金曜日のお昼休みに顔を合わせた一同は、選挙の具体的な話を深めて以下のような合意を得た。
・応援演説は無し。
・質疑応答も最低限かつ、質問内容が妥当か否かを直前に城廻が判定する。
・投票は記名式で、候補者に一位・二位・三位と順番をつける。
・生徒一人一人と握手をしたり無差別に演説をするような選挙戦は避けて、決まった日時に各自で集会を開く形にする。時間が重ならないように選管に調整してもらい、対立候補の参加も可能とする。
最後に、連休前に決着をつけることを確認して、話し合いは解散となった。
別れ際に海老名から提案を受けて、一色と八幡は二位・三位連合を受諾する。
放課後に選管からの通知を受けて、各クラスでは決起集会が開かれた。
教室の真ん中に引っ張り出された八幡は、一色の堂々とした対処に舌を巻く。
無事に集会を終えた一色が同じ班の同級生と仲を深める一方で、八幡の友人には既に他陣営の手が伸びていた。
だが意外な人物が助けに来てくれて、そして予想外の人物もすぐそばまで来ていた。
一年C組の教室では、男子生徒一名と女子生徒十名が椅子に座っていた。
決起集会のために机などは教室の後ろのほうに下げてあったので、そこから椅子だけを持ち出してきた形だ。
がらんとした室内の中央では、比企谷八幡と一色いろはが向かい合って座っている。その両者の背後には扇形に椅子が並べられていて、一色の後ろには友達の同級生四人が、八幡の後ろには相模南とその友人の計五人が控えている。
「なあ。なんかこの配置って落ち着かねーんだが。俺だけ教室の隅ってわけには……」
「はいはい。さっさと話を始めますよ、せんぱい?」
既にして八幡の扱いが熟練の域に達している一色だった。
もしも八幡検定試験があれば、対策なしのぶっつけ本番でも二級ぐらいは余裕だろうなと。現実逃避の傍らにそんな馬鹿げたことを考えていると、背後から声が上がった。
「あのさ。うちらは一色さん……って呼び方でいいのかな。その、このクラスの決起集会を見てないからさ。それを教えて欲しいのと、代わりに結衣ちゃんと雪ノ下さんがどんな感じだったかを伝えようかなって」
「呼びやすいやつでいいですよ~。わたしは相模先輩って呼ぶつもりですけど……あ、それとも南先輩って呼んだ方がいいですか?」
「えっ。それ、いい……」
すぱーんと良い音がしたので、相模が両脇の友人に頭を叩かれているのだと見るまでもなく理解できた。
八幡の正面では、一色とその背後の友達四人が目をぱちくりとさせている。軽い社交辞令にこんな反応を示されては、彼女らが「この先輩、チョロ過ぎ?」と思うのも当然だろう。
文実の委員長でありながらも、事前の準備の段階で色々とやらかしたことや当日の開会式から閉会式まで愉快な姿を晒し続けたことで、相模の評価は文字どおり乱高下した。
かつて相模は尊敬の目を向けられることを望んでいたが、それはもはや実現不可能だった。文実での仕事ぶりを根拠に、相模を冷たく見下す生徒は今も一定数存在する。
とはいえ親しみの感情を向けてくる生徒もまた一定数存在する。
他人を凄いと思うことが時に心理的な距離を隔てる結果になる一方で、他人の失敗する姿を見て自分と変わらないと思うことは時に心理的な距離を縮めてくれる。
相模の失敗には、どうにも他人事とは思えないような要素が潜んでいて、それに加えてユーモラスな趣きがあった。
そして相模の友人四人が八幡の悪評を広めたことは、それが根拠のないデマだと判明した為に彼女らへの逆風という形で返って来た。
反省した彼女らがきちんと詫びを入れたと、体育祭の運営委員長が公表し保証してくれたので孤立は少し和らいだものの。一ヶ月以上が過ぎた今も、四人に白い目を向ける生徒は少なくない。
彼女らが周囲から孤立していた頃も、少しずつ受け入れられるようになって来てからも、相模の態度は変わらなかった。
それは四人にとって大きな救いとなったし、周囲の目を緩やかに改善させることにも繋がった。
以前の希望とは違った形ではあるけれども、相模は徐々に周囲から一目置かれるようになっていく。
そんな相模には、友人四人の他には一人だけにしか伝えていない決意があった。あれもまた体育祭の準備期間にあったことだ。
『いつか、貴女たちが謝りたいと思っている相手が困っていたら。一度だけで良いわ。全校生徒を敵に回してでも彼の力になると、それぐらいの意気を示して欲しいわね』
わざわざそう言われなくとも、相模は最初からそのつもりだった。だからこそ、八幡の手助けをするなら今しかないと考えて、圧倒的に劣勢な状況などには目もくれずにこうして五人で駆け付けたのだ。
一色のことも選挙の結果も、相模は正直興味がない。頭の中にあるのは、八幡に借りを返さなくては落ち着かないという曰く言いがたい感情であり。以前と比べると少しは役に立つようになった自分を見せつけたいという、結果だけを欲していた頃には考えもしなかった前向きな情動だけだった。
もっとも、負の体験の記憶も相模の中にはしっかりと残っている。だから少し褒められただけでも喜びを露わにしたり、密かに憧れていた呼ばれ方を耳にしてすぐさま舞い上がってしまうのも仕方がないのだろう。
周囲からすれば「不安で仕方がない」が本音なのだろうけれど。
「とりあえず話を戻すぞ。相模が言ってたとおり、まずは情報の共有だな。こっちは一色の決起集会の話をして、相模たちは由比ヶ浜と……雪ノ下の決起集会にも行ったのか?」
何とも言えない雰囲気に陥っていたのを収拾して、八幡がうしろを振り返りながら問い掛けると。
「うん。うちら二手に分かれて参加してきたからさ。意外と役に立つんだなって、うちらを見直す気になった?」
相模が得意げな声でそれに答えた。
えへんと胸を張っていたのも束の間、調子に乗りすぎたと考えたのだろう。あっと声を発して素早く頭を押さえ、叩かれないように身を震わせている辺りは実に相模らしい。
たたいてかぶってジャンケンポンとかしたら強そうだなと考えながら、八幡が面倒くさそうに口を開く。
「いや、別にそいつらみたいに叩いたりしないからね?」
「せんぱいのDVはまた今度、雪ノ下先輩と結衣先輩に叱ってもらうとしてですね。ちょっと話しにくいので、相模先輩。この辺りまで出て来てもらっていいですか?」
八幡が真っ青になるような言葉をさらっと口にして、一色は自分の右手側に向けて指を示す。
結局は名前呼びじゃないんだと静かに落ち込みながらも、相模が大人しくそれに従うと。友人の四人もまた、その背後へと移動した。
背中が軽くなった気がするなと八幡が胸をなで下ろしていると。
「……そんな感じでですね、雪ノ下先輩と結衣先輩に対抗するための秘密兵器だって紹介したら、わりと反応が良かったんですよ~」
「秘密兵器かあー。ヒキタニくんが実は頼りになるってのは、うちらも知ってるけどさ。こう、なんて言うのかな。せこい手とか使わせたら頼もしいんだけど、正攻法だと雪ノ下さんにも結衣ちゃんにもやられそうなイメージがあるんだよね……」
まずは一色が説明を始めたものの、すぐに話が横道に逸れて。いつの間にか自分が貶されている。
とはいえ、休んでいた二人を呼び出して文実で会議を招集した時に、副委員長様には見事にやり込められた記憶がある。相模もきっとその光景を思い出しているのだろうと思うと、八幡に反論する気持ちは湧かなかった。
それに、あの時に心に決めたことがある。
失敗したことをどう取り繕おうかと後ろ向きに考えるのではなく、前向きな行動によって汚名を返上しようと。
それを頭の中でくり返してから、八幡はゆっくりと口を開く。
「ぶっちゃけな、あの二人に正攻法で勝つのは誰にとっても難しいだろ。たとえそれが葉山でもな。けどそれなら正面から勝負しなけりゃ良いって話だろ。ま、そこの辺りの戦略を考えるのが俺の仕事だからな。他のことは頼むわ」
疑い半分の反応が返ってくるのだろうなとこっそり身構えていた八幡は、一色がにやりと、相模がぼうっとした目を向けてくるので意表を突かれた。きまりが悪いので、ごほんと咳をして誤魔化していると、一色の説明が再び始まって。
「……男子が廊下に溢れるぐらい集まってくれたので、スタートはまずまずかなって思うんですけどね~」
可愛らしく首を傾げながらも得意げな口調を隠そうともせず、一色はそう言って説明を終えた。
自分に対するのと同じように、相模にも猫かぶりは少なめにするのだなと受け取って。
続けて八幡が「猫かぶりが少なめの一色をあいつが見たら、距離が縮まったと歓迎するのか、それとも猫要素が減ったと悲しむのか、どっちだ?」などと馬鹿げたことを考えていると。
「あのね……まずは雪ノ下さんの決起集会だけどさ。一年から三年のJ組の教室を合体させて、それでも廊下には人が溢れてたみたいでさ。結衣ちゃんなんてF組と体育館を繋げても、クラスの中はぎゅうぎゅうだったよ。応援の言葉を直接伝えたいって、すごい列ができてたから。だから、厳しい状況だなってうちは思う」
一色と八幡に冷や水を浴びせるような情報を相模が口にした。
思っていた以上に差があるのだと瞬時に状況を把握して、一色は口元を強く引き締めている。
そして八幡は、一色に伝えていない話があったなと考えながらもそれは後回しにして、相模の顔を見据えた。
「両方の支持層っつーのかね。雪ノ下なら国際教養科とか文実関連の連中が集まったんだろうし、由比ヶ浜のほうには三浦と海老名さんの繋がりも含めて支援者連中が大集合したんだと思うんだがな。それ以外に目に付いた集団があれば教えて欲しいんだが」
濁った目に真剣な光を宿して八幡がそう訊ねると、気圧された相模は身体をほんの僅かだけびくっとさせて。そこで踏み止まって、重い口調でゆっくりと丁寧に、自分たちが見聞きした情報を伝える。
「雪ノ下さんに葉山くんが協力してるのは知ってるよね。その繋がりだと思うんだけどさ。うちは見てないけど、ほとんどの運動部の部長が集まってたんだって。あと文化部の部長も大勢いて、そっちは雪ノ下さんが声を掛けたんじゃないかって」
背後の友人三人に時おり確認の視線を送りながら、そこまで言い終えて一息つくと。厳しい表情を浮かべたままの八幡と一色とその背後の四人に向けて、相模は話を続ける。
「たぶん結衣ちゃんは、雪ノ下さんと比べると出遅れたんだと思うんだ。それでも女テニとか、文化系なら文芸部とか漫研とかさ。うちらが見た感じ、ちょっとずつ切り崩してるなって。珍しい顔だと川崎さんとか、あとヒキタニくんの友達の眼鏡かけた……」
「材木座な。さっきメールしたら、袂を分かつとか何とか言って断られたんだが。やっぱ海老名さんが原因だったか。……ん、待てよ。じゃあ戸塚は?」
「戸塚くんは……」
背後にいる友人の一人と顔を見合わせた相模が、観念したかのように口を開きかけたところで。
「ぼくが説明するから、ちょっとだけ八幡と話をさせてもらっていい?」
教室のドアをからりと開けて、戸塚彩加が一同に向けて話しかけて来た。
***
同じ頃、総武高校の正門付近では。
「だからー。気にしないでさっさと校内に入っちゃえばいいじゃん」
「でも、行動を記録されるのって嫌だしさー」
「千佳ってそういうの気にするよねー」
「会長も出先からすぐに返事くれたしさ。許可が出るまでもうちょっと待とうよ」
「あーあ、ここまで来て足止めかあー」
生徒の安全のため、許可のない者が校内に入ると全ての行動が記録されるのだったと今さらながらに気が付いて*1。
見慣れない制服を着た二人の女子生徒は、ため息まじりのやり取りをかわしていた。
***
思いがけない戸塚の登場に、少しだけ驚きはしたものの。すぐに冷静に戻った八幡は大きく首を縦に動かして承諾の意志を伝えた。そして相模たち五人と一色たち五人に順に視線を送る。
「んじゃま、教室の後ろのほうで話して来るわ。声が聞こえない設定にしたいんだが、大丈夫かね?」
よもや裏切りを懸念されるとは思いたくないが、現に支持者の奪い合いは始まっている。そう考えた八幡がお伺いを立てたところ。
「相手が海老名さんなら、何を話してるのかな~って考えちゃいますけど。戸塚さんなら大丈夫ですよ~」
「うん、うちもそう思う。戸塚くんが変な事を企むわけないじゃん」
背後の八人もうんうんと頷いている。
女子からの圧倒的な信頼を得ていても、八幡が戸塚に嫉妬をするはずもなく。そりゃそうだよなと呟きながら、八幡は浮かれ気分を隠そうともせず椅子から立ち上がった。
るんるんと軽い足取りの八幡を見て、ちょっとだけ裏切りの可能性を懸念してしまった女性陣だった。
積み上げられた机のすぐ近くで、二人は立ったまま話を始めた。
「とりあえず、あれだな。別に怒ったりとかしてねーから、そんなに身構えなくても良いぞ?」
「うん。八幡ならそう言うだろうなって思ってた。でもぼくも、いつまでも気を使われてばっかなのは嫌だしね」
どこか表情がぎこちなく見える。けれど戸塚の芯の強さを知っている八幡は、心配の言葉を重ねて告げようとは思わなかった。
一色たちを横目で窺うと、どうやら雑談をしながらこちらの話が終わるのを待ってくれているみたいだ。ならばすぐに本題に入るかと考えて、八幡が口火を切った。
「戸塚は、雪ノ下を応援してるのか?」
「……うん。昨日の夜に葉山くんから話を聞いてね。由比ヶ浜さんからも今日の朝一で連絡が来たんだけど、先に声をかけられたからって理由じゃなくて……由比ヶ浜さんの立候補も、八幡が一色さんを擁立するかもって可能性も、葉山くんが教えてくれてさ。それで、ぼくが一人で考えて、雪ノ下さんを応援しようって決めたんだ」
最初から分かっていたけれど、説得は不可能だなと八幡は思った。
戸塚が真剣に悩んで答えを出したからには、それを友人として尊重したい。
続けて湧き上がってきた心情は思っていた以上に穏やかなものだった。無条件で自分に従ってくれるよりも、こんなふうに違う意見をぶつけてくれるほうが嬉しい時もあるんだなと実感する。
きっとそれは、あの二人とも体験したいと考えていることだからだろう。
東京駅で昨日かわしたやり取りを思い出しながら。各々が「嫌い」だと思っていることも含めて、三人で話を深められる日が早く来ますようにと八幡は願った。
「もう少し詳しく、応援の理由を聞いてもいいか?」
「うん。雪ノ下さんに無理をさせたくないって気持ちも分かるんだけどね。でも三人の候補の中で生徒会長に一番ふさわしいのは、やっぱり雪ノ下さんだなって思ったの。能力とか、そういう意味でね。だから雪ノ下さんに会長になってもらって、ぼくらが負担を減らすように動くって形が一番いいかなって。もし八幡が、雪ノ下さんが心配だから会長にしたくないって考えてるならさ。それは違うんじゃないかなってぼくは思ったの」
少しだけ寂しい気持ちがしたのは、きっと子供の成長を目の当たりにした親もこんな感情を抱くのだろうなと思えたからだろう。
気を使われるのは嫌だと先ほど戸塚は口にしたけれど、対等の友人を前にして確かにそれは失礼だよなと八幡は思った。
「心配だからってのは、ちょっと違うかもな。そんなことを言ったらたぶん罵詈雑言が飛んでくるぞ。俺の気持ちとしては……あれだな。生徒会長の雪ノ下よりも、奉仕部の雪ノ下を見ていたいって感じかね。その、反権力とか今時そんなに流行らないけどな。でも権力の側に取り込まれた雪ノ下や由比ヶ浜を見るよりは、生徒会とは一線を画した奉仕部って組織で独自色を発揮するあいつらを見ていたいんだわ」
部活の時間だけでも二人を独占したい、などという欲望はさすがに口には出せなかったものの。戸塚に伝えたこうした想いは、たしかに八幡が抱いているものだ。
そしてそれが個人的な感情に根ざしているが故に、戸塚とは相容れないだろうなと八幡は思う。
「ぼくはやっぱり、生徒の代表って立場で活躍する雪ノ下さんを見てみたいなって。でもさ、八幡が雪ノ下さんや由比ヶ浜さんの会長就任に反対なのが、心配してるからじゃないって分かってちょっと安心したかも。ぼくが気にし過ぎなのかもしれないけどね、過保護ってやっぱり良くないと思うからさ」
その一瞬、心の奥底を見透かされた気がした。
同時に、俺は何かを見落としているのではないかという気もした。
けれども、口には出せない邪な感情はさておいて、俺は別にあの二人を甘やかしたいわけではない。そもそも俺なんかの庇護下に置かれなくともあの二人ならどんな場所でもやっていけるだろう。むしろ俺のほうがあいつらに保護されかねない。
ただでさえ心配を掛けることが多かったのだし、俺を気にしてあいつらが本領を発揮できないなんてのは死んでも御免だ。だからこそ選挙という形であいつらと競い合えている現状は、俺にしてみれば願ったり叶ったりの展開のはず。
だから何の問題もない。俺はとにかく結果が出るように動くだけだ。
そう結論付けた八幡は、戸塚に向かって不敵に微笑む。
「あいつらが敵ってのもなかなか乙なもんだけどな。戸塚が敵に回るってのも、たまには良いかもな。手加減とかしたら逆に怒るぞ?」
「うん。雪ノ下さんを助けて、葉山くんをフォローして、選挙戦で八幡と一色さんに勝てるように頑張るね。だから八幡も……」
何となく照れくさくなってきたので、おそらく「頑張って」と続くのであろう発言を遮って声を重ねる。
「それはそうと、一色の状況ってどこまで知ってる?」
「えっと、無理に立候補させられたって葉山くんがさ。あんまり言い触らさないでって念を押されたんだけど……」
戸塚の返事に頷きながら、素早く考えをまとめた八幡が続きを口にする。
「その件でな、できれば一色が惨敗するって結果だけは避けたいんだわ。だから雪ノ下の応援の妨げにならない範囲で良いから、二位には一色の名前を書いてくれって仲の良い連中に頼んでくれねーかな?」
「うーん……そうだね。それくらいなら大した手間じゃないし、運動部の部長とかうちの部員とかにも話してみるよ。でも一位は雪ノ下さんになっちゃうけど、それでもいいの?」
「ま、保険みたいなもんだからな。それに勝つのは一色だから結局は問題ないはずだ」
そんな八幡の返答に思わず吹き出しながら、戸塚は握りしめた右手を胸の前まで持ち上げた。
目と首の動きだけで、同じようにして欲しいという要望が伝わってきたので。八幡が右の拳を構えると、軽くこつんと合わせて来た。
「じゃあ、どっちが勝っても恨みっこなしね。八幡も頑張って!」
そう言って会話を打ち切った戸塚は、女性陣にも気安く声をかけて、一人一人と丁寧に目を合わせてから教室を出て行った。
***
同じ頃、総武高校の正門付近では。
「もう記録なんて気にしないで校内に入ろうよー」
「ほら、会長が総武の教師に宛てて許可を申請したって言ってるからさ」
「千佳ってよくこんなに我慢できるよねー」
「かおりが何も考えずに動き過ぎなだけでしょー?」
「あーあ、早いとこ用事を片付けて話しに行きたいのにさー」
許可が下りるのを気長に待ちながら。
見慣れない制服を着た二人の女子生徒は、発展性のないやり取りをかわしていた。
***
戸塚を見送ってからも同じ場所に立ったままドアをぼんやりと眺めていると、そろそろと再び動き出したので。
「戸塚、なんか忘れ物か?」
首を捻りながらもそう問い掛けた八幡だったが、現れたのは戸塚ではなく。
「戸塚じゃなくて悪かったね。そこですれ違ったけどさ、忘れ物とかは無さそうに見えたけど?」
そう言いながらドアを後ろ手で閉めて、川崎沙希が八幡のすぐ目の前まで近寄って来た。
「あのさ。ちょっとだけ、こいつと話をしたいんだけど。長くはならないから時間を貰えないかな?」
「はあ。まあ、いいですけどね~」
一色の許可が得られたので一つ頷いて、川崎は八幡と向き合った。
「会話は他の連中には聞かれないほうが良いのかね。あと椅子とか要るか?」
「ううん。さっきも言ったけど長々と話す気はないからさ、立ったままで良いよ。声が聞こえないようにして貰えるのは助かるね」
そう言われたので手早く設定を変更して、顎をしゃくって話を促した。
「さっきメールで書いたけどさ。あたしは由比ヶ浜を応援しようって思ってる」
「ああ、相模から聞いたからそれは知ってる。んで、詳しい理由を聞いても良いか?」
道を違えることになったとはいえ、戸塚とはきちんと分かり合えた気がした。だから川崎とも同じようにできればと考えて八幡が問い掛けると。
「その、さ。多分あんたは気にしてないとは思うんだけどさ。一昨日の夜のことが原因じゃないってのは、あの、分かっておいて欲しいなって」
この数日で色んな事があったので、時間の感覚が狂っている気がする。
けれども実際には、平安神宮で川崎と話をしてからまだ二日しか経っていない。
俺なんかに告白をしてくれた二人目の女の子。そんな相手に、俺は無遠慮に選挙への協力を呼びかけたのだ。それどころか、こんなふうに気を使わせてしまっている。
「いや、それは俺のほうが配慮が足りてなかったな。普通に今までどおりにって、言葉では簡単だけどなかなか上手くいかないもんだわ。なにせ告白されるなんて嬉しい事は、俺の長い人生でも滅多になかったからな」
「滅多にっていうか、一昨日だけって気がするんだけどさ。あんたが長い人生とか言ってたら、平塚先生にどやされちゃうよ?」
「おい、そこで平塚先生を出して来るのは反則だろ。お前もその辺はけっこう容赦ないよな」
拙い冗談に乗ってくれたおかげで少し気が楽になった。とはいえ、ここから話をどう続けたものかと悩んでいると。
「それよりさ、さっきの……嬉しい事ってのは、ホント?」
「ん、ああ。答えがあれだったから、こんな事を言うのは良くないのかもしれないけどな。嬉しいのは嬉しいに決まってるだろ。あんま恥ずかしいこと言わせんな」
そう言い終えてそっぽを向くと、教室の中央にいた女子生徒たちから「リア充ふざけんな」という目で見られた気がした。
我が身を省みると何も言い返せないなと自覚して、そっと視線を戻す。
「そっか。じゃあいいや。でさ、話を戻すと……なんだっけ?」
「お前が由比ヶ浜を応援する理由な」
川崎に限らず、女の子って恥ずかしいことを話すだけ話したらすぐに意識が切り替わるよなと思いながら。こっちは照れくささが残っているので、長々と喋ってたら噛みそうだなと考えて短く返すと。
「あの子のことはあんまり知らないからさ。あんたが推すぐらいだから、会長職をちゃんと務めてくれるとは思うんだけどね。あたしが知ってる限りだと、三人の中で一番会長にふさわしいのは雪ノ下だと思うんだ」
「んんっ、と。お前が応援してるのは由比ヶ浜だろ?」
一色に軽く視線を送ってから話し始めた川崎だが、結論と行動が一致していない。
怪訝に思った八幡が疑問をそのまま伝えると、ようやく力みが取れたのか川崎の頬がふんわり緩んだ。
「雪ノ下があれだけ抱え込む性格じゃなかったら、文句はないんだけどね」
「ああ、そういう事な。周りが無理すんなって言っても聞く耳を持たないからな」
「そうそう。だから雪ノ下に言うことを聞かせる為には、会長にするのは良くないと思ってね。対等か上の立場になれば、由比ヶ浜なら雪ノ下を上手く動かしてくれるってあたしは考えてる。あんたじゃなくてさ」
「……俺じゃなくて?」
部長様よりもあいつを推す理由がやっと理解できたと思ったら、妙な一言を付け足された。
おうむ返しに呟いてみても意味が分からなかったので、八幡が首を捻っていると。
「あんたの言うことも、ある程度は聞いてくれると思うんだけどさ。あたしとか他の連中と比べると段違いにね。でもいざって時に、あんたは雪ノ下に何も言えないし、雪ノ下もあんたの言うことを聞かないと思う。誤解して欲しくないんだけど、どっちが悪いって話じゃなくてさ。お互いに別行動を選ぶんじゃないかなってあたしは思うんだ」
「……そうかもな。続けてくれ」
「けど、由比ヶ浜は違うと思う。何も言われなくても、話を聞いてくれなくても、由比ヶ浜なら諦めずに説得を続けたり、自分も譲歩したりしてさ。それでも別行動になったとしても、やっぱり諦めずに話す機会を作ろうって思うんじゃないかな。それって凄いことだとあたしは思うよ」
「なるほどな。だから由比ヶ浜か」
「京都でも話したけどさ、あたしは奉仕部がなくなって欲しくないって思ってる。けど今のままだと限界が近いんじゃないかな。雪ノ下が部長にふさわしいのは確かだけど、由比ヶ浜が肩書きのないヒラの部員のままだと、あんたらをまとめようにも無理が出るよ。会長選挙もそれと同じだなって、あたしは思ったんだ」
「そこのところは別意見だな。なんでかっていうと、奉仕部の中でなら役割分担が確定してるんだわ。確かに雪ノ下は部長として危うい部分もあるけどな。そうした場面だと実質的には由比ヶ浜が手綱を握ってるから、変な事にはなりようがないのな。今さら変な肩書きを設けて形だけ対等にしなくても、あの二人の関係性なら大丈夫だって俺は思ってる」
だからこそ、奉仕部からは誰一人として欠けさせるわけにはいかないのだ。
もちろん厳密に言えば、俺が一番要らない子だ。でも俺は俺なりに、あの二人だけでは打開が難しい場面で、あいつらの役に立てると思っている。少なくとも今まではそうだったし、これからも役に立ちたいと思っている。けど、思うだけで叶うほど現実は甘くない。
もしも俺が二人の力になれなくなったら、その時は潔く身を引こう。けれども黙って去るのではなくて、いかに俺が足手まといかを二人にちゃんと説明して謝罪して、二人の行く末を見守りながら別れを選ぼうと思う。こう考えるようになったのは、六月の反省からだ。
とはいえ先のことは先のことだ。当面は誰に何を言われようとも奉仕部から離れるつもりはないし、あの二人を手放すつもりもない。それを胸を張って言えるようにする為にも、俺は今回の選挙戦で結果を残す必要がある。
「あんたの言いたいことも何となく解るよ。あんたが意気込んでる理由もね。でもあたしは、由比ヶ浜をちゃんと中心においた方が良いと思う。最初から分かってはいたけど、交渉決裂だね」
よく通る静かな声で、川崎は苦笑まじりにそう告げた。
考え事から意識を戻した八幡は、発言の意図を探りながら口を開く。
「もしかして、俺を由比ヶ浜の陣営に引き込もうと考えてたのか?」
「それができれば良かったんだけどさ。でも、ちょっとほっとしてる」
理由がさっぱり分からないので、目の動きで続きを促すと。
「あのさ、大志の依頼を覚えてるかな?」
「ああ、一学期の中間直前だったか。バーに乗り込んだのが懐かしいな」
そう言うと川崎も遠い目をして、ふっと息を漏らしていた。
わずかな間を置いて、再び川崎が話し始める。
「あれってさ、あたしの立場からすると、雪ノ下とあんたに勝手に助けられた形なんだよね。まあ由比ヶ浜の言葉も突き刺さったっていうか、恥ずかしくて思い出したくないんだけどさ」
あの時点で既にあいつはすごい奴だったよなと。にんまりと誇らしげに八幡が頷いている。
他のどの仕草よりもどのセリフよりも、今の表情が心にいちばん突き刺さった。それをおくびにも出さずに川崎が話を続ける。
「だからさ。二人には借りを返さないといけないなって思ってたんだ」
「……由比ヶ浜には良いのか?」
二人の間の空気が一変したのを感じ取って、八幡が牽制のつもりでそう告げると。
「それはチバセンで済ませたからね。勝って借りを返すつもりが、あっさり負けちゃったんだけどさ。でもあの勝負があったから、由比ヶ浜のことを詳しく知ることができたと思う。あんたに語れるぐらいにさ」
「あのな。勝負そのものを目標にしてるようだと、今回も俺か雪ノ下に負けちまうぞ?」
「そこで『俺に』って言えないようだと、あんたも由比ヶ浜に負けるんじゃない?」
睨み合ってはいるものの、口元が緩んでいるのが自分でも分かる。きっと今の川崎と同じような表情なのだろうなと八幡は思った。
「じゃあ、あたしは行くね。はい」
「……えーと、どういう意味だ?」
右手の指を広げて首の高さまで持ち上げると、掌をこちらに向けてひらひらさせているので。
八幡がじとっとした目で疑問を呈すると。
「いつも小町に要求されてたんだけど、あんたはしないのかい。その、ハイタッチなんだけどさ。お互いの健闘を、みたいなつもりだったんだけど……」
少しずつ声が小さくなって最後のほうは聞き取るのが難しいほどだった。赤く染まった頬を隠すようにして、川崎が顔を俯かせている。
「小町がまた変な事を……なんかすまんな。ほれ、俺も恥ずかしいから一回だけだぞ」
そう言って右手を同じように持ち上げて、二人のちょうど真ん中ぐらいで軽くぱしっとぶつけ合った。
「うん、ありがと。あんたも頑張って」
普段の鋭い目つきや、今しがたの恥ずかしそうな顔つきとはうって変わって。プレゼントが届くのを心待ちにしている子供のような表情を残して、川崎が教室から出て行った。
***
同じ頃、職員室では。
「なるほど。情報の行き違いがあったみたいだな」
「候補者は一人だけだって、うちの会長が言ってたんですよー」
「仕方ないし、出直そっかー」
「でもさー千佳。選挙が終わるのを待ってたら期末の直前じゃん」
「かおりは勉強しないから関係ないけど、総武の人たちは違うもんねー」
教師の前でもまるで物怖じしない二人がいた。
いくら他校の生徒とはいえ、口調の注意ぐらいはしておくべきかと考えていると、期末試験の話が出てきたので。そちらのほうが大事だと思い直して教師が口を開く。
「そうだな……もし君たちが良ければだが、三人の候補を呼び集めるから話をしてみるかね。なんなら選挙参謀の三人を呼び寄せても良いが?」
「せっ、選挙参謀って、マジウケる!」
「先生の前で失礼だよー。じゃあ三人と三人の六人で、お願いしまーす」
「あ、ああ。分かった」
これは世代の違いによるものではなく、文化がちがうとしか言いようがない。
そんなことを考えながら、教師は六人に宛ててメールをしたためた。
***
川崎を見送った八幡がもとの席に戻って、さて何を話そうかと考えていると。
がらっと音がして、教室のドアが三たび開いた。
「……お前は、どっちの陣営から来たんだ?」
「詳しく話すから、入っていいか?」
誰一人として予想だにしなかった来訪者は、ラグビー部の大和だった。
その静かな佇まいを見て、かつて葉山隼人が「冷静かつマイペースで人を安心させる、寡黙で慎重な性格の良い奴」と評していたのを思い出した。
もっとも、歯に衣着せぬ物言いが健在だった頃の部長様に言わせれば「反応が鈍い上に優柔不断」になってしまうし、あの時の噂が正しければ「三股をかけている屑野郎」なのだが。
一色と顔を見合わせて、とりあえず中に入ってもらう事にした。
自分だけ椅子から立ち上がって、一色をはじめとした十人の女子生徒の前に立って大和を出迎えると。
「ヒキタニくんと一色さんを助けに来た」
「そう言われても、おいそれと信じられる話じゃないって分かるだろ?」
文化祭や体育祭の関連で顔を合わせる事も多かったし、修学旅行でも色々あった。けれども直接のやり取りは少なかったので、わざわざ助けに来る理由にはならないだろう。
だから八幡が疑いの目を向けるのも仕方がないと、どうやら大和も理解しているようで。
「スパイを疑うのも分かるけど、話を聞いてくれないかな?」
「まあ、睨み合ってても発展性がないからな。んで?」
「うん。実は戸部の頼みでさ。あいつ、奉仕部の三人に借りがあるだろ。だから『雪ノ下さんも結衣もヒキタニくんも助けたいけどどうすんべ』って悩んでてさ。それに隼人くんにも恩があるし、一色さんとも仲が良いだろ。でも海老名さんの手助けをしないわけにもいかないしさ。『俺っちを三等分できたら』なんて言い始めたから、俺と大岡が……」
「分かった。お前らが戸部のせいで苦労してるのはよーく分かった」
淡々と説明を続ける大和を途中で遮って、八幡は同情のこもった眼差しとともにそう伝えた。
ため息をはぁと吐いて、一色と相模に順に視線を送ると。
「うん、まあ、戸部先輩ですしね〜。信用できるってわたしは思いますよ?」
「うちも同感かな。戸部くんなら仕方ないよね」
謎の信頼感によって、こうして大和が一色の陣営に加わった。
「てことは、戸部が由比ヶ浜のところにいて、大岡が雪ノ下のとこか?」
「ああ。俺と大岡は逆でも良かったんだけどさ。雪ノ下さんと隼人くんがいるなら、頭を使うよりも行動力があるほうが良いだろ?」
なるほどなと繰り返し頷いている八幡は、葉山の評価が妥当かもしれないなと思い始めていた。
頭が特別切れるという程ではないけれど、発言の内容はよく整理されている。きっと良き相談相手になってくれるだろう。
と、そこまで考えた八幡は、戦略を練るのが自分の役目だったと思い出して立ったまま口を開く。
「あ、それで今後の方針なんだがな。惨敗だけは避けたいってのを言い訳に二位狙いを公言して知名度を上げておいて、立会演説会での一発逆転に懸けるしかないって俺は考えてるんだが……どう思う?」
いきなり大事な話を始めた八幡に、ほとんどの生徒は頭がついていかない。
そんな中にあって、さすがに一色は大したもので。
「要するに、まずは二位の座を確保するって事ですよね〜。でも、結衣先輩と……」
「あのな、当選を判定するのは一位票だろ。んで一位票の数は、今のままだと由比ヶ浜が二位で一色が三位だわな。だから二位と三位が連合して一位が濃厚な雪ノ下を引きずり下ろそうってのが、さっきの海老名さんとの話し合いな」
先ほど結んだ緩い同盟のことを他の面々にも説明して、そのまま八幡は言葉を続ける。
「基本方針に話を戻すと、こっちは二位に名前を書いてくれって話だからな。雪ノ下を応援してる連中には『一位が雪ノ下で二位に一色の名前を』、由比ヶ浜を応援してる連中には『一位が由比ヶ浜で二位に一色の名前を』ってお願いすれば、協約にも違反しないだろ?」
「うちにも言いたいことは理解できたけどさ。ヒキタニくんが思い付く事って、どうしてこう……」
「せこいよな。隼人くんも戸部も大岡も言ってた」
相模と大和が呆れ顔で呟いているのを見て八幡が口を挟む。
「はいそこ、文句があるなら遠慮なく言ってくれ。他に対案があるならいつでも撤回するからな。んで、さっき戸塚にも頼んでみたんだが、川崎には言わなかったのな。いま言った屁理屈があるとはいえ、海老名さんに知られるのは時期尚早だと考えたんだが」
「自分でも屁理屈って認めてるじゃん。でも、うちも賛成かな」
「戸塚さんなら相手を見ながら慎重に進めてくれそうですけど、大々的にやっちゃうと色々と問題が起きそうですよね〜」
「なら月曜の放課後か、それとも火曜まで我慢して一気に動くか……でも海老名さんや隼人くんならその前に気付きそうだな」
順に意見を述べる三者を見ながら、わりと良い具合に話し合いが進んでいるなと八幡は思った。
その他の面々も、口こそ挟んでこないものの内容には真剣に耳を傾けてくれている。
人数は少なくとも、一枚岩になれているのが自分たちの強みだなと考えていると。
「あれっ、平塚先生から?」
「俺のところにも来たぞ。宛先は……六人だけか。なんか今、立候補者三人と俺と葉山と海老名さん宛てにメッセージが来てな。奉仕部の部室に来て欲しいって書いてあるから行ってくるわ。その間に一色の推薦人連中と、あと一色ファンのやつらにも押し付けられる仕事があれば、考えておいてくれると助かるな」
しっかりと頷き返してくれた相模と大和と他八名を頼もしく眺めながら。八幡は一色と連れだって奉仕部の部室を目指した。
次回は二十日頃に更新する予定です。
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追記。
細かな表現を修正しました。(4/13,4/26)