怪男子   作:変わり身

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6頁 墨と華

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助けてくれ、今、ストーカーに追われているんだ――。

 

……彼がそんな助けを受け取ったのは、そろそろ眠りにつこうかという頃合いの事だった。

 

携帯電話から繋がる先は公衆電話で、電話の主はまだ声変わりもしていない少年の物。

イタズラ電話の類だろうか。最初はそう思っていた彼だったが――その聞き覚えのある名前と少年の酷い焦りようを聞き、事実であると認識するのにそう時間はかからなかった。

 

少年とは付き合いの浅い、それこそ友人と呼べるかどうかも定かではない関係であった。しかし知った顔である以上、聞かない振りをする訳にも行かない。

彼は咄嗟にバットを手にして家を飛び出し、電話で指定された場所へと走りだした。

 

友情、義務感、焦り、興奮。当時の彼の心には、幾つもの感情が渦を巻いていた。その中でも一際大きく存在を主張していたのは、やはり「申し訳無さ」であろう。

かつて彼は電話の主を見捨てた事がある。率先してそうなった訳では無かった物の、その過去は小さくない刺として心を苛んでいたのだ。

 

――しかし、ここで助ける事が出来れば、少しは救われるかもしれない。

 

彼は無意識の内にそう思い、夜の闇を駆ける。

ストーカーとは、警察への連絡より先に自分へと助けを求めたのは何故か。

そんな疑問は浮かばなかった。例え浮かんだとしても、自分の都合の良いように考えただろう。

 

同年代よりも数段大柄な体躯と、それに伴う高い身体能力。精神的に脆い彼であったが、肉体的には少しばかりの自信があった事も手伝った。

彼は力の限り足を動かし、電話の主の想像を上回る速度で現場へと到着し――結論として、これ以上なく鮮やかに利用されたのだ。

 

――彼、桜田竜之進。

 

完全なる一般人であった彼は。何一つとして委細を理解しないまま、怪異の中へと放り込まれていた。

 

 

                      *

 

 

(今ッ! これが最後の……!)

 

ようやく訪れた、最大にして最後のチャンス。

その隙を逃さず、指先に肉液をこびりつけ後ろ手に文字を書く。

 

逆さまになろうが「界」は「界」。そしてズタボロではあるが花子さんも健在だ。ならば――!

 

「っ、貴方、何を!」

 

不審な僕の動きに気づいたのか、それとも霊力の流れでも感じたのか。声に気を取られていた髪飾りの少女は今度こそ指を下ろす。

それに伴い火球が僕へと走るが、もう遅い。

 

「……え? な、何だ、景色が……」

 

「くっ!?」

 

ガラスの割れるような音と共に空間が揺れ、火球のすぐ前に人影が出現した。

咄嗟に火球を掻き消した彼女を他所に、僕の意を汲んだ花子さんが無数の青白い腕を用いてその人影を素早く拘束。叫び声を上げる彼を見せつけるように、中空へと晒し上げる。

 

丁度、僕の盾となる位置。髪飾りの少女とキツネ目の男は動きを止め、強くこちらを睨みつけた。

 

「う、うわぁッ! 何だ、手が、何なんだよ、おい!」

 

そんな中、状況が分からず花子さんの拘束を外そうと藻掻く少年が一人。

桜田竜之進、リュウ君。ひょっとしたら、僕と良い友達になれるかもしれなかった少年だ。

現状把握が満足に出来ていない彼は、酷く混乱し怯えた表情を見せている。

 

(……ごめん。けど、こうでもしなきゃ僕は死ぬんだ)

 

胸裡に盛る罪悪感と自己嫌悪。それらを必死に堪え、非情の仮面で心を覆った。

 

 

 

――僕が立てた作戦。それはご覧の通りリュウ君を人質に取り、無理矢理交渉の場を作る事だ。

 

華宮と相対する前に、予め小路の中に設置されている公衆電話で彼を呼び、逃げ回りつつ時間を稼いで到着を待つ。

徹頭徹尾行き当たりばったり。そもそも髪飾りの少女達を善性と仮定し、人質が効く前提での作戦だったが――結果的には成と出た訳だ。

 

眼鏡を拾って改めて彼女を見れば、その瞳には嫌悪の激情が揺れていた。

 

「……動くな、なんて言わなくても分かってるよね」

 

「く……貴方は、一体どこまで卑劣なッ……!」

 

呼吸を整え口を開けば、想像以上に低い声が出た。気張り過ぎだ。

そしてそれに反応したのか、リュウ君は即座にこちらに視線を向け、安心したような笑顔を見せる。先程の会話は意識の外にあったようだ。

 

「あ、お、お前ここに、ああ、無事で。いやそれより助けてくれよ! 頼む! この何か変な腕、俺掴んだまま離れねぇんだ!」

 

「…………」

 

当然、それには応えない。助けを求める彼の顔をまともに見れず、歯を食いしばりながら視線を外した。

 

「お、おい? 聞いてんのか? おい、おいって――ッガ!」

 

『寝ときな、その内に終わるから』

 

突然火花が弾ける音が響き、彼は唐突に意識を失った。

見れば、道端に転がる花子さんが再生した左腕をひらひらと振っている。どうやら気を利かせて十八番の気絶技をかけてくれたらしい。

 

「ッ! 分かりました、言う通りにしますから、その方に手を出さないで!」

 

そしてその光景をどう見たのか、髪飾りの少女は眦を釣り上げ栞をくしゃりと握り込む。意図せぬ武装解除の成功だ。

彼女の傍らに立つキツネ目の男も銃を捨て、冷や汗を一筋流し口を開いた。 

 

「しかし、おかしいですネェ。そこの方……君の知人のようですけども、小路周辺に張らせた者からの報告は無かったんですが……?」

 

「あんたら、この怪談の絡繰はもう粗方分かってるんでしょ。ならどっから入ってきたか予想できると思うけど」

 

「……あぁ、成程。文字があったのはここだけでは無かったと。こりゃ盲点」

 

そう、実を言えば、リュウ君を呼び出したのはここでは無い。歌倉女学院の前――以前僕達が侵入の為に『異小路』の条件を揃えた道だった。

 

相手が組織と仮定する以上、僕をこの小路から逃がさないように、或いは他者を巻き込まない為に人員を配置する事は目に見えていた。その対策だ。

 

「この怪異は空間を操るみたいですからねぇ、別の印を付けた場所からご招待した訳ですか。それも、わざわざ肉盾にする為に。用心深いこってす」

 

「……心底呼び出しといて良かったと思ってるよ。彼が来るまで、他に代わりになるような人は通らなかったからね。正直、焦ってた」

 

「ははぁ、そうですか。では一つお聞きしたいのですが……何故、君はそれを使ってここから逃げなかったんでしょうかね」

 

すぅ、とキツネ目が更に細まり、僕を射抜く。

髪飾りの少女の視線と合わせて恐怖に震えそうになるけど、おくびにも出さない。出して堪るものか。

 

「それ所か、君はこちらに攻撃らしい攻撃もしてこなかった。前にここで起こした怪異では、人を肉の粘液へと変えていたと記憶しとりますが」

 

「大方、私達の手からは逃れられないと悟ったのでしょう。だから人質などを取り、脅迫をする……!」

 

「……まぁ、目的としてはそれで間違っちゃいないよ。でも、それは……」

 

でも。でも、何だ。これは理由があればやっても許される事なのか。

否、断じて違う。人の想いを踏みにじる行為は絶対に許されてはならないもので――だからこそ、僕は今に至っている。決して、飾ってはいけない。

 

「……いや、そうだね。僕は今から、あんた達に命乞いをするんだ。彼を死なせたくなければ僕達を見逃せと、情けなく、無様にね」

 

「……人質を離すのならば、命は助けましょう。記憶と怪異法録、そしてそこの霊魂に関してはその限りではありませんが」

 

「だから、ダメなんだよ。それじゃ」

 

もう何度か聞いたその選択肢に対し、僕は今回も首を振った。少女の怒りが更に激しく燃え上がる。

 

「……貴方は、それ程に手放したくないのですか。怪異法録、人を不幸に陥れる力を、そこまで……!」

 

「手放したくないね。最もそれは怪異法録じゃない、めいこさん達の方だけど」

 

「めい……? 何の話ですか?」

 

僕は息を一つ吐き、頭の中を纏める。

そうだ、僕が彼女達に要求する事は――目的を叶える道は、ただ一つ。

 

「――単刀直入に言う。どうか僕を。僕達『三人』を、あんた達の保護下に置いて欲しい」

 

……深く、頭を下げる。空気が凍てついた音を、聞いた気がした。

 

 

                      *

 

 

「……保護、ですって? 貴方は、キサマは一体何を言っているのです……!」

 

どれ程沈黙が続いただろうか。

薄汚れた地面しか映らない視界の中、髪飾りの少女の怒声が轟いた。

頭を上げれば彼女の身体を華炎が包み、その怒りを表している。リュウ君を盾にしていなければ、即座に焼かれていただろう。

 

「怪異法録を捨てたくないが為に華宮に取り入る? 戯言を! 私は――華宮はッ、キサマのような穢れを屠る為の家なのです! それを、都合のいい逃げ場とするなどッ……!」

 

「……あんた達の矜持か何かを傷つけたって言うなら、謝る。でもこっちも本気なんだ。牢屋に入れられたって構わない、僕から彼女達を奪わないでくれ」

 

「――ッ!」

 

その一言が更に油を注いだのか、漆黒の御髪が炎の熱で舞い踊り――ぽん、とキツネ目の男が彼女の肩に手を置き、宥め。

 

「ままま、落ち着いて落ち着いて。今はこちらに不利な状況ですし、とりあえずは話聞きましょ。それにほら、きっと少年君にも何かしら言い分があるのでしょうから――ネェ?」

 

こちらを見る細目には、背筋に伝わる程の冷気が込められているように見えた。

何かを間違えたらそこで終わりなのだと、粘着く唾液が乾いた喉を潤す。

 

「ふむ、ではまず何故怪異法録を……ああいえ、めいこさんでしたか? を手放したくないのか、理由をどうぞ」

 

「……一緒にいるって約束したって事もある。だけど、一番の理由は……仲間、だからだ」

 

「ほぅ、約束、仲間。まるでそれに意思があるような物言いですが――だとすれば、犯罪者仲間とか何かですかね?」

 

「そうだよ。そしてその表現なら、花子さんも合わせて贖罪仲間って事になる」

 

キツネ目の男の嫌味を全肯定し、静かに頷く。

贖罪という単語に、少女が小さく反応した。

 

「キサマは、自分のやった事を悔いていると……そういう事ですか?」

 

「…………」

 

すぐに答える事は出来なかった。

後悔、罪悪感、反省。全て感じている事ではある。けれど、もしまた山原達を殺した時に戻れたとしても、他に選択肢が無かった以上同じ事をしただろう。

何十回、何百回と繰り返したとしても、きっとそれは変わらない。

 

「……答えられないのですか。ではやはり、キサマは……」

 

「――あいつらは、死んで当然の奴だったんだよ」

 

少女の言葉を遮り、吐き捨てる。

飾らないと決めたのならば、本音をぶつけていくしか無い。

 

「僕が殺した二人、山原と井川は人間のクズだった。特に山原は小さい頃から色々やってて、あの時だってそうだったんだ」

 

「……二人? 以前この場で見つけた肉の粘液は、それ以上の被害者の……」

 

「他の人らは多分、先代の手帳所持者がやったんだ。十二年前の連続行方不明事件の結果が纏めて出てきただけ。あの粘液には、僕の両親も混ざってた筈さ」

 

投げやりに吐き捨てる。どうやらそこまでは調べていなかったらしく、二人は軽く息を呑んだ。少しは同情を引けたらありがたいけれど。

 

「……成程。まぁそれらについては分かりましたが……しかし、君の口ぶりでは贖罪の意思なと感じられませんがねぇ」

 

「――相手がどんなクズでも、人殺しは悪い事。認めたくないけど、当たり前の事だろ……!」

 

まだ感情では納得していない。けれど、それは向き合わなくちゃいけない事だ。

 

「山原を殺した後、その父親が訪ねてきたよ。アイツの境遇、考え、遺族の心――聞きたくなかった事を聞いて分かった。アイツらを殺したのは僕にとっては肯定したい事柄だ。でも、絶対にやっちゃいけない事でもあった」

 

「……場合によって人の焼殺を行う私達にとって、耳が痛い倫理ではあります」

 

「なら分かるでしょ。記憶が無くなれば、この気持ちを無くしてアイツらのいない天国を謳歌する。許せるかよ、そんなクソみたいな負け犬の結果……!」

 

「……何か変にプライド高いですねぇ、君」

 

吐き捨てるようなその釈明に、髪飾りの少女達から敵意が薄れたように思えた。といってもあくまで微量で、余り信じている様子ではないが。

 

「では歌倉女学院での件はどう説明するつもりですか? わざわざ忍び込んでトイレに行って、邪な目的以外考えられませんけども」

 

『それに関してはアタシの所為だね。ぶっ飛んだアタシの記憶を追って、その子は色んな所を周ってくれた。そしてその終着点があそこだったって話さ』

 

今まで様子を見ていた花子さんが声を上げ、これまでの経緯を軽く説明する。

おそらく、少女達はかつて歌倉で起きた不名誉な事件を知っていたのだろう。途中顔を険しくする場面もあったが、特に攻撃の意思は見られなかった。

全てを聞いた少女は静かに目を閉じ、更に眉間からしわを消す。

 

「……私達の間に様々な誤解や行き違いがあった、と。成程、お話は分かりましたが――やはり解せない事は残ります」

 

「解せない事?」

 

「はい。そこの……ええと」

 

『花子でいいよ。今更生前の名前で呼ばれる資格もないし、この子らにもそう呼ばせてる』

 

「では、花子様の事ですが、彼女は華宮の現当主、私の母に浄化されたのでしょう。ならば何故、貴女は未だ現世に留まっているのですか」

 

「……霊魂を復元したからだよ。これは、怪談と一緒に霊魂も戻す。あんただって花子さんの事何回も燃やしたけど、この通り元に戻ってるだろ」

 

「ええ、それは把握していますが……天に昇り、かなりの時間を経た霊魂でも、呼び戻す事ができるのですか?」

 

ちょこんと首を傾げる少女に、こちらも首が傾く。

これは――まさか。もしかして、だけど。

 

「……ひょっとして。あんたらめいこさんの事――怪異法録って奴の事、よく分かってないのか……?」

 

そう問いかけた途端、少女は僅かに目を細め、キツネ目は明後日を向き口笛を吹く。

どうやら図星のようだ。

 

「……こちらが把握している情報は、相対した場合に予測出来たものしかありません。詳細となれば、書を扱うキサマ……失礼、貴方より知識は少ないと言わざるを得ないでしょう」

 

「……言い方からして、何十年も追ってきた感じなんだろ。だったら……」

 

「秘密主義なんですよね、その手帳。過去に持ち主を捕らえ情報を探ろうとした際、持ち主と取り調べに当たった者は全員狂って死んじゃったそうですよ。怖いですネェ」

 

咄嗟にめいこさんを見ると、彼女はページの端をぶんぶん左右に振り『わたし知りません』アピールをしていた。気持ちが悪い。

 

(でも、そうなると苛烈な対応に納得は行く……)

 

過去にめいこさんを持った前任者達。

その軌跡を見る限り、大半は碌でもない犯罪者崩れだったのだろう。

それに加え、無理矢理手を出せば狂って死ぬと来たものだ。焼却処分する以外にどうすれば良いんだ、こんな物。

 

「あの歌倉での夜。私は貴方の霊力の少なさを見て書に手を出そうとしましたが……今を見れば、それは侮りだったようですね」

 

少女はそう言って気絶したままのリュウ君に視線を移すが、その目に宿る怒りは少なく――僕は、もう十分なのだと悟った。

 

「……花子さん」

 

『ん……あぁ、分かった』

 

年の功、とでも言うのだろうか。花子さんは僕の考えを察し、リュウ君の拘束を解いた。人質という切札が手元から離れ、少女達の前へと置かれたのだ。

 

「……何のつもりでしょうか。私達はまだ貴方を信用した訳では無いと、そちらも分かっていると思いますが」

 

「まだ、って言葉が付いただけでいいんだ。人質はもう、必要ない」

 

それに、新しいカードはたった今増えた。同時に情報を渡せば狂い死ぬかもしれないという恐怖が生まれるが、敢えて無視。

ここを凌がなければ、どうせ終わりだ。

 

「……さっきの、霊魂の復元に関する話。めいこさん――怪異法録は怪談を記録して、編集し。好きなように操る書物だ」

 

「……唐突ですね。そのくらいは知っています」

 

「じゃあ、その理屈は?」

 

「詳細は把握していませんが、地に宿る霊力と他者の霊魂を用い、記録した言霊を怪談という形で利用する、後付の霊能力としているのだと推察しています」

 

後付の霊能力とは、またぴったりの解釈である。僕は頷きを一つ返し、めいこさんを眼前に翳す。

火で狙い撃ちにされるかもしれないという危惧はあったが、彼女達は僕みたいに卑怯じゃないと信じた。

 

「本当は指向性何とかって用語があるみたいだけど、今は良い。彼女の中に怪談が記載されているからこそ、僕はちょっとだけ怪談の力を借りる事ができる」

 

「……ちょっとだけ?」

 

「霊力がみそっかすらしいからね。だから僕は花子さんと出会うまでは、正確には右腕がこうなるまでは霊力を使ったアプローチも出来ず――怪談の条件を整える事だけで再現してた」

 

「……ッ!」

 

少女の血相が変わる。察しは良いらしい。

 

「そう、最初にめいこさんの力を使った時、僕は霊魂の封入なんて手順を踏んでいない。分かるだろ、この意味」

 

「まさか……では、それでは……!」

 

「――元から霊魂は封入されてて、解放されて無かった。あんたらがどんなに焼いても、生きたままだったんだ。怪談は」

 

怪異法録と霊魂を燃やしても、囚われた霊魂には何の効果も及ぼさない。霊魂は怪異法録ではなく、怪談という形の無いものに封じられているのだから。

 

歴代の華宮が行った浄化とやらは尽くが不成立であったという証明。それは相当に少女の精神を揺さぶったと見えた。

彼女の身体がふらりと小さく揺れ、咄嗟にキツネ目がその背を支える。

 

「あー……っと、それが本当だという証拠とかは……」

 

「花子さんは当然として、この小路にあった肉の粘液。過去にあんたらが解決したっていうんなら、今になって現れる訳無いだろ」

 

「……まぁ、ですよねぇ」

 

ハハハと笑うキツネ目も、心なしか動揺しているように見える。

自分達のやっていた事が、根本的な解決になっていなかった。そのショックは僕には分からなかったけど、先程の家を誇りに思っていた様子からして決して小さくは無いのだろう。

 

――たたみかけるならば今ここだ。瞳孔が収縮し、呼吸が浅くなるのを感じた。

 

「そして、それはめいこさんにも当て嵌まる」

 

「……どういう事ですか」

 

キツネ目の腕の中で少女が僕を睨む。その目は決して適当な事は許さないという意思が込められており、喉元に言葉が詰まる。

けれど、ここまで来たらもう後には引けない。

 

腹に力を込め、ダメ押しのように言葉を重ねた――。

 

 

「――僕は、ここに居るめいこさんは本当の怪異法録じゃない。そう考えてる」

 

 

                      *

 

 

『……え……?』

 

カサリ、と。手元で揺れた手帳に、たった一文字が記された。

 

「……どういう事ですか。その手帳が、偽物だとでも……?」

 

「ある意味ではそう……なのかな。完全に纏まってる訳じゃないんだ、僕も」

 

確証は無い。しかし例の夢や調べた情報、これまでに見知った全てを合わせるとそうとしか思えないのもまた事実。

 

「あんたらは知らないだろうが、めいこさんには過去の所有者の軌跡……その全てが記載されてない。それは人間で言えば、記憶を失っているとも表現できる」

 

今なら分かる。以前彼女がよく言っていた『その情報は本書に記載されておりません』という一文。

あれは仕様や不親切さから来る物では無く、記憶喪失であるという自己申告でもあったのだ。

 

「多分、めいこさんと花子さんに起きた事は根本的に同じなんだ。どっちも過去にあんたらが言う所の浄化ってやつで燃やされて、けれど解放されないまま、記憶だけを失い復元され続けている……」

 

「……確かに要素だけを見ればそうでしょう。ですが書物は書物、人ではない」

 

「じゃあ、人間なんだよ。めいこさんは」

 

少女達が訝しげな表情を浮かべるが、残念ながらその事実は証明する手立てが今は無かった。故に、努めて無視するしか無く。

 

「そもそも彼女に限っては、何回も焼かれて復活する所か存在からしておかしいんだ。怪異法録の怪談はめいこさんの中に記載されてないんだから、再現される条件も何も無い筈なのに、ここにある」

 

「いいえ、呪いや怨念というのはそういう物です。理屈や道理など無視し、ただ強い執念により発生する」

 

「それこそ違うね。めいこさんはしっかり手順を踏んで僕の下に来た。オカルトなんて時点で大概に滅茶苦茶だけど、それでも前提の理屈と道理は守ってる。それが矛盾を示しているにもかかわらずさ」

 

思い出すのは、かつて見た花子さんと保険医の記憶。

その中で彼は生前の彼女の抵抗に遭い、血飛沫を己の情念を綴ったノートに飛び散らせていた。そして直後に一線を越え、ノートは怪異法録へと生まれ変わった……。

 

おそらく、それが怪異法録という怪談の再現条件だったのだ。

文章にするならば、『己の濃い念を綴った書物に、血液を垂らす』とでも言った所だろう。

そうとするならば道理は通る。僕もまた、元の手帳に鼻血を垂らす事で確かにそれを満たしているのだから。

 

「……僕はこれまで、怨念に塗れた幽霊を二人見たよ。どっちも黒い泥を吐いて、僕を殺そうとして、 狂ってるって表現がピッタリの有様だった」

 

『……耳が痛いね』

 

「でも、めいこさんはそれとはまるで違う。現れた当初から今に至るまで……まぁ、色々変わっちゃったけど、怨念なんて言葉とは全く無縁だ」

 

触れ合えば霊力から来る寒気は奔る。でも、悪意を感じた事は一度だって無い。

僕は赤い革表紙を一撫でし、中身を見せつけるように少女へと開く。

 

『え、ええっと。わたしは、本書ではない? ではわたしは、なにものなので、あっ、にせもの? いやそんなばかな、むーん、わけがわからない、およよ』

 

「……何時もこんなだよ。コイツ」

 

「…………」

 

その場にそぐわない雰囲気の文章を見た少女は、ついっと静かに視線を外した。

どうやらあちらも怨念だの執念だのは無理があると思ったらしい。

 

「怨念を持たないのならば、他に要因がある筈だ。彼女が現実にここにあるのなら、それを成す為の理屈と道理が、絶対に」

 

「……それが、もう一つの怪異法録だと?」

 

「ああ、そう考えれば全部纏まる。めいこさんに自身の記憶が無い事も、何度焼かれても復活する理由も。僕が見たあの記憶の理由だって、全部……!」

 

熱に浮かされたように舌がよく回り、記憶の奔流が脳裏を灼いた。

それは少し前にも見た、色あせた老人の記憶。

 

彼が幼い少女を拾った日。

彼女と暮らす穏やかな日々。

彼女を失い、その焦げ粕を胸に抱いての慟哭。

憎しみに狂い果て、その死体を分解し書物へ作り変える惨劇。

 

そして――怪異法録と書かれた書物に血が飛び散った、あの一瞬。

 

老人の怨念を含んだ死体がめいこさんの雛形となり、怪談の、怪異の呼び水として完成したあの瞬間。

同じ時間、同じ場所で、正に条件を満たした可能性を持つ書物があったではないか。

 

そう、それだ。それこそが、きっと設計図。

 

 

「――この街には、あと一つ。めいこさんとは別に、『怪異法録』という怪談を記した怪異法録があるんだ……!」

 

 

――そしてその怪談には、ある妖怪の欠片が封入されている筈だ。

 

騙され焼かれ、何も分からぬまま殺された覚り妖怪の霊魂。その焦げ粕。

怪談の再現という能力は副次的効果に過ぎない。それに伴い行われる魂の復元という現象こそが本命。

 

花子さんが焼かれた記憶を、失った霊魂としての存在を取り戻したように。

このシステムを作った者は、幾度も繰り返される『怪異法録』の再現の中で、長い永い……それこそ気が遠くなるような時間をかけて、愛しき彼女の霊魂が完全に復元される時を待っている――。

 

「…………」

 

「…………」

 

痛いほどの静寂。

単なる素人の妄言と言えばそれまでであり、すぐに反論か何かが飛んでくるとも思っていた。しかしそれも無く、ただ虫の鳴き声が微かに響き続けるのみ。

 

そうして嫌な緊張感に耐えていると、やがて少女が静かに口を開いた。

 

「……率直に、言って」

 

「……?」

 

「貴方の言う事を全て信じる事は……出来ません。もう一冊の怪異法録など、与太話にすぎる」

 

……まぁ、当然だろう。僕だって逆の立場であれば必死に穴を探している。

彼女を見据え、首肯を一つ。

 

「……でも、これで僕を処分するという選択肢はかなり選び辛くなった筈だ。めいこさんを燃やしても意味は無く、むしろマイナスになり得る」

 

言わば僕は、トカゲにおける尻尾の部位だ。

消せば取っ掛かりが消え、返って本体の捕獲が難しくなる。

 

「それは……甚だ遺憾ではありますが、認めます。ですがやはり、私は……」

 

少女は眉を顰め、深く深く思考する。

 

きっとその胸中には、僕の及びもつかない様々な物が渦巻いているのだろう。

お硬いな、と彼女を責める事は出来ない。実際世間にとってめいこさん――怪異法録とは害以外の何物でもなく、関わった者はその多くが取り返しのつかない事になっている。

 

僕も、めいこさんも、花子さんも。本当ならここに立っている事すらおこがましい。

 

(……だったら……)

 

全力で逃げ、全力で立ち向かい、全力で説き伏せた。

倫理観や良心を殺し、優等生で居る事に必要な殆どの事をぶん投げ、ただ華宮達を凌ぐ事だけを考えていた。

 

だったら今更躊躇する事も無い。僕はすぐさま地面に膝を付き――心中で暴れるプライドを下唇ごと噛み切って、勢い良く額を接地させる。

 

 

――土下座。世にも情けない負けの姿勢を、負けない為に取ったのだ。

 

 

「……貴方は……」

 

「――頼むよ。最初に言った贖罪したいって言葉、あれは誤魔化しでも何でもない本心なんだ」

 

少女が困惑した声を上げるが、顔は見えない。目に映るのは地面の黒だけだ。

……土下座なんて山原にだってした事無かったのに。手酷い敗北感が去来し、心に隙間風が差し込んでくる気さえする。

 

「服役しろって言うならするし、罰が下るならそれも受ける。怪談に囚われた霊魂を全部解放したいのなら、全面的に協力もする。だから、僕達を僕達のままで居させてくれ……!」

 

『……アタシからも、頼む。許してやってくれとは言わない、ただ、謝らせてやっておくれよ』

 

『えっ、あ、わ、わたしも。わたしからも、お願いする、でありますっ』

 

「…………」

 

すぐ隣で花子さんが頭を下げる気配がした。同時に握ったままのめいこさんもカサカサと自己主張していたが、決して顔は上げない。

 

「僕はこのまま、犯罪者のままで終わるのは嫌だ。ちゃんとやった事を覚えて、贖罪と約束を果たしたい。そうじゃないと、顔向け出来ないから」

 

「……誰に対して、ですか」

 

「花子さん、めいこさん、殺した二人、優等生の僕と……そして――」

 

……その先は、声に出なかった。

思い出すのは、小さい頃から僕を褒めてくれていた温かい声。

今の僕の芯ともなっている、たった一言。

 

 

――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。

 

 

「……顔を、上げてください」

 

はぁ、と。溜息を吐く音が聞こえた。

恐る恐る顔を上げれば、見えたのは厳しさのある双眸。よくよく見れば迷いの光が揺らめいており、僕の心を不安で炙った。

 

「…………」

 

しかしそれもすぐに消え、少女は静かにこちらへと歩み寄る。

僕として生きるか、それとも死ぬか。今が判決の時だ。

 

緊張に身が震え、取り繕った仮面がボロボロと剥がれ落ちていく。

 

息苦しい。動機が荒い。

そんな一杯一杯の僕の眼前に立った彼女は、袖口から栞を一枚取り出して、

 

――そして一瞬の躊躇の後、僕めがけ、それを投げ放った。


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