怪男子   作:変わり身

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4頁 泥と墨

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編まれた髪は芯とされ、伸ばされた骨は紙となる。

 

 

                      *

 

幼子と暮らす日々は、決して優しさに溢れた物ではなかった。

私達の持つ異能、その子に集う怪異、それを疎んじる周囲。精神的にも肉体的にも、傷の原因となるものは幾らでもあったのだから。

 

否、傷だけで済むのならばまだ良い。時には命を脅かされるような出来事もあり、その度に私達は自らの住む村から距離を取っていく。

無論何も思わない訳が無い。私の事はどうでも良い、既に老い先短いこの身と心にどれ程の傷を受けようが、乾き切ったそれらは一滴の血すら流さないのだ。

しかし、幼子を拒絶し傷つける事だけは我慢がならなかった。あの子には何一つとして罪は無いというのに、何故あのように傷つかねばならないのか。

 

……だが、その子は憎悪に駆られた私を見て嬉しそうに笑い、告げる。

 

――私はだいじょうぶだよ、おじいちゃん。しんぱいしてくれて、ありがとう。

 

違う。大丈夫の訳がない。私の異能と違い、幼子の異能は人の心を見通す。自分に対する悪意を直接叩きつけられて、傷つかぬ筈が無い。

されどその子はそれを感じさせない明るい笑顔を持って私に抱きつき、怒りと憎悪を治めようとするのだ。

 

……私は、それに流されるしかなかった。その子が常に優しくあろうとするならば、私もそうならなければならない。

 

――そうか。お前がそう云うのならば、穏やかに暮らそう。奴らの側より離れ、何者にも脅かされぬ場所で過ごすのだ。

 

村より排斥されたのは、ある意味では望む所であったのかもしれない。

事実、再び山へと戻り共に暮らした数年間は至極平和なものであり、温かく素晴らしい記憶として残っている。

 

このまま永遠に過ごせたらいい。そう思って、ならなかった。

 

 

                      ■

 

 

『――時間であります。起きる、であります。そう、すみやかに、目覚めよく』

 

「……ん」

 

カサカサ、と。何か硬いものが胸を擦る感触で目が覚めた。

 

……せっかく、穏やかでいい夢を見ていたのに。

ぼんやりとした意識のまま胸元に手を這わせれば、ポケットの中のめいこさんがバッタの如く跳ねまわっていて――「うわっ」衝動的な嫌悪感を感じ、思わず引き抜き投げ捨てる。

気持ち悪いな。寝ている隙に服に潜り込むなんてムカデじゃないんだから――。

 

『……そりゃ無いんじゃないかねぇ。目覚まし頼んだの、アンタだろうに』

 

「ぅん……?」

 

胸元を擦りつつ振り向けば、花子さんが呆れた目でこちらを見下ろしていた。

寝ぼけ眼をぱちくりと瞬き、何用かと問いかけようとして――そこでようやく、我に返った。慌ててめいこさんを拾い上げ、折れ目の付いたページを伸ばす。

 

そうだった。仮眠するに当たり彼女に目覚まし時計になってくれと頼み、懐に入れておいたのは僕だった。

 

「ご、ごめん、ちょっと寝起きで分かんなくなってて……」

 

『非。へいき、であります。かなしくなんて、無かったり、するのです……』

 

どうやら多少なりとも気分を害してしまったらしい。どことなく刺々しい筆跡に罪悪感が込み上げる。

僕は今しがた見た夢の事もあっさりと忘れ、只管ご機嫌取りを続けたのであった。

 

――日曜日、時刻は深夜一時半。僕が歌倉女学院への不法侵入を決行する、少し前の出来事である。

 

 

                      *

 

 

『……ねぇ、本当にやるのかい? 女子校に潜り込むとか変態みたいなさ……』

 

「……言わないでくださいよ。僕だってそう思ってるんですから」

 

何だかんだでめいこさんの機嫌を直し、支度中。僕は大きく息を吐く。

 

一応、歌倉女学院での一件よりすぐ後、僕は電話で取材の申し入れを行った。

しかしあの髪飾りの少女が言った通り「お断りします」とけんもほろろに一刀両断。まともに取り合ってすら貰えなかったのだ。

本当は他の方法を探すのが物分りの良い選択なのだろうけども――。

 

(僕の事だ。どうせ時間を置けばそれだけ及び腰になって動かなくなる)

 

そうしたら、また図書館詰めに逆戻りだ。なら羽車学院に潜入した勢いに乗って行動した方がずっと良い。

 

「…………」

 

良い、のかなぁ。

一度人殺しを経験している所為か、犯罪に対する忌避感が薄れてきていないか、僕。

 

優等生とは何だったのか。心の裡で嘆きつつ準備を進め、最後にめいこさんをポケットに入れ――よく見れば、指先が軽く震えている事に気付いた。

 

緊張しているのだ。血液が冷たくなり、心臓が煩いほどに跳ね回っている。

何だかんだ言いつつも、やはり精神的にはキていたらしい。能動的に法を犯すという事実へまだ怯えられる自分に、少しホッとした。

 

『……悪いね、アタシが意気地無いばっかりに』

 

そんな声に振り返れば、花子さんは申し訳無さそうな表情で目を伏せていた。

気怠い表情か、こちらをからかう表情。主にその二つしか見ていなかったが僕にとってそのしおらしい態度は新鮮で、口元が綻ぶ。

 

「いいですよ、別に」

 

その言葉は、意外な程にすんなりと出た。彼女の似合わない態度のせいか、それとも単純に彼女への好感度が高まったのか。まぁ、どっちでも良い。

 

「……よし」

 

ともかく、行こう。

僕は懐中電灯を握り締め、玄関のドアノブを握った。

 

 

 

 

そもそも女学院に侵入し何をするのか。答えは単純、花子さんと共に校内を練り歩くだけである。

 

実際の学校の空気を直接肌で感じさせ、彼女の記憶を刺激すると同時、めいこさんに怪談や言霊を集積して貰うのだ。

記憶が戻ればそれでよし。例え戻らずとも、何らかの進展は見込める筈だ。

思えば、不法侵入までしてする事が学校観光というある種の「軽さ」が、罪の意識を薄れさせているのかもしれない。

 

『……開いたよ』

 

ガチリ、と。鉄錆が擦れる音と共に、閂が回る。歌蔵女学院の裏。体育館横の金網に設置されている、用務員用らしき小さな出入り口の鍵だ。

本来で専用の鍵が必要となるが、今の僕達には何の意味も無い。音を立てずに押し開き、素早く身体を滑り込ませ、再び施錠。瞬時に物陰へ身を潜めた。

 

酷くアッサリと事が済んだ。脈動する心臓を抑え、眼鏡をかけ直す。

 

『はぁ……片棒、担いじゃったなぁ……』

 

暗闇の中、花子さんが今しがた閂を外した右手を軽く振る。よく見れば、その姿は若干ながら存在感を増しているように見えた。

 

――融通。僕達の行った事をめいこさん風に表現するならば、それに尽きる。

 

怪談として再現された霊魂は、現実世界へ干渉出来る。その法則を利用し、予め敷地内に花子さんを移動させた上で実体化、内側から鍵を開けて貰ったのだ。

 

(……まさかまた、この怪談を利用するとは思ってなかった)

 

ちら、と金網の外を見る。狭い道を囲む石塀に二箇所、雑草に隠れる程の低い場所に小さく落書きが描かれていた。

 

それは二つの『界』の文字――『異小路』を再現した、その痕跡だ。本当は他の怪談を利用したかったのだが、悔しい事にこの場で再現出来得る程に汎用性の高い怪談が他に存在しなかった。

その為めいこさんに頼み込み、血を吐く思いで削除されていたそれを復活して貰ったのである。

 

何せ告呂の地という大前提を守れば、道に文字を二つ書くだけで容易に再現できるのだ。反則だろこれ。

 

『……どうしたよ、そんなしょっぱい顔してさ』

 

「いえ、別に。それより用済みの怪談から解放しますけど、良いですか?」

『ああ、別に構やしないけど……』

 

まぁ、その事に対するアレコレは今考える事では無い。

 

現在時刻は二時を少し回った所。学校関係者の第一陣が何時登校してくるのかは分からないが、残り時間は決して多くはない筈だ。

僕は花子さんと頷き合うと、物陰から身を晒し、足早に校舎へと向かった。

 

……小さく震える彼女の指先には、気付かなかったふりをして。

 

 

 

女子校。しかもお嬢様学校であるのだから、さぞ華々しい場所なのだろう――そう思っていたのが、見た感じでは普通の学校と余り差異は無いように思えた。

別に何かいかがわしい期待をしていた訳ではないが、ガッカリ感は否めない。

 

「警備員とか、居ないみたいですね」

 

『……そうだね』

 

自転車置き場の影から顔を出すが、少なくとも見える範囲に影は無かった。

とは言え油断はしないまま、照明の無い真っ暗な道を歩く。

 

「にしても、女子校って言っても結構普通なんですね。フリフリのフリルが至る所にあったり、フローラルな香りが漂ってたりとか想像してたんですけど」

 

『……そうだね』

 

「ええと、とりあえず、どうしましょうか。時間的に不安がありますし、トイレの方から回りますか?」

 

『……そうだね』

 

「……。あの、花子さん?」

 

気のない返事に違和感を覚え、花子さんの様子を窺えば、その目は虚ろに窪み、意識はここに在らずといった風情。記憶の裡に潜行しているようだ

 

(まぁ、集中散らすのもアレか……)

 

溜息を一つ。手持ち無沙汰になった僕は、何か怪談が収集されていないかと、めいこさんを開いた。

と言ってもまだ敷地に入ったばかりなので、期待はしていなかったが――。

 

「……『ゆくえ父めい』?」

 

意外にも、よく分らない怪談が一つだけ収集されていた。

 

『霊魂の封入されていない、無編集・非活性の怪談、のようであります』

 

「ふぅん? どんなの……って、長いな。何か」

 

それはこれまでとは違い、丸々一ページ近くに渡る口語文だった。

軽く斜めに目を通せば、それはどうもこの学校で起きた集団妊娠事件に関する話のようで、その趣味の悪い内容に眉が皺寄る

……だが、記憶を擽るものもまたあった。

 

(妊娠、事件……)

 

思い出すのは、弥生さんが漏らした例の呟き。

何か、関係があるのだろうか。僕は不快にざわめく胸を抑えてもう一度、今度は深く目を通し――。

 

『――ッガ!?』

 

「ッ、うぐァっ……!?」

 

前触れ無く文章が黒い火花となり弾け飛び、右眼を衝撃が貫いた。

 

大きく首がネジ曲がり、意識が飛びそうになるが――「ぃ、ぎッ」しかし歯を食いしばって堪え、同時に聞こえた花子さんの声に右眼を向ける。

すると彼女は身を仰け反らせ、痙攣を繰り返していた。限界まで見開かれた目は血走り、明らかに異常な様子だ。

僕は閉じそうになる右眼を指で無理矢理こじ開け、彼女の下へと走り寄った。

 

「ぅぐ……は、花子さん!? どうしたんですか、花子さん!」

 

背中をさすろうとしても触れられず。ただ焦りが積もる中、どうすれば良いのかも分からず唇を噛み。

 

『――ここで、さ。注意した。気がするんだ』

 

「っ、は、はい?」

 

ぽつり、と。仰け反ったままの花子さんが、震える声でそう言った。

 

『その娘の自転車、ブレーキが壊れてたんだよ。なのに大丈夫って言って聞かなくって、しょうがないから自転車屋まで送ってやって……いや、そう、そうだ。他にも、アタシは』

 

「あの、どうしたんですか。ねぇ」

 

『皆、とてもいい子だった。優しくて、正義感があって、でも少しやんちゃで。あの頃はまだ共学だったから、女子も結構男子どもに流されてるのが――……多く、て……』

 

そうして緊張と共に花子さんの記憶の断片らしき物を聞き続けていると、最早独り言と呼ぶのが相応しいであろう彼女のそれがプツリと途切れ。

 

『違――な、……っを、何も、アタシは、見てただけで……――ぁぁぁあああああッ!』

 

「っ!?」

 

唐突に、叫んだ。

酷い悪夢か、それとも嫌な記憶でも蘇っているのだろうか。

右眼を通して花子さんの絶叫が脳内に反響し、吐き気と頭痛さえ催してくる。

 

(っく、くそ、どうする。えと、とにかく、何か対処を、)

 

混乱し、助けを求め手帳へ視線を落とした瞬間――当の花子さんと目が合った。

…………、は?

 

「ぁ――、うぉああああああッ!?」

 

本当に、何時の間にか。血走った瞳が眼前に迫り、僕を覗き込んでいたのだ。

気付けばあれほど煩かった声も既に無く、反対にこちらが絶叫し、飛び退る。

 

『……ぁ、あ。行こう、行く、ンダ。あぁ、タシは、アタシ、は…………』

 

「っひ、ぁ、え? い、いや、ちょっと……?」

 

恐怖に心臓が激しく脈動する中、花子さんは何事も無かったかのように身を起こすと、昼の時と同じく途中動作を省いたコマ落ちの動きで暗闇の中へと進み――やがて、その背が黒に溶け、消えた。

 

「な……なんだ? 今、何が……」

 

『こ、こわい、であります。いつもの、やさしい、と違うであります。ひぃ』

 

ポンコツ手帳と二人、暫くそのまま呆然。心に恐怖が生まれ、じわりと燻る。

 

(っ、く、くそ、でも……!)

 

けれど、放っておく訳にはいかない。すぐに我を取り戻し、僕もまた慌てて暗闇の中へと沈んで行った。

 

 

                    *

 

 

《――中庭にある灯籠、よく悪い事に使われてたな。中にタバコとか突っ込まれて、隠されてて……》

 

《――この壁。昔は蔦がベタベタに張ってた。ああ、それを伝って、二階に登ったバカが居たねぇ……》

 

《――華宮、思い出すね。そう、学校でも一番の美人さんで、生徒の中じゃ1番仲良しだった。若風と、三木。あいつらとよくつるんでた……》

 

 

「何だ、この声……」

 

姿の見えない花子さんを探している最中、僕の頭には彼女の声が響き続けていた。否、それだけでなく、声に呼応した情景すらもうっすらと脳に奔っている。

それはまるで、彼女の記憶を――いや、思考を読み取っているような……。

 

「……思考を、読み取る?」

 

呟く内にふと気づき、手に持つめいこさんを見た。

彼女は思考を読み取り文章に起こす能力を持っている。それが現状に何らかの作用を齎していても、僕は不思議とは思わない。

先程受けた衝撃で何かの回路が繋がったのだろうか。痛みの消えない右眼を抑え、悩み。

 

《――この窓枠、木目。無いのは走り回る生徒だけで、殆ど前と変わっちゃいない。はは、そういえば声がイカれるほど怒鳴った事も――》

 

「っ、いや、今は考えるより追わないと」

 

次々に流れてくる声に頭を振り、気を取り直して走り出す。

 

窓枠という事は、既に校舎内に入っているのだろう。

幸いというべきか、この学校は生徒数が比較的少なく、校舎の数も少ない。手当たり次第に当たったとしても、大した手間にはならない筈――。

 

「……そうだよな。今の時間、鍵なんてどこも閉まってるよな! バカか!」

 

懐中電灯に照らされる、しっかりと締め切られた校舎を見ながら毒づいた。

前言撤回。やっぱり手間だ。

 

《――皆、大好きな子達だったのに。守るべき、子達だったのに……》

 

……そうして、延々と、延々と。片っ端から鍵の開いてる場所を探している間にも、花子さんの声は止まない。

そして垂れ流される言葉と情景を見聞きし続ける内に――気付けば、彼女の正体について大方の察しがつき始めていた。

 

「花子さん、生前はここの教師だったのか……?」

 

語り口からいって、その筈だ。

そして理由は分からないが、彼女は酷い自己嫌悪に陥っている。それも、絶望と表現出来る程に深く。

 

(くそ、何処だ。何処かに入れる場所は無いのか?)

 

とてもとても、嫌な予感がする。焦りのままに校舎の窓を弄ってみるけど、やはり開かない。

僕は大きく舌打ちを打ち鳴らすと、すぐに別の場所へと向かい、

 

《――……ソイツはね、この学校の保険医だったんだ》

 

まるでスイッチを切り替えるかのように、花子さんの声質が冷たい物へと変化した。

同時に背後で小さな音が響き、振り向けば先程弄り回していた窓が開いていた。

 

「……開けてくれた……ん、ですか?」

 

恐る恐る周囲を伺い問いかけるが、やはり返事は無く。

 

「…………」

 

開かれた窓。その内側から善くない何かが流れ出ている錯覚がしたのは、きっと気のせいじゃない。

しかし、他の選択肢は無かった。一度深呼吸をし、意を決して窓枠を跨ぐ。

 

「……暗いな。当たり前だけど」

 

『あしもとには、気をつける、のでありますよ』

 

入りこんだ教室の中は真っ暗で、廊下に出てもそれは同様。

月明かりは遮られ、唯一消火栓の赤いランプが灯るだけ。少し先の光景すら闇の中に霞んでいた。

 

《――好青年、ってぇのはあんな風な事を言うんだろうね。何時もきっちりしてて人当たりも良くて、学校内でも人気者だった》

 

それにしても、先程から何の話をしているのだろう。

保険医という男について話しているのは分かるが、その意味が分からない。

 

まだ錯乱したままなのか、それとも。疑問に思いつつ、廊下を進む。

教室、物置、そして本命のトイレ。一階の様々な場所を覗いたが、花子さんの姿は見つけられず。そうして、二階への階段に足をかけ――。

 

《――……思い返してみれば、アンタと少し似ていたよ。眼鏡とか、外見も》

 

「え?」

 

いきなり水を向けられ、思わず天井を見上げる。

独り言かとも思ったけど、眼鏡がどうこう言ってたし、僕だよな。多分。

さっきの話からすると褒められているような感じだが――何故か、全くその気がしない。逆に貶されている気さえする。

 

《――でもね。アイツの心の中は、ドス黒く汚れてたんだ。外面だけ取り繕って、裏じゃ保険医って立場を利用して、女の子達相手に好き勝手やってたのさ》

 

……正直、色々と突然過ぎてまるで真意を察せなかったが、意味不明と切って捨てるには言葉に重みがありすぎた。

僕はただ流されるそれを脳に刻みながら、続いて二階の探索を行う。けれどやはり彼女の姿は見つからず、すぐに切り上げ三階に。

 

「……?」

 

その際、階段の踊り場を通り抜ける一瞬。窓から見える校門の前に、青い乗用車が止まっているのがうっすらと見えた。

誰か職員がやって来たのか。咄嗟に懐中電灯の明かりを絞り、物陰に身を隠す。

そして暫く様子を窺うものの、光もエンジン音も無く、人の気配も無し。

 

(……駐車しただけの無関係か、或いはもう校内に入っているのか)

 

何にせよ、警戒は強めた方が良い。喉を鳴らし、静かにその場から離れた。

 

《――アタシがその事に気付いたのは偶然だった。たまたま保健室に立ち寄った時に、一冊のノートを見つけたんだ。

 少し席を外していたみたいでね、保険医の姿は無かった。ノートは机の上に書きかけのままで放置されていて……そん中には何人もの女生徒の「記録」が事細かく残されてたよ》

 

「…………」

 

三階に上がった途端、空気が澱んだ錯覚を受けた。

怒り、嘆き、悔恨。右眼が再び強く疼き始め、敏感に負の感情を察知する。

そしてそれは――始めの予想通り、トイレの方から漂っているように思えて。

 

「……やっぱり、結局ここに戻るのか」

 

トイレの花子さんという怪談における根幹的シチュエーション。

男子か女子かの違いはあれど、当の怪談で指定されていない以上は無視できる。ゆっくりと、廊下を進んでいく……。

 

《――ぞっとした。書かれていた「記録」にはアタシの知ってる名前もあってね、でもそんな事されてるなんて、全然思いもしてなかった》

 

……詰まる所、酷く屈折した女好きだったって事さァ。それこそ、醜悪な程に。

屈折した女好き。それがどういった意味を孕むのか理解出来ない訳では無かったけれど、意図的に思考を鈍らせる。胸糞悪い事柄だと容易に予想できたから。

 

そしてそれきり、プツリと声が止まった。丁度、トイレの扉に触れた所だ。

 

「……続きは中で……ってか」

 

硬い軽口を叩きつつ、指先で扉を押し開く。

……こういう場所はどこも同じらしい。トイレ特有のすえた臭いが鼻を突き、今度こそ完全に女子校へ抱いていた幻想が壊された。

 

そして、部屋の中央。探し求めた彼女は、タイルの床にしゃがみ込んでいた。

 

「! 花子さん!」

 

女子トイレに入るという行為に、忌避感なんて抱いていられなかった。

僕は衝動的に彼女の下へと走り出し――。

 

「っ」

 

ぴちょん、と。何か、粘性のある雫が落ちるような水音が聞こえた。

同時に右眼が強く痛み、嫌な予感が足をその場に縫い付ける。

 

『それで、呆然としてたらアイツが帰って来た。タイミングが悪くノートを持ってる所を見られて、言い争って揉み合って、それで首を締められて……気付けば、ア、アタシは、今のこれ。目だけ残して縛られて、狭い所に押し込められた……!』

 

手洗い場の蛇口に目をやったけれど、どこも開いては居なかった。

白い石造りのその場所は乾いたままで、水の気配は微塵もない。

 

……では、どこから?

 

『ぐるぐるぐるぐる。ずっと文字が回ってたァ。き、気持ち悪い情欲が、理解したくもない達成感が、延々と延々と頭の中にねじ込まれるんだよ』

 

ぴちょん、ぴちょんと水音は続き、やがてその間隔も狭くなる。

周囲の空気が焦げ付いたように重く淀む。右眼が、脳が一層痛みを訴える。

耳鳴りが酷く、膝を突いた。胃の奥から寒気が上り、肌の泡立ちが止まらない。

 

『ああ、気持ち悪い、反吐が出る。思い出しただけでも吐きそうだァ……!』

 

「は……、花子、さん…………?」

 

彼女が何を言っているのか、何を伝えようとしているのか。答えは既に僕の中で形作られているというのに、それに理解が追い付いていない。

もどかしさの余り、僕は低い唸り声を上げ――「……ッ」見た。見てしまった。

 

……彼女の朧げな足元に、黒い水たまりが広がっている。

 

『……なぁ。アタシが押し込まれたその場所、何処だと思うよ』

 

「……、………………っ」

 

理解は及んだ、口も開く。だが、答えない。

何故ならそれは既に明確となっている事柄であり、前提でもある以上言葉にする必要すらないのだから。

 

――そうして何の反応も返さない僕に、花子さんは滑らかさの欠けた緩慢な動きでこちらを振り返った。

 

「ひ……――、っう」

 

彼女の両眼は、黒い粘液によって濁りきっていた。

計り知れない程の悪意と嘆きが込められた、汚泥の詰まった深い沼。それは先日の丸眼鏡の男と同じく、只管に負の感情でもって僕を貫き、見つめ。

 

『アンタはアイツに、よく、似ている。それは在り方であり、容姿であり――そして、最後に、もう一つ……ッ!』

 

カチリ。何か引き金を引くような音を聞いた瞬間、喉元を衝撃が突き抜けた。

 

「ぁ――ッガ、は……ッ!?」

 

首が外れたかと思った。音もなく伸びた彼女の腕が、僕の喉を握り絞めたのだ。

ミチミチと肉を締め付け、骨を潰す。何故、どうして。そんな疑問は今更抱くべくも無い。

僕をその保険医とやらと似ていると言い、激昂した。それはつまり、そういう事なのだ。

 

「……ぁっ……あ゛ぁ……!」

 

痛い、苦しい。強い圧迫で首から上に血が昇り、旋毛から血や脳みそが吹き出しそうだ。涙と鼻水が流れ落ち、恐怖が心を支配する。

慌てて彼女の腕に爪を立てようとするけど、それは触れるに至らず空を切る。

 

待て、待ってよ、おかしい。このままじゃ僕は、死――。

 

「――…………――……」

 

……いや、それも当然の結末なのかもしれない。度を超えた苦しみと混乱の中、冷静な部分の僕がそう囁いた。

無論、僕も死にたくない。死にたくない――けれど。

 

(……で、っも。僕が、やった事、めいこさんを持っていた奴らの、事。それ、考えれば、殺されるの、って……?)

 

――酷く、妥当なんじゃないか。

 

ふとそんな考えに至った瞬間、僕の中から抵抗する気力が抜け落ちる。

まずい、と思ったけど手遅れだった。

力が抜け落ち柔くなった首に一層深く指が食い込み、頸動脈が潰され視界が真っ黒に染まった。

 

「……――……か、びゅ」

 

グルン、と眼球が裏返る。鼻奥にツンとしたしょっぱさが込み上げ、それを最後に僕の意識が暗転。感覚も思考能力も、全てが唐突に終わった。

暗い、昏い、冥い。脳が、心臓が、内臓をかき分け下方へと落ちていく。

地面に叩きつけられたそれは音を立てて弾け、彼女の垂らした汚泥と混じり合い――。

 

 

――ぷくり。右の手首が弾ける音が、真っ暗な世界に残響した。

 

 




故・保険医:女性に対し某かのコンプレックスを持っていたようだ。

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