エルク――――
『エルク?』どこかで聞いた名前だ……
一体ここはどこなんだ?
昼も夜も見分けのつかない暗い森の中に、俺はいた。
人ひとりが寝転がるスペースもない。右を向けど、左を向けど、目に映るのは似たような形の木々ばかり。
不自然に、身を寄せ合うように林立するそれらはまるで政治家の演説を傾聴する大衆のようにも見えた。
俺は、走っていた。
前も後ろも分からなくなるくらいに密生した木々の間を縫うように、俺は走っていた。
立ち塞がるように生えるそれらを掻き分け、脇目も振らず。
聞こえない。
視界を遮る枝葉を乱暴に掻き分ける音も。
足元を掬うように敷き詰められた落ち葉を蹴散らす音も。
自分の息遣いさえも。
何も聞こえない。
そんな状況なのに、誰かが俺を呼んでいる気がした。
振り返る。
すると、そこに一人の女の子がいた。
繁る枝葉が彼女を隠すけれど、俺の目にはハッキリと彼女の姿が見てとれた。
象牙のようにきめ細かく、ほんのり黄色味を帯びた白い肌。
貴金属みたいに無機質なプラチナブロンドの髪。
南洋の浅瀬のように鮮やかで深みのあるターコイズの瞳。
生え揃ってない赤ん坊のように薄い眉。
そこはかとなく背伸びしているような高い鼻。
白い肌に一滴だけ桃色を落としたような、拭けば消えてしまうような淡いピンクの唇。
俺と同じくらい小さな体に、俺とは比べ物にならないくらい沢山の「キレイ」が詰まった女の子。
……俺は彼女を知ってる。
よく知ってる。
…知っているはずなのに名前が思い出せない。
思い出せないのに、俺は女の子の細い手首を掴んで必死に走ってる。
どうして走っていて、どこへ向かっているのかも分からない。
それでも…、それでも、迷い人を求める奇怪な森の中を、俺たちは無我夢中で走っていた。
女の子を連れて間もなく、大人たちの怒号が聞こえてきた。
犬の吠える声と混じってなんと言っているのか分からない。
分からないけど、大人たちが何を言っていようとも俺たちは立ち止まっちゃいけない。
なぜかは、分からない。
何も聞こえない森のはずなのに、奴らの声だけはよく聞こえた。
執拗に、俺の耳に絡み付いてくるんだ。
町一つ駆け抜けるくらいの気持ちで走り続けたと思う。
それでも大人たちの悪意に満ちた声は付かず離れず追って来る。
振り返ると、そこに女の子の姿はなかった。
俺は、一人で走っていた。
訳も分からず俺は狼狽し、急いで引き返すと、10数m後方で木の枝に足を取られ倒れ込む彼女を見つけた。
駆け寄ろうとすると、女の子は何事かを叫んでいた。
けれども、その叫び声もやはり森が食べてしまって聞こえない。
…聞こえないんだ。
それでも大人たちの荒れ狂った叫び声と犬たちの獰猛な殺意との距離は、みるみる間に縮まっていく。
聞き取れないまま、俺は何かに突き動かされるように、走り出した。
女の子を置き去りにして。
そのまま、遠く、遠くまで走った。
大人たちの声が聞こえなくなるまで――――
振り返ると、女の子は捕まっていた。
恐くて、俺は立ち止ることもできなくなっていた。
振り返る度に女の子は群がる大人たちに取り囲まれていく。
獲物を捕らえた森の木々が、女の子を森の底に埋めるように倒れていく。
ハエトリグサのように、景色の端と端からジワジワと。
大人もろとも女の子を押し潰していく。
静かに、静かに。
悲鳴も、吹き出す血の一滴も逃すことなく静かに、静かに――――
――――ダメだ!!
女の子を見殺しになんかできない!
俺は無力なんかじゃない!今からだって助けに行ける!
俺はまた、走った。
今度は女の子を助けるために、がむしゃらに。
でも……、走っても、走っても元いた景色に近づけない。
刻一刻と森は閉ざされていく。
女の子は大人の血肉と混ざり合い、醜く潰されて―――、
――――潰れてしまった。
間に合わなかった。
一歩も近づけないまま、彼女は俺の前から消えた。
何もない、真っ暗な景色が俺を取り囲む。
…何もない。
聞こえないし、見えないし、感じない。
そこに時間があるかどうかもわからない。
でも、俺はそこにいた。
ただ、そこにいた。
心臓は動いてるのに息をしていない。
自分の姿は見えているのに体はピクリとも動かない。
ただただ、そこにいた。
「ミ…、ミリ、ミリ……、」
―――ずっと、待っていたわ
うわぁ!!
前触れもなく、森に飲み込まれたはずの女の子が足下から絡みついてきた。
…いいや、それはもう『女の子』じゃない。
全身に縫合の痕があった。隈なく、全身に。
象徴的だった綺麗な金髪の半分以上が剃り落とされ、露になった頭部にも施されたそれはもはや、医療が目的ではないと一目で分かる乱雑さだった。
それは壊れた人形を弄くり回した痕だった。
爬虫類のように細い瞳孔の目玉が左右バラバラに動き、虚ろに俺を睨む。
一方の手首から先は切断されていて、一方には鷹の足が生えていた。
人でない方の足は、俺の太ももを握り潰さんと掴んで放さない。
「あの時、私の手を放さないでいてくれれば、私はこんな姿にはならなかったのよ。」
唇は蛭のように醜く膨れ、大量の唾液が二枚の唇の間に何本もの糸を引いている。
言葉を紡ぐ度にそれは彼女の顔面を這い回り、捕食者を名乗るように粘着性の不快な音を立てる。
「助けて、欲しかったのに。アナタは私を置いて一人で行ってしまったから。だから――」
化け物はワニのように口を大きく開き、最後の呪いの言葉を吐く。
「――復讐しにきたの。私は、お前の弱さを忘れない。」
違う。
俺は弱くなんかない!逃げたんじゃない!
違うんだ!
違う、違う、違う、違う、違う!!
―――エルク!
「うわぁ!!」
手足に絡みつく闇夜が突然、俺を放したかと思えば、それらを追い払ったのだろう眩い陽の光が俺の脳みそを強く殴った。
…何も見えない。
そこに、俺を取り囲んでいた闇は一片もない。
ごくごく平穏な空気の中で、俺は繰り返し聞こえてきた名前を頭の中で何度も、何度も反芻させた。
エルク、エルク……
ああ、そうか。そうだった。
俺は、ほつれの目立つ赤茶けたソファの上で眠っていた。
薄汚れた天井があって、同じように薄汚れたファンがのんびりと呆けたように回っている。
外は文句なしに晴れていた。埃臭くも陽気な、温かい風の肌触り。至って平穏な日常。
その中に、自分の名前に疎い男はいた。