彼は、黒崎は焦っていた。
あの時の騒ぎの事ではない。
彼はむしろ後悔していた。渚の発言を容赦無く責め、彼を傷付けてしまった事を。
あの時の渚の傷付いた顔を見れば尚更だ。
だが、彼にはもっと深刻な問題があった。
妹が、由夏が帰って来ないのだ。時計の針は夜7時。今日は6時くらいに帰るはずなのだが、
一向に帰ってこない。普段なら遅れる時は連絡するのだが、それもない。
一応彼女にメッセージを送るも、返信はない。
「…一体、どうした?」
黒崎は呟くが、答えはどこからも返ってこない。
…まあいい。まだ帰らなくても不思議ではない時間だ。
8時くらいには帰って来るはず。それまで黒崎は他の事でもやっているか。
そう決めて、黒崎はいつも通りナイフの訓練をする。冬休みはやっていなかったので、
恐らく身体が鈍っている。
振るうのは勿論対先生物質のナイフだ。
対人用のナイフだと下手に落とそうものなら危険だ。最もそんな事はほぼ無いのだが、
それでも黒崎がやっているのは超生物の暗殺。
人を攻撃する対人用のナイフを扱う場面は少ない。
黒崎が持っているナイフは3種類。
一つは対先生用ナイフ。もちろん暗殺用。
もう一つは両親の形見となってしまった折りたたみ式の対人用ナイフ。
俺があれを使ったのは、 南の島のヴァンパイア戦と、死神との戦いだけだ。
そして最後の一つは、対先生物質を金属ナイフに配合させたハイブリッドナイフ。
これならどんなものでも斬る事が出来るが、そもそも使うケースが少な過ぎる。
暗殺用なら対先生ナイフがあるし、護身用なら折りたたみナイフがある。
だから、これは一回しか使っていない。
鈍った感覚を完全に取り戻すまで訓練を続け、時計の針を見ると短針が8時を指していた。
幾ら何でも遅過ぎる。
黒崎は電話を掛けようとする。すると、彼の携帯は突然鳴り出した。着信のようだ。
発信者は由夏だ。彼は着信に出る。
「由夏、遅いじゃないか。連絡もせず一体今までどこに…」
そう言った黒崎の声は、途中で別の声で遮られる。しかもそれは、由夏の声では無かった。
「さあ、どこだろうねえ。教えてほしいかい?」
ボイスチェンジャーを通したかのようなくぐもった声。
「…お前、誰だ?」
「私の正体なんかどうでもいい、一つだけ言う事があるとすれば、
君の妹の身柄を預かった、ただそれだけだ。」
「…証拠を見せろ。由夏がお前の所にいると言う。」
「全く、携帯電話だけじゃ足りないのかい。君は疑り深いねえ。」
スマホにデータが送信される。全身を縄で縛られ、壁に固定された由夏の姿だ 。
黒崎は思わず息を呑んだ。
「由夏は何処にいる?無事なんだろうな?」
…まさか、誘拐されただと!俺は焦って電話の相手に問い質す。
「…少なくとも今はね。だが、私はそう気が長くは無いんだ。
彼女の身の安全が保障出来るのは今日中までだな。
それを過ぎたら、そうだな、彼女の身体がバラバラになって君の所へ届くかもしれないな。」
「…ふざけるな!もう一つの質問に答えろ。今由夏は何処にいる?」
「場所はここだよ。」
そう相手が言うと、俺のスマホにデータが表示された。
それはどうやら位置情報だ。
「…君にもし、命を賭けてでも君の妹を救う覚悟があるのなら、この場所に1人で来なさい。
期限は今日中。それを過ぎたり、君が他の誰か、例えば、
君のお友達とか、担任の黄色いタコとかに知らせたり、連れて来たりすれば、
それが分かった瞬間彼女の命はないと思いな。警察は言わずもがなだ。
こっちは君の情報は全て把握しているんだよ。君の居場所も、環境も。」
…殺せんせーの事まで把握されているだと?俺は冷や汗をかく。
「…ストーカーか?趣味の悪い野郎だ。だが何故俺を狙う?賞金首を倒すのに生徒を巻き込めば
賞金は支払われないとは知らないのか?」
黒崎は問う。
「そんな事は勿論知っている。あのタコの暗殺など私は求めていない。
私の目的は、君だよ。黒崎翔太君。」
「ただの中学生の俺に何の用だ。」
「…ただの中学生?笑わせないでくれ。何処にプロの殺し屋を倒すただの中学生がいる?
それに、君はともかく、君の両親は、普通の人間ではあったが、重大な秘密を知っていただろう?」
こいつ、南の島どころか、
「貴様まさか、俺の両親の事に、関わっているのか?」
「…関わっているも何も、私があの『ヴァンパイア』に指図した。
君の両親を自殺か事故死にでも偽装して殺すようにってね。」
「…!」
嘘だろ?こいつが俺の両親の死に関わっていると言うのか?
ありえない。これはこいつが俺を動揺させるためについたただの嘘だ。彼はそう思おうとした。
だが、それにしては知り過ぎている、黒崎の情報を。
どうやら嘘ではなさそうだ。
黒崎の心の奥底から、怒りがふつふつと湧き上がってきて、今にも溢れそうだ。
こいつが、両親を殺して、俺から何もかも奪ったんだ。
こいつのせいで、俺たちの生活は壊された。それも、恐らくこいつの保身の為に。
そう思うと彼は怒りが抑えられない。
そして、何より、妹を危険な目に合わせた。俺に残ったたった1人の家族だ。
それを傷付けた代償は重い。
「…いいだろう、その場所に行ってやる。首を洗って待っていろ。」
「血気盛んだねえ。いいとも、君の来訪を歓迎しよう。」
そう相手が呟いた瞬間、電話が途切れた。
正体も目的も分からない。行くには危険過ぎる。普段の俺だったら、
間違いなく相手の要求通り乗り込むことなどしない。
だが、今回だけは特別だった。
彼の妹が、生命の危機にあるのだ、兄として助けない訳にはいかない。
ただでさえ、普段は妹の事など守ることも助ける事も出来ていないのだから。
下手をすれば、黒崎が死ぬかもしれない。それでも彼は躊躇いはしなかった。
彼は、何度も生命の危機に晒された。とっくに死んでいてもおかしくないのだ。
だが悪運強く生きている。ならば、運良く生きながらえたこの命、
家族を守らずして何に使う。彼は強く決意し、ずっと使わなかった二つのナイフを取る。
折りたたみナイフと、ハイブリッドナイフだ。まさか相手に触手持ちがいるとは思わないが、
念の為。
そして相手が送って来たGPS情報を地図で調べる。
なんと、場所はとある廃ビルだった、それも大規模な。
かつてテレビ局のスタジオとしても使われていたらしい、
つまり、内部が占拠されないよう、複雑な構造になっている。
周辺は今は寂れていて、夜になれば誰1人そこを通らない。
人質を隠す場所としては最適だろう。
だが、あえて相手はわざわざ場所を知らせて来た。つまり迎え撃つ準備ができていると言う事。
こちらも相応の準備が必要だ。
黒崎は超体育着を着て、武器を持ち、家を出る。
たった1人の家族を助ける為に。そして、両親の仇を取る為に。
そして1時間後。彼は地図を頼りにその場所へ辿り着く。
かなりの郊外で、こんなところにテレビ局があったのか疑わしいほどだ。
だが間違いない、相手はこの場所を指定してきた。
命を賭ける覚悟はできている。けれど、死ぬのが怖くない、と言ったら嘘になる。
それでも彼は闘う。自分の家族の為に。
…
廃ビルの前に立った黒崎。
それをモニター越しに、監視カメラの映像を眺める、仮面を被った1人の男がいた。
「健気なものだねえ。たった1人の妹のために闘うなんて。
それを称えて、こちらも全力で向かってあげよう。なあ、ヴァンパイア。」
男が向いた先には、かつて黒崎が倒した殺し屋、ヴァンパイアが。
「へへへへ、あのガキ、今度こそ血で真っ赤に染めてやる。
あいつの大事なものを頂いてやるぜ!」
彼の風貌はより凶暴で、眼も狂気じみたものへと変わっていた。
「私は、黒崎の血を引いた人間を潰す為に今ここにいる。なあに、君もすぐに死ぬ事になるさ。
楽に死なせるから安心したまえ。」
向きを変え、そう呟く男の眼前には、今度は縛り付けられた黒崎の妹、由夏が。
「お願い、やめて…」
彼女は疲れ切った顔でそう呟く。
「お兄ちゃん…、来ないで…」