ぼんやりと天井を眺めてみる。病院で診断を受けた日から数日、私は何をする訳でもなく部屋に引き籠もっていた。
思わず溜息が零れる。億劫な思いに駆られながらも体を起こす。最近はずっとこの調子だ。体も心も重いまま、まるで引き摺っているようだった。
「……これは参ったな」
苦笑すらも浮かばない。ぼふん、と寝心地が良いベッドに寝転がってまた天井を見上げる。
お父様に見直す機会だと言われ、こうして家での療養に専念する日々。最初こそは焦燥感に襲われた。
けど、今は。何と言えば良いんだろうか。ぽっかり穴が空いてしまったようだ。焦燥感が完全に消えた訳ではないけれど、時間の経過と共に私の中の感情は変化しているように思える。
「……確かに、うん。見直しは必要だったのかもしれない」
力なく呟く。こうして何もせずにいても怒られない、何かが迫ってくる事もない。最初は落ち着かなかったこの状態も、今はどこか落ち着きを感じる程だった。
それを冷静に整理してみれば、やっぱり私は追い詰められていたんだと思う、迫り来る現実に。
何もしなくても良いんだ、と。そう思う事に苦痛が無くなった訳じゃないけど、それが許される環境というのに浸った心は少しずつ、それこそ夢が覚めるかのようだった。
「……疲れてたんだな」
実感と共に吐き出した言葉が体と心を重くしていく。参った、という感想しか浮かばない。まだ認めたくない気持ちがどこかにあるけど、ここまで来れば認めざるを得ない。
限界を感じていた自覚はあったけど、実際に限界だったのは何もかもだったという事で。本当に成長どころの話ではなかった。自分が潰れる寸前だったのかと思えば笑う事も出来ない。
「……はぁ」
何も出来ないのは苦しいけど、自覚した以上はこうして休む必要があるのは理解させられた。思えば思う程に体が動かない。心の動きすら億劫になってくる。
眠っていたい、とさえ思ってしまう。実際、一日の半分以上を寝ていた事もある程だ。それは流石に呆然としてしまったけど、それが私の疲労を指し示しているというのならよっぽどだったんだろう。
「大丈夫だと、思ってたんだけどなぁ」
視界を遮るように手で目元を隠す。目標に向かって走って、果たして。それまでは走り続ける覚悟だったのに。今では折れてしまいそうだ。
眠りたい。別に逃げたい訳でもなく、何も考えれないから。考えたくても思考が働かない。まるで泥沼に嵌ったかのようで。
「……そういえば、最近グレートレッドとも会ってないな」
会おうと思えば会える筈だけど、会おうと思わなければグレートレッドはこっちに接触してくる事は稀だ。
「煮詰めすぎ、だったのかな」
呟いてみて、それを認めたくない気持ちと、けどそれを指し示す事実の前に言葉を失う。
煮詰めすぎ、と言われれば否定する要素はどこにもない。私の年齢も、立場も考えても今までずっと走り通しだったのだ。次から次へと起きる問題に対処して、止まる事なく走り続けてきた。
「今思えば、よく弱音も吐かずにやって来れたよね」
ごろん、と転がりながら振り返ってみる。教会関係者との交渉から始まり、領地の引き継ぎ、堕天使陣営との交渉、更には旧魔王派であるシャルバとの対峙。
指折りで数えてみて思わず辟易してしまった。自分で始めた事ではあるし、望んだ状況ではあったけども。じゃあ、疲れないかと聞かれれば別問題だ。
「……やっぱりおかしくなってたのかな」
出来るつもりだった。休みなど欲していないと思っていた。為さなければならないと思っていた。それが果たせないから焦燥感になんて襲われて。
けど、今は少し落ち着いて振り返ってみれば完全なオーバーワークだと言われても否定出来ない。休め、と言われたら仕方ない、とさえ思ってしまう。少し前までの自分は本当に気が触れていたと言われてもおかしくない。
「うん、ダメだダメだ。こんなんじゃ視野が狭まっちゃう」
ぱん、と両頬を叩いて身を起こす。落ち着いて少し状況も自分の状態も整理出来た。前のようではいけないとははっきり思っているのだから、自分に出来る事は改善あるのみだ。
「……そうは思っても、なぁ」
この暇を持て余した状況、訓練をする訳でもなく、勉強をする訳でもなく、学校に行く訳でもなく、仕事をする訳でもなく。
「……どう過ごしたら良いんだろ」
思わず呟き、途方に暮れてしまう私だった。
* * *
「……休み方がわからない?」
「う、うん……」
「……貴方という子は本当にもう……」
思い切ってお義姉様に相談してみたら、このあからさまな溜息である。ごめんなさい。お仕事中なのにも関わらず姉と妹と接するように反応をさせてしまった事に申し訳なく思う。
寝る、というのは確かに大事だけど。寝過ぎも体に良くないと思うし、何より寝れない時間をごろごろ無為に過ごすのは耐えられない。けど、だからといって訓練とか勉強するのは見つかれば何を言われるかわかったものじゃない。
そもそも今は指針となるものも見えないし。となると、どうすれば良いんだろうと本当に行き詰まってしまった。それを素直にお義姉様に話した所、このような反応を頂いた訳で。少し情けなくなってきた。
「……貴方が思い悩まずにいれるなら、と思って見逃していたツケね……」
「……ごめんなさい」
「何を謝るの」
「えと、なんか、情けなくて……」
「情けないのはこっちよ。仕方ない、なんて免罪符にするには余りにも……」
お義姉様は頭が痛い、と言った表情のまま私と目線を合わせるように姿勢を下げる。そのまま頬を両手で包まれる。撫でるように触れたまま、苦痛を堪えるような顔をするお義姉様に私も心が痛い。
「……皆、こうなるものなのかしらね」
「え?」
「……昔の事を思い出しただけよ」
「昔……?」
「私も、今の貴方みたいな時期があったのよ。それこそ、本当に昔。サーゼクスと会う前」
思わず目をぱちくりさせる。そういえば、深く聞いた事はなかったけどお義姉様の過去を私は詳しく知らない。
かつては旧魔王派に属していて、セラフォルー様と女性悪魔最強の座を争ったとか、お兄様と大恋愛の末に結ばれたとか。一応、お義姉様とお兄様が題材になった演劇とかも見たことはあったけど、本人の口から聞いた事はなかった。
「ここに来て、私も教えて貰ったのよ。体を、心を休めるという事はどうやるのか。どうして必要なのか、って。サーゼクスやお義父様、お義母様にね」
「お義姉様も……?」
「……そうね。折角だから、ジオティクス様に聞いてみると良いわ。あまり褒められた事ではないけれど、そうね。貴方には必要なのかもね」
「? その、お義姉様。よく意味がわからないのですが……」
「貴方にはこう言えばわかるかしらね? サーゼクスのサボリ癖はね、ジオティクス様譲りよ」
……え?
「嘘」
「嘘じゃないわよ」
「だって、私の知ってるお父様はお兄様みたいにサボったりしたりなんか……」
「だったら聞いてみれば良いわ? 丁度良いから執務の休憩がてらに差し入れも持っていてあげて頂戴、リアス」
そう言ってテキパキ仕事に戻るお義姉様を見て、私は口を開けたまま呆然とするしか出来なかった。
あのお父様が? あのお兄様のサボリ癖がお父様譲り? まったく繋がらないイメージ像に私はただ困惑する事しか出来なかった。
* * *
「ハッハッハッ! そうか、グレイフィアがそんな事を言ってたのか!」
お父様の執務室に差し入れのお菓子とお茶を持っていって、先程の話をしたらお父様はさも愉快そうに笑い出した。私はそんなお父様に目を丸くさせるしか出来ない。
「本当なんですか? お兄様のサボリ癖がお父様譲りって……」
「あぁ、そうだな。その通りだと答えよう」
「嘘……」
信じられず思わず呟く。お父様はマトモだってずっと信じてたのに……!
「そうか、知られてしまっては仕方ないな。いや、隠していた訳ではないがな」
「本当なんですか?」
「なんだったらヴェネラナに確認を取ってもいいぞ?」
「……そんな」
私の中のマトモなお父様像が崩れていく。そんな、まさかグレモリーの血はちゃらんぽらんの血筋なのでは、と脳裏を過ぎって私は頭を抱えてしまう。
「まぁ、私とサーゼクスは性格もあるが、アレのはもうちょっと
「
「サーゼクスにも、今のお前と似たような時期があったと言うと信じるか?」
「えぇっ!? お、お兄様がですか!?」
あ、あの真面目な時は真面目だけど、巫山戯る時は全力で巫山戯まくってるお兄様が今の私みたいになってた!?
思わぬ事を聞いた私は目が点になる。その様子を見ていたお父様はどこか遠くを見つめるような視線をしつつ、お茶を手にとって口に運ぶ。
「リーア、考えてもみなさい」
「え?」
「サーゼクスも、お前に劣らぬ程の特異な子だったんだよ。“超越者”として生まれ落ちたあの子はね」
「……ぁ」
……そうだ。全然意識した事なかったけど、お兄様って生まれた時からの“超越者”だったんだ。
バアルの滅びの力が形になって生まれたとされるお兄様。私もグレートレッドの影響を受けた変異体だけど、お兄様だって負けず劣らずの異端の悪魔だ。
「あの子もお前とは違う形だが、なかなか難しい子だった。あれだけ優しい心を持ちながら、触れる多くを滅ぼしてしまう力に恵まれてしまった」
「……お兄様の子供時代、ですか」
「今はよく笑うが、昔はどこか儚げだったよ。慈しみの心を持ちながら無慈悲な滅びをもたらす自分を恥じているようにも、恐れているようにも見えた」
「……そう、だったんですか?」
「今では想像も出来ないだろう?」
「……まったく」
「自らの力に惑い、為すべき事を探り、その度に壁にぶつかって苦しむあの子を私とヴェネラナは見てきたよ」
懐かしそうに語るお父様に私は言葉を無くす事しか出来なかった。
お兄様の過去。そんな事、聞いた事もなかったけど、そんな過去があったなんて……。
言われればあって然るべき、と納得が出来るのに。言われるまで想像すらも出来なかった。それだけお兄様の存在は私にとって眩いものだったから。
私の反応を伺いつつ、お父様はお茶で喉を潤した後、思い出し笑いをするように表情を笑みに変えて続ける。
「だから私はサーゼクスにサボる事を教えた。それを悪い事と教えながらね」
「悪い事と教えながら……?」
「悪い事はいけない事だ。だが、いけない事をしている、という意識はね。なかなか癖になるものでね」
「……お父様」
「ははは。だがね、そうでもしないと息も抜けなかったんだよ。サーゼクスはね」
「……息を抜けなかった?」
「ふとした拍子で、力が暴走したら無差別に滅ぼしてしまうからね。サーゼクスが己の力をコントロール出来るようになるまで、あいつは本当に努力を続けたんだよ。何も傷つけずに、何も滅ぼさずにいる為に」
それは、考えた事もなかったけど。一体どれだけの苦痛と恐怖だったんだろう。
滅びの力の化身であるお兄様の子供の頃、まだ力の制御が完璧じゃない時に、あの心優しいお兄様はどれだけ苦心していたんだろう。
それを思うだけで胸が苦しい。同時に共感してしまう。状況や、力は違うけど私の力も、私の知っている知識も同じぐらい危険なんだから。
「自分の力が制御出来るようになって、アジュカくんと出会い、そしてセラフォルーちゃんやファルビウムくんと出会って、グレイフィアに恋をして。今のサーゼクスはそうした積み重ねの果て、皆に認められ、畏怖される魔王となった。それは決して平坦な道のりではなかったよ」
「……はい。そうだと、思います」
「それとサボリがどう関係するか、と言うとね。アレもアレで抱え込み過ぎるから、私がサボリを教えて振り回してやった事もあってな」
「だからお父様譲りって言うんですね……」
私の呟きに、お父様は嬉しそうな笑みを浮かべる。それはどこか悪戯が成功したようなお兄様のような茶目っ気のある笑顔で。
「私とサーゼクスは性格が似てる、と言われるからね。二人でよくサボってヴェネラナに怒られたものさ。だが、その怒ってくれる、というのもポイントでね」
「……ポイント?」
「そうでもしないと、自分が許せないのさ。見てくれているのだと、受け止めて貰っているのだと。悪いことをすれば怒られて、良い事をすれば褒められる。当たり前のようで、当たり前にこなす事が難しいサーゼクスにとって必要な事だった」
しみじみと語るお父様に私は息を呑む。それは、だって、まるで……。
「お前とよく似ているよ。サーゼクスは」
「……そんな」
「だから尚更、サーゼクスは放っておけないんだろう。お前を信じているんだろう。かつて自分がそうだったように、お前も乗り越えていけると」
似ている。私と、お兄様が。
その言葉にどんな感情を覚えているのか、どんな顔をしているのか私自身がわからなくなってしまった。
力に振り回されて、誰かを傷つけるのが嫌で、頑張って、頑張って……。
お兄様もそうだった。その事実がただ衝撃的で呆けてしまう。
「リーア」
「……ぁ、は、はい」
「無駄は嫌いかい?」
「……え?」
突然、まったく別の質問を投げかけられて戸惑った声を出してしまう。
「無駄な事をしているのは、お前にとって苦痛かい?」
「……無駄な事」
「今のように、何も為せず、成果を出せない、結果を求められないのは嫌いか?」
「…………嫌、です」
「そうか」
私の返答にお父様は頷く。確かに嫌だ。何も為せないのは嫌だ。ここにいる意味を自分に見いだせないのは酷い苦痛だ。だから……。
「無駄は悪い事なのか? リーア」
「え?」
「確かに仕事で無駄が少ない方が良いのは当然だ。何事もスマートに。それは誰もが求める理想だろう。だが、一生において無駄があるのは私はそれほど悪だと思わない」
「……何を仰りたいのか、その」
「もう少し肩の力を抜いて、期待して待ってみても良いんじゃないかい? と、言いたいのさ。それこそ、自分の問題を誰かが解決してくれるんじゃないか、と思ってみても」
「……それは、でも」
「他力本願?」
「それも、ありますけど」
「他人が迷惑するかい?」
「……それも、あります」
そうか、と私の返答を聞いてお父様が呟きを零す。
それから少し沈黙の時間が流れる。緊張に耐えかねて私はお茶に手を伸ばす。
「ふむ。リーア、少し付き合ってくれるかい?」
「え?」
「ちょっと無駄な技を披露してあげよう」
そう言ってウィンクをするお父様に、私はただ首を傾げる事しか出来なかった。
* * *
そうしてお父様に連れられるままにやってきたのは厨房だった。お父様を見かけた料理人達が驚いたような顔をしていたけれども、お父様がキッチンを貸して欲しいと言うと何やら納得したように厨房の一角を空けてくれた。
それからお父様は手慣れた手付きで料理を始めた。それに私はただ唖然として目を奪われる。だって、貴族でありグレモリーの当主であるお父様が恐らく菓子であろうものを作り始めているのだから。なんというか、ギャップが凄い。
「昔は道楽で美食を追求した事もあってね」
「そう、なんですか?」
「悪魔の生は長いからね。当主としてはまったく意味の為さないものだが……味見してみるかい?」
お父様に差し出された生地に私は促されるままに手に取り、口に含む。
口いっぱいに広がる甘みと旨みに愕然とする。以前、自分でも料理をした事があったけどまったく比べものにならない。
「美味しい、です」
「それは良かった。私の腕もまだまだ鈍ってはいないという事か。とはいえ、本職には劣るがね」
「でも、凄い、です」
「だが、先程も言ったようにこの料理の腕なんてものはグレモリー当主としては不要なものだ。無駄、とも言えるだろうな」
「……お父様、意地悪ですよ。言いたい事はなんとなくわかってますから。無駄だから悪い、なんて訳じゃないでしょう?」
少し眉を寄せて私はお父様を睨み付ける。まったくわざとらしい。私の視線を受けたお父様が悪戯が成功したように笑みを浮かべて、私は肩を落とす。
確かに無駄は嫌だ。出来れば無駄を無くして、次に進みたい。無駄となればその分だけ力を使ってしまうから。私にはそんな余裕なんてなかったから。
「無駄は悪い事ではないが、無駄をそぎ落とし続けるのは苦行にも等しい」
「私に必要なのは、無駄を無駄とする事じゃなくて、無駄を許容出来る余裕を持て、って事ですか?」
「さぁて? それはお前の考え方次第だ。私はたまにこうして料理にふけってみたくもなれば、しかしこれを当主としては活かす事はないだろう道楽だと思っている。しかし、こうして娘を驚かせてやる隠し芸ぐらいには出来る。物事の価値は一つじゃなく、立場や状況によって変わってしまう。何が無駄で、何が有用なのか。それは水物という訳だよ、リーア」
布巾で手を拭った後、お父様は私の頭を撫でた。まだ手に付いた甘い香りがふわりと届き、頭を撫でられる感触と相まって目を細めてしまう。
物事の価値は一つじゃない。無駄なものを無駄とするのは簡単で、けどそれだけだと寂しくないかと。きっと、そう言いたかったんだろうと思う。
言われればそうだ。お兄様の巫山戯た悪癖も、魔王としては不要な一面だろう。でも、それでも良いと私は思ってるし、お兄様がお兄様である為に必要だと言うのなら無駄なんて思わない。
こうした気付きが出来ない程、私は効率を求めて、結果を求めて、そうして来たのだと思うと少し気が沈んだ。
「……余裕がなかったんですね、私」
「そうだね」
「ありがとうございます、お父様。私を引き留めてくれて。じゃないと、私……」
「何、手間がかかるのは昔から変わらないよ。お前も、サーゼクスもね」
そうして微笑むお父様に、私は今まで一番お父様に尊敬を覚えた。
本当に見てくれて、必要なものを指し示してくれる。親なんだと思い知らされる。それがくすぐったい程に嬉しくて、少し泣きそうになる。
「リーアは子供の頃のサーゼクスに似ているが、実はサーゼクスや私よりもヴェネラナに似ているな」
「え?」
「今度、ゆっくり話してみると良い。きっとお前に足りないもの、お前に必要なもの、それはヴェネラナが見出してくれるだろう。私の自慢の妻で、お前の母親なのだから」
私と、お母様が似てる? 一体、どういう所が似てるんだろう。
いまいちパッとした共通点が見出せずに私は思い悩む。難しい顔で唸っている私にお父様が声を出して笑う。それに気恥ずかしい思いをさせられながらも、良い機会かな、と思う。
お母様とも話してみよう。私に必要なものを見出してくれるというのなら、私はそれが知りたいと思うから。