依頼者たちが去った教室では、一気に人数が減ってもの寂しい空気が漂っていた。たまたま遊びに来て相談に巻き込まれただけの男子生徒も、いつの間にかその姿を消していて、室内にはいつもの3人だけである。
雪ノ下雪乃が「お茶を淹れなおすわ」と言いながら席を立つと、由比ヶ浜結衣も机の上に残っていたカップ類を片付けにかかる。それを見た比企谷八幡も同級生らが座っていた椅子を元あった場所に戻す為に動く。程なくして、温かな湯気を立てるお茶をゆっくりと味わいながら穏やかな会話ができる環境が整ったのであった。
「さて、今回の依頼もお疲れ様だったわね。少し中途半端な印象もあるのだけれど、この程度に抑えておく方が後々の事を考えると良いのかもしれないわね」
「うん。ゆきのんもお疲れー!」
「そうだな。……お前が色々と話をまとめてくれたから動きやすかったし、友達関係とか俺には解らん部分はそっちが解説してくれたから助かったわ」
この場の雰囲気に相応しい事を言おうと頑張って考えて、彼はそう口にした。とはいえ相変わらず、ふと2人の名を呼ぶ事を恥ずかしく思ってしまう八幡であった。
「私としては最低限の仕事しか果たしていない気がするのだけれど。その程度の労力で希望の職場に見学に行ける事になったのだから、何だか申し訳ない気もするわね。やはり犯人は完膚なきまでに叩き潰して……」
「待て、待てって。今更これ以上追求しても色んな意味で面倒だ。お前がさっき言ったように、この先を考えると良い落としどころだと思うぞ」
「あたしも、とべっち達3人が同じグループになる事で良い方向に行くと思う。今までは隼人くんへの依存?っていうのかな。あんまり表には出さないけど、隼人くん優先って感じで気を遣ってるような感じだったけど、今日の放課後とか3人に一体感みたいなのを感じたんだよね」
彼ら3人が葉山隼人に対する態度には、由比ヶ浜も思う所があったのだろう。グループの輪を乱さぬよう気を配る事を昔から心掛けていた彼女だからこそ、以前から彼らの関係性を危うく見ていたのかもしれない。結果的には今回の依頼が、そうした部分が上手く解消される切っ掛けになった感があった。
しかし、良い話になるはずだった流れをぶった切るように彼はそれに相鎚を打つ。
「あー。間違いなく雪ノ下への恐怖で一致してるんだろうな」
「はあ……。鬼の首を取ったように何度も繰り返さなくても良いわ。それに集団をまとめるには、恐怖というのは有効な手段の1つなのよ」
「……まあ、更に下の存在を作るよりはマシな手段だわな」
自らの過去を振り返りながら小声でそう返事する八幡に、2人の少女は表情を少しだけ曇らせる。彼が高校に入学する以前の事は断片的な話しか知らないが、彼が昨年度をどのように過ごして来たのかは
少しだけ重くなりかけた部室内の雰囲気を和らげるように、由比ヶ浜が口を開く。
「そ、それよりさ。せっかくだし、今日は時間までゆっくりお喋りとかしない?」
「たまには、それも良いかもしれないわね」
肩に加えた力を緩めながら、雪ノ下もそれに同調した。普段ならばマニュアル解析に戻るか、それとも試験前なのに勉強は大丈夫なのかと由比ヶ浜に注意を促すところだが、依頼を片付けたという充実感が彼女にそんな発言をさせたのだろう。
「ヒッキーも、それでいい?」
「……まあ、あんま面白い喋りとかは期待すんなよ」
「今更そんな事で気負わなくても大丈夫よ。依頼の報告も兼ねて、平塚先生もお誘いしてみて良いかしら?」
珍しく毒舌を発揮して来なかった雪ノ下に、八幡が意外そうな表情を向けている。そんな彼に苦笑しながら、彼女は自分でも変な事を言い出したものだと自覚していた。少し重くなった場の雰囲気を緩和する為に、半ば身内という距離感の顧問を呼び寄せる。そうした人間関係に配慮した提案を自分がしている事を不思議に思いながら、彼女は教師にメッセージを送るのであった。
***
いつものようにノックもせずドアを開いて、平塚静は部室の中へと入って行った。教室内の様子からして、依頼は無事に解決したようだ。机の上には4人分のお茶が用意されていて、座る者の居ない依頼人席の前では、一際大きな湯気を立ててお茶が存在を主張している。自分の返事を見てから雪ノ下が新たに淹れてくれたのだろうと推測しながら、彼女はその席へとゆっくり歩いて行く。
珍しい事に、席に着くまで生徒達から声を掛けられる事はなかった。てっきり雪ノ下からノックの注意を受けると思っていたので自分から語り掛けはしなかったのだが、少し選択を間違ってしまっただろうか。そんな事を考えながら彼女は生徒達の顔を順に見渡して、おもむろに口を開くのであった。
「噂を無難に収める手立てができたみたいだな。情報がこちらに届いていなかったとはいえ、比企谷には嫌な思いをさせてしまったな」
「いえ、その。……慣れてるというか、今回はあまりきつい内容でもなかったですし」
「ふむ。確かに雪ノ下と由比ヶ浜と仲良くなれば、調子に乗っても仕方のない状態だろうしな」
「いやだから、調子に乗ってとか無いですって」
「由比ヶ浜はともかく、雪ノ下の弱みを握るのは大変だろうに、どうやったんだ?」
完全に面白がって言っているのが丸分かりの口調で教師は生徒に尋ねる。とはいえ、このノリに合わせるには彼女達は純情すぎたので、彼が答えに窮する事はなかった。
「あたしはともかくって、どういう意味ですか!」
「私が弱みを握られるような粗相をするとでも?」
「それだけ君達が仲良さそうに見えるという事だよ」
さすがは年の功で、適当にはぐらかす平塚先生であった。少しだけ気落ちしたような気配がしたが、おそらく気のせいだろう。そんな年齢が気になるお年頃の彼女を尻目に、照れ隠しからいつものやり取りに突入する2人であった。
「とはいえ、卑劣谷くんなら予想外の手段を思い付きそうで身の危険を感じますが」
「おい、卑劣様みたいな扱いは止めてくれ。禁術とか禁呪とか使いたくなっちゃうだろうが」
「貴方の場合は近習にすら見放される展開ではないかしら?」
「甘いな雪ノ下。そもそも俺には近習なんて最初から付かない自信があるぞ」
「つまり……どういうことだってばよ?」
「いや、先生。そんな嬉しそうに話に加わられるとちょっと……」
せっかく楽しいネタに加わろうと思ったのに腰を折られて、いざ涙の平塚先生であった。
***
事件の概要と対策とをおおまかに報告し終えて、教室内は落ち着いた雰囲気になっている。改めて生徒達に労いの言葉を掛けて、ふと平塚先生が何気ない感想を口にする。
「しかし、あの葉山が『今の状況だと犯した罪以上の罰を受けることになるから反対』などと言い出すとはな」
「ええ、私も正直意外でした。もう少し曖昧に『みんなでなかよく』とか言い出すイメージがあったのですが」
「お前、ホントに誰にでも容赦ないのな。戸部たちの切り捨て具合とか、三浦ですらも引いてたぞ」
「あはは……。で、でもさ。あそこまで言い切るゆきのん、格好良かったじゃん」
フォロー混じりではあるものの、由比ヶ浜からは確かに格好良いと思っている様子も伝わって来るだけに、雪ノ下としても邪険には扱えない。少し照れながら彼女は口を開く。
「そ、そう言って貰えると助かるのだけれど」
「でもま、確かに葉山が言う通りではあるか。もし犯人を特定したら、クラス内のカーストは最下位になるだろうしな」
「あら、貴方が居るじゃない?」
「ばっかお前、常人に俺と同じポジションで耐えられると思うのかよ」
いつものやり取りだったが、今回は意外に早く済んだ。雪ノ下としてもこの議題には気を引かれているのだろう。
「それもそうね。とはいえ、自らがしでかした事なのに罰が大きすぎるから不問に付すというのも、何だか微妙な気持ちになるのだけれど」
「とは言っても、『目には目を』が基本だからな」
「あ、それ知ってる!マグナ・カルタだよね?」
「……ハムラビ法典よ。念の為に説明するのだけれど、彼が言っているのは『やられたらやり返しても良い』という意味ではなくて、『それ以上は禁止』という意味なのだけれど。ちゃんと理解しているのかしら?」
「も、もちろんだし!」
冷や汗をかきながら思いっきり視線を逸らす由比ヶ浜であった。
「まあ、噂の被害者としては犯人がどんな酷い目に遭おうが別に良いんだが……。そいつなら思う存分叩いても良いって勘違いする連中が出て来るのも嫌だしな」
「あー、確かにそんな感じになっちゃうよね」
「だからといって、自らが犯した罪を謝罪できないというのも……」
「ああ。後に引きそうだよな」
何故か途中で口ごもった雪ノ下の発言に続ける形で八幡が補足する。ふと気付くと、平塚先生と雪ノ下が真剣な表情で見つめ合っている。急に教室内の空気が変わった感じがして首を傾げる八幡と由比ヶ浜に、意を決した雪ノ下の声が届いた。
「……少し、話を聴いて貰えないかしら?」
***
「例えば……由比ヶ浜さんは犬を飼っていたと思うのだけれど、散歩の途中でその飼い犬が他人に迷惑を掛けたとするわね。現場では由比ヶ浜さんが謝罪をして、損害への対処もきちんと取り計らって。その場合に後日、親の立場で関係者に謝罪に行く必要はあるのかしら?」
何だか変な話になった事に引き続き困惑しながら、とりあえず2人は答える。平塚先生はこの話に加わる意志はないのか、コップを持って立ち上がり窓際にまで移動していた。
「うーん、どうだろ。あたしが現場で謝って、その他のお金の話とかも済んでるって事だよね。じゃあわざわざ親が行かなくても良いんじゃない?」
「……どうだろうな。俺らが未成年って事を考えると、親の責任もあるから顔を出しておいた方が良いのかもな」
「でもさ、親が何かしたわけじゃないじゃん。あたしは現場責任っていうの?サブレを抑えられなかったから謝るのが当然だけどさ」
「なんてか、一言が無くて腹を立てる連中もいるからな。とりあえず話を通しておくってのも社会人スキルとして大事らしいぞ」
少し思った方向からずれて来た気もするが、話の流れに便乗して雪ノ下は質問を加える。少し訊くのが怖いのだが、しかし知りたいと思ってしまったが故に。
「では、その被害者と由比ヶ浜さんのご両親が知り合いだったとして。でも由比ヶ浜さんが知人の娘だと知らなかった場合はどうかしら?」
「あー。それだと、話しておいた方が良いのかもね。謝罪とか重いのは要らないと思うけど……」
「そうだな。些細な事でも後になるほど言いにくくなるもんだし、後になって判ってぎくしゃくするなら早めに話題に出した方が良いんじゃね?」
「なるほど。……解ったわ」
どうやら彼女の知りたかった事には答えられたみたいで、2人はほっと一安心する。何だか重苦しい雰囲気になってしまったし、新たに軽い話題でも振ろうかと由比ヶ浜は考えたのだが、それよりも雪ノ下が語り始める方が早かった。彼女は2人を真剣な眼差しで代わる代わる眺めながら核心的な話を持ち出した。
「2人に、謝らないといけない事があるのよ。……去年の入学式の日に、比企谷くんが由比ヶ浜さんの飼い犬を助けて入院した時の事なのだけれど」
「お、おう。何かあったのか?」
「たしかゆきのん、新入生代表の挨拶をしたんだよね?」
「……ええ。その日は入学式の打ち合わせもあって、朝早くに車で登校して来たの。……学校の近くで運転手が急にブレーキを踏んで。でも間に合わなかったみたいで、何かがぶつかる嫌な音がして……」
「ゆきのん……」
「……」
2人は既に話の結末を悟ってしまった。しかし違っていて欲しいという気持ちもあり、雪ノ下が話し始めた以上は最後まで聴くべきだという気持ちもあって、彼女の独白を遮る事は出来ない。
「運転手には見ない方が良いと言われたのだけれど、私は既に、車にぶつかった男の子と自転車とを目に入れてしまっていたの。すぐに駆け寄ろうとしたのに、後々の事があるからそれだけはって運転手に止められて……」
「病院にも何度か行って、一言でも謝ろうとしたわ。でも親や家の者からは反対されていたし、どうして良いのか解らなかった。一度だけ病室にまでお邪魔した事があったのだけれど……。あの時、貴方はすっかり眠りこけていたわ。読みかけの『銀河鉄道の夜』の文庫本を握りしめながら」
彼と彼女が最初に部室で向き合った時のことを思い出して、少し苦笑いを浮かべながら彼女は続ける。
「同じ部活で過ごすようになってからも、なかなか言い出せなくてごめんなさい。……うちの車のせいで、比企谷くんに怪我を負わせたり、2人の関係を微妙なものにしてしまいそうになって、ごめんなさい」
クッキーの依頼が解決した後に、危うく2人の関係が壊れそうになった時の事を思い出しながら、雪ノ下はそう締め括った。彼女の独白が終わった事を理解して、由比ヶ浜は直ちに口を開く。
「ゆきのん。……ずっと言い出せなくて、しんどかったよね?あたしたちは大丈夫だから」
「……そうだな。もう終わった事だし今更だわ。お前が何かしたわけでもねーし、その、なんだ。話も通して貰ったし、後は今まで通りって事で良いんじゃね?」
下げていた頭を上げると、2人の部員が優しそうな表情でこちらを見ている。そんな表情に慣れないのか、男子生徒の顔が少し引き攣っているのを見て何だかおかしくなって、雪ノ下はそっと微笑む。そんな彼女の後ろから温かい手が頭に置かれた。
「雪ノ下。これにて一件落着だな」
こうして、思いがけぬ副産物をもたらしながら、久しぶりの依頼は綺麗に片付いたのであった。
急用でほんの少しだけ時間に間に合いませんでした。
重要な回なのでギリギリまで確認して……などと思っていたらこんな事になってしまって申し訳ありません。
タイトルの通り、今回は1巻10話と対になるお話でした。
今話を契機に過去の話を読み返して頂けるなら、とても嬉しいです。
次回は日曜日に更新です。
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