ダイジェストで送るゼロの使い魔(オリ主介入) 作:キューブケーキ
『秘めごとの季節 ―ヴァリエール家の春―』
あらすじ
トリステインの魔法学院に通う貴族の少女ルイズは、誰にも言えない初恋を抱えていた。
それは、姉エレオノールの婚約者──エスコーラ。
春の日に出会ったあの人は、わたしの世界を静かに変えてしまった。
姉の隣にいる彼を見つめながら、それでも、わたしの指は彼の手を探してしまう。
家族には言えない。友達にも言えない。
それでも、彼がやさしくわたしを抱きしめるとき、世界は春のように穏やかだった。
名前のつかない関係。罪とやさしさのあいだで揺れる恋心──これは、「恋」では終わらない、わたしの一番大切な秘密。
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目次
プロローグ 春の匂いと猫の話
第一章 猫を飼う理由
第二章 姉さまたちと春のサロンで
第三章 この気持ちに名前がない
第四章 初めての口づけは風のなかで
第五章 姉の隣で笑うあなた
第六章 あなたの指は、まだわたしを知っている
第七章 誰にも言えない、誰よりも近い
第八章 罪を知りながら、それでも
第九章 口づけの重さと、名前のない誓い
第十章 春はふたたび
エピローグ はじまりの記憶、風のゆらぎ
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登場人物紹介
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール
魔法学院に通うトリステインの貴族令嬢。虚無の系譜に連なる少女。努力家だが魔法の失敗が多く、「ゼロのルイズ」と呼ばれている。だが心には誇りと繊細な愛情を秘めており、春の出会いをきっかけに初恋の扉を開くことに──。
タロウ・ド・エスコーラ
東部辺境の若き貴族。王国に貢献し爵位を得た新興の才覚者。穏やかで親しみやすいが、その裏に鋭い観察眼と大胆さを持つ。ヴァリエール家の三姉妹の前に現れ、彼女たちの運命を優しく、そして静かに変えていく。
エレオノール・ド・ラ・ヴァリエール
ヴァリエール家長女で王国随一の才女。冷静沈着で妹ルイズとは折り合いが悪い。だが彼の出現により、氷のような心に微かな温もりが灯り始める。
カトレア・ド・ラ・ヴァリエール
ヴァリエール家次女。病弱ながらも穏やかで包容力があり、ルイズにとって唯一心を許せる存在。三姉妹の中で最初にエスコーラの人柄に気づき、やさしく見守る。
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プロローグ 春の匂いと猫の話
春の匂いが、風にまじっていた。
けれどそれは、草花の匂いとも、陽だまりの匂いとも違っていて。もっと、こう──胸の奥に、そっと忍び込んでくるような、やわらかな気配だった。
学院の中庭には、今年も桜に似た花が咲いた。あの花の名前を、わたしは知らない。けれど、毎年、同じ場所で、同じように風に揺れている姿を見るたびに、春が来たのだと実感する。
その日、わたしはひとりで、芝生の上に座っていた。
お気に入りの本は、かすかな陽の光を受けて、ページの端がふわふわと揺れている。読んでいたはずなのに、いつの間にか文字が目に入ってこなくなっていた。思考が、別の何かに染まっていく。柔らかくて、あたたかくて、だけどどこか苦しい、そんな気持ち。
「──猫、好き?」
そう言ったのは、最初の春の日だった。
あの日、わたしはどうしようもなく機嫌が悪かった。
授業では失敗ばかりで、クラスメイトたちの視線は冷たく、空は風のいたずらでくすんでいた。そんなときに、ふいに現れたのが、あの人だった。
彼は、春の風みたいな声をしていた。
やわらかくて、でも芯があって、耳に残るのに、不思議とうるさくなかった。
「猫? そうだな、好きだよ。犬よりずっと、気まぐれで、自由で、勝手で、──でも、かわいい」
そんなふうに笑ったその人が、いま、姉さまの隣にいる。
誇らしくて、苦しくて、だけど、きっと正しい。
だから、わたしはもう、泣かない。
姉の隣にいるあなたを、誰よりも好きになってしまったから。
でも、もし──もし、あの春の日に戻れるのなら、わたしはもう一度だけ、同じことを言ってしまうだろう。
「猫、好き?」
そしてまた、同じ笑顔をもらってしまうのだ。
忘れられない恋は、いつだって、あたたかい痛みのかたちをしている。
第一章 猫を飼う理由
トリステイン魔法学院の中庭は、いつもと同じ景色だった。
石畳の小道、手入れの行き届いた芝生、緑の匂い。けれどわたしの心は、少しも穏やかではなかった。
お気に入りだったハンカチーフは、突風に飛ばされ、授業ではまた失敗し、周りの生徒たちは笑った。わたしは唇をかみしめて、うつむいたまま中庭を早足で横切った。
誰とも目を合わせたくない。誰の声も聞きたくない。
──そんな気持ちだったのに。
「……あれ、君も生徒?」
ふいにかけられた声に、足が止まった。
見上げると、そこには見慣れない少年が立っていた。
栗色の髪、優しげな瞳。制服は着ていなかったけれど、きちんとした身なりから、育ちの良さが滲んでいた。
「あなた、だれ?」
わたしは警戒心を隠さずに問いかけた。
知らない人間に、簡単に心を許すほど甘くない。
少年は、首を少し傾げると、呼吸音で笑った。
「転入生だよ。今日、入学の許可をもらったばかりでね。宜しく」
その笑顔を見た瞬間、わたしの胸の奥で何かがふっと溶けた気がした。不思議な感覚だった。
「……わたしは、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ。あなた、名前は?」
自分でも少し意外だった。わたしは、ほとんど初対面の人にすんなり家名を名乗ることなんてしないのに。
「タロウ・ド・エスコーラ。領地は東部の小さな村さ」
少年──エスコーラは、肩をすくめるような仕草をした。
どこか無邪気で、それでいて子どもらしくない空気をまとっていた。
ふと、思いついて口に出した。
「猫、好き?」
本当は、わたしが猫を飼いたかっただけだった。
誰かに肯定してほしかった。わたしの小さなわがままを。
エスコーラは、すぐに頷いた。
「好きだよ。犬の方が好きだけど」
その答えに胸がかすかに弾んだ。たったそれだけのことで、世界が少しだけ明るくなった気がした。
「だったら、猫を飼うのを手伝ってくれる?」
お願いというより、ほとんど押しつけだったかもしれない。
けれどエスコーラは、またあの爽やかな笑顔を浮かべて言った。
「喜んで」
わたしは思わず笑った。
いつも泣いてるかしかめっ面のわたしが笑ったのは、いったいいつぶりだっただろう。
それからわたしたちは友達になった。
自然と、隣にいることが当たり前になった。
エスコーラと一緒にいると、息をするのも楽になった。
彼は、わたしの小さな失敗にも、決して笑わなかった。
誰にも言えなかった弱さを、少しだけ見せてもいいような気がした。
ムーミン谷に春の訪れを告げる風の様に、風はわたしにそっと囁いた。──この人は、きっと特別な人になる。
まだ、その意味を知るには、わたしはあまりにも幼かったけれど。
第二章 姉さまたちと春のサロンで
エスコーラと親しくなって、学院での日々は少しだけ楽しくなった。
けれど、それでも胸の奥に引っかかるものがあった。彼のことをもっと知りたいと思うのに、言葉にすれば何かが壊れてしまいそうで、うまく言えなかった。
だから、理由をつけた。──家に招く、という形で。
姉さまたちにも紹介したいと伝えると、彼は特に驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「それは光栄だよ」
それだけで胸があたたかくなるのだから、我ながら単純だと思った。
迎えた春の午後、ヴァリエール家の応接間には、いつものようにカトレア姉さまが座っていた。
陽光がやわらかに差し込むサロンの奥、彼女の存在はまるで花のように空気を整えていた。
エスコーラは、少しだけ緊張した面持ちで挨拶する。
「はじめまして。エスコーラと申します。ルイズさんと学院で知り合いました。仲良くさせていただいております」
カトレア姉さまは、微笑みながら頷いた。
「ルイズが友達を連れてくるなんて、珍しいわね」
「ええ、友達です」
その瞬間、彼の視線がふと動いた。カトレア姉さまに向けられたそれは、やわらかで、どこか遠慮がちな光を含んでいた。
「──あの。失礼ですが、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なあに?」
「貴女のような美しい方は、本当に、成人されていますか?」
わたしは思わず言葉を失った。女性に年齢を尋ねるとは。カトレア姉さまは苦笑するように頷いた。
「ええ。そうね」
「……では、どうか、結婚していただけますか?」
空気が凍った。メイドと執事がぴたりと固まり、わたしは半ば椅子から転げ落ちた。
彼はなんと言ったのか。頭を整理しないと。素数を数えるのよ。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「何を騒いでいるの、ルイズ!」
エレオノール姉さまが入ってきた。
長女であり、才女であり、わたしにとっては少し怖い存在。視線ひとつで人を斃せそうな姉さまが、鋭くこちらを見すえる。
エスコーラは、物怖じせずに言った。
「はじめまして。エスコーラと申します。貴女にも──いえ、あなたにこそ、心惹かれました」
その瞬間、姉さまの動きが止まった。
「な、なにを言って……!」
わかりやすいほどに狼狽する姉さまに、わたしは一歩前へ出て言い放った。
「貴方、馬鹿なの? 手のひらくるっくるっで、さっきはカトレア姉さまで、今度はエレオノール姉さま? 見境なしの発情期の犬なの!? 本気なの? それとも趣味でやってるの!?」
怒りというより、呆れと羞恥が入り混じっていた。
けれどカトレア姉さまは、楽しそうにふふっと微笑んで言った。
「いいのよ、春だもの。犬だって走り回るわ」
その言葉に場がふわりと和みかけた。けれど、よく考えたら辛辣かも。
彼の目はただひとりを見つめていた。エレオノール姉さま──姉さまの瞳を。
彼の眼差しは真っすぐで、熱を帯びていた。礼儀正しさの奥に、明確な「惹かれ」があった。無遠慮な告白でもなければ、軽薄な好奇心でもない。静かな本気だった。
その視線に、姉さまは──いつものように冷たく切り捨てることもできず、目を逸らせば敗北のように感じたのか、ただあわあわと、ことばにならない音を漏らすばかりだった。
「……どうか、結婚を前提に、お付き合いして下さい」
そう重ねられた言葉に、姉さまはついに限界を迎えた。
机の上の花瓶を掴んで──そして、エスコーラめがけて勢いよく投げつけた。
「初対面でこの破廉恥がああああああっ!!」
花瓶は空を切り、彼の肩の横を掠めて床に砕け散った。メイドの悲鳴。執事の慌てふためく足音。わたしの頭痛。
それでもエスコーラは、まるで何事もなかったかのように背筋を伸ばしていた。
その凛々しい態度に少し見惚れそうになった。
カトレア姉さまは微笑んだまま、小声でわたしの耳に囁いた。
「──面白い子ね、エスコーラくん」
その声音が、いつもの姉さまよりもわずかに弾んでいたことを、わたしは聞き逃さなかった。
家族が、きっと彼を受け入れてしまう。そんな予感が、ひやりと胸を冷やした。
嬉しくて、くるしくて、たまらなかった。
第三章 この気持ちに名前がない
エレオノール姉さまの頬が赤くなっていくのを、わたしは呆然と見つめていた。
あの姉さまが──あの完璧で、冷静で、隙のない姉さまが、エスコーラの言葉にあたふたしている。
口をぱくぱくさせ、怒鳴りながら顔を真っ赤にして、まるで初めて恋をした女の子みたいだった。
おかしかった。おかしかったはずなのに──笑えなかった。
その夜、わたしは眠れなかった。枕の上で何度も寝返りを打って、シーツのしわを指でなぞって、それでもまぶたは重くならない。思い出していたのは、彼の声だった。
「あなたにこそ、心惹かれました」
その言葉が、耳にこびりついて離れなかった。
どうして姉さまに? どうして、わたしじゃないの?
自分で思って、はっとした。
そんなこと、一度も考えたことなんてなかったはずなのに。わたしと彼は「友達」だった。
そう言ったのはわたしだった。だけど、わたしはいつの間にか、その言葉の輪郭を失っていた。
たとえば──本を借りたとき、彼がわたしの指に触れてきたこと。
庭先で猫がすり寄ってきたとき、ふたりで顔を見合わせて笑ったこと。
わたしの頬にそっと触れて「大丈夫」と囁いてくれたこと。
それらが全部、いまになって胸の奥で騒ぎ出す。
ぬるま湯のように心地よくて、でも、どこかくすぐったくて、すぐに言葉にならない。
わたしは、いったいいつから──彼をそんな目で見ていたのだろう。
翌朝、学院の中庭で彼に会った。陽差しがまぶしくて、顔をあげるのが少しだけ怖かった。
「おはよう、ルイズ」
いつものように、変わらない声で彼は言った。
だけど、その「いつも」が、いまは少しだけ遠く感じた。
「……おはよう」
声が上手く出なかった。それでも彼は気づかないふりをして、隣に並んでくれた。
「猫の名前、決めた?」
「……まだ」
そう答えながら、胸の奥がちくんとした。
猫の話をすると、彼と出会ったあの日を思い出す。
あのとき、どうしてそんなことを訊いたんだろう──ただ一緒にいたかっただけ。
そんな、ささやかな理由だったのだろうに。
「この子、ルイって名前にしたら?」
「……わたしと同じじゃない」
「うん。でも、君の名前、好きだから」
彼は軽く笑って、ふいにわたしの髪に手を伸ばした。
さらりと。春風が通り過ぎるみたいに、やわらかく撫でられた。
妹の髪を優しく撫でるように。あたりまえのしぐさのように。
わたしの心が、きゅっ、と鳴った。それはやさしいのに残酷だった。
わたしは恋人として触れられたかったのに。けれど彼は、妹のようにわたしを撫でた。
それでも、拒むことなんてできなかった。うれしかったから。そのぬくもりが、たまらなく愛しかったから。
彼の手が、そっとわたしの手の上に重なった気がした。やさしくて、あたたかくて、それでいて、届かない。
胸の奥に芽生えたこの想いは、きっと恋よりも手前で、でも、友情よりは遠いところにある──名前のない、わたしだけの気持ち。
第四章 初めての口づけは風のなかで
午後の授業が終わると、わたしたちはいつもの場所に向かった。
学院の裏庭にある小さな噴水。あまり人が来ない、ふたりだけの秘密の場所だった。
春の風が、白いシャツの裾をそよがせる。
木々のあいだからこぼれる陽ざしが、芝生にまだらな光を落としていた。
何も言わずに、わたしたちはベンチに並んで座った。
その沈黙が、どこか心地よかった。
「今日、疲れた?」
ふいに彼が訊いた。わたしは首を振るかわりに彼の肩にもたれた。
それだけで胸の奥が小さく鳴る。もう引き返せなかった。
彼はそっとわたしの髪を撫でた。いつも、決まっていたかのように。
「ルイズ」
やさしく呼ばれて、わたしは顔を上げた。目の前に、彼の瞳があった。
春の陽だまりよりも、あたたかい光を湛えた瞳。
気づけば、わたしの唇は、すこしだけ開いていた。自分でも、どうしてそうしているのか、わからなかった。
「──キス、してもいい?」
声にしたのは、わたしだった。言った瞬間、頬が熱くなった。心臓が、痛いくらいに跳ねた。
彼は、一瞬だけ目を見開いて──それから、ふっと笑った。
わたしはも何も恐れず、ただ目を閉じた。
そっと、唇と唇が、ふれた。
ふれるだけ。ほんの、かすかな接触。
けれど、それだけで世界が裏返るような衝撃だった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。指先が、お腹が、じんわりと熱を持った。
長くはなかった。すぐに、彼はそっと唇を離した。
目を開けたとき、彼もまた、わたしを見ていた。
何も言わずに。ただ静かに。
甘い心地よさに、身体がふわりと浮かびそうになった。
ふらり、とバランスを崩しかけたその瞬間──彼の腕が、そっとわたしの肩を支えてくれた。
心が跳ねた。そのぬくもりが、あまりにもやさしかったから。
彼の気づかいが、たまらなく嬉しかった。わたしは、ただ彼の腕に体を預ける。
言葉はいらなかった。そのやさしさに、すべてが包まれている気がした。
初めての口づけは、春の匂いがした。甘くて、やわらかくて、すぐに消えてしまいそうな、儚い匂い。
わたしはそっと、彼の肩に寄りかかった。彼も、なにも言わずに受け止めてくれた。
それだけで、もう充分だった。
まだ、恋とも愛とも呼べない、名前のない気持ち。でも、それは、たしかに、わたしのものだった。
──この気持ちが、わたしを変えていく。まだ知らない未来へ、そっと踏み出すために。
第五章 姉の隣で笑うあなた
わたしは、知ってしまった。──彼のぬくもりが、どれほど甘いものか。
それを知ってしまったら、もう、もとには戻れなかった。
放課後の中庭。昼休みの食堂の片隅。人影のない図書室の奥。
わたしは、彼を見つけるたびに、無意識に手を伸ばしてしまった。
そして、耳打ちするみたいに囁いた。
「ねえ、キスして?」
彼は、いつだって笑った。
少しだけ困ったような顔をして、けれど拒んだことは一度もなかった。
だから、わたしは、どこでも、何度でも、彼に口づけをねだった。小さなキス。
何度も重ねるたびに、胸の奥に甘い波紋が広がっていく。
このまま、ずっとこうしていられたらいいのに。
そう思うのは、わたしのわがままだとわかっていたけれど。
──彼は、わたしをやさしく抱きしめてくれる。それだけで、世界はまるごと春になる。
わたしだけの春。誰にも触れられない、ふたりだけの季節。
けれど。ふと、学院の廊下を曲がった先で、わたしは見てしまった。
サロンの一角。陽だまりの中で、彼が姉さま──たまたま訪れたエレオノール姉さまと並んで立っているところを。
姉さまは、恥ずかしそうに髪をいじっていて、彼はそれを、あたたかい目で見つめていた。
わたしは、そっと壁の影に隠れた。
二人の間に言葉はなかった。けれど、それでもわかった。
──彼は姉さまを見ていた。
あのときわたしを撫でた手よりも、もっとやさしい目で。
息が、浅くなった。
わたしは知っていたはずだ。最初から彼は、姉さまに惹かれていたことを。
それでも。それでも、わたしは彼に甘えたかった。彼にキスをねだった。
そのぬくもりを信じたかった。
どうしてこんなにも苦しいんだろう。どうして胸が、こんなに痛いんだろう。
──好きだから、だ。わかりきった答えに、そっと目を閉じた。
夕暮れの中庭。わたしはまた彼に近づいて、小さな声で囁いた。
「ねえ、キスして?」
彼はやっぱりやさしく笑った。わたしを抱き寄せ、そっと唇を重ねた。
──このキスが、永遠に続けばいいのに。
わたしは、心のどこかでそんな浅ましいことを願ってしまう。
けれど、わたしにはわかっていた。
このあたたかさは、きっといつか、指のあいだから零れ落ちてしまうものだと。わかっているのに、やめられなかった。
彼の腕の中で、わたしは小さく目を閉じた。
それが、すべてを忘れるための、いちばんやさしい方法だったから。
第六章 あなたの指は、まだわたしを知っている
どれだけキスを重ねても、わたしの心は満たされなかった。
──もっと、彼に求めて欲しかった。もっと、わたしを、見て欲しかった。
そんなわたしの小さな渇きに、彼はいつも気づかないふりをして、やさしく笑ってくれる。
それがうれしくて、それが苦しかった。
──だったら、わたしから近づくしかない。
放課後、学院の裏庭。誰も来ない小さな噴水のそば。
わたしは彼の隣に座ると、すこしだけ距離を詰めた。
心臓が、どくどくと脈打つ。
手のひらが汗ばむのを、制服の裾でそっと拭った。
そして、小さな声で呟いた。
「……もっと、触れても、いいよ」
目を伏せたまま、わたしは彼の手をそっと取った。
震える指で、自分の膝の上に、腿の内側にその手を導く。
彼は驚いたように一瞬だけ動きを止めた。けれどすぐに、そっとわたしの手を握り返してきた。
無理しなくて良いと。優しい手だった。
あたたかくて包みこむようで、それでもどこか、すこしだけ躊躇していた。
わたしは目を閉じた。でも、もう止まれなかった。
そっと彼の指先が、わたしの髪に触れた。さらさらと撫でるように。次に頬に。耳の後ろに。
指先が、まるでムーミン谷に運ばれる春の風のようにやさしく、わたしに触れた。
甘くて、くすぐったくて、泣きたくなるほど彼のことが愛しかった。
もっと強く抱きしめられたかった。もっと熱く求められたかった。
だけど彼はそれ以上を求めなかった。節度を持ってやさしさだけを残して、わたしを撫でるだけだった。
唇にほんの短いキスを落としたあと、彼はそっと額を重ねてきた。
「……ルイズ」
わたしの名前を呼ぶ声が、震えていた。
そのとき、わたしは気づいた。
──この人は、わたしを愛してくれている。
たとえ、形にしなくても。
たとえ、言葉にしなくても。
わたしの手を、頬を、髪をそっと撫でるその指が、何より雄弁にそれを教えてくれる。
「……ありがとう」
小さな声で囁くと、彼は何も言わずにわたしを抱き寄せた。
強くもなく、弱くもなく。ただそっと兎や子犬を抱くように優しく。
わたしは、彼の胸に顔を埋めた。
春の匂いがした。胸の奥が、ふわりと熱くなった。
──もっと、欲しかった。でも、いまは、これで充分だった。
彼の指が、わたしをそっと覚えてくれているかぎり。
わたしは何度だって、彼に恋をする。
たとえ、それが、かなわない夢だとしても。
第七章 誰にも言えない、誰よりも近い
春の陽ざしは、日に日に柔らかさを増していった。
校舎をすり抜ける風も、緑の匂いを濃くしている。
──だけどわたしの胸の奥には、ずっと、ひとつの小さな秘密があった。
エスコーラと交わすキス。
彼の手が、そっとわたしの頬を撫でるぬくもり。
何気ない笑顔の裏に隠した、甘くてどうしようもない想い。
誰にも言えない。誰にも知られたくない。けれど、誰よりも近くにいたい。
それは、罪悪感でも、背徳感でもなかった。
ただ、たまらなく、彼を求めてしまう、わたしだけの、ひそやかな渇きだった。
放課後の中庭。
わたしは、ふと立ち止まった。石畳の先に、彼が立っていた。
そして、その隣にはまた学院を訪れた──エレオノール姉さまがいた。
姉さまは、わたしの知らない顔をしていた。
普段のきりりとした表情ではなく、すこしだけ戸惑ったような、少女のようなやわらかい顔。
エスコーラは、それを静かに見つめていた。優しい目で。
まるで、大切なものを見るみたいに。
──知ってる。
そんな目、わたしにも向けてくれたことがある。
でも、それはもう、わたしだけのものじゃない。
ふたりの間には、なにもない。会話も、仕草も、ふれあいも。
それなのに、すべてがそこにある気がした。
わたしは、ひとりでその場を離れた。
音を立てないように。気づかれないように。
胸が、苦しかった。
何も言わなければ、なにも起こらなかったはずなのに。
──それでも、やめられない。
わたしは、夕暮れの渡り廊下で、彼を待った。
校舎に落ちる光と影のなか、足音が近づいてくる。
彼の姿を見た瞬間、わたしは駆け寄った。そして何も言わずに、彼の胸に顔をうずめた。
彼はすこしだけ驚いたようだったけれど、すぐに、わたしをそっと抱きしめてくれた。
「ルイズ……?」
名前を呼ばれるだけで、涙が出そうになった。
「ねえ……キス、して」
わたしは、上目遣いに彼を見上げた。
必死だった。
浅ましくても、彼をわたしだけのものに繋ぎとめたかった。
彼は静かにわたしの額に、そっと唇を押しあてた。
やさしくて、あたたかくて、なにもかも赦されるようなそんなキスだった。
──この関係は、きっと、いつか終わる。
頭ではわかっていた。
でもいまだけは、夢を見てもいいでしょう?
わたしは、ぎゅっと彼にしがみついた。
誰にも言えない。
誰よりも近い、このひそやかな幸福を、心の奥にそっと抱きしめながら。
第八章 罪を知りながら、それでも
それは春の雨がひとしきり通り過ぎたあとの静かな夜だった。
雲間から覗いた月が庭先の白い椅子をぬらし、濡れた花びらの匂いが風に混じっていた。
わたしは、迷っていた。
部屋の扉に手をかけたまま、何度も振り返って──それでも、ノックはしなかった。
けれど、彼は、気づいていたのかもしれない。
「ルイズ」
そっと呼ばれただけで、背中が震えた。
それでも、返事はしなかった。
ただ、扉を押して、静かに部屋に入った。
蝋燭の炎が、小さく揺れていた。彼は、椅子に座ったまま、わたしを見ていた。
やさしく、何も責めず、ただそこにいるように。
「……話をしに来ただけよ」
口にした言葉が嘘だと、自分でもわかっていた。
彼も、それを否定しなかった。
だから、わたしは、そっと彼の隣に座った。
手の甲が、ほんの少しだけふれた。それだけで、涙がこぼれそうになった。
もう、我慢なんてできなかった。
「わたし……あなたが好き」
呟くような声だった。
かすれて、震えて、今にも壊れそうな声だった。
彼は何も言わずにわたしを見ていた。
その目が、驚きとすこしだけ情欲で潤んで見えたのは、蝋燭のせいだったかもしれない。
彼に求められている。次の瞬間、わたしは彼に抱きついていた。
なにも考えられなかった。彼の胸に顔を埋めて、ただ、ふるえる身体を預けた。
「ルイズ……」
その名を呼ぶ声が、耳の奥に深く届いた。
キスは、静かだった。
痛いほどやさしくて、触れるたびに心が溶けていくようだった。
彼の手がわたしの髪を撫で、頬をなぞり、指先が肩から背へとすべっていく。
わたしの身体が、小さく震えた。
──怖い。
けれどそれ以上に、欲しかった。
彼の熱。彼のぬくもり。彼のすべて。
その夜、わたしは彼に身を預けた。
涙と息が混じるほど近くで、ただ彼を感じていた。
痛みがあった。けれど、それさえも彼が抱きしめてくれた。
わたしは、泣きながら笑っていた。
「好き……好き……」
どれだけ言っても足りなかった。どれだけふれても、埋まらなかった。
それでも、確かにそこにあった。
──愛されているということ。
わたしはそのことに、はじめて安心して泣いた。
これが罪だと知っている。
わたしじゃなくて、姉さまが彼の隣にいるべきなのだと。
だけど、どうしても、いまだけは──わたしは、彼の腕のなかで目を閉じた。
それがすべて、幻でも。
明日、トリステインに隕石が降ってきて終わっても、この夜を、選んでよかったと思える気がした。
第九章 口づけの重さと、名前のない誓い
朝が来るのがこんなに怖いと思ったのは、はじめてだった。
薄明の光がカーテンの隙間からそっと差し込む。
そのやわらかな青白さが、まるですべてを暴くように見えた。
──昨夜のこと。彼の腕のなかで、泣いたこと。
唇を重ね、肌をふれあい、心の奥まで晒してしまったこと。
なにもかもが、静かに、ゆっくりと、わたしのなかで現実になっていく。
まだ彼の腕の中にいた。彼は眠っていた。
物語と違って、本当は腕が痛いのは知っている。
だからそっと、顔をあげた。
ほんの数時間前、何度も見つめ合ったその顔は、いまは静かでやさしかった。
わたしは、彼の頬に指を伸ばした。なぞるように触れる。
「……おはよう」
囁くと、彼のまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……ルイズ」
わたしの名前を呼ぶその声に、胸が鳴った。
何かを言いたかった。寝起きの口臭を気にすべきか。彼の髭が伸びてる事か。
でもなにも出てこなかった。
かわりに、わたしは唇を重ねた。音もたてず、ただ、そっと。
昨夜とはちがう、静かなキスだった。
それは、もう何も言わないという誓いのようだった。
重ねた唇に、わたしのすべてを託した。言葉にはできない想いも、痛みも、幸福も。ぜんぶ、ぜんぶ、このキスに込めた。
わたしは、何も言わずに笑った。
──だいじょうぶ。わたしは、ここにいる。それだけで、充分だった。
そのあと、わたしたちは服を整え、何もなかったふうに学院へ戻った。
誰にも、何も言わなかった。
わたしたちの間には、言葉の代わりに、昨夜の口づけがあったから。
それは、名前のない誓いだった。
でも、わたしのなかで、それはきっと、いちばん深い愛だった。
第十章 春はふたたび
春は、すこしだけ遠ざかっていた。
季節の話ではない。
わたしのなかで芽吹いていた春──あのぬくもりと甘やかな幸福が、まるで夢から覚めるように、指のあいだからするすると消えていった。
彼は、王都へ呼び戻された。姫殿下のそばに、忠臣として仕えるために。
「すぐ戻るよ」と笑った彼の言葉は、嘘じゃなかったと思う。
でも、わたしの心には、ひとひらの不安が残った。
──姉さまのこと。わたしのこと。
何も問わず、何も聞かず、わたしは彼の背を見送った。
それでいいと思っていた。
名前のない誓いを交わしたわたしたちは、もう何も言わなくても通じていると、そう信じていた。
でも──それからのわたしは、ただ日々を数えることしかできなかった。
机の上の便箋は、何度も書いては破られ、破られては捨てられ、
言葉にならないまま積もっていった。
学院の中庭は、もうすっかり春めいていた。
白い花が咲き、猫はひなたでまるくなり、
どこかで小鳥の声がしていた。
そんな午後、わたしは、ふいに気配を感じて顔を上げた。
──いた。彼が、そこに立っていた。
以前と同じ制服。以前と同じ目。
だけど、ほんの少しだけ、大人びた表情。
わたしは、立ち上がることも、手を伸ばすこともできなかった。
その場に、ただ立ち尽くしていた。
彼は、何も言わずに近づいてきた。そして、なにも言わずに、わたしの手を取った。
指と指が触れた瞬間、胸が熱くなった。
「……遅くなった」
彼の声は、風のようにやさしかった。
わたしは、首を横に振った。
泣きそうになるのを堪えて、小さく微笑んだ。
「遅いわよバカ。ううん、でもいいの。来てくれたから、それでいい」
わたしたちは手をつないだまま歩いた。陽ざしのなかを、風のなかを何も言わずに。
やがて彼が立ち止まった。
わたしを見下ろしそっと唇を重ねた。
それは以前よりも深くて、だけどどこまでもやさしいキスだった。
まるで──ムーミン谷に春がまた戻ってきたみたいだった。
唇が離れたあとも、彼の指がわたしの背をそっと撫でた。
そのぬくもりが嬉しくて、わたしは静かに微笑んだ。
けれどそのときふいに、自分の内側からふくらんでくる感覚があった。
──彼は、たしかにここにいた。
わたしは、ほんの一瞬、彼の前から視線を逸らした。
そして、制服のすそに手を添えて、そっと下腹部を押さえる。
指先の下にあるかすかな熱。
わたしの身体が、彼の愛をまだ覚えている。
痛みではなかった。ただ、彼がわたしのなかに触れてくれたことの、静かな余韻。
──愛されている。
その実感が、胸の奥でふるえる。
ふと頬をそめたわたしを、彼は不思議そうに見つめた。
でも、何も訊かなかった。そのことが、何よりも嬉しかった。
わたしは彼の手を取り、もう一度、そっと口づけを落とした。
春は、ふたたび。
ふたりのあいだに、たしかに戻ってきた。
何度だって花は咲く。何度だって愛はよみがえる。
そしてわたしたちは、その春をもう失わないと知っていた。
エピローグ はじまりの記憶、風のゆらぎ
春の風が、窓辺のカーテンをゆらしていた。
ささやくような柔らかさで、頬を撫でていく。
朝の光に照らされて、わたしはひとり、寝椅子に座っていた。
白い肌の上には、まだ昨夜の名残が薄く残っている。
──身体が覚えている。
彼がわたしを抱いた夜のことを。熱と愛と、やさしい指先の軌跡。
それは、罪だったのかもしれない。
彼は、姉さまのもの。わたしは、正式には愛妾という立場。
それでも──わたしは、幸せだった。
彼はわたしを選んだ。一夜の慰めではなく、ただの気紛れでもなく、きっと、心で。
あの夜のキスも、朝に重ねた口づけも、すべてがわたしだけのものだった。
そっと、腹部に手をあてる。
彼のぬくもりが、まだそこにいる気がした。
わたしは、愛されている。たとえこの関係に名前がつかなくても。たとえ誰にも祝福されなかったとしても。
彼の腕のなかで泣いた夜が、嘘でないことだけは知っている。
窓の外を眺める。庭に咲きはじめた早咲きの白い花に、春の気配が満ちていた。
その花々を静かに、そっと見つめている姿があった。
エレオノール姉さま。
わたしよりずっと背筋がまっすぐで、強くてそして優しい人。
姉さまは窓越しに、わたしのことを見ていた。
何も言わず、ただ、そっと。その目は、どこまでも穏やかだった。
わたしは微笑んで目を伏せた。
姉さまにはなにも語るつもりはなかった。
けれどきっと、すべては伝わっているのだと思う。
風がカーテンをやさしく揺らした。
どこかではじまり、どこかで終わる──そういう季節のめぐりのなかで、わたしたちもまた同じ風に吹かれていた。
これは、恋の終わりではない。愛のはじまりでもない。
でも指先に、肌に、心に、きっと永遠に残る。
わたしは静かに、目を閉じた。
春の風は、今日もやさしく吹いている。たぶんムーミン谷の様に。