俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。

 リノリウムの床に足音を響かせながら、由比ヶ浜結衣は平塚静と並んで廊下を歩いていた。

 

 足を動かしながら、先程の教室での一時を思い出す。

 この一年というもの、比企谷八幡に話しかけようとしては果たせず失敗を重ねた日々のことも、今となってはさほど心の重荷になっていない。

 

 

 事故があったのは、ちょうど一年前の今日だった。あの瞬間の光景だけは、何があっても何年経とうとも、決して忘れることはないだろう。

 

 意を決して二度ほど病室を訪れたものの、八幡が眠っていたので話はできなかった。三度目の来院では、折悪しく時間がかかる検査に行っていると、妹の比企谷小町に申し訳なさそうに教えられた。

 

 ならばと度胸を振りしぼって、退院してすぐに菓子折を持って自宅を訪れると。妹と買い物に出掛けたばかりで、いつ帰ってくるか判らないとのこと。ご両親に何度も何度も頭を下げて、菓子折をなかば押し付けるようにして退散するしかできなかった。

 

 間が悪いにも程があるが、ここまで続くと「もしかして、あたしに会いたくないのかな」と考えてしまう。そう思われても仕方がないと、諦めの感情が湧き上がってくる。

 

 それでも、たとえ面と向かって罵倒されても、ちゃんと謝ってお礼を伝えたいという気持ちと。そもそも関わりを持とうとする時点で、かえって迷惑なのかもしれないと苦悩する気持ちとがせめぎ合って。

 

 その後も高校で、何とか話ができないものかとこっそり機会を窺いながらも。由比ヶ浜はそれを実行できずにいたのだった。

 

 そして、一年が過ぎた。

 

 二年生で同じクラスになれたと知って、由比ヶ浜は改めて自分に向けて活を入れた。

 

 何を今更と言われるかもしれない。お前の顔など見たくもないと言われるかもしれない。それでも、愛犬のサブレを救ってくれた八幡に直接、一言でもいいからお礼が言いたい。

 

 

 今日の部活見学では、直接のやり取りはなかった。

 

 だが、あの雪ノ下雪乃と話をしている八幡は、とても楽しそうに見えた。聞きようによっては侮蔑表現と受け取れる発言にも気を悪くする素振りを見せず、むしろテンポの良い会話を楽しんでいるようにすら見えた。

 

 ならば自分とだって。少なくとも、話すことすら嫌だと思われることはないのではないか。そしていつか、きちんとお礼を言える日が来るのではないか。

 

 

 前途が一気に拓かれた気がして、顔をほころばせる由比ヶ浜に。つられて笑顔を浮かべながら、平塚はゆっくりと話しかけた。

 

「由比ヶ浜、先程の部活はどうだったかね?」

「何だか、楽しそうな部活でしたね。ゆきのんって、あんな風に喋るんだ、って」

「ふむ。君は雪ノ下と()()()()()()()()はなかったのかね?」

「噂では聞いてたんですが、今日が初めてです。ヒッキーもよく喋ってたし」

 

「そうだな。比企谷は口を開くとよく喋るのだが、教室では……」

「ずっと一人で、誰とも喋らないですよね……」

「クラスで無理に話しかけてくれとは言わないが、部室に時々遊びに行って二人の話し相手になってくれると、教師としてはありがたいな」

 

 少し冗談っぽい表情を浮かべながら、平塚は本心からの、しかしその真剣さを悟られない口調でお願いをする。

 

 奉仕部という名の部活のこと。その活動の理念や依頼の仕組みなどを説明しているうちに、彼女ら二人は二年F組の教室へと辿り着いた。

 

 

***

 

 

 教室では、二人が無言で向き合ったまま視線を手元に落としている。

 雪ノ下は本の続きを。八幡はスマホで青空文庫を読んでいた。弁当の他は手ぶらで来たので、それぐらいしか読むものがなかったのだ。

 依頼人が来るまでは各自が自由に過ごすという話だったので、自然とこの形に落ち着いたのだった。

 

 部室内には先程の会話の余韻が今も残っている。

 だから二人は、読み物に集中しきれていなかった。

 

 正直なところ、二人は先程のやり取りを、他の同級生とでは交わせない楽しいものだったと思っている。しかし、それを素直に認めるかといえば話は別だ。

 

 

 雪ノ下は対面の男子生徒に悟られないように、そっと溜息を吐く。

 自分には友達がいないわけではない。しかしそれは広く友人・知人という意味での友達であって、深い付き合いのある友達は皆無だった。

 

 その才能や容姿に加え帰国子女という事情も手伝って、今のJ組では同級生の憧れの対象として扱われている。対等の立場で物を言ってくる生徒はいなかったし、思ったままの感情を誰かにぶつけることもなかった。

 

 雪ノ下は同級生が求めるような完璧な存在であろうとして、実際にそれを遂行していた。しかし。私が本当になりたかったのは、こんな存在だっただろうか?

 

 雪ノ下は時々、自分が一体何者なのかが分からなくなる。周囲の期待に応えるのは嫌ではない。だが、他人が求める偶像を取り去った時に、それでも己の中に残る確としたものが本当にあるのだろうかと考えてしまうのだ。

 

 

 先程のやり取りは、確かに悪くはなかった。家族相手を除くと、思ったままの辛辣な言葉を口にしたのは本当に久しぶりだ。

 

 もちろん完璧に計算された辛辣な言葉を、無遠慮に交際を申し込んで来た男子に対して遺憾なく発揮してきたのは確かだ。だがそれは思惑あってのこと。心を折られた被害者たちが必死に忠告して回った結果、最近ではその手の煩わしいことは起きていない。

 

 平然とこちらに向かって厳しい意見を主張してきた対面の男子生徒にちらりと視線を投げて。雪ノ下は八幡の評価を()()()()()少しだけ上方修正した。

 

 

 八幡は平然としたふうを装っていたが、内心は後悔の念で溢れていた。何しろ学年一の有名人たる雪ノ下に向かって、くり返し挑発的な言葉を投げかけたのだ。週明けには全校生徒から罵声を浴びていても不思議ではない。

 

 八幡は先程の言動に加え、過去の自分を悔やみはじめる。

 

 

 親譲りの捻くれた思考で子供の時から損ばかりしている。高校に入る時分、学校の前で車道に飛び込んで二週間ほど入院した事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。黒塗りの車の前に犬がいきなり飛び出したからである。

 

 反射的に身体が動いただけだが、他人はそれを額面通りに受け取ってはくれぬ。何か思惑があったのだ。あの目を見れば判る。

 

 久しぶりに登校した教室で周囲からの視線に晒された八幡は身体をこわばらせて、席に着いたまま誰とも話さず突っ伏してその場をやり過ごした。しばらくすると、クラスではいないものとして扱われるようになり。その目はますます暗く濁っていった。

 

 

 俺のこの体たらくは、捻くれた性格が原因なのだろうかと自問する。しかし八幡とて最初から捻くれていたわけではない。父親の英才教育があったにせよ、小学校に入りたての頃は目も濁っていなかったし、他人との会話もそれなりにできていた。

 

 だが、いつの頃からか。八幡は周囲から疎まれるようになり、それと比例して捻くれた性格が肥大していった。

 

 あくまでも環境が先に立っていて、この性格は結果であるはずだ。他人と同じことをしても違ったふうに受け取られる。そのくり返しの末のこの性格であり、自分にできることなど何もなかったではないかと八幡は思う。

 

 

 しかし八幡は、自分が目を逸らしている事があると気付いていた。

 

 なにかと話しかけてくれる生活指導の教師に底意は感じられなかったし、自分に向けられる視線の中には侮蔑や警戒とは違った同情的なものも含まれていた。この部長様のように中立的な立場の人もいたのだろう。

 

 問題は、と八幡は思う。そうした他人からの好意をどう扱えば良いのか、自分にはもう分からなくなってしまったのだ。

 

 でも、仕方がないじゃないか。誰であっても、この長机の向こうで読書をしている女子生徒でさえも、いつ豹変して俺に罵声を浴びせるかもしれないのだ。好意を信じてみようと一歩前に出て、そこで裏切られると深刻なダメージを受けてしまう。そんな惨めな目にはもう遭いたくない。

 

 八幡は結局この日も、踏み出さないという結論を選ぶ。将来それを後悔することになるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

 

「少し早いけれど、今日はこれで終わりにしましょう。教室の鍵を返してくるので、先に出てくれて構わないわ」

「ん、了解。んじゃ鞄を取って来て、ぼちぼち行くとしますかね」

 

 二人には「一緒に集合場所に向かう」という発想は思い浮かばなかった。

 こうして八幡にとっては初めての、雪ノ下にとっても誰かと過ごすのは初めてだった奉仕部での時間は、終わりを告げた。

 

 

***

 

 

 二年F組の教室まで由比ヶ浜を送り届けると、そこでは三浦優美子と海老名姫菜がごはんを食べずに帰りを待っていた。

 思わず笑みを浮かべながら、平塚は彼女ら二人に事情を説明する。

 

 特別棟で少し作業があって、移動中に見かけた由比ヶ浜に助けを求めたこと。

 強制したわけではないという弁明の背後には、由比ヶ浜は教師の頼みも友人のことも蔑ろにする性格ではないというニュアンスを添えて。

 

 ぶつぶつと文句を言いながらも、三浦は納得してくれた。苦笑とともに「結衣だから仕方ないし」と口にする姿からは、友人に対する親しみの感情が伝わって来た。

 

 少し具合が悪いのか、何かを堪えるように軽く身震いしている海老名も、由比ヶ浜に悪い感情を抱いているようには見えない。ぞくぞくと寒気を感じたのは、おそらく気のせいだろう。体調に問題があればこの二人が放っておかないだろうと考えて、平塚はそれ以上の深入りを避けた。

 

 

 せっかくだから外でピクニック気分で食事をして、そのまま時間までお喋りしようと提案する三浦に苦笑しながら、教師は廊下へと足を進める。

 

 建前としては自習もしくは部活の時間なのだが、皆が落ち着かないのも仕方がないだろうと平塚は思う。今の時期なら部活の見学とでも言い訳ができるだろうし、実際に教室に残っている生徒は数えるほどだ。

 

 生徒らの話を聞かなかったことにして教室を出ると、平塚は廊下の少し奥まった場所で立ち止まった。

 

「……もしもし。ああ、私だ」

「……ああ、顔合わせは終わったよ。思ったよりも仲良く喋っていたので一安心だ」

「……今後のことは分からないが、一つの転機になればいいな」

「……君とは違って、私は比企谷に対しても責任があるのでな」

「……あまり構い過ぎるとそっぽを向かれるぞ」

 

「……それはそうと、君も()()に参加するんだろう?」

「……なるほど。君の立場としては慎重を期すのは当然だろうな。私としては考えたくもないが」

「……うむ。ではあちらで会えるのを楽しみにしているよ」

 

 電話を終えた平塚は職員室へと向かった。現地に行くまでに片付けておくべき業務は山のようにあるが、やはり自分も興奮しているようだ。電話の相手と約束をしたことで、気分が更に高揚している。

 

 そういえば、と平塚は思う。自分たちのように「あちらで会おう」と約束している生徒もいるのだろうなと考えて、ふと八幡に妹がいたのを思い出したのだ。

 

 病室に見舞った時に会った八幡の妹は溌剌とした性格だった。もし彼女も()()に参加するのであれば、二人は約束を交わしていることだろう。いや。案外あの少女のことだから、内緒にしていて兄を驚かそうと企んでいるかもしれない。

 

 その場面を想像して、歩きながら忍び笑いを漏らしつつ。進級による環境の変化と()()を体験することが、生徒に良い影響を及ぼしてくれることを平塚は願った。

 

 

 総武高校の生徒をはじめとした多くの未成年が、人質という立場に陥るなどとは。この時点では誰一人として予測しえない事だった。

 




GWに書き溜めできたのはここまででした。
次回投稿は未定ですが、できるだけ早くお届けしたいと思っています。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
改行を多めに変更しました。内容の変更はありません。(5/19)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足して後書きを簡略化しました。大筋に変更はありません。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「親譲りの捻くれた思考で子供の時から損ばかり」:夏目漱石「坊っちゃん」

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