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場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→163p1
以下、前回のあらすじ。
土曜日の夕食時なので教室は避けて、平塚が運転する車の中で話をすることになった。
八幡は期末の数学の結果を知らされて、続けて進学に関する助言を貰った。
本題をどう切り出そうかと思い悩んだ八幡は車内で曲を流す許可を得ると、それらの楽曲に事寄せて少しずつ胸の内を明かしていく。
教え子の悩みを受け止めた平塚は、先達として幾つかの助言を口にする。過去の友人達を思い浮かべながら伝えるべき事を伝え終えた平塚は、最後まで恰好良い大人の姿を保ち続けた。
恩師との話から指針を得て、薦められた小説を読み切ることで覚悟が定まった八幡は、翌日の昼下がりに部活仲間の二人に向けてメッセージを送る。
その夕方、平塚のもとに着信が届いた。
テスト明けの金曜日にマンションに帰ってきてから日曜日の正午に至るまで、雪ノ下雪乃は一歩も外に出ず週末を過ごしていた。
とはいえそれは、期末試験を目前に控えた一週間前と同じだと言えばその通りではある。
「年末までは特別講習が主だから、予習をする必要は無いのだけれど。そのぶん演習に時間を割きたいので、家のことはお願いするわね」
早めの昼食を終えた雪ノ下は、夏に雇い入れた元メイドカフェの店員さんにそう言い渡して自室に引き籠もると、机に問題集とノートを広げて休みなく手を動かしていた。
それが急にぴたりと止まる。
「……駄目ね。簡単な問題だと機械的に手を動かすだけで解けてしまうし。難度の高い問題だと、頭が働いていないのが丸分かりね」
自嘲気味にそう呟く前に、首を動かして背後を確認してしまった自分が恨めしい。
それに加えて、わざわざ口に出さないと感情を処理できない今の自分が情けない。
「ふう……。仕方が無いわね。少し現状を整理して、それから……」
そう口にしながらノート類と筆記具を机の隅へと追いやった雪ノ下は、ぴんと背筋を伸ばして椅子に深く腰掛けてから静かに物思いに沈んでいく。
幼い頃から、雪ノ下は大人に囲まれて過ごして来た。
父の会社の社員から現場の作業員の人たちまで。そして建築設計の依頼主から税理士や弁護士といった専門職とその家族まで、多種多様な顔ぶれが自宅に頻繁に招かれていたからだ。
その傾向は、父が県議会議員に当選すると一気に加速した。
密かに政治への野心を抱いていた父は、地元の人々から懇願される形で立候補して予想外の大差で当選を果たした後も、支援者を一人たりとも邪険に扱わなかった。それと平行して、新たな交友関係も積極的に広げていった。
とはいえ家族のような雰囲気さえあった建築業界の付き合いと比べると、政治絡みの付き合いは多分に打算的な印象を受けた。
まだ幼かった自分が気付くぐらいだから、父も随分と苦労をしたのだろう。
政治絡みの会合はなるべく外で済ませようとしていたみたいだが、売り出し中の若手実力派議員が「自宅に招くほどの仲」という肩書きを欲する人は後を絶たなかった。内実のない上辺だけの肩書きだが、そんな曖昧な関係性が意外なほどに頼りになるのが政治という世界の常識らしい。
子供にすら値踏みをするような目を向けるのは政治家に限った話では無いのだけれど、当時はそれが分からなかった。実は建築業界の客人たちは父が相当に厳選していたのだと、最近になってようやく親の配慮に思い至った。
おそらく職業による選別は行われていないと思う。それよりも子供に悪影響を及ぼす性格の者は(それと、女だてらに等々と
けれども父のそうした気遣いも、政治の世界に棲む人たちが相手では意味が無かった。
自らの利になる事ならどんなに些細なことでも見逃さないし、議員職に留まり続けるためなら文字通り何でもやるのが政治家という人種だった。と言うと少しだけ語弊があるのだけれど、そこまで割り切れる性格でなければ生き馬の目を抜くような業界ではやって行けないのだと、後に父が落選の危機に陥った際に自分たちにも理解できた。
そんなわけで、油断のならない大人が周囲にひしめいている状況が日常になった。
姉はそんな環境にもすぐに適応したし、自分もじきに慣れた。彼らが期待する「子供らしくて大人しい」(言葉にしてみると何と馬鹿げた要求なのかと思ってしまうのだけれど)姿を演じながら内心で彼らを見下していると、かすかな愉悦を覚える時さえあった。
だから、いつも通りに振る舞うなんて、私には造作もない事だと思うのだけれど。
あの二人の期待に応えるべく、以前と何ら変わらぬ姿を心掛けているのだけれど。
どうして私はそれを拒みたいと、時おり思ってしまうのだろう。
わからないという想いは、あの会長選挙の日からずっと胸の中で燻っている。
でも……。
「ひゃっ!?」
メッセージの着信音がやけに大きく聞こえたので、思わず変な声を出してしまった。
反射的に背後を振り返って、ドア越しにメイドさんの気配を探る。
しばらく経っても何も感じなかったので、どうやら聞かれずに済んだようだと胸をなで下ろしながら、届いたばかりのメッセージに目を通した。
「比企谷くんが話をしたいとこのタイミングで言い出すとはね。二人の関係は、既に判り切ってはいるのだけれど。いつかは報告を受けなければならないのだし……」
仕方がない、と続けようとしたのだけれど。
その言葉はどうしても口から出て来てくれなかった。
また一つ、わからない事が増えてしまった。
「わからないものは、わからない。そんなふうに先送りを続けたところで、わかる日なんて来るのかしら?」
いっそ誰かに相談できたらと、試験期間中にも何度も思った。
でも、あの二人は当事者だし、姉も幼なじみも御免被りたい。
そもそも私は、警戒しないといけない事を抱えているから。
だから独りで解決するしかないと、思っていたのだけれど。
『何かあれば遠慮なく相談したまえ』
月曜日には間違いなく、三人の関係性が一変する。
そんな追い込まれた状況ゆえにか、金曜日に部室で告げられた言葉がふと脳裏に蘇った。
そういえば、あの先生は修学旅行の三日目の夜にもロビーで私を迎えてくれた。
そして「酒が入っているから付き添ってくれると助かる」なんて口実まで用意して、私を大浴場へと誘ってくれたのだ。
あの時に、手のかかる親戚のお姉さんみたいだと思わず苦笑を漏らしたことを雪ノ下は思い出す。
そんな側面があるからこそ、あの顧問は憎めない。だから頼り切りになる心配もない。姉がかつて言った「もっとひどい何か」に変貌するのではないかと身構える必要がないのだ。
「不安がないと言えば嘘になるのだけれど。まずは気持ちを立て直して、それから……平塚先生と連絡を取ってみようかしら」
ためらいがちのその口ぶりとは裏腹に、既に腹は決まっている。
だから雪ノ下は淀みなく動き始めた。
気持ちを立て直すために手早くブラウザを立ち上げて、お気に入りの動画集を読み込ませる。
「にゃー、にゃ、にゃー♪」
机に向かって姿勢を正して超真剣な顔つきで画面をしっかと睨み付けるスレンダー美人の口元から、時々奇声が漏れてくる。
それを廊下から小一時間ほど堪能したメイドさんは静かに私室の扉を開けると、抜き足差し足で部屋の主へと近付いて行き。
「ひゃっ!?」
「はぅっ!?」
重度の猫化状態にあった女子高生の両肩を、謎めいた呟きとともにがしっと掴むと、可愛らしい雇い主は新たな奇声を聞かせてくれた。
この後めちゃくちゃ怒られました。
***
反射的に時刻を確認してから、発信者の表示に目をやった。
期待した通りの名前が目に飛び込んで来たので思わず頬を緩めてしまった平塚静は、一呼吸置いてから着信を受ける。
「君から連絡が来るとは珍しいな。どうしたのかね?」
少し悪戯心が湧いたので、昨日と全く同じセリフを口にしてみたところ。
「いえ……部活の報告や依頼の話など、平塚先生への連絡は珍しくないと思うのですが?」
「い、いや……今日はそうした事務的な話ではないのだろう?」
こちらに不審の目を向ける教え子の姿をありありと思い浮かべてしまい、慌ててごまかす平塚だった。
「なるほど。先生にはお見通しですね。実は、少し相談に乗って頂ければと思いまして」
「う、うむ。君が私に相談とは、望むところだよ」
苦しい言い訳を真っ正直に受け止められると後ろめたさが半端ない。
相談を持ちかけているのは向こうなのに、何故か居丈高な気配すら漂って来る。
そんな二つの理由から、期待には全身全霊で応えるからなと心の中で呟きながらそう伝えると。
「その、できれば直接お目にかかって話をしたいと思うのですが」
「ああ、問題ないよ。私は今は高校でね。採点が終わったのでそろそろ帰ろうかと思っていたところなのだが……。君のマンションまで迎えに行くから、お姫様はこっそり部屋を抜け出してエントランスまで下りて来てくれるかね?」
この冗談は功を奏したみたいで、ふっと息を漏らす音に続けて弾む口調が耳に届いた。相談事を抱えているとはとても思えないような声色だ。
「では、エスコートをお願いしますね。ドレスアップの時間を少々頂けると嬉しいのですが?」
「君は私に散財させる気かね。風が強いので暖かくして動きやすい服装で出て来たまえ」
「それなら正装でお待ちしていますね。では後ほど」
おいちょっと待ちたまえと口にする前に通話が切れた。
気持ちの立て直しをやり過ぎた上に、さんざっぱらメイドさんにからかわれたので妙な精神状態に陥っていた、なんて事は思い付けるわけもなく。いつもと様子が違いすぎたので、もしや姉妹を間違えたかと思わず確認してしまった平塚だったが。
「そういえば、君もいたずら好きな側面を持ち合わせていたな」
芝居っ気たっぷりの声で、赤の女王のセリフを披露したり。
バーテンダーの話を急に持ち出して私を陥れようとしたり。
思い返せば、私をぞんざいに扱う点では姉と遜色なかったような……。
「それを許せてしまうのは、私にとってあの子たちが特別だからだろうな」
苦笑しながら自分の正直な気持ちを言葉に変えて、平塚は静かに立ち上がった。
そして手早く帰り仕度を済ませると駐車場へと足を向ける。
愛車のトランクをちらりと見やって、今日も頼むぞとピラーの辺りをこんこんとノックしてから、平塚は運転席に滑り込んだ。
***
昨日と同じように海浜大通りから公園大通りへと車を走らせた平塚はすぐに右折と左折を繰り返して、そこからぐるっと迂回するルートで雪ノ下のマンションに辿り着いた。
そのまま敷地内に入って来客用の駐車場に車を停める。
「到着の連絡をして……と。では、お姫様をお迎えに参りますかね」
気のせいか、今のは彼みたいな口ぶりだったなと。昨日相談に乗った教え子を思い浮かべながら、苦笑まじりにエントランスへと足を向ける。
ほんの数段だけの階段を上って自動ドアを抜けると、そこにはオートロックとインターホンが控えていた。
駐車場から連絡せずに、これを鳴らしてロビーで待てば良かったかと。平塚がそんなことを考えていると、目の前の自動ドアが静かに開いた。
「お待たせしましたか?」
「いや、今来たところだよ。ふむ……君には正装がよく似合うな。素材が良い証拠だよ」
制服の上にコートを着てマフラーを首に巻いた雪ノ下の姿を見てしまうと、からかわれたと判っても怒る気持ちが湧いて来ない。
高校生で正装と言えば学生服に決まっているのに、何の疑いもなく上質のドレスを想像してしまったのは早とちりだったなと内心では苦笑しながら。平塚はそれをおくびにも出さずに真顔で教え子の容姿を褒めた。
そして静かに手を差し伸べる。
「ありがとうございます。今の先生は、まるでJoe Bradleyのようですね」
お礼の言葉とともに一瞬だけ手を触れさせて。品良く頷くとすぐに手を引っ込めた雪ノ下の戯れ言に乗っかる形で、平塚も会話を続ける。
「ふっ。ではジェラートをお召し上がりになりますか、プリンセス・アン?」
「ローマまで行くとなれば、本当に散財させてしまいますね。休日もあと僅かですし、またの機会とさせて下さい」
「では、私の車までご案内いたしましょう」
「どこに連れて行って下さるのか、とても楽しみですわ」
「お姫様に喜んで頂けるような夜景を用意しております」
どうしてこの教え子は今日はこんなにノリが良いのだろうかとこっそり首を傾げながら。
それでも、こうしたやり取りが嫌いではない平塚は存分にホスト役を演じながら駐車場へと辿り着くと、助手席のドアを開いて雪ノ下を愛車に招き入れた。
マンションを後にした平塚は少しだけ京葉線と併走してから公園大通りを右に曲がると、湾岸千葉インターチェンジを目指した。そこから東関東自動車道に車を乗り入れる。
「高速……アクアラインですか?」
「御名答だな。料金が大幅に引き下げられてから*1、海ほたるに行きたいとずっと思っていたのに、なかなか果たせなくてね。私としてはこの機会を逃したくないのだが、それで良いかね。相談は車内でも着いてからでもどちらでも大丈夫だから、安心したまえ」
車に乗った時を境にぴたりと口を閉ざしてしまった雪ノ下の様子から、相談事をどう切り出したものか思い悩んでいるのだろうと見当を付けていたので。
勘の良い問い掛けをこれ幸いと、平塚は自らの意図を口にした。
「ええ……助かります」
口ごもった末にそんな答えが返って来た。
先程のノリの良さは、意識的に気持ちを盛り上げていた部分もあったのだろうなと考えながら。もう少し力みを取ったほうが良さそうので、平塚は昨日の成功体験を思い出しつつ口を開く。
「なにか音楽でもかけるかね?」
「いえ……あ、そうですね。何がありますか?」
「ふむ。君は洋楽を好んでいたと思うのだが、古いものだとビートルズやカーペンターズあたりだな。新しめのものでも90年代のブリットポップぐらいが限度だから、少し厳しいか?」
提案しておいてこの返事なのは何だか情けない気もするけれど、雑談の糸口が掴めたと前向きに捉える事にして返事を待っていると。
「なるほど。……その、BeatlesやCarpentersには思い入れがあるので聴き入ってしまいそうですし、今日は遠慮させて下さい。90年代なら、OASISとかRadioheadはありますか?」
「どちらも三枚目のアルバムまでは入っていたはずだが……少し意外だな。世代が違うのではないかと思っていたのだがね」
京葉道路の走行車線を無理のない速度で走らせながら、少し背伸びをするような気持ちで洋楽に手を出し始めていた当時の自分を懐かしく思った。あれからもう十年以上が経っていると言われても、にわかには信じがたい気持ちになる。
「両方とも初めて聴いたのがベストアルバムなので、世代が違うと言えばその通りですね。オリジナルアルバムも後追いでは聴きましたし、OASISの二枚目やRadioheadの二枚目・三枚目は私も好きなのですが、今聴きたいのは違う曲なので……」
「私が言い出しておいて何だか、無理にかけなくても良いさ。それよりも、君が好きな曲の話をもう少し聞きたいものだな」
そう伝えてみたのだが、逆に気を使われたみたいで。平塚も知っている初期の楽曲を例に挙げて、どんなところが好きなのかを話してくれた。
最近の曲も聴いておけば良かったと少しだけ悔やむ気持ちが浮かんだものの、かつて聴き込んだ曲の話を語り合っているとついつい夢中になってしまった。
「なるほどなあ。でも、初めて聴いたのがベストなら……留学前には洋楽を聴く習慣は無かったという事かね?」
気を取り直して、そして雑談を挟んだ今なら大丈夫だろうと思えたので、平塚は少しだけ踏み込むことにした。
ほんの一瞬だけ、はっと息を呑む気配を感じたものの。
すぐに今まで通りの口調で返事があった。
「家の方針でテレビは国営放送だけでしたし、ラジオを聴く習慣も無かったので……。教本に載っていた作品とか、親が聴いていた古い洋楽ぐらいですね。国内のヒット曲なら、街中で流れているのを耳にする機会も多かったのですが」
「ふむ。……留学先では環境が一変したという事かね?」
慎重に言葉を選んだつもりが、助手席からは苦笑が返ってきた。
「どんな曲を聴くのか以上に、色んな環境が変わってしまったので……。でも、そうですね。たしかに留学前後で音楽の聴き方も変わりました」
「中学生で大したものだと私は思うよ。それにその口調だと、概ね良い変化だったと考えて良さそうだな」
不用意な発言を詫びるよりも、素直に称賛の言葉を伝えることにした。
それに続けて、今度は失言を覚悟でそう口にすると。
「当初は大変でしたが、最後には何とか……少なくとも、前向きな気持ちで帰国できるぐらいにはなりました。ホストのご夫婦は父の古い友人なのですが、父よりも一回り上の世代で、とても良くして頂きました。父自身も頻繁に訪ねて来てくれて……おそらく罪滅ぼしという気持ちもあったのだと思いますが、おかげで何とか乗り切れました」
不穏な言葉が耳に届いたので、掘り下げて良いものかと悩んでいると。
こちらの気配を察したのか、雪ノ下が言葉を続けた。
「父が議員になってからは、色んな事があったので……。家族への気遣いという点で、父は最大限の配慮をしてくれたのですが、それにも限界がありました。それを誰よりも解っているのに、それを誰よりも許せなくて。大人になっても、男の人でも、あんなに悔しそうに泣くんだなと。それが、強く印象に残っています」
ゆっくりと何度か首を縦に動かしてから、静かに平塚は口を開く。
「古風な考え方かもしれないがね。男が真剣に涙を流す時には、ただ寄り添えば良いのか、それとも力強く励ませば良いのか、あるいは問題の根本を解決するために積極的に協力すれば良いのか……女としてどれが正解なのかと考え込んでしまうよ。ジェンダーフリーなんて言葉が飛び交うこのご時世でも、どんなふうに男を支えれば良いのかと悩んでしまうのだから、我ながら困ったものだな」
「おそらく父は、そんなふうに悩ませたくないとずっと我慢していたからこそ……異国で娘を前にして、ぽろっと涙が出てしまったのでしょうね。一度流してしまったら、それを止めるのは大変そうでしたよ」
くくっと、失礼ながら喉から笑いが漏れてしまった。
助手席のお姫様が同じ気持ちなのを肌で感じ取りながら、思ったままの感想を伝える。
「君はその時に、父親を『可愛い』と思ったのではないかね。もしも血の繋がりがなければ、おそらく『愛おしい』と感じたはずだ。私はね、そんな時には自分がどうしようもなく女なのだと思えてしまう。だからこそ、他の何にも増して、男の涙はずるいと私は思うよ」
「それは私も同感ですが……先生の場合は、泣きわめく類いの情けない涙でも情に絆されそうなので少し心配ですね。そういえば、駄目な男に引っ掛かるのではないかと姉も気に掛けていましたよ。そうなったら相手の男を遠慮なくぶちのめせると、そんな物騒な物言いでしたが」
どう考えても、私の心配よりも己の気分発散という目的が先に立っている気がするのだが。
あの教え子にはよくある事なので深くは考えまいと思っていると。
「でも……言っている事は無茶苦茶ですが、姉のそうした簡潔明瞭な姿勢は羨ましいと思う時もありますね。それと父の、涙を流して後悔してなお議員を辞めるとは決して考えない辺りも、身内びいきかもしれませんが凄いものだと思います」
続けて語られた雪ノ下の言葉に、切り込むなら今だと促されたような気がしたので。
館山自動車道でも安全運転を続けながら、平塚は口を開く。
「自分は姉や父とは違うと……君はそんなふうに悩んでいるのではないかね?」
しんと車内が静まり返る音が、たしかに聞こえた。
助手席で瞬時に身を固くして、それでも何とか口を開こうと試みているのが感じ取れたので、平塚は黙ってそれを待った。
やがて、小さな声ではあるけれども不思議に耳に馴染む話し方で、雪ノ下が少しずつ言葉を口にする。
「それは、今の時点では、直接の悩みではないのですが……どちらかと言えば、根本的な悩みかもしれませんね」
いったん口を閉ざした雪ノ下は、長い間を置いてから言葉を続けた。
「どうして私は、父や姉のように……。
ふむふむと頷きを何度か繰り返しながら、現れては消えて行く道路脇の標識を見るとはなしに眺める。
先に
「答えたくないなら正直にそう言って欲しいのだがね。君は、母親のようになりたいとは思わないのかね?」
「はい。……
即答を受けても、平塚は意外だとは思わなかった。
だから、かすかに蘇る苦い記憶を意思の力で押しとどめて、つとめて落ち着いた口調を心掛けながら今の気持ちを伝えることにする。
「なるほど。君の口ぶりからは後ろ向きの姿勢を感じないし、それならそれで良いのではないかね。人と人との関係はお互い様だからな。こちらばかりが歩み寄る必要は無いさ」
「そう言って頂けると……」
「先ほど君が口にした『前向きな気持ちで帰国できるぐらいに』とは、言い得て妙だと私は思うよ」
言葉をかぶせるようにしてそう言い切ると、素知らぬ顔をして道路の先を見据えた。
手酷い反撃が来るのではないかと内心では冷や冷やだったけれど、幸いにしてお姫様の口調は柔らかい。
「先生がそんな事ばかりを仰る方なら、こうして相談できなかったでしょうね。もっとも、密かに冷や汗を流すだけが取り柄の頼りない教師であれば、それはそれで相談できなかったと思うのですが」
警戒心の強さと面倒見の良さが共存する雪ノ下ならではの捻くれた物言いを耳にして、思わず頬が緩む。昨日の教え子とはまた違った捻くれ具合が、とても微笑ましいと思ってしまった。
だから平塚は、自然な口調で伝えることができた。
「私はね、雪ノ下。君と比企谷を引き合わせて、そこに由比ヶ浜も参加してくれて、本当に良かったと心から思うよ」
その言葉が耳に届くと同時に、急に半年ほど前の記憶を思い出した。
『始め方が正しくなくても、だからって全部が嘘とか偽物じゃないって、あたしは思うんだ』
自分たち三人の関係は、実は事故を契機に始まっていた。
そして何事も無ければ、きっと始め方も終わり方も全てがまちがったままで、関係が途切れていたはずだ。
この人が、あの部室に二人を連れて来てくれたから。
だからまた、始めることができた。
『間違った始まり方をしたのなら、また新しく関係を作っていけば良いと思うわ』
二人にそう告げた時には、この言葉の重みが理解できていなかった。
けれど今の私にとって、あの発言は指針とすら言えるのではないか。
報告から逃げ続けるような、そんな有り様は絶対にまちがっている。
それよりも私は、私達三人は、また新たな関係を考えるべきなのだ。
ならば、涼しい顔を取り繕っている運転席の恩師にはこう答えよう。
「それなら、これからもそう思って頂けるように、頑張らないといけませんね」
脳の大部分が活動を止めているのではないかとすら思えたこの土日だったが、頭の中の色んな回路が急に活発になったのが自分でも分かる。
さて、まずは問題を切り分けよう。
私にとって目下一番の問題とは?
すなわち、修学旅行の最終日と、選挙期間の最終日と、どちらが?
即答できる。考えるまでもなく後者だ。
それは何故?
三人の関係が変化することよりも、永久に何かを諦めなければならないことよりも、私には耐えられないことがある。
それは自分が、よりによってこの私が、二人の足手まといになることだ。
それは何故?
だって、私は負けず嫌いだから。
だから、二人に劣った自分という結果を、何の言い訳もできない状況で突き付けられて、それを直視できなかった。
だから、悔しいとすら思えなかった。
家族が相手の時には年齢とか、他にも身内だからこそ気付ける言い訳がたくさんあるよね?
ええ、その通り。
だから悔しいと思えるし、言い訳を言い訳として成り立たせるためにも「いつかきっと」と思えるのよ。
でもね、永久に何かを諦めるのって、負けず嫌いには厳しくない?
そう言われても、私にはその
それに、永久に諦める必要なんてないわ。
まちがっていると判った時点で、また新しい方針を立てればそれで済む話よ。
それで済むなら良いけどね?
いずれにしても、部外者が何と言おうと結果はもう出ているはずよ。
さすがの彼でも、この期に及んで逃げたり先延ばしにする事は無いと思うのだけれど。
だから、そんなことに拘っても生産的とは思えないわね。
じゃあ、生産的な行動って何さ?
そんなの決まってるじゃない。
せっかく三人の関係に変化が生まれるのだから。
その変化に合わせて、私にとって望ましい未来を突き付けるのよ。
突き付ける?
だって、ただ黙って報告を受けるだけなんて、性に合わないわ。
要は、空気投げの極意と同じ。
後の先を取れば、それで済む話でしょう。
取れたら良いけどね。じゃあ最後に、望ましい未来って?
さあ。そんなの分かるわけないじゃない。
分かるわけもないことを、突き付けるの?
その時が来れば、すっと言葉になって出てくるものよ。
それに土壇場でようやく捻り出せるぐらいの言葉じゃないと、二人には響かないと思うのよ。
私がいったい何を欲しいと言い出すのか、それが自分でも楽しみだわ。
ひとまずの結論が出たので長考を解くと、意識が浮上するタイミングを狙っていたかのように運転席から声が届いた。
「いつか、君を……」
ためらいがちの口調が珍しいと思いながら続きの言葉を待っていると。
「過去の呪縛から解き放ってあげられたらと、思っていたのがね。残念ながらと言うべきか、やはりと言うべきか。その役目を負うのは私では無いみたいだな」
話の飛躍が過ぎる上に、残念がっているとはとても思えない口調だ。
むしろ何かを楽しんでいるような気配すら感じるので、小さく首を捻っていると。
「でもね、雪ノ下。あの二人との付き合いを頑張る必要は無いよ。うまくやる必要も無い。ただ時間を掛けて向き合うだけで良いと、そんな忠告を与えておこうか」
そう言われても、大事なことほど頑張りたいし、うまくやりたいと思うはずだと雪ノ下は内心で反駁する。だから、
「まあ、今は解らなくてもそれで良いさ。それよりも、勝手に相談を打ち切られた気がしたのだがね。君の中で納得のいく結論が得られたのかね?」
やはり、鋭い。
そう思いながら大きく一度だけ首を縦に動かした。
「そうか……。それなら、それで良い」
少しだけ迷いの気配を感じたのは、忠告を重ねる形になるのを避けたからだと思った。
だからせめて、肩の力を抜いた姿を見せて教師を少しでも安心させてあげようと考えていると。
「む、木更津のジャンクションが見えてきたな。いよいよアクアライン連絡道に入るが、心の準備は良いかね?」
「その、料金の引き下げ前にも何度も連れて行って貰ったので、特に心の準備などは……」
雪ノ下の素の返事を耳にして、はしゃいでいるのは自分だけかと少しだけ放心しそうになった平塚だった。
*****
海ほたるパーキングエリアに入って車を停めると、二人はエスカレーターで五階まで移動した。
残りの道中は沈黙が大半を占めていたものの、料金所を過ぎて海の上を走る頃には平塚も気分を持ち直していたし。
雪ノ下もこの時間帯に訪れたことは無かったので、夕闇が夜を連れて来ようとする中を車で通り抜けるという貴重な体験ができてご満悦だった。
「さて、まずは腹ごしらえだな。ここに来たら絶対に食べようと思っていたお店が……」
「たぶん先生のことですし、フードコート内のあのお店ですよね?」
いきなり言い当てられて絶句している教師をよそに、雪ノ下はすたすたと歩いて行く。
その先には「ちーば丼」という名のお店が控えていた。
ふて腐れた雰囲気を醸し出しながら後をついてくる平塚にちらりと視線を送ると、雪ノ下は小声で呟く。
「きっと比企谷くんがここに居ても、このお店を選んだと思うのだけれど……気が合い過ぎるのも困ったものね」
ぼっち系男子高校生と趣味嗜好がばっちり合うアラサー女教師って、色んな意味で大丈夫なのだろうかと内心では心配しつつも、前に向き直った雪ノ下の眼差しに冷ややかな気配はまるでない。
「券売機がありますね。なんだか、京都駅の拉麺小路を思い出してしまうのですが」
「まだ一ヶ月も経っていないというのに、懐かしい気持ちになるのは何故だろうな」
教え子にそっくりの優しい眼をして言葉を返すと、平塚は券売機に向かってずんずんと進んで行く。その途中で思い出したかのように口を開いた。
「注文は任せたまえ。君は海の見える席を確保しておいてくれるかね?」
「分かりました。では、席でお待ちしています」
さほど混んでいなかったので、席はすぐに見付かった。
間を置かず平塚が合流して、程なくして店員さんがわざわざ二人分を運んで来てくれた。
「うむ、おいしそうだな。温かいうちに頂くとしよう」
お代のことは話題に出さなくて良いと無言で言われた気がしたので、お礼の気持ちを込めて「いただきます」と口にしてから箸を取った。
まずはお味噌汁を口に含んで、それから丼に箸を付ける。金目鯛の炙り・煮穴子・あさりの煮物・サンガフライといった海産物の他に、だし巻き玉子やキュウリや白葱や紅生姜が御飯を覆い隠していた。
それらを少しずつ食べて行く間は「うまい」「おいしい」程度のやり取りしか無かったけれど、きっとそれすらも不要だっただろう。顔つきを見ればお互いの気持ちが丸分かりだったからだ。
特に、なめろうを揚げて作ったサンガフライのさくさくとした食感が印象的だったと雪ノ下は思った。
「ふう、一気に食べたな。お腹がいっぱいになったかね?」
「おかげさまで。ごちそうさまでした」
親戚の子供にたくさん食べさせようとする田舎の人のような物言いだなとこっそり苦笑しながら。雪ノ下は行儀良く手を合わせて、感謝の気持ちを伝えつつ食事を終えた。
「ひとまず展望デッキに出てみるか。それとも君は見飽きてしまったかね?」
「この時間帯は私も初めてですし、先生はここに来るのを楽しみにしておられたのでしょう?」
わざとらしい拗ねたような物言いをされたので、それを軽く笑い飛ばした雪ノ下は教師を先導するようにして展望デッキに出る。
「こちらが川、あれ、えっと、木更津方面になるのですが、道路がライトアップされているので何だか映画の中にある光景のような不思議な感じを受けますね。川崎方面のデッキはこちらとは違って海が近く見えるのですが」
「ああ、なるほど。川崎方面は海底トンネルだから、道路が見えないんだな」
単なる言い間違いだと思ってくれたのか、それとも捲し立てるような説明に恐れをなしたのかは判らないが、ともあれ追及を避けることができたのでほっと胸をなで下ろす。
とはいえ今までの経験からして気を抜いた頃合いで話題を蒸し返されかねないので、油断はするまいと雪ノ下は思った。
そんなふうに身構えている時に限って何も起きなかったりするのだが。
「遠くで光っているあれは……方角的にはマリンスタジアムや幕張メッセがある辺りだな。視野を拡大して、と。うむ、正解だ。どうだ雪ノ下、私のマリーンズ愛も大したものだろう?」
えへんと胸を張ってはしゃいでいる平塚に負けじとばかりに、雪ノ下は右手の人差し指で一点を指し示すと。
「この先にあるのが夢の国です。どうぞ拡大して確認して下さい。ちなみに先生は年間パスポートをお持ちですか?」
「私は昔から、やたらとワンデーパスポートが当たる
誰かっ、頼むから誰か貰ってあげてっ!
そんな幻聴が聞こえてしまうほど心が現実逃避に傾いていた雪ノ下だったが、何とか気持ちを立て直して。平然と話を続けることにした。
「千葉村に行く途中で、由比ヶ浜さんも年パス持ちだと言っていましたね。さすがに先生も、この世界に来てからは結婚式には……はあ、夏に一度。比企谷くんが通りかかってくれたので何とか途中で逃げ出せたと。それでワンデーパスポートは……なるほど四枚が当たって一枚は使用済みと。心中お察し致します」
無理に話を続けずに強引にでも別の話題にすれば良かったと、心から後悔した雪ノ下だった。
電波塔や都庁を確認しながら、ゆっくりと川崎方面の展望デッキに向けて移動する。
話題に困った時でも目に付いた建造物を指差せば話ができるのだから、夜景とは案外便利なものだなと。
そんなふうに雪ノ下が情緒のかけらもない実利的な理解をしていると、平塚の声が耳に届いた。
「あの巨大なカッターで海底トンネルを掘削したわけか。実物をそのままモニュメントとして残してあるのが何だか良いなと私は思うよ」
工事を請け負ったのは大手ばかりで、父の会社が入り込む余地は皆無だったと聞いている。
だからあのカッターも、きっと広く名前の知られた建設会社が使ったものなのだろう。
父はそれ以上は何も言わなかったけれど。
いつか自分たちも、という想いを確認する為に、私を連れてここにたびたび来ていたのだと今なら解る。
もちろん、家でも学校でも孤立しがちになっていた私の為に、というのが最大の理由だったのは確かだろう。
留学という選択肢を教えてもらい、それを決断したのもこの場所だった。
けれども父の個人的な理由をそこに含めてはいけないなんて道理は無いし、複数の目的を同時に果たせるなら願ったり叶ったりだ。
だから父に対して不満は無い。
あるのは、ほんの子供に過ぎなかった自分に対する不満だ。
でも、今なら。
自分のことで精一杯だったあの頃とは違って、父の想いに僅かばかりでも気付けるようになった今の私なら、この場所に「連れて行って」ではなく「一緒に行こう」と言えるのではないかと雪ノ下は思った。
「上下線なので二本のトンネルを掘削する必要があったのですが、たしか川崎の浮島から二基の掘削機を出して、この海ほたるからも二基を出して。それと、トンネル内の換気目的で両者のちょうど中間点に作られた風の塔……この先に見えている、ええ、あれです。あそこからも各々に向けて二基ずつを出して。海の底の更に下で四組の掘削機が接合して、ようやくトンネルが完成したのだと聞きました」
説明をしながら、ふと妙なことを考えてしまった。
大仕事をやり遂げた二基の掘削機に、もしも意思が宿っていたならば。
合流の瞬間の
例えばそれは、東京駅で貰った「スラムダンク」の絵の中の二人と同じように。
「総額で一兆五千億円の大事業なんて、私には想像もできないな」
「教え子の生涯年収を合計すれば、意外とそうでもないですよ。仮に一人二億として、一学年の約千人を三年間受け持つと考えて計算しても、四半世紀も続ければ充分に上回れると思うのですが?」
説明書きに目を通した平塚が、ふるふると首を左右に動かしながらぼそっと呟くと。
その声で我に返った雪ノ下は、深く考える余裕もなく思い付きの返事を口にしてしまった。
言い出した以上は最後までと考えながら、冗談めかした口調で説明を締めくくる。
人を稼ぐだけの機械と捉えるのかと、この手の発想を嫌悪する人がたまに居るので(数は少なくとも口うるさくて厄介なので)、普段なら決して外には出さないのだけれど。
つい気の緩みが出てしまった。
「今のご時世だと一人二億は難しいかもしれないがね。そのぶん君たちが余分に稼いでくれると、私としては鼻高々だな」
経営側の視点で物を考えてしまいがちな傾向をこっそり反省していると。
平塚はそうした点には頓着が無いのか、嬉しい反応を返してくれた。
なので雪ノ下もそれに応じる。
「なるほど。親の会社を一兆円規模にまで育て上げれば、私の学年と姉さんの学年だけで達成できそうですね。そうなったら、先生はどうされますか?」
「君が言うと簡単に実現できそうに聞こえるな。だが、どうするとは?」
「そのまま二兆・三兆と積み上げていくのか。それとも……?」
「ふむ。私は教師という職業を気に入っているのでね。それ以外の選択肢はあまり考えたことが無いのだが……そうだな。大学に戻って勉強し直したり、ほんの数年でも他の職業を経験しておくと、今後の教師生活に活かせるのになと思う時はあるな」
大人になっても、就職をしても、それで終わりじゃないとは知っていたけれど。
どうしてそう思ったのか、どんなふうに活かしたいのかを詳しく語ってくれる教師に何度も頷き返しながら、具体的にこうした話を聞けて良かったと雪ノ下は思った。
「少し冷えてきたな。そろそろ一つ下の階に移動しようか」
「四階に、ですか。どこか目当てのお店でも?」
平塚の提案に首を傾げていると、にやりとした表情を向けられた。
「君とは京都でも一緒に入っただろう。もっとも、ここでは足だけだがね」
「それで身体中が温まるのだから不思議なものですね。では行きましょうか」
今日の昼下がりに平塚に連絡を取ってみようと決めた時に、一緒に大浴場に入った記憶を懐かしく思い出した。実際あのひと時には少なからぬ思い入れがある。
この人も私と同じ気持ちなのだと判って、それだけで心がほくほくするのを感じながら。
雪ノ下は教師と連れ立って四階の足湯へと移動した。
***
靴を脱いで裸足になって、横並びの椅子に座って足をお湯に浸した。
目の前にはガラス越しに一面の海が広がっている。
「そういえば、車の中で洋楽の話をした時に、後で尋ねてみようと思っていたのに、ころっと忘れていたのだがね」
足湯に入っているせいか妙に間延びした口調で話が始まったので、軽く首を傾げて応じると。
「君が留学した先で一番最初に聴いた曲、あるいは心に残った曲というと、何になるのかね?」
「それは、Arctic Monkeysの”I Bet You Look Good On The Dancefloor”ですね」
即答だったせいか少しだけ驚かれたものの、すぐにキラキラとした眼で理由を促されたので仕方なく説明を述べる。
「最初は、意味が解らないと思いました。メロディーに対して歌詞を詰め込み過ぎですし、その内容も猥雑で深みが無いし、曲もアレンジも古臭さを感じてしまって、どうしてこんな曲にみんなが熱中しているんだろうって。国籍の違いなんて関係なしに、この年代の男の子は馬鹿ばっかりなのかなって、そんな疑いすら頭を過ぎりました」
隣席の教師が「ファンの方々ごめんなさい」と呟いているのが耳に入ったのだけれど。そして自分でも、ほんの少しだけ辛辣だったとは思うのだけれど。これで終わりではないので早まらないで欲しいと考えながら話を続ける。
「でも、とにかく実際に聴いてみたらとホストのご夫婦に勧められてGIGに行ってみたら……生演奏で聴いたこの曲に、まるで違った印象を受けました。さっき私が口にしたマイナス面が全てひっくり返るというか、『そこが良い』とか『だから良い』と言っていた男の子たちの気持ちがようやく理解できて。帰宅後に曲を聴き直してみたら、以前には気付けなかった歌詞の仕掛けやアレンジの目的にも思い至って、あんなに怒っていた自分が恥ずかしくなりました。意味が分からなかったのは、私の視野が狭かっただけなのだと」
ああ、あるあると言いたげな顔つきで何度か頷いた平塚が口を開く。
「過剰な反応を示した時点で、きっと君は薄々ながら曲の魅力に気が付いていたんだろうな。自分とは違う価値観を目の当たりにした時には、得てしてそんなふうになるものだよ。君が比企谷と遭遇したようなものだ」
「悔しいですが、その喩えには説得力を感じますね」
そう言って顔を見合わせると、互いの口から苦笑が漏れた。
「それが切っ掛けになって、色々と聴いてみようと思ったのかね?」
「はい。色々と言っても現地でヒットしている作品ばかりですし、おかげで帰国後に少し揉め事を引き起こしてしまったのですが」
「揉め事?」
「洋楽好きを自称する男の子を、つい論破してしまいまして……。野外ライブでの扱いの差を見れば国によって人気や知名度が違うと分かりそうなものなのに、頑なに日本での人気を楽曲の評価と結びつけようとしていたので、つい」
ああ、あるあると苦笑しながら平塚がフォローを入れてくれた。
「フジロックやサマソニとグラストンベリーを比べてみると、あちらではヘッドライナー級のミュージシャンがこちらでは軽い扱いだったり。逆に向こうでは過去の人という扱いなのに、来日したらヘッドライナーかそれに次ぐ扱いなのは時々あるな。そうした違いを楽しめると良いのだが、曲の良し悪しの基準にまでされてしまうと、雪ノ下が反駁するのも無理はないか」
続けて「他に心に残った曲は?」と尋ねられたので、車内での会話を思い出しながら口を開く。
「例えばOASISなら”Acquiesce”ですね。Radioheadだと、知名度は低いと思いますが”House of Cards”が印象に残っています」
「たしかに曲名を言われてもぴんと来ないな。”Acquiesce”は、二枚目のアルバムと同じ頃だったかな?」
その情報は知らなかったので首を横に傾けると、教師がそのまま喋り続けた。
シングル盤のカップリング曲だったのでアルバムには入らなくて、だからB面曲を集めたアルバムが出るまではこの曲の存在を知らなかったらしい。なので製作も発売も二枚目のアルバムと同じ頃なのに、この曲だけ自分の中では三年ほど認識のズレがあるのだと、そう教えてくれた。
私はベストアルバムで一気に知ったので、年代の違いを意識しながら聴くことは無かった。
こうしたリアルタイムの情報はなんだか新鮮で面白いなと考えていると。
「そういえば、文化祭では陽乃と一緒に演奏していたな」
「ええ。……比企谷くんが姉さんとこっそり連絡を取ってあんなことを企んでいたなんて、思いもしませんでした」
急に話題が変わったので、相鎚を打った後にどう話を続けようかと迷ったけれど。
三ヶ月前の出来事が良い想い出になっているのを実感しながら、軽い調子でそう告げると。
「ふと思い出したのだがね。この”Acquiesce”はオアシスの曲には珍しく、ノエルとリアムが兄弟で一緒に歌っていたな。サビの歌詞で『
ああ、見抜かれたかと思ったけれど、意外だとは思わなかった。
弟のリアムの声が小さくなって、それと入れ替わるように演奏が盛り上がりを見せて、そして兄のノエルがサビを高らかに歌い上げる。その一連の流れが、私はとても好きなのだ。
「それと、京都の楽器屋で君がギターで演奏していたのは”A Day in the Life”だったな。あれもジョンとポールがともにヴォーカルを取っている曲だったね」
頭の中で曲を流してその余韻に浸っていたら、今度は予期せぬ指摘を受けてしまった。
掘削機の話をしていた時に連想した絵まで再び思い浮かべてしまい、これらの作品の意外な共通点に驚きを隠せずにいたところ。
「ふむ、そちらは無意識だったか。だがね、雪ノ下。君がまた陽乃と共演する機会があれば、それを逃して欲しくないと私は思うよ。あの子は気まぐれだから普通に誘っても応じないだろうし、君が誘いにくいと考えていることもその理由も知ってはいるがね。だから、これは完全に我欲だな。私が、君たち二人の共演を観たい聴きたいと。そう思っているのだと覚えておいてくれるかね」
まっすぐに目を見てそう言われると、頷きを返すしかなかった。
頭の中では期待から不安まで色んな感情が渦を巻いていたけれど、それらの何にも増して照れくさかったので話題を変えようと口を開く。
少しのぼせているのかもと思い至ったので、足先だけをお湯の中でぶらぶらさせながら。
「それで”House of Cards”ですが、これは七枚目の”In Rainbows”に入っている作品です。曲そのものはとても美しいのに、歌詞はどうしようもない内容で、そのギャップが気に入りました」
「どうしようもない内容か。私はそこが気になるな」
目元を細めて話に乗ってくれたのでほっと一息ついてから、教師のリクエストに応える。
「かなり抽象的な歌詞なので、私の勝手な解釈になりますが……一番と二番で全く同じ歌詞なのに、正反対のことを言っていると受け止めました」
主人公の男は曲の冒頭で、友達ではなく恋人になりたいと述べる。
たとえどんな終わり方でも、たとえどんな始め方でも、と。
後者のフレーズは特に今の私にとって、とても魅力的に聞こえてしまう。
しかし、主人公のろくでなしぶりが二番で明らかになる。
相手は既婚者だったのだ。
とはいえ真っ先に終わり方に言及していた時点で、それは暗示されていたのだけれど。
一番でも二番でも、主人公は「トランプで組み立てた家なんて、
けれども一番における比喩の対象は相手の家庭だが、二番では自分との関係を指している。
その転換が、”denial”という言葉の繰り返しを境に行われていると私は解釈した。
その”denial”は最後にまた現れて、「自分たちの関係が噂になっている(から終わりにしよう)」と必死になって訴える男を拒否しながら曲が終わる。
「なるほど。たしかにそれは、どうしようもない内容だな。”denial”の繰り返しと聞くと、私はNirvanaの”Smells Like Teen Spirit”を思い出すのだがね。あれも先程のArctic Monkeysと同じで、理屈よりも感覚で味わったほうが良さが解る作品だったよ」
この三曲がそんな理由で繋がるなんて予想外だったので、思わず深く頷いてしまった。
同時にこうも思う。
共通の趣味を深く味わえる相手と話し合うのは、やっぱり楽しいと。
例えばそれは、部室で課題図書の話をしている時と同じように。
「ただ、いかにギャップが気に入ったとはいえ……倫理にもとる内容なのに、その作品を君が特別に想うのは何だか不思議な気がするな」
「内容が好きで印象に残っているのではなくて、どちらかと言えば教訓として、ですね。それなら納得して頂けるのでは?」
片足をお湯から出してタオルで拭きながら「なるほど」という顔をしているので、そのまま話を続けることにした。
その前に少しだけ、この先生なら見逃してくれそうなので、行儀悪くちゃぽちゃぽと音を立てながら意味のない図形を右足で描いておく。
「同じ言葉でも、こんなふうに違う意味で使えるんだなと。もっともらしいことを言っていても、最初から最後まで不誠実なんだなと。それが、当時の私には新鮮でした。先生はこのフレーズをご存知ですか?」
いったん言葉を切って、静かに息を吸い込んでから詠うように声を出す。
英語で書かれた古い文学作品の一節を口にすると、タオルを動かす手を止めて少し考えただけで答えが返って来た。
「シェークスピアの、たしか『ヴェニスの商人』だったと思うのだがね。記憶があやふやなので、その続きも含めて君なりに訳してくれると、私としては助かるのだが?」
教師のようにがしがしと豪快に拭くのではなくて。品を失わないように心掛けながら、足に付いた水滴をタオルに少しずつ染み込ませていく。
誰に見られるわけでもないのに、とは思うものの、これが私の性格なのだから仕方がない。
すぐに言葉がまとまったので、作業を止めずに意訳を伝えることにした。
The devil can cite Scripture for his purpose!
目的のためなら悪魔は聖書だって引用する
An evil soul producing holy witness
聖句を持ち出す邪悪な魂は
Is like a villain with a smiling cheek,
親しげに微笑みかけてくる悪漢や
A goodly apple rotten at the heart.
見た目は良いのに芯が腐った林檎と同じ
O, what a goodly outside falsehood hath!
なんて魅力的な外面をしているんだ、偽物というものは!*2
「教訓とは、たしかに君の言う通りだな。”House of Cards”の主人公は聖書を引用する悪魔と同類だと、そう考えたのだね?」
「はい。それで……私はこうした教訓を、主に本から得て来ました。たとえ聖書にある言葉でも常に正しいとは限らないとか、それを悪用しようとする存在がいるとか。偽物とか」
最後に付け加えた言葉には、自分でも意外なほどの嫌悪感が出てしまった。
それを訝しく思いながらも、考えるのは後だと先送りして話を続ける。
「でも……。その、先生は金曜日に、比企谷くんが由比ヶ浜さんに喜びの感情を出して欲しくて言った言葉を覚えていますか?」
ぽかんとした表情を浮かべているのは、話題がぽんぽん飛んで話の全容が見えて来ないからだろう。
それでも素直に記憶を遡ってくれる教師に、私はこっそり両目を瞑って感謝の気持ちを伝えておいた。
「たしか、専門家よりも自分のほうが詳しいと言い出したり、逆に専門家が書いたことを全て正しいと思い込んだり。そんな連中と比べて由比ヶ浜は、という話だったかな。そういえば君はあの時に、それらは過去に比企谷がしでかしたことだと断言していたな」
思わずくすっと笑いを漏らしてしまった。
話が早いのが嬉しかったからか、それともあの時の彼の表情を思い出したからか。
それは自分でも判らなかった。
椅子に腰掛けたまま座る向きだけを変えて、手早く服装を整えてから口を開く。
「専門家という肩書きに騙されて、いいかげんな話を信じてしまった経験もあるみたいですね。たしかに専門家と一口で言っても、尊敬できる人から胡散臭い人まで千差万別ですし。比企谷くんはきっとネット上でそうした三種の失敗をして、それで学んだのだろうなと思いました」
「ああ、そういう話か。たしかに比企谷は転んでもただでは起きないというか……彼の本領は、もしかすると失敗した後に発揮されるのかもしれないな」
「私も同じ意見です。比企谷くんは黒歴史という表現を使っていましたが、それが積み重なって土壇場に追い込まれて、そんな時の比企谷くんほど敵として怖い存在はそうそう居ないのではないかと思いました。つまり、彼が誇らしげに言うぼっちとか楽しげに披露してくれる黒歴史が比企谷くんの本質ではなくて……でもこれは本題では無いので話を戻しますね」
少し話し過ぎたと思ったので、強引に話題を戻すことにした。
何か言われるかもしれないと身構えていたものの、あっさりと頷きを示されて。続けてすぐ近くに置いてある二台のマッサージチェアを指差されたので、こちらも頷きで応じる。
再び教師と並んで座って、機械を作動させてから口を開いた。
「由比ヶ浜さんはきっと友達の失敗談を多く聞けると思うので、それで学べるのが大きいですね。比企谷くんは軽率な言動で黒歴史を量産して、でも見方を変えれば凄い勢いで経験を積んでいるとも言えそうです。その二人と比べて、私は……」
同情を買うような物言いはしたくなかったのに、それならどう話せば良いのか分からなくて、結局は口ごもってしまった。
ちらりと横に視線を向けると、目を閉じて極楽気分を味わっている教師がうぃんうぃんと揺られている姿が目に入ったので、ゆっくりと眼の方向を元に戻す。少しよだれが垂れていたのは見なかったことにしてあげよう。
「そういえば、君は山本周五郎は読むのかね?」
「はあ。まあ、ひととおりは読みましたが……」
私の声が聞こえていなかったのならそのほうが良いと、そう考えながら質問に答えると。
「じゃあ、『虚空遍歴』を読んで、どう思った?」
「ああ……そうですね。率直に言うと、女の性の描き方が少し苦手に感じました。もしも二人が男女の仲になっていたらと、そんな期待を読者に抱かせようとしている気がして。主人公と、女と酒と。この二つとの関係性が違っていたら、もしかしたらと考えてしまいました。正直、読後感は良くなかったですね」
意外な作品が挙がったので、記憶を思い出しながら考え考え言葉に出した。
そんなたどたどしい喋り方でも、何かが教師の琴線に触れたのだろう。
たちまち嬉々とした口調が耳に届いた。
「君は、あの主人公の旅路そのものには肯定的なんだな。ちなみにだがね、陽乃は否定的だったよ」
「姉さんが……いえ、そうかもしれませんね。主人公の天与の才は、旅路の果てに追い求めたものとは違うと。そんな感想だったのでは?」
問い掛けるような口調だったが、そうに違いないと思っている。
それが気配で伝わったのか、平塚は問いには答えず話を続けた。
「君の感想も一理あるし、陽乃の感想にも一理あると私は思うよ。与えられた才能を存分に発揮していれば、あの主人公は旅に出なくとも充実した一生を送れていただろうし、全てが丸く収まっていただろうな。ただ一点、主人公の心の奥で燻っている感情を除けばだがね」
だから結局は、旅に出る他は無かったのだろうと雪ノ下は思う。
主人公がそれさえ呑み込めば、多くの人が平穏に過ごせるのに。
どうしても呑み込めない想いに身を焦がして、ついには人生まで懸けてしまう。
姉や、あの部員や、新旧の生徒会長なら、おそらく旅には否定的だろう。
けれども私や、この教師や、きっと彼も、主人公の旅路の果てを見たいと思うはずだ。
……いや。
自分を主人公と重ねて読む場合と、完全な傍観者として読む場合を分けて考えれば。
もしかしたら姉も、自分ではなく誰か他の人の旅路であれば、その果てを見たいと思うのでは?
「ただ、それはそれとしてね。才能があるのなら、それを使わない手は無いとも私は思うよ。あの主人公にそれができていれば、旅はもう少し楽になっただろうな。まあそれは余談として、君が本から教訓を得られるのなら、それは才能と言って良いものだし存分に使えば良いさ。普通なら経験できないことでも学べてしまうのが本の良さだからな。だから、無理に二人の真似をする必要はないよ」
やっぱり聞こえていたのかと、歯噛みをしたくなるのを何とか堪えていると、急にマッサージ機の動きが活発になった。
肩の力を抜けと言われている気がしたので仕方なく身体の力を抜いて、機械の動きに身を任せる。
「こうした話をするのは楽しいものだがね。深い話ができる人は貴重だし、こちらを警戒して程々の話でお茶を濁そうとする人も居るので、話し相手を見付けるのは大変だよ。浅い意見を論破しても何も面白くない上に、逆恨みや逆ギレをされる恐れがあるからね。だから警戒する気持ちは充分に理解できるのだが、何だか勿体ないなと私は思うよ」
「私も何度か体験しました。一つの主張を否定するのと、相手の全人格を否定するのとでは話の次元が違うのに。両者を混同する人が世の中には意外と多いですね」
自分の負けず嫌いな性格を棚に上げてそう返すと。
「きっと、どんなに些細なことでも否定をされたくないんだろうな。『正しくて深い意見を述べている自分』を実感したいのだと私は思うよ。惜しむらくは、そこに努力が伴っていない例が多いことかね」
「私は先生とは違って、後々にまで尾を引かないためにも完璧に論破することを心掛けていたのですが。どんなに言葉を尽くして理路整然と説明したところで、自分の方が正しいと思い込む人には届かないものですね。そうした人たちには努力が伴っていない場合もありますが、むしろそれ以前のところに問題を抱えているのではないかと時々思います」
頬の辺りに視線を感じたので頭を動かすと、穏やかな目つきが待っていた。
教師は静かに口を開く。
「君の容赦のない論破の仕方とか、そうした冷静な分析とか。それらのほんの少し奥にあるものに気が付かないのだから困ったものだな。目の前に蜘蛛の糸を垂らされたところで、その価値を知らない者には単なる障害物にしか見えないのだろうね」
「そう仰って頂けるのは嬉しいのですが、私の主張もまだまだ未熟な部分が多いので……」
本気で褒めてくれているのが気恥ずかしくて。
このままだと耐えきれない気がしたので、謙遜まじりに話題をすり替えようと企んだのに。
「いや、そこではないよ」
言葉を遮られてしまった。
「君の意見そのものにも価値があるのは勿論だし、君が更なる洗練を目指すのは素晴らしいと思うのだが、それ以上にね。相手に向けた君の姿勢にこそ価値があると私は思うよ。相手を見下すために、あるいは怒らせるために攻撃的な言説を向けるのと、相手のためを思って一刀両断するのとでは大違いなのにな」
教師が本気で怒っているのが伝わって来たので、予想とは違って冷静になれた。
同時に、先程の小説の話が頭を過ぎる。
それと、彼のことも。
「でも、私は最近思うのですが、そうした『相手のため』という理由も万能ではないですよね。例えば、相手のためを思って自己犠牲に走る誰かが居たとして、それを思われた側からすれば……」
「ああ、それは比企谷が悪いな」
固有名詞を迷わず出されて、つい噴き出してしまった。
視線を向けると、そっぽを向いて口笛を吹くような仕草をしているのが憎らしい。
だから今度はふっと笑いを漏らして、それから口を開いた。
「さっきの小説の話ですが、主人公が心の奥で燻っている感情を封印していたら、多くのことが丸く収まったと思うのです。でもその発想は、周囲の人のために自己犠牲をしろと迫っているようで……」
「まあ、そうだろうな。それで当人が納得できるのなら、周囲から言える事は何も無いさ。でも、あの主人公が、あるいは比企谷が、周囲のために大人しく我慢できるような
全く以て思えない。
かけらも思えない。
だからこそ私は、そして彼女は……。
「大勢の人が求めるものを同時に満たせればどんなに良いかと思うのですが、全てを欲しいと願っても実現は難しいですよね。じゃあ、もしも一人だけの犠牲でそれが達成できるとしたら……実はそれは小さな犠牲ではなくて、残された全員の心に決して消えない傷痕を残すことになるのだと知らなければ、進んで犠牲を受け入れる人も居るのでしょうね。けれど、比企谷くんは違うと思います」
「ほう。どう違うのかね?」
「小町さんをはじめ特別なごく少数のためなら、誰よりも迷いなく犠牲になりかねない男ですが……彼がその他大勢のために犠牲になった暁には、その黒歴史を死ぬまで吹聴すると思いますよ。そんなものを生涯にわたって聞かされ続けるのは御免被りたいですね」
「なるほど。君が言うとおり、特別な思い入れのない大多数のために犠牲になる役割は比企谷にとっては不本意だろうな。彼の困ったところはね。いざその場面を迎えた時に、内心では嫌々でも粛々と役務を果たそうとする点だな。そんなふうに自分を殺せるという意味では、君にも通じるものがあると私は思うよ」
思いがけず流れ矢が飛んで来たので、はっと身構えてしまった。
先ほど問題を切り分けた際に心の落ち着きは取り戻せたけれど、自分が抱えている問題が何も解決していないのも確かだ。
つまりこれは、この人なりの忠告なのだろう。
「時と場合と相手によっては、自分を殺さず逆に素直な想いを突き付けるべきではないかと、考えるようになりました」
「ああ、是非そうしたまえ。それで何か問題があれば、またドライブに誘ってくれたら良いさ」
巨大なカッターのモニュメントを眺めながら、父のことを考えていた時にも思ったことだ。
もしも問題があれば、その時は「連れて行って」ではなく「一緒に行こう」と言いたいものだと雪ノ下は思った。
***
足湯から駐車場に移動して、海ほたるに別れを告げた。
もと来た道を引き返す形だが、等間隔の灯りに見守られながら海上に架けられた橋を通り過ぎて行くのは、何だかゲームの世界が現実になったような心地がする。
直後に少しだけ、この世界のことを思い出して気が滅入ったものの、助手席のお姫様の表情を見てしまうとそんなものはすぐに霧消した。
だから密かなお礼の気持ちも込めて、平塚はこんなことを尋ねてみた。
「今日は洋楽の話をたくさん聞いたな。部室ではこうした話題も珍しくないのかね?」
「いえ、その……留学していた頃の話に繋がりそうで、つい避けてしまいがちですね」
おそらくは留学時の話の更に先。
つまり過去のあの一件に話が繋がるのを警戒しているのだろう。
やはり根深いなと思いながら。
とはいえこの理由を伝えてくれた事に良い傾向も感じつつ、できるだけ軽い口調で話を続けた。
「楽しかった想い出ならどんどん話したほうが良いさ。そうしないと自分でも忘れてしまいかねないからな。音楽以外の話になりそうならそこで止めれば良いし、気楽に話題にしてみてはどうかね?」
そう提案してみたものの、相手は渋い表情だ。
「実は文化祭の課題曲を話し合った時に、三人の音楽の趣味がバラバラで……だから洋楽の話を持ち出そうと思えば一から説明することになるんですよ。有名な、例えばMUSEとかWhite Stripesクラスでも、二人は知らないみたいでした」
それは確かに厳しいなと、つられて渋い顔を浮かべそうになって。
ふと思い付いたことがあったので、平塚は頬を緩めながら口を開く。
「たとえばWhite Stripesだと、”Seven Nation Army”は好きかね?」
「ええ、とても。でも、どうしてですか?」
強い口調で即座に断言されたので怯みそうになったけれど、犠牲者に心の中で謝りを入れながら続きを述べることにした。
「あの曲は、最近ではサッカーの試合でよく使われていてね。ワールドカップでもゴールが決まった時などに流れていたよ。だから一色となら、”Seven Nation Army”の話ができるかもしれないな」
「……なるほど。試してみます」
雪ノ下が何を試そうとしているのかは判らないけれど、お手柔らかに頼むぞと口にすることすら憚られるほど何だか乗り気な表情なので、平塚は心の中で再び犠牲者に謝りを入れておいた。
「まあ、そんな感じでね。洋楽そのものには興味が無くても意外な接点があるものなので、どんどん話してみたら良いと私は思うがね。きっと、部員の二人も喜ぶさ」
返事は無かったものの、隣席のお姫様が前向きな顔つきで何かを考え込んでいるのでそっとしておいた。
橋を渡った先にある料金所の表示が出て来た頃に、助手席から声が聞こえた。
「相談を持ちかけておいて申し訳ないのですが……。できれば明日に備えて、家で時間を過ごしたいと思いまして。本線料金所から最寄りのインターチェンジまで、ショートカットして頂くことはできますか?」
おそらくは部員の二人と、明日に何かがあるのだろう。
そして雪ノ下の様子からして、他人に邪魔をされない状態で考え事をしたいと思っているのだろう。
そう推測した平塚はゆっくりと頷くと、それに続けて笑顔を見せた。
「君がこうした我がままを言ってくれるのは珍しいからな。有意義な時間を提供できたみたいで何よりだよ」
教え子の希望をそのまま受け入れて高速道路を後にすると、平塚はマンションまで最短距離で車を走らせた。
***
駐車場に車を停めて自分だけ先に下りると、フロント側をぐるっと回り込んで助手席のドアを開いた。
「今日はありがとうございました。もうここで大丈夫ですし、帰り道は安全運転でお願いしますね」
帰り道を急がせたことを詫びる言葉が無いのが雪ノ下らしい。
それも気付いていないのではなく、不要だから言わないと解ってくれているのが平塚には嬉しかった。
「おそらく、君は今から考え事に耽るつもりだと思うのだがね。その前に読んで貰いたいものがあるのだよ」
昨日の教え子とは違って、雪ノ下が抱えている問題は一朝一夕で解決できるほど簡単なものではない。
今は気の持ちようが違って見えるし、前向きに正しい方向を向いているのも確かだが、実は状況は何も変わっていない。
平たく言えば、内向きの鬱々とした状態から外向きの躁状態に変わっただけで。
雪ノ下は依然として危ういままなのだ。
その現実を確認するたびに、教師としての自分の無力さを嫌というほど感じてしまう。
けれども過去と引き比べて悔恨の念を強くする前に、打てる手はまだ残っている。
あの時の
だから意識を外側に向けてもらって、悩みを抱えた者どうしを向き合わせる。
それは迂遠な方法に見えるけれども、過去と向き合えるだけの強さと手放したくないものを抱える弱さを身に付けることが、この二人にとっては一番良いはずだ。
昨日と今日で、与えられるだけの助言は与えておいた。
そして言葉にできない部分は、彼にはあの小説を薦めることで補ったつもりだ。
では、雪ノ下には?
「トランクを開けるから、少し待っていてくれるかね」
訝しげにこちらを見る彼女は、まるで警戒心の強い猫のようだ。
つい先程は私に気を許してくれていたのに、今はそうでもない。
考え事を邪魔されたくないから早く帰ってきたのに、余計なものを押し付けられても困ると。
そう考えているのが手に取るように分かった。
そんなふうに内に向きがちな雪ノ下の視野を、少しでも広げることができますようにと願いながら。
平塚はトランクの中から、大きな紙袋を取り出した。
「軽い気持ちで読んでも楽しめる作品なのだがね。君なら深く読み込むことができるだろう。君が抱えている問題を解決できるほどではないが……君は一人じゃないと、これを読んでそう思ってくれると私としては嬉しいな。合わないと思ったら途中で投げ出しても良いから、少しだけでも読んでみないかね?」
そう言って平塚は紙袋から二冊の漫画を取り出した。
「はあ、仕方がないですね。せっかくの先生のお薦めですし、今夜さっそく読みますよ」
教師が見せてくれたのはどちらもシリーズものの第一巻だった。
どうやら同じ作者が描いているらしい。
片方は全十巻で、片方はまだ連載中だと説明しながらその二冊を手渡された。
受け取った漫画を両手に持って、作者とタイトルを確認する。
作者の名は羽海野チカ。そして作品の名前は「ハチミツとクローバー」と「3月のライオン」と書いてあった。
***
教師の車を見送ってから紙袋を持ち上げた。
漫画が十数冊も入っているのでとても重い。
「
データ形式に戻せば楽に持ち運べるし、おそらく平塚もそう考えて紙袋を置き去りにしたのだろうけれど。
あの教師がああまで言って私に薦めてくれたものだ。
それの姿形を変えてしまうのは何だか忍びなくて、おかげで要らぬ苦労をしてしまった。
「ふう。少し肩が凝ったわね」
リビングに紙袋を置いてから台車を返しに行って、これでようやく落ち着ける。
とはいえ一度座り込んでしまったら立つのが億劫になりそうなので、手早くキッチンでお茶の用意を済ませた。時間待ちの間に自室に行って私服に着替えて戻って来る。
湯気を立てているマグカップ(もちろん猫柄だ)をテーブルに置いて、リビングのソファに腰掛けてから紙袋をがさがさと広げた。
「刊行順に、完結している作品から読めば良いのかしら」
所要時間を頭の中で計算しながら、まずは「ハチミツとクローバー」から読み始めた。
最初は、漫画によくあるような突飛なキャラクターが売りの作品だと思った。
けれども主要キャラが固まってそれぞれの背景が描かれるようになってくると、作品の密度がぐっと高まって、ぴりぴりとした緊張感が伝わってきた。
作中のキャラたちは和気藹々とした雰囲気なのだけど、何と言えば良いのだろうか。
誰も彼もが真剣に生きている感じが伝わってきて、特に悩みごとと向き合っている時の各キャラから目が離せなくなった。
読んでいて少し羨ましいなと思ったのは、この作品のキャラたちが自然に手を繋いで自然にハグしているところ。
それが男女の間でも、そこに性的な雰囲気を感じなかった。
もちろん全く無いというわけではないのだけれど、それよりもそれ以上にお互いへの想いが溢れていて、なんだか良いなと思ってしまった。
物語の終盤には驚かされた。
まさかここまで描こうとするとは予想していなかった。
この作者は、各キャラの人生を描こうとしている。
あるいは、この作者は人生を懸けて、各キャラの行く先を描こうとしている。
その姿勢に、思わず涙が流れてしまった。
『あのね お願いがあるの』
『人生を 私にください』
『一緒にいて 最後の最後まで』*3
これらのセリフを目にした時に、あの先生の言葉は正しかったと思った。
たぶん、普通の女の子なら、こんなセリフを言われてみたいと考えるのだろう。
でも私は、私もこんなセリフを誰かに言ってみたいと思ってしまった。
人生をくださいと請われるよりも、私は決意を秘めて自分から口にしたい。
あなたの人生を、私にください……と。
最後まで読み終えて、少しだけ余韻に浸っていたい気もしたのだけれど。
この作者の作品をもっと読みたいという気持ちのほうが上回ったので、続けて「3月のライオン」を読み始めた。
作品が続いているのだと、最初に思った。
前作の終盤で描いていたのと同じように、この作品ではのっけから各キャラの人生を描いている。
前作との違いにも気が付いた。
それは、勝負という側面を持ち込んだこと。
だから、この作品の主要キャラは、前作にも増して真剣に生きている。
より正確には、真剣じゃないと生き続けられないほどの境遇に置かれている。
それも、私と同じだと、思ってしまった。
『停滞を 受け入れてしまえば』
『思考を停止 してしまえれば』
『もう一度 嵐の海に飛び込んで 次の島に向かう 理由を僕は』
『何ひとつ 持っていなかった』*4
今日の昼までの私は、まさにこんな心理状態だった。
けれど今は違う。
嵐の海に飛び込んででも欲しいと思える何かのことも、辿り着きたいと思う次の島のことも、漠然とではあるけれどイメージはある。
だから、作中のキャラを見守るような気持ちで、私はその先を読み進めた。
読む手が止まったのは6巻だった。
きっと他の人にとっては何気ない一コマなのだろう。
でも私は、「思慮深い愛犬エリザベス」という文字列が目に入った瞬間に、息が止まるような思いがした。
『ところで比企谷。エリザベスと言えば先程のベースの他に、何を思い浮かべるかね?』
『そりゃ、あれでしょ。二階堂の愛犬……ってまさか?』
あの時に訪れた場所が、もうすぐ出てくる!?
そんな興奮状態で、私は夢中でページをめくる。
そして、残りページも少なくなったのでこの巻ではもう出て来ないのかと気を抜きかけていた時に、それはやって来た。
『あのな、「3月のライオン」って作品で、この場所に主人公が胃薬を持って駆け付けてくれてな』
胃薬を貰った主人公が走り出したその瞬間には、もう涙が止まらなかった。
私はこの先の展開を知っている。
平塚先生が写真に撮って見せてくれたこの漫画の一コマを、私は既に知っている。
それなのに、それだからこそ、この巻の終わりまでの流れがとても綺麗で読むのを途中で止められなくて、私は涙を拭うこともできないまま最後のページをずっと眺め続けていた。
駆け付けて貰えるヒロインよりも、駆け付ける主人公になりたいと、そう思いながら。
二作品を読み終えて、あの先生の言葉は正しかったと改めて思った。
創作物のキャラクターにこんなことを思うのは変かもしれないのだけれど。
私は一人じゃないんだと、そう思うとすっと心が軽くなるのが自分でもはっきりと感じ取れて。もう明日に備えて何かを考える必要は無いのだと、そう思えた。
だから私はメッセージアプリを立ち上げて、二人に宛ててメッセージを送る。
集合時間と、話をしたいという彼の希望に了承を伝える。
明日の話は、きっと率直なやり取りになるのだろう。
だから私はお風呂でしっかりと身体を温めて、翌日に疲れを残さぬように早めの時間にベッドに入った。
***
メッセージが届いたので発信者を確認すると、珍しい名前が目に入った。
『ヒッキーとゆきのんの相談に乗ってもらって、ありがとうございました!ヾ(〃^∇^)ノ♪』
苦笑に続けて平塚は思わずつぶやきを漏らす。
「由比ヶ浜にはお見通しか。おそらく二人が行動に出たのだろうな。あの二人の性格からして、宣戦布告といったところかね。どちらが先に踏み込むのか、今から楽しみだ……ふむ」
そう言って少しだけ考え込んでいた平塚は、すぐに返事を書き始めた。
『教師の仕事をしたまでだよ。ところで、明日は話し合いをすると聞いているのだがね。話の大まかな流れと結論とを、君の口から知りたいものだな』
返信を送ると「了解」というスタンプが届いたので「頼むぞ」と返すと、再び「ありがとう」のスタンプが届いた。
「私はね、由比ヶ浜。雪ノ下と比企谷を引き合わせて、そこに君も参加してくれて、本当に良かったと心から思うよ」
そう言い終えると「おやすみ」のスタンプを送って、平塚は晩酌の仕度に入った。
基本的に私は書き始めたら迷わないのですが、車中での平塚先生の発言から雪ノ下に視点が移って以降がどうにもしっくり来なかったので、ボツにして全て書き直しました。
せめて一月中にと考えていたのですが、間に合わなくてごめんなさい。
なお、それに伴って(開き直った結果)本話で取り上げた他作品の数と総文字数が五割増しになりました。。
親が政治家で、学校と家族に対してトラウマを抱えていて、中学で留学した、とびっきり優秀な女の子がどんなことを考えるのか。どんな作品に触れて、それをどんなふうに受け止めるのかは、正直私には分かりません。ぶっちゃけ設定盛りすぎです(だから原作でもこれらは掘り下げられないまま放置されたと思うのですが)。
でも分からないなりに少しずつ色々と考えて、多くの作品をあてがってみて、作中でキャラが活きるようにそれらを取捨選択して、何とかそれっぽく仕上げたのが本話になります。
ここまで読んで下さった方が、本作の雪ノ下を原作と地続きの存在だと感じていただけたなら、それだけで私は報われます。
次回は二月下旬とさせて下さい。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
脚注の文章に改行を入れるとepubでエラーが出るようなので修正しました。ブラウザやpdfでは問題がなかったので、対応が遅くなり申し訳ないです。
ちなみにRadioheadの意訳に英文のルビを振っている箇所も(おそらく文字数の大幅なミスマッチが原因で)プレビューで上手く反映して貰えず、日本語の後半部分にルビを振る形に落ち着きました。最初は理由が判らなくて、三時を過ぎても更新できず深夜に泣きそうでした。
その他、解りにくそうな箇所に細かな修正を加えました。(2/14)
細かな表現を修正しました。(12/31)
追記。
本作で取り上げた作品は以下の通りです。
・「ローマの休日」(1953年)
・Arctic Monkeys「I Bet You Look Good On The Dancefloor」(2005年)
・OASIS「Acquiesce」(1995年)
・Radiohead「House of Cards」(2007年)
・The Beatles「A Day in the Life」(1967年)
・Nirvana「Smells Like Teen Spirit」(1991年)
・William Shakespeare「The Merchant of Venice」(1605年初演)
・山本周五郎「虚空遍歴」(1963年)
・The White Stripes「Seven Nation Army」(2003年)
・羽海野チカ「ハチミツとクローバー」(2000年-2006年)、「3月のライオン」(2007年-)