炎の魔物は、天井の壁を二つ分破壊していた。
口内から小ぶりの火球が飛び、それが天井に衝突した途端爆発する。天井が砕け、大量の石が飛び散り、あるいは土砂のようにガラガラと雪崩れて、床を埋めていった。
舞い上がった埃が晴れて、二階の天井が見えてくると、炎の魔物は再び手加減しているらしい威力の火球を撃ち、さっきと同じように破壊する。
「ギャア、シィイイイイ!」
三階の天井が見えると、炎の魔物は積み重なった瓦礫を踏み、二階に上ろうとする。
少し上体を起こし、一時的に後ろ足だけで立ち上がる状態になると、前足を二階の床に乗り上げさせる。すると今度は上半身を支点にして、後ろ足を持ち上げて二階へとよじ登っていった。
完全に二階に上がると、炎の魔物は三階へと続く穴を見上げた。炎の魔物は火球を真上ではなく、数メートル先へと少し角度を曲げた方向に放っていた。
そのため一階の天井に開けられた穴と、二階に開けられた穴は、位置がずれている。
三階へと続く穴の真下に到着した途端、上から何かが大きな木の実のように、魔物の頭上目掛けて降ってきた。
『やぁああああ!』
それはカツゴロウであった。
拾った魔物の尾の先端を、ナイフのようにして手に持っている。刃先を前にして、高々と頭上に掲げて落下する。そして下の炎の魔物へとぶつかる瞬間、思いっきり力を込めて、刃を真下に突き出した。
ズブッ!
カツゴロウは、霊体でありながらも感覚が存在する両腕から、餅を打つような鈍い感触を受け取った。
突き出した尾は、炎の魔物の右前足の付け根辺りに突き刺さった。尾先の刃は、実に固く鋭利で、炎の魔物に肉厚に深く喰い込み、黄緑色の血を流させる。
「ギャァアアアアアアアア!?」
自身の火球の魔力の強さに紛れて、炎の魔物はこの時までカツゴロウの魔力の存在に気付いていなかった。
驚く炎の魔物が呻く間に、カツゴロウは素早く炎の魔物の前方に回りこむ。そして指を立てて挑発するような動きを見せると、前の廊下へと駆け抜けていった。
「ギィイイイイイ!」
炎の魔物は怒りに震え、背を見せて逃げてゆくカツゴロウ目掛けて、業火を放った。
炎の嵐は散らばった瓦礫を吹き飛ばし、廊下の空間を占領し、逃げてゆくカツゴロウにグングン迫っていく。
炎はついにカツゴロウに追いついた。カツゴロウの全身を呑みこんで、更に奥の廊下へと飛んでいく。
「ピギャアアアアア!」
炎の魔物は勝利の雄叫びを上げた。残留した炎が、眼前の廊下を、夕焼け時の太陽のように真っ赤に染めている。
だが炎が消え、立ち昇る煙が徐々に晴れてくると、奇妙なことに気がついた。
前方の空間は、まだ煙が完全に消えておらず、視界はかなり悪くなっている。だがその視界の中に、何かが動くものに気がついた。煙の濃度が下がっていき、それがはっきりと見通せるようになっていく。
その正体に炎の魔物は動揺した。そこにはさきほど炎に包まれたはずのカツゴロウが、何も変わらず平然と立っているからだ。
炎の魔物の足を刺してから、前に回りこむまでの間に、カツゴロウは非実体化を完了させていた。
今のカツゴロウは、霊感の無い人間にも姿だけなら、薄っすらと見ることが出来る。だが物に触れることなどの物理的な能力は一切無く、戦闘に置いて攻撃を行うことも当然できない。そして自身が何も出来ない代わりに、他人もまた今の彼に何一つ出来ない。火だろうと銃弾だろうと、カツゴロウの身体は全てを通り抜ける。
カツゴロウは指で目蓋を広げ、舌を出して馬鹿にしたような動作を炎の魔物に見せた。そして再び背を向けて逃げていく。
「ギジャアアアアアアア!」
その挑発に乗ったのかどうかは判らないが、炎の魔物はカツゴロウを追って二階の廊下を走り抜ける。
さっきまで上がろうとしていた、天井の穴は放置されることとなった。
「あったぞ!」
三階を探索していたシバ・トサは、ようやく出口になりえる場所を発見した。
何故か焼け爛れた廊下の向こうに、何故か外の風景が見える。近づいてみると、それは外に接した曲がり角の壁が、何かとてつもない力で内側から破壊された跡だった。
大きな穴の向こうから、外の黒い城壁がはっきりと見える。穴の外へと顔を出し、下側を除くと、破壊された壁の欠片が散乱していた。
その中に焦げた動物の死骸らしきものも転がっていた。長い尻尾があり、その姿は蜥蜴のようにも見えたが、遠いので二人にはその正体がはっきりと判らない。
実はそれは、サラマンダーに吹き飛ばされた、あの異界の魔物二体の成れの果てであった。
(死んでるみたいだし、降りても大丈夫だよな。さてどうするか……)
思い切って飛び降りるか、壁を掴んでゆっくりよじ降りるか、二人は思案したが、途中で背後に迫る気配に気がついた。
「誰だ?」
あの魔物でないことだけは気がついていたので、二人はそれほど警戒することなく(それでも腰の剣には手をかけていたが)、振り向いて話しかける。
黒く焦げた廊下を歩き、こちらに近づいているのは、何やら犬のような生き物だった。
その犬のような狼のような生物は、全身が黒い毛並みで覆われていた。体格は人間よりはずっとあり、虎や獅子よりも一回り大きいくらい。明らかに通常の犬とは一線を外している。
そしてその巨大犬の頭は複数あった。中央を挟んで右横に一つ、左横に一つ、合計三つの頭がついているのだ。正面から見ると、三匹の犬が並んで立っているように見えるだろう。だが横から見ると、複数の首が一つの胴体に繋がっているのがよく判る。
そして尻尾は蛇になっていた。コカトリスのような蛇のような尻尾ではなく、完全に蛇なのだ。長い胴体にしっかり頭もついており、真後ろを睨んでいる。この蛇頭も含めた場合、この犬(?)は頭が四つもあることになる。
「あれって、さっき保管室で逃がした奴だよな?」
「ああ、“ケルベロス”だ」
ケルベロス。それは地獄の番犬と呼ばれる魔犬であり、世間的にはかなり凶暴な魔獣と認識されている。
だが今眼前にいるケルベロスからは、殺気のようなものが一切感じ取れない。それどころか、シバ達に対して怯えているようにも見える。
「何してんだ、お前?」
近づいていく度に、歩みがのろくなっていくケルベロスに、シバは怪訝な顔をした。そして自分からケルベロスに近づいていく。その途端ケルベロスは足を止めた。
シバは、ケルベロスの中央頭の、目と鼻の先まで近づく。お互い攻撃を仕掛ける様子は無く、ただ相手をジッと見詰めていた。
そんな中、唐突にシバがケルベロスに、右手人差し指を突き出し、叫ぶ。
「お座り!」
その声を聞くと、ケルベロスは反射的に、かつ慣れた動きでその場にしゃがみ込んだ。
カツゴロウは炎の魔物に追われながら、研究所の二階を鼠のように駆け回っていた。
鈍重と思われた炎の魔物は、本気を出すと予想以上に素早く、カツゴロウは何度か追いつかれていた。だが実体の無いカツゴロウは、噛まれようが踏まれようが、うんともすんともしない。
このままうまく時間稼ぎができるかと思われたが、途端炎の魔物が足を止めた。
『(あ!)』
カツゴロウも立ち止まり、背後から自分に顔を向けている炎の魔物に向き直った。
「シィイイイイイイ!」
炎の魔物はそう、蛇のように低く唸ると、身体を曲げた。そして全身を翻し、さっきまで自分が通ってきた道とは逆方向に歩き出す。どうやらカツゴロウの追撃は無意味と判断したようだ。
『(もう駄目か……。皆逃げられたかな?)』
後ろを見せて遠ざかっていく炎の魔物を見て、カツゴロウは潮時を悟った。そして近くの壁に身を回し、その壁をすり抜けていった。
消えた先の壁を、炎の魔物が後ろからチラリと見やっていることに、カツゴロウは気がつかなかった。
「あった! あそこだ!」
シバは前を指差し、すぐ後ろにしがみ付いているトサに向けて叫んだ。二人は今、ケルベロスに二人乗りで跨っていた。
二人はあの壁穴で出会ったケルベロスに乗り、三階上から地上まで軽々と飛び降りた。そのまま研究所の壁沿いを廻り、ようやく城壁の門を抜けたところだった。
城門の先には分厚い光の壁が立ち塞がっているが、その一点には四角形の穴が違和感たっぷりに開いていた。大きさはケルベロスに乗ったままでも充分通れるぐらいはある。
穴に近づくと、シバはケルベロスの右頭を引っ張った。ケルベロスは慌てて、その場に立ち止まる。
「カツゴロウは!」
「まだ来てない。一旦待……」
トサが言いかけた時、近くの岩場から突然何かが姿を現し、シバ達に飛び掛ってきた。
(なっ!?)
真っ先に反応したのは、シバでもトサでもなく、二人を背に乗せたケルベロスだった。機敏な動きで、地面を四本の足で同時に蹴り、見事な後方ジャンプをして見せる。
飛び込んできた者はさっきシバ達がいた地点に、シバ達はさっきと数メートル後方に前向きのまま着地した。両者はその場でお互いを見合わせた。
「こいつ、まだいたのかよ!」
現れたのは魔物であった。あの炎の魔物とは別の、通常体の個体である。まだ一匹生き残っていたようだ。あの長い尾を振り上げながら、こちらを睨みつけている。
即座に魔物は攻撃を繰り出す。こちらに一歩踏み出したと思うと、尻尾を右側から振ってきた。足払いをするつもりだったようで、尾は地面から僅か数センチのギリギリの高さを水平にして襲い掛かってくる。
「おお!」
ケルベロスは誰の指示を受けることも無く、その攻撃を回避して見せた。前向きに飛び上がり、足元を狙ったその尾を余裕でかわす。だがそれだけは終わらなかった。
「ブギャ!?」
事もあろうか空中へと跳ね上がったケルベロスは、前方の魔物の背中に着地した。背中に生えた四本の突起の付け根辺りを踏みつけて、そのままそこを踏み台にして再度飛び跳ねる。
甲冑を着た人間二人を背負っていながら、とんでもない身体能力である。これが数あるモンスターの中でも名を馳せる理由であろう。
ケルベロス達の体重と落下の重みに、魔物はバランスを崩し、その場で腹這いになって倒れ込む。ケルベロスはその前方の数メートル先に再着地した。
「ギャギャァアアアアアア!」
魔物は怒りに震え、後ろに向き直る。黄色く光る結界を背景して立っているシバ達に、今度は力任せに突撃した。
シバ達が跨るケルベロスは、それもまた軽やかに右に動いてかわす。かわされた直後に魔物もまた一瞬で方向転換をしようと足を回した。だが動きを見せたのは、ケルベロスだけではなかった。
「火突!」「水突!」
魔物が横を通り抜けた瞬間、ケルベロスに乗っていた二人が、同時に魔物目掛けて魔法を撃つ。
それは突進の勢いがまだ消えていない魔物に、二撃とも見事命中した。
「ピギィイイイイイイ!」
魔法の威力に弾き飛ばされた魔物は、ゴロゴロと前へと転がっていく。そしてその先にある黄色い光の壁、この研究所全体を覆う結界に追突した。
「ギャアアアアアアアアアアアア!」
結界に飛び込んだ瞬間、魔物の身体が急激に燃え上がった。結界に触れた背中から火が回り、魔物はもがきながら結界から離れる。
何とか魔物は立ち上がったが、背中は焼けて、四本の突起は崩れ落ちて短くなっていた。
「もう一発!」
シバはさらに攻撃魔法を放った。剣先から放たれた火炎放射が魔物を襲う。
結界から受けた痛手で弱っていたのか、魔物は避けることなく、真正面からその炎を浴びた。炎の勢いで魔物は数歩後退し、後ろの結界に再度接触した。
ジュアアアアアアアア!
前方と後方、両方から物が焼ける音が奏でられる。シバが魔法を解くと、そこには見事に消し炭になった魔物が、ボロボロと崩れ落ちる様が拝見できた。
シバは息を荒げて、魔物の亡骸を眺めた。
「また待ち伏せてたわね……」
「そうですね……」
見ると二人とも、顔から冷や汗が流れ出ていた。
「出るのはしばらく待とう」
「何でだ?」
「あいつら、この穴の事を知っていた。あたしらがここから出たら、あの化け物も外に出てくきてしまうわ!」
魔物達は何故か、能動的に人間を襲う習性があるようだ。
解放した実験生物達も十分危険がある者達だったが、二人はさほど問題には考えていなかった。彼らは元々、人里を避ける習性を持つ者が多い。
もし人里に近づいたとしても、ウェイランドの兵達なら十分排除できる筈である。
だがあの魔物に関しては、それは絶対不可能に思えた。
ここから出てしまった魔物が、山の中へと消えてくれれば助かるが、もし山から人里へと降りてしまったら……。
脱走が成功した後で、残された魔物達の事後処理がどうなるかなど、ここに到達するまで二人は全く気にしていなかった。いや一度は通信室で伝えようとは考えていたが、近づいてくる炎の魔物への恐怖からどうだってよくなっていた。
だが今この場で、明らかな魔物達の逃げ道を見て、シバは再度現状を考え直していた。
「だけどさ、あいつを何とかできる方法があるのか?」
「私に考えがある。すげえ危ないことだけど、付き合ってくれないか?」
トサはあっさりと頷いた。
「いいぞ。何かこのまま逃げるのも癪だったしな。ここで大勝負と行くとするか」
二人はケルベロスに指示を出し、背後の城門へと戻っていった。