泡沫の夢
人は誰しも夢を見る。
夢にも様々な意味合いがある。ここでの夢は、敢えて叶えたい願望としよう。
誰しも叶えたい願いを持っている。富であったり、栄誉であったり。千差万別だ。
物語の主人公のように、或いはお姫様のように。はたまた魔法使いのように。もしくは魔王になりたい子だっているかもしれない。
届かない幻想に思いを馳せて。しかし、その夢に届きうる者はどれだけいるだろう。夢は夢のままで終わり、妥協を覚えて。そして、身の丈にあった生き方を選んでいく。
――叶わない夢を見るのは良い。ただ、本当に夢のようになれるのは選ばれた奴だけ。
夢を掴めない者なんてたくさんいる。自分には才能が無かった、選ばれなかった。仕方ないんだ。生きて行かなきゃいけない、夢だけでは生きてはいけない。
それでも、もしも、なんて思いは消えない。運命のように人生が変わる事を望む人は多いだろう。それも、いつしか自分が何もしなければ引き寄せられないものだと悟るのだが。
「だから、諦めたのか」
声がする。問いを投げかける声が。
諦めた。あぁ、諦めたんだろう。特別なんてなかった。凡庸で、ありふれた人生で。望む夢は大きすぎて、ささやかな毎日を繰り返して生きていく。
諦めたんだ。夢を追うには熱意が足りなくて。何もかも中途半端にする前に、せめて生きていこうと惰性の果てに生きて。
「それでも、憧れてしまうのか」
憧れ。憧れるともさ。現実なんて、夢を見なければ楽しく無いことばっかりで。
それでも毎日を生きて行かなきゃいけない。死は怖い、死はわからない、死の先に向かう程に追い詰められてもいなくて、生に熱意を求める程も望めなくて。
だからこそ魅せられてしまう。荒唐無稽な、それでも心を動かされてしまう空想達。絶対にあり得ない世界のお話。
だから? あり得ないからなんだ。それでも良い。心が踊るなら荒唐無稽な空想でも構わないじゃないか。
そこで覚えた感動は決して嘘じゃない。動かされた心は無駄じゃない。
「なら」
それなら。
「もし望めるとしたら、何を望む?」
望み。望みが叶うとしたら……。
生きてみたい。憧れた主人公や、魅力的な登場人物達と。
心を通わせてみたい。そうすれば、もしかしたら自分も、なんて幼稚な思いだけど。
変わりたい。いいや、変えてみたい。
どうしようもない悲劇は、出来るだけ少なくて。
得られる喜びはいっぱい増えて、悲しみの涙を減らして、笑い合って。
そんな風に生きられたら、きっと、それは幸せだと思うから。
「そうか。それが、夢か」
あぁ、夢だ。
これは、夢だ。
「あぁ、夢だ。泡沫の夢、胡蝶の夢、本来は何も残せず消えゆく」
これは、嘶き?
声が、する。声が、聞こえるんだ。
「頼むよ、偉大なる夢幻。このささやかな夢は泡沫の夢に終わるのか。見てみたい」
「だから、いっておいで」
「生きてごらん。それはどうしようもない幻影かもしれない」
「それでも、それが現世を凌駕出来るなら」
「届くかもよ?」
「さぁ、さぁ。いっておいで。夢に微睡みながら、その思いを忘れずに」
嘶き。
これは、まるで。
赤い、赤い。大きな、大きな……。
「いってらっしゃい。夢幻の子となる君よ。見せておくれ、魅せておくれ」
* * *
夢を見ている。
とても柔らかな、暖かな夢を。
けれど、とても眠い。微睡みに目を開けていられない。
声がする。とても優しい声が。もっと、聞いていたいのに。
声が、聞きたいな。また……。
この夢は、とても、静かすぎるから。
* * *
清潔な雰囲気を醸し出す病院内に歩を進める音が鳴る。
美しい紅の髪を揺らした青年だ。擦れ違った者の中には感嘆の息を吐いたり、会釈をしたりする者などがいる。
彼の名はサーゼクス・ルシファー。冥界を統べる四大魔王の一人である。そんな彼が病院に足を運んだのには訳がある。
彼が足を踏み入れた一室。そこに一人の幼子が眠っている。青年と同じ紅色の髪を持つ、将来は美しく育つ可能性すら感じさせる容姿をしている。
「こんにちは、リーア。お兄ちゃんが来たよ」
慈しむように、しかしどこか遠くを見つめるようにサーゼクスはリーアと呼んだ少女の頬を撫でる。
リアス・グレモリー。これがこの幼子の名前だ。そして……“グレモリーの眠り姫”とも呼ばれている曰く付きの子である。
リアス・グレモリーが、サーゼクスにとって妹が生まれると知った時、サーゼクスは天にも昇りそうな気持ちだったのを覚えている。
悪魔は元来、出生率が低い。それ故に新たな生命を授かった時の感動は言いしれぬものだった。両親も喜んでいた。自分も舞い上がっていた。
妹が生まれたら何をしてやろう、どんな風に甘やかしてやろうか、どんな顔を自分に見せてくれるのだろうか。期待に胸が膨らみ、幸せだった。間違いなく、その時までは。
しかし幸福になる筈の未来が薄暗くなっていったのはいつからだろうか。
妹は無事に生まれた。リアスと名付けられた妹の面倒を見ようと激務の合間を縫うようにサーゼクスはリアスの時間を作ろうとした。
最初はよく寝る子だと思った。ぼんやりとした、のんびりした子なのだな、と。
我が侭も言わない、愚図らない、寝る事が多く、よく寝る子は育つものだと両親と笑い合っていた。
だが、体が成長しても自ら動く事が少ない。いや、ほぼ無いと言っても良かった。流石に異常を感じた両親が病院にリアスを連れていった時、彼等は絶望してしまった。
悪魔だけがかかる病。深い眠りに陥り、そのまま衰弱死してしまうと言う病がある。リアスはそれにかかっているのかもしれない、と診断された。
まだ生まれて間もないのに。泣き崩れる母親、ヴェネラナの姿はあまりにも痛々しい程だった。今も父が支えているものの、母の姿は日に日に窶れていくばかり。
ルシファーの名を継いだサーゼクスの妹が病にかかり、寝たきりであるという噂はどこからともなく広まり、グレモリーの眠り姫という渾名がつけられる始末。
幸福を運んでくれる筈だったこの子は災いの子だったのだろうか。サーゼクスとて思わなかった事はない。この子が普通に育ってくれていたのならば、ただ望んだのはそれだけなのにと。
ぽつり、ぽつりと。サーゼクスは自らの出来事を面白く語る。こんなにも世界は楽しいのだと、君に見せたいのだと。だから、だから目覚めておくれ、と祈るように。
悪魔が祈るなどと、と自嘲しながらもサーゼクスは祈らずにはいられなかった。
「……君がまだ見れていない世界はたくさんあるんだ、リーア。私は、お前にもっとこの世界を見て欲しいんだ」
* * *
夢を、見ていた。
私の夢。優しい誰かに包まれる夢。
夢なのに酷く実感がある。やがてそれは輪郭を帯びて、形になっていく。
形になった私を包むような暖かさ。それが実感させてくれる。
生きている。私は、私になって、生命になっていく。
夢現。輪郭を無くしていた私が、輪郭を得ていくように。
まるで私は蛹。殻の中で目覚めの時を待っているように。
時折、声がする。優しい、もっと聞きたい声がする。
段々と寂しくなっていく。声が聞こえない。一人は寂しい、寂しいよ。
輪郭がはっきりしていく。夢が覚めていくように、世界が鮮明になっていく。
あぁ、ようやく。何がようやくなのかわからぬまま、時は来たのだと言うように。
『いってきます』
何故か、その言葉が似合うような気がした。
* * *
頬を撫でていた手に、触れる感触。
サーゼクスは声を無くしていた。ただ、信じられない面持ちで見つめていた。
自分の手に重なる手。それは、頬を撫でていた幼子の小さな掌。
うっすらと瞳が開く。ずっと閉じられていて、開けている時でさえも半目で、まともに開いた所を見た事もない碧眼が現れる。
ぼんやりと、しかし確かにサーゼクスと目を合わせて。息を呑んで硬直していたサーゼクスを見て、表情を和らげる。
「……お、にい……ちゃん……」
どこか舌足らずで、今にも消え入りそうな声で。
自分を呼んでくれたのだと、ようやく実感した時、サーゼクスの瞳から涙が零れ落ちていた。
「……リーア?」
「……なぁに……?」
信じられない気持ちのまま、名を呼び、頬を撫でる。くすぐったそうに目を細め、返事をしてくるリアス。
あぁ、と声が漏れた。感極まり、叫びそうになるが、それを堪える為に噛み殺した声がそれでも零れる。
夢だろうか。これは自分が見ている都合の夢なのだろうか。しかし、この熱は本物だ。触れあった手の温もりも全部が本物だ。夢なんかじゃない。
「おはよう、リーア」
「……ん、おはよう」
サーゼクスは忘れない。この奇跡と、感動を。生涯忘れる事はしないだろう。
彼女が、リアスが最初に呼んでくれたのは自分だったのだと。
* * *
世は夢現。
ここは夢幻の泡沫。
始めよう。泡のように消えてしまうかもしれない世界の中で。
ただ、生きていく為に。生き抜く為に。
生まれ落ちて、産み堕とされた意味を探す為に。