――これは、かわいそうな堕天使さんの一日である。
* * *
朝6時半。アラームの音と共に目を覚ます。騒がしいレトロな、聞き続けていれば不快になる事間違いなしの時計。仕事疲れで妙なテンションのまま、この時計を購入したのは正直失敗だった。
しかし、目は覚まさなければならない。その意味合いで言えば、この喧しい時計はしっかりと仕事をしてくれている。そしてその強度も申し分ない。
壊れろ、と言わんばかりに時計に手を叩き付けて起き上がる。時計は壊れる事はない。いっそ壊れれば買い換えも考えられるというのに、しっかりと頑丈だ。舌打ちする気力もないまま、レイナーレは身を起こす。
その様はまるで幽鬼の如く。ぼさぼさにした黒髪、死んだ魚のように目に光は無く、布団から這い出て、暫くベッドの上でぼんやりとする。10分ほどの時間を置いて、のろのろとベッドから起き上がって、衣類やビール缶が転がっている部屋を進む。
「……あ、賞味期限」
朝の目覚めの為の牛乳を飲もうとして、賞味期限はどうだったかと疑問が過る。期限が切れていたら捨てなきゃ、と冷蔵庫の扉を開く。
そこには開封していない牛乳パックが一本。メモ書きが張られていて、レイナーレはそのメモを手に取る。
『レイナーレさんへ
牛乳の賞味期限が過ぎてたので新しいのを買いました。
お代は結構ですので、ゆっくり休んでください。
白音より』
そこに書かれていたメモは知り合いの悪魔の名前が記されていた。あぁ、またこうして世話をされている、と自分を嘲笑うように笑みを浮かべる。
悪魔に世話をされている堕天使って何なのよ。本来は敵対勢力で、相容れない筈の相手に助けられているという事実があまりにもおかしかった。
しかし、その敵対種族である自分達がこうして同じ街にいて、こうして付き合いが続いている事は奇妙な感覚だ。それもこれもあの紅髪の悪魔の成し遂げた事だと思うと自嘲の笑みが苦笑に変わる。
リアス・グレモリー。現在の悪魔を統べる魔王の妹、そして尋常ならざる悪魔にして和平を推し進めようとする変わり者。しかし、実際にその理想が形になりつつある現状を思えば、ただの変わり者とも言えない。それに比べて、自分はどうだろうか? と。
「……やめやめ」
スイッチを切り替える為に、牛乳パックの口を開いて、コップに移す事もなく直接口をつける。十分に飲めば、口を閉じて冷蔵庫に仕舞って扉を閉める。
床に転がっているシャツや下着などを拾い上げて、籠に放り込む。そのまま畳む事無くハンガーにかけてあったシャツを手に取り、身に纏う。
「……あぁ、もう始めないと」
時刻は7時を告げている。そろそろ日々の仕事を始めないと終わらない。
洗面台へと向かって、冷たい水を両手に掬い取って顔に当てる。ひんやりとした水が一気に意識を覚醒させていく。鏡に映り込んだ自分の顔は、根暗で陰気な女そのものだった。
唾を吐きかけてやりたい気持ちになりながらも、レイナーレは鏡から目を逸らして自室のデスクへと向かう。そこにはパソコンが設置されており、それをいつものように起動する。
スリープ状態から覚めたパソコン、メールボックスを見て新規メールが来ていないか確認。そして、届いている新しいメールを見て顔を歪める。
「……あの顎髭、また面倒事を」
かつては尊敬していた上司。しかし、今となっては自分に厄介事を押し付けてくる中年の顎髭だ。組織のトップを下位の堕天使が顎髭など呼んでいれば、周りから何を言われるかわかったものではないが知った事じゃない。殺すなら殺してくれとさえ思う。
こうして、レイナーレの憂鬱な一日は始まりを告げるのであった。
* * *
レイナーレの午前は神器の研究書類を纏める事から始まる。レイナーレが観察を担当しているのは『
夜に何も異常が無ければ、所有者である一誠からデータを取って帰り、朝にデータを纏めて
前回送信分の疑問点への解答と並行して今回の送信分のデータを纏め終わったのが昼近く。アザゼルが要求する神器の研究データは緻密で、纏めるのに時間がかかる上、実際に携わる者としての意見を求められるのだ。
これが不十分であれば上からの要求が増える事を把握しているレイナーレはとにかくこれでもか! と呪詛を書き連ねるかの如く、細かく内容を記載していく。最早やけくそとも言わんばかりに纏めたデータを送信して、椅子の背もたれに背を預ける。
「……おなかすいた」
しぱしぱと渇きを訴える目に眼精疲労に効く目薬を差す。目薬がじんわりと目に広がっていく感触に体の力を抜いて緊張解すと、体が空腹を訴えた。
冷蔵庫の中身は無ければ自炊する気も起きない。外に出ようにも着替えるのも面倒。それでもお腹は空いている。暫く無気力な状態で椅子にぐったりとしていたレイナーレだが、意を決したように椅子から立ち上がって席を立つ。
「……蕎麦でいいわ、もう」
財布を片手に外へと出ながら、レイナーレは自分に言い聞かせるように近場の食堂へと駆け込むのだった。
* * *
携わっている仕事が仕事なだけにレイナーレの懐は温かい。しかし、使う時間はない。いっその事、昼からステーキなど豪勢に決めようかとも思った事もあるが、日々のストレスで弱っている胃腸に大ダメージを受けてからは控えている。
結局慎ましい食事を好むようになってしまい、近くの食堂で蕎麦を注文する。トッピングに少し悩んで、結局食べきれなかった時の事を思うと虚しくなるので蕎麦のみ。
「……はぁ」
蕎麦を啜りながら、思わず溜息を吐いてしまう。食堂に備え付けられたテレビからは人間達のニュースが流れている。レイナーレにとってはどうでも良いニュースだ、それをBGMにしながら淡々と食事を進めていく。
そういえば、自分が関わりが深い悪魔達は今頃、学校で昼休みの時間だろうか、と思い出してしまう。途端に虫の居所が悪くなり、レイナーレは目付きを鋭くさせた。
「……けっ、何が学生よ」
人間ごっこがそんなに楽しいか。そんな皮肉が浮かぶも、でも楽しそうなんだろうな、と目を遠くさせる。
別に仕事が嫌な訳ではない。昔は憧れだった上司の下で働ける事に誇りもあった。だが、今となってはその誇りもズタボロだ。
この土地は悪魔の領土だった。それが奇妙な事に教会、つまりは天界の勢力と共存している土地だった。そこに送り込まれた事が全ての始まりであり、過ちであったとレイナーレは思う。
それからこの土地では様々な事が相次いだ。旧魔王派の襲撃や、更にはあの無限の龍神の襲撃など。レイナーレでは絶対に対処が出来ない規模の災害と言うしか出来ない出来事が起きたのだ。
それからこの土地は各勢力が調査の為に手駒を派遣してくるも、争いを起こさない為に互いに不干渉を決め込む流れが自然に出来ていた。レイナーレは気付いたら、この土地で堕天使代表という立場を与えられ、この地に縛り付けられていたのだった。
まだそれだけなら、レイナーレもここまで荒まなかった。レイナーレが荒んだのは、自分の価値観や誇りがズタボロにされた事に起因している。
まずレイナーレの誇りをズタボロにした筆頭は、あの『赤龍帝』こと兵藤 一誠という子供だ。元々人間であり、偶々『神滅具』を宿していただけの少年。その後、この土地で起きた災害によって命を落とし、悪魔に転生した。
そんな災害に巻き込まれても、心折れる事無く努力を重ね、悪魔に転生したとはいえあっさりと自分を倒す実力を得ていった一誠にレイナーレは心を掻き乱された。何せ、レイナーレは彼が未熟だった頃を知っている。自分に手も足も出なかった少年を知っている。
それが、あっさりと自分を追い抜いていった。才能が豊かだったとはいえない。悪魔になったから、そう言うのは簡単だった。だが、それが言いがかりでしかない事もレイナーレは理解している。
一誠は努力を重ねている。自分を鍛え、目標に向かって努力をし、確かな実力を身につけている。理不尽な運命に翻弄されながらも、脆弱だった人間はいつしか自分をあっさりと越えていった。
――自分だって頑張っているのに、どうしてあの子だけが。偶々『神滅具』に選ばれて、努力した分だけあの子には見返りがあるのか。
結局、嫉妬だと言うのはわかっている。自分だって努力している。こんなに頑張っているのに、どうして報われないのか、と。
そこまで考えて、レイナーレは思う。自分が欲しかった報酬とは何だったのだろうかと。昔はアザゼルへの憧れがあった。あの方達と並びたいと、頼られる存在になりたいと。
実際、今の立場は頼りにされていると言えばそうなのだろう。それを報酬として見れなくなったのは、結局は憧れは憧れでしかなくて、自分は夢に憧れを抱いていただけの愚か者だったという事実だ。
更に、レイナーレの心を抉ったのは朱乃の存在だ。上司の娘であり、自分を慕ってくれていた子。少なからず妹分のように思っていた子も、災害とも言えるあの事件から何かに目覚めたように神器の研究に携わり、世界を飛び回って成果を上げている。
親が優秀だったから、と言うのは簡単だ。けれど、彼女が血の滲むような努力をしている事をレイナーレは知っている。同じ神器の研究に関わり、意見交換をする事もある彼女の努力をレイナーレは誰よりも知っている。
「……結局、あの子達との違いは、目を逸らしたか、逸らしてなかったかの違いなのよね」
レイナーレは、あの災害を前にして目を逸らしたのだ。自分ではどうしようも出来ないと。あんな災害には関わりたくないと。
それでも、自分よりも近い場所で巻き込まれた筈の一誠も、朱乃も前を向いて努力を続け、あっという間に自分を抜き去っていってしまった。それが結果であり、事実でしかなかった。
それでも、納得がいかない。あんなものに挑める奴の方がどうかしているのだ。無限の龍神、世界を混乱に陥れる絶対的な強者。あれを前にして心折れない方がおかしいのだと、レイナーレは思い続けている。そして、それが自分の限界なのだと。
諦めてしまっているのだ。どうしようもなく。だから、中立地帯といえども敵対種族である悪魔が自分のパーソナルスペースに踏み入ってくるのも、相手に踏み入るのも抵抗がない。そんな弱い自分が、諦めている癖に妬んで感情を浪費している自分が浅ましくて、どうしようもなく惨めだった。
* * *
憂鬱な気分にさせられた食事を終えて、昼からは情報収集と、集めた情報を上司に報告するのが仕事だ。
各勢力が集っている駒王町では騒ぎが絶えない。どの勢力が何を起こし、どんな動きがあったのか。何もなければ「異常なし」で済むが、検証が出来るのは少なくとも夕方までは様子を見なければならない。
夜は悪魔である一誠達が主だって解決してくれているので、レイナーレの出る幕はない。そして何かがあれば、悪魔側から報告を受けて、それを纏めるだけで良い。
人の営みを観察するように紛れてみたり、高い建物から観察してみたりと。この時間はレイナーレにとっても気晴らしの時間とも言える。但し、それは仕事がほぼ片付いている時に、という前提ではあるが。
「はぁ、そろそろ戻らないと明日に響くわね」
纏めたい仕事を思い出して、街の観察をさっさと切り上げてレイナーレは自宅へと戻る。
パソコンを立ち上げて、明日の朝に送信する報告に関する情報を纏めておく。そうしている内に気が付けば日が落ちていた。
日が落ちたのを確認すれば、携帯端末を手に取ってメール機能を呼び出す。手早く文面を纏めて送信ボタンを押してから、背筋を伸ばしてレイナーレは再び家を後にする。向かう先はあの悪魔達が住まう家、グレモリー家だ。
暫く歩いて辿り着いた家の前に立つ。チャイムを鳴らして待つと、すぐに扉が開く。中から顔を出したのは白音だった。
「レイナーレさん、いらっしゃい」
「こんばんは。今日は何もなかったかしら?」
「えぇ、今日は平和でした。一誠ももう来てますから。夕食は食べられましたか?」
「……食べてない」
「食べていきますか?」
「軽くでいいわ。食欲、あまりないの」
「……わかりました」
気遣うように白音が笑って、レイナーレを中に通す。2階の居間ではこの家に住まう悪魔達が思い思いに過ごしていた。
その中で真っ先に目に入ったのが紅髪の悪魔、リアスが紅茶を飲んでいた手を下ろしてレイナーレに視線を向ける。
「いらっしゃい、レイナーレ」
「……お邪魔するわ」
最初に出会った時から苦手意識があった相手。今でも苦手なのは変わらない。自分とは違う、と突きつけられるような所作、育ちの良さを感じる度に苦々しいものが胸中に広がっていく。
次に目に入ったのは一誠だった。ぺこり、と頭を下げて、人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「こんばんは、レイナーレさん」
「どうも。今日も付き合って貰うわよ」
「はは、お手柔らかに……」
苦笑を浮かべる一誠に、ふん、と鼻を鳴らしてレイナーレは視線を逸らす。
「その前に、レイナーレさんに軽食をお出ししますので。ちょっと待ってくださいね」
「折角だにゃん。マッサージでもしてやろうかにゃ? レイナーレ」
「アンタは手付きがいやらしいから嫌」
白音がパタパタとキッチンに向かっていく中、リアスの対面に座っていた黒歌が悪戯っぽく笑いながら問いかけてくる。それにレイナーレは眉を顰めて断る。
実際、黒歌のマッサージは心地良いのだが、その心地よさに溺れるとこの馴れ合いに更に取り込まれてしまうだろう自分を想像して、それがどうしようもなく怖気が走るのだ。この甘さに溺れたら自分の心は完膚なきまで折れるだろうと確信しているだけに。
……既に何回か心折れてマッサージして貰った過去から目は逸らす。目を逸らすって言ったら逸らす。好意を何度も断るのは気分が良くなかった。ただ、それだけの話で悪魔と馴れ合うつもりはない。少なくとも、今以上には。
「そりゃ残念」
黒歌がそれ以上は踏み込まない、と言うように手を下げる。それにホッとしている自分がいる事がレイナーレの心を更に掻き乱した。
ここは暖かい。馴れ合いだ、と言うのは簡単で。でも、それ故に孤独ではない。レイナーレはのし上がる為にならば、他人を気にする事などなかった。ただ、認められたかった。そんなちっぽけな願いしか無かった。
それが叶ってしまっていて、かといって先も望む事も出来ず、こうして与えられた役割に殉じている自分は……何のために生きているのだろうか、と。
「レイナーレ」
「……何よ?」
「突っ立てないで、席に着いたら?」
「……それもそうね」
思考に沈んでいたレイナーレは、リアスに促されるように席に着く。先程まで考えていた思考を振り払うように頭を振りながら。
そしてレイナーレは悪魔の家での食事を終え、一誠からアザゼルからの要請通りの質問や調査を行う。時には実戦形式になる事もあるけれど、今回はその必要もなく、そのまま夕食と情報だけを頂いてレイナーレは自室へと帰ってきた。
夜は深く、一日が終わりを告げようとしている。今日貰った情報を纏めようかと思った所で、ぷつりと糸が切れたように疲労感が体を襲ってくる。そのまま荷物をデスクの傍において、服を脱ぎ散らかしてベッドに倒れ込むように身を投げる。
「…………つかれた」
もう何も考えたくないと、布団を引き寄せて丸くなるようにして、レイナーレはその瞳を閉じた。
* * *
「アレ、もう限界だと思うのだけど」
「やっぱり?」
さて、一方で。レイナーレが帰宅したグレモリー家。リアスを中心としてテーブルについた皆が険しい顔をしていた。
一誠とイリナは難しそうな顔を浮かべ、白音は困ったように眉を寄せている。黒歌は溜息を吐いて、リアスは眉間を揉みほぐす。
「……もう気が乱れて、ボロボロだね。ありゃ」
「酷くなる事は今までもありましたけど、最近は頻繁ですね」
「レイナーレさん、心配だな」
「なんで人員を追加で呼んでくれないんだろ?」
黒歌がレイナーレの体調に言及し、白音が追従するように頷く。仙術によって気の察知に長けてる2人が言うのであれば、レイナーレの体調が優れていないのは紛れもない事実なのだろう。それ程までにあからさまとも言える。
一誠は純粋に心配して、イリナは疑問を口にするように首を傾げる。前からレイナーレ1人で抱えられる仕事ではない事はわかっている筈なのだ。イリナの疑問に、リアスが少し悩むように沈黙してから、こほん、と咳払いをしてから答える。
「……実は、アザゼルに抗議したのだけどね」
「アザゼル先生に?」
「流石に見てられなくてね。ただ、人員が送れない訳があるのよ」
「訳?」
「レイナーレが今、
「どういう事だ?」
一誠が目を細めながら言う。一誠にとってレイナーレは昔から世話になったお姉さんの1人だ。その人の立場が難しい、というのは眉が寄る話だ。
「これは外部に漏らしてはダメよ? レイナーレがここに堕天使代表として残留しているのは、レイナーレを
「遠ざける為?」
「オーフィスによって齎された『蛇』の影響で、
「……もしかして、レイナーレさんが狙われる可能性があるって事ですか?」
リアスの口にした情報に、白音がハッとして顔を上げて口にする。白音が口にした可能性を肯定するようにリアスは頷く。
「朱乃は本部で、かつアザゼルのお膝元で活動出来る『実力』がある。それにバラキエルさんの娘という立場があった。それ故に庇護する事が出来た」
「レイナーレさんは……後ろ盾がない?」
「そう。あと、はっきり言えば自衛するだけの実力もない。だから下手に本部に戻せばレイナーレが狙われる事を危惧して、こっちに残したのよ。私達に守らせるように、ね。まったく狡いったらないわ。つまりはこっちを利用してレイナーレを守ろうとしたって事なんだから」
はぁ、と溜息を吐いてリアスは眉を潜める。それには一誠、イリナ、白音がムッとした顔を浮かべる。つまりはレイナーレに関心を向けさせない為、更に有事の際にはリアス達が守るだろう、という打算の下にアザゼルは動いていたという事だ。
「堕天使の内部事情だから、本当は貴方達にも話すのもどうかと思ったけれどね。朱乃も知らないんじゃないかしら。察してはいるかもしれないけれど。ただ、これは今後のこちら側の利益も噛んでいた以上、何も言えないのよ」
「利益?」
「水面下で動いている三大勢力の和平をスムーズに進める為には、少なくとも誰かが残らなきゃいけなかった。そしてアザゼルの「本気」を感じさせる訳にもいかなかった。だからレイナーレだったのよ。言ってしまえば、小物だからね」
「……その言い方は」
「わかってるわよ。だから難しいって言ってるのよ。今後の事、レイナーレの身の安全を考えると理に叶ってはいるの。問題はそれを私達には伝えられていなかった事。それはしっかり謝罪して貰ったけどね。堕天使の事情もある以上、私も強くは言えないし、そもそも私が招いた事態とも言えるしね……」
そう、アザゼルにとってもオーフィスの襲来は予想外のものだった。そして朱乃の動きもだ。アザゼルとしては、朱乃が神器の研究に携わりたいと言うのを断っていたのは、朱乃を駒王町に残すつもりだった為だと言う。
そして将来、朱乃を和平の象徴として立てようとしていたのだが、本人の強い希望に大人の裏事情を言うに言えず、悩んだ末にレイナーレに白羽の矢を立てる事を決めたと言う。
そしてレイナーレが本部に戻って来れないように仕事を押し付け、この地に残留させている。
「言ってくれれば、俺だってこんな気持ちにならなかったのに……」
「そうね。それはいつかちゃんと腹を割ってアザゼルに言うと良いわ。私も言わなかったから同罪だし。けれど、事情も事情だけになんとも言えないわ。ましてや、これをレイナーレに言う訳にもいかないでしょ」
「言ったら、下手すると壊れるにゃー」
自分が本部に戻れないのは、内部事情に巻き込まれる可能性が高いからと言えば、ただでさえメンタルが弱っているレイナーレが聞けば再起不能になりかねないと黒歌は頷く。
レイナーレが弱い、と断言されるのは実力もあるが、何よりその心が折れている事だと黒歌は察している。黒歌は心の闇には敏感だ、レイナーレが一誠達に屈折した嫉妬と諦観を抱いている事を悟っている。
それでも振り払えないのは、やっぱりレイナーレが弱いから。詰まるところ、誰かがいないと今、レイナーレは危ういのだ。これではアザゼルが手元に戻すのも躊躇うのもわかる、と黒歌は頷く。
「……助けてやれないのかな」
ぽつりと一誠が呟く。それにリアスと黒歌は眉を寄せてしまう。一誠は純粋にレイナーレを慕っているが、それがレイナーレにとって好ましく受け止められているかと言われるとそうではない。
かといって、一誠にレイナーレの内心を伝えるのも危うい。だからリアスもアザゼルから伝えられていた情報を口にするのを躊躇っていた。どう動かそうにも、まるで爆弾の解体処理のような繊細さが求められるのだ。
ただ、レイナーレの限界は近い。和平に向かう切っ掛けは揃いつつはあるが、まだピースが足りていないのはリアスが一番知っている。しかし、和平が為ってレイナーレの身の安全が確保されるのも間に合うかどうかわからない。
「……ともかく、一誠。今日は遅いでしょう? 今日の所は帰りなさい」
「……わかった」
考え込むように表情を曇らせながら一誠が荷物を持って帰宅する。
それに合わせてイリナと白音も自室へと戻っていく。黒歌はお酒を取り出して、リアスへと手渡す。
「悪いわね、黒歌」
「ん、いいよ。……それに方法がない訳じゃないんでしょう?」
「まぁ、ね。ただ、それにはレイナーレに
「リアスの眷属にして、悪魔側に来て貰う、か」
「そ。アザゼルから許可は貰ったわ。もしレイナーレが望むなら、そして私がそれで良いなら俺が責任を負う、ってね」
「それもそれで難しい話だにゃぁ」
「現状は、ね」
つまりは手詰まり、という事になる。レイナーレがリアス達に傾いてくれなければ、悪魔に転生させた所でレイナーレは不幸になるしかないだろう。
現状はどう動かそうともレイナーレを救う一手にならない事をリアスを悟っている。
「……難しいわね、種族の壁、勢力の壁っていうのは」
「そうだにゃん。私達が出来るのは、せめて当たり障り無く気遣ってやるか、どうにかしてこっちに傾けさせるかしかないにゃ」
「誘惑は悪魔のお手の物、と言いたい所だけれど。肝心の私がレイナーレのトラウマになってるみたいなのよね……」
「一誠や、朱乃もにゃん。下手するとイリナも含まれるかもしれないにゃ」
「…………となると、本当に最後の手段が残っているのだけどね」
リアスはぽつりと呟いて、グラスの淵を噛む。それはリアスにとっては取りたくない方法だ。有用性は既に把握している。だが、それは明らかにレイナーレの一生を狂わせる事になるだろう、という確信も。
「レイナーレが私を苦手にしているのは、自分の限界を感じたからでしょう。赤龍帝の一誠、雷光に加えて神器の研究も推し進めて力と為した朱乃、逆境にも負けずに悪魔としての生を生きているイリナ」
「凡才、と言うには簡単にゃんだけどね。だけど、レイナーレは未熟だった頃の一誠も朱乃もイリナも知っているんでしょ? その子供達にあっという間に抜き去られ、置いていかれた気持ちは理解は出来ないけれど、察する事は出来るにゃ」
「……だから、その限界を取っ払えば良いのよ。それを出来る方法が、少なくとも私にはあるのだから」
――“血”によって変異させた『
これを行えば、少なくとも力をレイナーレは手に入れる事は出来る。それはイリナで実証済みだ。“無色の力”がどう作用するかは本人次第ではあるし、どう発現するかもまだ未知数。
少なくとも、まだ一誠は『
「……言ってしまえば、実験体よね」
「まぁ、そうだにゃぁ」
「イリナと一誠は緊急事態故に仕方なかったし、この方法はアジュカ様からも禁じられてるわ」
「だから。それをするなら、レイナーレにはリアスに忠誠を誓って貰うぐらいはして貰わないとダメだにゃ。従者として言わせて貰うけれど」
「わかってるわよ。だから……思い付いても言えないんじゃない」
はぁ、とリアスは溜息を吐いてお酒を一気に飲み干す。回った酔いが頭をふわふわとさせて心地良い。
「私だって、レイナーレに幸せになって欲しいわよ。でも、巻き込めないじゃない。力を渡す以上、付き合って貰わなきゃいけないんだから」
「まぁ、そうだねぇ。だから、今はまだ何もしてやれないにゃ」
「……一度、腹を割って話すべきかしらね」
「それももう少し様子を見て、だにゃ。焦る事はないにゃ」
ぽんぽん、と黒歌はリアスの頭を撫でる。その手に甘えるようにリアスも黒歌に身を寄せる。
堕天使の憂鬱は、今暫く続く。