総武との合同イベント計画を聞いた折本は、会長の制止も聞かずに高校を飛び出した。仲町を巻き込んで会長代理を名乗り、まずは平塚に事情を説明してから、会長候補と選挙参謀の計六人と顔を合わせた。
一瞥しただけで、折本の名前がするっと口から出てきた。
強く唇を噛んで発言を悔いている八幡の耳に、雪ノ下の声が届く。他の面々も会話を重ねてくれて、おかげで今の折本を確認できた八幡は、過去を清算できている自分に気がついた。竹林での出来事が決定打だったなと認識する。
中学時代の八幡について葉山から指摘を受けた折本は、何かを思いついて席を立つと、夜に連絡すると言い残して去って行った。
後に残された一同は、土日や早朝・夜間の選挙活動を控えるとの合意を得て解散となった。
一年のクラスに戻った八幡は、昔馴染みとその相棒ほか一名の説得に動く相模を見送り、一色の推薦人とファンを情報収集に特化させるという大和の案に賛意を示す。
職場見学の班分け時の一件を今なお忘れず、それどころか昔の古傷と結びつけて内心ひそかに苦悩していた大和は、八幡にとっては何でもない回答によって光明を見出していた。
一色の知名度を雪ノ下・由比ヶ浜に匹敵する域まで高めることと、無党派層を狙うという基本方針を確認して、八幡たちは良い雰囲気で選挙戦の初日を終えた。
土曜日の正午に駅前くんだりまで出てくるなんて面倒なことは避けたかったのに。
人混みこそ予想ほど酷くはないものの、それよりも同行者が鬱陶しいなと。
そんなふうに内心でぼやきを続けながら、比企谷八幡は葉山隼人と並んで立っていた。
「まさか比企谷が一番乗りとはね。やる気のなさそうな歩き方でギリギリの時間に来ると思ってたよ」
「お前が俺をどんな目で見てるのかが良く分かるな」
軽い皮肉で返してみても少し首をすくめただけ。まるで反撃になっていない上に、そんな些細な仕草ですら様になるのだから嫌味にもほどがある。
けっと思いながら三階の改札口から降りてくるエスカレーターに顔を向けてみたものの、待ち人が現れる気配はない。
できれば付近をぶらつくなどして独りで時間を潰したいところだが、言い訳を思いつかないことに加えて嬉々として付いて来そうな予感がする。
昨日の放課後に部室で見た笑顔がふと頭に浮かんだので、うげっと思った八幡が視線を上に向けて「千葉駅」と書かれた文字をぼけっと眺めていると。
「でも、そうだな。最後の一人は目立つから、ギリギリの時間は無いか。あと、一番乗りは『張り切ってると思われそうだから』とか考えて避けるんじゃないかと思ってたんだけどね」
「呼び出しの理由が理由だからな。俺が張り切ってるとは誰も考えないだろうし、じゃあ気を使う必要もないだろ?」
「比企谷が先に来れば、相手を不安な気持ちのまま待たせる……なんて展開も防げるからね」
推測がいちいち的確なのが厄介だ。
早くに来た理由の最たるものは、成り行き以外の何物でもないのだが。葉山が口にしたような理由が頭の片隅にあったのも確かなので返事に困る。
ふんと鼻を鳴らしてから首を右に動かして、地下へと降りる階段を見るとはなしに見ていると、嫌な性格をしてやがるなという苛立ちの感情がふつふつと湧き上がってきたので。それなら真っ当なことを言ってやるかと考えて、八幡は顔を左に向けた。
「そういえば、昨日はフォローみたいな事をさせちまって悪かったな」
「へえ……比企谷に素直にお礼を言われると、捻くれた返事をしたくなる気持ちが分かるね」
「言っとけ。とりあえず一言は伝えたし、これで貸し借りなしだからな」
「俺は貸しだなんて思ってないよ。前に引き受けた仕事の続きみたいなものだろ?」
にこやかに笑みを絶やさず確認を求めてくる葉山に、少しだけ首を捻って。すぐに意図が理解できたので、唇を尖らせた八幡は不承不承ながらも返事を口にする。
「文化祭に中学の連中が来た時のあれか。お前と違って俺には触れられたくない過去が多いからな。ちょいと手加減して欲しいんだが」
「当事者じゃないと解らない部分があるかもしれないけどさ。俺なら、あの程度だったら大した事はないって思うけどな。何より、終わりがスッキリしてただろ?」
反射的に裏の意図を探ってしまう。
なぜなら、リア充はリア充で面倒な事が多いと八幡は既に知っているからだ。むしろ過去の醜態が暴露された時のダメージを思えば、ぼっちとは比べ物にならないくらい大変かもしれない。
現に文化祭の準備期間には、あの厄介な姉貴分の爆弾発言があった。
同じ小学校なのを内緒にしていたのは何故なのか?
全校生徒が頭に浮かべたこの疑問に対して、もしも葉山が対処を間違えていたら、イメージに傷が付いた可能性もある。
葉山がそんなヘマをするとは思えないし、それを前提に話に出したと
そう考える八幡は、用心深く問いを返した。
「いくら一件落着でもな。中学の時に俺が見下されてた事実とか、文化祭の途中で俺が逃げたって事実は変わらんだろ?」
「あの程度の連中に見下されたところで、君なら痛くも痒くもないだろ。文化祭の一件も、猪突猛進よりは遙かに良いって俺は思うけどな。百歩譲ってあれが逃げだとしても、比企谷の真意は伝わってただろ?」
たとえ相手がどうしようもない小者でも、見下されたり雑な扱いを受けると気が滅入るものだ。
だからこそ、こんな程度の事は何でもないと繰り返し自分に言い聞かせて来たのだが。それに同意して貰えた気がして、思わずほっとしてしまった。
一瞬遅れて、葉山の言葉で気を軽くした自分に怒りと失望を覚える。
それに、真意が伝わった対象には言及しないのがこいつの嫌らしいところだ。
あの二人は言うまでもないとして、葉山自身も含めたクラスのトップカースト連中にも伝わっているという前提で確認を求めてくるのだから。
大っぴらに認めたくはないけれど、二年F組が誇るトップカースト連中となぜか気心が知れた仲になっている件については、八幡も認知せざるを得ない。
葉山に対してだけは、あちらの態度にも要因があり八幡の内面にも原因があるので相容れない部分を残しているけれど。その他の面々に対しては、個人として向き合う限りは、悪くない関係を築けていると言えそうだ。
けれどもそれが集団になると話は変わる。リア充の一団の中に自分が居ると思うだけで、八幡は反射的に身を引きたくなってしまう。
ぼっちの宿痾なのかもしれないし、単に性格的なものかもしれないけれど。自分はこいつらとは違うのだと、上からではなく下からの目線でそう考えてしまう。
引け目を感じているのかと問われると、答えは難しい。リア充という言葉や概念を前にして怯んでしまう傾向が、自分の中には今も確かにあるからだ。
だがそれ以上に、根本的な部分できっと話が通じないという確たる予感がして、ならばそれを目の当たりにする前に集団を去りたいと八幡は思ってしまうのだ。
話が通じないという想いに誰よりも共感してくれるのは、おそらくあの腐女子だろう。
けれどもあの人は、BL好きのトップカーストという地位を確立できるほどのバランス感覚や器用さを持ち合わせているので、少なくとも外見上は上手くやり過ごせるはずだ。
そして居心地の悪さが態度に出るという点では、おそらく部長様がいちばん近い。
自分の中で納得できない事があれば、そして我慢するにふさわしい理由が見付からなければ、あいつはそれを隠そうとはしないだろう。だが逆に言えば、責任感と自制心に優れる今の彼女なら、理由もなく場を乱すこともしないはず。
そこが、わけもなく逃げ出したくなる俺との違いだなと八幡は思う。
一口にリア充と言っても実は色んな奴がいる。F組の連中は話をしていても不快に思うことがほとんど無いし、気安く接してくれるので俺も気が楽だ。
だが結局のところ自分は異物に過ぎないし、むしろ異物だからこそ重宝されているのではないかという疑いを八幡は捨て切れなかった。
なぜなら、逆に考えてみると良い。
名実ともにリア充の仲間入りを果たした自分、つまりぼっちではなくなった自分に、果たして価値はあるのだろうか。個性や独自性が残っているだろうか。カースト底辺に甘んじる事でやっと得られた自由でぼっちな境遇を、すっかり捨て去ってしまった自分に。
きっと去年までの俺だったら、唾棄すべき裏切り者だと見なしただろう。深みも面白みもない浅薄な奴だと切り捨てた事だろう。なのに今の俺は、逃げ出したいと思う一方で失いたくないとも思ってしまう。とんだ優柔不断があったものだ。
より正確に自分の感情を分析すると、群れから抜けるのはさほど問題ではない。けれども、修学旅行前に受けた依頼を通して思い知らされた事がある。
集団から距離を置くと、個人的な付き合いまで失せてしまう可能性がある。それを思い浮かべた瞬間に、今の俺は強く二の足を踏んでしまう。ましてやそれが、あいつらとの関係にまで影響が及ぶようなら、もはや一歩たりとも足を動かせなくなってしまう。
だが、そんな後ろ向きの考え方をしている俺を、あの二人がいつまでも気に掛けてくれるだろうか。
それよりも、内輪に取り込まれるのを是とせず自由を求め続ける俺のほうが、まだしも希望が持てるのではないか。
異物は異物だからこそ価値があるのだ。
ならば俺は、リア充に対してどう振る舞うべきなのだろう。
その答えは簡単には出せそうにないけれど、一つ気付いた事がある。それは、三人でも集団は集団だという事だ。
俺がぼっちのままでも無理なく過ごせる最大の集団、つまり奉仕部の三人の関係だけは決して手放すわけにはいかない。
そこにあのあざとい後輩などを加えて四人・五人と広げていけるのか。それとも、いずれは三人ですらも維持が難しくなるのかは予測が付かないけれど。
当座の結論として、いちばん優先すべきなのはやはり今の奉仕部を維持する事だと八幡は思った。
だからこそ選挙には勝たねばならないと、続けて決意を新たにする。
モノレールの駅に向かうエレベーターを見つめたまま葉山の発言を無視していた形の八幡は、ようやくそれを思い出してぽつっと口を開いた。
「真意が伝わっても、それで万事解決ってわけにはいかねーだろ。もっと良い結末にできたはずだし、途中経過ももっとマシにできたしな。だからお前の慰めは受けねーよ」
「まあ……確かにね。こちらの意図を知られたところで、結果がダメなら逆効果だしさ。それでも、比企谷
軽口の奥に、この話はこれで終わりだという意図を潜ませただけなのに。なぜか葉山は少しだけ言い淀んで、それでもすぐにいつも通りの口調に戻った。
ちらりと横目で様子を窺ったものの、上りのエスカレーターに運ばれていく人の群れをじっと眺めている葉山に、特に変わった様子はない。
ゆっくりと首を左右に大きく動かして、浮かびかけていた疑問を肩の凝りと一緒に消し去った八幡は、前向きな姿勢と自由な意思を取り戻せた自分に満足していた。
実はこれは自由から逃げていただけなのだと、八幡はそれを恩師から教わる事になる。
***
見覚えのある顔が東口から出て来たので、ほっと息を吐いてから背筋を伸ばした。ついでに時計を確認すると、待ち合わせの時間はまだ来ていない。肩が凝るようなことを考えていたせいで時間の感覚がおかしくなっているのだろう。
「んじゃま、お務めを果たしますかね」
「そんなに肩肘を張らなくてもいいさ。それにしても、一度は告白した相手とダブルデートなのに……」
思わずげほっと咳が出て、葉山の言葉を遮ってしまった。
涙目になるのを堪えながら、咎めるよりも呆れる気持ちを前に出してじろりと睨んでみたものの、予想通り葉山はどこ吹く風だ。
「お前な、そういうんじゃないって解ってるだろ。それに今日のこれがデートなら、お前も色々と大変じゃね?」
「ああ。だからお互いに、粛々とお務めを果たさないとね」
このオチまで読んでやがったなと考えた八幡が舌打ちをしたと同時に、折本かおりの声が耳に届いた。
「うわっ。たしかに時間ギリギリだけどさー。比企谷って根に持つタイプだったっけ?」
「あー、いや。今のはお前に対してじゃなくてだな。こいつが『今日の段取りは任せろ』なんて言い出すから、できる奴は違うよなって」
卑屈な物言いの中にさらっと捏造を加えて、葉山を窮地に追い込もうとする八幡だった。
とはいえ敵もさる者、この程度では眉一つ動かしてくれない。
「比企谷が一生懸命に考えてきてくれたプランに問題があったからね。さすがに高校生にもなって、アニメゆかりの場所に行きたいって言われちゃうとさ」
「ちょっと待て。千葉のモノレールと言えば『俺の妹』なのは今や世界の常識だぞ?」
それどころか捏造で反撃されてしまったので、ここは譲れないとばかりに八幡が強く主張していると。
「やばいっ。比企谷がマジすぎてウケる!」
「冗談のつもりだったのに、こんな身近にあるものなんだね」
「知ってると思うけど、かおりっていつもこうだから……ごめんねー」
折本の爆笑よりも葉山のすまし顔よりも、少し困った顔でちゃんと謝ってくれた仲町千佳の言葉がいちばん胸に突き刺さるなと八幡は思った。
とりあえず移動しようという話になったので、内房線と外房線の高架に沿って歩いて行く。ペリエからシーワンへと時折お店を冷やかしながら四人は会話を続けていた。
「じゃあさ。今日はお詫びに奢るから、お昼にどこか行きたいとこある?」
「えーっと、わたしはねー……」
「千佳は自分で払ってねー。比企谷と葉山くんのぶんは私が出すからさ」
「いや、俺は別にいいからさ。そのぶん比企谷に美味しいものでも食わせてあげてくれないか?」
「おい。お前はどこのかーちゃんだ?」
葉山の誘導が良いのか、それともツボにはまってしまったのか、折本はさっきからずっと笑いどおしだ。仲町も時折くすくすと笑い声を漏らしていて、会って間もないのに雰囲気は上々と言って良い。
そんな一団の中に自分が居る。
事前の予想では、三人の後ろを独りで歩く形になるのだろうなと思っていたのに。八幡が一歩引こうとするたびに折本か葉山が歩調を合わせて来て、仲町も歩くペースを落として追いつくのを待ってくれている。
ダブルデートという言葉を聞いた瞬間こそ過剰に反応してしまったものの、既に八幡は特別な女の子二人と幾つかの場所を訪れた経験がある。ららぽーとにも行ったし千葉みなとで花火も見た。京都では夜と朝を二人きりで、昼間の時間は三人で気兼ねなく過ごしたのだ。
だから折本と仲町には少し悪いと思いつつも、男女が二対二で会うと言ってもこの程度かと、どこか拍子抜けしている自分がいる。
それと同時に、この四人のグループの中に違和感なく溶け込めている自分がいる。
なぜなら今日のこの集まりは、八幡が思わず逃げ出したくなるほどの重みのある集まりではないのだから。
「あ、この先にサイゼがあるな」
「サイゼっ……奢るって言ってるのに、サイゼって……!」
ナンパ通りの入り口が見えたので、妹と遊びに来た時と同じような感覚で提案してみると、折本が身体を折るようにして笑い転げている。
馬鹿にするような口調ではないので特に不満は無いけれど、こうも簡単に笑いが取れてしまうといささか物足りないと考えてしまうのが不思議だ。
中学の頃はこいつに笑って貰えるようにと、あんなにも必死になって頑張っていたというのに。
「あのね。比企谷くんって、けっこう気を使う人なの?」
「俺が知る限りだと、その認識で間違ってないと思うけどね。本人に言うと照れくさがるから、面と向かっては言わない方が良いかな」
折本の背中をさすっていた仲町がふと顔を上げて問い掛けてきたので。どう返事をしたら良いかと迷っていたら、横から葉山に答えられてしまった。
八幡はぶすっと仏頂面を浮かべるしかない。
「そっか。でもサイゼはちょっと、ないよねー。かおりがお詫びに奢るって言ってるんだし、遠慮したら逆にさ……」
「いや、それも分かるっちゃ分かるんだけどな。この辺で食べるところって考え始めたら、ナンパ通りを抜けたパルコ*1の向こうにもサイゼがあったなー……とかな」
普段から個性が強い面々としか接点が無いのが原因だろうか。マイペースではあるけれども普通という言葉がよく似合う仲町と喋ると、こちらのほうがリズムを乱されてしまう。
特に緊張はしないものの、むしろ余裕があり過ぎて、こちらが気を使ったほうが良いのかと考え始めてしまうのだ。
一学期の初めと比べると、わりと他人と話せるようになったと思っていたけれど。どんな相手でも上手く対応してそつなく話を続けられる葉山のことを、素直に凄いなと思ってしまった八幡だった。
「じゃあさ。向こうのサイゼの近くにカフェがあったよね。あそこの二階席なら落ち着いて話せるんじゃない?」
「あったねー。たしかヨンマルク*2だよねっ。じゃあ、そこ行こっか!」
とはいっても、これ見よがしにフォローをされると賞賛よりも苛立ちの気持ちが先に立つのだけれど。
***
二階の窓際にあるテーブル席に腰を落ち着けてお手軽なランチを食べながら、四人は引き続き話に花を咲かせていた。
残念ながらサイゼは却下されたものの、ここなら奢りでもあんまり気にしなくて済むなと胸をなで下ろしつつ。とはいえ用事をそろそろ済ませるべきではないかと八幡が考えていると。
「あっ、ごめん。ちょっとメッセージが……って、また会長だーっ!」
「またって言ってるけど、かおりもさぁ……」
「あー、もう。千佳も言わないでよっ。会長代理とか名乗っておきながら合同イベントを潰しかけた昨日のことは、私もこれでも反省してるんだよー?」
「うーん、そうじゃないんだけどなー」
いまいち話が読めないものの、折本が椅子にふんぞり返ったまますごい勢いでメッセージのやり取りを始めたので横槍を入れるのは憚られた。
なので仲町を手招きしながら首を傾げてみせると、同じように手招きを返されたので。三人はテーブル越しにお互いが身を乗り出すような体勢になった。
「うちの生徒会長がね。合同イベントの件で、昨日と今日は校外の人と会ってるのね。総武との打ち合わせはわたしと二人でするって言ってかおりが聞かなかったから。けど昨日あんな話になっちゃって、会長も気が気じゃないんだよねー。かおりも全部あけすけに話しちゃうしさー」
奥歯に物が挟まったような話し方が少し気になるものの、これでおおよその事情は把握できた。相変わらず自由気ままに行動しているなと八幡は苦笑するしかない。
納得顔で頷きながら身体を引いて、八幡と葉山が椅子に再び腰を下ろすと。話し終えた直後にさあっと顔を赤らめた仲町がたどたどしい動きでそれに続く。
そこに折本の声が届いた。
「今どこにいるのかって、しつこく訊いてくるんだよねー。昨日と違って今日はいい雰囲気だから大丈夫だって言ってもぜんぜん聞いてくれないし、もうっ!」
「いい雰囲気なら仕方ないよー」
ぷんぷん怒っていた折本も含めて三人の視線を一身に集めても、浮かれ顔と呆れ顔を二対一でブレンドしたような表情の仲町はまるで動じなかった。と言うよりも自分の世界に浸っているように見えるのだが、この短時間で何が起きたのか八幡には予測が付かない。
なるほど折本の友達を務めているだけのことはあるなと、失礼な納得の仕方をしていると。
「ごめんっ。断っても断ってもきりがないし、ここの場所だけ教えていいかな。その代わり会長には絶対に来るなって念を押しておくからさ」
「まあ……俺は良いと思うんだが?」
「俺も大丈夫だから、あんまり気にしないで良いよ」
仲町がこうなった理由をおおよそ把握できた折本が、失笑とともに相手とのやり取りを再開したのも束の間。すぐにしびれを切らして申し訳なさそうに確認を求めてくるので、八幡と葉山が順に答えると。
「オッケー。じゃあ、えーと……『来たら怒るし、絶対に相手しないから。独りでチョコクロ食べたいなら来れば?』って書いておけば大丈夫かな。会長ってああ見えて女々しいところがあるよねっ?」
「かおりが男らしくてさばさばし過ぎなだけでしょー?」
正気に戻った仲町の言葉に深く頷く八幡と、無難に笑顔で返す葉山だった。
仲町の指摘を受けた折本が押し黙ったので、四人の間に少しぴりっとした空気が満ちた。
そのタイミングを逃すことなく折本がおもむろに口を開く。
「じゃあ、えっと、改めて。比企谷ごめんっ!」
「いや、別に気にしなくて良い。つか俺的には会って話すほどの事でもないと……」
「葉山くんも昨日は嫌なことを言わせちゃってごめんねっ!」
「てか最後まで聞けよ」
ぱんと大きな音を立てて両手を合わせた折本が、拝むようにして謝ってきた。と思ったら、返事の途中で葉山のほうへと向き直るのだからやってられない。
自分と折本の関係はこんな程度だったのだと。
何かと理屈をつけて、この事実を受け入れるのを避けていた昔の俺ならショックを受けただろうけれど。今は笑って流せるし、なんならツッコミまでできてしまうのだから不思議なものだと八幡は思った。
「ほら、かおりっ。説明が苦手なのは知ってるけど、この話はちゃんと伝えないとダメだよー?」
「うん、分かってる。えっと、昨日あれから家に帰って……」
現実世界にいる両親にお願いして、中学の同級生と片っ端から連絡を取った折本は、そこで初めて九月の一件を知ったらしい。総武高校に八幡がいると知ったカースト下位の連中が引き起こした事件のことだ。
中学時代の情けない姿を教えてやろうと賛同者を募って、意気揚々と総武の文化祭に乗り込もうと企んだものの、人数がさっぱり集まらず。現地ではリア充オーラを放つイケメン生徒に諭されて、八幡本人からも反撃されて、すごすごと帰って来たというのが事のあらましだった。
「いちおう私のところにもさ、『総武の文化祭に行こう』みたいな話は来てたんだよねっ。でも、あの顔ぶれと一緒に行くのって楽しくなさそうじゃん。連絡をくれた子も『あいつらとは別に行く』って言ってたし、じゃあ私もそうしよっかなーって思って千佳を誘ったんだよね」
「葉山くんのバンドも観たけど、凄くよかったよ!」
ちゃんと話をしろと言ってくれた先程の仲町はどこに消えたのかと。思わず大声でげらげらと笑い出しそうになったのをぐっと堪えて、折本は話を続ける。
「だから私が比企谷のバンドを観られたのは、あの連中のおかげってのもちょこっとだけあるんだよねー。なんだか悔しいけどさっ!」
「悔しいってのは、なんでだ?」
あの時の演奏を楽しげに語ってくれるのは嬉しいけれど、それはあの二人がいたからこそだ。自分の存在など微々たるものだと考える八幡は、折本が悔しがる理由が理解できなくて、きょとんとしながら思わず疑問を漏らしてしまった。
「なんでって……あること無いこと全部を比企谷のせいにして、しかもそれを理由に比企谷を見下してたような連中だよっ!?」
「まあ、やってない事まで俺のせいにされるのは確かに勘弁して欲しかったがな。それでも終わった話だろ?」
「ちょ、比企谷ってなんでそんなに、えっと、達観って言うのかな。何でもないですって顔ができるのさ?」
「だから、もう終わった話だろって。それに見下してるって言えば俺もあいつらを見下してたからな。そんな連中に何を言われても、『ああ、やっぱり見下して正解だな』ってなるだけじゃね?」
少しだけ強がっている部分があるのは自覚している。けれども連中の話を真に受けてしまった折本をはじめとする何人かには、罪悪感を抱いて欲しくない。
そう思ったからこそ、八幡は敢えて平然と振る舞っていた。
それは別に、良い子ぶろうとするとかそんな理由ではない。そもそも俺が人知れず良い子ぶったところで、外には出ないそんな行動に何の意味があるのだろうか。
それよりも八幡には、罪悪感によって極端から極端へと揺れるのは避けて欲しいという想いがあった。
実はこれも折本のためというよりは自分のためで、端的に言えば「失いたくない」という感情が別の形で湧き出ただけだと八幡は考えている。
ぼっち時代に難儀したのは、他人がとつぜん豹変することだった。
他の同級生と楽しそうにしていた奴が、俺を目にしたとたんに表情が変わり態度が変わり、そして聞くに堪えない暴言を投げつけてくる。
そんな経験をしてきた八幡にとって、さしたる心当たりもなく迫害されることと大した理由もなく優遇されることは、表裏一体としか思えなかった。
そして中学時代に受けた理不尽な対応が、今は分不相応な対応に変わったように。過分な扱われかたがこの先も続くとは八幡には思えなかった。
いつかまた悲惨な目に遭うのではないか。
今はリア充連中ともそれなりの関係を築けているけれど、見捨てられる日が来るのではないか。
では、あの二人は?
二人を信じたいという気持ちがある一方で、万が一に備えて悪い予想を立てておいたほうが良いとも思う。
それと同時に、あいつらの足手まといにはなりたくないから、見捨てるならきっぱりと見捨てて欲しいとも思う。でも、言い出せないのではないかとも思う。
そうした思考のどうどうめぐりを続けていると、何を俺たちは遠慮し合っているのだろうという気持ちになる。そうではなくて、もっと言いたいことを言い合うべきではないかと。例えば妹とのやり取りみたいに。あるいは、あの後輩との会話のように。
どうでもいい相手なら、態度が急変してもさほどのダメージは受けない。
自分に非があったり理由が明白であれば、それなりのダメージで済む。
思った事をそのまま伝えてくれる相手なら、気を揉まなくて済むので気持ちが楽だ。
でも、決して失いたくない相手が八幡を気遣って我慢を続けて、そして遂に許容範囲を超えてしまったら?
八幡とて、こうした悩みが自己評価の低さに由来するとは認識できている。
あの二人からも恩師からも何度か指摘を受けたのだから、いい加減に克服したいと思っているし、現に春先はもちろん夏休み明けと比べてすら八幡の自己評価は高まっている。
けれども二人を特別に想えば想うほど。つまり失いたくないという想いが強まるほどに、それと比例して自己評価を上げていかなければ話にならない。
他者に向ける感情と、自身に向ける信頼と。その二者の釣り合いが取れていなければ、相対的に見た自己評価は落ちてしまうのが道理だ。
だから折本に罪悪感を抱かせたくないと考えるのは、八幡の自己評価が相対的に落ち込んでいることの裏返しだった。
素敵な女の子に告白されたら、普通なら舞い上がって、自己評価も理屈抜きでストップ高になるだろうに。もし仮にもう一人の存在が無かったとしても、きっと八幡は自他の評価の格差におののいていた事だろう。宿痾と言えばこれこそが俺にとっての宿痾だと八幡は思う。
故にこそ、それを何とかしたいがために八幡は敢えて強がって、些細なことなどどうでも良いという態度を取っているのだ。実際、そう考えて些事を切り捨てていかないと、大事なことにまで手が回らなくなってしまう。
そんな八幡の内心をどこまで見抜いているのか。
時に自らの弱さは露呈しても、そうした部分では微塵も隙を見せない葉山が静かに口を開いた。
「比企谷もこう言ってるし、必要以上に気にしなくて良いよ。俺のこともさ、今日は気を使って呼んでくれたみたいだけど、昨日のは俺がそうしたいと思って言っただけだしね。だから謝る理由もないし、ゆっくり話せたからこれでチャラってことで良いんじゃないかな?」
八幡の発言にフォローを入れつつ、さりげなく解散の方向に話を持って行こうとしている葉山を横目でちらりと見て。
気のせいか、知りたい事はだいたい分かったからもういいやと言っているように聞こえるなと考えながら、八幡がそれに続いた。
「そういや来る途中で宣伝してたけど、京政ローザ*3で面白そうなのやってたぞ。二人で映画でも観てきたらどうだ?」
「えっ、葉山くんと二人で?」
仲町のキャラがますます読めないなと思いながらも、幾つかの言動には納得がいったので八幡が軽く頷いていると。
「いや、俺たちは選挙のことで少し打ち合わせがあるからさ。もう少しここにいるつもりなんだけどね」
「えーっ。せっかくだし、それこそ四人で映画とか買い物とかしたかったのにーっ!」
用件も済んだし食事も終わったし、これは解散まっしぐらだなと考えてほっとしている八幡の横では、葉山の奮闘が続いていた。
「ほら、試験も近いしさ。参考書とか持って来てないから早めに帰らないといけないしね」
「そっかー。じゃあ仕方ないし、また連絡するねっ!」
試験だけを理由にしたら「勉強教えてっ!」という展開になりかねないので、葉山はそれを嫌ったのだろう。理想としては、次回の約束をせずに別れたかったのだろうけれど、そこは折本が相手だし仕方がない。
くくっと笑いが出そうになるのを堪えて、八幡は平然と会話に加わる。
「おう。じゃあな」
「ちょ、比企谷もあっさりしすぎっ!」
「ねー。もうちょっとだけでも……あ、かおり。またメッセージが来たんじゃない?」
横槍が入ったものの、このままお帰り頂けそうだなと考えて。
でも葉山と二人でしばらく残る必要があるんだよなぁと、内心で不満を漏らしていると。
「もうっ、会長もいいかげんにして……あ、今回のは報告だけだった。別にこんなの要らないのに、律儀だよねーっ。会ってたOGの人に頼まれて、機材を確認するために高校に直接帰るんだってさ。この近くにいたのにって、そんなの聞いてないって!」
何となく会長とやらに親近感を感じてしまい、強く生きろとこっそりエールを送った八幡だった。
「じゃあ、またねー」
「合同イベントもあるし、楽しみだねっ、比企谷?」
「おー」
「イベントの仕事でこき使って下さいって比企谷がさ」
「そんな複雑な意味を込めてるわけねーだろ」
最後に大爆笑を残して、折本と仲町は階段を下りて行った。
***
二人の姿が見えなくなって少し経ってから、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。両手を膝の上に置いてよっこいしょと椅子から立ち上がると、トレイを持って葉山の向かいの席に移動する。
腰を下ろそうとした時に窓越しに外の様子が目に入ったものの、折本たちの姿は確認できなかった。
「んで、選挙の打ち合わせなんてほんとにあるのか?」
「土日の選挙活動は無しだって約束したばかりだろ?」
葉山の返事に納得してしまった八幡は、へっと一言で片付けようとしたのに頬がぴくぴく動いている。うまいこと言いやがってと心の中で嘲ろうとしても、対面の男を睨む目は力がまるで足りていない。
「なんでかね。折本たちよりもお前との話のほうが有意義だったって気がするんだが」
「俺は最初からそうなると思ってたよ。まあ、比企谷が告白した相手と話してみたいって気持ちも少しはあったけどさ」
そう言われても今更なので、八幡に動揺はない。
椅子にどすんと背中を投げ出して気楽な調子で返事を口にする。
「しょせんは昔の話だからな。色々と確認できたのは良かったと言えば良かったけど、それぐらいかね」
「あんまり懲りてなさそうだったけど、比企谷はそれで良かったのか?」
「俺が良い悪いを言っても仕方がないからな。良くないのは、現在進行形のやつぐらいだろ」
「現在進行形か……もう少し用心したほうが良かったかな?」
見知らぬ誰かに黙祷を捧げていると、葉山が独り言のように呟いたのが耳に入った。
用心したら防げるものなのか、俺にはよく分からないなと思いながら。ひがむ気持ちがさっぱり浮かんで来ない自分にひそかに首を傾げていると。
「でも、いざとなったら比企谷が助けてくれるだろうしさ」
「おい、ちょっと待て。それぐらい自分で何とかしろよ。それに貸し借りなしって言ってただろ?」
無言の時間が続いたので、全く違う話題が出てくるのかと思いきや。ふざけた事を口にした葉山を反射的に睨み付けながら、思った以上に低い声で反論してしまった。
おそらく、見透かされたような気がしたからだろう。
「俺は貸しだとは思ってないけどね。君が借りだと思っていれば、それが行動に反映されるんじゃないかな?」
「あのなあ。俺がそんなに……」
言いかけた言葉は途中で宙に浮いてしまった。
なぜなら、階段のそばから口を挟んで勝手に八幡のセリフを引き継いだ女の人が、トレイを両手に持ったまま近付いて来たからだ。
「比企谷くんがそんなに、義理堅いわけがあるかって言うとあるんだよねぇ」
冒頭のほんの二つか三つの文字を口にしただけで、そんな単語未満の言葉でさえも衆人の注目を集めるには充分だった。彼女と面識のある二人に至っては、予想外のエンカウントに身体をすっかり強張らせてしまい適切な反応ができそうにない。
そんなふうにして華麗な先制攻撃を果たした雪ノ下陽乃は、机の上にトレイをふわりと優雅に置いて、八幡の隣・葉山の左斜め前の席に腰を下ろした。
***
まだ湯気が立っているコーヒーを軽く口に含んで。少しだけ顔をしかめた陽乃はそれを机に戻すと後は見向きもせず、そのまま背もたれに身体を預けた。
「あーあ。朝からつまんない用事ばっかでさー。お姉ちゃん疲れちゃったから、比企谷くんでも隼人でもいいから面白い話をしてくれない?」
そんな傲岸不遜な発言も、陽乃が言うと様になるのだから困ったものだ。
この人に「やっておしまい!」と言われたら即座に「アラホラサッサー」と答えてしまいそうだなと考えて。おかげで心に余裕が生まれた八幡は、じとっとした目で隣席を窺う。
目が、合ってしまった。
「なあにー、比企谷くん。わたしの顔に見惚れちゃった?」
「いや、あの……」
「って、それは無いか。むかし好きだった子とデートしてたんでしょ?」
どこまで、と考えるのは愚問だろう。全てを知られていると覚悟すべきだが、とはいえ情報をどこから仕入れているのかまるで読めない。
なんとか目を逸らすと同時に首に力を込めてぐぎぎっと動かして、やっとのことで顔を正面に戻した八幡は、ふと思い付いて目の前の男に視線を向けた。
表情が固いままだと自覚している葉山は、あえて軽い口調で答える。
「残念ながら俺じゃないよ」
「ぶー。隼人って最近ちょっと秘密主義になってない?」
言われてみれば、今日の話を暴露されると葉山にとっても面倒なことになる。説明を求める約二名が俺のところにも押しかけて来そうだなと考えて、思わず八幡が身震いしていると。
「それで、ロマンチックな話とかなかったの?」
「そんな感じじゃなかったよ。比企谷にとっては昔の話だしね」
無難に話を収束させようとする葉山に、軽く視線を送って。へたに口を挟まないほうが良さそうなので頼むと、そんな意図を伝えていると。
すぐ横から冷たい声が聞こえて来た。
「昔の話だからって、好きだった子をそんなふうに扱うんだねぇ」
これはおそらく葉山に向けての言葉でもあるのだろう。いや、むしろ攻撃対象はあっちかと思い直して、今度は八幡が口を開く。どうにかして話を逸らそうと考えながら。
「あれは好きだったうちには入らないですよ」
「へぇ。どういう意味?」
「俺の願望というか妄想を勝手に押し付けてただけで、利己的な勘違いというか……少なくとも、あんなのは本物じゃないですよ」
折本に告白をしたあの日からつい先程に至るまでずっと考え続けてきたことなので、言葉が淀みなく出て来た。
だから、その単語が持つ重みにすぐには気付けなかった。
この世界に巻き込まれた直後に生徒会長の演説を聞いた時に。そしてテニス勝負を終えてひとりになった時にも、八幡は本能的にこの言葉に惹かれていた。魅せられていたと言っても良い。おそらくは、この仮想世界に捕らわれるずっと前からそうだったのだ。
たしかに今過ごしているのは現実とは異なる世界だ。けれどもここは決して仮初めでも虚構でもなく、現に存在している世界の一つだ。一緒に過ごしている人たちも、たとえそれが生身の人間であれAIであれ、その存在に疑いはない。
現実と仮想をそれぞれ真と偽に、あるいは善と悪や美と醜になぞらえる人もいるのだろうけれど。そう簡単には切り分けられないものだと、八幡はつくづく思い知らされた。
なぜなら、
この世界で変わりはじめて、今なお変わり続けている。
ここにあるのは偽物ばかりではないと、そう実感できたからこそ。
八幡は
だからこそ、捻くれていると言われようとも八幡は一途に
恥ずかしくてとても口には出せないけれども、八幡が欲しているのは究極的には
「比企谷くんは、まるで理性の化け物だね。もしくは、自意識の化け物かな?」
ふっと吐息を漏らしてから、面白いものを見たと言わんばかりの蕩けるような面もちをこちらに向けて、陽乃が囁きかけてきた。
たぶん、顔の造作があいつに似ていなかったら搦め取られていただろう。
でもこれは、俺が求めるものではない。
「そんな恰好良いものじゃないですよ」
そう考えた八幡は軽口で返した。陽乃につけられた的確な二つ名の、その呪いには囚われまいと考えながら。
「そっか。まあ、面白い話だったかな。で、隼人と雪乃ちゃんは相変わらずと」
「俺は……」
「隼人のことだからさ。将来じゃなくて今だって、
八幡をちらっと窺った後は視線を落として机の一点を見据えるだけで、葉山は奥歯を噛みしめたまま身動きできずにいた。
そんな幼なじみには目もくれず、陽乃はそのまま言葉を続ける。
「雪乃ちゃんもねぇ。自分で動いているようで、大事なところは他力なんだよね。ほんと、お母さんそっくり」
「その……どこまで知ってるんですか?」
八幡ですら知らない各陣営の内幕まで余さず把握されている気がして、思わず疑問を口にすると。
「んーと、知ってるっていうか予測なんだけどね。でも、雪乃ちゃんと隼人に関しては外れてないと思うよ?」
遠目から見れば笑顔を浮かべているようでも、目は全く笑っていないし口元には嘲笑の色が浮かんでいる。何よりも全身から滲み出るような圧力が八幡を怯えさせた。
中学の頃に自分を見下してきたカースト下位の連中はもちろん、権力を笠に着た教師ですらもとうてい及ばない。斬られる覚悟とはこの事かと、反射的にそう考えてしまうほど陽乃の存在感は凄まじかった。
それが、ふっと柔らかく転じる。
「比企谷くんって、悪意に敏感だから面白いね。わたしはそういうの、好きだなぁ」
「いや、その、俺にはもう小町がいますから」
しどろもどろに答えてみると、今度は抜けるように無邪気な笑顔を向けられた。
「じゃあさ。わたしがあの時に言った言葉を覚えてるかな、八幡お兄ちゃん?」
よく、覚えている。
文化祭の直前に言われて以来、折に触れて考え続けてきたことだから。
あの時に陽乃はこう言ったのだ。
妹にちょっかいをかける理由は、俺の答えで「まだ半分」だと。
「うん、よろしい。じゃあそろそろわたしは行くね」
そう言って颯爽と立ち上がった陽乃は二人にもトレイにも目もくれず、弾む足取りで階段を下りて行った。
***
陽乃が姿を消して少し経ってから、葉山が大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
さっきの俺と同じような感じだなと思いながら、声を掛ける。
「なんか嵐に遭ったみたいな気分だよな。そろそろ出るか?」
「ああ、そうだね。陽乃さんのトレイは俺が片付けておくよ」
立ち上がった葉山は既にいつもと変わりなく、むしろ狐につままれた感じかねと八幡は思った。
葉山の背中を追って階段を下りると、そのまま店の外に出た。
ここで解散だと助かるのだが、そういうわけにもいかないだろうと思う程度には八幡にも常識がある。いや、常識というよりは積み重ねてきた腐れ縁のせいかと思い直す。
「俺は東口の駐輪場に行きたいんだが、お前はどうする?」
「じゃあ、千葉駅まで一緒に行こうか。さっきの逆ルートで良いかな?」
提案に軽く頷いて、二人並んで無言で足を動かした。
特に言葉が必要だとは思わなかったし、今日の短時間で葉山の内面に少し詳しくなれた気がした。
葉山が口を開いたのは、シーワンに入ってしばらくしてから。解散の場所から逆算したのだろうなと思いながら、耳を傾ける。
「比企谷にひとつ、訊きたいことがあるんだけどさ。いいかな?」
「まあ、答えられる事だったらな」
八幡の用心深い返答に、ふっと笑みを漏らして。そのまま葉山は問いを発する。
「君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているから……じゃないよね?」
「はあ。当たり前だろ?」
「そうか……たぶん、それで良いんだろうな」
一瞬だけ苦しげな表情を垣間見せて、すぐに葉山はいつもの笑顔に戻った。
「今日は色々と有意義だったよ。じゃあまた月曜日に」
「おう。じゃあ月曜に」
端的に答えて踵を返して、数歩歩いたところで八幡はふと思った。
これじゃあ何だか、葉山と友達みたいじゃないかと。
そんな気持ちの悪い思い付きを頭を振って追い出して、八幡は自転車置き場を目指して歩いて行った。
***
その夜のこと。
「もう。お兄ちゃんってば、どうしてこんな趣味の悪い服ばっかり持って来たの?」
「いや、その、ちょっと恰好良いかな……って」
「せっかくの雪乃さんからの呼び出しなんだし、ちゃんとした服装をさせないといけないのに……なにこの難易度?」
八幡は妹の着せ替え人形になりながら、昨日届いたもう一通のメッセージを思い出していた。
『……の件で話をしたいので、日曜の午後にでも少しだけ時間を貰えないかしら?』
用件を見なかったことにできないかなと考えつつ、雪ノ下雪乃の呼び出しそれ自体には弾む心を抑えられない八幡だった。
当初は土日を一話で終わらせる予定でしたが、更新をこれ以上遅らせたくなかったので区切りました。
話数を増やせるのはこのタイミングのみ→悩んだ末に裏技発動と相成りました。
いろはすに感謝です。
次回はできれば一週間以内に更新したいと考えているものの、いつ時間の余裕ができるのか全く読めず……こんな曖昧な事しか言えなくて申し訳ないです。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。(5/18,6/15)