「…………負けました」
いつの間にか降り出した雨の音が窓の外から聞こえていた。
しかし、そんな外の状況とは相反して碁会所は静まり返っており、アキラの敗北の声が響く。
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
意気消沈のアキラ。
彼も打っている途中から、ヒカルが本当にプロと遜色ない程に強いことは理解していた。それでも同年代で圧倒的な実力を持つ彼が、真正面からの真剣勝負で同い年の子供に敗北を喫するのは初めてだったのだ。
そのことに驚いたのは碁会所の客達も同じ。途中から二人の対局を観戦し始めた大人達は皆、口をポカンと開けて立ちつくしていた。
とは言っても、対局の内容はそう悪かったものではなかった。
二人は中盤まで互角の戦いを続けると、終盤でヒカルに戦況が傾いたものの、アキラは最後まで諦めずに足掻いて結果二目半差での負け。これは、遥か高みから見下ろすような――絶対に勝てない相手ではない。
ただこれまで突出した力を持っていたが故の、経験のない敗北に衝撃を受けているだけなのだ。
「――ふぅ」
張り詰めていた緊張を解いたヒカルが息を吐く。
思い出した記憶は偽物などではなく、佐為も間違いなくヒカルの碁の中に居た。
どのような因果で小学六年生に戻ってしまったかは分からないが、今は思い出した記憶が本物で確かにあったことなのだと彼は安堵する。
「塔矢、俺と打ってくれてありがとうな」
「…………」
「あー、えっと」
無反応な上、傍から見ると放心状態のように見えるアキラ。ヒカルはそんな彼の様子にどうしたらいいものかと困惑する。
囲碁に詳しくないあかりは事の重大さが分からず、空気が重いことに居づらそうにしていた。
しかし、彼――芦原 弘幸が持ち前の明るさで、重い空気をものともせずに軽い口調で話しかける。
「いやー、良い碁だったよー。アキラが本当に負けるなんてなー。進藤君だっけ? 俺でも勝てるか怪しいよ、ハハハ」
「あ、あはは……」
流石のヒカルもこの雰囲気の中、いつものような軽口を叩くことは出来なかった。
「それにこっちの女の子も覚えが良いし、囲碁界の将来は明るいなー! うんうん」
一人で何やら納得する芦原。
ヒカルはそんな彼を横目で見ながら、碁盤の上の黒石を碁笥の中に片づけていく。
「あかり、帰るか。早く帰らないと怒られそうだ」
「あ……そうだね、ヒカル。芦原さん、ありがとうございました」
時刻は十七時前。雨空の影響もあって辺りは既に暗くなり始めていた。小学六年生の子供だけで外を出歩くのはそろそろ危険だろう。
ヒカルが椅子から立ち上がると、あかりも慌てて使っていた石を碁笥に戻す。
「塔矢、じゃあ帰るよ」
そうアキラに別れの挨拶をすると、ヒカルは受け付けの市河に傘を借りて、あかりと共に碁会所を出て行く。
アキラは、ヒカルの去っていた出口をただ黙ってじっと眺めながら考えていた。
父である行洋や弟子の緒方。大人と打つのが当たり前の彼にとって、負けて心から悔しいと感じることは久しくなかった。だけど、同い年のヒカルに負けたことでその悔しさを思い出した彼は、湧きあがった渦巻く感情をどのように処理すれば良いか分からずに苦しむ。
それに何より――悔しいと思いながらも喜びの気持ちが湧いていることが、彼に衝撃を与え呆然とさせた。
「アキラ、良かったじゃないか」
見かねた芦原がアキラの肩に手を置いて声をかける。
「……良かったって?」
「お前と対等に競い合える同年代のライバルが居たことだよ。今年プロ試験を受けなかったのも、つまらなかったからだろ?」
ドキリ、とアキラの心臓が激しく鼓動する。
「別にそんなこと……」
「俺はそういう奴がいっぱい居るから楽しいぜー。アキラは違うのか?」
「僕は……」
――つまらなかったからだろ?
芦原の言葉がアキラの胸に突き刺さる。
まるで、自分でも気付いてなかった奥底の気持ちを当てられたようで……。
「僕は――っ!」
椅子から勢いよく立ちあがるアキラ。雨が降っているというのに傘も持たずに碁会所を飛び出すと、エレベーターの待つ時間すら惜しいと階段を駆け下りていく。
何か答えが出たわけではなかった。
だけどどうしてもヒカルに聞かなければいけないことがあったのだ。
「はぁ、はぁ……」
ビルを出たアキラは、息を切らしながらヒカルを探す。
すると遠くにその姿を見つけ駆け寄ると、周囲の人目も憚らず叫ぶ。
「進藤……進藤ヒカル! キミはプロになるのか!?」
「と、突然どうしたんだよ」
ヒカルはびくりと背中を振るわせてアキラに振り向く。
今日までは普通の小学六年生として生活していて、記憶を思い出した後もその記憶が本物かどうかということで精一杯だった。正直に言って、これから先のことを考える余裕などなかっただろう。
しかし、鬼気迫る様子で問うアキラの勢いに押されて口を開く。
「そう……だな。まずは院生――から?」
だから思い出した記憶と同じ、院生を経てのプロになることを咄嗟に答えてしまう。
「えっ、ヒカル、囲碁のプロを目指すの!?」
「あ、ああ」
寝耳に水だった幼馴染みの宣言に驚くあかり。
アキラはというと鬼気迫る様子とは打って変わって、元の落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「そうか……それが聞けて良かった。ありがとう」
どことなくスッキリしたような、それでいて瞳の奥には炎が宿っているような……ヒカルはアキラのそんな顔を見て、先ほどの別れ際では言えなかった言葉を述べる。
「また、打とうな!」
「――うん!」
同い年で自分と対等に渡り合える存在。そして、自分と同じ道を歩む者でもある進藤ヒカル。
彼が現れたことで、心の中に漂っていた靄のようなものが晴れていくのをアキラは感じていた。
近日中に次話投稿出来ればなと思っています