雨。
雨は好きではない。
行動が制限される上に、お気に入りの、ベストプレイスともいえる場所で昼食を食えないし、通学の際に自転車もまともに使えないからだ。
なにより、このクラスに居続けるのが酷で仕方ない。
どいつもこいつもうるさくて飯も満足に食えやしない。
なんだぁ由比ヶ浜のグループは。
当たり障りのない事ばっか言いやがって、つまらなくねぇのか。
あそこに水野をブッこんだらさぞかし楽しい事になるだろう。
「結衣さ~最近付き合い悪くない?」
「あ、えーと……」
仲良しに見えたと思ったら、今度は女王様が由比ヶ浜に対して嫌がらせ。
二転も三転もするあのグループは、まるで現代社会の凄まじい技術スピードを見ているようだ。
そんな大層なもんではないけど。
由比ヶ浜は空気が読める。
だが、それは相手に同調して生きているという事。
だからああやって矛先が自分に向くと、彼女には謝るか服従するかの方法しかない。
事の発端は女王様、三浦のレモンティー買ってきてと言うパシリ発言。
由比ヶ浜は昼食を誰かと取るらしく、やんわりと断ろうとしたが、それに対し三浦が喧嘩を吹っかけてきたのだ。
由比ヶ浜はよほど三浦の機嫌を損ねたくないのか、三浦の質問をはぐらかす。
「それじゃあわかんないじゃん、あーしら友達じゃん」
席が離れているのによく聞こえる。
よほど怒っているのだろう。
「なにが友達だよ馬鹿野郎」
いつものように嘲笑しながら呟く。
その間にも由比ヶ浜は責められ続ける。
俺はただ、まずい昼食を続けた。
彼女とは別に友達でもないただの知り合い。
助けてやる義理は……
本当にないだろうか。
一瞬、彼女と目が合った。
そう言えばクッキー、まずかったな。
頑張って作ったのに、最後まで味は犬の餌よりマシ程度だった。
「……貧乏くじばっかだよ」
自分で言っていて悲しくなる。
スマホをしまい、紙パックに入ったコーヒー牛乳だけ手にして立ち上がった。
義理ならあんじゃねぇか。
まずくても、クッキーもらっちまったんだからよ。
ああやって責められんのは俺だけでいいんだ。
「あんさぁ、結衣の為に言うけどさ、そういうはっきりしない発言って……」
「おい三浦」
由比ヶ浜のグループが支配する空間に、突如として不機嫌そうな男が現れる。
あ?と、三浦が机の前にいる男を見上げる。
名前を呼ばれたからには、こいつは何か言いたいのだろう。
「なんだしお前」
怒りと目の前の男にも劣らぬ不機嫌が混ざった表情と声色で言った。
彼女の恐ろしさは、彼女のグループのメンバーですら黙らせてしまう。
本来なら仕切り役の葉山という男でさえ、彼女に圧倒されて困っている始末だった。
だが、目の前の男はそんな女王にも屈せず彼女を見据えていた。
睨むわけでもなく、怯えることもないその表情と目つきは、まだ高校生であるその女王をやや困惑させた。
今までクラスの中心にいたが、こんなヤツいただろうか。
「飲みもん欲しいのか」
男が言った。
「は?」
三浦が聞き返す。
中心核の葉山と由比ヶ浜は、男の突拍子も無い行動に混乱した。
ただでさえこんな状況なのに、そこにイレギュラーな事態が舞い込んできたからだ。
「ひ、ヒッキー……」
「お、おい君……」
由比ヶ浜と葉山が何かを言う前に、三浦が彼を制した。
「あんた何?急に出てきて……」
「飲みもん欲しんだろ、ん?」
また同じ質問。
「お前には関係ないし」
「欲しいかって聞いてんだよ」
その態度が、彼女のプライドを傷つける。
「そうだよ欲しいよ、あんたに関係あんの?」
そう逆に聞き返すと、男はニヤッと不敵に笑った。
「やるよコーヒー牛乳」
男が左手に持ったコーヒー牛乳のパックを三浦に向ける。
刺さったストローは直前まで飲んでいたのか、少しだけ中身を含んでいた。
舐めている。
この男は、あーしを舐めてやがる。
三浦がそう考えるのに、苦労はしなかった。
「こんな飲みかけのコーヒー誰が……」
刹那。
ぶにゅっという鈍い音が響き、男の持っていた紙パックから茶色い液体が溢れた。
勢いよく溢れた液体は、三浦の顔目がけて襲いかかり、彼女の言論を止めた。
よく見れば、男が握る紙パックが握りつぶされている。
葉山と由比ヶ浜、そしてグループのメンバーのみならず、クラスでその様子を見守っていた者たちの背筋が凍った。
だが、男の行動はそれだけでは済まなかった。
パァンッ!!!!!!
続けざまに弾けるような音が響く。
「ぐえッ!!!!!!」
なんと、男が三浦の頭を、となりの机に放置されていた分厚い教科書で真上から引っ叩いたのだ。
三浦の首はその勢いに負け、彼女の顔面は机に叩きつけられる。
葉山の顔が青く染まる。
「ちょ、ヒッキー!?」
由比ヶ浜が慌てるが、ヒッキーという男は動じない。
目の前でひれ伏すように頭を押さえる三浦を、見下すように見下ろしていた。
「友達なら仲良くしろよ馬鹿野郎」
低めの、ドスの入った声で男が言った。
「お、おいお前ッ!」
最初に反応したのは三浦ではなく葉山だった。
三浦はあり得ない状況と痛みに混乱していて、何も言えずにいる。
葉山は自分よりも小さい不機嫌そうな男を彼女から離そうと手を伸ばす。
が、
「引っ込んでろこの野郎」
一言。
たったその一言で、葉山は動けなくなってしまった。
今まで経験した事の無い得体の知れない恐怖が、葉山を襲う。
「おいお前あんま調子に乗んなって!!!!!!」
しかし、その恐怖に気が付かない葉山の金魚の糞のチンピラが、男に噛みつく。
彼の胸倉をつかみ、今にも殴りかかりそうな勢いで。
「うげっ!?」
そいつが声をあげたのは同時だった。
急にくの字に折れ曲がり、まるで腹痛のように腹を押さえたのだ。
よく見れば、男の膝が、チンピラの腹に突き刺さっていた。
男は乱れた襟元を直すと、倒れたチンピラに追い打ちをかけようとする。
「そこまでよ、比企谷君」
教室の入り口から、透き通るような声が響く。
ぴたりと、男の上がった足が止まった。
お弁当箱を持った雪ノ下が、そこにはいた。
「あなた、ちょっとやり過ぎじゃなくて?」
「そういう事はこいつらに言えよ」
「口よりも先に手が出るなんて、どこの暴力団かしら」
男は言葉を返さない。
代わりに、ようやく動けるようになった葉山が怒りを露わにした。
「おいヒキタニ!お前」
言い終える前に、男が葉山を睨む。
またしても葉山は言葉を失う。
「自分の女の面倒ぐらい見とけ馬鹿野郎」
それだけ言うと、彼はポケットに手を入れ、背を向けて教室を去ろうとする。
三浦が何か言いたげだったが、その気迫と恐ろしさに声が出なかった。
男が雪ノ下の隣を通り過ぎ、教室を出る間際にクラス全体を見回した。
こんな状況になっているのに、誰一人止めに入らず何も言わない愚かなクラスメイト達。
目をそらす彼らを一瞥し、
「見てんじゃねぇこの野郎ッ!」
怒鳴った。
ようやく彼は消え失せ、教室に平穏が戻る。
「……由比ヶ浜さん、先に行ってるわね」
沈黙の中、雪ノ下が友人に伝え、同じように教室を後にした。
静まり返る教室。
幸運にも、誰も男の行為を先生に告げるものはいなかった。
いや、必然かもしれない。