もし雁夜に妹がいたら   作:天理彼方

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第4話

 小鳥の囀りが耳を優しく擽ってくる。

 最後に見た時(十年前)と何ら変わらない状態で保存されていた自分の部屋――そのベッドで、心地のよい微睡から目覚めた雁夜は、ゆっくりと上半身を起こすと、ベッドの上で軽く腕を伸ばす。

 

 「ふぁ……」

 

 幼馴染である葵から告げられた娘を間桐の家に養子に出したという話。最悪の事態を覚悟し、十年ぶりに実家に帰った雁夜であったが……端的に言ってしまうなら、雁夜の心配は杞憂に終わった。妹が異性として女性が好きだったという衝撃の告白はあったものの、蟲の慰み者とされていると思っていた幼馴染の娘の姿()は元気な姿そのものであった。

 桜が無事だったのだから、もう雁夜がこの間桐邸に留まる理由は無かったのだが、「今からホテルを探すというのも面倒でしょう」ということで泊まっていけば? という申し出が霊夜の方からあったのは、まさに雁夜が間桐邸を後にしようとしていた時のことだった。

 無論、最初は断ろうと思った。雁夜がこの霊夜()に対し、負い目を感じているのはもはや言うまでもない事実であったし、霊夜()の立場からしてみても、自分を置いて一人、のうのうと逃げ出した兄貴の姿など、これ以上は見ていたくもないだろうと思ったからだ。

 しかし「客人をこんな夜遅くに放り出すのは屋敷の主としていただけないのよ」と告げた霊夜に半ば強引に押し切られ――その結果として今に至る。

 

 「……いや、結局はそれはただ自分の都合のいいように解釈しているにしか過ぎないんだ……」

 

 雁夜は理解(わか)かっていた。

 十年ぶりの妹との再会を、たとえ蔑みの目で見られていもいいから、もう少しの間だけ、味わいたいと思っていたのは兄として否定できない感情だった。

 帰る素振りを見せておいて、心の奥底ではどこか、妹がこのように申し出てくることを願っていたのかもしれない。

 どこまで厚かましい男なのだろう。最初に見捨てたのは自分の癖に、都合のいい時だけ傍にいたいなどと思ってしまっている。その証拠に霊夜からの申し出があった時、雁夜の内心に浮かんできたのは戸惑いではなく嬉しさだったのだ。あの勘の鋭い妹のことだ、雁夜のそんな情けない内情を読み取って、気を使ってくれたのかもしれない。容姿は変わろうが、妹が昔と変わらぬ心優しい人物であるということは、昨夜のやり取りで充分把握している。

 そして自分は結局、そんな妹の優しさに甘えてしまっているのだろう。

 

 「ははっ……」

 

 弱い男だ。今も、そして昔もずっと弱い。

 自らが背負うべき宿命から背を向け、想いを寄せた女性は、もはや手の届かぬ場所へと行ってしまった。そして挙句の果てには自分が見捨てたはずの妹の優しさに甘え、こうして惰眠を貪っているのだ。これが笑わずにはいられるか。

 

 「……」

 

 心地のよい目覚めであったはずの雁夜の起床は、いつしか重く、暗いものへと変わり果ててしまっていた。

 そしてそういった負の感情を己は受け止めなければならないのだということも……雁夜は理解(わか)っていたのだった。

 

 +++

 

 間桐桜の朝は早い。

 カーテンの隙間から朝の陽射しが射し込んでくるのを目覚ましに、ガバッとベッドから跳ね起きるのだ。

 そうして若干、寝癖のついた柔髪を揺らしながら部屋を慌ただしく出ると、そのまま屋敷の廊下を突っ切って、洗面台に駆け込む。

 顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を整えて。そうして朝の身だしなみを整えると再び、廊下を突っ切り、階段を下りて、間桐邸の()()()()()へと向かう。

 

 「はぁ、はぁ」

 

 やがて、微かに耳に聞こえてくるトントントン、というリズミカルな音。味噌汁に使われるいい出汁の匂いが鼻腔を擽ってくる。

 そうして桜が辿り着いたのは間桐邸の食卓に隣接した処にあるキッチンで。毎朝、桜はそのキッチンで一つの神秘を目の当たりにするのだ。

 

 「……」

 

 料理の邪魔にならないよう、後ろでポニーテールに纏められた、雪のような白髪。透き通った白の柔肌は、彼女のトレードマークと言える黒い衣服に包まれていて、さらにその上に黒いエプロンを着用している。

 トントントン。慣れた動作で包丁を扱うその姿は、何というべきか完成された美しさがあって……何度目にしても、桜は流れるように朝食を作っていく彼女の姿に見惚れてしまうのだ。

 それで桜がキッチンの入り口でその姿に見惚れていると――黒衣の彼女はふと思い出したかのように桜の姿に気づくのだ。

 

 「おはよう、桜ちゃん」

 

 そうして、微かな笑みを浮かべて挨拶をしてくれる。一目見ただけでは、到底、笑っているようには見えないその微笑み。けれど桜はその儚き微笑みにどれだけの温もりが込められているかを知っている。その微笑みに――声音に桜の胸はこれ以上なく高鳴る。

 

 「お、おはようございます、霊夜さん」

 

 思わずどもってしまうのは、毎朝の事だ。これは決して、引き取られた最初の時のように、この目の前の人物を畏怖してしまっているが故のものではない。どうしようもなく綺麗な人を目の前にしたら、たとえそれが異性だろうが同性だろうが関係なく、緊張してしまうものなのだ。

 それが、桜にとって憧れの人物であるのなら尚更だ――。

 

 「あの、何か手伝えることありますか?」

 「じゃあ、今日は卵焼きを作ってもらおうかしら。――あ、料理の前には手を洗ってね」

 「はい」

 

 霊夜の言葉に頷くと、桜は調理台に備わった水道の蛇口を捻り、言われた通り、手を洗い始める。霊夜はその間に冷蔵庫から卵等を取り出し、料理の準備に取り掛かっている。

 霊夜と一緒に朝ご飯を作る――。それは、桜がこの間桐邸にやって来てから、毎朝行っている――言うなれば朝の日課だ。

 この日課が行われるようになったきっかけは、桜がこの屋敷にやって来て数日が経ったある朝の事だった――。

 

 +++

 

 この間桐霊夜という女性は桜の父親である時臣と同じく魔術師としての一面とは別に、料理から洗濯、掃除に至るまで――何から何までそつなくこなす、ベテランの主婦顔負けの家事のエキスパートとしての一面も持っていた。

 毎日三食出される料理は、そのあまりの美味しさに思わず頬が落ちそうになったのも一回や二回の事ではないし、屋敷中どこを見回しても埃一つ、落ちていない。前に誤ってミートソースをワンピースの裾に付けてしまった時は、如何なる手段を用いたのか、翌朝にはその頑固なシミ汚れも綺麗に落とされていて……そのエキスパートぶりは完璧すぎて、逆に肩身が狭くなるくらいだった。

 

 「……」

 

 ――そう、肩身が狭かったのだ。

 桜が何か霊夜の手伝いがしたいと思っていても、霊夜は一人でてきぱきと家事を回してしまう。桜が「何か手伝いたい」と霊夜に一言、言えば、それで終わったのかもしれないが、内向的な性格の桜は、自分がそんなことを言ってしまったら逆に霊夜に迷惑をかけてしまうのではないか? と考えてしまったのだ。いくら桜が霊夜に家族としての親しみを覚えたところで、まだ家族となって数日しか経っていなければ、どうしても他人行儀になってしまうのは致し方のないことだった。

 そうしてこっそりと一人家事を行う霊夜の後姿を覗う日々が数日続いたのだが、ある朝のこと、いつものように壁越しからこっそりと様子を覗っていたところ、キッチンに立つ霊夜とばっちり目が合ってしまったのだ。

 

 「どうしたの? 朝ご飯はもう少しかかるわよ?」

 「え……あ……」

 

 こちらをこっそりと覗う桜に、当然のことながら霊夜は声をかけてくる。まさか見つかるとは思っていなかった桜は混乱した頭でしどろもどろにエプロン姿の霊夜と、調理台に用意された食材を交互に見つめることしかできなかった。

 

 「……桜ちゃん?」

 

 そんな桜の様子が気になったのか、霊夜は野菜を洗うために桶に貯めていた水を一旦、止め、桜の元に近づいた。

 

 「えっと……その……」

 

 尚ももじもじと部屋着の裾を掴んでいた桜であったが……やがてか細い声で恐る恐る霊夜に告げた。

 

 「……わたしも……何か、お手伝いしたいです……」

 「……!」

 

 その言葉に、霊夜に驚きの気配が漏れる。それは動揺と言ってもいいのかもしれない。が、それは刹那の事で、すぐに霊夜はその顔を優しげに綻ばせた。

 

 「お手伝い……してくれるの?」

 「は……はい、霊夜さんに迷惑がかからないなら……」

 

 すると今度こそ霊夜は微笑むと桜の頭をよしよしと撫でる。

 

 「迷惑なんてとんでもない。嬉しいわ、手伝ってくれるなんて」

 「ほ……本当?」

 「ええ、本当よ」

 

 事実、霊夜のその言葉に偽りは無い。こんなにも可愛らしい幼い子供が自分から手伝いたいと申し出てくれたのだ、家族として……嬉しくないはずがない。

 ただ、意外といえば意外だった。間桐霊夜の認識としては、子供というのは手伝いとか勉強とか、そういうものは嫌がるものと思っていたからだ。無論、自分が頼めば優しく、それでいて内向的な性格の桜が断ることはしないだろうとは思っていたが、そんな桜の性格に乗じて何かをやらせるというのは霊夜としても嫌だったのだ。

 言ってしまうのなら、引き取ったのはいいが、結婚もしていない霊夜は当然のことながら、子供を育てるのは初めての体験であり――愛くるしい桜を目一杯、甘やかしてやりたいという気持ちばかりが先行し、その行為が逆に桜に肩身が狭くなる想いをさせているということに気付けなかったのだ。

 過酷な修行の果てに魔導の道においては一流となったこの間桐霊夜も……親としてはまだまだ未熟という他ない。

 その事実に苦笑しながらも霊夜は、桜に提案する。

 

 「……じゃあ、さっそく一緒に作りましょうか。料理の前は手を洗って、ね?」

 「は、はい!」

 

 霊夜の言葉に桜はパッと顔を綻ばせ、元気よく頷く。

 この日を境に桜は霊夜の手伝いをしていくことになったのだった。

 

 +++

 

 「桜ちゃんは卵焼きの味付けはどんな味付けが好き? 甘い派? それとも甘くない派?」

 「あ……甘いのが好きです」

 「そう、それはよかった。私も卵焼きは甘い方が好きなのよ」

 

 背の小さい桜のために、丁度いい大きさの踏み台を用意し、二人はそれぞれ調理台に用意された食材のうちの卵を手に取る。

 

 「まずはボールに卵を割るの」

 

 コツン、と卵を軽くボールの縁に当ててヒビを入れると、霊夜は片手で流れるように卵を割り入れる。その動作はただ卵をボールに割り入れただけだというのに、その神秘的な容姿も相俟って、どこか神々しささえ感じてしまうほどだ。

 

 「さぁ、桜ちゃんもやってみて?」

 「は……はい!」

 

 意気込んだ桜は霊夜と同じように卵を手に取った卵を、ボールの縁にコンッ、と当て――。

 

 「あ……あれ……?」

 

 コンコンっ。コンコンっ。卵に中々ヒビが入らず、桜は戸惑いの声を上げてしまう。霊夜はあんなにもスムーズに割っていたのに――。

 そんな桜をおかしそうに見つめていた霊夜は、さっそくヒントを一つ出してあげることにする。

 

 「もうちょっと、力強く叩かないとダメよ。卵の殻って意外と硬いものだから」

 「え……あ……はいっ!」

 

 霊夜のアドバイスに桜はすぐに返事をするが――その力加減がうまくいかない。もし力を入れすぎて、卵がうまく割れなかったらどうしようとか、そうなったら卵が無駄になっちゃうとか、色々な雑念が桜の身体を強張らせてしまう。

 霊夜のアドバイスで少しだけ強く、卵をボールに叩くようになったが……それでもちょうどいいヒビを入れるには程遠かった。

 

 「……! ……!」

 

 コンコンっ。コンコンっ。

 桜の表情は真剣そのものであったが、それでも幼い子供が一心不乱に卵にヒビを入れようと叩き続けるその光景はどこかシュールなものがあり――そのあまりにおかしくも愛くるしい姿に笑い出してしまわないよう、霊夜は桜の見えないところで一人、肩を震わせた。

 

 「ふふっ、そうじゃないわ」

 

 しかし、いつまでもその光景を楽しんでいるわけにもいかないので、さっと桜の後ろに回り込むと、卵を持つその右手に自らの手を添える。

 

 「ふぇっ?」

 

 ふわり、と身体を密着され、桜は突拍子もない声を上げる。そんな桜を余所に霊夜は耳元でそっと囁きかける。

 

 「……卵は、こうやって割るのよ」

 

 コツン。

 桜の手に自らの手を添え、操ってやりながら、あんなにもヒビの入らなかった卵に簡単にヒビを入れる霊夜。片手は難しいからまずは両手でと、桜の両手を掴むとヒビの間にその小さな指を割り込ませて。

 

 「あっ」

 

 卵黄がボールにスルンと入ったのはその時だった。卵黄の形も崩れず、殻の破片も混ざっていない完璧な割れ方。

 

 「や……やった……!」

 「今の感覚を忘れないでね」

 「あ……」

 「ん……どうかした?」

 

 最後にそう告げると霊夜は桜から身体を離す。僅かな花の香りを残して、霊夜の身体の温もりが離れてしまったことに思わず声を上げそうになってから、慌ててそれを抑える。こういう時に限って敏感に気づいてくる霊夜に、桜はブンブンと首を横に振る。

 

 「な……なんでもないです! ……なんでも……」

 「そう? 何か言いたいことがあったら遠慮なく言ってね?」

 

 ――家族なんだから。

 そう言ってくれる霊夜の気遣いが嬉しくて、桜はコクンと頷く。

 

 「じゃあ、次は下味をつけるわよ。味を甘くするなら砂糖を入れるんだけど、その砂糖の量にもコツがあってね――」

 

 砂糖の容器を手に取りながら、桜に説明する霊夜の姿は、いつも通りの無表情でありながらも、どこか楽しげで。

 この時間が永遠に続けばいいのに――。頭の片隅でいつしか、そんなことを考えてしまう桜であった。

 

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