カシン様と一緒に二条御所に戻る頃には地平線の彼方から太陽が昇って来ていた。
この時間になればまず侍女は起きていて色々と一日の始まりの準備をしているはずだ。例えば侍女であれば朝食の支度を、武将や兵士であれば起きてからの鍛錬を。忍衆であれば交代で警備をしている。
そしてそんな忍衆がカシン様の姿を見て殺気立つ。仕方ないといえば仕方ないのだが、まず勝てないし変に刺激しても面倒なので手で合図をして下がらせる。
合図に従って忍衆は下がるが、きっと二条御所内の人々に知らせに動くだろう。間もなく内部の空気が殺気立つのを感じた。あぁ、やはりこうなったか。
「カシン様。大人しくしていてくださいよ」
「わかっています。ただ、周りがどうするか……あぁ、楽しみですね」
この人は絶対にわかっていて周囲の人々を煽るのだろう。それでどういう反応が返ってくるのか、楽しんでいる。とりあえず、俺が近くにいるときはその辺のことは気をつけよう。空気が悪い中にいるのとか好きではない。
ヨシテル様と義昭様のことが大好きすぎる足利軍において、その二人を利用し、敵対していたカシン様は絶対に許せない。と思っている人間が過半数を占める。むしろほぼ全員がそうである。
そんな状況でカシン様を放置しておくと絶対に厄介なことになる。空気が悪いどころか一触即発の空気になりそうだ。
「チョコレート作る間、絶対に大人しくしておいてくださいよ。面倒なんで」
「周りがどうするか、だと言ったはずですが?」
「煽って面倒なことにしたらチョコレートなしで紫苑と鬼灯に連絡して強制送還です」
「……仕方ありませんね。大人しく待つこととしましょう」
絶対に強制送還よりもチョコレートなしに反応したに違いない。どれだけチョコレートが楽しみなんだろうかこの人は。大体、紫苑と鬼灯に連絡したところでこの人は全く気にしない。それに強制送還とはいえ、あの二人はカシン様の言葉に従うために任せても意味がないのだろう。
いざ本当に強制送還となれば転移の術を使って無理やり、となる。それでも良いか。
カシン様を連れて歩けば侍女、武将、兵士、忍衆の目が険しくなっており、何か不審な動きをすれば即時に行動を起こす。とでも言うような体勢になっている。そうして警戒するのは良いが、カシン様には勝てないのだからもう少し落ち着いて欲しい。
ため息をつきそうになるのを耐えていると部下の忍が一人、そっと耳打ちをしてきた。どうやらヨシテル様は執務室で俺とカシン様を待っているらしい。まぁ、当然と言えば当然か。
小さく頷いて指示を出すと部下はスッと廊下の影に潜むようにして姿を消し、気配を最小限にする。そのまま移動したが、まだまだ気配遮断が甘い。あれはその辺りが一番上手な忍ではあったが、この後で再度指導が必要かもしれない。無論、忍衆全員にだ。
「気配の消し方が見事ですね。術なくして見抜くことが難しいほどです。足利軍の忍は随分と錬度が上がったようですね」
「いえ、まだまだ気配遮断が甘いですよ。今度忍衆全員集めて指導をする予定です」
とりあえず、全員一段階ずつ錬度を上げよう。ヨシテル様と義昭様を思えばそれくらい出来るはずだ。というか出来る。謎とさえ思えるほどの忠誠心によって絶対に出来る。場合によっては更に錬度を上げることも出来るかもしれない。
そんなことを思ってついつい口角が上がってしまう。それを遠目に見た忍衆がびくついているような気がするが気のせいだろう。
「結城。随分と楽しそうですね。部下の忍が怯える様は愉快ですから私は構いませんが」
「楽しいですとも。師が俺を鍛えるのを楽しいと言っていたのが分かる程に」
師は俺を鍛えるのをとても楽しんでいた。厳しくして、苦しんだりする姿を見るのが楽しいのではなく、確実に成長していく弟子の姿を見るのが楽しいとのことだった。今となっては里長になっているために弟子は取れず、そういった楽しみがあまりない、ともこぼしていた。
ただ、俺がたまに里に戻った際には時間を取ってあれやこれやと新しい忍術を教えてくれる。忙しいというのにあの人は何をしているんだ、とも思うが、それ以上に感謝の気持ちで一杯だ。師がいなければ俺は何も成しえなかった。ヨシテル様を支えることも、ヨシテル様のために戦うことも、義昭様の笑顔を守ることも。
どうしようか、今度里に戻った際にはちゃんと感謝の気持ちを伝えるべきだろうか。言わなくても察しているだろうが、言葉にするのが大切だよ。とも言っていたし、それも良いかもしれない。
「結城の師……あの男ですか」
「師匠と面識が?」
「いえ、ありません。遠見によって見ただけですが……どうしてか気づかれてしまいました。そう見つかるものではなかったのですがね」
流石師匠である。あの人は松永様と同じように戦国乙女ではなくとも彼女たちと真っ向から戦える強さを持っている。それどころか、下手をするとヨシテル様や織田様とも戦えるのではないだろうか。それほどに凄い人ではあるが、ネーミングセンスは残念なのがなんとも言えない。
「師匠は強いですからね……というか規格外ですから。普段は優しく、穏やかな人なんですがやるときはやる人ですよ」
だからこそ里長になっている。というべきなのかもしれない。里の人間全てが認め、また頼られる存在でなければ里長にはなれない。強さだけではなく人格に問題がないか、人望はあるか、様々な点で優れていなければなれない里長である師。口には出さないが俺はあの人を尊敬している。
今考えるにはどうでも良いことではあるが。
その後もカシン様に師について聞かれながらも歩き、とうとうヨシテル様の執務室前へと辿り着いた。
中にいる人間の気配は一つだけであり、それはヨシテル様のものだ。ミツヒデ様は居ないらしい。いや、居たとしても中々に面倒なことになりそうなのでその方が安心する。
「ヨシテル様、カシン様をお連れしました」
「どうぞ、中へ」
その言葉のままに執務室の中へと入るとカシン様も大人しく後に続いてくれる。
中では戦装束に身を包んだヨシテル様が険しい面持ちで座っていた。ヨシテル様は戦国乙女の中でも徳川様と並んでカシン様と因縁深い。そして、警戒することを忘れてはならない相手となるとそうなるのも仕方ないだろう。
二人が向かい合うように座ると空気がピリピリとした張り詰めたものに変わる。険しい面持ちのヨシテル様といつもと変わらない薄らとした笑みを浮かべるカシン様。一触即発の空気、と言えばいいのだろうか。
ただ、あまりこういう空気が長引くと俺が下がれないのでやめてほしい。
「結城、どうしてカシンがいるのか、説明を」
「チョコレート欲しさに見てきたので、問題起こす前に連れて来ました」
「……え?」
真面目に聞かれたが少しふざけたような返し方をする。空気が悪いならさっさとぶち壊してしまうに限るからだ。それに嘘は言っていない。カシン様の目当てはチョコレートであるし、問題を起こされると色々面倒なことになる。
「それと、お二方がいつまでもそんな空気だと俺が離れられないのでチョコレート作れませんよ」
「良く来ましたね、カシン。あまり歓迎は出来ませんが、大人しくしているのならば二条御所への滞在を私が許可しましょう」
「ええ、感謝します、ヨシテル様。私も特に面倒ごとを起こすつもりはありませんのでどうぞご安心ください」
掌を返すように空気が一変した。幾分かにこやかに話をする二人を見るとなんとも言えない気分になる。この二人の目的と言えるチョコレートを引き合いに出せば何とかなるのでは、と思ってのことだったがここまでとは。
ため息をつきそうになるのをまた我慢し、大友様から受け取った書状を渡す。弛緩した空気の中に居るのもなんとなく嫌なので仕事だ仕事。
「あぁ、ソウリン殿からの書状ですね。
………………なるほど、感謝します、結城」
「いえ、この程度であればいつでも」
これでひとまず任務終了となる。一番疲れたのは二条御所に戻ってから、というのはどういうことなのだろうか。とりあえず何もかもカシン様が悪いに違いない。
「それで、ヨシテル様はお食事がまだですよね。カシン様もですが。
侍女にはヨシテル様の物と同時にカシン様のお食事も用意するように言付けているのでもう暫しお待ちいただければ隣の部屋に持って来てくれると思いますよ」
「分かりました。義昭は?」
「義昭様はカシン様が来ている、ということで別室へ。其方へは後ほど俺が」
「おやおや、随分と嫌われているようですね」
嫌われた、と言いながらもカシン様はよりいっそう笑みを深くしている。
「嫌われている、というよりもカシン様が余計なことをすると良くないので別室にお願いしています」
「あぁ、そういうことでしたか。相変わらず過保護というか、なんというか……」
義昭様の護衛も俺の任務の一つだ。その一環なのだから当然だろう。
それに下手にカシン様と話をすると妙なことを吹き込まれるたり、ブラック感マシマシになる可能性があるので遠慮していただきたい。
「義昭のことは結城に任せることが多いですが、あの子が楽しそうで私はとても嬉しく思っていますよ」
そう言うヨシテル様は過保護だとは思っていないらしい。当然だ。過保護というのはミツヒデ様のことを言うのだから。
それとこれから先のことを考えると義昭様に対してただただ過保護、というのは考え物だ。ミツヒデ様にもそのことを言っておく必要があるかもしれない。
「ヨシテル様はヨシテル様で相も変わらず、ですか。相変わらず似た者主従だこと……」
特に似てはいないと思うのだが。ヨシテル様のように清廉潔白ではないし、素直でもないし、強くもなければポンコツでもない。似ている要素はないはずだ。
あぁ、それでも義昭様に対しては確かに似ているのかもしれない。ここにミツヒデ様を入れてきたら全力で否定するのだが、俺とヨシテル様の二人なら大体同じようなものか。
「まぁ、良いでしょう。結城は義昭様と話が済み次第チョコレートを作るのでしょう?そちらを忘れないようにお願いしますよ」
やれやれ、と言わんばかりに首を振って釘を刺してくるカシン様だが、本当にこの人はチョコレートのことが頭の中の大半を占めているのだろうか。
いや、その方が安全なので今は良いのだろう。それに酷く気分屋でもあるので次の瞬間には別のことを考えている、なんてことは良くあることだ。今だけでも安心させて欲しい。
「そうですね……私も楽しみにしていますよ、結城」
「はい、わかりました。
そういえばヨシテル様」
「なんでしょうか?」
大友領で買ってきたカステラを取り出して見せるとヨシテル様の目がキラキラと少し輝いたように見えた。
「お土産、ということでカステラを買ってまいりました。本日のお茶請けに出そうかと思いまして」
「カステラですか……ですが、ちょこれーとが……」
「そういう場合は特別に両方出して貰えば良いのですよ、ヨシテル様」
少し悩むヨシテル様の背を突き飛ばして崖下に叩き落すようにそんな提案をするカシン様。
浮かべた笑みが、ニヤニヤしているように見えることから食べ過ぎると太る。ということを知った上で言っているようだ。ヨシテル様が自己の体重などを気にするので、それを後々に弄りたいのだろう。
「で、ですがそのようなことをすると、その……体重が……」
「ヨシテル様。いつも頑張っていますし、その程度良いのではありませんか?
それにそう言ったことが心配ならば鍛錬に力を入れれば問題はないかと」
「結城の言う通りです。ヨシテル様ほどの方であればそう心配することもないでしょう」
そう言われて目をぐるぐるとさせながら考えているようだ。後少し、と言ったところだろうか。
「大丈夫ですよ、ヨシテル様。今回ばかり、特別にということですので」
「いつもそう食べてばかりいては気になるでしょうが、そうでなければ問題もないでしょう。
それに結城が好意で言っているのです。受け取るのもまた主の役目かと……」
「そ、それもそうですね……結城の好意を無碍にするわけにもいきませんからね。
結城。今日のお茶請けは二つお願いします」
両方出して欲しい、という言葉を聴いてカシン様が大変楽しそうな表情に変わった。これで食べ終わった後にそっと耳打ちするのだろう。随分と食べてしまったようですが、大丈夫なのでしょうか。と。
当初の俺の目的でもあるので良しとしよう。その場面に会えるようにしなければ。
「では、そろそろ義昭のことをお願いします。それと、ちょこれーとも」
「ええ、了解致しました。カシン様、どうかご自重ください」
「わかっていますよ。お互いに益のあるようにしますとも」
その益のあるように、というのが聊か不安を覚えるのは何故だろうか。やはりカシン様だからだろう。
とりあえずヨシテル様が居れば暴れることはないはずだ。そう思い、ある程度安心して執務室を後にすることにした。
そういえば部下の報告の中にミツヒデ様の所在があったが、もう少しすれば戻ってくるらしい。ヨシテル様の命によってのことだろうが、なんともタイミングが悪いと思ってしまった。
念のためにミツヒデ様が二条御所へと戻る前に部下に今回のことを伝達しているが……さてどうなるか。
出来ることならミツヒデ様も大人しくしておいて欲しいものだ。
カシン様と組んでヨシテル様をからかいたい。
カシン様だと辛辣、ユウサイ様だとある程度は穏やかに対応してくれるイメージ。