殺生院天上楽土。
この空間に悪意は存在しない。
在るのはただ、一方的に注がれ続ける底なしの愛。
そして世界を支配する主が今、誕生した。
「――やっと、対面できましたわね」
女の唇が動き、にこりと笑みを形作る。
たったそれだけの仕草で、理性は融かれる。
「ですが私、もう少し抽象的なものになると思っていたのですけれど……こんな
頭から生えるは二本の
目の前にいるのは、白を基調とした衣装に身を包み、見る者を虜にするどこまでも美しい天女だった。
「…………何を、いまさら」
だが、その禍々しさに本能が警報を鳴らし、放たれる殺気に反応して身体は臨戦態勢を取っている。瞬きも呼吸もまだできるが、少しでも気を抜けば理性が吹き飛びそうだ。
「……やっぱり、貴女は私の前に立つのですね」
たおやかに微笑む。
前に出かかった脚を、駄目だと本能が叫んで止める。……今のは攻撃のためか、それとも一瞬であれど魂が麻痺されたからか。
どちらにせよ、このまま対峙していればいずれ限界も訪れる。
「っ……全く、サーヴァントといえど子供を乱暴に扱うのはいかがなものか」
よろよろと首を抑えながら立ち上がる作家サーヴァント。どうせ倒すのなら、さっさと首をへし折ったほうが早かっただろうかと一瞬思う。
「本当に戦闘能力は皆無なのねアンデルセン。もう少し月成さんを見習っては?」
「ハン、作家に戦闘能力を求める方が阿呆だろう。それに俺の宝具はお前に全て注ぎ込んだ。勝手にやっていろ、毒虫め」
「――ふふ、然り。私は花という花、蜜という蜜を集めなければ羽ばたくことも叶わぬ毒虫です。ですがそれこそ神の在り方。ねぇ、月成さん。今度こそその身体、私に預けてくださらない?」
「ほざけ」
無理矢理足を後ろへと後退させる。
意思に反してなどいないのに――心のどこかで、彼女から離れることに落胆を覚えた気がした。
まずい、まずい。確実にまずい。かなりまずい。
武器は砕けた。防具はある。しかし、防壁を展開しようにも、口が詠唱するのを拒んでいる――あの女に隔たりを作るのを拒んでいる。
「――キアラ!」
突如響いた第三者の登場でハッと我に返った。
声の主は岸波白野。サ-ヴァントの気配は感じられず、単身でここに乗り込んできたらしい。
「あら岸波さん。貴女も来てくださったのね。では私の髪で、指で、唇で、丁重に歓迎いたしましょう」
「……ッ、桜、を――――」
すぐ隣まで駆けてきた岸波の足が止まり、震える。
彼女も全身全霊であの女に歩み寄らないよう力を込めているのだろう。
今のキアラはもう次元違いのモノ。二人共こうして、目の前で足を止めるのが精一杯。
ここで既に、結末は見えたも同然だった。
「まぁ――ふふ、お二人とも、おとなしく溺れてくださいませ。結果の分かり切ったものなど、つまらないでしょう?」
死んでもお断りだ、という言葉の代わりにもう一歩、ギチギチと震える足を力任せにキアラから遠ざけた。
それを見て、彼女の表情は残念そうな、憐れみを込めたものに変化する。
「……そうですか。消してしまうのは正直惜しいのですが、これも因果というもの。
せめて丁寧に、一つ一つの
キアラの身体が宙へ浮かび、合わせた手の平から膨大な魔力が生み出されていく。
渦を形成し、真空を呑み込んでいくソレは、やがて手に収まる量を超え、上空へと広げた女の両手が魔力の波を収束、制御して、こちらへ向かって放出される――!
「――諸法無我など猿の戯言。果徳とは蹂躙するもの――――」
元から月成ルツは必ず己の手で殺すと決められていた。ならば最優先で標的にされるのは必然というもの。
一方、岸波のことはどう思っているのかなど知らないが、少なくとも岸波白野という人間は殺生院キアラが“そうであったもの”の記念。
……絶対防壁の展開は依然できない。やれと必死に頭では命令しているのに、既に心はあの女に侵食されている。
「ル、」
岸波の声が聞こえ、殺意と慈愛が篭められた魔力の奔流が世界を覆い尽くす。
もう何をしようと間に合わない。
観測と確定が強制終了され、襲ってきた絶望感と訪れた諦めの念で思考を放棄しようと――したところで。
「【
「――
原初の力が、空間を引き裂いた。
◈
パキンと、ガラスに亀裂でも入ったような音を立てて世界が割れる。
「――――ッ」
刹那、魔力の渦をかき消す暴風と共に裂け目から現れたのは二柱のサーヴァント。
英雄王ギルガメッシュ。神造兵装エルキドゥ。
極楽浄土へ穴を穿った張本人たちが目の前に降り立った。
「到着、っと……僕の勝ちかな?」
「たわけ、勝者は先に空間の壁へ辿り着いた方だと言っただろう」
「でも穴を開けたのは僕が先だったよ」
「先に辿り着いていた我が先に開けていなかった筈があるまい!」
……割とどうでもいい競争の勝敗結果を言い争いながら。
「な、確かに貴方たちはまとめて銀河の果てへ飛ばしたのに……!? 概念宇宙であれ、一瞬で詰められる距離ではないでしょう!?」
「
「僕の場合、自分の姿形をその船に変えてしまえば解決するからね。まぁ、僕たちを引き剥がして別々の宇宙へ飛ばしたとしても、同じ結果になったと思うよ」
ああ、なんつーかやっぱりこいつら規格外だなぁ、としみじみ思いつつ、そこでキアラに掌握されかけていた理性が解放されたことに気がつき、軽くなった眩暈と麻痺を、深く息を吐くことで完全に振り払い、改めて眼前の敵を睨んだ。
「……正直、結構危なかった。ありがとう、ギル」
「宝物庫の鍵は外してある。人の身でこの場に挑んだ貴様の勇姿に応え、我はおまえの敵を打ち払うことのみに専心しよう。存分に使え、マスター!」
今の岸波は戦力差などお構いなしに戦闘を開始できるのだろう。
最弱から最強へ至る。これまで何層もの迷宮を突破してきた、その姿は頼もしい。
「まさに真打ち登場か。さあて、目論みが外れたぞキアラ! 奴らはお前の色香にはたぶらかされんとさ!」
「……そのようですね。非常に残念ですけれど、ならばこう考えます。今の私は特別な貴方たちを使い、かつてのワタシと決別いたしましょう。私が神になるための――最初の随喜となっていただきましょう」
「神、ね」
久しぶりに発した気がする声は、自分でも思っていたより平坦で、何の感情も乗らない――冷ややかな声だった。
殺生院キアラという人物について、私は深く知っているわけではない。
彼女の過去に何があって、どうして今のような結論に至っているか知る由もない。
だが――きっと彼女は、神に焦がれて偉大な存在になりたい
「……そうか。単にアンタは自身の欲に忠実なだけ――」
自分が好きで、しかして他人がいないと生きられないが故に、人々と交わり、裏切り、それでも自分の行動に後悔の念は欠片も持たない――むしろ善いと判断している性格破綻者。
けれど、彼女の真に恐ろしい点は――
「
なるほど、そりゃあ神になるしかないワケだ」
他人を使い潰し、ただ快楽を得るためだけに神になる。
キアラが言う、神になるというのは結果論。
――これが、人間の欲望の
「……嬉しい」
「?」
「嬉しい、嬉しいわ。過去も見せていないのに……ああ、やっぱり
ざあっと背筋に寒気が走る。
今の彼女の言葉に殺意は微塵もなかった。というか感謝の念というか、歓喜の念しか篭ってなかった。だから逆に怖い。なんだ、私はなんの琴線に触れてしまったのか!?
「……高すぎる推理力も考えものだね。だからマスターは彼女に執着されちゃったのかな?」
「え、ちょ、待って。褒めてんのかソレ」
いや重要視すべきはそこじゃなく。
さらなる助言を求めて岸波を見るが「流石だ」とでも言うように無表情で頷くだけ、英雄王は哀れみ……じゃないな、ニヤリと黒い笑みを向けている。
……なんにせよ、味方側で弁護してくれるような奴はいなかった。何故だ。
「まったく皮肉なものだ! 唯一己を殺す可能性のある者が一番に己を理解してくれる存在だとは! まさしくお前の大好物じゃないかキアラ!」
「ええ、本当に――」
口元を歪めたキアラから殺気が放たれる。
あの女はこの世で最も醜い悪であり、異様な自己愛の塊だ。……こんなモノを、月から出すわけにはいかない。
「――令呪を以って命ずる」
決断は早かった。
魂を懸けたこの一戦、負けることは許されない。
故に、サーヴァントへ行える支援は全て行うべきであると。
「ランサー、必ずや勝利を掴め。それ以外の
二画目の令呪が消え失せ、エルキドゥへ魔力の補助がかかる。
表側に戻ったあと、についてはこの際何も考えない。今は、現在を乗り越えるためだけに全力を尽くさなければ――死ぬ。
「もちろん、マスター。この命が停止しない限り、僕は貴方の剣になると約束しよう」
返ってきたその言葉はいつか、最初に出会った時に送られた誓い。
彼があえてその言葉を選んだのか、それともただの偶然か。思わず随分、運命的な台詞だと感じてしまった。
「ふ、ふはははは!! ならば我らも負けてはいられん! 魔力を廻せ
「ああ、持てる力全てを叩きつける――!!」
ビリッ、とした感覚と共に、神気が空間に満ち始める。
宝物庫からギルガメッシュが取り出したのは、赤黒い奇妙な形をした一振りの剣。
それこそは――始まりと終わりを象徴する、かつて神が世界を開闢すべく振るった力の具現。
「ならこっちもいくぞ。存分に持っていけぇ!!」
「もちろん、その期待に応えてみせよう――!!」
星のマナが一ヶ所に収束し始め、エルキドゥの姿が膨大な魔力に包まれる。
乖離剣エアと神業の槍。
瞬間、捻じ曲げられながら乖離剣へ収束した森羅万象が弾け飛び、神気を纏った天地を貫く光の槍が撃ち放たれた。
其は地獄を造り、其は楽園を唱う。
あまりにも理不尽な神代の暴威が、たった一人の魔人へ向かって突き進む――!!
「済度の時です」
そして、殺生院もまた己の宝具を開帳する。
其は知恵持つ生命全てに有効。
快楽の渦は知性を融かし、その人生を一瞬にして昇華する。
カテゴライズは――対
「――気をつけろ。最低最悪の宝具が来るぞ!!」
おかしな事に、そんな童話作家の声が聞こえた気がした。
刹那。
「っ――この、……!」
残数など気にせず、乱暴に魔法石を口に放り込む。魔力が充填される度に全て宝具へと持っていかれるが、それでも抗う――抗わなければいけないと、直感した。してしまった。
「――――【
術式“万色悠滞”によって開かれた回路を通り、神の元へと収束するは地球上に在る全ての精神。
宇宙の中心に降臨する女神は何万、何億という生きとし生けるものの魂を己の中へと招き入れ、また自身をその生贄、人々の欲望のはけ口にする。
世界を切り裂いていく膨大な神気。
彼女が宝具を展開した時――まるでその光景そのものが「否定」されたような気がした。
「……【add_invalid();】」
防壁を形成した途端に激突を感じ、ついに意識を失った。