ごぼごぼと、肺の中の空気が漏れていく。
失った空気をまた取り入れようとするのは普通の事で、口を開けて息を吸おうと試みるのだが、どうしてか出来ない。
代わりに入ってくるのは塩辛い水だけで、それが余計混乱を誘う。
そもそもなんでこんな状況になっているのかが分かっていない。
気付いたらいきなりこんなシチュエーションに放り込まれているのだから、混乱しないはずがないのだ。
ここが水中で溺れていると気づいたのは、それから数秒してから。
水面があることに気が付いて俺は必死にもがく。
もがいて浮き上がろうとする。
手を動かし、足をばたつかせ、必死に青の中をもがき続ける。
先ほどから水面は、俺の顔から一メートルほどの場所から動いていない。
だが、なぜだかそこに到達することができないのだ。
苦しさと焦りが脳を支配する。このままでは死ぬと、本能が告げている。
その頃には、肺の空気はほとんど水の中へと溶け込み、水が満タン近くまで入っていた。
もがく。
もがいて、もがく。
ぶくぶくと、最後の空気が肺から出ていく。
そうしてとうとう手足が動かなくなる。
ゆっくりと、死にゆくという事を脳が支配し、視界の端がどんどん暗くなっていく。
あっけない。
それが、その時抱いた感情。
だってそうだろう。今まで散々好き勝手してきた悪人の最後が、よく分からない状態での溺死なんだから。
しょうがないよ。
悪人はどこまで行っても悪人で、幸せにはなれない。
我妻も、上原も、山本も、大友も、そして西も。
どんな事情があるにしろ、拳銃を握るような彼らは悪人だ。最後には死が待っていた。
なら仕方ない。
俺も、悪人なら最後はこういう死に方なんだ。
自分の運命を受け入れる。
受け入れて、目を閉じる。
――馬鹿野郎っ。
声が、聞こえた。
女の子の声。
目蓋の裏に、二人の女の子が映る。
お団子ヘアーの少し抜けてはいるが、とても優しい女の子。
黒髪ロングで気難しいが、どこか危うさが残る真面目な女の子。
なんでこの二人が出てきたのだろう。
でも、なんだろう、俺、なんか。
なんか、まだ死にたくねぇな。
手足に力が戻る。
戻ると同時に必死にもがいた。
もう酸素なんて残っていなくて、俺は死に物狂いで海面へと向かう。
てのひらが水を掴み、足の甲が水の塊を蹴る。
上がっていく身体。
俺は死から逃れるために上へと向かう。
「ッッッッッッッ!!!!!!」
顔に空気がぶち当たると同時に、俺は声にならない声をあげながら思い切り息を吸い込んだ。
吸い込んで、肺の中に水が溜まってたもんだから咳き込む。
咳き込むのが終わってから、俺は改めて空気を取り入れた。
眩しい太陽と、空の青さが目に焼き付く。
安堵からか、身体から力が抜け、仰向けのまま水に浮かぶ。
目だけを動かすと、周りに陸地は無い。ここは海なのだ。
捨てられたサーフボードのように、波に身を任せて海を漂う。
このままどっかに流されていくのも悪くないと、なぜだかそう思えてしまうくらい穏やかだった。
しばらくそうしていると、頭に何かが当たり、流されるのを阻害される。
岩にでも当たったのかと思ったが、硬くはない。
不思議に思って仰向けを止めてそちらを見てみる。
「 」
男が立っている。
自ら拳銃をこめかみに突き付けて、男は笑う。
屈託のない笑顔で、男は笑う。
俺はそれを、ただ見つめていた。
男が指に力を入れ、トリガーが引かれる。
回るシリンダーと落ちるハンマー。
乾いた音が、海に響いた。
溢れる血。
流れていく。
青い海に、赤い血が溶け込む。
波に乗ってそれは俺にも触れる。
男の姿はどこにもない。
雨が降る。
そらが曇る。
いつの間に夕方になっていたのか、空から差し込む光は赤い。
海が赤く染まっていく。
まるで男の死を、海が嘆いているように。
俺は漂う。
青い海から赤い海へと、自然の摂理のように流れる。
「おにーちゃーん?」
目を開けると、何よりも早く小町の顔が飛び込んでくる。
眉をひそめた妹の顔は、相変わらず可愛い。
目の前にそびえる可愛さに、俺は手を伸ばす。
そして頭を撫でる。
もう、と困ったように言う小町だが、満更でもないようにそれを享受していた。
しばらく撫でていると、小町が俺の手を振り払う。
ベッドに横になる俺は、ただ小町を眺める。
「そろそろ起きてよお兄ちゃん、朝ご飯片付けらんないよ」
時計を見た。
時間はもう朝の十時になろうとしている。
平日の十時なんて、本来ならば学校で勉強をしている時間だ。
だが別に、小町と二人でばっくれている訳ではない。
単に、今が夏休みというだけ。
小町の要望だから仕方なく俺は起き上がる。
「おはよう小町」
「おはようお兄ちゃん。さ、下行こう?」
頷くと、小町が手を差し出してくる。
気の利く妹の手を取ると、俺はそれを引きずり込む。
きゃっ、と短い悲鳴が聞こえ、小町と俺はベッドの上でじゃれついた。
「もー!お兄ちゃんキモイ!」
言葉とは裏腹に笑顔な小町。
だってこんな可愛い妹と遊ばないなんて俺出来ないもん。
小町の脇をくすぐりながら、
「そんな事言う悪いガキはこうだな~!」
と、満面の笑みで言った。
俺の妹との遊びは間違っていない。
千葉の兄妹なら、これが当たり前なのだ。
そんなこんなで、遅めの朝食をとる。
新聞代わりにスマホのニュースをチェックしながら飯を食うのは行儀が悪いが、親父だって朝飯食いながら新聞読んでテレビのニュース見てんだから良いだろう。
相変わらず社畜の親二人は朝早いらしく、二人が使ったであろう食器はもう小町に洗われ、水分は乾いていた。
まぁクーラー効いてるとはいえ夏だしなぁ。
飯を食いながら、対面に座る小町を見る。
なんだか怪しい笑みで、彼女はこちらを見ていた。
目をそらすように俺はスマホを、顔の前に持ってくる。
まるで親父が朝食の時に、都合の悪い話をされて新聞で顔を隠すように。
「おにーちゃーん」
だが、そんな防壁は小町には通用しない。
関係なく小町は俺に話を仕掛けてくる。その声色は、どう考えても何かを企んでいるものだ。十五年一緒に過ごせばそれくらい分かる。
「……なんだ」
先ほどとは打って変わってふてぶてしく答える。
だが小町の笑顔は崩れない。
「小町、凄く頑張って勉強して、もう夏休みの宿題終わっちゃいました」
人を小馬鹿にしたような敬語。
「おう、お疲れな」
そんな小町を言葉でねぎらう。
もちろん目は合わせない。ていうか、俺だってもう終わってる。
「頑張った小町には~、自分へのご褒美があっていいと思うので~す」
「なんだお前、なんか欲しいのか」
このパターンは、俺に物をねだっている時のパターン。
まぁ、俺も鬼ではないし、なんか適当なもんなら勝ってやらんことも無い。
小町が勉強頑張っていたことは知ってるしな。
兄として誇らしい。
「ん~ふふっ」
だが、小町は含みのある笑いを見せるばかり。
なんだろう、新しいパターンだが、どうせ碌でもない事考えてんだろう。
「千葉行こっか」
にっこりと微笑む小町。
なんだ、俺この後顔面にボールでもぶつけられんのか。
「あんま高いもんは買ってやれねぇぞ。あと三百万くらいしかねぇからな」
失った分はたまにやる競馬やパチンコで稼ぐ、これが俺のやり口。
いや~、十万スッたと思ったら十二万で返ってくるんだもんなぁ。
二万勝っちまった。
「小町はお兄ちゃんと出かけられるのなら、どこだっていいのですっ。あ、今の小町的にポイント高~い!」
「お前そのポイント今どんなもんなんだ」
時折口にするポイントとやらを冗談交じりに尋ねる。
すると小町はう~んと考え、
「六万二千四十ポイントだったかな?」
と、けろりとした顔で言った。
俺はスマホを更に高い位置へと持ってくる。
クーラーの効きすぎだろうか、少し寒い。
「……出かけんのは構わねぇけどよ、お前着替えろよ。その格好で外行ったら俺目に付いた男どもの指と目ぇ落とさなきゃなんねぇ。あと大志」
さらっとあの川崎の弟も制裁対象に入れる。
小町の格好は部屋着という事もありかなりラフだ。
下着に肩がでろでろのTシャツ一枚……大きく開いた肩からは、キャミソールの肩ひもが見えている。
妹じゃなかったら、八幡砲がいきり立っていただろう。
「お兄ちゃんほんと大志君嫌いだよね」
苦笑いしている小町。
ふと、右手で動かしていた箸がおかずを取ろうとして空ぶる。
見てみれば、皿の上にはもう食べものは乗っていなかった。
「……ごっそさん」
ごちそうさん、の短縮形を言って食器を片付ける。
流しに食器を置くと、俺は小町と目を合わせずに言った。
「まぁ、行くだけ行くんなら別に構わねぇよ」
なんだかちょっとツンデレっぽく言う。
小町は満面の笑みで感謝を述べた。可愛い。
「じゃあお兄ちゃんも、動きやすい服に着替えてね!」
そう言うと、小町はリビングから出ていく。
それを見計らって俺はポケットから煙草を取り出し、換気扇の下で火をつけた。
選択肢間違えたかなぁ、なんて考えながら、携帯灰皿を取り出して一服する。
……タバコ、やめねぇとな。
俺には色々な記憶がある。
記憶には人格があり、それが俺の人格とも混ざり合って比企谷 八幡を形成している。
だが、俺の気が付かないところで、その人格たちは密かに活動している。
脳の使われていない部分なのだろうか、そこを依り代にして、凶暴な男たちはそれぞれ自我を保ちながら生活をしていた。
海があり、家があり、ソファーがある。
テレビには、比企谷 八幡が見たものが映っている。
新聞には俺が読んだ記事が、正確に書かれていて、人間の脳の底力を感じさせる。
ここは俺の脳が作り出したまやかしの世界。
俺が作ったのに俺が知らないのはおかしいが、そういうものだ。
そんな中、かつて大友と呼ばれた老人は、家の中でなぜか囚人服を身に着け、ソファーに腰かけテレビを見つめている。
外を見てみれば、同じような年代の男二人が、棒切れをバット代わりにして野球の真似事をしている。
中年なのに砂浜で、裸足で遊ぶ二人はまるでガキのようだ。
不意に、部屋に誰か入ってくる。
ワイシャツとスーツのパンツを履いた、外で遊んでる中年と同じ年頃の男。
かつて村川と呼ばれていた男だ。
大友は村川を睨むように見る。
対して村川は、別のソファーに座って傍らに置かれていたビール缶を掴んだ。
プルタブを引いて開封すると、何も言わずにビールを飲む。
一口飲んでテーブルにそれを置くと、いつの間にか手にしていた本を読む。
そんなマイペースな、元村川組組長に、元大友組組長が声をかけた。
「おい」
だが、村川は無視する。
黙々と本を読み、たまにビールを飲む。
読んでいる本は俺が読んでいるラノベだ。確かに難しくもなく暇つぶしには丁度いい。
「村川」
不機嫌そうに大友が名前を呼ぶと、ようやく村川は顔を上げて大友を見た。
「お前
単刀直入に、大友は言った。
無表情で村川は大友を見つめる。
「だからなんだこの野郎」
挑発ともとれるような言葉を向ける。
大友はペースを崩さず言った。
「お前何考えてんだ」
かつて後輩のマル暴に言ったように。
村川は笑う。
「へへへ、何も考えてねぇよ馬鹿野郎」
対照的に、大友は顔を険しくする。
「お前俺ら厄介者なんだからよ。あんま迷惑かけんなよ」
「別にかけてねぇよ。偉そうに言いやがってこの野郎」
そう言うと、村川は本を机に投げ置いて部屋から立ち去ろうとする。
大友はそんな男の背中をじっと睨む。
ふと、出ていく間際に村川は振り返った。
「囚人服似合ってないよ」
「へへ、うるせぇんだよこの野郎」
「へへへへ」
けらけらと笑う村川は、外へと出ていく。
そして少年のように遊ぶ二人に混ざる。
大友は疲れたように背もたれに寄りかかった。
ぼーっと、しばらくテレビを見つめる。
俺の愛らしい小町と、電車に乗るところだった。
何が楽しくて他人の目なんて覗いているのか分からないが、大友は見守るようにいつもテレビを見ている。
そんな時だった。
なんだか異様にけむい。
窓から室内に、煙が大量に入って来ているのだ。
不審に思い、立ち上がって窓から外を覗く。
ごそごそっという音がして、窓のすぐ真下を見てみれば、村川と我妻、そして上原が火を起こして煙を炊いていた。
その煙を、村川は団扇で仰ぎ、室内に煙を入れる。
「てめぇら何やってんだこの野郎!」
大友が怒鳴ると、驚いたように彼らは見上げた。
やべ、逃げろ、と誰かが言うと、三人は砂浜へと走っていく。
「てめぇらこの野郎ッ!!!!!!」
大友は叫ぶと、窓枠を乗り越えて三人の馬鹿を追う。
追われている三人は、まるで教師から逃げるように笑いながら走り回っていた。
そんな時、西が部屋へと入ってくる。
後ろには山本が居て、職業はまるっきり違うがなぜか仲が悪くない二人はソファーに座ってビールを開けた。
「……なんか煙くねぇか?」
ふと、山本が言う。
西も頷き、きょろきょろと辺りを見回す。
その数分後、火事になった家から西と山本は激怒して飛び出し、大友の列に加わった。
後半は蛇足みたいなものです。
喋りもあんまりだし、飛ばしたい方は飛ばしてください。