俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回のあらすじ。

 ダブルデートからメッセージや通話に至るまで、折本たちとの関わりを全て白状させられた八幡だが、何とか穏便に話を済ませることができた。一人だけ納得のいかない顔をしている一色が気になるものの、当面の危機は去ったと八幡は胸をなで下ろす。

 部室に平塚と葉山が現れて、国語の試験結果を伝えられた。解説を聞いた八幡は、今回の試験を通して平塚が伝えたかった想いを受け止める。だが同時に、妙に淡々とした反応を示す雪ノ下や控え目な様子の由比ヶ浜が気になった。
 部室に三人だけになってもあまり話は捗らず、この日は早々に解散となった。

 一同に向けて「遠慮なく相談したまえ」と言ってくれた平塚の言葉を反芻しながら、八幡は帰宅後も翌日も悩み続けていた。そして遂に意を決する。
 平塚に「人生相談がある」と告げた八幡は、恩師が待つ高校へと足を向けた。



03.つかの間の一時が彼に今後の指針を与える。

 土曜日の夜なのに、校舎には明かりが煌々と灯っていた。

 廊下を歩きながら首を傾げていた比企谷八幡は、つい先程「まだ高校にいる」と告げられたのを思い出してその理由を悟った。

 

 月曜日には答案返却と解説が控えている。

 試験の重圧から解放された生徒たちとは違って、教師にとっては今が正念場ということなのだろう。

 

「おや、早かったな」

 

 昇降口に着く前に、廊下の向こうから声を掛けられた。

 職員室とは反対の方向から、キーホルダーらしきものを指先でくるくると回しながら平塚静が近づいてくる。

 珍しいことに白衣は着ておらず代わりにコートを羽織っていて、その下は普通のスーツ姿だ。

 

「まあ、こっちは相談に乗ってもらう側ですし」

「君らしくない気の使いようだな。……いや、逆に君らしいと言えるのかもしれないな。せっかく満を持して出迎えてやろうと思ったのだが、仕方がない。ついて来たまえ」

 

 そう言って外を指差したので、八幡も靴を履き替えて教師の背中を追った。

 

「夕食は済ませたのかね?」

「家で食べてきました。先生は?」

 

「今日のぶんの採点が終わるまではお預けだな。食べると眠くなるし、一気にやる気が失せてしまうんだよ。答案用紙を家に持ち帰っても良いのなら、一眠りして深夜に続きができるのだが……昨今はその辺りが厳しくなってね。まあ、こんなのは生徒に聞かせる話じゃないな」

 

 苦笑を漏らしながら、平塚は校舎の裏手に向けて歩いて行く。

 

「この先って、駐車場ですか?」

「ああ。私の愛車に君を乗せてあげようと思ってね。行き先のリクエストがあれば受け付けるが?」

「いえ、特には……」

「そうだな。今日はゆっくり相談を聞くことにして、ドライブと洒落込むのは次の機会にしておくか」

 

 そう呟いて不敵な笑みを浮かべた平塚は、少し歩いた先で足を止めた。そして目の前にある車のピラーの辺りを愛おしそうにこんこんとノックしてから後ろを振り向く。

 おそらくこれが平塚の愛車なのだろう。

 

「それってスポーツカーですよね。もしかして左ハンドルですか?」

「ああ。悪いが向こうに回ってくれるかね?」

 

 平塚が車の左側から動こうとしないので、もしやと思って問い掛けると正解だった。

 ドアが左右に一つずつ=スポーツカーという程度の知識しかない八幡だが、この車がかっこいいのは理解できる。まあ中二心をくすぐられているだけとも言えるのだが。

 

「では、適当に走らせながら話を聞こうか。安全運転を心掛けるから、その点は安心したまえ。……教室が使えたら良かったのだが、こんな時間なのでね。見咎められると厄介だから勘弁してくれるかな?」

 

 もちろん八幡に否やは無い。

 助手席でシートベルトを着けながら大きく頷くと、車は静かに動き始めた。

 

 

***

 

 

 高校を出てしばらくの間は無言が続いた。

 けれども居心地が悪いと感じることはなくて、むしろ落ち着いて話ができるという予感がする。

 

 車に乗せられると判った時には採点の気晴らしをしたいのだろうと思ってしまった八幡だったが、車の中は意外と相談事に適した環境なのだなと考えを改めていた。

 

 直進を続けていた車が、京葉線を越えたところで右に折れる。

 千葉みなとに向かって線路と併走しながら、ようやく平塚が口を開いた。

 

「そういえば、数学の先生に君のことを尋ねられたよ。担任の先生にも話し掛けていたみたいだが、詳しい話を知りたいかね?」

「中間と比べて点数が違いすぎるとか、そんな内容ですよね?」

 

 なんだか照れくさくて、少し控え目に申告してみたものの。

 

「そうだな。中間は学年で最低点、期末は満点で学年トップと来れば、数学の先生が慌てるのも無理はないな」

「まあ……ですね」

 

 おそらくミスは無いと、思ってはいたけれど。

 結果を知らされると喜びがじわじわと湧いてきた。

 

 まさか数学で満点を取れるなんて。

 得意教科の国語よりも先に学年トップになれるなんて思いもしなかった。

 それだけに格別の想いがする。

 

「どうした。君が捻くれたことを言わないのは珍しいな」

「いえ、ちょっと正直あれですね。思ってた以上に嬉しかったというか……。あの先生って授業でやったことしか試験に出さないから、満点なんて他にも何人も居るんだろうなって分かってるのに、それでも……嬉しいっすね」

「……そうか」

 

 八幡の喜びを受け止めて、その気持ちを共有してくれているのだと感じられた。

 

 ハンドル捌きは滑らかで、アクセルもブレーキも淀みがない。

 そんなふうにして落ち着ける空間を維持してくれている平塚は何度もうむうむと頷きながら、八幡の試験結果を我が事のように喜んでいる。

 

 けれども、この結果は自分一人で得たものでは無い。

 それをしっかりと己に言い聞かせながら、八幡は口を開く。

 

「雪ノ下がプリントを用意してくれたから、それを丸暗記した後も三周ぐらい繰り返して。それから問題集にも一通り目を通して。でも、あれだけ頑張れたのはプリントを作ってくれた雪ノ下と……平塚先生が京大に連れて行ってくれたお陰だと思ってます」

 

「ふっ、今日はやけに殊勝だな。そろそろいつもの憎まれ口が飛び出す頃合いではないのかね?」

 

 すっかりお見通しだなと内心で白旗を掲げながら、微かに苦笑を漏らした八幡が話を続ける。

 

「プリントの丸暗記が終わった辺りで、ちょっと気になったので調べてみたんですよ。んで、センター試験の行列は、このまま続ければ対応できるなって思ったんですけどね。京大の二次の行列って、あれ何なんですかね……」

 

「かつての君なら、二次もセンターも定期試験も一纏めにして、数学を解ける奴は変人だと言っていた気がするがね。難易度の違いが理解できるようになったのは、君が成長したという事だよ」

 

 もともと褒められるのには慣れていない八幡だが、この先生に言われると嬉しさと気恥ずかしさが半々にやってくるのは何故だろうか。

 少しだけ頬を染めながら、そんな気持ちを誤魔化すように口を開く。

 

「だからそれは、雪ノ下と平塚先生のお陰ですよ」

「ふっ。君がそう言うならそれでも良いさ。話を戻すと、数学の先生に雪ノ下のプリントを見せたら途端に納得していたよ」

 

「あれっ、と。雪ノ下って先生にもプリントを渡してたんですね。その、数学の先生が俺の成績に疑問を持つって分かってたから」

「その辺りの根回しは流石だな。あの子は、誰かの面子を立てるといった感情面の配慮は極端に不得手なのだが、こうした事務的な手配をさせると大人顔負けの仕事ぶりだからね。大したものだよ」

 

 その発言に心からの同意を込めて頷いていると、見覚えのある駅の姿が視界に届いた。

 同時に平塚が指示器を出す。

 車は千葉みなとの手前で左に曲がると、そのまま千葉街道に入った。

 

 

 話に区切りが付いたのでそろそろ本題に入ろうかと考えながら。

 けれども言い出す切っ掛けを掴めずにいた八幡の耳に、またしても平塚の声が聞こえて来る。

 

「数学が学年首位で、国語が学年二位か。そろそろ君も優等生と呼ばれてみるかね?」

「いえ……だって雪ノ下と葉山は今までずっと全教科で一位と二位だったわけですよね。今回もたぶんそれが続くんでしょうし、なら俺はお呼びじゃないですね」

 

 そう返事をした八幡が気負いも引け目も感じていないのを横目でちらりと確認してから、平塚は話を続ける。

 

「実は昨日の話だがね。君は違和感を持たなかったかな?」

「えっ……いえ、特には何も。何かありましたっけ?」

 

 何度かふむふむと首を動かしてから、平塚がそれに答える。

 

「例えば三〇点の科目があったとして、それを六〇点に上げるのと、その六〇点を今度は九〇点に上げるのとでは同じ点差でも労力が違う。もちろん後者のほうが大変なのは明らかだがね、それよりも更に九〇点を九五点に上げるほうが難しいとは往々にして良くあることだ。ここまでは良いかね?」

「もしかして、由比ヶ浜のことですか?」

 

 国語の得点が平均か平均を少し上回っていると告げられて、けれども喜びを控え目にしていた同級生の姿を思い出した。その反応が何だかもどかしくて、八幡は捻くれた言い回しで祝いの気持ちを伝えたのだった。

 

「正確には、由比ヶ浜に対する雪ノ下と葉山の評価についてだな。微笑ましい光景だったので口を挟まなかったのだがね。君たち三人が一点を争う労力と比べると、由比ヶ浜が更に点を伸ばすほうが、可能性としては高いだろうな。だが、それは優等生の発想なのだよ」

 

「そういえば、昨日部室で先生が来る前ですけどね。数学のプリントの話が出た時に由比ヶ浜が『平均点近くは取れてると思う』って言ったら、あれだけやっても平均なのかって感じで雪ノ下がおののいてまして。でも、その手の意識の違いって仕方がないと思いますし、違和感って程でもないと思うんですけど?」

 

 なるほどと首肯して、そこで信号が青に変わったのを見た平塚は静かにアクセルを踏み込みながら返事を口にする。

 

「私の説明がミスリードを誘ったみたいだな。問題にしたかったのは労力に対する意識の違いではなくて、もっと根本的な部分なのだよ。つまり優等生は、得点が上がれば上がるほど良いと考えがちだがね。由比ヶ浜が学年上位の成績を目指せるのか、目指す意味があるのかと問われたら、君はどう答えるかね?」

「それは……でも、本人に向上心があれば……」

 

 口ごもってしまったのは、平塚の言いたいことが本能的に理解できたからだろう。

 そして本能的な理解に留まったのは、はっきりと言語化したくないと思ってしまったからだろう。

 つまり。

 

「たとえ向上心が人一倍でも、君や雪ノ下や葉山が目指すような難関校には、おそらく由比ヶ浜は進学できないだろうな」

 

 冷酷な現実を告げられても、八幡は噛みしめた唇をゆっくりと開いてそれに反駁する。

 

「それでも、成績を上げていけば選択肢が広がるじゃないですか。それに全く同じ大学は無理でも、近くの大学に行くとか……」

「君も解っているとおり、問題はそこではないのだよ。もちろん君たちが望めば近くの大学に進学するのは可能だろう。けれども少しずつ時間が合わなくなって行くだろうな。それは同じ大学に進学しても同じでね。学部が違えば、学科が違えば、ゼミが違えば等々、すれ違いの原因など幾らでも出て来るし、むしろ少しずつ別の道を歩んでいくほうが健全な関係を維持できると私は思うよ」

 

 教師の意図は充分に理解できる。

 けれども感情は、それを理解したくないと悲鳴を上げている。

 あの二人と離ればなれになる日が来るなんて、そんなのは認めたくないと思ってしまう。

 

「少し混乱しているみたいだから話を戻そうか。国語力という言葉は教師としてはあまり使いたくないのだがね。由比ヶ浜のそれを、君はどの程度だと見積もるかね?」

「それは……昨日言ったとおりですね。文章もわりと普通に読めてるし、それで自分の意見が惑わされることもないし、成績以上の実力だと俺も思いますけどね」

 

 一つ先の信号が黄色になったので車をゆっくりと減速させながら、平塚が頬を微かにほころばせている。

 

「相手が君たちのような優等生でも、発言をきちんと受け止めて理解できているな。それに本能で生きているような生徒を相手にしても、感覚でコミュニケーションを成り立たせている。そんな由比ヶ浜に、これ以上の国語力が必要かね?」

「でも、受験のためには……」

 

 ウインカーを左に出して、車は千葉駅前大通りに入った。そのまま直進して、ロータリーのところで車を停める。

 

「大事な話だから、少し落ち着いて話そうか。たしかに受験のためには、国語の成績は上がれば上がるほど良いだろうな。君が言ったとおり、選択肢が広がるのも間違いない。けれども由比ヶ浜の今後の人生を考えたときに、これ以上の読解力や記述力は果たして有用かね?」

 

「けど、昨日言ってたじゃないですか。人生に彩りを与えてくれるって。だから記述はともかく読解力を上げていけば、もっと小説とかも……」

「由比ヶ浜ならドラマや映画など他の様々な媒体に触れることで、人生に彩りを加えられると私は思うよ。それは君や雪ノ下なら、彼女との雑談を通して身をもって理解できているはずだ」

 

 黙り込んでしまった教え子の横顔を眺めながら、酷な話をしているなと平塚は思う。

 てっきり相談とはこの事だと思っていたので突っ込んだ話をしてしまったが、それでも八幡にとっては遠からず向き合う必要があった問題なので、勘弁して貰うしかない。

 話し始めた以上は最後までと考えながら、平塚は続く言葉を口にする。

 

「仮にも進学校の教師がこんなことを言うのは問題かもしれないがね。既に充分な実力が備わっているのに、受験のためという理由だけで続けて行くような、そんな勉強をする必要はないと私は思うよ」

「でもそれだったら、俺の数学とかもこれ以上は……」

 

「君の場合は、それは目的ではなく手段ではないかね。三人で一緒に見学した()()大学に合格するのは大変だろうな。でも君なら、それに見合った見返りを得られると私は考えているよ。詳しい話は現地で伝えたから繰り返すことはしないがね」

「でもじゃあ、由比ヶ浜の進学先って……」

 

「ああ。由比ヶ浜が志望校をきちんと決めて、どんな勉強をするのかという話はそれからだよ。そして、君たちが関与すべきなのもそこだ。後悔の無いように()()()()しっかりと話し合って、それぞれの志望校を決めるようにしたまえ」

 

 そう言い終えると同時にふっと息を漏らした平塚は、軽く八幡の肩を叩いてからハンドルを握った。そして少しずつ車を動かしていく。

 

 車内は無言のままだったが、雰囲気は悪くはない。

 そう考えながら平塚は、再び車を千葉街道へと進めて行った。

 

 

***

 

 

 助手席に座る生徒の相談内容を考えながら車を走らせていると、ふと先程の通話を思い出した。

 苦笑とともに言葉が口から漏れる。

 

「それにしても、千葉の兄から『人生相談』を受けることになるとはな」

 

 その口調は楽しそうで、確かな親しみを感じさせるものだった。

 つられて思わず笑いを漏らすと、八幡も同じ調子で言葉を返す。

 

「エロゲーが好きすぎて辛いとか、男が言っても気持ち悪いだけですけどね」

「ふっ。それを千葉の妹が言うと『こんなに可愛いわけがない』になるのだから、不思議なものだな」

 

 しっかりと前を見据えて安全運転を続けている平塚のその横顔を眺めていると、気楽なラノベやアニメの話をもっと続けたいと思ってしまう。

 さっきまで重い話をしていたのだから尚更だ。

 

 そういえば、会話が捗らなかった昨日の部室で、八幡はふと思ったのだった。

 いっそ、気楽に過ごせるあの後輩のところに逃げてしまおうかと。

 それは甘美な誘いに思えたけれど、部外者にはなりたくないという想いが、これ以上は逃げたくないという想いが八幡を押しとどめた。

 

 気楽に過ごすのはいつでもできる。

 昨日もそう考えたからこそ、帰宅後も今日になっても悩み続けて、そして今に繋がったのだ。

 せっかく平塚が採点作業を中断してわざわざ自分のために時間を割いてくれているのだから、今さら逃げるわけにはいかない。

 

 意を決した八幡は、どんなふうに話を切り出そうかと少し頭を傾けたものの。この人の前では下手の考えなど意味が無いと思えたので、ひとつ深呼吸をした後で口を開いた。

 

「そういえば、先生はドライブ中には音楽をかけないんですか?」

「ん……いや、その辺りは気分次第だな。エンジンの音をじっくり聴きたい時もあるし、楽曲に耳を傾けたい時もあるさ」

 

 予想とは違う話だったからか、平塚は一瞬きょとんとして、すぐに率直な返事を口にした。

 その言葉に頷きながら八幡が話を続ける。

 

「えっと、この曲を流して欲しいとかって、ありですかね?」

「ふむ。ナビに取り込んだ曲ならこのパネルで簡単に検索できる。目当ての曲が無い場合でも、各種ストリーミング配信サービスを繋げたら車のスピーカーから聴けるはずだが……そちらはあまり使っていないのでね。君のほうが詳しいかもしれないな」

 

 広い交差点を左に曲がって、車は院内通りに入った。佐倉街道や本町通りを思わず目で追って、それから八幡は視線を手元に落とす。

 

 内装の邪魔にならないように控え目に備え付けられたタッチパネルを操作すると、すぐに意中の曲が見付かったので。「じゃあ」と意味のない言葉を呟いてから画面に触れて曲を再生した。

 すぐにギターのイントロが流れ始める。

 

「アジカンか。懐かしい曲だが……?」

 

 丁寧な運転を続けながら平塚が首を捻っている。

 それを視野の端で認識して、八幡は一瞬だけ息を止めると続けて口を開いた。

 

「これ、大サビの直前に『君の未来は霞んでしまった』って歌詞があるじゃないですか。その……会長選挙の後で、そこの部分が、こう、胸に響いたんですよね」

「なるほど……雪ノ下の事かね?」

 

 はっきりと名前を出されて、心臓が跳ねたような心地がした。

 さっきまでは普通に口にしていたのにこの反応とは、それだけ自分は今から話す内容に身構えているのだろう。

 

 そんなふうに我が身の現状を把握して、頭の中で二人の姿を思い浮かべて。

 それから八幡は慎重に言葉を選びながら話を続ける。

 

「はい。……たぶん雪ノ下は会長になりたいと思っていて、でもそれは由比ヶ浜と話してて気持ちの整理がついたんですよ。由比ヶ浜も一色も会長になりたいと思って選挙に出たんだから、仕方がないって。ただ雪ノ下には、会長になりたいって気持ちとは別の、動機というか理由もあったんじゃないかって。それが、俺のせいで……」

 

 運転席から伸びた手に頭をくしゃっと撫でられた。

 赤信号をじっと見つめながら、ちらちらと横目でこちらの様子を窺っている。

 

「……何から話したものか、難しいところだな。でも、迷った時ほどスタート地点が大切だ。だから訊きたいのだがね。君が今日、突然相談する気になった経緯を、教えてくれないか?」

 

 手を戻して車を慎重に動かしながら、平塚がそう告げた。

 触れられた部分をがしがしと軽く掻いてから口を開く。

 

「もしかしたら、もう手遅れかもしれないって思ったんですよ。試験期間だからって俺が逃げていた間に、全てが終わっちまったんじゃないかって。……例えばですけど、ぼっちとかカースト底辺とかって、何かしらの出来事を境に決まるわけじゃないですよね。何か原因があって、それから少し時間が経って、それで確定するって流れだと思うんですね。今になって気付いたんですけど、実は執行猶予の期間みたいなのがあって、その間に何とかしていれば状況は違ってたんだろうなって」

「ふむ……続けたまえ」

 

 教師の声に一つ頷いて、しかし八幡は話を続ける前にタッチパネルに手を伸ばした。アジカンの次はGRAPEVINEを、その次にはSUPERCARが流れるように設定してから言葉を出す。

 

「今までなら、手遅れだと思ったらそこで諦めてたんですけどね。状況が確定してしまったら、それを覆すのは不可能に近いって、これまでに何度も経験してきた事ですし。でも、もしまだ手遅れじゃないなら、あいつらと話がしたくて。さっきの志望校の話とかもだし、もっと色んな話をしたいって思うんですけど……どう言ったら良いのか分かんないんですよ。その、俺は、ぼっちだったから……」

 

 八幡が言い淀むと同時に新たな曲が流れ始めた。

 それを耳にした平塚が、落ち着いた口調で尋ねかける。

 

「この曲を連想して、『もう二度と届かない』のではないかと、思ったのかね?」

「いえ……それよりも、『イメージの違い』に気付けなかったなって。さっき言った雪ノ下の理由とか、あと、雪ノ下と由比ヶ浜が思い描いていた生徒会の形とか。そういうのに全く、気付けなくて」

 

 平塚の口から暖かい息が漏れる。

 口元に寂しさを感じながら、それを紛らわすように声を出した。

 

「君はある面では潔癖で、ある面では理想主義者で、あとは何だろうなぁ。全体的に青臭くはあるけれど、私はそういう君が好きだよ。だからこそ……貫き通して欲しいと、思ってしまうんだろうな」

 

 車は静かに千葉公園や競輪場の横を通り過ぎる。

 無言の車内にサビの歌詞が響いている。

 

「君はきっと、『理解りあったつもり』だけで済ませたくはないのだろう?」

「昔は、そう思ってました。……けど、完全に壊れてしまうよりはって、そんな弱気な事を思う時もたまにあって。周りとかを見ていると、余計にそんな感じになったりして。でもやっぱり違うと言うか、それは嫌だと思ったりして……」

 

 楽曲に耳を傾けながら、時おり思い出したように話を続ける。その繰り返しが心地よかった。

 車の微妙な振動と、教師の落ち着いた柔らかい声と、心に染みる楽曲と。

 今なら何を言っても許されると、そう思えたのはいつぶりだろうか。

 

「あいつらと話がしたいって、究極のところはそれだけなのに、なんで俺はそれが上手くできないんでしょうね。小町とかが簡単にやれてる事が、俺だとどうしてもできないんですよ。一色が相手なら簡単にできる事が、あの二人には何故だかできなくて。場の設け方も分からないし、話し始めの言葉も分からないし、どんな言葉が返ってくるかもどう返したら良いかも、何もかもが分からなくなって来て……」

 

 平塚の小さな相鎚を耳にしながら、まとまりのない言葉を口に出しては押し黙る。

 何だか世界に二人だけしか居ないみたいだなと考えていると、いつの間にか三曲目が始まっていた。

 

「選挙の結果が出る前に、『傷つけ合う前に』打ち明けられていたら、違ってたのかなって思ったりもして……なんか、『男らしさ』とかには程遠いですよね」

「君はそう言うがね、男の大半はそんなもんだよ。そもそも大人の大半からして、一皮剥けば情けない者が殆どだ。私も含めてね。皆それを必死に取り繕って何とか過ごしているだけで……だから、その手の悩みは君だけのものじゃないさ」

 

 そんなものかと心の中で繰り返しながらタッチパネルを眺める。

 もう曲の終わりが見えているのに、次のリクエストは決まっているのに、予約がまだ済んでいない。

 でも、ほんの僅かな距離だけど、自分が変な身動きをしたせいでこの雰囲気を壊してしまうのは嫌だと思ってしまった。

 

「夏休みにラーメン食べたじゃないですか。あの時に『孤独と自由はいつも』『抱き合わせ』だって話をしたの、けっこう頻繁に思い出してるんですよ」

 

 だから、ちょうど信号が赤になりそうなので、あわよくば代わりに操作してくれないかなと思いつつ話題を振ると。

 

「あの『ストレンジカメレオン』という曲は不思議な作品だな。最近はようやく知名度を高めているものの、当時はチャート圏内には程遠くてね。おそらく数千枚も売れていないだろう。でもpillowにとっては自分たちのことを等身大に歌った思い入れのある作品で、それがミスチルの共感を得るのだからな。片や数千枚、片や数百万枚という売上の差がある二つのバンドが、この曲の主人公に等しく想いを寄せるのだから……なんだか、君がよく言っていたトップカーストと底辺の関係を連想したくはならないかね?」

 

 たしか不倶戴天の敵だと話していた気がするんだけどなと思いつつ、言いたいことは解るので曖昧に頷いておいた。平塚が長々と語りたくなるような話を不用意に振ってしまった自分が悪いと考えながら、八幡がよっこいしょと身を起こそうとしたところ。

 

「ただ、個人的な好みを言えば……そうだな。有名どころだと、私は『スケアクロウ』のほうが好きだよ」

 

 そう言いながら平塚がささっとタッチパネルを操作すると、話題に出たばかりの曲が流れ始めた。

 信号が青に変わったので左折して国道に別れを告げると、そのまま文教通りを進んで行く。

 

「なあ、比企谷。さっき君は『周りとかを見ていると』と言っていたがね。他人なんてものを気にしたところで、『誰かが語った現実』なんぞに価値があると思うかね。それよりも、たとえ『かすかな灯り』でも、『儚くても幻でも』、君がその眼で見えるものを大切にして欲しいと私は思うよ」

 

 以前から知っている曲なのに、こんなにも胸に染みる作品だとは思っていなかった。

 平塚の言葉に深く頷きながら、しばし無言で楽曲の世界に浸る。

 

「曲を選びながら真面目な話をするというのは良いものだな。君のお陰で面白い可能性が見えたよ。次の曲は、ちょっとした警告のつもりで選んだのだがね。その次にフォローがあるから楽しみにしていたまえ」

 

 さっきの交差点で三曲も選曲していたとは予想外だったが、さすがは車の持ち主ということなのだろう。というか俺よりも楽しそうだよなと思いながら八幡がリラックスした心境で曲が始まるのを待っていると、ピアノを奏でる静かな音が車内に響いた。

 

「これって、たしかスキマスイッチでしたっけ?」

「ああ、『奏』という曲だよ。これの二番の歌詞にあるのだがね。誰かの『手を引くその役目』が君の『使命』だと、考えてはいなかったかね?」

「いや、それは……」

 

 軽い気持ちで否定しようとしたのに、言葉が続かなかった。

 それどころか、あの二人に対して何かしらの使命感を抱いていた自分に気付いてしまった。

 

 そして、だからこそ。

 そんな重苦しいものを背負わず気楽に過ごせるあの後輩のところに逃げてしまおうかという思い付きが、この上なく甘美な誘いに感じられたのだろう。

 

 言葉の続きを待っていた平塚がふぅと息を吐いてから、温和な表情で話し掛けてくる。

 

「君たちには伝えていない理由や動機が雪ノ下にあったとしても、その責任を君が背負い込むことは無いさ。それに、そんなことは雪ノ下本人も望んではいないだろう」

 

 でも、それだと自分の気持ちが収まらない。

 何故ならば、この曲の歌い手と同じように、俺は二人が……。

 

「おそらく、彼女らが君の前に『現れた日から』、何もかもが違って見えたんだろうな。それほどに、君たち三人の関係はぴたりとはまった。特別だったと言って良いのだろう。でもね、比企谷。幾つかの点で君はまちがっていると私は思うのだが……一つ訊こうか。君は雪ノ下が今のままでも良いと思っているかね?」

「いえ。良くないです」

 

 昨日の部室での様子を思い出して、そして選挙結果が出た日の姿を思い出して即答した。

 以前と何ら変わりが無いように見えるけれども、以前とは全く変わってしまったその姿を思い浮かべながら。

 

「そこは私も同感だ。だがね、いつか雪ノ下が自分で状況を打破できるかもしれない。いつか他の誰かが雪ノ下に踏み込んでくれるかもしれない。少なくとも、雪ノ下に踏み込むのは……たぶん、君じゃなくても良いんだよ」

 

 いずれの指摘もその通りだと思ってしまった。

 きっとあの頼れる部活仲間も同じようなことを考えているはずだ。

 

 部長様が自ら打破するか、それともあの同級生が機会を捉えて踏み込むのか。その二つの可能性を見据えているのだろうし、そのどちらかは、いつか必ず、叶う。

 あの二人と比べれば、自分の力など微々たるものだ。

 

 ……でも、それでも。

 きっと自分なんて不要だと、長年のぼっち思考で納得しようとしても。

 それでも、比企谷八幡は……。

 

「ただ、それでも踏み込みたいと君が望むのなら……その気持ちを貫いて欲しいと私は思うよ。きっと由比ヶ浜は、君と雪ノ下に踏み込むはずだ。雪ノ下がどうなろうと、大学がどこになろうと関係なしにね。だから後は、君と雪ノ下の決断次第なんだよ。この状況をまずは受け入れることだ」

 

 海の手前で道は左右に分かれていた。

 右折レーンに入って信号待ちをしている平塚にしっかりと頷きを示すと、にっと笑われた気がした。

 信号が変わって海浜大通りに入ると同時に曲が終わって、すぐに勢いの良いピアノの音が耳に届く。

 

「えっと……これって歌ってるのは、さっきと同じ?」

「私が言いたいことは、この曲のタイトルに尽きるよ。君が二人との関係を更に深めたいと思うのなら、全力で少年でいるべきなんだ。誰に何を言われようとも、今さら気にする君じゃなかったと私は思うのだが……違うかね?」

 

 そう言われれば、苦笑しながら過去形で答えるしかない。

 

「そういえば、そうでしたね」

 

 平然とぼっちをやっていた頃の強さは、きっともう自分には残っていない。

 けれども少しの弱さと引き替えに、八幡はあの二人という理由を得た。

 それを使命だと考えるのはまちがっているけれど、あの二人と向き合うという指針さえぶれなければ、あとは全力で少年たること以外に大事なことなんて何もない。

 

 そんなふうにして八幡が染み付いた孤独論理を拭い去ろうとしていると、車が橋の途中で静かに停まった。

 

 

***

 

 

 美浜大橋で車を停めて、歩道を指差してから無言で外に出た。

 訝しげな表情を浮かべながらも素直に外に出て来た教え子を欄干のほうへと追いやって、平塚はコートの右ポケットから缶コーヒーを二つ取り出すと。

 

「少し冷めているが、飲みたまえ」

「うおっ、と。いきなり投げられると……っつーか、これを買ってたから職員室とは逆側から歩いて来たんですね」

「理由のある行動に対しては、君は察しが良いな」

 

 苦笑を漏らしながら、敢えて含んだような言い回しで返す。

 果たして、真顔に戻った八幡が唇を尖らせるようにして話し始めた。

 

「ぼっちが長かったから他人の感情が解らないのか、それとも他人の感情が理解できなかったからぼっちになったのか。今となってはどっちが先か覚えてないですけどね」

 

「うむ。よく自己分析できている。感情が理解できないと思えてしまうからこそ、それを過剰に怖れたり、そんなものなど関係ないと破れかぶれになったりするのだろうな。それもまた、君がまちがっていた要因だと私は思うよ。でもね、比企谷。君はさっきSUPERCARの歌詞に重ねて『傷つけ合う前に』と言っていたけどね」

 

 そこで口を止めた平塚は缶コーヒーを一口含んで、八幡の眼を確認してから続きを述べる。

 

「誰かを大切に想うのなら、その誰かを傷つける覚悟をするべきなんだよ。それと、その相手から傷つけられる覚悟もね。……もちろん、それによって関係が破綻する時もある。お互いの事を想っているのに、想っているからこそ、手に入らない関係もある。それはとても悲しいことだし、自分の心のどこかに突き刺さったトゲのような形でいつまでも残っていく事になるのだけどね。……それでもそれは、きっと誇るべき事なんだよ」

 

 かつて、目の前の少年と同じぐらいの年齢だった時に、自分の周りにいた友人達のことを平塚は思い浮かべた。

 そのままそっと首を上に向けて、彼や彼女の姿を中空に映し出そうと試みる。

 夜空を背負った彼と彼女はあの時と何も変わっていなくて、昔と同じように平塚に向かって微笑みかけていた。微笑みかけてくれていた。

 

「なあ、比企谷。人の感情なんてあやふやなものでね。きっと今頃は笑っているだろうなと思っていた相手が悲嘆に暮れていたり、ともに悲しんでくれるだろうと思っていた相手に嗤われてしまったり、そんなのも珍しくはないけどね。考え過ぎて、色んな情報に振り回されて、自暴自棄になって失敗して。そういう事を繰り返しているとね、解ってくるんだよ。実は物事はシンプルだと」

 

 かつての友人達が、空想の中で頷いている気がしたから。

 自分の背中を押してくれている気がしたから、続きが言えた。

 大事な教え子の前で、恰好良い大人の姿を演じることができた。

 

「……結局のところ、大事なのはまず自分の心なんだ。その次に、相手の心だ。その二つを大切に扱えさえすれば、あとは行動あるのみだよ。そして……それでどんな結果が出たとしても、たとえ別々の道を歩むことになったとしても、それはきっと、それで良いんだよ」

 

 

 二人の間にしばし、無言の空気がそっと流れた。

 そのまま各々が物思いに耽る。

 

 もう一つ教え子に伝えておきたいことが残っているのだけれど。

 それはひとまず置いておいて、ここまで何とか話を持って行けたことに平塚がほっと胸をなで下ろしていると。

 

「なんか、今ちょっと……その、京都でビートルズの話をしたじゃないですか。『けいおん!』に出て来た楽器屋で、雪ノ下がギター持ってて」

 

 予想外の話が始まったので、さすがの平塚も眼をぱちぱちとさせる他には目立った反応が出来ないでいた。

 

 それを、続きを促されていると受け取ったのか。

 どう言ったものかと苦悩しながらも、それでも八幡は再び口を開いた。

 

「思ったんですけどね。その、俺が(When I find myself)こんな感じの時には(in times of trouble)、いつも平塚先生が来てくれて(comes to me.)。……修学旅行の時には、この曲に浸ってるおっさん連中が嫌いだって、そんな感じのことを言ってた気がするんですけどね。なんか今突然、”Let It Be”の良さが俺にも理解できた気がして……」

 

 それ以上は言葉を続けられなかった八幡が代わりに深々と頭を下げたので、かえって自分のほうが慌ててしまった。

 

「まずは頭を上げたまえ。それに、私が来たのではないだろう。()()()()相談をしに来てくれたんだ。君が行動に出たからこそ、私もそれに応えられる。そして……君がすべきことは、続けて私に応えることではないはずだ。では、何に応えるべきだと思うかね?」

 

 しどろもどろに陥りそうになりながらも何とか堪えてそう問い掛けると。

 

「……二人の、今までの行動に。今まで受け取った言葉に、応えようと思います。相変わらず、どうやってって部分は分かんないままですけどね。でも、俺の心はたぶん……二人に応えるって部分だけは、たぶんまちがってないと思うから」

 

「そうか……。なら、少しだけサービスだ。君の『たぶん』を消してあげよう」

 

 ようやく自分のペースを取り戻せたので、こんな形で最後の助言を伝える事にした。

 私を信頼しきった目つきで見つめられると少し照れくさいのだが、この子は時々こちらが恥ずかしくなるぐらい素直な時があるからなと思いながら平塚は続きを口にする。

 

「去年と比べると、君は随分と変わったな。もちろん良い方向にね。そして一学期と比べてみても、君は変わったと私は思うよ。二年になってからずっと、君は良い方向に変わり続けている。さて、ここで確認なのだがね。それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「えっ……でも、俺は……」

 

 絶句していた八幡が何かを言おうとする前に畳みかける。

 

「君が変われたのは、特別な出逢いがあったからだ。君がさっき自分で言っていたことだよ。この世界に巻き込まれる前に彼女らとの出逢いがあって、そして巻き込まれてからも幾つかの出逢いがあった。だから、それらは決して()()()()()()()()()()()()んだよ。出逢った相手のおかげだし、その出逢いを活かした君自身のおかげだと私は思うよ」

 

 本当に、そうなのだろうか。この環境のおかげじゃないのだろうか。

 眼の動きや口元の様子からそうした八幡の内心を推測して、平塚は言葉を続ける。

 

「だから、二人に応えるという行動は、今までずっと君がしてきた事だ。それをどうして、いきなり反故にする必要があるのかね?」

 

 最後は少し悪戯っぽい口調で締めくくった。

 視線の先では自慢の教え子が、少年らしい顔つきで笑っている。

 

「どうやって、なんて事は土壇場になればどうにでもなるさ。それに入念に準備をしても、この手の事にはあまり役には立たないからね。だから考えすぎないほうが良いと私は思うよ。それよりも、君の心だ。二人に応えたいと君が想うのなら、他に必要なのは、止め処ない血と汗……となみだを流せ!」

 

 平塚が思い付きの言葉を口走ったせいで、二人の頭の中でとあるゲーム*1の戦闘曲が流れ始める。

 予想外の昂揚感に身を浸しながら、二人はお互いをじっと見据えて、そして平塚が問いを発する。

 

「比企谷……とても大事な確認なのだがね。君の頭の中では今、()()()が流れているのかね?」

「……四魔貴族バトル1ですね。先生は?」

「……バトル2が至高だと私は思っているのでね。よろしい、ならば戦争だ」

 

 そんなわけで、橋の上ではこの上なくしょうもない論争が繰り広げられていた。

 何やら「貴様それでもドラマーか?」とか「バトル1のドラムも最高でしょ!」とか「むう、確かに」といった対話が続いているのでしばらくお待ち下さい。

 

「ごほん。すまない、思わず熱くなってしまったな」

「いえ、俺もなんかムキになってしまって……」

 

 クールダウンした二人はお互いを照れくさそうにちらちらと眺めながら缶コーヒーを飲み干して、それから黙って車に戻った。

 

 

***

 

 

「公園大通りで右に曲がって、それから君の家まで送り届けてあげようか」

 

 そう言って了承を得た平塚は、タッチパネルで選曲をしてから車を出した。

 先程の最後のやり取りは無かったことにしようと、二人の間では何も言わずとも同意が得られている。

 

 程なくして、ほんの子供の頃によく聴いた曲が流れ始めた。

 

「小さな頃には歌詞の意味がよく解らなかったのだがね。歳を取るほどに、この曲の歌詞が身に滲みるよ。なあ、比企谷。『旅に出る理由』があるのも、『手をふってはしばし別れる』という体験ができるのも、素敵なことだと思わないかね?」

 

 なぜ「別れ」という可能性を繰り返し提示するのか、これ以上の説明をする気は平塚には無い。既に伝えたことでもあるし、考えればすぐに解ることだからだ。

 

 しばらくの間、二人は曲を聴きながら無言で過ごした。

 車は順調に八幡の家へと近付いて行く。

 

「時々ふと疑問に思うんですけどね。この小沢健二の曲も、それからさっきまで流していた曲も、名曲ばっかだと思うんですけど……その、ありきたりな曲との違いって、どこにあるんでしょうね?」

 

 もう半年以上も前になるけれど、春先に抱いた疑問を八幡は考え続けていた。

 いったい何が、それらを分けているのだろうか。

 凡作や模造品や劣化作品といった偽物と……。

 

「本物に懸ける想いの違い……かもしれないな。今の自分にできることを最大限に引き出すために、考えて、もがいて、苦しんで、あがいて、悩んで……そこまでしても本物に至れる保証は無いがね。でも、そこまでしないと、それなりで終わってしまうのだと私は思うよ」

 

 その返事を心の中で吟味しながら窓の外を眺めていると、赤信号で車が停まった。

 タッチパネルに手を伸ばしかけた平塚が結局は何もしなかったので、曲が終わった車内には沈黙が重くのしかかっている。

 

「そういえば、さっき流した『スケアクロウ』は気に入ってくれたかね?」

「ええ、良い曲ですよね……あ。あの曲の主人公とか、そんな感じですよね。本物を求めてあがき続けているというか」

 

 なぜか、哀しそうな目つきをしていると思ってしまった。

 ただ、それは八幡に向けられたものではなくて。この人はずっと遠い彼方を眺めているのだと、そんな気がした。

 

 しばらく経ってから、ぼそぼそとした声が耳に届いた。

 

「選挙の結末に関しては、いちど君たちと一緒に話し合ったほうが良いのかもしれないな。君たちの話が落ち着いて、ゆっくり時間ができた時で良いから、声を掛けてくれないかね。自由について、君たちに教えておく必要がありそうだ」

 

 途中からは声こそ大きくなったものの、特に何でもないような口調で言われたので思わず聞き流すところだった。

 少しだけ首を傾げて、思い付いた疑問を口にする。

 

「自由って、孤独と抱き合わせだってさっき話題に出したやつですよね?」

「ああ……いや、それとは少し違う自由だよ。でも、その話はまた今度で良い。君は当面の課題に全力を尽くしたまえ」

 

 いつの間にか自宅の近くまで来ていた。

 車が停まったのでお礼を伝えようとしたら、平塚はもうドアを開けて車外に半身を乗り出している。

 

「先生が降りる必要って無いと思うんですけど……?」

 

 話し掛けているのか独り言なのか、自分でもよく判らないセリフを口にしながらシートベルトを外して外に出る。

 

 車を回り込んだ先では、平塚がコートのポケットに手を突っ込んで立っていた。コーヒーを二つ入れても平気なぐらいの、とても大きなポケットだ。

 

「かなり人を選ぶ作品なので、君に薦めて良いものか今でも悩んでいるのだがね。だが……君ならきっと、この小説を参考にできるだろう。合わないと思ったら途中で投げ出しても良いから、少しだけでも読んでみないかね?」

 

 そう言って平塚の左手が取り出したのは、二冊の文庫本。

 

「先生のお薦めなら、今夜にでもさっそく読みますよ」

 

 そう言って受け取ったのは上下巻からなる長編だった。

 作者の名は山本周五郎。そして作品の名前は「虚空遍歴」と書いてあった。

 

 

***

 

 

 走り去って行くスポーツカーを見送ってから自宅に入った。

 リビングの電気が完全に消えていたので、きっと妹はもう下りてくる気が無いのだろう。

 

「もう夜中ぐらいかと思ってたけど、そんなに時間が経ってないんだな。まあ通ったルートを振り返ると確かにこんなもんか」

 

 振り返ってみれば、つかの間と言えるぐらいの短い時間だったけれど、八幡は確かに指針を得た。あとは行動だけだ。

 

「まずは、この本を読んで……それから月曜のことを考えるか」

 

 ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを淹れて、それを持って自分の部屋に引き籠もる。

 蓋をしたマグカップをひとまず机の上に置いて、手早く部屋着に着替えると、八幡はベッドに寝そべりながら文庫本をぺらりと捲った。

 

 

 最初のうちこそ本名と芸名が順不同で出てくるので少し読みにくかったのだが、それほど登場人物が多くなかったのですぐに慣れた。それよりも、問題は。

 

「先行きが暗いな……。つか裏表紙のあらすじを見る限り、もっと酷くなりそうなんだが」

 

 主人公が才能に恵まれているのは明らかだったし、失敗に繋がる行動はいずれも納得できるものだった。それをしたら駄目だと思いつつも、そうしたくなる気持ちも解るなと、読みながら思わず溜息が漏れてくる。

 

「引き込まれるけど、これ、爽快なエンタメ要素とかは皆無だよな。平塚先生が躊躇するのも納得っつーか。昭和の時代ならともかく、今となっては大多数にはお薦めできない作品だろ」

 

 けれども、ごく一部には。

 焦がれるほどに何かを心底から追い求めるような連中には。

 太陽に少しでも近付きたくて、結果ロウで固めた翼を溶かしてしまうような奴らには。

 

「なあ。これ、最後には報われるんだよな。下巻のあらすじが更にやばい感じだし、もう夜中なんだけど……くそっ。ここで終われるわけねーよなあ……」

 

 だからマグカップのコーヒーをがぶ飲みして続きを読んだ。

 

 下巻での失敗は、もう目も当てられないものだった。もはや気持ちが解るなんてお世辞でも言えないレベルだったけれど、ただ主人公が焦る気持ちだけは理解できた。そして、そんなにしてまで追い求め続けたものの事も。

 

 それでも。

 

『失敗することは本物に近づくもっともよい階段なんだよ*2

 

 これほどまでに失敗が目に見えた状況で、こんなことを言って欲しくはなかった。

 八幡がずっと考え続けてきて、心の奥底ではずっと求め続けてきたものを、この主人公にはこんなふうに軽く扱って欲しくなかった。

 

「もしも、俺だったら……」

 

 そう何度も呟きながら、八幡は主人公のなれの果てを見届けるために作品を読み進めていく。

 

 待ち合わせ場所にへべれけ状態で向かって、そこでも酒を要求して大失敗した場面では、さすがに目を背けたくなった。もうどう考えても再起の道は無い。それでも、八幡は最後まで読み続けた。

 

 

 読み終えて顔を上げると、窓の外が少し明るくなっていた。

 

 空のマグカップを持ってリビングに下りた八幡は、淹れなおした温かいコーヒーを半分ぐらい一気に飲んで、それから簡単なサンドイッチを作ってそれを半分食べた。

 残った半分にはラップをかけて、お皿の横には妹へのメッセージを残しておく。

 

『小町へ。本を読んでて徹夜したから昼まで寝る』

 

 続けて今の時刻と自分の名前を書いてから、少し迷った末に追伸を加えた。

 

『たぶん近日中に、修学旅行からのあれこれを話せるようになると思う。小町が聞いてくれると助かる』

 

 勉強の邪魔にはならないようにするからとか、色々と書き加えたい事はあったのだけど、妹とは長い付き合いだ。これで通じるし、これ以上は必要ないとそう思えた。

 

 

 部屋に戻って、布団の中でぞもぞと身体を動かしていると独り言が漏れた。

 

「結果を重視する読み手には厳しい作品だったよな。けど……気持ちが据わった気がするな」

 

 指針も得たし、心の落ち着きも得られた。

 ひとまず寝て起きて、それから行動だなと考えていた八幡を、睡魔が静かに包み込んだ。

 

 

***

 

 

 日曜日の昼下がりに、二人の女子生徒のもとにメッセージが届いた。

 

 そしてその日の夕方、ようやく採点作業を終えた平塚の耳に、着信を知らせる音が響いた。

 

 

*1
「血と汗となみだを流せ!」とは、スクウェア・エニックスから1995年に発売されたRPG「ロマンシング サ・ガ3」に登場する四魔貴族が一人・魔戦士公アラケスのセリフ。

*2
平成20年改版・新潮文庫「虚空遍歴(下)」p.283より。




今年の更新はこれで最後です。
時間の余裕が無いのは来年も変わらないと思いますが、とにかく完結を目指して頑張ります。

来年が皆様にとって良い年になりますように。
今後ともよろしくお願い致します。

次回は月の半ば頃になると思います。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
地の文で雪ノ下と書いてしまった箇所を訂正して脚注を一つ加え、細かな表現を修正しました。(12/28)


以下、作中で扱う他作品について少し書かせて頂きます。
興味のない方はここで引き返して下さい。

なぜ他作品を出すのか、という問いには「必要だから」と答えるしか無いのですが。
なぜその作品なのか、という問いに答えるのはなかなか難しいものです。

例えば「幽☆遊☆白書」(1990年-1994年)は古い作品ですが、原作で何度も(14巻でも)ネタにされているので、この作品に登場させる時にも気が楽でした。

それに対して、原作には登場しない作品を扱う時は今でも少し緊張します。

なので一つの基準として、各キャラの性格と年代(1巻が発売された2011年頃)を考慮した時に、そのキャラが知っていても不思議ではない作品という縛りを入れています。

とはいえ、そこを厳密にするよりも作中の展開に合った作品(上記の「必要だから」という条件)を優先すべきだと思うので、緩い縛りに留まっています。

で、本題なのですが。

仮想世界を構築する際に参考にした三作品は別として、他の作品はおおむね以上のような基準に従って選んでいます。

つまり、作者の好みは実はさほど重要ではなくて、本作を書く事がなければ知らなかったような作品もわりと頻繁にネタにしています。

でも何事にも例外はあるもので、三つの作品だけは作者のごり押しで登場させました。

一つ目は、原作6巻最終話の後書きでも紹介した、ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」 です。私が6巻を読みながら、それから9巻の後に出た6.5巻を読みながら、強く連想したのがこの作品だったからです。

二つ目は、本話で登場する山本周五郎「虚空遍歴」です。9巻で平塚が求めたその究極がこの作品だと思ったからです。作中にある通り万人に薦められる作品ではないですが、刺さる人にはとことん刺さる作品だと思います。

三つ目は、8巻を読み終えた時に私が連想した作品です。近々登場するので詳しくはその時にって感じですが、わかる人には既にバレバレな気がします。

そしてごり押しの理由ですが、原作を読みながらこれらの作品を(特に本話に登場する「虚空遍歴」を)連想しなければ、私が「俺ガイル」を特別に想うことも、二次作品に興味を持つことも、自分で作品を書くことも無かったと思うからです。

だから私が一番好きなのは9巻だし、一番好きなセリフは「たぶん、君でなくても本当はいいんだ」だし、本話を書くのが楽しみなのと同時に書くのが怖いとも思っていたので、書き終えた勢いのままにこうした気持ちを書かせて頂きました。

以上、私の長話に付き合って下さってありがとうございました。


追記。
本作で取り上げた作品は以下の通りです。

・ASIAN KUNG-FU GENERATION「ループ&ループ」(2004年)
・GRAPEVINE「光について」(1999年)
・SUPERCAR「Lucky」(1997年)
・the pillows「ストレンジカメレオン」(1996年)、「スケアクロウ」(2007年)
・スキマスイッチ「奏」(2004年)、「全力少年」(2005年)
・The Beatles「Let It Be」(1970年)
・伊藤賢治「四魔貴族バトル1」「四魔貴族バトル2」(1995年)
・小沢健二「僕らが旅に出る理由」(1994年)
・山本周五郎「虚空遍歴」(1963年)
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