もし雁夜に妹がいたら   作:天理彼方

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第1話

 今にして思えば、もうどうしようもなかったんだと思う。

 

 逃げようと思えば逃げられた。想像するのも億劫になる茨の道を回避することもできたはずだ。

 

 だけど俺は知っていたから。もし俺が逃げたとして、その先に待ち受ける未来がどんなに悲惨なものになるかを。

 

 もし俺と言う人間が自分の事以外を考えない外道であったのならば、俺は見て見ぬふりをして逃げることもできたのだろう。

 

 だけど俺はいい意味でも、悪い意味でも『普通』の人間だった。

 

 普通に悲しむし、普通に怒りもする。

 

 助けられるかもしれない者が目の前にいたら……普通に助けたいと思う……見過ごすことができない普通の人間だった。

 

 だから俺は……戦うことを決めた。

 

 それが結局はただの自己満足だったとしても。

 

 +++

 

 ――一年前――

 

 記憶にあるままの閑静な街並みは、もう二度とみることもあるまいと思っていた故郷の景色だった。

 なぜなら間桐雁夜にとって、自分の実家である『間桐』の家があるこの街には蘇って心地の良い思い出など一つもなかったのだから。

 そんな雁夜がなぜ忌まわしきこの地に再び足を踏み入れたのかというと、それは今日、再会した幼馴染とのやり取りが切っ掛けだった。

 

 ――あの子()は間桐の家に行ったわ。

 

 幼馴染である遠坂葵は硬く、冷ややかな――感情を押し殺した口調でそう言った。

 葵が魔術の名門家である遠坂の嫡男と結婚し、もうけた二人の娘――凛と桜。雁夜はそんな幼馴染の娘を、フリーのルポライターとして世界中を飛び回っている傍ら、定期的に時間を見つけては旅先で見つけたお土産をプレゼントしていた。

 今現在も淡い想いを寄せる幼馴染との繋がりは、もうそれだけしか残されていなかった。そう考えると、ある意味では凛と桜にお土産を渡す、というのは想いを寄せた幼馴染である葵に出会うための建前でしかないのかもしれない。

 しかし建前、とは言っても、華麗な幼馴染に似た母親譲りの美貌を持つ二人の娘が可愛らしいことには変わりはなく、お土産をプレゼントして、二人が天使のような喜びの笑顔を見せてくれると、心の底から嬉しく思うのもまた事実だった。

 そんな娘の一人が、間桐の家に行った。……それは即ち、あの悪夢のような実家に自らの愛娘を養子として出したということだ。

 

 ――間桐が魔導師の血筋を継ぐ子供を欲しがる理由、あなたなら解って当然でしょう?

 

 胸の奥にぞぶりと突き刺さる葵のその言葉。無感情にまでに硬くなったその瞳の奥に潜む憂い。それがかつて自分が魔術の道から背を叛けたその結果だということを思い知らされた。そして、雁夜はそんな葵に掛けられる言葉を持たなかった。

 一度目は八年前のあの日。葵が遠坂の嫡男からプロポーズをされたと雁夜に報告された時。

 そして二度目は、今日。

 あの時も、そして今日も『それはいけない』と断じるべきだった。

 雁夜は断じて許せなかった。二度も過ちを重ねた自分を。

 だから雁夜は戻ってきた。そんな自分を罰するために、決別した過去の場所へと。

 

 「今更のこのこと……何のために帰ってきたのかしら、兄さん?」

 

 そうして雁夜を間桐の屋敷に迎え入れた()()は。

 十年前に見せた微笑みも、艶やかだった黒髪も、その全てを無の白へと変えさせて。

 そう告げた。

 

 +++

 

 夜。

 間桐邸の応接間のソファーに腰を掛けた雁夜は複雑な思いで、机を挟んで向かい側のソファーに腰掛けた白髪の女性を見つめた。

 白髪の女性はそんな雁夜の視線に気づく素振りも見せず、淹れられた紅茶の香りを鼻で楽しんだ後、上品に一口飲む。

 

 「……」

 

 兄である鶴野に加え、雁夜には妹がいた。年の離れた一人の妹が。

 兄である鶴野は魔術師としての才能がなかった。そんな鶴野と比べて魔術の才があった雁夜は当初、間桐の家を継ぐこととなっていた。

 しかし間桐家の、そして魔術の忌まわしさを知り、雁夜は絶縁の形で生家――そして魔術との縁を切った。それが十年前のことだ。

 結果として、間桐の家に残されたのは出来損ないの兄と――申し訳ない程度の魔術回路を備えた妹のみ。

 兄が使えない今、間桐の後継者としての役割はそんな妹に向く。

 悍ましき間桐の魔術の英才教育を、悍ましき父親の歪んだ想いを、一心に受けることになる。……そんなことは少し考えればわかるはずのことだった。

 それなのに雁夜は逃げた。若気の至りなのか、若かりし頃の雁夜は己が自由のことしか――そんな安直な考えしか持っていなかった。

 つまり、雁夜は妹と引き換えに自由を手にしたと言っても過言ではないのだ。

 

 「……」

 

 最後に見た時はたしかに艶のある、誰もが羨むような黒髪は、過酷な修行によるストレスなのか、色素が抜け落ち、異常な白髪へと変わり果てている。

 光を写さない濁り切った漆黒の双眸。上二人の兄とは似つかない整った顔立ちも相まって、まるで人形のように見える。かつてはあんなにも笑顔が絶えない明るい妹だったというのに――。

 そこまで考えてから、何を考えているんだと雁夜は首を横に振る。忘れてはならない。誰のせいで妹が()()なってしまったのかを。

 

 「……」

 

 妹にはもう一生、兄を名乗ることなどできないだろう。先ほどは『兄さん』と呼んでくれたが、内心はどう思っていることか……。

 しかし、いつまでも押し黙っている訳にはいかないのだ。時は一刻を争う。こうしている間にも桜はこの魔窟にて嬲り者にされているかもしれないのだ。

 

 「……ジジイはどうした?」

 

 雁夜はできる限り内心を感じさせぬ、低く殺した声で眼前に座る彼女に問いかける。この家の実質的な中枢は雁夜の父親たる間桐臓硯が握っている。桜を救うには、直接、臓硯に詰め寄るしかないのだ。

 臓硯とはすでに縁を切っている。向こうからしてみればもう雁夜は家督を継ぐ責任を放棄した、顔も見たくない厄介者でしかないはずだ。だからこそ妹を此方によこし、出て行ってもらおうと考えたのだろうが……。

 しかし雁夜の妹――間桐霊夜はそんな雁夜の想像の斜め上を行くような返答をしてきたのだ。

 

 「死んだわ」

 「は?」

 

 +++

 

 死んだ? 臓硯が?

 雁夜は霊夜の告げた言葉の意味がわからなかった。故に再び霊夜に問いかける。

 

 「は……今、なんて……?」

 

 聞き間違いだろう。聞き間違いに違いない――そう信じて疑わなかった雁夜であったが、返ってきたのは全くの同じ言葉。

 

 「死んだわ。あの爺さんは」

 

 雁夜は口をぱくぱくさせる。

 

 「死んだ……え……死んだ?」

 

 思考が追い付かない。死んだ? 死んだというのか? 得体の知れない悍ましい禁術で延齢に延齢を重ね、何世紀もこの世に憚り続けてきたあの化物が?

 そんな雁夜を余所に霊夜は然したる反応も見せずに再び紅茶に口をつける。

 

 「う……嘘だ」

 「ホントよ。あー、でも死体はもうないから、証明はできないか」

 

 そこまで言ってから、霊夜は「そうだ」と一人ポン、と手を叩く。

 

 「この家にもうあの爺さんはいないから。どこを探してももぬけの空。――それじゃあ証明にならないかしら?」

 「……」

 

 そこまで言われてしまうと、もうとても霊夜のその言葉が悪質な冗談の類のものではないと嫌でも理解できてしまう。もし仮に嘘だとしても、ここまで引き延ばす必要はないはずだ。それに、霊夜の瞳を見てみても、それは嘘をついているような眼ではない。

 しかしそうなると次に浮かび上がるは疑問だ。何時、何処で、どうやって、そしてなぜ死んだのか、次々と疑問が浮かび上がってきて、留まることをしらない。

 

 「爺さんが死んだのは一年前よ。正確には死んだじゃなくて、殺されただけど」

 「何っ!?」

 

 思わず雁夜はソファーから立ち上がる。

 

 「殺された!? あのジジイが!?」

 

 ゴキブリも裸足で逃げ出すような生命力を誇るあの臓硯が死んだというだけでも驚きだというのに、あまつさえも殺されたとは。

 

 「いったい誰に!?」

 

 そうして返ってきた言葉は雁夜を更なる驚愕の地へ旅立たせるものだった。

 

 「私に」

 「えっ……」

 

 雁夜は時間が止まったかのような錯覚を抱いた。まるで目の前に広がるこの光景が現実ではないものであるかのように感じてしまう。

 殺した? 妹が? あの臓硯を?

 途方に暮れることしかできない雁夜を霊夜は愉快そうに眺める。

 

 「いったいどうしたっていうのよ。嬉しくないの? あの爺さんが死んで」

 「……」

 

 雁夜は頷けなかった。

 嬉しくないはずがなかった。まさに諸悪の根源とでもいうべき臓硯。悍ましき魔術の担い手。戸籍上でこそ雁夜たち兄弟の父親ではあったが、しかしそれでも実の本当の父親であるかどうかは定かではない、得体のしれない怪物が死んだのだから、喜びに胸が打ち震えてもおかしくはないというのに。

 それ以上に雁夜は恐怖していたのかもしれない。そんな怪物(臓硯)を殺したとのたまう、目の前の実妹の姿が。

 いったい、如何なしてあの怪物を殺したのか。そしていったいなぜ殺したのか。疑問は後から後へと湧き上がってくるが、口元がカラカラに渇き、言葉を発することができない。

 しばし、沈黙が続いたが、金縛りにあったかのように動けない雁夜を尻目に霊夜はつまらなそうに溜息を一つ、吐く。

 

 「はぁ……」

 

 まるでこれまでの流れを断ち切るかのように吐かれたその溜息に、雁夜を縛り付けていた拘束がふっ、と和らぐ。相変わらずの無表情であったが、先ほどの旧交を温めるような物言いとは打って変わって、再会した当初の冷たい眼差しで雁夜を見据える。

 

 「――で、もう一度問うけど、今さら何をのこのこと帰ってきたの? ここに()()()の居場所はもうないのよ?」

 「……!」

 

 あなた。

 その呼び方に妹との間に確かな隔絶を感じてしまう。もう過去には戻れないのだということを確信してしまう。

 しかし狼狽えている場合ではない。臓硯が死んだのは別として、桜がこの間桐の家に養子に出されているのは事実なのだ。

 雁夜が今宵、この屋敷に戻ってきたのも、妹である霊夜と再会するためではなく、桜の安否を確認し、もし間桐の蟲共に嬲り者にされているのだとしたら、この身を犠牲にしてでも救い出すためなのだから。話の本筋を見失ってはいけない。

 

 「……わかってるさ」

 

 霊夜の言葉に雁夜はそう返すと、その向けられた眼差しを見返す。

 

 「……噂を聞いたんだ。遠坂の次女を養子に迎え入れたという噂をな」

 「……」

 「あのジジイの差し金か? それとも――」

 

 そこで一度言葉を切る。

 臓硯は間桐の魔術師に執着していた。六〇年の周期で巡り来る聖杯戦争において、己が手の元に聖杯を手繰り寄せるために、優秀な魔術師――もとい駒が必要だったのだ。

 現段階で目の前の霊夜がどのくらいの実力を持っているのか(少なくとも何らかの手段によって臓硯を抹消できるくらいの実力は持っているのは確かなのだが)定かではないので、念には念を入れて優秀な人材を手元に引き寄せようとした。

 ただでさえ間桐の家は衰退の一手をたどっており、あの用心深い臓硯なら、そこまで考えていたとしても別に驚くことではない。

 しかし、その臓硯はすでに死んでいる。そうだとしたら、桜を養子に迎え入れた今回の件が臓硯の差し金であるということは考えにくい。

 となると考えられるのはもう一つしかない。目の前の霊夜が自らの意志で桜を迎え入れたということだ。

 だが雁夜は信じたくはなかった。雁夜が知っている霊夜は心優しい少女であったのだ。目を背けた雁夜と違い、霊夜は己が魔術の宿命と向き合ったが、それでも間桐の魔術が悍ましき蔑まれるべきものであるということを理解していたはずだ。

 そんな妹を犠牲に自由を手にした男が何をほざいているのかと言いたくなるが、それだけ雁夜は良くも悪くも妹のことを信頼していた。

 だから言いたくなかった。桜を養子に迎え入れたのが臓硯ではなく彼女であるという()()を口にするのが。

 だが、現実は雁夜にとって非情であった。

 

 「ええ、そうよ。遠坂の次女を引き取ったのは私」

 

 その言葉の先を読み取ったのか、霊夜は然したる躊躇いもみせずに頷く。飲み終えたティーカップがカチャ、と音を立てて卓上に置かれる。

 雁夜は思わず霊夜に詰め寄ってしまう。解ってはいたが……理解(わか)ってはいたが、いざ本人の口から聞かされると動揺を隠すことができない。

 

 「なんで……どうしてなんだ!」

 

 思わず叫んでしまう雁夜を、内面を感じさせない眼差しで霊夜は見据える。

 

 「お前はわかっていたはずだ! 間桐の魔術の悍ましさを! 何の罪もない少女を蟲共の慰め者にする気か!」

 

 見捨てたくせにこの口は今更何をいうか。それでも怒りと悲しみに声を震わせる雁夜に霊夜は――

 

 「え? 何言ってるの? 意味わかんない」

 

 相も変らぬ濁った漆黒の瞳で――けれどもきょとんとした眼差しで首を傾げた。

 

 「……ゑ?」

 

 思いもよらぬ妹の反応に雁夜は拍子抜けした声を上げるのだった。

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