数日前に現実で通ったコースを逆向きに、教師と生徒は並んで歩いていた。目的地に辿り着き、教室内の生徒に斟酌する事なく、教師はいつものように一息で扉を開ける。二人の耳に届いたのは。
「……ここは、”A slow sort of country!”なのね」
普段の様子からは思いもつかないほど楽しげで感情的で芝居っ気たっぷりの声だった。
教室の扉を開いた後も、平塚静はドアに手を添えたままの姿勢で動かない。教師の後ろに控えている由比ヶ浜結衣も、歩き出そうとする体勢のまま固まっていた。
部室では、やはり身じろぎもしないで比企谷八幡が必死に頭を働かせていた。
あまりにもタイミングが悪すぎる。話を振った者としては何か場の空気を和らげる言葉を口にしたいところだが、ここで良い案を思いつくようでは長年ぼっちなどやっていない。
そして雪ノ下雪乃は、羞恥と憤怒とその他様々な負の感情に襲われて下を向いたまま身動きせず。何か事態を打開する策がないかと、やはり必死に頭を働かせていた。
「(どうしてこんなタイミングで平塚先生がやってくるのかしら。全くいつもいつもノックをしてくださいとお願いしているというのに何度言っても実行してくれた試しがないのだから打つ手がないわね。とはいえ仮にノックをしていたところで廊下にも私の声は聞こえていたのでしょうし。やはり私があの大好きな『鏡の国のアリス』の話題を出されたことに浮かれてしまって赤の女王に自分がなったかのような口調で答えてしまったのが原因なのは確かね。でも仕方がないじゃない。私が英語の勉強を独学で始めたのはあの作品とパンさんに出会ってしまった為だと言っても過言ではないほどお気に入りの作品なのだから。だいたいそれというのもこの目の前の目が濁って見た目が不審者のような……何だか目が多いのだけれど今はそんな事はどうでもいいわ。口に出すのは可哀想だから面と向かっては言わないけれどこの腐れ目谷くんが話題を振って来なければ。でも『鏡の国のアリス』の話題を振られること自体はとても素敵なことなのだからそれには罪はないわね。つまり問題はこの子が私を陥れようとするかのようなタイミングで話を振ってきたのがいけないのであって私には何ら落ち度もなければ先生に何を言われる筋合いもないのだわ。堂々と応対しなくては!)」(3.1秒)
「平塚先生、ノックを」
平然とした態度を必死に取りつくろう雪ノ下だが、三人は呆気にとられている。何か対応を間違えてしまったのだろうか。今度こそしくじるわけにはいかないと、本気の長考に入る。
「(いつもと全く同じセリフを同じ口調で同じ相手に告げたというのにどうして皆こんな反応をするのかしら。何だか私が憐れまれているような気持ちになるじゃない。いいこと、私は雪ノ下雪乃。他者に憐れみを施すことはあっても他人から憐れみを受けるような立場に立つつもりはないのだからその事をきちんと先生にもこの男にも再教育しておかなければならないわね。あら、平塚先生の後ろにいるのはもしかして先日の由比ヶ浜さんかしら。彼女ならこの二人と違って私の真価を見抜いていつもと変わらぬ冷静な対応をしてくれるのではないかしら。では改めて彼女に話しかけてみることにしましょうか。いえ、でもちょっと待って。先日の彼女の応対を振り返る限りあまり頭を働かせた会話というものをしないような物言いだったのではないかしら。だとしたら微妙な会話の機微というものを彼女に期待するのは酷ね。仕方がないわ。やはり平塚先生に向かって何かを話すのが結局は事態の打開の為の一番の近道ということになりそうね。でもさっきのセリフは効果がなかったみたいだし一体何を話せば良いというのかしら。そもそも私が口にしたのはあの『鏡の国のアリス』の中でもかなり有名な一節だったと思うのだけれど平塚先生がいくら国語担当だとはいえ翻訳ぐらいなら読んだことがあるのではないかしら。だとすれば英語が通じていなかっただけでもし日本語であのセリフを口にしていれば平塚先生も教室に入って来るなり女王のセリフを引き継いでくれたのかもしれないわね。しかしこれは難問だわ。一体どの訳を採用すれば良いのかしら。最近の翻訳だと岩波少年文庫*1や角川文庫*2があるのだけれど平塚先生の年代だともう少し前のものが良いかもしれないわね。やはり定番の新潮文庫*3か福音館文庫*4が無難なところだけれど平塚先生の人とは少し違った趣味嗜好からすると独特の味わいがあるちくま文庫*5が一番かもしれないわね。では……じゃないわ。全く私としたことが何を血迷った事を考えているのかしら。その手は上手く嵌まれば最高の結果を期待できる反面リスクも高い一手だというのに。冷静になるのよ。ここは癪だけれども相手の挑発にも動じず自分の発言を貫く母の姿勢を参考にさせてもらうべきだわ。つまり私がこの後に言うべきセリフはこれよ!)」(1.3秒)
「平・塚・先・生。ノ・ッ・ク・を」
「あ、ああ。すまん……」
「あら、後ろにいるのは由比ヶ浜さんではないかしら。ご機嫌よろしくて?」
「あ、やっ……。失礼、します?」
「……なんかお前、アリス的な世界に迷い込んでないか?」
「何を言っているのかしらこの腐れ目谷くんは。確かに『鏡の国のアリス』は私が愛してやまない作品ではあるのだけれどこの私が小説の中の虚構の世界とこの世界とを混同して妙な言葉遣いをするなどと思っているのだとしたらとんだ間違いだと強く主張させていただくわ。だいたい貴方は……」
「ちょっと待って。腐れ目谷くんって、俺のことか。ちょっと泣いていい?」
「その件に関してはこの私もいたいけな男子生徒の純真な心を傷つけてしまいかねない軽率な発言だったと認めるに吝かではないのだけれどこの件の発端は貴方が変なタイミングで私には抗い難い話題を振って来たのが原因であってむしろ私としては貴方に古来より我が国に伝わる正式な謝罪の形すなわち土下座を要求するのも当然の立場だと思うのだけれど部員の不始末は部長の監督不行き届きでもあるのだから特別に免除しているのだという事をもう少しきちんと理解してもらいたいところだわ」
耳を真っ赤に染めながら、のべつまくなしに口を動かし続ける雪ノ下。彼女が再起動を果たし通常に近い精神状態に戻るまでには、なお数分の時間を要したのだった。
***
今も教室に残る困惑した空気を嫌ったのか、雪ノ下は珍しく場の話題を進める役割を放棄して黙り込んでいる。平塚も話題を振りにくい様子で、先ほどから一同は長机の周囲に座ったまま無言で時を過ごしていた。
しかし、いつまでもこのまま過ごすわけにもいかない。部長があの調子なら唯一の部員が働くしかないだろうと考えて、八幡は教師に向けて口を開いた。
「で、平塚先生。今日はどんな面倒事ですか?」
「比企谷。君は一体いつから、私が厄介事ばかり持ち込んでいると錯覚していた?」
「いや、その口調は止めて下さいって。それにどう考えても煩わしい話ばかりだったじゃないですか」
「ふむ。その割には二人は随分と仲良く……」
「それで、今日のご用件は?」
先程の展開を繰り返されてはたまらないと、八幡は言葉を被せ気味にして答えた。とにかく教師から用件を聞き出さないと話が前に進まない。さっさと吐けと言わんばかりの眼差しに苦笑しながら、平塚はそれに素直に答える。
「いやなに、由比ヶ浜が奉仕部に依頼をしたいと言うので連れて来たのだよ」
「えっ、……が依頼、ですか?」
目線を平塚先生から由比ヶ浜へと一瞬だけ移して、八幡は再び教師の顔を見る。しかしそれも何だか照れくさくなって、考え事をしているふうを装いながら教室の隅を見つめた。
由比ヶ浜の事をどう呼べば良いか分からず口を濁したのも、顔を見ていられなかったのも、早い話が気恥ずかしかったのだ。
明らかに目の前で狼狽えている割には、それを上手く誤魔化せているつもりの八幡を眺めていると。由比ヶ浜は緊張が少しほぐれているのに気が付いた。キモいか否かと問われると目の前の男子生徒は確実にキモいのだが、その言葉の強さのわりには嫌とは思わなかった。
だから由比ヶ浜は、八幡の顔を正面から見つめながら口を開く。
「あのさ。今はあたし一人だとできない事なんだけど、奉仕部に手伝ってもらって、できる様になりたいんだ。それって、奉仕部の理念だっけ、に違反してないよね?」
「あー、えーと。多分大丈夫なんじゃね。部長様の見解は?」
自他ともに濁っていると認める目をしっかり見据えながら話し掛けてくる由比ヶ浜と向き合って、八幡は何とか言葉を返す。横目でちらりと己が上司の姿を窺うと、先程よりは落ち着いた様子に見えたので。部長としての責任を果たしてもらうべく話を丸投げした。
「そうね。もちろん私たちに手助けできる事なら、という条件付きではあるのだけれど。大抵の事なら何とかなると思うし、奉仕部の理念にも反していないと思うわ」
「そっか。良かった」
「それで、何をできるようになりたいのかしら?」
「あのあの、あのね……」
「あ、ちょっと俺、席外すわ」
話を続けにくそうにしている姿を見て、八幡は逃げを選択した。由比ヶ浜を気遣って話をしやすい様にという気持ちもあるにはあるが、今のこの部屋の空気は何だか甘酸っぱすぎて気恥ずかしい。
しかし、今の雰囲気を作り出している張本人が逃げを許さなかった。
由比ヶ浜は強くかぶりを振って口を開く。
「ううんっ。ヒッキーにも聴いてて欲しいんだ」
「お、おう……」
由比ヶ浜は改めて雪ノ下に体を向けて、
「あのね。あたし、お礼を言いたい人がいるんだ。言葉だけじゃなくて、何かお礼のしるしみたいなのを贈れたらいいなって思ってたんだけど」
「そう……」
まるで
「この世界でも、料理ってできるみたいなんだよね。だから、クッキーとか、作りたいなって。手伝ってくれない、かな?」
「……解ったわ。私が手伝える事だし、奉仕部への依頼として正式に受理します。平塚先生、それで宜しいですね?」
「うむ。私の方にも異論は無いな。職員室で作業をしているから、クッキーが出来上がったらメッセージを送ってくれたまえ。家庭科室の使用許可もこちらで出しておこう」
「平塚先生、ありがとうございます!」
「これくらいならお安い御用だよ。私に料理を教える事はできないが、頑張りたまえ」
職員室へと戻る平塚を見送って、三人もまた家庭科室へと移動した。
***
家庭科室は惨禍を極めていた。人の身に過ぎない者に、まさかこれほどの状況が作り出せるとは。周囲に散乱した汚物と呼ぶ事すら手緩い何かをぼんやりと眺めながら。強烈な臭気が漂う部屋の中で、雪ノ下は残る力を振り絞って全ての元凶に問い掛ける。
「他人のスキルを詮索するのは御法度だとマニュアルに書いてあったので答えられる範囲で良いのだけれど。由比ヶ浜さん、貴女の料理スキルはどの程度なのかしら?」
「えと、最初に教えて貰ったやつだよね?」
「ええ、ログイン時のチュートリアルで教えられたと思うのだけれど」
「ちょっと待ってね。えーと……。マ、マイナス!?」
お互いに視線を交換して「やはりか」と納得する八幡と雪ノ下だったが、当の由比ヶ浜は困惑したままだ。
「たしかこれって、その人の腕前をシステムが判定して、数字にしたものだよね。マイナスって、何か壊れてるのかな?」
「いいえ、実に妥当な判定だと思うわ。正直この世界のシステムを見くびっていたと認めざるを得ないようね」
「ちなみに雪ノ下はどの程度だ?」
「私は四百台ね。システムに文句を言いたい気持ちもあるのだけれど、妥当と言えば妥当な数値だと思うわ」
「いや、上級者扱いだったら充分だろ」
この世界でスキルは事実上無限に取得できるが、どの程度の習熟度なのかをシステムが判定して数値化してくれるのだ。数字の目安としては、以下のように教えられた。
~200:初心者。
201~400:中級者。趣味として誇れるレベル。
401~600:上級者。それで生活の糧を得られるレベル。
601~1000:免許皆伝。世界でもほんの一握りのレベル。
1001~:超越者。確実に歴史に名を留めるレベル。
「ほえー。ゆきのんってやっぱり凄いんだ!」
「いえ、私に教えられる事など微々たるものだと、己の無力を噛みしめているわ」
「何だか酷い事を言われている気がするっ!」
「由比ヶ浜さん。事実をありのままに認めるところから、全ての行為は始まるのよ」
「じゃあゆきのんも、さっきのお芝居のセリフを認めないとね」
「なっ!?」
「でも、照れることないじゃん。ゆきのんのさっきのセリフ、いきなりでビックリしちゃったけど、すっごく良かったと思うよ。舞台女優かと思っちゃった」
何とか誤魔化せたと思っていた話題をこのタイミングでストレートな形で蒸し返されて、雪ノ下の思考は再び高速で動き始める。しかし過酷な環境に身を置いているからか、先程のような冴えはない。
「(何とか無かった事にできたと思っていたのに正直由比ヶ浜さんの記憶力を見くびっていたようね。まさかこんな風に反撃してくるとは夢にも思っていなかったわ。ここまで明確に口に出してきたからには下手に誤魔化しても無駄ね。誠に遺憾ではあるのだけれども彼女に物理的な刺激を与えて記憶を忘却してもらう事も選択肢として考慮しなければならないのかもしれないわ。今この世界では私の愛用の薙刀が存在していないのがとても残念なのだけれど獲物が何であれ使い手の技量次第で狙った効果は得られるはずだしそれができてこそ技量を活かしたと言えるのだわ。決して後に尾を引くようなダメージを与えず該当する記憶だけを彼女の海馬から消去する。普通に考えれば神業だけれど今の追い込まれた私ならきっと実行可能なはずよ。さあ実行すべきは今……じゃないわ私ったら一体何を考えているのかしらいくら予想外の反撃をされて追い詰められているからといって同級生に危害を加えるような事を少しでも考慮してしまった自分が情けない何故私はそんな攻撃的な事を考えてしまったのかしら普段ならそこまで直線的に物事を解決しようなどと思わないのにしかし先程から何かしらこの臭いは人を不快にさせる事この上ないわでも考えてみればこれも由比ヶ浜さんが生み出したモノだったわねそれならば物理的な反撃を受けるのも自ごう自得だといえるのでは……何だか思考のう力がどんどん落ちているきがするわ……はんろんも……できないまま…………わたしはここでくちはてて……しまうのかしら…………むねん!)」(10.3秒)
凄惨な環境下での多大なストレスが引き金になったのだろう。ゆっくりと床に倒れ伏す雪ノ下を眺めながら、八幡もまた己の限界と戦っていた。
薄れ行く意識の中で、八幡は先程の雪ノ下の発言を、更には由比ヶ浜との会話を振り返る。
他の生徒から見下されたり暴言や罵倒を受けるようになったのは、そもそも何がきっかけだったのだろう。今となっては判らないが、積み重ねられた年月のお陰で、八幡は誰に悪口を言われても特に気にしないようになっていた。
もちろん気にしない事と傷付かない事はイコールではない。いくら気にしないように心掛けていても、例えば嫌なあだ名で呼ばれると内心は傷付くものだ。
しかし、先ほど「腐れ目谷くん」と呼ばれた時、八幡は傷付いていない自分に気が付いた。何故なのだろう。何が違うのだろう。強いて言えば、雪ノ下の発言からは邪気が感じられなかった。それが原因なのだろうか。
別の例を考えてみる。誰かに、特に異性にじっと見つめられると、八幡は相手が隠し持つ思惑を探ろうとして身構えてしまい、ろくに話もできなくなるのが常だった。
しかし、先ほど正面から見据えられて依頼の質問を受けた時、八幡はその言葉の裏側に全く無警戒だった。どうして発言をそのまま受け入れられたのだろう。強いて言えば、由比ヶ浜からは真摯な気持ちが伝わって来た。先程の例と考え合わせると、つまりは相手次第ということか。
ここまでは解明できたものの、そろそろ意識が朦朧として来た。もはや手足も満足に動かないだろう。最期の時を迎える直前に、他人からは些細な事だと思われようとも、八幡にとっては救いに繋がる反応を二人から得られたのだ。これで良しと考えるべきだろう。
既に八幡には人生に一片の悔いもない。強いて言えば、自分に救いをもたらしてくれた二人を。雪ノ下の遺体と、まだ息のある由比ヶ浜を、この凄絶な環境に残して先に逝く事だけが心残りだ。
ゆえに八幡は最後の力を振り絞って、由比ヶ浜に話しかける。
「由比ヶ浜……。頼む、換気を」
その言葉を最後に、八幡も雪ノ下の後を追うかのように意識を完全に手放した。