俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回のあらすじ。

 立会演説会と投票が行われ、三位票から順に開票が進む。
 あとは一位票の結果を待つばかりとなった。

*まだ投票がお済みでない方は、五つの選択肢から一つを選ぶだけですので、前話の後書きの下まで御足労を頂けますと嬉しいです。



15.りゆうを見付けた彼女と彼は前を向いて歩き始める。

 館内は拍手の音で埋め尽くされていた。

 壇上では、司会を務めた現生徒会長をはじめとして、対立候補の二人も立会人の三人も妙にすがすがしい顔をしている。

 

 きっと、この中でいちばん現実味を感じられないのは自分だろう。

 そんなふうに考えながら、彼女はステージの上に備え付けられたスクリーンをもう一度、見るとはなしに眺めた。

 

 そこには、各候補の得票率が明示されている。

 

一色いろは :35%

由比ヶ浜結衣:33%

雪ノ下雪乃 :32%

 

 この結果が表示された直後には、歓声や悲鳴や安堵の息や溜息や、とにかく人の口から飛び出るあらゆるものがわんさと出て来て混沌の極みにあった体育館も、今はようやく落ち着いてきた。

 その証拠に、誰からともなく叩き始められた音は瞬く間に周囲を席巻して、選挙戦の勝者である彼女、一色いろはを讃えている。

 

「いろはちゃん、おめでと」

「勝ったのは一色さん、貴女よ。だから拍手に応えてあげて」

 

 今のこの気持ちは、ともに戦ったこの二人にしか解らないのではないだろうか。

 そう考えた一色が、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃に向けて静かに頷きを返すと。視線の先には、うんうんと首を縦に動かしながら慈しむようにニコニコと微笑みかけてくれる城廻めぐりがいた。

 

 ああ、そうかと一色は思う。

 歴代の生徒会長は、こんな想いを胸に代々就任してきたのだ。

 

 それを確かに受け取って、我知らずふんわりとした自然な笑みを浮かべながら。

 城廻から手渡されたマイクを手に、一色は立ち上がった。

 

『これから一年間、生徒会長を務めることになりました、一色いろはです。わたしに投票してくれた人たちのためにも。それから、二人の素敵な先輩に、投票してくれた人たちのためにも。わたしは、生徒会と奉仕部が協力し合って、みんなが普通に過ごせるような、城廻先輩の時と同じように楽しく毎日を送れるような、そんな高校にしたいと思っています。だから、みなさんも、協力をお願いしますね』

 

 最後は少し地が出そうになったし、言い終えると同時にウインクまでしそうになって、慌てて頭を下げたのだけど。

 

 とりたてて言葉や態度を飾らなくても、これほどの熱気が返ってくるなんて。

 立候補をする前には、こんなことは思いもしなかったなと考えながら。

 

 一色は、立候補を唆してくれた悪いせんぱいに、横目でこっそりとお礼を伝えた。

 

 

***

 

 

 正式な代替わりは試験明けだという理由に加えて、おそらくは投票の結果が出た直後なので気を使ってくれたのだろう。

 早々に一色に仕事を任せても良かっただろうに。城廻は選挙戦の終結と選挙管理委員会の解散を宣言すると、続けて生徒たちに教室に戻るようにと促した。

 

 そんなわけで、各クラスでは帰りのホームルームが行われていた。

 

 

「勝ってここに帰ってくると約束したのに、それを果たせなくてごめんなさい。それと、選挙期間中に、私のために走り回ってくれて、ありがとう」

 

 自らの非を認めても、素直にお礼を伝えても、このクラスの面々なら言葉をそのまま受け取ってくれる。

 

 去年の今頃には自ら壁を作って同級生と距離を置いていたというのに。

 たったの一年で、変われば変わるものだとも言えるし。心の持ちようがほんの僅かに違うだけで、そんな些細な変化が、時には大きな効果を生み出すのだとも言えそうだ。

 

 なぜなら、当の自分自身もまた、それほど大きく変わったわけではないのだから。

 特に人の内面は、そう簡単に変われるものではない。

 

 そんな事を頭の片隅で考えながら、雪ノ下は教卓の上から話を続ける。

 

「あなたたちが頑張ってくれたから充実した毎日を過ごすことができて、この上なく良い流れで投票当日を迎えられたと思っていたのだけれど。敗因は、私が予想していた以上に二人の演説が良かったせいで、それはつまり私の見通しの甘さが原因ね」

 

 自虐的に聞こえないように特にイントネーションには気を使いつつ、二人の演説から学んだことを実行する。

 

「でも、だからこそ。今度また大きな仕事をする時には、自分の力を過信せず、あなたたちを頼るわ。だから、その時は……お願いできるかしら?」

 

 お願いしている側だというのに卑屈な様子は微塵も無い。

 

 そんな()()()()()()()()()()()()姿を頼もしく見上げながら。

 二年J組の生徒一同は、一度選挙に負けたぐらいで落ち込むほど柔な性格はしていないと証明するためにも、声を合わせて雪ノ下の問い掛けに応えた。

 

 

「せっかくあたしのために頑張ってくれたのに、結果を出せなくて……でも、いろはちゃんを応援してたヒッキーやさがみんや大和くんは、おめでとう、かな。それから、ゆきのんを応援してた隼人くんやさいちゃんや大岡くんは、また何かあった時には、ゆきのんを助けてくれると嬉しいなって」

 

 照れくさい顔を見られたくないと、ぷいっとそっぽを向かれたり。妙にあせあせとした反応や、軽く頷いただけで表面的には素っ気なかったり。

 予想と寸分も違わない堂に入った頷きや、悔しい気持ちをうるうると訴えてくるその眼差しや、軽い調子で親指を立てて了解の意思を伝えてくれたり。

 

 本当に、色んな性格の人がいるなぁと思ってしまう。

 

 そうした多種多様な人材を噛み合わせて、誰にも過度の負担が掛からないように気を付けながら、会長として一年間を過ごしてみたかったなと改めて思う。

 けど、いつまでも未練を引きずっていても仕方がない。

 

「最後に、あたしに投票してくれたクラスのみんなに。特に、ほとんど休みも取らないで動き続けてくれたとべっちと、あたしが集会とかでいない時にもずっとこの教室に残ってくれて困ったことが起きてもすぐにてきぱきと片付けてくれた沙希と、あたしが苦手な頭を使う問題をぜんぶ引き受けてくれた姫菜と、あたしが気が付きにくいことをさっとフォローしてくれたりみんなを盛り上げてくれて……今はあたし以上に悔しがってくれてる優美子と」

 

 ここでいったん言葉を切ると、海老名姫菜に肩を叩かれて今度はふくれっ面を浮かべているのが目に入った。ころころと表情が変わっていくのが可愛いなと由比ヶ浜は思う。

 

 たぶん、この三人の関係も、今の形のほうが良いのだろう。

 

 三浦優美子を頂点に置いても、そんな立場には頓着しないと思っていたし、実際にさしたる問題も起きていない。

 けれども自分が先頭に出ることで、三浦はより気ままにより奔放に振る舞うことができる。同時に、そうした派手好きな側面とは裏腹の世話好きなおかんという性向も、一歩引いた立場なら発揮しやすいみたいだ。

 

 それに三浦は意外と泣き虫だったりするのだが、そんな側面を表に出してしまっても、今なら威厳が失われることはないだろう。それどころか、より親しみを持たれそうな気配がある。

 自分や海老名を庇うように一歩前に出ていた頃にはひた隠しにしていたけれど(でも雪ノ下や川崎沙希には隠せてなかったけど)、それはある意味では無用な我慢をさせていたということだ。

 

 そうした三浦の気遣いに、ようやく報いることができる。

 これも、この選挙戦を経験したおかげで学べたことだった。

 

「……うん。でもやっぱり、いろはちゃんやゆきのんに投票した人たちも含めて、お礼を言いたいかなって。だって、この選挙期間中は楽しかったからさ。だから、えっと……みんな、お疲れさまでしたっ!」

 

 そう言って勢いよく頭を下げた由比ヶ浜をねぎらう拍手は、さすがに恥ずかしくなってきたのでそろそろ止めようよと当人が言い出してもますます勢いを増して、もう座っちゃうからねと宣言して椅子にすとんと腰を下ろすまで絶え間なく続いた。

 

 

「あの一色があんなに感動的な演説をするなんて、先生は何度思い出しても胸の奥から熱い想いがこみ上げてきて身体全体が奮い立つのを感じるぞ。そんな一色を必死で応援してきたお前らみんなも、俺の誇りだよ」

 

 微妙に失礼なことを言われている気もするのだが、今日ばかりは見逃してあげようと思う。だから早いとこ語り終えて下さいねと担任を冷ややかに眺めながら、一色は頬杖をついてぼけっと過ごしていた。

 

 この後は友人四人と軽い打ち上げをする予定になっている。

 普通ならクラス全員に加えて選挙戦に協力してくれた先輩方も誘って盛大にお祝いするべきなのかもしれないけれど、ファンの扱いがネックになっていた。

 

 それに選挙の熱気が冷めてしまえば、クラス一丸という状態からは微妙に後退してしまった。

 もちろん以前のように、あからさまにいがみ合う関係に戻ることはないと思うけど、かといって仲良しこよしになれるかというとそれも難しい。少なくとも、今すぐには無理だ。

 

 それにあの子たちから提案を受けて、勝手に立候補をさせられた一件は演説で話に出すことで手打ちになった。つまり今はお互いにイーブンな状態なので、どうにも関わり方が難しいという状況だった。

 

「まあ、これは言い訳ですけどね~」

 

 誰にも聞こえないような小さな声で呟いて、一色はそのまま物思いを続ける。

 

 それなら陣営の幹部連中だけで打ち上げを、という声ももちろんあった。

 それをきっぱりと却下して、それでも食い下がる友人たちには「せんぱいとの仲を散々からかわれたから」とまで告げて、一色は総勢五名の打ち上げを希望した。

 

 気の置けない顔ぶれで、こぢんまりと喜びを分かち合いたいというのが、一色の偽らざる本音だ。

 とはいえ、それ以外の理由もあるにはある。

 

 今回の選挙戦最大の功労者は、どう考えてもあのせんぱいだろう。

 そして彼は、打ち上げのような華やかな催しをあまり好んでいない。

 それに彼には、他にやりたいことがあるはずだ。

 

「まったく。旅行前とはぜんぜん違うって、わたしが気付いてないとでも思ってるんですかね~」

 

 ふぅと息を吐き出して、大功を立てた彼が望むに違いない褒美を、こっそり取らせた自分に不満を抱く。

 こんなふうに陰ながら配慮してあげるだなんて、どう考えても性に合わない。でも、今回だけは我慢してあげよう。

 

「せんぱいのお陰で色んなものを貰っちゃいましたし、仕方が無いですね」

 

 四人の友人と六人の先輩と使い走りの三人と。居心地の良いクラスと過ごしやすくなった校内では、嫉妬で血走った目を向けられる機会も激減するだろう。生徒会長の肩書きと、地味だけどやりがいのある仕事も新たに得られた。

 

 それに、以前から付き合いがあった奉仕部の三人とも、選挙戦で競い合ったり助け合ったことで仲がいっそう深まった気がするし。戦いの中で三浦や海老名や、あの先輩のことにも詳しくなれたと思う。

 

「ま、せんぱいなら簡単に言うことを聞いてくれますし?」

 

 この思考の流れで、勝利の立役者を脅すことを考える辺りが一色の一色たる所以(ゆえん)だろう。

 

 気の抜けた顔つきが、みるみるうちに不敵な面構えになっていくのを自覚しないまま。ましてや、大半の時間を特定の一人を思い浮かべて過ごしていたとはまるで気が付かないままに、一色は試験明けの代替わりの日に思いを寄せてふふんと笑った。

 

 

***

 

 

 担任の話はあっさりと終わった。

 急いで教室を出て行こうとした比企谷八幡は、ふと背後から視線を感じて、席を離れる前に後ろを振り返る。

 

『今日、どうする?』

『先に行っててくれ。そんなに遅くならんと思う』

 

 首をひょこんと傾げた由比ヶ浜に、軽く頷いて応えた。

 

 自意識過剰かもしれないが、クラスの雰囲気が何だか気恥ずかしくて逃げるのか、それとも用事があって急いでいるのかぐらいは簡単に見抜きそうなので、きっと意図は伝わっているはずだ。

 そう考えた八幡は迷いなく首を戻して、足早に教室を後にした。

 

 

 通い慣れた空き教室に身を潜めて、八幡は椅子に逆向きに腰を下ろして頬杖をついたままぼけっとしていた。

 

 同じような体勢の誰かがまさか自分を脅そうと考えているなどとは夢にも思わず。誰にも見咎められない空間で平和な時間を満喫していると、部屋の扉ががらっと開いて一人の生徒が姿を現した。

 

「悪い、待たせたか?」

「いや、大丈夫だ。椅子はセルフサービスで頼むわ」

 

 八幡の言葉にふっと苦笑を漏らして、稲村純は教室の後ろから運んできた椅子を横並びに置いた。逆向きに座って頬杖をついて窓に向かって溜息を吐く。

 

「まさか、あの二人に勝つとはな」

「お前の協力もあったしな。つか、あれだけ僅差だと何が原因とか考えるだけ無駄だよな。何か一つが狂っただけでも結果が違ってたんじゃね?」

 

 会うのはこれが三度目だというのに、夕暮れの海辺で腹の内を明かし合ったせいか言葉が遠慮なく出てくる。なんなら口を開かなくても簡単な自白ぐらいなら促せそうだ。

 そう思った八幡が、じとっとした視線を送ると。

 

「会計を引き受ける気持ちに嘘は無かったけどな。でも、誰に投票するかは実は最後まで悩んでてさ。俺が生徒会の臨時メンバーで、雪ノ下さんが助っ人で、あの凄まじい仕事ぶりは去年何度も目の当たりにして来たしさ。由比ヶ浜さんには恩があるし、すごいスケールの会長になったんじゃないかって今でも思ってるし。けど……一色さんと一年を過ごして、ちゃんとけじめをつけたいしな」

 

「……とか思いながら演説を聞いて、迷わず一色に入れたってとこか?」

 

 稲村がいったん口を閉じたので、勝手に話を引き継いで相手の気持ちを推測してやると。

 

「ぐうの音も出ないって、こんな時に使うんだろうな。俺のちっぽけな悩みとか、全部まとめて波にさらわれちまった気分だわ」

「まあ俺も正直に言うと、一色にやられた感じはしたけどな。ましてや、あれだけ普通を連呼してたお前なら……」

 

 自分なんて普通に過ぎないと、特別にはなれないと考えていた稲村には、あの演説は効いただろうなと八幡は思う。そしてだからこそ、「誰しもが人生において特別な三人の異性と出逢う」というこいつの主張に、説得力を感じてしまう自分がいる。

 

「思ったんだけどな。サザンもそうだけど、自分にとっての特別って、別の視点から見てみたら呪いみたいな要素があるんだよな。どう足掻いても逃れられないって言うかさ。親にあれだけ聴かされて一時期はイントロを耳にしただけでも気分が悪くなってたのに、それでも自分の中に蓄積されたものが残ってて、他の曲を聴く時にもそれを参考にしてたりしてさ。んで、その、い一色っさんのこともな」

 

「イイッシキッさんって知らない名前だな。外人か?」

「ちっ。比企谷の耳が変になっただけじゃね。とにかく、向こうにとって俺はモブだって自覚しただけじゃ、終わらせてくれないみたいだな。お前が言ったとおり、どうしようもない絶望感に浸れるところまで行かないと、ダメみたいだわ」

 

 ふんと鼻息を荒くして、八幡は端的に応える。

 

「それはお前が望んでたことでもあるだろ?」

「相変わらず手厳しいな。人のせいにするなって言いたいんだろ。俺的には、お礼みたいな意味合いで言及してやっただけだっつーの。それと……まあ、これはその時が来てからだな。しばらくは生徒会で忙しいし、俺が色々と教えないといけないんだろうし……はあ」

 

 深々と溜息を吐いているので、首を軽く傾けながら。

 

「一色に教えるって意味なら、本牧もいるだろ?」

「いや、まあ、色々あってな。得意分野の違いっつーか趣味の違いっつーか、それは仕方が無いって諦めてるよ」

 

 要領を得ない返事ではあったものの、それほど大きな問題ではなさそうなので気にしないことにして本題に入る。

 

「じゃあ、あれだな。約束通り、俺らは一色を当選させたわけだが」

「ああ、分かってるよ。後は俺らが引き受けたから、比企谷は外部から手助けしてくれ」

 

 そう言って立ち上がった稲村は椅子を元の場所まで戻してから、「じゃあ、またな」と言って去って行った。

 

 扉が閉まると同時に盛大に息を吐き出した八幡は、無事に引き継ぎを終えたことに安堵する余裕もないままに、頭を切り替えながら勢いよく席を立った。

 

 

***

 

 

 夕暮れの廊下をゆっくり歩いて、八幡は特別棟へと足を踏み入れた。

 慣れた道のりなので足が進むに任せて、頭の中ではどんな反応が来ても良いようにと検討を重ねていた。

 

 勝ったのは一色だというのが八幡の認識なので、自分に向かってしおらしい様子を見せられると困ってしまうだろう。単純にお怒りあそばされると楽なのだが、あの部長様に限って理不尽な物言いはなさらないだろうし、お怒りは適切な理由を伴っているはずだ。

 

 背中がぞくぞくするのを感じながら、その時はおとなしく土下座をしようと心に決めて。

 八幡は部室のドアを開けた。

 

 

 ふわっと鼻腔をくすぐったのは紅茶の香り。

 部屋の中では、雪ノ下が背中を向けてお湯を注ぎ終えようとしていて。

 由比ヶ浜は、予想がばっちり当たったと言わんばかりの顔つきで。

 

「ほら、やっぱりヒッキーじゃん。用事は無事に終わったんだよね?」

「おう、問題なく終わったな。つか、誰の足音かって賭けでもしてたのか?」

「私も由比ヶ浜さんも同じ結論だったので、賭けにはなりようがなかったわね」

 

 つまり、由比ヶ浜は場を盛り上げようとして、あんなふうな言い回しをしたのだろう。

 とはいえ無理に明るくしようという感じではなく、雪ノ下の雰囲気も()()()()()に見える。

 あれこれ考えていたのは杞憂だったかと八幡が胸をなで下ろしていると。

 

「椅子に座ってしまう前に、お茶を取りに来てくれるかしら。由比ヶ浜さんも……」

「うん、わかった!」

「ん、了解」

 

 雪ノ下の言葉を遮って元気よく立ち上がった由比ヶ浜は、今にも鼻歌を口ずさみそうなほど弾んだ足取りで窓際の机に向かった。

 それを追った八幡は、こちらを振り向いた由比ヶ浜から紙コップを手渡されたので踵を返す。

 その後ろに、お茶を手にした由比ヶ浜と雪ノ下が続いた。

 

 

「まず、気を使わなくても大丈夫だと言っておくわね。その上で二人に伝えたいのは、私の完敗だったわ」

「いや、完敗っつーか僅差だっただろ?」

「でもさ。いろはちゃんが会長になるんだから、あたしたちの完敗だよ」

 

 そう返した由比ヶ浜は、二人に口を挟ませないまま言葉を続ける。

 

「いろはちゃんが勝って、あたしとゆきのんが負け。それ以外の数字とかには意味なんて無いし、ヒッキーが気を使ってくれるのは嬉しいけどさ、あたしもゆきのんも頑張った結果がこれなんだから、その、なんて言うのかな……」

 

「一色さんと貴方にだけは、謙遜されたくないという事よ。それと、私()数字には意味があると思うわ。たとえ僅差だとしてもね」

 

 口ごもったタイミングで口を挟んだ雪ノ下は、そのまま自分の意見を表明した。

 話を終えて、何かを確認するかのような眼差しを隣席の対立候補に向けると、由比ヶ浜は唇を噛んで頭を小さく縦に動かした。

 その動きをしっかりと確認してから話を続ける。

 

「だから、私の完敗だと思うのだけれど」

「謙遜されたくないって……うん、でもこれって繰り返しにしかならないね」

「ええ、そういう事よ」

 

 横目で様子を窺ってみると、八幡は居心地が悪いという顔をしている。

 たぶん勝つことに慣れてなくて、だからどんな風な態度を取れば良いのか分からなくて困っているのだろう。

 自分たちが何に拘っているのかには気が付いていないみたいでほっとする。

 

 反対側の様子を窺ってみると、いつも通りの雪ノ下だった。

 つまり、雰囲気を明るくしようと頑張ったことも、言い聞かせたいと思って口にした言葉も、届かなかったということだ。

 

 

 選挙のやり方を話し合っていた時に、具体的には八幡が二位票の話を持ち出した時に、ふと思い付いたことがある。

 

 立候補するからには、当選だけを目指して頑張ろうと思っていたけれど。現実問題として二人は難敵だ。確実に勝てると言い切れないどころか、負ける可能性も低くはない。

 

 もしもそうなった場合に、勝ったのがこの部活仲間ならそれで良い。勝ち負けが明確だからだ。

 しかし後輩が勝利を収めた場合には、二人の間では勝敗が付かない。得票率に応じて順位が出るとはいえ、ともに負けたことに変わりはないからだ。

 でも、せっかく直接対決をするからには、決着をつけておきたい。

 

 だから()()は、場合によっては二位票にも意味があると考えた。

 仮に落選した場合でも、一位票と二位票のいずれもが部活仲間を上回れば、それはこの好敵手にして得がたい友人に勝ったと言っても良いのではないかと思ったのだ。

 

 だが、結果は望んだものとは違っていた。

 

 一位票は、わずか1%の差で由比ヶ浜が上。

 しかし二位票は25%の大差で雪ノ下が上回った。

 

 たとえ僅差でも、一位票で劣った時点で雪ノ下は負けを認めた。そして、自分と同様に由比ヶ浜もまた数字に拘っていたことを確認した。

 

 あの喫茶店に幼なじみを呼び出した時のことを思い出す。

 どちらが脅威なのかと訊ねたそうにしていたけれど、その答えは明確だ。

 

 私たち二人は、お互いにだけは負けたくないと考えて勝負に挑んだ。

 その勝負を、勝手に無かったことにされたら困ると念を押したのだ。

 

 とはいえ由比ヶ浜にしてみれば、二位票にも拘っていたはずだよねと言いたくなる。

 だから二人の勝負は決着つかず、意味があるのは一色が勝ったという結論だけだという形で話をまとめてしまいたかった。

 

 

 三者三様の理由で口を閉ざしたまま、部室には重い空気が立ち込める。

 

 敗者にかける言葉を思い付けない八幡と、説得の言葉を思い付けない由比ヶ浜が焦れてきても、結論を出してしまった雪ノ下は平然と佇んでいる。

 頬には微かに笑みすら浮かべて、形の良い唇がそっと動いた。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 すっかり意表を突かれてしまい何も反応できない二人を、笑みを深めて順に眺めて。

 雪ノ下は紅茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。

 

「来週からは部活停止期間なので、しばらくは試験に集中するわね。今日は喋り疲れたから、先に帰らせて貰おうと思うのだけれど」

 

 そう告げられても、カップを洗い終えて再び視線を向けられても、二人は何も言葉を出せなかった。

 

 雪ノ下が、いつも通りの雪ノ下だったから。

 口の挟みようが無いほどに、いつも通りだったから。

 

「では、また試験明けに」

 

 その言動だけが普段とはまるで違っていて。けれども口調も佇まいも、()()()()()()()()()()()()雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 ドアがぴしゃっと閉まる音を耳にして、ようやく二人は身動きができるようになった。

 

「ゆきのん……」

「……なあ。もしかして、俺はまた、間違えたのか?」

 

 絞り出すような声を耳にして、慌ててかぶりを振った。

 

「そうじゃないと思う。間違えたのはたぶん、あたしもだ……」

 

 慰めを言われたと受け取ったのだろう。沈黙が返って来たので、考えがまとまる前に慌てて口を開く。

 

「あのね。三人が立候補して、ここで選挙戦の内容を話し合ったじゃん。あの時にはね、もう気が付いてたんだ。ゆきのんが、本音では会長をやりたがってるって。他に適任がいないからって理由で立候補したんじゃないって、判ってたの」

 

「それは……俺も気が付いてたな。雪ノ下が本気だって事に」

「うん。でもさ、あたしは、ゆきのんと戦えるチャンスだって思って、そっちを優先しちゃったんだ。それに……あたしも会長になりたかったから」

 

 そう言い終えて視線を膝下に落とした瞬間に、八幡の言葉が耳に届いた。

 

「それなら仕方ないだろ。雪ノ下の希望を叶えるためにお前の願いを犠牲にするのは違うと思うし、お前が感情を押し殺したところで一色がその気になってたからな。それに、お前クラスで言ってただろ。選挙期間中は楽しかったって。じゃあ、どんな結果が出ても仕方がないんじゃね?」

 

「……でもさ。ゆきのんの演説を聞いてて思ったんだけどさ。あたしとゆきのんの案の、いいとこ取りって言うのかな。無理に戦わなくても、もっといい形にできたのかもなって」

 

「それは、でもあれだろ。会長を決めないことには話にならん……いや、待てよ。たしか海老名さんはお前に古代ローマの話を教えたんだよな?」

 

 ぜんぜん違う話になったので目をきょとんとさせていると、ようやく苦笑を浮かべながら簡単に説明してくれた。

 

 インなんとかアウグスなんとかさんが皇帝になる前の共和制ローマでは、執政官という最高職が二人制だったんだって。独裁を防ぐためって理由だったみたいだけど、それと同じように、あたしとゆきのんが二人で会長を務めるって手もあったかもなって。なんなら、いろはちゃんと三人制にしても良かったかもって。

 

「それだと、役員がすごいことになっちゃうね。ちょっと書き出してみよっか」

 

会長 :雪ノ下、由比ヶ浜、一色

副会長:本牧

書記 :藤沢

会計 :三浦、稲村

庶務 :八幡、海老名

 

「なんかあれだな。メンバーが強烈すぎて、逆に難題がやって来そうな感じだよな。コナンが住んでる町と同じぐらいの確率で事件が起きそうで、ちょっと怖いんだが」

「なんとなく、言いたいことは分かるけどさ。でも、うん、やっぱりこれは違うんじゃないかなって。やっぱり勝負してよかったかもって思っちゃった」

 

 そう言うとまた苦笑いを浮かべて、「そうかもな」と同意してくれた。

 せっかく選挙で勝ったのに、あんな表情でいて欲しくなかったからほっとする。

 

「ヒッキー、頑張ったよね。すっごく頑張ってた。いろはちゃんの支持率がぐんぐん上がって来て、まさかって思ったらこの結果だしさ。ゆきのんに勝つんだって、それだけに集中してたから、どうしようもなかったなぁ」

 

「まあ、そのお陰で助かったっつーか、お前が雪ノ下の支持率を減らしてくれたからワンチャンあったって感じだな。だからまあ、二位・三位連合の恩恵を受けたのが最大の勝因かね。あ、そういやお前、『最良』ってのは前から考えてたんだよな。雪ノ下の手綱を握るってのは川崎の提案だろ?」

 

「うん。沙希がアイデアを出してくれて、それをあんな形にしてみたんだけどさ。ゆきのんが『最高』って言い出すのは分かってたんだけど、でもあの言葉を使ったのは失敗だったなって。他にね、『堅実』とかも候補に挙がってたんだ。けど、ゆきのんに対抗してって気持ちが強すぎて、結局それで負けちゃったんだなって」

 

 とはいえ、それで得られたこともあるし、それで気付いたこともある。

 そう考えると、やっぱり戦ってみてよかったなと思えてきた。

 

「つーか話を戻すと、雪ノ下は大丈夫かね?」

「うーん。今はまだ混乱してるみたいだけどさ、ゆきのんなら大丈夫だってあたしは思うな。それに、試験があるからさ。やることがある時って、それに集中できるから、気持ちの立て直しも早くなると思うんだよね」

 

 いつか必ず復活することは信じて疑っていない。

 けれども、どれほどの時間が掛かるかは、悩んでいる人を多く見てきた自分でも予測がつかなかった。なぜなら、雪ノ下の悩みの根幹の部分が、由比ヶ浜には見通し切れないからだ。

 

 これ以上、落ち込んだ顔を見たくないので、明るい話ばかりを伝えたけれど。

 自分に協力できることは何でもするから早く元気になりますようにと、由比ヶ浜は心の中で祈りを捧げた。

 

 

「じゃあ、そろそろ帰ろっか。どうしよ、外から一緒に帰る?」

「あ、いや、それはあれがどれでこれだからな。あー、えーと、そうそう、一色に一言ぐらいは伝えたいから、ちょいサッカー部に寄ってから帰るわ」

 

 八幡の狼狽ぶりを楽しそうに眺めながら、由比ヶ浜はこう結論づけた。

 

「それなら、昇降口まで一緒に行けるね」

 

 策士を見るような目で呆然と由比ヶ浜を眺める八幡だった。

 

 

***

 

 

 部室を出て、脇目も振らずに最短距離を歩いた。

 個室からマンションのリビングに移動して、ようやく大きく息を吐く。

 

「このルートで下校するのは初めてね。登校したのも、職場見学の翌日に寝過ごした時だけだったと思うのだけれど」

 

 そう呟いた雪ノ下は、制服のまま着替えもしないでソファにどさっと身体を投げ出した。

 そして、もう一度あの言葉を口に出す。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 あの二人なら、最終的には会長選挙に協力してくれるのではないかと思っていた。

 たとえ別の思惑があるとうすうす勘付いても、会長になるという私の意思を、三人で仕事をしたいという気持ちを、わかってくれるだろうと。

 そんな楽観的なことを考えていたのは、ほんの一週間ほど前のこと。修学旅行から帰ってきて、生徒会室で事情を知った時のことだ。

 

 それに彼と彼女なら、私の思惑すらも、わかるものだと思っていた。

 たしか本人たちにもそう言ったことがある。

 彼に告げたのは、文実で最初に集まった時だった。

 二人に告げたのは、体育祭の運営委員長に立候補した時だった。

 

 なのに現実はままならない。

 あの二人ですらも、わからないことはわからない。

 なのに姉や()()()には、わかって欲しくないことまで見通されてしまう。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 奉仕部を特別に思う気持ちは私も同じだ。

 けれども、あの二人があれほどまでに()()奉仕部に執着するとは思っていなかった。

 奉仕部が生徒会へと発展しても、三人がいる場所こそが奉仕部だと私は思っていた。

 その想いは、きっとあの二人なら、わかるものだと思っていた。

 でも冷静になってみれば、今日の演説まで奉仕部をどうするのかを教えていなかったのに、あの二人がわかるわけもないのだけれど。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 負ける可能性もあるとは覚悟していた。

 仮に負けたとしても、それを糧にしてやろうとすら思っていた。

 姉や()()()に何度も煮え湯を飲まされてきたのだから、負けた時の気持ちぐらい、わかるものだと思っていた。

 

 こんな無力感を抱いたり、悔しいという気持ちが湧き上がってすら来ないとは、思いもしなかった。

 

「わかっていたのは、こんなことぐらいね……」

 

 それでも自分は、いつも通りに振る舞える。

 他人の前では平然と、普段と同じように装って、過ごせてしまえる。

 たとえその他人の中に、あの二人が、含まれていても。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 最悪の可能性も考えてはいた。

 二人ともに負ける可能性だ。

 彼女と後輩に。あるいは、彼女と彼に。

 

 そうなった時には、却って清々しい気持ちになるのではないかと考えていた。

 そんなふうに、わかるものだと思っていた。

 

 でも考えてみれば、私は既に知っていた。

 文化祭の前に高校を休んだ時に。

 

 彼と彼女が揃って勧めてくれたことに、間違いは、無い。

 つまり、二人に反対された時点で、私が立候補しても無駄だったのだ。

 そんなことすら、私はわかっていなかった。

 そして、今も。

 

「……わからない。私はこれから、どうすればいいの?」

 

 その言葉に応える者はなく、雪ノ下はひとり途方に暮れるしかなかった。

 

 

***

 

 

 昇降口を出たところで八幡と別れた。

 校門まで辿り着いたところで立ち止まって、由比ヶ浜はゆっくりと後ろを振り返る。

 

「いろはちゃん、すごかったな……」

 

 あの二人を追い掛けるのに必死だったから、気が付かなかった。

 他のみんなとの距離が、少しずつ開いていたことに。

 

「あの二人と他のみんなを、あたしが繋げてあげるんだって思ってたのになぁ……」

 

 とはいえ、他のことには目もくれないで懸命に追い掛けないと、あの二人はどんどん先に進んでしまう。

 

「わかるものだと思ってたって言われてもさ。ゆきのんの考えとか性格って、かなりわかりにくいってわかってないよね。これでも必死でわかろうと頑張ってるんだよ?」

 

 だから、三人だけだったら、遠からず限界が訪れていたのだろう。

 でも、四人なら?

 

 前へ前へと走り続ける二人に向けて必死に手を伸ばしても、もう片方を後ろに伸ばせば、きっとあの後輩ならその手を掴んでくれる。他のみんなと手が繋がった状態で。

 

「いろはちゃんが二人を追い掛けたいって思った時には、あたしが後ろに下がればいいんだしさ」

 

 いつかの集会で自分が口にした言葉が脳裏に蘇る。

 あの二人とは無理だけど、自分と似た部分のある一色となら仕事で折り合える。状況に応じて役割を入れ替えたり、分担したりもできるのだ。

 

「負けちゃったけど、せっかく気が付けたんだから……うん、頑張ろう!」

 

 夕闇に浮かぶ校舎を見上げながらぼそっと呟いた由比ヶ浜は、前を向いて歩き始めた。

 

 

***

 

 

 グラウンドの中央で練習をしていたサッカー部の連中に近付いて行く途中で、一色の姿が見当たらないことに気が付いた。

 しかしくるっと回れ右をするには遅すぎたみたいで、穏やかな笑みを浮かべた葉山隼人が小走りで向かってくる。

 

「ま、時間つぶしに付き合って貰うかね」

 

 由比ヶ浜と並んで下校するのは気恥ずかしいので、自転車で追いついてしまわないように時間を調整する必要がある。

 校門の辺りで立ち止まっているのが目についたので内心で頭を抱えながら、しばらく雑談でもしてやるかと腹を括った。

 

「やあ。いろはは同級生と打ち上げに行くって言ってたけど、聞いてないのか?」

「俺の役目は選挙が終わるまでだからな。連絡とか来るわけねーだろ?」

「いろはは君を誘いたがっていたよ。少なくとも俺にはそう見えたけどな」

「お前の勝手な思い込みだろ?」

 

 そうは言ったものの、昨夜はわざわざ前倒しでお礼を言いに来てくれた一色だ。

 だから連絡が無かったのは、別の理由なのだろうなと八幡は思った。

 

「変に聞こえるかもしれないけどさ。いろはに友達ができたと聞いて、なんだか微笑ましい気持ちになったよ」

「娘を見る父親みたいな感じになってねーか?」

「どうだろな。娘ができたら父親は溺愛するみたいだけど、そこまでじゃないな」

「そういや小町の溺愛ぶりには、あれが実の父親とは思いたくないレベルだったな」

 

 八幡が遠い目をしていると、葉山が苦笑まじりに話を続けた。

 

「雪ノ下のおじさんも、あの二人を目に入れても痛くないほど可愛がっててさ。でも、親離れの時期だと思ったら決断は早かったな」

「ほーん。それって、雪ノ下が留学した時か?」

「ああ。おばさんの反対を押し切って、おじさんが全てを手配したと言っていたよ。ついでに言うと、多い時には週に一度は会いに行ってたみたいだね」

「海外にか……まるで子離れできてねーな。てか、うちの父親と同レベルが、まさか実在したとはな」

 

 そう呟いておののいている八幡をよそに、葉山は表情を引き締めて再び口を開いた。

 

「雪ノ下さんを心配して来たんじゃないのか?」

「ああ、いや。雪ノ下なら大丈夫だと思ってたんだが、心配事でもあるのか?」

 

 由比ヶ浜が大丈夫だと保証してくれたので、すっかり安心していたのだけれど。

 自分たちの知らない情報があるかもなと考えて、逆質問をしてみたところ。

 

「いや。生徒会長になれなかったのは残念だけど、雪ノ下さんなら影響は無いんじゃないかな。ただ……君は、志望校の話とかは?」

「雪ノ下が平塚先生と話してる場に居合わせた時があってな。陽乃さんの志望校とか、それなりの話は聞いてるな」

「そうか……じゃあ、留学の可能性とかも?」

「ああ。国内だと英語が物足りないとか、そんな話だったよな?」

 

 家の繋がりがあるとはいえ、葉山がそんなことまで知っているのは少し腹立たしいなと思いつつ。同時に、どうしてこんな話を持ち出して来たのかと考えていると。

 

「雪ノ下さんなら、英語は問題ないだろうし学力も大丈夫だろうね。問題は、課外活動だけどさ」

「ちょっと待て。それってあれか、推薦入試みたいな感じか?」

「ああ、なるほど。ここまでは知らなかったのか。君が連想した通り、推薦入試を大規模にしたようなイメージで捉えると良いかもな。でも、生徒会長になれなくてもさ……」

「雪ノ下なら大丈夫だろ」

「……ああ。俺もそう思うよ」

 

 部室での由比ヶ浜の言葉を頭の中で繰り返しながら、八幡は何ら根拠のない言葉を力強く言い切った。

 虚を突かれた葉山が、それでも同調してくれたのでほっと胸をなで下ろす。

 

 動揺を外に出さないように気を付けながら、周囲を平然と見回してから口を開いた。

 

「そういや、戸部の姿が見えないな」

「選挙に協力してくれたお礼だって姫菜に誘われて、たしか池袋に遊びに行くって言ってたかな」

「……なあ。ここだけの話だけどな。池袋って、腐女子のメッカと呼ばれてるらしいぞ。戸部が帰ってきたら精神的にフォローしてやれよ」

「……それは知りたくなかったな」

 

 知りたくもない情報を入手した二人は、げんなりとした顔を見せつけ合って揃って溜息を吐いた。

 

「お互いに苦労するな」

「俺のほうは自業自得だからな。まあ、部長様の足を引っ張らないように気を付けるわ」

 

 何とかそこまで言い終えて、八幡はくるっと背中を向けた。

 

「じゃあ……」

「選挙に勝ったのは君といろはだ。だから、胸を張って過ごしたら良いさ。じゃあな」

 

 別れの言葉を遮って、こんなふうに元気付けてくれやがるとは、お節介なことこの上ない。

 ちっと舌打ちをして、右手を挙げて何度かひらひらと動かしてから八幡は歩き始めた。

 

 

***

 

 

 自転車置き場に到着してみると、残っていた数台がドミノ倒しになっていた。うんざりすることに、一番下になっているのが八幡の愛車だ。

 条件反射的に指が動いて、声が外に聞こえない設定にした。

 

「くそっ!」

「なんでだよっ!」

「なんで、俺がやる事ってこんなに裏目に出るんだよっ!」

「自分がして欲しいことと他人がして欲しいことは違うって、折本や仲町も言ってたじゃねーか!」

「気付けよっ。せめて昨日の夜にでも、気付いてくれよ!」

 

 声を張り上げるとともに自転車を一台一台引っ張り上げては壁にもたれさせて、ようやく発掘作業が終わった。ぱんぱんと手で叩いて服についた土埃を払ってから、背筋を伸ばす。

 

「雪ノ下が、教えてくれてたら……絶対に反対なんてしなかったのに。それとも、あれか。俺ならわかると、期待してくれてたのか?」

 

 雪ノ下の呟きを思い出すと、苛立ちがよけいに酷くなった。

 無性に身体を動かしたくて、でも今の心理状態で自転車に跨がるのは避けたほうが良い気がしたので、両手でハンドルを持ってゆっくりと歩くことにした。

 こんなことを思い付ける自分が心底から腹立たしい。

 

 高校で生徒会長を務めていたという話は、きっと課外活動としては上等な部類だろう。

 なのに雪ノ下は、それを書けなくなってしまった。

 海外の大学にアピールできる実績を一つ、失ってしまった。

 俺が立候補を継続させた一色が、勝ってしまったから。

 

 せっかくの期待を裏切ったのかもしれないと思うと、八幡の心は傷ついた。

 でも考えてみれば、この一件で傷ついているのは誰よりも雪ノ下だろう。

 

 傷つけ合う前に打ち明けられていたら、こんなふうにはならなかったのに。

 雪ノ下が打ち明けてくれていたら。

 もしくは、自分には何もわかっていないと、打ち明けることができていれば。

 

「救いとしては、たぶん影響は無いってことかね。葉山はきっと、ありきたりの生徒会長よりも奉仕部の部長のほうがアピールできると考えてたっぽいしな」

 

 そんな慰めを口にしたところで、やってしまったという思いは消えてはくれない。

 

 少しはあの場所に慣れたと思っていた。

 あの部室で半年以上を一緒に過ごして、あいつらのことならだいたい分かると思っていた。

 

 それに、気が付けば余計なものまで手に入れていた。

 同級生や同学年や先輩に後輩と、親しく思える相手が日を追うごとに増えて来た。

 

 なのに肝心要のところで、イメージの違いに気付けなかった。

 雪ノ下と由比ヶ浜が思い描いていた生徒会の姿を、俺は全く想像していなかった。

 あいつらとは全く違う生徒会を、思い描いていた。

 

 もしも、そのせいで。

 俺が描いたその影で、雪ノ下の未来が霞んでしまったのだとしたら?

 

「ちっ。なんで、こんな時に限って、古い歌ばっか連想するんだよ。こんなのは俺の趣味ってよりは、平塚先生の……っ!」

 

 あれは文化祭の打ち上げの時だった。

 あの人に「静ちゃんが好きなミュージシャンって、比企谷くん知ってる?」と問い掛けられて。その時に名前を挙げた中に、SUPERCARもGRAPEVINEもアジカンもいた。それと、そう、pillowsも。

 

 彼らの曲の話をしたのは、まだ夏休みの頃だった。ラーメン屋の行列に並びながら、せっかく「孤独と自由はいつも抱き合わせ」だと伝えてくれたのに。あの先生は続けて、こんなことまで教えてくれたのに。

 

『誰しも限界はあるし、それを許せる時が来るものだよ。今の君なら無力感に苛まれるのだろうが……比企谷、その先だよ。行列の秩序が保たれなくても、望みが叶わなくても、人にはそれぞれの性格に応じてその先が用意されているものだ。嘘くさい一般論だと、今の君は考えるかもしれないがね』

 

 やらかして、取り返しがつかなくなった今になって、ようやく恩師の言葉を思い出した。

 まるで今の状況を見越していたかのように、ぴったりと腑に落ちてしまう。

 

 それにこうまで言われてしまえば、少しぐらいは男らしさとか広い心を発揮したいものだと考えてしまうのが不思議だ。

 限界だと判定を受けた直後だというのに、うじうじとしていたくないとか、ねちねちと誰かのせいにしたくないと思ってしまう。

 

「この先があるのなら……いつまでも嘆いてるだけじゃダメだよな」

 

 独り言を言い終えて、ふと立ち止まると。八幡は夕陽に照らされた校舎を見上げた。

 

「いずれにしても、俺の行動に変わりはないな。二人が部に残ってくれて、三人で奉仕部ができるんだからな」

 

 そう口にして、八幡は前を向いて歩き始めた。

 

 

 

原作八巻、了。

 

原作九巻に続く。




その1.更新について。
 本章は予告したスケジュールで更新するのが難しく、何度も延び延びになってしまって申し訳ありませんでした。

 特に本話は、章の最後ぐらいはと考えていたのに結局果たせず。
 個人の時間が確保できなくなってきた事に加えて、実は1巻を書いていた頃から「早く書きたい」「書けたらいいなぁ」と考えていた章だったからか、急に書き終えるのが寂しくなって遅くなりました。

 こんな事を言っていたら、最終章とかどうなるんだって話ですよね。なので気持ちを切り替えて、今後もこつこつと話を進めていこうと思っています。

 時系列を考えると幕間を挟みたいところなのですが、あまり明るい話になりそうにないので省略して、次回はまとめ回になります。
 そのまま続けて9巻に入る予定ですので、今後とも本作を宜しくお願い致します。


その2.参考作品。
 本話で八幡が連想した楽曲は以下の通りです。著作権を考慮して歌詞を微妙に変更してはいるのですが、元ネタに敬意を表するためにも作品名を明記しておきます。

・SUPERCAR「Lucky」(1997年)
・GRAPEVINE「光について」(1999年)
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「ループ&ループ」(2004年)
・the pillows「ストレンジカメレオン」(1996年)

 年代が近い三曲は、平塚先生が中学生ぐらいの時期に聴いていてもおかしくない作品を。アジカンは平塚と八幡の二人ともが知ってそうという理由で選びました(ちなみに原作では「リライト」がネタにされています)。

 また、選挙戦を書くに当たって、古代・中世のヨーロッパと戦後の我が国の歴史を参考にしました。こちらは参考書籍を全て挙げても意味が無いので、ざっと紹介するに留めます。

・クリス・スカー「ローマ皇帝歴代誌」(創元社)
・本村凌二「地中海世界とローマ帝国」(講談社学術文庫)
・堀米庸三「正統と異端」(中公文庫)
・北岡伸一「自民党 政権党の38年」(中公文庫)
・原彬久「岸信介 権勢の政治家」(岩波新書)
・増田弘「石橋湛山 リベラリストの真髄」(中公新書)

 これらの他に、正確さには欠けるものの読み物としては面白いモンタネッリ「ローマの歴史」(中公文庫)や塩野七生「ローマ人の物語」(新潮文庫)、角栄の優遇はあるものの昭和の戦後史を漫画で読める戸川猪佐武原作・さいとうたかを作画「歴史劇画 大宰相」(講談社+α文庫)などが、最初に読むのに適していると思います。興味を惹かれた方は是非。


その3.謝辞。
 ずっと読み続けて下さっている方々も、最近になって読み始めて下さった方々も、こんなにも長い作品に目を通して下さって本当にありがとうございます。

 こうして章の区切りのたびにお礼をお伝えすることと、作品を書き続けて完結させることぐらいしか、私にできる事は無いと思うので。最終話に向けて、これからも頑張ります。


その4.本章について。(*長くなったので最後に回しました。)
 三人を普通に戦わせてみたかったという、一言でまとめるとそんな章でした。

 一番悩んだのは結末で、5巻の時点で本命は決めていたものの、誰が当選しても物語の終わりまで書き続けられるようにと配慮しながら話を進めました。以下でもう少しだけ、この件について書かせて下さい。

 1巻を書いていた頃の本命は由比ヶ浜でした。ろくろ回しv.s.おかん腐女子ブラコンという展開には心を惹かれたものの、それでも2巻以降を実際に書くとなった時には、私の中の本命は雪ノ下になっていました。

 その理由を端的に言うならば、原作が「八幡と雪ノ下の物語」だからです。
 これは恋愛レースの勝者が雪ノ下という意味ではなく、けれどもどんな結末に至るとしても(誰と結ばれても、あるいは恋愛要素をぶった切る結論でも)、八幡と雪ノ下の間に何らかの決着を必要としていることを意味しています。

 そして雪ノ下が抱える問題が学校外(家族)にある以上は、外との繋がりが持てる生徒会という組織に奉仕部ごと鞍替えするという展開が一番スマートだと考えました。
 原作の10巻以降に対して、「陽乃か一色が問題を持ってくる」という形式化されたパターンへの不満が時おり聞かれるのは、ここに原因があると思えたからです。

 けれども、この展開には一つ大きな問題があります。
 これも端的に言うと、「八幡の存在意義が消滅する」ことです。

 詳しい説明を始めると長くなるので結論の羅列になりますが、原作の7-9巻では雪ノ下の脱主人公化が進行しました。その象徴が8巻のラストで、つまり一色の会長就任が決定的な要因になっています。
 それと同様に、雪ノ下が会長に就任して奉仕部が生徒会に取り込まれることは、八幡が主人公としての役割を(ひとまず)終えることを意味します。

 実を言うと、これは原作12-13巻において進行中のことでもあります。そのため、語り手であるにもかかわらず八幡の内面が非常に解りにくい書き方になっていて、これも不評の原因になっている気がします(読み解いていくと面白いんですけどね)。

 つまり、10巻以降が巻を追うごとに苦しい書き方になっていくのは(そして10.5巻の存在が輝くのは)、突き詰めると8巻のこの結末に原因があります。

 じゃあやっぱり一色ではなく雪ノ下を本命にと考えると、それだと上記の通り12巻以降の問題と即座に向き合う羽目になるんですよね。

 以上のような経緯から由比ヶ浜案も再浮上を果たして。でも、どのパターンを選んでも困った事になるので、4巻を書き終える頃までは散々悩んでいたものの。

 結局のところ、この作品の主人公を一人選べと言われると八幡なので、一色を本命にして話を進めることにしました。

 とはいえ、作者の本命が誰であっても、作中の描写に説得力がないことには話にならないわけで。そして作者自身の印象がどうであれ、それを読者さんがどのように受け取ったのかは判らないわけで。

 なので、それを確認するためのアンケートに前話で答えて下さった方々に、最後に厚く御礼を申し上げて、本章の結びとさせて頂きます。

 ありがとうございました!


追記。
誤記を訂正して(サドル→ハンドル)細かな表現を修正しました。(9/21)

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