夏の陽は容赦なく地を照らし、視界の端で立ち昇る熱気が空を仄かに歪ませていた。
趙雲さんが斥候を追って谷道を進んだのは、ほんの気まぐれからだったのだろう。
だが、そこで私たちが見たものは、到底、好奇心で片づけられる光景ではなかった。
木立の中、露わな肌をさらしたまま奇怪な男が仁王立ちしていたのである。
まるで山犬に追われた猿のように、ぎょろりとした目でこちらを見つめたかと思えば、次の瞬間、意味不明な音を発して逃げ出した。
趙雲さんが眉をひそめるのを見て、私も深くため息を吐いた。
「趙雲さん、その者は……」
「申し訳ありません、麗羽様。痴れ者かと思われますが、放っておけません」
近くに潜む悪党どもを斬った趙雲さんの太刀筋は淀みなく、しかしその戦の直後に現れた男の、あまりの場違いさには、もはや呆れを通り越して私は笑みさえ浮かべていた。
──あれが、運命だったというのかしら。
名族の末裔として誇りを胸に戦ってきた私が、追いすがる民の手を振りほどくようにして、あの男、山田太郎と再会したのは、都を追われて幾星霜を経た後のことだった。
草の上に並べられた、乏しい夕餉の支度。手慣れた仕草で小さな竈に火を起こす男の背中は、あのときとは違っていた。
みすぼらしく、しかし妙に落ち着いていて、その姿が何故か私の胸を少しだけ締めつけた。
「……麗羽さん、お腹空いてません?」
そう言って振り向いたその顔に、私は思わず目を伏せた。
あれほど軽薄で、野蛮で、無知で、醜悪な存在だと感じた男。
だけど今、この手で包みたいと感じてしまう温もりを彼の背から感じてしまうなんて。
「……いただきますわ」
かすれた声が、自分のものだとは思えなかった。気品を装う余裕など、とうに失われていた。
髪は風に乱れ衣は継ぎ接ぎ、誇りなどもはや記憶の中にしかない。
それでも彼は、私を「姫」と呼んだ。
その響きがあまりに優しくて、あまりに遠くて、私はほんの少し泣きそうになった。
最初の頃、私は彼のことを「異物」と呼んでいた。
世辞も作法もなく私の過去を知らず、あるいは知っていてもまるで気に留めない。そういう人間がどうしても信じられなかったのだ。
けれど時間というのは、感情の輪郭をぼかすものらしい。
「麗羽さん、洗い物、これで最後です」
木桶を抱えて戻ってきた彼は、今日も手を濡らしていた。
あんな男が人のために何かをするとは思ってもみなかった。
けれどそれが私の食器を洗うためなら、平気な顔でやってのけるのだ。
「……ありがとう。もう良いわ。手が荒れてしまいますわよ」
「まあまあ、どうせ元から荒れてますから」
そう言って彼は、にかりと笑った。ふてぶてしくて、どこまでも無遠慮で、でも不思議とその笑顔は不快ではなかった。
夜が更けて焚き火の火が揺れる。
互いに言葉もなく、ただ沈黙の中で木の実をつまみながら私はそっと訊いた。
「……どうして私なんかに構うのですか?」
彼は驚いたようにこちらを見て、そしていつになく真面目な顔で、こう言った。
「だって麗羽さん、よく笑うじゃないですか。俺、ああいう笑い方、好きなんですよ」
私は、笑っていただろうか。
いつのどの時のことを、彼は言っているのだろう。
自分では気づかないうちに、私は誰かの前で笑えるようになっていたのか。
「馬鹿な人」
その一言に、彼は照れたように頭をかいた。
ああ、これが、友情というものなのだろうか。
何も持たず何も知らず、私の過去にも名声にも怯まない。ただひとりの拙くて不恰好な味方。
失ってしまったものの多さを、ふと振り返りそうになる夜。
けれど今はそれでもいいと思える。あの背中が隣にあるなら。
澄んだ水が音を立てて流れる小川のほとり。
私は裾を払って腰を下ろし、彼の隣にそっと腕を絡めた。
濡れた足首が少し冷たかったけれど、日差しは穏やかで、風は柔らかかった。
「今日こそは釣ってみせますよ。麗羽さん、今夜は焼き魚定食です」
彼は竿を握りしめ、やたらと真剣な顔で川面を見つめている。
その後ろ姿を見ていると、なぜだかふふっと笑いたくなってしまった。
ほんの少し前まで私は、人の上に立つことばかり考えていた。
誇りとか威厳とか、そんなものがすべてだと信じていた。
けれど今は、ただ隣に並んで座って何も考えずに過ごせるこの時間が、たまらなく愛しい。
彼がどれほど真面目に釣り糸を垂らしていても、私の心はその姿を見ているだけで温かく満たされていた。
何かをしなくても、何かを証明しなくても、誰かの隣にいていいと初めてそう思えた気がする。
ああ、これが友情というものなのね。
そんな風に思えた自分が、少しだけ誇らしかった。
夕日が川面に映えて、きらきらと揺れていた。
小さな魚の鱗が光を跳ね返し、風の音とともに小さな静寂が流れてゆく。
私はそっと彼の肩に頭を預けた。
とくに理由があったわけではなかった。ただ、そうしていたいと思ったのだ。
彼は、少しだけ驚いたような気配を見せたけれど、すぐに何も言わずそのままでいてくれた。
彼の肩は温かく、どこか懐かしい匂いがした。草の匂い、土の匂い、そして彼自身の気取らない、正直な人の匂い。
私は目を閉じて、考えていた。
これからのこと。乱れたこの世の中で私が何を成すべきなのか。誇りはまだ胸の奥に燻っている。
けれど、それだけではもう進めない。私は、独りではもう何もできない。
あの人が、笑ってくれるのなら。
それが、私の願いになるのかもしれない。
彼のような人が、この世界で笑っていられるなら。それだけで私の生きてゆく意味になるのかもしれない。
「……何か釣れそうですか?」
低く問えば、彼は「うーん、気配はあるんだけどな」と少し悔しそうに笑った。
その笑顔が、たまらなく好きだった。武を持たず、地位も持たず、それでも誰かの支えになろうとするあの人の強さが。
私は彼の友誼に応えたい。
恩を返したいなどという、大げさなことではない。
ただあの人が、少しでも嬉しくなるようなことを私はしてみたい。
「今夜は、私がお味噌汁を作りますわ」
「え? ホントですか? やったー!」
はしゃぐ彼の声が、あたりに広がった。私はそっと微笑む。
きっと、これがささやかだけれど、確かな、私なりの「答え」。
干した芋と粟の入ったお粥。それだけの食卓が、こんなにも満たされるものだとは、かつての私には想像もできなかった。
銀の膳や絹の敷物に囲まれていた日々より、今の方がどこか誇らしかった。
「今日のお粥、ちょっと水多めだったかもですけど……ほら、芋が甘くていい感じじゃないですか?」
木の匙を口に運びながら、彼が得意げに笑う。
その顔を見て私は自然と微笑んでいた。
味の濃さでも品数でもない。ただ、誰と分かち合うか。
それだけで食事の意味は変わるのだと、私は今になって知った。
人は粗食でも友達がいれば、満たされる。
そんな簡単なことに気づけた私は、昔よりもずっと賢くなったのかもしれない。
毎日が、幸せだった。
朝、焚き火を囲みながら交わす小さな会話。
昼、畑に出て、土の匂いに笑い合うひととき。
夜、布団を並べて見上げる星の多さに驚いて、ふたりで黙って手を握った。
彼が、傍にいるだけで。
どんなことでもできるような気がした。どんな過去も意味のあるものに変えられる。どんな未来もまだ私の手で選び取れる。
そう思わせてくれる、たったひとりの人。
「麗羽さん、明日は、山の方に茸取りに行きません?」
「……ええ。貴方がご一緒なら、どこでも」
その答えに彼はまた笑った。私はそっと、胸の奥に芽吹いたぬくもりを抱きしめた。
これが友情の姿なら私はもう何も恐れることはない。
焚き火が、ぱちりと小さくはぜた。
宵の帳が下りかけた野辺で、私たちは並んで腰を下ろしていた。
遠くに見える木立の影は黒く沈み、空には星が滲みはじめていた。小さな声で虫が鳴いていた。
彼はしばらく沈黙のまま私の手を握っていた。
掌が少しだけ汗ばんでいて、不器用なぬくもりを伝えてくる。
「麗羽さん、俺……本当に何も持ってないですけど」
ぽつりと彼が言った。甘い空気に期待して、私は振り返ることができず、ただ目を伏せていた。
「でも、それでももし隣に麗羽さんがいてくれるなら、俺、どこででも生きていけます」
風が私の頬を撫でた。
「結婚してください」
その言葉は、あまりにもまっすぐで。あまりにも、あたたかくて。
心臓が強く跳ねた。胸の奥がきゅうと締めつけられるように痛くて、だけどそれは、どこか懐かしい痛みだった。
これは恋。ああ、私は、この人を愛しているのだわ。
名族として誇り高く生きてきたはずだった。けれどそれは、いつしか孤独の仮面に変わっていた。
私は長い間、誰かに手を取られることを望んでいなかったのかもしれない。
だけど今、この人の声にこの人の手に、私は救われている。
「……はい」
それだけが、やっとのことで言えた言葉だった。声が震えた。
「喜んで、お受けいたしますわ」
彼は、少しだけ目を見開いて、それから不格好なほどに笑った。その笑顔が涙が出そうなほど嬉しかった。
私は誰かに必要とされていたのだ。
麗羽ではなく、ただの私が彼にとっての唯一なのだと。
その夜、私は彼の肩に頭を預けたまま、しばらく星を見上げていた。
胸の鼓動はまだ止まらず、でもその音がこんなにも幸せを運んでくれるものだと、初めて知った。
麦を挽く音が遠くから微かに聞こえる。夕方の風が、藁葺きの軒をくぐり、ふたりの間をそっと撫でていった。
彼は私の作った汁物を匙で口に運びながら、いつもより少しだけ真剣な目をしていた。
「麗羽さん……ちょっと、引っ越しを考えませんか?」
言葉の温度はやわらかかったけれど、その奥にある緊張に私はすぐ気づいた。彼は笑おうとして笑いきれずにいた。
「このところ……噂も騒がしくなってきたんです。戦が近いとか、誰それが討たれたとか……あんまり良くない話ばかりで」
箸を置き、私は指先を重ねた。彼の言葉はきっと冗談ではなかった。
「だから……今のうちに安全な街に移ろうかなって。麗羽さんに何かあったら俺、きっと後悔するから」
この人はそういう人だった。
私の手を取ることを、声をかけることを決してためらわない人。守れるかどうかよりも、守りたいという気持ちをまず差し出せる人。
「……私、暑い所も寒い所も、苦手ですけれど」
精一杯、微笑んでみせたつもりだった。けれど彼はすぐにわかったように目を細めて、優しく笑った。
「じゃあ、ちょうどいいところを探しましょう。麗羽さんが快適に過ごせるようなところ」
夕焼けが窓の向こうで地平を染めていた。炊きたてのご飯の湯気が、天井へふわりと昇っていく。
私はふと気づいた。彼と一緒なら、どこだっていいのだと。
風の強い高原でも、海の見える村でも、街の片隅でも。彼が手を取ってくれるのなら、私はどこにだって行ける。
そう思えてしまう自分が、少し照れくさくてでも、嬉しかった。
「……ありがとう。引っ越し、いたしましょう」
それが私の答えだった。
その日は小さな雨が朝から静かに降っていた。霧をまとった野が淡く白み、遠くの山影さえ輪郭を曖昧にしていた。
焚き火の火がなかなか起きず、彼は苦戦しながら濡れた枝をかき回していた。私は傍らで黙ってその背を見つめていた。
そんなときだった。小川を渡って駆けてくる音。最初は鳥の羽ばたきかと思った。
けれどその音は、次第にはっきりと確かな足音になった。
「姫……!」
最初に駆け寄ってきたのは、懐かしい面影を残した女だった。
濡れた前髪、荒れた頬。それでも見紛うはずがない。顔良、斗詩さんだった。
「姫……! やっぱり、生きて……っ」
次に現れたのは、力強い緑の瞳を持つ文醜、猪々子さん。
彼女もまた、泥にまみれて、息を切らせながら、まるで子どものように泣いていた。
私は一歩も動けなかった。
「おふたり……なの……」
それだけしか言えなかった。声が震えていた。言葉が喉の奥で絡んで涙がにじんだ。
かつて私が失ったと信じたもの。地位も、名誉も、軍も。何もかもが霧の向こうに消えていったと思っていた。
だけどここに居た。ずっと私を探し、私を信じてくれた者たちが、こうして泥まみれで走ってきてくれた。
「姫……お会いできて……良かった……!」
斗詩さんが膝をついて泣いた。猪々子さんが肩を抱きながら、静かに頷いていた。
私は震える手を彼の袖に伸ばして、その胸に顔を埋めた。
何も言わなかった彼の手が優しく私の背を撫でた。私はその温もりの中で、声を抑えきれなかった。
涙が止まらなかった。私は、まだ何も失っていない。
こんなにも素晴らしい友人たちがいる。共に涙を流してくれる人がいる。泥にまみれても、かまわず駆け寄ってくれる人がいる。
そう思えただけで、私は、今日を生きて良かったと心から思った。
夕餉の後、ふたりで湯殿に入った。
湯気の向こうに見える彼の横顔は、どこか恥ずかしげで、それが可笑しくて私は思わずくすりと笑ってしまった。
背中を流してくれる手つきは不器用だけれど誠実で、湯の温かさよりも、その手のぬくもりに心がほぐれていった。
「麗羽さんの髪、いつもきれいですね」
そんなことを、少し照れながら言ってくれる。
私の髪を撫でるたび、彼の声は低く優しく、まるで愛を編むようだった。
肌と肌が触れ合い、言葉よりも深く伝わる想いに私は身を預けていた。
寝所に入ってからも、彼は変わらなかった。
乱れることなく焦ることもなく、ひたすらに私を大切にしてくれた。
指先が触れるたびに柔らかな言葉を重ねてくる。
そのたびに胸が熱くなり、自分がどれほど望まれているのか、どれほど深く愛されているのかを知る。
「麗羽さん、ありがとう。今日も一緒にいてくれて」
そんな風に囁かれる夜がこんなにも幸福なものだとは、かつての私には想像もつかなかった。
抱かれているのに、包み込んでいるような、そんな静かな安らぎの中で、私は眠りについた。
翌朝、彼が仕度を整えながら「そろそろ出ようか」と囁いた。
私は布団の中で、まだ少し名残惜しそうにその背を見つめていた。
彼が勤め先に挨拶に向かう間、私は小さな荷物をまとめた。
と言っても、持っていく物などほとんどなかった。
手に入れたのは地位でも財でもなく、この穏やかな暮らしと彼の愛だったのだから。
戦火に巻かれるこの地に未練はなかった。
目指すは、遥か海の向こう夷州。風の強いその島に、私たちの新しい日々が待っているのなら、それだけで充分だった。
彼がそばにいてくれるなら、どこへだって行ける。
私はそう信じている。
再び訪れた斗詩さんと猪々子さん。私は彼と夷州への引っ越しを伝えた。
「麗羽様と……お付き合い、されているのですか?」
そう問いかけた斗詩さんの声は、どこか震えていた。その横で猪々子さんが目を丸くして私たちを見つめている。
ふたりとも変わらず私を姫と呼んだ。それが嬉しくて、少しだけ誇らしかった。
「……はい。私は、今、この方と共に生きております」
私の答えに、ふたりは驚いたようだったけれど、すぐに頷き静かに頭を下げてくれた。
「でしたら、どうか、私たちにもお供させてください」
ふたりはそう言った。あの喪われた城の日々から、なおも私を「姫」と呼び仕えることを願ってくれる。
私は胸の奥で何かがゆっくりと満ちていくのを感じた。そう私は、独りではなかったのだ。
それから数日。私たちは夷州を目指して、旅の支度を進めた。
「タローさん、私たちは孫権の領を通ります」
斗詩がそう説明するのを、彼はやや呆けたように聞いていた。
戦の地名も、地図も、彼には難しいのかもしれない。それでも私には、それさえも愛おしく思えた。
「勃海の蓬莱山には、不老不死の妙薬があるそうですわね」
何気なく口にした私の言葉に、彼は少し黙ってそれからふわりと笑った。
「不老不死なんていらないよ。麗羽さんと一緒がいい」
そう言って私の髪にそっと手を伸ばした。指先が頬に触れる。そのやわらかさに胸が締めつけられた。
「タローさん……」
名前を呼ぶ声が少しだけ震えた。彼は照れる様子もなくまっすぐに私を見ていた。
「これからも、よろしくお願いします」
それだけで私はもう言葉が出せなくなってしまった。
不老不死という幻想ではなく、ただのこの人とふたりで日々を重ねていくという現実。
その何気ない未来がどれほど尊いものかを私は知ってしまった。
私は、幸せだった。
それは何かを持っているからではなく、誰かが隣にいてくれるという、ただそれだけの理由で。
彼とふたり朝日とともに目を覚まし、小さな家を出て街へ向かう日々が続いていた。
目指すは海の向こう、遥かなる蓬莱。夷州でふたりの安住の地を築くためには、船足を確保しなければならなかった。
「準備は万全にしたいですからね」
彼がそう言って笑ったとき、私はその横顔を見つめながら胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。
彼はこの日々のために働いてくれた。汗をかき、泥にまみれ、それでも決して不平を言わなかった。
私がただ傍にいるだけで良いと、そう言ってくれる彼に私は何度も心を救われた。
街の人々の間で、私たちの噂が静かに広まりはじめたのはその頃だった。
斗詩さんと猪々子さんが私のもとに戻ってきてから、かつて袁家に仕えた者たちが、ぽつりぽつりと姿を見せるようになった。
彼が不意に問うた。
「麗羽さんって……もしかして、袁本初で袁紹ってあの?」
私は少し黙って、それからそっと微笑んだ。
「そうですわ。……昔の話、ですけれど」
今はタローさんの傍ら居るただの麗羽で良い。
彼は驚いたような顔をして、それからすぐに笑った。
「麗羽さんは麗羽さんです。それだけですよ」
その言葉に、どれほど救われたか知れなかった。私の過去も、敗北も、何もかもを知ったうえで、それでもなお私を私として見てくれる人がいる。
そう思えただけで涙が出そうになった。
新たに集った人々が私のもとに頭を下げる。
何も持たず名すら偽っていたこの身に、まだ従おうとしてくれる者がいるのだ。
私は立ち上がり、静かに告げた。
「蓬莱の島で、袁家を再興いたしますわ」
言葉に迷いはなかった。かつて失ったものをもう一度この手で。
けれど今度は権勢のためではなく、私と共に在ろうとしてくれる人々のために。
そして何より、この私を見つめて支えてくれた、ただひとりの人のために。
その場にいた者たちがひときわ大きく湧き立った。
歓声に包まれながら私は彼の手をそっと握った。彼は目を細めて、ただ私の名を呼んでくれた。
愛に満たされたこの日々は、何よりも確かな希望となって私の胸をあたためてくれた。
戦火の残り香がまだどこかに漂っている。
誰もが不安と隣り合わせで暮らしていた。名を持つ者も、持たぬ者も、皆が明日を疑いながら、今日を歩いていた。
私もまた名族としての誇りを失いかけ、道を見失っていた。けれど彼と出逢ってすべてが変わった。
「麗羽さんはきっとまた立ち上がれる。俺も手伝います」
そう言った彼の声が今でも耳に残っている。武もなく、血筋もない。
それでも彼は私と共に生きるために歩いてくれる人だった。
彼は歴史を知らなかった。地図も、軍略も、よくわかっていないようだった。
それでも彼は誰よりも現実を見ていた。自分にできることを探し、私の手を取り、ひとつひとつ形にしていこうとしてくれた。
「政の力なら、俺にも少しは関われるかもしれません」
彼の提案で始まった建築の商いは、最初こそ小さなものだった。
けれど、不安に暮らす人々に「守る」という選択肢を与えたことは、思いがけず大きな反響を呼んだ。
「この先、いつ何が起きるかわからない。だったら、そのときに備えましょう」
そんな彼の言葉に多くの者が耳を傾けた。財を持つ者ほど恐れている。大切なものを失うことに。だからこそ彼の提案は響いた。
私はその様子を傍らで見守っていた。彼の働く姿は不器用で、でもまっすぐだった。
手にした帳簿に眉をひそめ、何度も書き直す姿に、私はふと心がほどけるのを感じていた。
「私はタローさんを信じます」
そう口にしたときの私の声は、どこか熱を帯びていたと思う。
彼が私を信じてくれたように、今度は私が彼を信じたかったのだ。
彼の手で築かれた小さな商会が、人々を支え、名を広めていく。
私はそれが嬉しかった。
戦に敗れてもすべてを失ったわけではなかった。
私には彼がいた。私を愛し、信じ、共に未来を探してくれる人が。
愛されることの喜びは、確かにここにあった。
そして、誰かを信じることの強さも。
彼と共に歩むこの道は、乱世の只中にあってなお、私にとってこの上ない幸福だった。
陽が傾き、廊下の敷石がやわらかく朱に染まるころ、私のもとへ小走りにやってきたのは猪々子さんだった。
どこか慌てたような様子で、「麗羽様、大変です!」と叫ぶ声に、私は思わず眉を寄せた。
けれどその声の後ろには、ほんの少しの笑いが混じっていた。
やれやれ、また何かやらかしたのね、と察しがついた。
戻ってみれば案の定、彼は斗詩さんとともに、気まずそうに私の前に立っていた。
斗詩さんは俯き、耳まで赤く染めていて、文さんは半ば呆れたように、けれど責めるでもなく彼の肩を叩いていた。
「……ごめんね、麗羽さん。ちょっと調子に乗っちゃって」
彼が素直に謝るなんて珍しいことだった。私は溜息をひとつだけつき、それから静かに言った。
「斗詩さんも、猪々子さんも、私の大切な仲間です。けれど……あなたが、いちばん愛してくれているのは誰かしら?」
彼は少し驚いたように私を見て、それから、いつものように気取らない笑顔を見せた。
「もちろん麗羽さんです。あなたが一番、大切な人です」
その言葉に私はふっと微笑んだ。
この時代、側室を持つのは珍しいことではない。むしろ愛情だけを理由に、一人の男が一人の女に添うという考えの方が世間では奇異に映るのかもしれない。
けれど私は知っていた。彼の心の中には、誰よりも強く私の名が刻まれている。
どれほどたくさんの人に囲まれても、彼の視線は必ず私を探す。それで十分だった。
「……正解ですわ。あなたが私を忘れない限りは」
そう言うと、彼は何かをこらえるような顔をして、私の手をそっと取った。
その手はとても温かくて、私は自然と指を絡めていた。
その日の夜。彼が買いに出かけた甘い菓子をふたりで分け合いながら私は思った。
どうして、こんなにも幸福なのだろう。
斗詩さんも、猪々子さんも、彼を慕い始めている。けれどそれは、決して私の敵ではなかった。
むしろ彼を愛するということを通して、私たちはまた新しい形の絆を得ていたのかもしれない。
「麗羽さん、やっぱり俺、麗羽さんが好きです」
そんな風に何度も伝えてくれる。私は頷くだけで、もう胸がいっぱいだった。
きっと愛されるというのは、こういうことなのだ。
信じること。許すこと。そして揺るがぬ想いを持ち続けること。
私はこの人と出会って、たしかに強くなった。
その晩、彼の腕に抱かれて眠りについた私は、どこか夢のような静けさの中で、「ずっと、こうしていたい」と、そっと祈った。
それだけで心の奥まで満たされていた。
その子たちは怯えた瞳をしていた。傷ついた膝、擦り切れた衣。
小さな背に抱えきれないほどの恐れと孤独を纏って、私の前に引き出された。
もとは、彼が町角で揉め事に巻き込まれたことから始まった話だ。
軽い怪我で済んだとはいえ、子どもたちが投げた石に額を打たれた彼は、決して怒ることはなかった。
けれど私は、簡単には見過ごせなかった。
子の親が詫びに訪れた折、私は思ったのだ。罰するよりも、導くことの方が遥かに意味があると。
「これからは屋敷にて側仕えとして学んでもらいます」
そう伝えた私に、子どもたちは目を丸くした。恐れとほんの少しの期待が、幼い顔に交差していた。
それからの日々、私はじきじきに彼らの教育にあたった。
言葉づかい、立ち居振る舞い、掃除や給仕の作法。どれも一朝一夕に身に付くものではない。
けれど、何よりもまず教えたのは心だった。
「あなたたちが仕えるのは、私ではありません」
言うと皆が驚いたように顔を上げた。私はゆっくりと言葉を続ける。
「仕えるべきは、タロー様です。あの方の傍にいて、あの方を支えること。それこそが、あなたたちの誇りであり、使命です」
言いながら私は自らの胸に手を当てた。
「私自身が何より、彼を敬い深く愛しております。そのことに何の恥じらいもございません」
あの方は決して気高い血を持っているわけではない。学を修めたわけでも、武に秀でたわけでもない。
それでもあの方の人となりは、何にも代えがたい真価を持っている。
「私たちが持つべき忠誠は、血筋ではなく、徳に向けられるべきなのです」
その言葉を子どもたちは黙って聞いていた。
まだその意味がすべて分からなくとも、私の瞳の奥にある揺るぎなさだけは、きっと伝わっていたと信じたい。
その晩、ふたりきりになった彼に私は話した。
「今日からこの子たちも、あなたの傍に立ちます」
「うん……大丈夫かな?」
不安そうな彼に微笑みかけながら、私は首を横に振った。
「あなたは誰よりも人に優しく、誰よりも人を見捨てない。だから、あなたに忠義を捧げたいと思うのです」
彼は照れたように笑って、それでも嬉しそうに私の手を握った。その温もりを感じながら、私は心の中でそっと誓った。
この人のためなら、私は何度だって立ち上がれる。
忠誠を教えるということは、単に命令に従わせることではない。
その人を心から尊ぶこと。その心根の美しさを伝え、守らせること。
私たちはそのようにして、少しずつ、けれど確かに家族になっていくのだと思った。
戦の空気というものは、いつだって独特だ。
初陣の前、兵たちはやや浮ついた足取りで武具を整え、やがて沈黙へと飲まれてゆく。
南蛮の地に踏み入り、私は思ったよりも冷静だった。これが私の戦。再び立ち上がるための最初の一歩。
けれどその一歩は、どうやら想定よりも深い泥に沈んでいたらしい。
「敵の抵抗は頑強で、御味方の軍勢は総崩れです!」
伝令の声が荒い息のまま私の幕舎に響いた。
私は顔を上げ、軽く頷くだけで応えた。
「閣下、ここは下がらせますか?」
進言の声が続く。怯えではなく、現実を見据えた冷静な判断だったのだろう。
けれど私は、少しだけ唇の端を上げた。
「いいえ。弓兵に射撃命令を。ただし馬は避けなさい。貴重な財産ですから」
兵たちが一瞬ざわめく気配があった。構わない。私は続けた。
「味方の兵が退いていない? ならば尚のことです。弱兵を守るために、強兵が犠牲になるような軍に未来はありませんわ」
声は穏やかだったと思う。叫ぶことも、脅すこともない。ただ静かに戦の理を告げただけ。
私は決して命を軽んじているわけではない。
むしろ、だからこそ無駄にするわけにはいかないのだ。
「巻き込まれて死ぬ者は、そこまでの者。足手まといを残しては、後の戦に禍根を残すのみです」
采配は、美しかった。
火矢が放たれ、空を駆ける。狩りを仕掛けたはずの南蛮兵たちが、炎に包まれた混乱の中で逃げ惑う。いっそ滑稽なほどに。
私の手はわずかに震えていた。でもそれは、恐れではなく、昂揚。
これが再び「私」として生きるための、始まりの実感だった。
傍らに立つ彼が、何か言いたげに私を見ていた。私はその視線に気づきながら、ただ微笑んで応えた。
「タローさん、心配は無用ですわ。あなたの愛する私が、これほどまでに楽しく戦っているのですから」
彼は困ったように笑った。だけどその目には、驚きとそして誇りの色が混じっていた。
私は誰のものでもない。ただひとり、彼のために再びこの世に名を刻むのだ。
その想いが、私を誰よりも強くしてくれると私は、信じていた。
誰もが眠りについた夜更け、私は彼の肩にそっと額を預けていた。
焚き火はもう消えかけていて、灯りと呼べるものは月の光だけ。それでも彼のぬくもりだけは、確かにそこに在った。
「……タローさん」
眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか、彼は何も言わずに私の手を包んでいた。
あの戦のときもそうだった。
誰よりも私を心配し、誰よりも私を信じてくれたのは、この人だった。
どんなに冷たく命を裁こうとも、誰ひとり私を責めなかった。
責めなかったどころか、ただ黙って私の隣に立ち続けてくれた。
「あなたがいるから、私は王でいられるのよ」
小さく囁く。けれどそれは誰に聞かせるでもない、私だけの本音だった。
かつて私が信じた忠誠も、誇りも、理想も、すべて崩れたと思っていた。
あの敗北の中で、何もかもを失ったと、そう思い込んでいた。
けれど違った。失ってなどいなかった。
あなたが私の手を取ってくれたから。
あなたが、私の名を笑顔で呼んでくれたから。
どれほど強くあろうとしても、私はひとりでは立てなかった。
あなたの存在が、私の背を支えてくれる。私の心を守ってくれる。
あなたの在り方が、ただそれだけで私の世界を変えてしまうの。
私はもう、どんな神にも祈らない。どんな奇跡も望まない。
だって、あなたという奇跡が、もうこの手の中にあるのだから。
「タローさん。愛しています。……この世のすべてよりも、深く」
ほんの少しだけ彼の指が動いた気がした。私は微笑んで、そのままそっと唇を重ねた。
月の光が揺れている。夜がやさしく包んでくれる。
この心の奥底で、もう私は知っている。あなたがいれば、それでいい。
あなたと生きていけるなら、私は王でも、ただの女でも、どんな姿だって構わない。
この命ごとすべてあなたに捧げたいと思えるほどに、私はあなたを信じている。
彼のよく言うムーミン谷の春の様な風が頬を撫でていく。
夷州の海辺は思っていたよりも暖かく、潮の香りも穏やかだった。
どこまでも続く水平線を見つめながら、私は彼の手を握っていた。
「ここに、私たちの家を建てましょうか」
彼が少し照れたように言った。
私は頷く。躊躇も、迷いもなかった。
どれほど遠くまで来たのだろう。何を失い、何を選び取ってきたのか。
そのすべてが、この手の中にある温もりに変わっていた。
愛は、静かに実った。
戦火の中で傷だらけの想いを抱えて。それでも諦めなかった。彼がいたから私は倒れずにいられた。
彼の隣で目を覚ます朝が日常になった。
彼の笑顔に見送られて出かけ、彼の腕に抱かれて眠る夜があたりまえになった。
こんな日々がどれほど尊いものか。かつて王の座にあった私は、ようやく今、その本当の意味を知ったのだと思う。
「麗羽さん、幸せですか?」
風の音に紛れるように、彼がそっと問いかけた。
私は少しだけ目を細めて、彼の肩に寄り添った。
「ええ、きっと……今が人生でいちばん幸せですわ」
この島には何もない。けれど、この島にはあなたがいる。
あなたがいるなら、私はどこにだって根を張れる。
土を耕し、家を築き、日々を編んで、明日を育てていける。
約束の未来は、何も遠いものではなかった。
こうして、ふたりで見つめるこの海の向こうに、まだ知らない日々が広がっている。
それは決して容易ではないかもしれない。けれど、それでいい。
困難があるほどに、あなたの手を強く握れる。
私たちはもう迷わない。
「……タローさん。これからも、ずっと一緒にいてくださいましね」
「もちろんです。俺は、麗羽さんと生きるためにここに来たんですから」
ふたりだけの誓いが、波に溶けて、遠くへ運ばれていく。
春は、始まりの季節。
ふたりで蒔いた愛の種は、ようやく芽吹き、これから花開いていく。
この手の中にある未来を、もう誰にも奪わせはしない。
あなたがいてくれるなら、私は永遠に、麗羽で在り続ける。