海浜との打ち合わせに参加した八幡は、小学生に楽しい仕事を提示したり子供らの待遇を気遣う発言によって話の主導権を握った。
とはいえ薬が効きすぎたみたいで、玉縄たちが萎縮しきった様子なので会議は翌日に持ち越しとなる。
小学生に仕事を与えた以外に目立った成果は無かったものの、それでも個々の参加者を見ると八幡にとっては予想外の事がたくさんあった。
例えば、小学生が八幡に舐めた口を利くのは千葉村での一件を知っていたからで、留美や一色が不機嫌だったのもそれが原因で、玉縄を始めとした海浜の面々が神妙な態度に見えたのは文化祭で奉仕部三人のライブを観たのが原因だった、等々だ。
留美と一色に加え本牧や稲村や藤沢からも八幡を擁護する発言が飛び出して、海浜からは憧れの対象になっている事実まで判明して、こうなったら素早く消えるに限ると考えた八幡は、解散の声を聞くや早々に部屋を抜け出して建物の外に向かった。
だが、そこには……。
塾で英語を教えている小学生たちが、総武と海浜の合同企画に参加することになってから、川崎沙希は話し合いの直後に顔を出すように心掛けていた。
授業中もその前後も、常に子供たちと真正面から向き合って来た川崎は、小学生と高校生を分ける数歳の差が思っていた以上に大きいと実感していた。
だからこそ、教え子たちの心理的な疲れを少しでも和らげてあげたいと考えて、こうした行動に出ていたのだった。
「初回の話し合いのせいで、月曜は急に休みになっちゃったしね」
思いがけず予定が空いてしまったので仕方なく、などと言い訳がましい事を口にしている川崎だが、小学生を受け持つのは毎週月木土の三日間なので、昨日や今日はその理屈には当て嵌まらない。
それどころか、月曜日が休みになった代わりに今週は木金土と三日連続で授業をすることになったので、冷静に考えればこんなところに来るよりも準備に時間を使うべきなのだろうけれど、初日と昨日の教え子たちの表情を見てしまうと知らんぷりはできなかった。
「まあ、それに役得もあるしさ」
役得なんて言葉を耳にしたら怒られそうだなと苦笑しながら、川崎は傘を傾けて首を伸ばして会議が行われているであろう階層を見上げた。
今日もおそらく、あと半時間ぐらいは掛かるのだろう。
「あんまり疲れてないといいんだけど……明日からは授業もあるし、何か考えたほうがいいかもね。でも……」
視線を水平に戻して首を軽く左右に振って、いま考えても仕方のない悩みごとを頭の中から追い出した。
こんな曇り顔は、見せたくないと思ったからだ。
「……そろそろかな?」
もう一度周囲を見回して、誰も知り合いが居ないことを確認してから階段を数段昇り、雨が遮られているのを確かめてから傘を畳んだ。
そして川崎は、正面入口の横に備え付けられた液晶ディスプレイへと近付いて行く。
もともとは掲示板があったらしいのだが、最近新たに取り付けられたのだと聞いている。
「タブレットとかスマホを買う余裕は、うちには無いからね……」
去年までの川崎にその手のものは必要なかったし、古い携帯電話を何年も使い続けている両親に向かって自分だけが贅沢を言うつもりもなかった。
けれどもこの世界に巻き込まれて、外の世界との通信には最新のスマホかタブレットが必須になった。
より正確には、メールだけなら不要なのだけど音声通話や映像通話のためにはそれらが必要で、どうやら保護者の大半は新しい機種に買い替えたのだとか。
とはいえ、よそはよそ、うちはうちだ。
現実世界との対話が可能になるという通知があった時点で、川崎は弟とも相談を重ねた末に、親にそれらを「買わなくていい」と伝える決断を下した。
それを学校経由の連絡ルートで伝達してもらった時に、面倒見の良い国語教師が教えてくれたのが
「これって実は、運営が設置したわけじゃないって話は……どこまで信じたらいいんだろうね」
友達が少ない川崎でも、噂話ぐらいは色々と耳に入ってくる。
その中には、二人の娘が捕らわれてしまった某政治家が私財を投じて、この世界との通信機能を備えたディスプレイを(普段は広告や案内を表示しているらしい)各所に設置しているのが真相だ、という話もあった。
現実世界とこの世界で、同じ場所に居ないと通話は成り立たないのだけれど。
それでも、面と向かって話せる手段があるのと無いのとでは大違いだ。
だから、噂がもしも真実ならお礼を伝えたくて、これまでにも何度か話題を振ってみたものの。
「聞いても絶対に答えないし、そのくせ英語の歌詞を翻訳する手助けをお願いとか、変な頼み事をしてくるしさ……」
一筋縄ではいかない同学年の女の子と、教え子の小学生の少女を思い浮かべながら、二人から昨夜届いたメッセージを思い返していると。
『……沙希?』
懐かしい声が、ディスプレイから聞こえてきた。
少し遅れて母の姿が大きく浮かんで、そして画面から抜け出すようにして川崎のすぐ目の前で像を結んだ。
「……うん」
『元気そうね』
「そりゃ、昨日の今日だしさ。そっちは?」
『みんな元気よ。お父さんも沙希と話がしたいって、ずいぶんごねていたけどね』
「こっちも、あたしも大志も元気だよ」
『良かった。こちらの事は気にしないで、とにかく毎日健康にね』
「分かってるって。でも、そっちも、無理しないでね」
『分かってるわよ。じゃあ、今日もお願いしていい?』
「うん。ゆっくり買い物に行って来なよ。大志には役得だって言ってるけどさ」
『もう。本当に助かってるんだから、そんな言葉は使わないの。じゃあ、京華?』
『おかいもの、いってきていいよ。さーちゃんとあそんでるから』
「うん。けーちゃんと喋ってるから、安心して行って来て」
『じゃあ、お願いね』
入り口近くの事務室に向かって軽く頭を下げてから遠ざかって行く母を、ディスプレイから飛び出てきた妹と二人並んで見送った。
叱って欲しいなと思って口にした言葉が期待どおりの成果を上げてくれたので、ふっと笑みを浮かべていると、妹の声が耳に届く。
『あのね、きょうはおひるねのじかんに、……』
コミュニティセンターのすぐ近くにある保育園で、妹の
京華のお迎えを少しだけ待ってもらって、その間に急いで買い物を済ませるべきなのか。
それとも京華を連れて買い物に行って、家族四人分の荷物を抱えて車に戻るほうが良いのか。
今年の四月以来、母はこの地味な、けれども切実な問題とずっと独りで向き合って来た。
そして父も、大量の仕事を抱えながらも、末っ子の世話を一手に引き受けてくれている。
この世界に巻き込まれてしまい、まだ小さい下の子二人を両親に任せっぱなしで何も力になれていない現状を、川崎は悔やんでいた。
けれど父も母も、最新のスマホやタブレットを買わない事はしぶしぶながらも受け入れてくれたものの、そのかわりに現実世界の心配はいっさい無用だと、その点だけは決して譲歩してくれなかった。
それは親としての、大人としての意地だと言われてしまえば、川崎姉弟に反論の余地は無かった。
とはいえ、親を納得させられる
この世界で自立した毎日を過ごし、勉学にも励み、そして塾の教え子たちが参加しているイベントの打ち合わせが保育園のすぐそばで行われていて、そこには現実世界と通信可能なディスプレイが存在している。
こうした情報をメールで伝えた川崎は、たとえ親との対話ができなくとも、子供たちをねぎらうためにコミュニティセンターに足を運ぼうと決めていた。
それが主たる理由ではなく副次的な理由だと判断されていれば、母は決して対話には応じてくれなかっただろう。
川崎の気持ちに偽りが無かったからこそ、ここ数日のやり取りが実現したのだ。
だからこそ、買い物の間だけ妹の相手をするという、自分の年齢を考えれば取るに足りないようなお手伝いであっても、それが出来ることが川崎には嬉しかった。
今日あった出来事を熱心に語ってくれる妹と、ただ一緒に過ごせるだけでも幸せなのに。それが母の助けにもなるのだから、これを役得と言わずして何と言おうと川崎が考えるのも無理はないのだろう。
「よーく寝たら早く大きくなれるからね。けーちゃん、すごい美人さんになっちゃうよ?」
『びじん……きれい?』
「ああ、綺麗になるよ。けーちゃんのお嫁さん姿なんて……」
膝を曲げてお尻を踵につけるようにして、妹と視線を合わせてお喋りを続けていた川崎だったが、妹の花嫁姿は見たいような見たくないような少し複雑な心境だったので言葉を濁していると。
『けーか、きれーなおよめさん、なる!』
「うん。きっと世界一綺麗な、妹の花嫁姿だね」
堂々と言い切る妹に後押しされるようにしてその光景を想像した川崎が、頬をすっかり緩めてしまったところで。
「……で、何やってんだお前?」
「ひゃっ。え、ちょ、比企谷?」
もしかしたら逢えるのではないかと心のどこかで期待していた、けれども同時に一番会いたくないとも思っていた同級生が、すぐ近くで呆れ顔を浮かべていた。
***
膝を伸ばして立ち上がった川崎は、妹を背後に庇うようにして比企谷八幡と向き合った。
「……あんた、どこから聞いてたの?」
「いや、ちょっと待て。なんで喧嘩腰なんだよ?」
「いいから答えて」
「あー、えっと、世界一綺麗な妹だっけか。小町に喧嘩売ってんのかって話からだな」
本気で不服を述べているのが伝わって来たので、かえって気が抜けてしまった。
だから川崎はくすっと息を漏らしてから。
「その反応はあんたらしいね。小町は綺麗ってよりは可愛いって気がするけどさ」
「あ、それな。小町が可愛すぎてやべーって……」
「はいはい。それより、ほら。けーちゃん、お名前は?」
少しだけ身を
『かわさきけーかっ!』
右手をしゅたっと上に伸ばした京華が元気に名乗りを上げた。
それを聞いた八幡は、幼女の前でよっこいしょと膝を曲げて視線を合わせてから。
「俺は八幡だ」
『はち、まん……はーちゃん?』
「おう。よろしくな、けーちゃん」
『はーちゃん、よろしくたのもーなの!』
「ちょ、けーちゃん……変なの混じってるってば」
「いや、いいんじゃねーの、道場破りみたいで。世界一綺麗な妹になりたいなら、白黒つける必要があるからな」
「さっきから、あんたのほうがよっぽど喧嘩腰じゃない?」
「いや、喧嘩する必要もなく小町が世界一の妹なんだが?」
「出たよシスコン……」
『しすこん?』
「ああ、けーちゃんのお姉ちゃんみたいなやつの事な」
「あんた、何言ってんだい?」
『さーちゃん、しすこん?』
「ああ、そうだ」
「違うって言ってんの。けーちゃん、シスコンはこっち」
『はーちゃん、しすこん?』
「小町が妹なら誰だってシスコンになるっつーの。あとな、けーちゃん。さーちゃんはブラコンも拗らせてるからな」
『ぶら、こん?』
「あんたまでさーちゃんって呼ばないで。あたしはブラコンでもシスコンでもないしさ」
「お前でも違うっつーなら、誰もブラコンやシスコンを名乗れねーぞ?」
「あんたが居るじゃん」
「俺はシスコンであってもブラコンじゃないし
「はあ。小町の苦労が目に浮かぶよ」
「おい、知ったような口で小町を語るな、けど塾で小町が世話になってるのはありがとう」
「あ、うん……ってお礼を言いたいのか文句言いたいのかどっちなんだい?」
「両方一気に済ませておくと楽だろ?」
「あんた、そういうとこだよ?」
『さーちゃんも、はーちゃんも、けんかしちゃ、めーなの!』
余計な事を考えたくなかったので反射的な会話を続けていたら、妹にダメ出しをされてしまった。さすがに少し気恥ずかしいので、立ったまま二人から視線を逸らすようにして、ぼそっと。
「……ごめん」
「あー、いや。俺が調子に乗ったのも悪かった。その、さっきまで気を使いながらの会話が多かったからな。ぽんぽん話が進むのが気持ち良くて、まあぼっちが語り出したらこうなるって典型だな」
「あんたって会話が苦手なわけじゃないもんね」
「だな。俺は単に他人が苦手なだけだ」
「それ、胸を張って言う事じゃないと思うんだけど……ま、あんたには今更か」
二人して反対の方角を眺めながら苦笑を浮かべて、さてそろそろ妹にきちんと謝ろうかと顔の向きを戻してみると、きらきらした目つきで自分と同級生の男を交互に眺めていた保育園児が口を開いた。
『さーちゃんと、はーちゃん、おにあい?』
「ちょ、けーちゃん……そういうのじゃないよ」
『じゃあ、えっと……おみあい?』
「なあ。この子わざと言ってるんじゃないよな?」
「まだ意味の区別ができてないからね。ほら、けーちゃんも困らせるようなことを言わないの」
『……だれを?』
「誰って、その……は、はーちゃん?」
「おい。俺には呼ぶなって言っておいてそれかよ」
「いいから。話を合わせてよ」
「話を合わせろって……俺はいったい何に巻き込まれてるんだ?」
呆れたような声と顔なのに、立ち去る気配が微塵も感じられないのがこの男らしいなと川崎は思った。
妹が早く何かを言いたそうにしているので、苦笑いを浮かべながら同級生の隣に移動して、そこで腰を落としてしゃがみ込む。
『はーちゃん、困ってる?』
「あー、いや……。別に困ってないからな?」
「ほら。こう言ってるから気にしないでいいよ」
『やった。じゃあ、はーちゃんに、ぷれぜんとあげるね!』
「お、おおー、嬉しいなー」
「あんたって……演技の才能はもうちょっとあると思ってたのにさ」
「だからお前は俺に何をさせたいんだ?」
「えっと……けーちゃんの遊び相手?」
「ああ、そうですか……。ま、こうなったらついでだし任せろ」
「え、ほんとに?」
「こう見えて子供の相手は得意だからな。俺は女子小時代の小町のご機嫌をめったに損ねなかった男だぞ?」
「いや、それ何の自慢にも保証にもならないやつだから」
「んで、プレゼントって何なのか、けーちゃんに尋ねてもいいのかね?」
『うん。はーちゃんにはー、じゃじゃん!』
「おー、死語になってなかったか」
「……死語?」
「ああ、こっちの話な。で、じゃじゃん?」
『さーちゃんの、およめさんのざを、あげるね!』
げほっと咳き込む声が期せずして重なった二人は、それを認識するや否やお互いをますます意識してしまい、そろって反対側に視線を向けて何とか落ち着こうと試みている。
頬をかすかに染めながら、二人が悪戦苦闘しているのを知ってか知らずか。
『おむこさんは、はーちゃんには、むずかしそうだし』
「げふっ……。なあ、どこまで意味を理解してるんだ?」
「けほけほ……。どこまでも何も、全く解ってないよ。けど、前にあたしの母親がさ。お婿さんに来てもらえば……みたいなことを言い出した時に、父親が『いかん!』みたいな?」
「あー……。娘を持つ父親なんて、どこも同じようなもんだな」
「かもね。でさ、大志のお嫁さんは楽しみだ、みたいな感じで話が続いてさ。だからけーちゃんは、お婿さんは大変で、お嫁さんならみんなが喜ぶって受け取ったみたいでね。悪気はないから、聞き流してくれないかな?」
「まあ、俺はいいんだが……って気を回すのも逆に失礼か。お前が良いなら俺は別にって感じかね」
「うん。そのほうがあたしも助かる」
京華に振り回されっぱなしの二人が打ち合わせを終えて前を向くと、にこにこうんうんと全てを見通しているかのようなキラキラのまなざしと出くわした。
まあ、仲よき事は美しき哉、ぐらいの理解だとは思うのだけど、幼女のなすことだからか自然と受け入れられるし、おかげで気負わずに話ができているのだから文句のつけようが無いなと二人が考えていると。
『じゃあ、あとは、わかいふたりで?』
にこぱーっと首を傾けながらそう言い残して、京華は事務室のほうへと走っていく。
その先に見知った事務員さんの姿を認めて、川崎はやれやれと苦笑いを浮かべた。
「正直、あんたと会ったらどんなふうに話したら、って考えてたんだけどさ。けーちゃんのおかげで気が楽になったよ。あんたも普通でいいからね」
「俺の普通ってことは、誰とも話さないぼっち状態に……」
「それは治したらって思うんだけど、まあいいや。あのさ」
八幡の軽口を遮って、真面目な顔つきに戻った川崎はそのまま話を続ける。
「うちの子たちから話を聞く限り、高校生の評判は良くないよ。特に海浜は厳しいね。昨日は親睦会があったって聞いたんだけど、小学生には声すら掛けなかったんだって?」
「それは初耳なんだが、まあ予想はつくな。つーか、こっちの生徒会も海浜には引いてたからな。昨日の親睦会も、抜け出せて一安心みたいなノリだったぞ?」
ため息と苦笑と困惑と軽い頭痛が混じり合ったような複雑な視線を交わし合ってから、川崎が再び口を開く。
「やる気が空回りしてる感じだね。あんたが来るから今日はマシになるって、ほら、千葉村のあの娘……」
「留美な。ちょっと最近、各方面からの信頼が怖いんだが?」
「あんたなら応えられるから、自信を持ちなよ。でさ、今日はどうだったの?」
川崎の問い掛けに、ふうっと溜め息をひとつ挟んでから。
「なんかな、文化祭の俺らのライブを観て、海浜の連中が勘違いっつーか、その。俺
「なるほどね。あんたらしくないなって思ったのは、それが原因みたいだね。あのさ……」
「あっ、ちょ……ちょっとストップ!」
川崎がフォローの言葉をかけてくれそうに思えたので。
慌てて向こうの顔の前まで手を伸ばして話を遮った八幡は、そのまま少しだけ考え事に耽ってから、それを言葉に出す。
「……そうだな。その、お前に弱音を吐きたかったわけじゃないから、悪いけど撤回させてくれ。さっきの、あれだ、『俺なら応えられる』ってだけで充分だし、あと『俺らしくない』ってのもな」
「うん。何だか、いつものあんたらしくなって来た気がするよ」
「それな。いつもの俺なら、憧れの感情を利用するとか、何かでそれをぶち壊すとか、そういうのを考えるはずなのにな。ちょっとアイデンティティを見失ってたから助かったわ」
「気のせいか、そのまま見失ってたほうが周りにとっては良かった気がして来たんだけど?」
「それな」
そう短く応えて屈託なく笑う八幡に、自分も自然な笑顔を返せていると川崎は思った。
「それで、どうすんの?」
「まあ、予定通りの一手なんだけどな。明日は助っ人を投入して、それで今の話は片付くはずだ。あとは黒幕がどう動くかだな」
「あれだよね、雪ノ下の……」
「無駄にスペックが高い暇人って厄介だよなぁ……」
大学生活もそつなくこなして、親の代役もしっかり果たして、妹や母校にもちょっかいを出して。そんなあの人のことを暇人呼ばわりするのは、少し違う気もするのだけれど。
高スペックのごり押しによって浮かせた時間で迷惑行為を仕掛けられている側としては、暇人以外のなにものでも無いよなあと八幡が考えていると。
『沙希……あら?』
「え。あれっ、もう終わったの?」
『沙希に三日続けて助けてもらってるからね。でもだからって、これからも毎日来るとか言い出さないでよ。健康に過ごして、勉強もちゃんとして、家の手伝いはそれからよ?』
「あー、うん。分かってるってば」
『それよりも、沙希の後ろでこっそり逃げようとしている男の子は……?』
がばっと振り返ると、抜き足差し足でこそこそと撤退中の八幡がびくっと大きく身体を震わせて、そのまま動かなくなった。
そっとこちらを振り返った彼と目が合ったので、白けたような視線を送りつつ右手で手招きしてみると、大人しく戻って来る。
「あんたね、雨が降ってるのに傘も差さないで何やってんの。あー、もう。タオル出すからあっち向いてじっとしてなよ?」
「いや、なんでお前バスタオルなんか持ってんの?」
「小学生の男子ってやんちゃだからさ。最初は注意してたけど、もう諦めてこれ用意して……って動かないでって言ってんの」
「いや、動くなとは言われてな……なんでもないです」
「もう。大志は小学生の頃からもっと落ち着いてたのにさ」
「出たなブラコン」
「うっさいシスコン。小町に言いつけるよ?」
「ちょ、おま、それは反則だろ?」
とりあえず髪の毛についた水滴を力任せにごしごしと拭き取って、タオルを肩に掛けてやりながら背中を一つ叩いて解放してあげると、不服そうにこちらを振り向いた同級生が急に表情をがらりと変えて。
『あらあら、まあまあ。沙希もすっかり……ふふっ』
「ち、違うからね?」
「ほら。だから逃げとけば良かっただろ?」
「話がややこしくなるから、あんたは黙っててくれる?」
「何を話せば良いのか分からんし、そのほうが助かるな」
「えっと、同じクラスの比企谷。その、予備校のこととかで助けてもらったって、前に……」
『ああ、あの三人組の?』
「なあ。なんだかズッコケた感じになってねーか?」
「だから黙っててってば。その、普段は変なことばっか言ってるけど、いざって時にはさ」
「いざって時には?」
「だからあんたは黙っててよお願いだから」
『もう。沙希も無茶を言わないの。娘がお世話になっているみたいで、ありがとうって、母親としてお礼を言わせてちょうだいね。こんなかんじのせいかくだけどだから大変だと思うけど、これからもどうか仲良くお願いします。じゃあ、京華?』
『うん。さーちゃん、またこんどね。はーちゃんも』
「おう、またな。……」
そのまま見送っても良かったのだけれど。
親に余計な心配をさせたくないと、すぐ隣の同級生がそう考えているのが身に滲みて理解できたので。
「あの……。川崎には自分たちもたくさん助けてもらってます」
とはいえこれが精一杯で、続きの言葉がまるで浮かばなかったので、代わりに頭を深々と下げていると。
『沙希は素直じゃないから心配でしたが、比企谷くんのおかげで安心しました。今後とも末永いお付き合いをして下さいね』
「もう。そういうのはいいから。じゃあまたメールで」
『くれぐれも、無理はしないようにね。娘をよろしくお願いします』
どうしてこんなに丁重な言葉を返してくれるのかと八幡が内心で頭を捻っている間に、母親と幼児の姿は徐々に小さくなっていき、やがてこの世界から消え失せた。
***
話し合いが終わると教え子の誰かしらから連絡が来るので、一昨日や昨日はそれを合図に親や妹と別れていた。
けれども今日は何故か(まったくもって何故なのか分からないし分かりたくもないのだけれど)早々に帰られてしまったので、時間を持て余した川崎は仕方なく目の前の男に話し掛ける。
「……かくかくしかじかだから。別に遊んでたわけじゃないからね」
自分でも早口だなと自覚できるほどの剣幕でおおまかな事情を語り終えると、じろりと目の前の男を見据える。
それでも、川崎の鋭い眼光に物怖じする素振りも無く、八幡はゆっくりと口を開いた。
「その、お前の親ってちゃんとしてるよな。まあ、うちの親も小町には甘々だけど、注意する時には容赦ないし、そういう部分がちょっと似てるかもなって思ったわ。だからあれじゃね、もしお前が遊んでるだけだったら、俺より先にお前の母親がなんか言ってたはずだろ?」
意外な内容だったので、ぽかんと最後まで聞き終えてからようやく頭が動き始めた。
慌てて発言内容を振り返って、自分でもはっきりと認識できるほどの訝しげな顔つきで川崎は答える。
「……まあ、そうなんだけどさ。軽く話しただけなのに、あんたなんでそこまで言い切れるんだい?」
「親ってそんなもんじゃね、って感じのいいかげんな推測だけどな。てかそれよりな、ちょっと喋り方が気になった時があったんだが?」
軽く首を傾けた川崎は、すぐに合点がいったようで。
「あんたって、あんまり親とは喋ってないの?」
「そういうのは小町に任せっきりだからな」
「あんたがお年頃だから……ってよりは、小町への配慮だね。動機が動機だし、今だけは素直に褒めてあげてもいいけど?」
「いや、いらん。つーかお年頃とか言われたら絶賛高二病なのを思い出して身悶えしたくなるからやめてくれない?」
「そういうのをお年頃って言うんだよ。さっさと認めたら?」
「マジで容赦ねーな。親に感謝とかそういうセリフが聞きたいならJ-POPにいくらでもあるだろ?」
「ぷっ、あんたらしい照れ隠しだね。でさ、さっきの質問なんだけど」
不服そうな顔つきの男にそう告げると、目の色がはっきり変わるのが見て取れた。
きっと自分では気付いていないと思うけど、いざって時にはいつもこんな眼をしている。
川崎が他の誰よりも、親や弟妹を含めてなお特別に想う存在は、おそらくこの話が……。
「あたしでも噂に聞くぐらいだし、実際に何度か遭遇したから、たぶんもう周知の事実ってやつだと思うんだけどね。運営にとって好ましくない話題は、あんな感じでAIか何かが自動的に修正してるみたいだね」
「ほーん。……それって、最初からか?」
「現実との通話が可能になったのは、修正技術の目処が立ったからだって話になってるよ。けど……」
「けど?」
「うん。夏休みぐらいならともかく、文化祭の頃には部分的なログインとかもあったし、今となっては、さ……」
「必要性を失ったまま動いてるだけのシステムって事か。確かに、俺とお前の会話は修正できてないし、文化祭に来た連中も条件は同じだろうし、そもそも世界をまたいだ通話だからって監視するのも限度があるわな。ただ……なんだろな。なんか違和感がある気がするんだが」
ほんの僅かな距離を隔てて、難しそうに考え込んでいるその表情に思わず見とれてしまいそうになったけど。
何となく、川崎には手に負えない方面に思考が進んでいる気がしたので、言葉尻を捉えて修正を図ってみる。
「違和感って言えばさ。さっきの通話って、そこにあるディスプレイのおかげなんだけどね。運営じゃなくて、どっかの政治家が寄贈して回ってるって話でさ」
「どうせあれだろ。人気取りとか税金対策とか、そんな感じの理由じゃね?」
「うん……。それもあるとは思うけどさ。あたしが引っ掛かってるのは、その政治家が、ほら、あんたのとこの部長の……」
無意識のうちに、名前を口にするのを避けてしまった。
そして一瞬遅れて、すぐ目の前からの視線で、それを自覚させられてしまう。
さっきこの話を始めた時点で、予測していたはずなのに。
自分の想い人たるこの男が、僅かな情報から色んな可能性を考えながら誰の身を案じていたのかなんて、川崎には最初から分かっていたのに。
お世辞にも良いとは言えない目つきの奥に潜む、
「雪ノ下の会社って、たしか文化祭の時にも一枚噛んでたよな。それが……いや。それよりも、運営じゃなくてって話が出るのが……けど、情報が足りてないな。ただ、少なくとも……」
頭をがしがしと掻きながら時折ぶつぶつと言葉を漏らしつつ、八幡は考え事に没頭しているようで、周囲を気にする素振りはかけらも無い。
今ならいたずら書きをしてもバレないのではないかと、そんな教え子たちのような発想が頭に浮かんだのでくすっと笑いを漏らすと、ほんの僅かな空気の流れが逆に気になったみたいで。
「あ……すまん。ちょっと意識が飛んでたな」
「別にいいよ。それで、なにを考えてたの?」
「いや、それが……もう少しで色々と繋がりそうなんだけどな」
「じゃあさ、分かってる事だけでも話してみなよ」
「分かってる事……あれかね。その、東京駅の扉の話はお前から聞いたんだったよな?」
「なんだか懐かしいね。それがどうしたの?」
「打ち捨てられたシステムって言うと、あの扉も同じだろ。けど、あれは放置しても問題は起きないけど、会話の改竄は……」
「でも、運営の検閲ってさ。テキストデータで現実世界とやり取りしてた頃から露骨だったじゃん」
「あー。それなら、別に不思議じゃない、のかね?」
「どうだろね。運営の考えなんて、あたしには最初から理解不能だったしさ」
少しだけ強い口調で言い捨てて、それで得られたほんの僅かな時間を使って気持ちを落ち着けてから、言葉を続ける。
「それよりも、雪ノ下の……」
「それな。たぶん陽乃さんの狙いとリンクしてると思うんだが、あの人なに考えてんのかね?」
「うーん……。けどさ、難しいところから解こうとしないで、もっと解きやすい方面から考えたほうがいいんじゃない?」
「おー、なんか先生やってる感じだな。って、茶化すつもりは無いからな。少なくとも今のは本気で感心してたっつーか、まあ小町がべた褒めなのが理解できたっつーか」
「出たよシスコン」
「うるさいブラコン。大志に言いつけるわよ?」
「勝手にしたら?」
「くっ……お前って大志からの好感度がカンストしてそうだよな。けど小町は……あいつのポイント制度ってどうなってんの?」
「あたしに訊かれても知らないよ。で、どう?」
「まあ、海浜の連中から陽乃さんの狙いを推測すると……わざと話を長引かせてるとしか思えないっつーか」
「じゃあ、何かを待ってるのか、それとも……?」
「時間稼ぎそのものが目的か、だな」
「それって、同じ意味じゃないの?」
「いや、例えばあれだ。妹への嫌がらせ目的とかな」
「あー……。話を聞いてる限り、ありえそうなのが困るよね」
「ただま、あの人の行動ってだいたい複数の意味があるからな。ひとつ結論が出てもそれで話が終わらないのが厄介だよなあ」
逢えたらどうしようなんて事前に身構えていたこともすっかり忘れて、楽しいお喋りで頭と心が満たされていたのだけれど、語尾から伝わる倦怠感が川崎を正気に戻した。
「……そっか。あんたも疲れてるよね。とりあえず今の話を二人に報告して、今日はもう帰ったら?」
「……かもな。ぼっちが人前に出て喋ってたら、疲れるのも当たり前なのにな。そこらへん、自分じゃ気付きにくいから助かるわ。報告……も、帰ってからにするかね」
「うん。それがいいかもね。もう少し待たされそうだし、あんたの代わりに二人にはあたしが伝えておくよ。いったん帰らせたから、報告は夜になるって」
「助かる。じゃあ、これ、ありがとな。洗って返すわ」
「いいよ、そのままで。あとで小学生に使うかもしれないしさ」
八幡の返事を待たずにバスタオルを回収して、ふと思い出したことがあったので話を続ける。
「それよりさ。さっきも話に出てたけど、東京駅の扉を見に行く約束、覚えてる?」
「一応な」
「じゃあいいや。いつになってもいいから、楽しみにしてるね」
「ん……了解。じゃあな」
「うん。お疲れ……比企谷」
色んな想いを呑み込んでくれたのが解ったので、川崎も素直に別れの言葉に応じた。
最後の呼び掛けは小さく小さくつぶやいたので、きっと聞こえてはいないだろう。
傘を差して去って行く八幡を、川崎はじっとずっと見送っていた。
***
家に帰って風呂場で疲れを洗い流してから、八幡はグループ通話で二人に報告を行った。
業務連絡はすぐに済んだし、続けて始まった雑談タイムも楽しかったのだけれど。
「できれば明日、ねえ……。ぼっちに人を誘わせるとか、控え目に言って鬼だよな」
太陽の下を歩けると思うなよ、という意味不明な八幡の戯れ言を冷笑ひとつで片付けた部長様には他にも色々と言いたい事があったのだけど、少し前と違って活き活きとして見えるので強い言葉が出て来なかった。
「ま、明日の成り行き次第だな。あとは助っ人に連絡……って、こんな時間に掛けてもいいのかね?」
とはいえ、当日になってから伝えるよりは前日のほうが良いという話もあるわけで。
八幡は覚悟を決めて、慣れぬ相手との通話を試みる。
「……かくかくしかじかで、できたら明日から頼みたいんだが?」
最初のうちこそ警戒感が露骨に伝わって来たように八幡には思えたのだが、事情を話すと最後は二つ返事で引き受けてくれた。
とはいえ。
「てか、なんでもするって、安易に口にしないほうがいいぞ……いや、俺は別に……だから、変な事とかは考えてないって……え、誤解だって分かったのになんで怒って……俺にはもう何が何だか分からん」
人選をまちがえたかなと思い悩んでいたのは短い時間に過ぎなくて。
自覚していた以上に疲れていたらしい八幡は、早い時間からぐっすりと眠りに就いた。
次回の予定は、最近では意味をなしていないので明言しませんが、とにかくなる早で頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)