……口の中が、血の味で一杯
でも、これは私の”血”じゃない
……エルク、これは私じゃないの
分かって、エルク…………
「エルク……」
彼女の目が、また青白い光を放っていた。周囲に無数の白い結晶を舞わせ、右腕からは白い剣を生み出していた。
「ミリル……」
「……」
声を掛けても返事はない。ミリルは、そこにいない。
「!?」
さっきよりも鋭く、さっきよりも分厚い『冷気』が吹き荒れる。
『白い風』、『氷の礫』、『氷柱』が四方八方から襲い来る中、俺はなぜか必死にそれを避け続けていた。
攻撃することもなく、無抵抗に殺されることもなく。
……俺は心のどこかで、まだ彼女を助けられるような気がしていたんだ。
まだ、心のどこかで神様が何とかしてくれるんじゃないかって期待してたんだ。
神様なんかいない。
分かってる。
俺に、彼女を助けられるような”力”なんてないんだ。
分かってる。
それでも――――、
「ッツ!」
集中力を欠いた隙を突き、2、3発の氷弾が左足を貫く。我慢できなくはない。だけど、そう長くはもたない。
打開策の一つもない。
……ゴメンよ、ミリル。お前の手で終われるのが唯一の救い、かもな。
俺は『風』の動きから目を離し、彼女の青く光る双眸だけを見詰めた。俺を殺そうとしている中でも、彼女は、ほんの少し笑ってくれているような気がした。
死ぬ前に見るのが彼女で、本当に良かった……。
「?!アアァァアアアァアァァァッ!!」
するとまた、何かを切っ掛けに彼女は張り裂けるような悲鳴を上げながら仰向けに倒れてしまった。
痙攣しながらも、小さな頭を抱えて壁に打ち付け始めた。
「ミリル!!」
俺には発狂する彼女をどうにか押さえつけてやることしかできない。
「……クソッ、どうすりゃあいいんだよ。」
「エル、ク…、逃……げて……」
「…ミリル……」
どうして……、どうしてそこまでして俺を護ろうとするんだ。
俺はお前を護ることだってできない「弱い化け物」なのに――――。
――――”白い家”コントロールルーム
”白い家”の設備は人間の理解を凌駕していた。命を造り、操り、強化する能力は”精霊”さえも出し抜いていると自負できる。
抗えるはずもない。たかが――――、
ブタやトリの肉を食い、貧困を悪とすることしかできない人間ごときには。
「エ、”M”が命令を受け付けません。」
ところがどうだ!!
この矮小な『命』はワシの『力』さえも抑えつけよる。一年にも満たない間に芽生えた”愛”ごときのために。この女は世界の理屈を歪める術を身につけたのだ。
……まったく見事じゃないか。
美しいぞ、ミリル。お前こそ、ワシの理想だ。
だが…、まだだ。
お前ならば、分かるだろう?
理想は成さねば『悪夢』でしかない。
ワシは完璧なお前が見たいのだ。
「……その手助けをしてやろう。」
悪魔は、「理想」という画家を探し求めていた。
帰る家さえも見失った彼は自らの手で「家」を生み出し、多くの子どもを産み続けた。
全ては彼の思い描く「理想」のために。
彼が追い求める”愛”のために。
「”M”を壊せ。」
「は?」
「聞こえんのか?”M”を壊せと言ったんだ。」
この極限の状態に追い込まれたお前はワシに何を魅せてくれる?
さあ、愚かなワシに教えてくれ!
「…よ、よろしいのですか?あの水準にまで達した成功例は非常に稀です。次また同じものを造れるかどう…がっ?!」
恍惚に水を差された紅い悪魔は、研究員の顎を掴み躊躇いなく潰した。
「余計なセリフを吐くように仕込んだ覚えはなかったのだがな…。これが生き物である限界か。俗悪な欲には抗えんらしい。」
掴んだままの男の手は、痙攣する肉を貪っていた。ヂクヂクという品の無い音を立て、決して満たされない胃袋へと堕としていた。
そこは決して救いの手の差し伸べられることのない、暗い暗い奈落の底。
魂たちの淀む『生』と『死』の狭間。
「人形が人形らしく振る舞えないのであれば…、それはいったい何なのだろうな?」
一匹を喰い捨て、悪魔は隣の男に囁きかける。
彼の殺意は人形たちの身体へと流れ込む。一枚の壁もない裸の心へ。
「は、はい!」
そこには大人も子どももない。
彼の殺意は完璧に磨かれたコンバットナイフ。剥き出しのペニスを撫でれば、抗いようのない痛みと恐怖が否応なく『命』を『人形』たらしめていく。
悪魔が着々と自分のための舞台を整えている後ろで、萌葱色の死に神は眉間に皺を寄せていた。
「いいのか、傑作なのだろう?」
彼は悪魔の導きによって”快楽”を理解するまでに至った。しかし――――、
なぜそこまで”複雑な快楽”を求めるのか。
彼を”突き動かしている快楽”が何なのか。
”快楽”と”愛”の間には深い、深い隔たりがある。今の死に神にはその「隔たり」を認識することができない。
「川」と「海」の区別がつかない子どものように。
「壊してこそ、創った甲斐があるというものよ。終わりを見て初めて満足できる活劇のようにな。」
無知な彼を捨て置き、悪魔は詠う。まるで吟遊詩人のように優しく、丁寧に、舐る。
「それに、サンプルならある。レプリカを造るだけならオリジナルを壊したとて何の支障もないわ。」
余談のように軽く付け足す悪魔の瞳は、大舞台に釘付けになっていた。
すると、研究員の一人が、恐るおそる悪魔に緊急事態を告げる。
「……なんだ。」
「四時方向より所属不明の戦艦が接近しています。」
聞くなり悪魔は溜め息を漏らし、夢中になっていたはずのモニターから視線を外す。その顔にはいくらか人間らしい表情が戻っていた。
「……来たか。意外に早かったな。」
悪魔は彼の来訪を予知していた。
「来ない訳がない」と確信していた。
「ソレが来る」と予告されていた死に神もまた、自分の目の前にまでやって来るであろう青年の利発で勝気な顔を思い浮かべる。
あの手この手で彼らのリンチを掻い潜ってしまう、決して道を譲らない路傍の石を。
「大した時間稼ぎにもならんだろうが、丁重に出迎えてやれ。」
「ここで迎え撃つつもりか?」
そのために自分をこの場に呼びつけたのかもしれない。悪魔の「儀式」に集ろうとするハエを追い払わせるために。
死に神は悪魔の狡猾なやり方に舌打ちをしながら問いただす。
しかし、悪魔はそれを否定するように両手を上げ、軽く笑い飛ばした。
「まさか。この”家”の人間には予めアークの襲撃は伝えてある。今頃は各自退避し始めている頃だろうよ。」
「ここを放棄するつもりか。」
死に神は悪魔の思想が詰まった場所に忌まわしさを覚えつつも知らず識らず、”白い家”に名残惜しさを覚えていた。
二匹のドブネズミの醜い遣り取りを見て、実に楽しそうに笑う悪魔の造った”オモチャ箱”に。
悪魔の宣言通り、魅入られていたのだ。
ところが、当の悪魔は死に神のような執着心を見せることはなく、淡々と用意した段取りを説明していく。
「必要なことをしているまでよ。勇者には最後まで勇者を気取ってもらわねば意味がないだろう?」
「……貴様、まさかあの方の所まであのゴミどもを引き込むつもりか。」
彼らには「ロマリア四将軍」という裏の職務があり、ロマリアには彼らを統べる「王」がいた。
しかし、その「王」も今は訳あって城の中に身を隠している。そんな大事の時、彼の地に無用の争いを持ち込んでいいはずがなかった。
だのに悪魔はそんな暗黙の了解を軽んじ、平然と破ろうとしていた。
「確かめねばなるまい?あの方の眼鏡に叶うか否か。万一、お気に召さないのであればその場でキサマが葬ればいいだけの話よ。違うか?」
「戯けたことを。それがどれだけ忠君の顕れであろうと、主人の寝床にドブネズミを仕込んでいい道理になるものか。」
口にしつつ、死に神にはこの口論もまた悪魔の仕組んだ厭らしい奸計の一つのように思えてならなかった。さらに、自分にはそれ以上の選択肢はないようにも思えていた。
悪魔が匂い立つ声で囁くまでは――――。
「ワシの”影”が、そこに何か仕掛けていたとしてもか?」
「……」
ガルアーノ・ボリス・クライチェック、彼には万が一のために身代わりとなる「影」がいた。
彼に及ばずも聡明で狡猾な「影」は、主人を殺すために多くの企み事を張り巡らせていた。彼がそれを許していたのだ。
彼の数少ない楽しみの一つとして。
「同じことだ。いいや、むしろ確固たる決意に変わったわ。」
「フハハハッ、意地を張るな。キサマももう気付いておるのだろう?自分がどうしようもなく”命ある存在”であると。」
「……」
「影」はこの世から消えた。つい先日、彼の舞台に上がり込んだもう一つの『影』の手によって。
「想像してみろ。万が一、万が一、我らが討ち取られ、ロマリアが火の海になる様を。」
しかし、死してなお「影」は自身と共に息づいている。この足元から伸びる黒いモノが、自分の首に手を伸ばすのではないかと悪魔は興奮していた。
そんな様に死に神は嫉妬していた。
「愉快ではないか?いいや、愉快だろう!!どうしてだか分からない顔をしているな。ならば教えてやろう。それはな――――」
悪魔の浮かべた得意の笑みは、死に神との格の違いを見せつけていた。
「ワシのオモチャが良いオモチャだからよ。」
やはり、ここで始末すべきなのだろうか。
理解の斜め上をいく悪魔の数々の行為に、純粋な『死に神』であろうとする彼は自分の行動を決めかねていた。
――――”白い家”地下水路
「エルク…、ア、ア……」
嘔吐く悲鳴に合わせて、彼女の容姿は変貌していく。
パーツそのものは変わらないのに、それがつくる表情が異様というだけで人はこんなにも化け物染みた顔になるんだ。こんなにも『悪夢』に近付くんだ。
彼女の身体は瞬く間に冷たくなり、細氷が周りを飛び交い始める。
「どうした。すぐにでもミリアはお前を襲うぞ?殺すなら今の内だ。…もちろん、逃げるという選択肢もあるがな。まあ、お前の好きなようにするといい。」
悪魔の声が耳元で囁いている。
「ア…、アア……エル…アァ……」
「ミリルから聞いただろう?ソイツは手術中に何度も暴れたのだ。その度にジーンを投入した。唯一コイツが傷付けるのを躊躇う相手がジーンだったからだ。それもつい最近では効かなくなってな。とうとうアレをあんな姿にしてしまいおった。」
傷だらけの親友の姿がチラつく。
「それでも奴は必死にミリルを宥めよる。分かるか?ジーンは自分が不自由の身になろうとミリルを護り続けたのよ。お前はそんな健気な男を炭に変えてしまった。そして今、キサマの命を身を挺して護った女に対し、お前にはやはり”殺す”という選択肢が迫っている。」
「……」
違う。逆だ。
俺はここでミリルに殺されなきゃいけないんだ。何かが償われる訳じゃない。彼女の苦しみが癒される訳じゃない。それでも俺は、ここで死ぬべきなんだ。彼女の手で。
「オカシイとは思わんか?狂っているとは思わんか?」
俺が、どんな状態であっても悪魔の声は常に耳元で聞こえてくる。
そこに、いる。
藁で隠した穴に落としたくてウズウズしているんだ。
「この世にはお前よりも恵まれない人間は巨万といる。だが、その身に『化け物』を住まわせ、友人愛人に狙われ、殺すことでしか終われない運命を背負った人間はそう多くない。」
そうだ。
俺より不幸な人間は少なくない。
だけど、こんなにも他人を不幸にさせた人間はそう多くないはずだ。
だからこそ、俺はここで終わるんだ。
「もしもこの狂った運命を変えて欲しくばワシのモノになれ。ジーンはどうしてやることもできんが、今ならまだその女とキサマをこの地獄から救ってやらんでもない。」
「……あ?」
どうすればミリル助けられるってんだ。
どうすれば俺のやってきたことを帳消しにできるってんだ。
「勘違いはするなよ。これは取引じゃあない。慈悲深いワシからの細やかな提案だ。飲むも飲まぬもやはりキサマの好きにするといい。」
……全部、お前のせいだろうがよ。
「ワシは直にこの施設を捨てねばならん。本国に、ロマリアに帰投する。もしもキサマにその気があるのなら、その時までにワシの所まで来い。無論、その女を連れてな。」
……ここを捨てる?ここにいる彼女はどうするつもりなんだ。見捨てるのか?
――――”白い家”コントロールルーム
「仕上げだ。やれ。」
「ハッ。」
悪魔の小間使いたちが手元のダイヤルを右へ右へと回せば、計器の針がグングン、グングンと右へ右へと振り切れていく。
抗う彼女を奈落へと突き落すかのように、グングン、グングンと。
……時間が来てしまったのだ。
ワシはここから離れねばならん。
実に残念だ。白銀の勇者の憎たらしいことよ。
だから、ワシの愛する娘よ。これはワシからキサマに贈る最後のプレゼントだ。
だが…、もしも、お前がまだワシに抗えるというのなら……、
………いいや、何でもない。
……受け取れ。
悪魔の紅い手が爪を立て、小さな小さな白無垢の心臓を掴む……そして、握り潰す………
エルク、私、自由に、なりたかった……
「………イヤだ…、イヤだ、イヤだイヤだイヤだイヤだっ!!!」
閃光が、二人を包み、『夢』に火を焼べる。
包み込む「赤」は二人を、二度と出会わないように、二度と出会えない場所へ連れて行く。
遠く、遠く――――
遠く、遠くへと――――