
三人が意見を言い終えて、そのまま各自で考え込んでいる。
それぞれの目論見があるとしても、ここまで自分の存在が考慮されないのは少し悔しい。一言でも「やっぱり会長になる気はない?」と尋ねてくれれば、一色も遠慮なく「ごめんなさい」と言えるのに。
会長になる気はさらさらないけれど、この先輩方に負担を押し付ける形になるのは一色としても気が引ける。それは、あまり認めたくはないけれど、雪ノ下とも由比ヶ浜とももっと仲良くなりたいと思っているからに他ならない。
他人に絆されるなんて馬鹿らしいと、そう思っていたはずなのに。誰かに動かされるのではなく動かす立場になるのだと心に決めて、以来ずっと自分磨きをしてきたはずなのに。
この先輩たちになら、なんて。そんな奇特なことすら考えてしまいそうになる。
たぶん、打算や擬態が通じない相手だってことが一つ目の要因で。二つ目の要因は、単純に一緒にいて楽しかったからだろう。こんな時間をまた過ごしたいと思ってしまったからだろう。
けれど、その時間を得るために自分が差し出せるものが見当たらない。
多くの男子が喜んでくれるような擬態はこの人たちには通じないし。お菓子作りでも、人の話を聞いてあげることでも、わたしはこの二人に遠く及ばない。これでも同年代の大半の女子には負けない自信があったのに。上には上がいると思い知らされた。
自分の信念を曲げようとは思わない。他人を上手く動かして自由気ままに快適な毎日を送りたいという気持ちは変わっていない。けれどその他人の中に例外が生まれた。「この人たちになら」と考えてしまうのは、わたしの心の弱さの表れなのだろうか。それとも……?
「一つ、教えて欲しいことがあるのだけれど。仮に私が会長になっても、先程も言ったように奉仕部の部長は続けるつもりよ。では、由比ヶ浜さんは?」
「あたしも部員のままでいるつもり。やめる気はないよ、どっちもね」
沈黙を破ったのは雪ノ下の問い掛けだった。
それに由比ヶ浜が即答すると。
「そう。でも生徒会の意向と奉仕部の意向が対立する可能性もあるでしょう。その場合はどうするのかしら?」
「ストップ。それってお前が会長の場合でも同じだろ。両方のトップがお前でも、下の連中が勝手に対立しないとは限らないからな」
雪ノ下の追及を受けて口ごもった由比ヶ浜に代わって。八幡が間に入るとそのまま話を続けた。
「んで、俺の意見を言わせてもらうとだ。生徒会と奉仕部が独立して存在してたから上手いこと役割分担ができて、今まで揉め事を収めてきたって経緯があるだろ。けど、お前らのどっちが会長になっても生徒会と奉仕部の境界は曖昧になるからな。だから俺は反対だ」
「でもさ。ヒッキーは他に会長候補って……」
「心当たりは皆無だな。でもそれは、反対しない理由にはならんだろ?」
「詭弁ね。でも、説得力がないとは言わないわ」
くすっと久しぶりに笑みを漏らした雪ノ下につられてか、由比ヶ浜も八幡も苦笑いを浮かべている。
そんな三人をにこにこと眺めている城廻と、口を挟めないでいる一色をよそに。話し合いは加速する。
「でも比企谷くんが何を言っても、私も由比ヶ浜さんも今さら引く気はないわよ。第三の案を提示するか、それとも私たちのいずれかに肩入れするか。選択肢は他にはないわ」
「だね。ヒッキーが協力してくれるなら嬉しいけど、ゆきのんを選んでくれてもいいからね。それでもあたしは勝つつもりだし、気が進まないことをヒッキーに無理強いしたくはないからさ」
もはや二人の立候補は避けられそうにない。それをようやく受け入れて、八幡も腹を括った。
「いや。お前らが会長になるのは反対だってのが俺の立場だからな。どっちの応援をするつもりもないし、傍観者になる気もない。となると選択肢は一つか」
「そうね。とはいえ時間がないわ。タイムリミットは明日の朝、どんなに引き延ばせても放課後までよ。それまでに対案を出せるのかしら?」
「あ、そっか。選挙の詳しいことは明日通知するって書いてたもんね。ヒッキー、大丈夫?」
決意を下した二人から心配されて、八幡はそれを一笑すると。
「お前らの会長就任を邪魔するためだ。一晩考えて、明日の昼にここで打ち合わせって形にして貰って良いか?」
「ええ、構わないわ。由比ヶ浜さんもそれで良いかしら?」
「うん、大丈夫。じゃあ、あたし今から公約とか色々考えたいから先に帰るね。ゆきのんやヒッキーが何をしても、ぜんぶ無駄になっちゃうから」
元気にそう宣言して由比ヶ浜が立ち上がると。
口元を綻ばせた二人は「それは俺のセリフだな」「いえ、私のよ」と言って見送った。
話はまとまらなかったものの、一色の立候補に関してはこれで解決だと、三人全員がそう考えていたので。
すっかり蚊帳の外に置かれた形の一色が何を考えていたのか、誰もそれに気付けなかった。
***
顧問に報告に行くという雪ノ下を見送って、生徒会室に戻るという城廻には同行せず。一色は部室の前で八幡と二人きりになった。
「んじゃ俺は個室経由で帰るから……うげっ」
「せんぱい、ちょっと疲れました〜」
不穏な気配を察して逃げようとした八幡の上着をぐいっと掴んでぼそっと呟くと、呆れたような目を向けられた。
「ならお前も早く帰れば良いんじゃね。じゃあ俺は……」
「あ、わたし忘れ物をしたかもです」
「かもって何だよ。さっさと取りに行けば良いんじゃね?」
「ですね〜。じゃあ、せんぱいの家に行きますよ?」
「はあ。俺の家に忘れ物ってことな。男の家に押しかけるとか、もうちょい節度を弁えたほうが良いんじゃね?」
つい先ほど自らに言い聞かせた言葉を思い出して、少しだけ後悔したものの。まあいいやと思い直して一色は口を開く。
「せんぱいの家じゃなくて、小町ちゃんの家ですよ〜だ」
「あー、うん。今日一番のあざとさだな」
「それで、連れてってくれるんですか?」
「これって、断ったら俺が小町に怒られちゃうんだよなぁ」
「じゃあそういうことで。ほらほら、せんぱい早く〜」
ため息を吐きながらも大人しく付き合ってくれる辺り、ポイント高いですよ。
決して口には出さないものの、一色は心の中でそう呟いた。
八幡の個室経由で自宅にお邪魔してみると、天然あざとい女子中生はまだ帰っていなかった。男子の家で二人きりの状況なのに、普通に寛げてしまう自分に一色は首を傾げる。昨日までお泊まりしていたので、この家に慣れてしまったのが原因だろうか。
何の遠慮もなくリビングのソファに腰掛けて大きく伸びをしていると、電子レンジと電気ケトルの音がして。程なくして、呆れ顔と一緒にステンレス製のミルクピッチャーとコーヒーの入ったマグカップがやって来た。適量を注いでちびちびと味わっていると。
「んで、忘れ物の心当たりはあるのか?」
「あ〜、えっと。せんぱいのベッドの下とか?」
「頼むから段ボールの中身は見ないで……ってあれは現実の話か。すまん何でもない」
「あと、パソコンの隠しフォルダの一番下でしたっけ?」
「なんでそれを……ああ、小町とのメッセージを見てたもんな。つか、あの時に黙秘したのは何でだ?」
修学旅行の一日目の夜に、兄妹のやり取りに少しだけ混ぜてもらった。あの時に立候補の話をしたくなかったのは何故だったかなと、少しだけ考えて。理由を言いたくなかったのでかぶりを振った。
「まあ、あんま言いたいことでもないわな。そういや、あの時に頼まれてたやつな」
「えっ?」
思わず目がきょとんとなってしまった。
そんな一色の変化には気付かないまま、八幡は何やらごそごそと荷物を漁っていたかと思うと。
「こっちがあぶらとり紙で、こっちがオススメな。気に入らなくても文句言うなよ」
そう言い終えると、恥ずかしそうにそっぽを向いている。
その仕草が可笑しくて頬を少し緩めながら、包装紙をがさがさと開けていくと。
「あ、マグカップですね。この狸さん、なんだか愛嬌がありますね〜」
「俺もそう思ってな。見た瞬間に即決だったんだが、どうやら小町に怒られずに済みそうだな」
女の子にプレゼントを贈る場面で妹に怒られる心配をしているのはどうかと思うのだが。お土産をねだったことすら忘れていたのに、ちゃんと買ってきてくれて。お気に入りのマグカップになりそうな予感がして、おかげで一色は月曜からの疲れがすっかり吹き飛んでしまった。
なお、八幡の購入理由は「男を化かすのが上手そうだから狸にするか」だったのだが、幸い一色がそれを知ることはなかった。
「それで、せんぱいは対案ってあるんですか?」
「それなあ……。本牧に会長をやってもらう案だと、副会長がいなくなるしなあ」
お土産のマグカップを元通りに包装し直して。しっかりと鞄の奥に仕舞い込んでから口を開くと、そんな返事が返って来た。
「そういえば城廻先輩が、わたしが会長になっても役員が足りないって言ってましたね〜」
「だよなあ。さっきは奉仕部と生徒会を別々にって言ったけど、いっそ合併するぐらいじゃないと人材が足りないんだよなあ」
しっかりと距離を開けてソファの端に座っている八幡に苦笑しながら。少し興味を引かれたので、コーヒーを一口飲んでから話を続ける。
「それって、もし合併したら役員ってどんな感じになるんですか?」
「そうだな……。まあ雪ノ下と由比ヶ浜のどっちかが会長でどっちかを会計監査にするだろ。副会長と書記は決まってるし、俺は庶務とかかね。会計は会長が兼務すりゃ良いし、でもこれでもギリギリだよなあ」
悟られない程度に唇を尖らせながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「えっと、結衣先輩が会長だと会計を兼任って……?」
「ああ見えて由比ヶ浜は数字に強いんだわ。まあ数学の成績は壊滅的なんだが、文化祭の時とかクラスの決算を一手に引き受けてたからな。それに加えて文実の予算見直しにも協力してたし、大したもんだろ?」
我が事のように自慢げに語る姿はどうかと思うのだが、あの先輩が褒められると自分も嬉しい気持ちになるので不問にした。それよりも。
「でもやっぱり、あと一人ぐらいは居たほうが良いですよね〜?」
「まあな。でも居ない以上は仕方がないだろ。そういや、お前は無事に無罪放免だな。月曜から今日までだとお前でも気疲れしただろうし、今日はゆっくり休めよ」
少しあからさまに唇を尖らせながら、ちょっと困らせてやろうと思い付いて。ちらちらと上目遣いになりながら口を開く。
「でも一人で寝るのって寂しいですし、今日もここに泊ったら、ダメ……ですか?」
「小町が良いって言うんなら良いんじゃね」
旅行帰りで疲れが溜まっているのは分かるのだが、欠伸交じりにそう返事されると少しむかっとしてしまう。
「はあ。せんぱいって、わたしのことを何だと思ってるんですかね」
「手のかかるあざとい後輩かね。けどまあ……一緒にいても気が楽ってのはあるかもな。今日はお前もストレスが溜まってたのか、反応に困る行動も多かったけどな」
そういえば、お互いに遠慮がないのが暗黙の了解だったはずだ。だからこうして家に押しかけることもできたし、今も一人にならずに済んでいる。でも。
勝手に立候補させられただけの、名前だけの会長候補だとしても。空想の生徒会メンバーの中にわたしがいないのは何だか悔しい。あの二人の先輩や目の前のせんぱいが名前を連ねている中に、自分がいないのは何だか寂しい。
会長をやりたいのかと問われると、やりたくないと即答できる。でも「この人たちとだったら」と考えると、思った以上に前向きに検討を始める自分がいる。
会長にしろ役員にしろ、面倒事が多い割には旨味がまるでない。へたな行動はできないし、不自由なことこの上ない。わたしが望む自由で快適な日々には程遠いだろう。
でも、少しだけ自由を失うことで、この人たちに差し出せるものができる。この人たちの負担を肩代わりできる。それはわたしにとって、実行すべき価値がある事だろうか。
考え事に耽っていた一色をじっと観察していた八幡は、意識が表を向いた瞬間を捉えて静かに語りかけた。
「あのな。俺の勘違いだったら笑ってくれたら良いけどな。お前、もしかして、会長をやりたいのか?」
「いえ……会長になりたいとは思いません。でも、そうですね。今日も部室で三人で話し合いをしてたじゃないですか。あんなふうに、わたしも一緒に仕事をしてみたいなって。そんな感じですかね〜」
思考に没頭していたからか、つい真面目に答えてしまった。最後だけ軽い口調にしてみたものの、騙されてくれるとはとても思えない。
「そのな。お前の処遇をどうするかって話ができてなかったよな。立候補を完全に取り下げるんだと思ってたんだが、例えばこのまま会長選に参加する手もあるよな」
「でも雪ノ下先輩や結衣先輩が相手だと、惨敗して終わりですよね〜?」
だから、あくまでも冗談ぽく仮定を述べる。
「んじゃ、健闘したけど惜敗ぐらいならどうだ?」
「それだと立候補を取り下げるよりも様になりそうですよね〜。でも、せんぱいの希望は叶いませんけど?」
「俺の希望は雪ノ下と由比ヶ浜以外の会長だからな」
「それだと、わたしが会長になっちゃうじゃないですか〜?」
嘘っぱちを口にしているつもりはない。仮に選挙に出たところで、ほとんど勝ち目がないのは確かだからだ。
とはいえ、このせんぱいに他の会長候補を用意できるとも思えない。けれど、もしもわたしが立候補を継続すれば、確率は低くとも可能性は残る。そして勝負は蓋を開けてみなければ判らない。
「お前が会長になったら、奉仕部が全面的に協力するだろうな。そしたら一緒に仕事ができるぞ?」
「そうですね〜。マグカップをもらった恩もありますし、どうしよっかな〜」
「あとな。一緒に仕事をするよりも本気で勝負をするほうが、相手と深く解り合える可能性は高いぞ。つか俺がそれをやりたいだけかもしれんがな」
「なるほど〜。じゃあ、いいですよ。せんぱいに乗せられてあげます」
「え、ホントに?」
すっかり共犯だと思っていたのに、その間の抜けた返事は何なのだろう。
とはいえ一つ分かったことがある。
これ以上この問題に煩わされたくないし、早く安心させて欲しいと思っていたけれど。わたしは立候補そのものが嫌だったのではなく、宙ぶらりんの状態にストレスを感じていたのだ。その証拠に、いざ選挙に出ると決意を固めてしまうと、安堵の気持ちが胸の中に広がっている。
勝てるかどうかは判らない。というよりも、普通に考えれば惨敗の可能性が高いだろう。今までのわたしなら、そんなみっともない目には遭いたくないと考えていたに違いない。
でもこれは、わたし自身が望んでいることだ。
情けない結果になるかもしれないし、あの二人との差を更に強く思い知らされるだけかもしれない。
それでも、挑みたいと思ってしまったから。
この人たちの近くにいたいと思ってしまったから。
「じゃあ、はっきり言いますね。いろはちゃんは悪いせんぱいに唆されて、生徒会長選に挑みます。だから、せんぱい」
そこでいったん口を閉じて、両手で抱えていたマグカップを机の上に置いた。にっこりと微笑みながら立ち上がると、ゆっくりとした動きで二人の距離を縮める。相手の意表さえ突けば、動作が緩やかでも向こうは身動きができないものだ。
「だから、せんぱい。たすけてくださいね」
耳元でそう言い終えると、また元の席に戻った。
顔を赤らめて固まっているのを満足げに眺めて。ふと視線を遠くに向けると、リビングのドアに張り付いてこちらを凝視している年下の友人と目が合った。
更新が数日遅れてごめんなさい。
次回は来月の十日過ぎに更新できそうです。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。(2/27)