与太話
その弐『俺の演歌を聞け』
唐突だがまず聞いてくれ。
俺は演歌歌手になりたい。
などと言えば、このご時世演歌か、とか、氷川き○し以外成功したヤツ居るのか? とか言われそうだが安心して欲しい。
俺がそう思ったのは昭和二十五年頃だ。
便宜上、白石次郎と名乗らせてもらおう。
俺が生まれたのは、瀬戸内海にある小さな島だ。人口も当時から平成に入るまで、まるで呪いでもかかっているかのように百人前後で推移している。
当時は戦後真っ盛り。
人々は物資を求めて右へ左へと彷徨い、時には乱暴狼藉を働く事もあった。
そして、悪ガキと言おうか、無頼の徒でチームを組んでいた俺も当然のように暴れていた物だ。
鉄パイプを工作して作った簡易の銃で駐在と撃ち合ったり、家に伝わる日本刀のボロいのを振り回して刃傷沙汰を起こしたり、とまあ、悪事には暇が無い。
治安維持組織は戦後壊滅しており、瀬戸内海の果てなんて無法地帯さ。
上の駐在も、島で押し込み強盗を働いて婦人会に薙刀で追い回されたり、俺たちと衝突したりと、まあ居ない方がマシってなもんよ。
しかし、その存在意義はともかくとして一つだけ感謝している事がある。
駐在はラジオを持っていた事さ。
ラジオと言えば東京ローズなんかで嫌な思い出もあるもんだが、純粋な娯楽装置としては当時非常に優れていた。
そして、そこから流れてくる音楽、特に演歌が俺の心を掴んで話さなかった。
『訴えかける』『心を掴む』
今でも、この二点で演歌にかなう物は無いと思っている。
駐在をつるし上げて聞いていたラジオ。
早くに親父を失い、貧乏なのに子だくさんを地で行ったお袋に育てられた俺は、貧しい生活の中で、いつか上京して演歌の歌に手に……演歌歌手になって一山当てる事をへんぴな島で夢見た。
さて、物事という物は基本的に、情報収集から始まる。
俺は進駐軍の指導で俄に活気づいた議員先生の一人……死んだオヤジが懇意にしていた先生さんに、票や資金の取り纏めを手伝った報酬に、演歌歌手への道、つまり人生設計の為の情報を頂き思案を巡らせた。
当時、歌手になりたいなら芸能界の大物の目にとまるか、N○K経由か、ヤ○ザの売り込み仲介かの三択だった。
丁度この時期、新星のごとく現れた天才歌姫、美空○ばりなんかは、三つの要項の二つ……芸能界の大物とヤ○ザの目にとまってデビューしたガチガチの本命コース。
のど自慢大会の予選に出て、全く動じる事無く熱唱。
そのガキとは思えぬ歌唱力と度胸に、聞いた芸能人やヤ○ザに至るまでギャラリーは度肝を抜かれたのだから当たり前と言えば当たり前だ。ガキだから予選落ちだったが、そんなものはデビューしちまったので全くマイナスじゃ無い。
俺は、議員先生から伝え聞いたサクセスストーリーをヒントに、一つの方法を思いついた。
当時十歳を数えた程度のガキだった美空○ばりは、昭和の初めらしいハンデを背負っていたにもかかわらずデビューできた。
女・ガキ・実家に権力者のコネが無い。
この三大ハンデを実力ではね除けたのだ。
そこへ来れば、俺は男で長男坊(昭和の初めじゃ重要だったんだぜ?)、声とセンスにも自信がある。チョット人には言えない方法で集めた元手で歌のレッスンを三年受けたが、先生には教える事が無くなったとまで言わしめた。ま、田舎の先生だけどな。
後は、如何にして切っ掛けを掴むか。
王道と呼ばれるのは、N○Kのど自慢大会だ。
葉書でエントリー出来て、当時唯一とも言える地方予選が有り、大物芸能人や筋者の目にとまりやすい。
今に至るまで悪名高いN○Kだが、それは仕方ないだろう。
少なくとも、この時既に芸能界はヤ○ザと共同経営状態だった。
これはその後、芸能界全体に波及し、N○Kを含めて芸能界は、ヤ○ザと警察の綱引き……幸せかは兎も角、警察とヤ○ザの夫婦生活が現代まで続くのだから、もうどうしようも無い。
ま、それはおいとく。
とにかく俺は策を練った。
エントリーは無理だ。不可能だ。
要は、近場の予選会場にいって、ノーエントリーで歌ってしまえば良いのだ。
聞いてもらいさえすれば、拾ってもらう自信がある。問題は、当たり前だがエントリーできる運も人脈も財力も無いと言う事だ。
葉書出して公平な抽選……なんて思ったヤツは安心しろ。お前は芸能界に向いてない。
『あらゆる不平等が平等に存在する』のが芸能界だ。
馬鹿正直に葉書出すなんて、ドブに金捨てるような物さ。当時の予選枠は、基本九割が非在野枠だ。無論、完全な在野枠も有るので剛運者は受かるが、そんなものに時間を突っ込みたくは無い。
家の裏にある学校の裏山で、行きずりの女をコマしながら、俺は思案に暮れた。
余談だがこの時当たった。
たいした思い入れも無いので直ぐ別れたが、ある日赤ん坊抱いて家に来やがったぜ。
お袋がそんなガキしらんと言い捨てて大騒ぎになった。俺が言うのもなんだがやるときは気をつけろよ。あと、もし出来ちまったら責任もてよ。一応その後認知はした。
さて、ある日俺は、トランクに一張羅を突っ込んで島を船で出た。
隣の大島まで船で移動。そこから徒歩で二時間歩いて、さらに荷物を頭に縛り付けると脱衣。浅瀬を200mほど泳いで渡らないと島から出られない不便も大概にしとけよ、と思える旅路で陸地へ。
そこからさらに二時間歩いて鉄道に乗ると、ボロ電車に揺られ、降りた先でヒッチハイクで車に乗り、やってきましたのど自慢予選会場。
今でこそ考えられないが、当時警備なんて存在しなかった。
裏口からちょちょっと小回りを効かせば、ノーエントリーでも会場に簡単に入れる。
最も、入ったところでエントリーしてないのだから歌えるわけも無い。
ここからが、俺が思いついた作戦のキモさ。
当時予選は、会場入りして受け付け待ち、名前を呼ばれたら楽屋入りして出番待ちという流れになっていた。
歌う歌も、そのとき会場側に用意があれば変更できる
そして俺はふと思いついた。
この手の予選物には、所謂ドタキャンが必ず居るはずだ、と。
じっと待つ事一時間。
ついに時は来た。
呼び出しの人間が何度名前を呼んでも返事が無い名前。
名前を連呼してくれるのだから、簡単に覚える事が出来る……今ならアホみたいにザルな警備。
万物不変の真理が一つ。
『男は度胸よ』
俺は、ニヤッと笑みを浮かべ、直ぐさま声を上げた。
「はい、わたしです!」
数十分後、俺は別人の名で持ち歌を熱唱した。
本日はここまで。