聖櫃に抱かれた子どもたち   作:佐伯寿和2

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少年の悪夢
金の膿


エルク――――

 

『エルク?』どこかで聞いた名前だ……

 

一体ここはどこなんだ?

昼も夜も見分けのつかない暗い森の中に、俺はいた。

人ひとりが寝転がるスペースもない。右を向けど、左を向けど、目に映(うつ)るのは似(に)たような形の木々ばかり。

不自然に、身を寄せ合うように林立(りんりつ)するそれらはまるで政治家の演説(えんぜつ)を傾聴(けいちょう)する大衆(たいしゅう)のようにも見えた。

 

俺は、走っていた。

前も後ろも分からなくなるくらいに密生(みっせい)した木々の間を縫(ぬ)うように、俺は走っていた。

立(た)ち塞(ふさ)がるように生(は)えるそれらを掻(か)き分(わ)け、脇目(わきめ)も振(ふ)らず。

 

聞こえない。

視界を遮(さえぎ)る枝葉を乱暴(らんぼう)に掻き分ける音も。

足元を掬(すく)うように敷(し)き詰(つ)められた落ち葉を蹴散(けち)らす音も。

自分の息遣(いきづか)いさえも。

何も聞こえない。

 

そんな状況(じょうきょう)なのに、誰かが俺を呼んでいる気がした。

振り返る。

すると、そこに一人の女の子がいた。

繁(しげ)る枝葉が彼女を隠すけれど、俺の目にはハッキリと彼女の姿が見てとれた。

 

象牙(ぞうげ)のようにきめ細(こま)かく、ほんのり黄色味(きいろみ)を帯(お)びた白い肌(はだ)。

貴金属(ききんぞく)みたいに無機質(むきしつ)なプラチナブロンドの髪(かみ)。

南洋(なんよう)の浅瀬(あさせ)のように鮮(あざ)やかで深みのあるターコイズの瞳(ひとみ)。

生(は)え揃(そろ)ってない赤ん坊のように薄い眉(まゆ)。

そこはかとなく背伸びしているような高い鼻。

白い肌に一滴(いってき)だけ桃色を落としたような、拭(ふ)けば消えてしまうような淡(あわ)いピンクの唇(くちびる)。

 

俺と同じくらい小さな体に、俺とは比(くら)べ物(もの)にならないくらい沢山(たくさん)の「キレイ」が詰(つ)まった女の子。

 

……俺は彼女を知ってる。

よく知ってる。

…知っているはずなのに名前が思い出せない。

 

思い出せないのに、俺は女の子の細い手首を掴(つか)んで必死に走ってる。

どうして走っていて、どこへ向かっているのかも分からない。

それでも…、それでも、迷い人を求める奇怪(きかい)な森の中を、俺たちは無我夢中で走っていた。

 

女の子を連れて間もなく、大人たちの怒号(どごう)が聞こえてきた。

犬の吠(ほ)える声と混(ま)じってなんと言っているのか分からない。

分からないけど、大人たちが何を言っていようとも俺たちは立ち止まっちゃいけない。

なぜかは、分からない。

 

何も聞こえない森のはずなのに、奴らの声だけはよく聞こえた。

執拗(しつよう)に、俺の耳に絡(から)み付(つ)いてくるんだ。

 

町一つ駆(か)け抜(ぬ)けるくらいの気持ちで走り続けたと思う。

それでも大人たちの悪意に満ちた声は付かず離れず追って来る。

振り返ると、そこに女の子の姿はなかった。

俺は、一人で走っていた。

訳(わけ)も分からず俺は狼狽(ろうばい)し、急いで引き返すと、10数m後方で木の枝に足を取られ倒れ込む彼女を見つけた。

 

駆け寄ろうとすると、女の子は何事(なにごと)かを叫(さけ)んでいた。

けれども、その叫び声もやはり森が食べてしまって聞こえない。

…聞こえないんだ。

 

それでも大人たちの荒(あ)れ狂(くる)った叫び声と犬たちの獰猛(どうもう)な殺意との距離は、みるみる間に縮(ちぢ)まっていく。

聞き取れないまま、俺は何かに突き動かされるように、走り出した。

女の子を置(お)き去(ざ)りにして。

そのまま、遠く、遠くまで走った。

大人たちの声が聞こえなくなるまで――――

 

振り返ると、女の子は捕(つか)まっていた。

恐くて、俺は立ち止ることもできなくなっていた。

振り返る度(たび)に女の子は群(むら)がる大人たちに取(と)り囲(かこ)まれていく。

獲物(えもの)を捕(と)らえた森の木々が、女の子を森の底に埋(う)めるように倒れていく。

ハエトリグサのように、景色の端(はし)と端からジワジワと。

大人もろとも女の子を押(お)し潰(つぶ)していく。

 

静かに、静かに。

悲鳴(ひめい)も、吹き出す血の一滴も逃(のが)すことなく静かに、静かに――――

 

 

――――ダメだ!!

 

 

女の子を見殺しになんかできない!

俺は無力なんかじゃない!今からだって助けに行ける!

 

俺はまた、走った。

今度は女の子を助けるために、がむしゃらに。

 

でも……、走っても、走っても元いた景色(けしき)に近づけない。

刻一刻(こくいっこく)と森は閉(と)ざされていく。

女の子は大人の血肉と混ざり合い、醜(みにく)く潰されて―――、

 

 

――――潰れてしまった。

 

 

間に合わなかった。

一歩も近づけないまま、彼女は俺の前から消えた。

 

何もない、真っ暗な景色が俺を取り囲む。

…何もない。

聞こえないし、見えないし、感じない。

そこに時間があるかどうかもわからない。

でも、俺はそこにいた。

ただ、そこにいた。

心臓は動いてるのに息をしていない。

自分の姿は見えているのに体はピクリとも動かない。

ただただ、そこにいた。

 

「ミ…、ミリ、ミリ……、」

 

 

 

 

―――ずっと、待っていたわ

 

うわぁ!!

 

前触(まえぶ)れもなく、森に飲み込まれたはずの女の子が足下から絡みついてきた。

…いいや、それはもう『女の子』じゃない。

全身に縫合(ほうごう)の痕(あと)があった。隈(くま)なく、全身に。

象徴的(しょうちょうてき)だった綺麗(きれい)な金髪の半分以上が剃(そ)り落(お)とされ、露(あらわ)になった頭部にも施(ほどこ)されたそれはもはや、医療(いりょう)が目的ではないと一目で分かる乱雑(らんざつ)さだった。

それは壊(こわ)れた人形を弄(いじ)くり回した痕だった。

爬虫類(はちゅうるい)のように細い瞳孔(どうこう)の目玉が左右バラバラに動き、虚(うつ)ろに俺を睨(にら)む。

一方の手首から先は切断されていて、一方には鷹(たか)の足が生(は)えていた。

人でない方の足は、俺の太ももを握(にぎ)り潰さんと掴んで放(はな)さない。

 

「あの時、私の手を放さないでいてくれれば、私はこんな姿にはならなかったのよ。」

唇は蛭(ひる)のように醜く膨(ふく)れ、大量(たいりょう)の唾液(だえき)が二枚の唇の間に何本もの糸を引いている。

言葉を紡(つむ)ぐ度にそれは彼女の顔面を這(は)い回り、捕食者を名乗るように粘着性(ねんちゃくせい)の不快(ふかい)な音を立てる。

「助けて、欲しかったのに。アナタは私を置いて一人で行ってしまったから。だから――」

化け物はワニのように口を大きく開き、最後の呪いの言葉を吐(は)く。

「――復讐(ふくしゅう)しにきたの。私は、お前の弱さを忘れない。」

違う。

俺は弱くなんかない!逃げたんじゃない!

違うんだ!

違う、違う、違う、違う、違う!!

 

 

 

 

―――エルク!

 

「うわぁ!!」

手足に絡みつく闇夜が突然(とつぜん)、俺を放したかと思えば、それらを追い払ったのだろう眩(まばゆ)い陽(ひ)の光が俺の脳みそを強く殴(なぐ)った。

…何も見えない。

 

そこに、俺を取り囲んでいた闇は一片(いっぺん)もない。

ごくごく平穏(へいおん)な空気の中で、俺は繰(く)り返(かえ)し聞こえてきた名前を頭の中で何度も、何度も反芻(はんすう)させた。

エルク、エルク……

ああ、そうか。そうだった。

 

俺は、ほつれの目立つ赤茶けたソファの上で眠っていた。

薄汚れた天井があって、同じように薄汚れたファンがのんびりと呆(ほうけ)けたように回っている。

外は文句(もんく)なしに晴れていた。埃(ほこり)臭くも陽気(ようき)な、温かい風の肌触(はだざわ)り。至(いた)って平穏な日常。

その中に、自分の名前に疎(うと)い男はいた。

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