黒歌の暴走から数日が経過して。それから黒歌の姿は基本的に見かけていない。時たま見かけるのは、お義姉様にこってりと絞られてスパルタ教育を施されている光景だった。その光景には思わず既視感を覚えてしまった。
それはいつかの、力を求めて足掻いて迷っていた私を思い出させるには充分なものだったから。あぁ、本当に懐かしい気持ちになった。思わず黒歌に手を合わせてしまう程に。
もしかしたら私と黒歌は結構似た者同士だったのかもしれない。黒歌が私を嫌いだと言ったのは、それこそ同族嫌悪があったのかもしれない。なんて考えつつ、私はお茶を口に含んで対面に座る相手を眺める。
私の対面に座っているのは白音だ。どこかしゅんとした様子で、落ち込んだ姿を見せている。無理もないと思う。黒歌の暴走から、白音と会う事もないまま時間が過ぎているからだ。
その分、私が一緒にいるようには心がけているものの、心細くはあると思う。何せずっと黒歌と二人だったのだ。それがいきなり引き離されたともなれば不安になるのも当然だ。
白音には黒歌が私を襲った事を話してある。突然の事に狼狽して、こっちはこっちで半狂乱になりかけたけれどもすぐに落ち着いてくれた。無理矢理落ち着かせたとも言うけれど、そこは割愛。
それからはこうして一緒に行動するようにしているけれども、黒歌の凶行にはまだ整理が追いついてないのだと思う。ただ白音には黒歌の苦しみを理解してあげる事は無理だろう。白音は護られ続けてきたものだから、庇護の手を受け入れる事が出来ない黒歌を理解してあげる事はどうしたって難しい。
「心配? 黒歌の事」
「……はい」
この問いかけも何度目になるか。どこか気落ちしたまま答える白音にどうかとも思う。そろそろ間も空いたし、込み入った話をしてもいいかもしれない。
「黒歌がどうして私を襲ったのか、わからない?」
私の問いかけに白音は少し驚いたように顔を上げて、少し間を空けて頷いてみせる。
「……うーん、そうね。黒歌は、そう、氷みたいになってたのよ」
「氷、ですか?」
「うん、氷。自分達で生きて行くには黒歌は強くならなきゃいけなかった。でも頼れる人はいない。だから必要な優しさだけを残して、それ以外の心は凍てつかせてしまった。そうしないと弱くなってしまうから。そこに私は熱湯をかけたようなものね。氷ってね、熱湯をかけると割れてしまう事があるの。何が言いたいのかと言うと、黒歌の心は私が優しくしたせいで壊れかけた、バランスを崩してしまったのね」
私の説明を聞いた白音は驚いたように目を見開いて、今にも泣き出しそうな程に顔を歪めてしまった。それに少し慌てたように、私は咳払いをしながら言葉を続けた。
「悪い事ではないのよ。割れた、という事は壊れたって事じゃなくて、押し込めていた本心が顔を出したって事だから。私が怖い、優しさが怖い、今が怖いんだって。白音を守れなくなっちゃう事を黒歌は恐れていたわ」
「……じゃあ、私が悪いんですか?」
涙声で、今にも涙を零してしまいそうなぐらいに白音は目にいっぱい涙を溜めて呟く。
うーん、そうとも言えるし、そうとは言ってはいけない。これはとてもデリケートな問題だ。二人の過ごしていた環境はあまりにも悪すぎるし、だからといってここでの生活が二人に本当に良かったと言えば、良かったと言ってはあげたいのだけど。それを最後に判断するのは二人次第。
私に出来るのは、出来るだけ二人が多くの事を学び、選び取れるようになる事。そのつもりだった。それが自分に出来る事だと思ったけれども、色々と考えを改める事にした。
「そうね。そうとも言えるわ。白音、貴方がもしも黒歌と同じぐらいに強かったらこんな事にはならなかったかもしれないわ。でも、だからこそ黒歌が強くなって、ここに辿り着けたという事も結果として悪いことだったとは言えないの。最後に貴方達がどう思うか、それで全部決まると私は思うの」
「……最後に、自分がどう思うか」
「うん。だから白音はいっぱい考えて、本当は何が正しかったのか考えないといけない。だって貴方は生きてるんだもの、黒歌がその身と心を張ってまで護ったんだから。貴方はその分だけ、ちゃんと自分の幸せを選ばなきゃいけない。私の言っている事は、わかる?」
「……なんとか」
小さく頷く白音に私も頷く。ただ、考えて選べ、と言ってもやはり白音にも難しいとは思う。決して頭の悪い子ではないけれど、だからといって知識が無かったらそれを判断する事は出来ないのだから。
だから、これから私の言う事は卑怯な事だと思う。選択肢を与えなければならないと思いながらも、この数日考えていた事があった。黒歌から聞いた情報を判断するに、これが一番彼女たちの為になると思ったからこそ。
「白音」
「……はい」
「悪魔になってみる気はない?」
「え?」
私の問いかけに驚いたように目を瞬かせる白音。それに私は持ちだしてきていた『
「これはね、『悪魔の駒』と呼ばれるもの。昔、悪魔が天使や堕天使と戦争をしていた事は知っているかしら?」
「いえ……」
「そう。まぁ、戦争があったのよ。その戦争で多くの悪魔が死んでしまったわ。だから悪魔は現在、なんとかその数を増やそうと色々と考えているの。この『悪魔の駒』を使えば、悪魔になる代わりに力を手に入れる事が出来るわ」
ごくり、と白音が息を呑むのがわかった。彼女が特に反応したのは、力が手に入るという点だ。今はどうしてもそこに意識が向いてしまうのは仕方ないだろう、と思いつつも話を進める。
「これを使えば貴方を私の眷属にする事が出来るわ。その代わり、貴方には私に仕えて貰う事になる」
「……それを使えば、力が手に入るんですか?」
「えぇ。その代わり、貴方の一生を私が貰い受ける事になるわ。眷属になるという事はそういう事。とは言っても、やりたい事を束縛するつもりはないわ。私が困った時があれば私を助けて欲しい、以前もそんな話を確かにしたわね」
「はい、助けて貰った時に……」
「勿論、私の眷属になる方法以外で私を助ける事だって出来る。これは貴方に示す選択肢の一つね。多分、貴方が望むものかもしれないと思って話しておいたけど」
「今じゃダメなんですか?」
「ダメね。今の貴方じゃ、私に相応しくないもの」
ダメ、と言われた時に白音は目に見えて落ち込んでしまった。ただ、反応は私の考えていた反応の中では良い部類だ。内心、安堵の息を零しつつも私は話を続ける。
敢えて相応しくないという言い方をしたのは、それが一番良いと思っても、悩み、考えた上でそう思って欲しいからと思うからだ。思い切りが足りない、と言われればそうかもしれないけれど、これだけは絶対に前置きしないといけないと思っている。
「そうね。白音が望むなら、私の秘書になってみる?」
「え?」
「これから私の仕事とかそういうのを手伝える勉強をしてみたい? それで色んな事を勉強して、貴方は色んな事を選べる事を知って、その上で私の眷属になりたいと言うのなら、改めて貴方を私の眷属として迎え入れるわ。それまでの予行演習といった所ね。秘書として立派にお勤め出来たら、それなら私からも改めて貴方を眷属に勧誘したい、って思うかもしれないし。どうかしら?」
「秘書……お仕事を手伝う、って事ですよね? 私、やりたいです! 色んな事を勉強して、貴方に認められるようになりたいです!!」
がたんと、思わず席を立ってしまう程に意欲を見せて白音は告げる。その目には強い意志の光が見える。黒歌と離れてから数日だったけれども、白音なりに思う事があったんだろう。
そう、選択肢を選べるという事を知らないというのなら、ただ与えられても選べないというのなら。躊躇わずに私の方へと寄ってきて貰う、と。
彼女たちのこれからをねじ曲げてしまう事になるかもしれないし、それが絶対に幸せになると保証は出来ないけれど。
でも、そんなのはわからないんだ。未来は決まってない。その未来を選び取っていくのは各々の選択によるものであるべきだ。でも、そもそも選択肢を知らない、選べないでは話にならない。
前に進む力と知恵を。そして、選び取る事の出来る意志と夢を与える事。それが私にとって都合の良いものだったとしても、私は彼女達が好きなんだ。だから一緒の夢が見たい。そんな我が儘を押し通す。誰の為とは言わずに、自分の為に。
「よろしい。じゃあ、今度から私の事は様付けで呼びなさい。そうね、リアス様でも、リーア様でもどちらでも良いわ。今日から私が正式に貴方のご主人様。よろしく頼むわね、白音」
「はい! わかりました、えっと……リーア様! 私、頑張ります!!」
ぴん、と耳を立てて元気よく告げる白音の様子に私は微笑ましくなって微笑む。不安は拭う事は出来ないけれども、でも、それでも。前に進む事を恐れるよりはずっとマシだと。今ならそう思う事が出来るから。
* * *
「……という訳で、白音には私の秘書として働いて貰う事になったから。……ところで、大丈夫?」
「大丈夫に見えるのであれば、ご主人様の目は節穴なのでは? と心配になってしまいます。医者にかかるのがよろしいのではと思います」
「にゃんは?」
「思いますにゃん」
ひくっ、と頬を引きつらせた黒歌に思わず噴き出しそうになる。メイド服を身に纏って、しかし疲労困憊と言った様子の黒歌は笑みを浮かべているものの、その諸作はまだぎこちない。
それでも最低限の動作を身につけているのは流石というか、お義姉様の恐るべき教育の成果を思い知らされる。多分、私にやった時よりも苛烈にやったんだろうと思う。まぁ、躾けてって言ったのは私だし、これでも愛されてるとは思う。私に手を上げた黒歌に手加減をする理由はなかったんだろう。
公私混同はしないとは言っても、私の立場はお嬢様で、プライベートでは義妹な訳で。その分の緩みが無かった分、黒歌への指導と躾の厳しさは私の時に比べれば軽々と越えるのだろう。正直、身が震えるのだけど。
「白音にはちゃんと雇用相談したけど、貴方には選択肢はないからね。黒歌。貴方には私のメイドになって貰うから、そのつもりで」
「ご主人様の寛大な処置に感謝します……にゃん」
「もうちょっと自然ににゃん、って言えるようになるのが課題ね。頑張ってね? 黒歌」
「お言葉ですが、地獄に落ちろにゃん」
ひくひくと口の端を引きつらせながら、震えながら満面の笑顔で黒歌は言う。
あ、ダメ。意外とこの口調面白すぎてツボに嵌まりそう。ぷるぷると震える黒歌が可愛くて、思わず抱き締めたくなってしまう。これでも私より年上の筈なのよねぇ。あ、ちょっとこう、いけない感じになってしまいそうだわ。
そんな気持ちを振り払うように咳払いをして、黒歌を真っ直ぐに見つめる。私の咳払いに、私の態度の変化を感じたのか。黒歌も居住まいを正して私を見つめる。
「はっきり言うわ。黒歌、貴方もいつか私の眷属になって欲しいと思ってる。あ、ここからは個人として話してもらっていいわ」
「……わかった」
「あ、にゃんは継続で」
「そっちは継続なの!?」
「冗談よ。まぁ、肩の力を抜いて聞いて頂戴。はっきり言ってわかってるんでしょ? 私についた方が貴方達の今後は絶対に明るいわよ。何せ仙術のデメリットを私が打ち消せる以上、貴方達が選ぶ事の出来る選択肢の中で優良物件な自信はあるわ」
「……それは、否定しないわ」
そう。黒歌がこれからどう生きて行くにせよ、仙術と向き合い続けなければならない。その中で、私が仙術のデメリットを帳消しに出来るというのは彼女たちにとっても大きなアドバンテージになる。
それは仙術を扱う素養がある白音にとっても同じ事だ。ここから独立して行くよりも、私の下で、私に仕えた方が安定は取れるだろう。その自負はあるし、黒歌の選べる選択肢の中では何よりの有力候補だと思っている。
そんな私の様子を伺っていた黒歌が、ぽつりと零すように呟く。
「命令はしないんだね」
「して欲しいなら、幾らでもそうするけどね。眷属にするって言うなら私に逆らおうって芽は一切潰させて貰うわよ。白音には甘くするけど、黒歌には厳しくするつもりでいくわ。貴方もその方が良いでしょう? 前よりも生き生きしてるように見えるわよ?」
「……この悪魔め」
怒っているのだろう、だけどその表情は晴れやかで、緩んだ印象を受ける表情だった。
黒歌には、多少の束縛を与えた方が良いのだろう。愛される事にどうしても不器用なこの子にはそれぐらいが丁度良いのだと、そう思えるようになった。それはなんだか私に似ているようで、口元が緩む。
お父様に言われた事を思い出す。悪い事をすれば叱られる、それは当然の事だ。それを叱り、窘めるのは年長者の役目。そして、家族の役割でもあると思っている。それに救われた私だからこそ。
黒歌の過ちを正していくには私だけじゃ足りない。お義姉様の手を借りなければいけないし、今後はお父様やお母様にも黒歌の立場について色々と意見を貰った方が良いのかもしれない。だから、それはまるで……。
「黒歌」
「……何よ」
「私の眷属になったら、貴方は私の家族の一員になるのも同然よ。それは覚えておいて頂戴ね。もしそうなったら、私は王として、眷属を統べる者として、そして何より貴方の“家族”として、貴方の為に出来る事をしてあげたいわ」
真っ直ぐに黒歌の目を見つめて、私は宣言するように言う。私の言葉を受けた黒歌がぽかん、と口を開けたけれども。どこか諦めたように溜息を吐いて、天井を仰ぐように視線を向けた。
「……本当、悪魔なのに随分と甘いんだね。ご主人様は」
「グレモリーの血筋って、皆そうらしいわよ?」
そう、と。何でも無いような反応をしながら黒歌は視線を合わせようとしなかった。ただ、その声は以前よりも気の張ったものではない事を悟って、私も自然と笑みが浮かんだ。
黒歌には、ほぼ間違いなく眷属になって貰う。その方が彼女の為になるのだと思う。まぁ、白音と同じようにすぐにって訳ではないけれども。もしかしたら、また違う道が見つかるかもしれない。急ぐ事はない、今は少なくともまだ。だから黒歌には考えて欲しい。
「将来の夢」
「……は? 突然、何よ?」
「将来の夢、ちゃんと持ちなさいよ。ちゃんと自分が幸せになれるように、ね」
「いちいちお節介なんだよ、ご主人様はさ。……でも、その……」
「なに?」
「………………ぁー……その。……ありがと」
「ふふ、どう致しまして。それじゃあお茶を煎れて貰えるかしら? メイドさん?」
「……畏まりました、ご主人様」
「にゃん」
「畏まりましたにゃん!!」
願わずにはいられない。どうか、この光景が続きますようにと。この瞬間に私が感じている幸せが、黒歌にとっても幸せに思ってくれる事を。そこには白音がいて、イリナ達もいて。皆で楽しくお茶会なんかして。
そんな穏やかで、騒ぎが絶えず。皆が前を向いて、明るく笑っていられるような世界を。どうか、と。
* * *
黒歌はよろめきそうな体を引き摺るようにして、久しぶりとなった自分に宛がわれた部屋へと戻ってきた。今の今までリアスとの休憩時間以外はグレイフィアにみっちりとメイドとしての教育を施されていたのだ。
あれはスパルタなんてものじゃない、虐待にゃん。そこまで思い、そして思考にまで語尾がつき始めている自分に気付いて項垂れそうになる。しかし、すぐにどうでも良くなって部屋へと戻る為に歩を進める。
そういえば数日ほど、白音と顔を合わせていなかったと黒歌は思う。前であれば白音が心配でそれで思考がいっぱいになっていただろうけども、そんな余裕がまず無かったし、……それに、今は、と。その口元を緩ませた。
「白音、ただいま」
黒歌が部屋の扉を開けて中に入ると、机に向かって何か書き取りをしている白音の姿を見た。白音は黒歌の声を聞くと、すぐに顔を上げて姉の顔を見つめる。
「……お帰りなさい、お姉様」
ふんわりと笑みを浮かべて迎えてくれた白音の様子に黒歌は目を瞬かせる。落ち着きを見せるようになったと言うべきか、なんだか安定したように見える姿に一瞬戸惑う。
「メイド服、似合ってますよ。可愛いです」
「やめてよー。今後は暫くこの服なんだけどさ……」
「メイドになるってリーア様から聞きましたよ」
「様?」
「はい。リーア様が秘書として雇ってくれるって」
「……秘書、ね」
そっか、と黒歌は呟く。自分が与え、変えられたようにリアスは白音にも役割を与えたのだろう、と。机に向かって作業をしていたのは、どうやら文字の勉強をしていたようだ。それを認識して、黒歌は目の奧がじんわりと熱くなるのを感じた。
そのまま白音へと歩み寄り、白音を包み込むように抱き締める。突然の姉の抱擁に少し驚き、戸惑いながらも白音は姉の背を撫でる。いつもは優しく包んでくれた姉の抱擁が、今までの抱擁とは違うと直感的に察したから。
「白音、あったかいね。ここは、あったかいね」
「……はい」
「ごめんね、勝手な事して。全部、台無しにするかもしれなくて。本当にごめん。情けないお姉ちゃんでごめんね。私、私ね……」
「もう、良いんです。お姉様、わかってますから。わかってますから……」
体と声を震わせて、白音に縋るようにして抱き締める力を強める黒歌を白音は静かに受け入れ、その背を撫でてあげる。かつて姉にそうして貰ったように、今度は自分がそうしてあげたいと思ったから。
リアスに言われた事が脳裏を過る白音は、確かにその通りだったんだなと理解する。姉は強くなる為に心を閉ざそうとして、それ故にこの温もりを恐れていたのだと。だからこそぎゅっと抱き締めた。強く、強く離さないように。
「お姉様。私、リーア様の眷属になりたいの」
「……決めたの?」
「リーア様は選んで良いって言いました。仙術の事も、リーア様がもたらしてくれる恩恵の事も教えてくれた上で。私にだってそれがどんなに破格の条件かわかります。その上で選んで欲しい、って。考えて欲しい、って。でも、考えた上で思ったんです」
黒歌の抱擁から逃れるようにして、白音は黒歌と向かい合うようにして視線を合わせる。
「選んで良いんだと。今まで私達に出来なかった事をリーア様は与えてくれました。自由にして良いんだと。それを、わかったから。私は自分の意志でここにいる事を選びたいんです」
「白音……」
「私は、選びます。お姉様は……だからちゃんと罰を受けてください。メイド、頑張って下さい。私も、頑張るから。もうお姉様にだけ頑張らせないから。お給金だって出ます。もう、護られるだけじゃなくなるから」
だから、と。一呼吸を置いて、黒歌の手をぎゅっと白音は握る。
「もう、どこにも行かないで下さい。ここで一緒に生きましょう、お姉様。ここはお姉様にとってまだ怖い場所かもしれないのだとしても。あの差し出された手の温もりは、お姉様と同じぐらいに暖かかった。だから、裏切っちゃダメなんです。同じものです、私がお姉様から貰ってきたものと。だから、良いんです」
良いんです、と。最後に伝えようとした言葉は涙声で震えていた。
そんな必死に言葉を伝えようとする白音を、黒歌はもう一度抱き締める。今度は縋るようにではなく、身を寄せ合うようにして。
こうして、どれだけの寒さを二人で乗り切ってきただろうか。そんな記憶が過る。けれど、記憶の違うのはこの場所は暖かくて、寒さを感じる事も、餓えを感じる事もなくて。
不信はまだ残ってる。それでも、少しずつ自分の心が解れているのを黒歌は感じていた。それは雪解けのように、凍てついた心が温もりを取り戻していくかのようで。閉じこめていた妹へと向けていた愛情が、他者にも。そして何より、自分へと。
「幸せになっていいって、言うんだ。リーアはさ」
「……はい」
「幸せって、わかんないよ。白音。今が、幸せなのだと思っても、まだわからない。だから怖い。怖いから、逃げ出したくなって、壊したくなって、暴れたくなるんだ」
「……うん」
「それでも、受け取って良いのかな……?」
「受け取ってください。少しずつで良いんです。少しずつで良いですから……」
ぽろぽろと涙を流しながら白音も黒歌を抱き締める。これが姉の受けてきた傷だと。ずっとその姿を見てきた。でも触れるような事はしなかった。それを知った所で、自分にはどうする事も出来なかったから。
でも、今は違う。しっかりと抱き締めて白音は黒歌を繋ぎ止める。これからが私達にはあるから。それを選ぶ自由を手にしたのだと。そう何度でも伝える為に。
「……本当に、あったかいねぇ」
「……はい」
身を寄せ合って、猫の姉妹は互いに涙を零す。確かにその胸に火は灯ったのだ。未来という闇を照らし、進んでいく為の灯火を。その実感を姉妹で分かち合うように。