とある北方の国の、とある高山地帯。寒冷で生物が僅かにしかいない、その寂しい土地に、場違いな大きな建物が点在していた。
巨大な半円形の結界に覆われたその建造物は、何も知らない者が見れば誰もが砦と考えるだろう。
形状は全体的に見ると四角形で、黒い石造りの建物である。四つの角度部には三角帽子のような屋根がついた塔が突き立っており、屋根は平たくとても広い屋上になっている。この建物は結界で覆われているため、降雪に配慮した屋根を作る必要が無かったのだ。
その建物の周囲には、巨大な城壁が四角く囲っており外部からの侵入者を拒んでいる。結界は丁度その城壁を囲う形になっている。
このような様式の建造物であるが、実はこれは城でも砦でもない。この建物の名は「オーリガ魔道研究所」。このウェイランド王国では最高峰の研究機関の本部である。
国内外各地から集められたオーパーツ・特殊魔道具・珍獣などが集められ、それらの徹底解析が、最高の設備と資金援助の元で行われている場所である。
ここでは毎日堅物な研究者達が、それぞれの分野の物品の研究に没頭し、果てしない口論を繰り広げ、護衛のウェイランド兵達がその様子を退屈そうな目で眺めているのが、この研究所の日常風景だった。
だがこの日は少し様子が違った。この日はいつもと大分違う風景。“惨劇”が起こっていた。
研究所内の黒い壁と鉄の仕切りに覆われた長い廊下の中を、二人の男が駆けていた。
一人は研究員と思われる白衣を着た中年の男性で、もう一人は青い甲冑を纏った兵士であった。
兵士の方は、鉄仮面のため表情は判らないが、前を走っている研究員は顔面蒼白、大量の汗を流し、子供のように泣きじゃくりながら死に物狂いで走っていた。その様子は何かおぞましいものに追われているようであった。
やがて二人の走り行く先に、一つの金属製の扉が見えてきた。
「やった! 見つけたぞ! 通信室だ!」
「本当ですか!」
二人は歓喜の笑みを浮かべ、その扉の先の部屋に駆け込んだ。
内部は茶色い鏡台に立てかけられた、大人一人分の身長ほどもある楕円形の大きな鏡がいくつも並べられた、風変わりな内装の部屋であった。
部屋に入った兵士は、即座に扉を閉めて鍵をかけ、手近にあった椅子や机を次々と扉の前に積み重ねていく。
扉は特殊な金属で出来た特別製で、そう簡単に破られるようなものではない。しかし何から逃げているというのか、兵士はそれでも安心できないようだ。
研究員は部屋に置いてあった鏡の一つに手を当てて、何か力を注ぐように手の平に力を込めた。
するとどうだろう。最初は汗だくの研究員の姿を映し出すだけであった鏡面の風景は、突如グニャリと曲がり、いくつもの歪みを生じた後で徐々に形が整っていく。全てが終わった後には、鏡面には研究員とは全く違う人物の姿を映し出していた。
鏡を通して遠くの人間と会話する、この世界の最高の通信技術の品物「双面千里鏡」である。
「こちらオーリガ研究所! 緊急事態だ! 救援をくれ!」
最初は寝ぼけ目だった鏡面の兵士も、研究員の様子にただならぬものを感じ、瞬時に真顔になって応対する。
「こちらビショップ、どうした何が起こった!」
「魔物だ! 正体不明の魔物が襲ってきた! 所内の奴らはほとんど殺された! お願いだ、助けてくれ!」
そこまで口にした瞬間、部屋の天井が突然上から弾かれるようにして崩れ落ちた。
落ちてくる大量の石の雨に、研究員は悲鳴を上げて逃げ回る。だが上から落下してきたものは壊れた石材だけではなかった。
舞い上がった砂埃に対して、目に手を当てていた研究員が再度眼前の光景を見ると、そこには先程までこの部屋にはいなかった者が悠然と立っていた。
「あっ、ああああ……」
研究員の心の中は絶望で満たされた。
突如部屋に入り込んだものは、人ではなく魔物であった。
大きさはそれなりにある。だいたい人間の大人二人分以上の体重はありそうだ。
体型はおおよそ見ると、人と蜥蜴と掛け合わせた様子であった。ただしリザードマンなどとは明らかに違うものである。体格は細身で、魔物は姿勢を前かがみにして立っている。
全身は青色の異質な表皮で覆われており、手足の四本の細長い指先には、黒くて鋭い爪が伸びていた。
尾はとてつもなく長く、甲殻のような皮が積み重ねて覆われ、それぞれに小さなヒレがノコギリのように一直線に並んで生えている。そして尾の先端は、槍のように鋭い刃の形状になっていた。
背中には太くて長い突起物が片側二本ずつ、計四本が後ろ側に少し沿った形で生えている。
最後に頭部、ここがこの魔物の最大の特徴であった。
顔には目が無かった。同じように鼻や耳に相違する部分も無かった。魔物の顔面から後頭部にかけては、滑らかな皮で覆われており、まさにのっぺらぼうのような容姿である。そして後頭部はとても長く、背中の辺りにまで伸びていた。
一般的に知られている生物のように、角やたてがみ等で長く見えるのではない。頭そのものがアオムシのように長くなっているのだ。
こんな魔物でも口はちゃんとあった。そこには唇などは無く、白い歯が剥き出しになっている。形状は爬虫類のような鋭い犬歯ではなく、人間の前顎にあるような切歯になっていた。
「ギシャア!」
魔物は一声鳴くと、研究員の所へ一歩詰め寄る。すると相手に悲鳴を上げる時間も与えず、尾で打ち据えた。
長い尾が鞭のようにしなやかに動き、研究員の身体を豪快に打ち飛ばす。研究員の身体は壁に叩きつけられ、あちこちに大量の血を撒き散らし、どっさりと地に落ちた。そしてそれっきりピクリとも動かなくなった。
「うわぁああああああああ!」
残された兵士は絶叫し、ついさっき自分が積み重ねた扉の前の物品を払いのけ、部屋の外に逃げ出そうとする。
後ろで魔物が、唇を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる中、何とか兵士は扉の鍵を外した。そして大慌てで扉を開け放つ。
「へ?」
扉の向こうの光景に、兵士は随分と気の抜けた声を上げた。おそらく鉄仮面の向こうの表情は、大層間抜けな表情をしていることであろう。
扉の向こうには魔物がいた。今まさに背後からよってくる魔物と、全く同じ姿をした生き物が、彼の前方目と鼻の先にいるのだ。
魔物は低い唸り声を上げ、兵士に向けて大口を開ける。
研究所の通信室に、やるせない悲鳴が鳴り響いた。
「な、何なんだ……? あれは……?」
研究員からの千里鏡による通信を受けていた兵士は、鏡の向こうの一部始終を見て、唖然としていた。
やがて二匹の魔物が部屋から出て行くのを見届けると、突然我に返ったように振り向き、叫んだ。
「緊急事態! 至急ウルフ部隊の出動を要請します!」